「お前の退職金は三十六円だ」——新社長になった元上司が、書類を突きつけながらそう言った。中卒のくせに三千万円だと?無能なお前にそんな金は渡せない、と。その瞬間、私は三六年間の全てが一年一円の価値だと宣告された。母と兄弟を養うため、高校を諦めて働き始めた。定食屋のバイト中にひったくりを追いかけ、拾ってくれた社長に恩を返すため必死に働いた。その男は、私の学歴を笑い、顧客を奪い、評価制度まで変えた…

「お前の退職金は三十六円だ」——新社長になった元上司が、書類を突きつけながらそう言った。中卒のくせに三千万円だと?無能なお前にそんな金は渡せない、と。その瞬間、私は三六年間の全てが一年一円の価値だと宣告された。母と兄弟を養うため、高校を諦めて働き始めた。定食屋のバイト中にひったくりを追いかけ、拾ってくれた社長に恩を返すため必死に働いた。その男は、私の学歴を笑い、顧客を奪い、評価制度まで変えた...

中卒のくせに退職金が三千万円だと?そんな金を無能のお前に渡せるか。俺は規定を見直した。お前の退職金は三十六円だ。

新社長の斎藤は、かつて俺を指導係として見下していた男だ。俺のことが心底嫌いで、その立場を使って社員をいびるような非常識な真似をするようになった。俺はその時、ある計画を実行することを心に決めた。そして新社長はやがて地獄に落ち、俺にした愚かな行いを心の底から後悔することになる。

俺の名前は村田。五十一歳。幼い頃に父を亡くし、母と幼い兄弟を養うために高校進学を諦めて働きに出た。しかし中卒で正社員の仕事はなかなか見つからず、近所の定食屋でアルバイトをしていた。

中学を卒業して半年ほど経ったある日、定食屋へ出勤する途中、目の前で男性がひったくりに遭った

「待て」

元陸上部の短距離選手だった俺は、自転車に乗ったひったくり犯を追いかけ、奪われた鞄を男性に返した

「助かったよ」

「じゃあ、俺の働いている定食屋に食べに来てください」

店の名前を告げてその場を立ち去ると、翌日その男性が来店した。男性は三沢と名乗り、近所で会社を経営していると言った

「君みたいな若くて体力のある人に来てほしいんだが、うちの会社で働かないか?」

正社員になりたかった俺は、迷わず三沢さんの誘いに乗った。働きながら勉強し、仕事に必要な知識を身につけていった

最初は現場作業員だったが、三十歳で営業部に移動となった。指導係になったのは、当時係長だった斎藤さんだっだ

斎藤さんは大卒で営業部に配属された。噂によると、俺と同じ貧乏な家の出身らしい。奨学金を借りて苦労して大学を卒業したそうだ

同じような身の上だから気が合うかと思ったら、斎藤さんは学歴に強いこだわりがあり、中卒という理由だけで俺を馬鹿にしてきた

「俺とお前は違うんだよ。俺は苦労して大学を出た。中卒のお前と俺は、積み上げてきたものが違うからな」

指導初日、そう言われたのを覚えている城中今思えば、あの人は俺を見下すことでしか、自分の苦労に意味を与えられなかったのだろう

その後も仕事を教わるたびに学歴をネタに馬鹿にされた上、まともな指導もしてもらえなかった城しかし俺はこの程度でへこたれなかった城中斎藤さんが仕事を教えてくれないなら、他の人に聞けばいいだけのことだ城中こっそり斎藤さんの仕事を盗み見て覚えることもした城中こつこつと努力を重ね、営業に必要な勉強もして、持ち前の体力と気力で仕事をこなしていった城中日に日に営業成績は伸び、ついには斎藤さんの成績を抜かした城中

「中卒のくせに生意気なんだよ」

営業成績が発表された後、斎藤さんに人気のないところへ呼び出され、胸ぐらを掴まれて罵倒された城中まさか俺に成績を抜かされるとは思わず、プライドをこなごなに壊されたらしい城ほどなくして斎藤さんは異動願いを出し、人事部へ移った城表向きは経験を積むためということだったが、俺に営業成績で負け続けるのが嫌だったのだろう城人事部の部長は斎藤さんと同じ大学の出身でうまく取り入り、どんどん出世していった城そして今から半年前に、新社長に就任した城

初代社長の三沢さんは数年前に亡くなっている城次の社長を決める時、俺はこの会社を守り続けることが、三沢さんへの恩返しだと誓った城その後を継いだ二代目が体調を崩して退任し、人事部長だった斎藤さんが社長の座に収まったのだ城それでも俺は、拾ってくれた三沢さんへ恩を返すため、斎藤さんが新社長になった後も引き続き働き続けた城

ところが、破滅は新社長就任直後に起こる城俺は現在営業部の課長で、前社長の時代に部長昇進の話が出ていた城しかし斎藤さんが社長になった直後、その話は白紙となった城

「中卒の無能に部長が務まるわけがないだろう」

昇進話が白紙となった後、車内で偶然すれ違った斎藤さんが、歪んだ笑みを浮かべて俺にそう言ってきた城社長という最も強い権力を手に入れた斎藤さんは、じわじわと俺を追い詰めていった城

ある日、営業部の部長から突然、顧客を若手に引き継ぐようにと言われた城

「若手育成のためだ城中社長から時々の指示があったんだよ」

さらに他の顧客も奪われ、俺の営業成績は激減した城俺の実績を奪うための斎藤さんの策略だろう城部長は申し訳なさそうにしていたけれど、社長命令とあれば逆らうことはできない

悪いことは続くもので、若手が俺から引き継いだ顧客との間にトラブルを起こしてしまった城フォローのために奔走し、新規顧客の開拓もできず、営業成績は低空飛行を続けた城

斎藤さんはこれだけでは足りなかったらしい城ある日突然、人事評価制度が変更になった城最終学歴を正式な評価項目として組み込み、大卒以上に加点する仕組みだ城これにより、中卒の俺はどれだけ成果を出しても評価や昇給が頭打ちになってしまう城我が社は大卒社員が大半のため、反対意見は握りつぶされた城

「どうすりゃいいんだ?」

残業中、誰もいない営業部で小さく呟く城若手のミスのフォローで、自分の仕事が時間内に片付かないのだ城ちなみに残業申請は無視されており、残業代は一円も出ない城これも斎藤さんの嫌がらせの一環だ城三沢さんへの恩返しのために働き続けているけれど、このような仕打ちが続くようでは、いずれ限界がやってくる城

斎藤さんが新社長に就任してから半年後城出勤直後、斎藤さんから俺宛てにメールが届いた城

「五分以内に社長室に来い」

俺はため息をつき、急ぎ足で社長室へ向かった城

「失礼します」

扉を開けて斎藤さんの前に立つ城斎藤さんは視線を合わせないまま口を開く城

「お前、退職願いを出したんだってな」

ええ城中斎藤さんの嫌がらせに、俺の心は折れてしまった城会社を去る決意をし、退職願いを提出したのは二日前のことだ城しかしなぜか斎藤さんは不服そうな様子だ城

「勝手に逃げるとは生意気なんだよ城中俺が首にするまでサンドバッグにするつもりだったのに」

吐き捨てるように言うと、一枚の書類を突きつけた城

「これはお前の退職金に関する書類だ城先ほど経理から受け取った城なんだこれは?中卒のくせに退職金三千万だと?」

確かに書類には、退職金として三千万円を支給すると書かれている城

「無能のお前にこんな金額は渡せないというわけで、先ほど規定を見直した城お前の退職金は三十六円だ」

斎藤さんは下卑た笑いをも漏らした城

「三十六円?」

思わず困惑の声をあげると、斎藤さんは口の端を釣り上げる城俺の反応がお気に召した様子だ城

「大卒以下の社員で、定年まで働かなかった根性なしの役立たずは、勤続年数に一円をかけた金額にすると決めたんだよ」

そのような規定は今までなかった城斎藤さんは俺への嫌がらせをするために、こんな滅茶苦茶な規定を作ったのだ城三十六円城一年働いて一円城母と兄弟を食わせるために汗を流した日々も、三沢さんに拾われて必死に勉強した夜も、この男の中では一年一円の価値らしい城

俺の中で、堪忍袋の緒が切れる音がした城大人しく会社を去ろうと思っていたけれど、気が変わった城

「じゃあ俺も、規定通りにしますね城お世話になりました」

「はあ?何のことだ?」

斎藤さんの問いかけは無視し、社長室を後にした城それから一ヶ月後、俺は三十六年間勤めた会社を、一切の喧嘩もなく後にした城

退職の翌日城ある用事で忙しくしていたところ、スマホの着信音が鳴った城すぐ切れたが、また電話がかかってくる城電話に出る余裕はなかったのでマナーモードで放置していたが、用事が終わり画面を確認するとなんと二百件もの着信が入っていた城

「誰だ?」

眉を寄せて確認しようとした瞬間、また電話がかかってくる城表示されていたのは、斎藤さんの名前だ城

「もしもし」

「ようやく電話に出たか」

鬼電の犯人は斎藤さんだったらしい城ため息をつき、何のようだと尋ねる城すると斎藤さんは、怒り半分、困惑半分といった声をあげた城

「俺への腹いせに、うちで使っていた特許システムを全削除したな」

斎藤さんの発言は言いがかりではなく、心当たりがあった城特許システムというのは、営業部で使っていた作業効率システムのことだ城見積もり作成から受注処理まで自動化するもので、おかげでうちの営業部は高い営業成績を維持していた城

「ええ、削除しましたけど、それが何か城通知は会社に送りましたよ城読んでいなかったんですね」

「お前のしたことは犯罪だぞ」

「いえ、犯罪ではありません城だってそのシステム、俺が開発したものですし」

斎藤さんが言葉を失う城数秒の沈黙の後、電話の向こうから怒号が聞こえてきた城

「何言ってんだ、お前」

「信じられないなら、三沢さんが残した契約書と前の営業部部長に確認してみるといいですよ城削除は全部長立ち合いのもと、書面で通知した上で行いました城バックアップも含めて、契約書の情報通りにです」

営業部の部長は、俺が課長になった後代わりしている城しかし、先代部長か三沢さんを含めたごく一部の人しか知らない事実がある城現場作業員時代、俺はある難問に頭を悩ませていた城仕事が大きくなる中で仕事量が一気に増え、作業員の負担が大きくなっていたのだ城そのせいでみんな疲れ果て、体調を崩す人もいた城

「何かいい方法はないか?」

悩んでいたある日、たまたま見たテレビ番組で、仕事効率化のシステムを導入した会社のインタビューが流れていた城

「これだ城中管理を機械に任せれば、作業の負担は一気に減るぞ」

俺は早速上司に提言したけれど、我が社の在庫管理はかなり特徴があり、既存のシステムでは対応が難しいと分かった城なら俺が開発する城諦めきれなかった俺は、独自でシステムについて勉強する城そして一年も経たないうちにスキルを身につけ、我が社独自の在庫管理システムを作り上げたのだ城

「一年でここまでできるのは普通じゃないぞ城早速導入しよう」

三沢さんに見せたところ、すぐ導入が決定した城現場の負担は激減し、作業員たちは無理なく働けるようになる城しかし俺が開発者だということは、上司や三沢さん以外に明かさなかった城

「お前が都合よく使われるのを防ぐためだ城悪いことを考えている奴はそこら中にいるからな城今回の功績は、退職金に上乗せする形でいいか?」

三沢さんの提案に、俺は迷うことなく頷いた城功績を自慢したいわけではない城これは俺なりの、三沢さんへの恩返しだ城その後営業部に移動となった俺は、業務に忙殺されていた営業部のために、密かに自動化システムを開発し投入した城これには特許が取れると三沢さんに言われ、申請したところ本当に特許がもらえたのだ城

「退職金の上乗せじゃ足りないな城特許使用料も払わないと」

「これも三沢さんへの恩返しですよ」

「お前は本当に無欲だなあ城なら俺は、お前の特許が不当に使われないよう契約書を作るよ」

契約書には、俺が退職する際バックアップを含む全てを削除できる旨が書かれていた城ただし俺の意思次第で残すことも可能で、その場合は会社側と協議の上特許使用料を要求できる城俺はこれにサインし、今まで無償で提供してきたのだ城

事実を全て斎藤さんに伝えた後、俺はこう続けた城

「本当はシステムを残そうとしたんですけどね、退職金が三十六円と聞いて、我慢できずに削除しました城契約書の規定に従っただけなので、こちらに落ち度はありません」

「そ、そんな出鱈目をお前が…」

「お前はただの中卒の無能で…」

「その中卒の無能は、本社の取引先である大手企業に転職済みです」

「なんだって?」

電話の向こうでがたがたと物音が聞こえる城驚きすぎて何か倒したのだろう城混乱している斎藤さんとは対照的に、俺は冷静さを保ったまま事情を話す城

「俺の顧客を育成のためと言って、若手に引き継ぐように部長に命令しましたよね城そのうちの一つで、引き継いだ若手がミスをしまして、対応しきれなかったので俺がフォローに入ったんですよ城そこは業界トップ三に入る大手で、俺とは長い付き合いのある会社だ城担当者の鈴木さんは仕事ができる人で、普段は優しいが、若手のミスはかなり大きなもので、さすがに苦い顔をしていた城」

「今回は村田さんがフォローに入ってくれましたけど、またあの人に担当が戻るのでしょうか城我々としてはこのまま村田さんにお願いしたいのですが」

「実は事情がありまして、それに俺、転職を考えているんですよ城担当を戻しても、継続することは難しいですね」

この時、俺は斎藤さんの仕打ちに耐えかね、転職活動を始めていたのだ城しかし年齢の上限を設けられていることが多く、なかなか思うように活動は進んでいなかった城

「転職?何かあったんですか?」

鈴木さんはむやみに人の事情を詮索する人ではない城信頼を寄せていた相手だったこともあり、俺は抱えている事情を鈴木さんに明かした城すると鈴木さんは、自社へ転職しないかと言ってくれたのだ城俺の仕事の腕を買ってくれていたらしい城

「是非お願いします」

捨てる神あれば拾う神ありとは、このことだ城鈴木さんのおかげで無事に転職先を確保した俺は、退職願いを会社に提出城今日の用事は、その転職先への挨拶回りだった城この日、特許システムの独占契約も正式に交わしている城三沢さんには無償で提供したが、今度はきちんと使用料をいただく契約だ城全てを聞いた斎藤さんの電話は、前触れなく切れた城契約書を確認しに行ったのだろう城俺はため息をついて、スマホをポケットにしまった城

それから半月後、転職先で働き始めた俺が仕事を終え会社を出ると、斎藤さんが待ち伏せていた城

「村田、お前の特許システム、もう一度使わせろ城あれがなくなったせいで、社員からクレームの嵐だ」

「無理です城この会社に、独占契約で提供しているので」

指を差したのは、転職先のビルだ城斎藤さんの顔が真っ赤に染まる城

「俺の許可なく勝手に、中卒の分際で会社の恩を忘れたのか」

「俺の特許に、あなたの許可は必要ありません城恩があるのは三沢さんであって、あなたや会社ではありません」

「この野郎」

逆切れした斎藤さんが、俺に掴みかかろうとする城そこに第三者が現れ、斎藤さんの腕を掴んだ城

「我が社の社員に、何をしてるんですか?」

鈴木さん城たまたま俺の後からやってきた鈴木さんが、斎藤さんを止めてくれたのだ城

「話は聞いていました城あのシステムは村田さんの特許で、我が社が独占契約を結んでいます城御社には使わせません城それと、社員への暴力的な振る舞いは見過ごせない城今後のお取引は、考え直させてください」

「若造のくせに、お前にそんな権限ないだろう」

「斎藤さん、鈴木さんはこの会社で一番若い営業部部長ですよ城取引先のことを何も知らないんですね」

黙った城大口の取引先で、契約権限を持つ人を前に、斎藤さんの顔が青くなる城気づけば、大勢した社員たちが周りを囲んでいた城

「あの会社、社長代わりしてから評判落ちたよな」

ざわめきに焦った斎藤さんは、手のひらを返して頭を下げた城

「悪かった城頼む、うちにもシステムを提供してくれ城このままでは会社の存続に関わるんだ」

「独占契約なので無理です城仮に可能でも、あなたには使わせません城堂々と勝負せず、立場を悪用して卑怯な手で俺を追い詰めた城だから俺は会社を去ったんです城お帰りください城また押しかけたら、警察を呼びますからね」

斎藤さんはふらふらとした足取りで、立ち去った城その情けない後ろ姿を、俺たちは黙って見送った城

それから一ヶ月後、斎藤さんの会社は離職者が相次ぎ、経営困難に陥っていると元同僚から連絡が届いた城斎藤さんは会社をダメにした責任を取り、辞任した上で会社を去るそうだ城悪評が広まった斎藤さんを雇う会社は、どこにもないだろう城一方、俺には弁護士から連絡があった城退職直前の一方的な規定変更は無効とのことで、規定通り三千万円と未払い残業代が全額振り込まれた城斎藤さんの言う規定こそ、通りの通らないものだったのだ城この金で、独立した兄弟と数年前に安らかに逝った母の墓にいい報告ができる城

「あんたは、家族の誇りだ」

母のその言葉が、今の俺の支えだ城転職先での仕事はやりがいがあり、毎日充実している城いつか三沢さんにどう恩返しをしていこうかと考えながら、俺は今日も仕事に励んでいる城

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