兄が数年ぶりに実家に来た日、私は台所で夕飯の支度をしていた。母は車椅子のまま居間でテレビを見ていて、ヘルパーさんが作った煮物のいい匂いが家中に広がっていた。すると兄が、私の背後で急にこんなことを言い出した。「なんで勝手にヘルパー頼んで離れに住ませてるんだ?長男の俺に、なんで相談しないんだ?」私は包丁を持つ手が止まった。孫の顔も見せられない親不孝者だと、介護はお前の仕事だと、そう言ってきたのは…

兄が数年ぶりに実家に来た日、私は台所で夕飯の支度をしていた。母は車椅子のまま居間でテレビを見ていて、ヘルパーさんが作った煮物のいい匂いが家中に広がっていた。すると兄が、私の背後で急にこんなことを言い出した。「なんで勝手にヘルパー頼んで離れに住ませてるんだ?長男の俺に、なんで相談しないんだ?」私は包丁を持つ手が止まった。孫の顔も見せられない親不孝者だと、介護はお前の仕事だと、そう言ってきたのは...

私の名前はエリカ、四十五歳。大手製薬会社に勤めている。昔から仕事が好きで、いわゆる仕事人間だ。恋愛にはまったく興味がなく、それなりの収入もあるから、今の生活に十分満足していた。

私には年の近い兄が一人いる。兄は既婚者で、小学生の男の子と二歳の女の子がいる。兄と兄嫁は学生時代からの付き合いで、嫁の方は昔から私を馬鹿にしていた。いわゆるギャルだったらしいが、今は年も年なので普通のおばさんだ。私は昔から勉強ばかりしていて見た目も地味だから、嫌味を言いやすかったのだろう。

何より私がいつまで経っても結婚しないのが気に食わないらしい。

「結婚できないのは知ってるけど、老後うちの家族だけには迷惑かけないでね」

会うたびにそう言われる。私は大手に勤めているから、女性としては収入が多い方だ。計画的に貯金もしている。

「お金もちゃんと貯めてますし、自分のことは何とかできますから大丈夫です。ご心配なく」

そう言っても、無駄だった。

「そんなこと信用できないわよ。結婚もできない女はこれだから困るのよね。そもそも性格に問題があるのよ」

ここまで言われると、さすがに腹が立つ。兄に相談すればいいのでは、と思うかもしれないが、私と兄も小さい頃から仲が悪い。兄は今こそ落ち着いているが、昔は遊びたい放題で家にいることすら少なかった。地味な私のことを嫌っていたので、相談してもどうにもならない。私はいつも「結婚できなくてごめんなさいね」と流していた。

私はずっと実家に住んでいる。毎月お金を入れ、家事もできる時は率先してやっていた。仕事して家事して、変わり映えしない毎日ではあったが、私は平和だと感じていた。

そんな中、母が要介護になってしまった。

元々足が悪かったのだが、最近はよくつまずいて骨折することが多く、病院へ行くと「加齢による筋肉の衰えと、骨がさらに脆くなっているのでしょう」と言われた。そして、あまり一人で出歩かないようにと忠告を受けた。

兄にこのことを報告すると、兄嫁が話を被せてきた。

「母が要介護になったと言うけど、私たちは子供がいるし、面倒見れませんから」

私が聞いてもいないのに、言い訳を先に並べたのだ。

「独身で実家に住んでいるんだから、お前が介護するのが当たり前だろ。孫の顔も見せられない親不孝なんだからさ」

兄も続けてそう言った。

「そうなんだから俺に頼るな。介護はお前の仕事だろ。自分で何とかしろ」

すでに父は他界していて、相談できる相手は他にいなかった。私は一人で考えるしかなかった。働かないと稼げない。病院に入れるしかないのかと悩んだ。

だが、当の母本人は家にいたがっていた。私は思い切って、これを機に実家をバリアフリーに建て替えることを決意した。うちの家は平屋の一軒家で、土地が広いため立派な庭もある。せっかくだから、使い勝手のいいように収納も多く作り、私の書斎も作った。

母は新しい家に大満足だった。

ちなみに兄夫婦には「車椅子でも動き回れるように少し変えるから」としか報告しなかった。とにかく母の介護の話は聞きたくない様子だったので、私も詳しくは言わなかった。聞いてしまうと、いつか自分たちに負担が回ってくると思って嫌だったのだろう。

「エリカが立て直した家なんだし、所有権はエリカにするから」

母がそう言い、家の所有権は私になった。母は車椅子でも家の中を自由に動けるようになり、エレベーターも付けたので二階にも一人で行ける。車椅子ながらも母は頑張って家事をしてくれていた。

私がいる時に買い物をするようにしていたのだが、仕事が少し忙しくなってしまった。悩んだ結果、ヘルパーさんを募集することにした。条件は介護資格者で、庭の離れに住み込みが可能な人。離れにいてくれれば、私がいない時も安心だからだ。

募集をかけると、すぐに一件の応募が来た。シングルマザーの方が応募してきてくれたのだ。話を聞くと、旦那さんのモラハラがひどく、今すぐにでも離婚したいが、両親もいなくて頼れる人もいないらしい。

「働かないと子供も育てられないんです」

そう言って、目に涙を浮かべながら話してくれた。

私は優しそうな人柄に惹かれ、少しでも助けになりたいと思い、その人に母の介護をお願いすることに決めた。私は介護資格はないが、母の介護を少しだけでもして、どれほど大変かは理解しているつもりだった。

年収二百八十万円プラスボーナスで提示したら、大喜びしてくれた。もっとあげてもいいくらいかなと悩んだが、離れに家賃無料で住んでもらうこともあるので、その条件でお願いすることにした。

「本当にありがとうございます」

頭を下げてお礼を言われた。

私の直感は大当たりだった。ヘルパーさんはとてもいい人で、美味しいご飯も作ってくれるし、家事の手際もいい。母とも仲良くしてくれて、とても信頼している様子だ。ヘルパーさんの子供も母に「ばあば、遊ぼう」とすごく懐いてくれて、母も嬉しそうにしている。

こんなにいい親子を大切にできないなんて、旦那さんはどうかしている。私はそう感じるほどだった。

この生活をしばらく続けていると、兄夫婦が数年ぶりに実家に遊びに来た。二人は家がすごく綺麗になっていたことと、ヘルパーさんがいることに驚いている様子だった。

「こんな立派な家になってるとは知らなかった。なんで勝手にヘルパー頼んで離れに住ませてるんだ?長男の俺に、なんで相談しないんだ?」

質問の嵐だった。最初はなぜ怒っているのかよくわからなかったが、話を聞いていると、どうやら新築の家を妬んでいるようだった。家を建て直し、ヘルパーさんを雇えるくらい私の収入がいいことを知り、兄は少しショックを受けている様子だった。

「孫も見せられない親不孝者なんだから、お前が介護しろ。俺に頼るな」

そう言っていたくせに。私は自分のお金で母にできることをしたまでだ。それの何が悪いというのだろう。

新しい家を見てから、兄夫婦は母に媚びを売るようになった。今まで邪険に扱ってきたくせに。

「私たちが一緒に住んなら、孫といつも一緒にいられますよ」

兄嫁が孫で母を釣ろうとしてきた。だが母は、こう言い放った。

「数年に一回来るか来ないかで、孫の顔も見れないし、来ても近寄ってもくれない孫なんて可愛くないわ。それより、ヘルパーさんの子供の方が可愛くて仕方ないの」

笑顔でばっさり言うと、兄嫁は「あ…」と口を開けたまま固まっていた。孫というだけで無条件に可愛がると思ったのだろう。

兄も「自分でどうにかしろ」と言っていたくせに、「親子は助け合うものだ」と言い出す始末。矛盾しすぎていて、私は呆れてしまうしかなかった。

その後、兄はやたらと実家に来るようになった。兄嫁や子供たちは連れてこなくなった。最初は母に言われてショックを受けたか、怒ってしまって一緒に来なくなっただけかと思っていたが、本当の理由は後日知ることになる。

そして、兄が全てを失うあの事件が起きたのだ。

今日も兄が実家へ来ている。ここ毎週実家に来ている。

「ヘルパーさんが作ったご飯を食べて、本当に料理うまいな。うちの嫁とは大違いだ。嫁を交換したいよ」

すごく上機嫌だ。ご飯を食べ終わり、しばらくすると満足したのか帰っていった。

「最近どうしたの?何が目的なのかな?」

母と話をしていると、そこへヘルパーさんが来て、気まずそうな様子でこう言った。

「お話があります」

そのまま母と一緒に話を聞くことにした。

「どうしたの?」

私が聞くと、ヘルパーさんは下を向きながら言った。

「言おうか悩んだのですが、お兄さんからの連絡がしつこくて困ってます」

え、私と母は驚き、思わず口が塞がらなかった。詳しく話を聞くと、最初に来た時からやたらと見られているなと感じたらしい。そして誰もいない時に連絡先を聞かれたそうだ。

「実は俺、こう見えて家族のことを心配してて、日々の家族のことを報告して欲しいんだ。このことは誰にも言わないでほしい」

そう言われたらしい。ヘルパーさんは「実は家族思いな方なんだな」と思い、連絡先を交換したそうだ。ちゃんと日々の状況をメールしていたそうだが、お兄さんからの返信はいつもこんな感じで、とメールの内容を見せてくれた。

返信内容を見て、私と母は驚愕した。

「本当に可愛いね」「ヘルパーさんの写真くれない?」「好きになってもいいかな?」「一目惚れしちゃった」

朝っぱらから口説いている内容だったのだ。

ヘルパーさんは私と母にお世話になっていて大好きだから、困らせたくなくて自分でどうにかしようとしたが、無理だったのだという。

「日に日にしつこさも増して、もうどうしたらいいか分からなくて…」

そう言って泣き出してしまった。泣いているヘルパーさんを見て、私は心が痛んだ。そして兄への反撃作戦を考えることにした。

その翌週、私は「実家の所有権について話がある」と嘘をついて、兄夫婦を呼び出した。

「急で申し訳ないんだけど、仕事でしばらく海外に行かないといけなくて、実家に住んでくれないかな」

兄夫婦にそう言うと、兄が食い気味で言ってきた。

「俺は全然いいよ」

「でも、母と同居するなら介護義務もあるらしいのよ。介護はお姉さんにお願いしてもいいかしら。母も自分のことはなるべくすると言ってるから、ヘルパーさんはやめてもらおうと思ってるけど」

私は嘘をついた。

「え、ヘルパーさんは雇ったままでいいだろ」

兄が言う。

「でも、ヘルパーさんのお金は払わないよ。どうするの?」

「俺が払うからいいよな」

「年収二百八十万プラスボーナスを上げる約束してるけど、平気?」

金額を伝えると、兄嫁が激怒した。

「そんなお金、どこにあるのよ!」

兄夫婦の中で喧嘩が始まってしまった。その光景を見て、私はほくそ笑んだ。そして、あのことを兄嫁へ報告する時が来た。

「みきこさん、兄がヘルパーさんをやめて欲しくない理由はこれなんですよ。見てもらえるかしら」

私はそう言って、メールを見せた。

「何、メールがどうしたの?」

そう言って、兄嫁は黙ってメールを見ている。しばらくすると、怒りで震え始め、鬼の形相へと変わっていた。そんな兄嫁を見て、兄は顔面蒼白になっている。

「弁護士さん呼んで、今後の家のこと、きっちり話し合おうよ。いいよね?もちろん、このメールについてもね」

私は笑顔で兄にそう言った。兄は目を泳がせている。

兄嫁はヘルパーさんからの返信履歴も見て、兄からの一方的な行為だと分かったらしい。兄はすぐに家を追い出された。

その後、兄夫婦は離婚した。家を追い出されて兄は実家へ来たが、母が追い返した。

「お前が住む部屋はないわ。この親不孝者。二度と顔を見せるな」

兄は黙って、どこかへ歩き出した。

もちろん、最初から家の所有権について話し合うつもりは一切なかった。ただ、兄がどう出てくるかを見たかっただけだ。

その後、兄はどうなったか。兄は稼ぎが少なかったようで、養育費と慰謝料の支払いで生活はギリギリの状態らしい。今はすごく古いアパートに住んでいるそうだ。

「私にお金を貸して欲しい」

連絡があったが、私はこう返した。

「自分でどうにかしろって、前に私に言わなかったっけ?」

兄に言われたままの言葉を、そのまま返してやった。

「そうだよな」

そう言って、その後連絡が来ることはなかった。今どうしているかは、全くわからない。

その後の私たちはと言うと、ヘルパーさんも無事離婚することができた。今まで離れに住んでもらっていたが、開いている部屋に住んでもらうことにした。本当の家族のように、毎日楽しく暮らしている。相変わらず仕事もしっかりしてくれていて、感謝しかない。

私はこの親子のためなら何でもできると思っているくらいだ。血の繋がりなんて関係ない。大事なのは、相手を思う気持ちだと、私は今回学んだ。

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