映画の帰りに夫と立ち寄ったバーは、いわゆるぼったくり店だった。伝票には五十万円という金額だけが書かれていて、私たちは言葉を失った。頼んでもいない飲み放題やサービス料金まで混ざっている。怖くてうまく話せない私の代わりに、夫が淡々と理路整然と言い返していた。しかし、温厚で几帳面な夫がこの状況で冷静に言い返しているのは、世間知らずなのか天然なのか。危険を感じて止めようとした瞬間、夫は相手に殴られた。左目の上から血が流れた。
「やめて。払うから。私が払うから、もうやめて」
夫を守らなければ。私は必死で夫と店長の間に立ちふさがった。
「いい女じゃねえか。店長、この女、店で働かせたらどうですか?」
しまった。目をつけられてしまった。今払ったところで、何度も職場に来て嫌がらせをされる。それはヤクザものの小説で何度も読んだ王道パターンだ。私の足はがくがくと震えていた。
「すまないな、ひなこ。これは避け損なったかすり傷だ。しかし、ひなこに手を出そうとするとは、見過ごせない。こいつらは完全に消す必要がある」
物騒なことを呟くと、夫はどこかに電話をかけた。その一、二分後には店に、いかにも凄みのある雰囲気の人物たちが続々と押しかけてきた。そして私は、夫のことを何も知らなかったのだと痛感することになる。
私は松永ひなこ。小さな病院で受付事務として働いている。三年前に結婚した夫の竹夫は、中小企業の人事部で働く真面目な人で、趣味は読書だ。私も読書が好きで、毎週末図書館に通っていた。夫もよく図書館に来ていて、何度も顔を合わせるうちに少しずつ話すようになった。すると驚くほど本の趣味が合うことが分かった。二人とも普段は口数が少なく聞き役に回ることが多いのだが、おすすめの本を紹介し合ったり感想を言い合ったりすると、いつも話が尽きなかった。出会って半年後には結婚していた。二人とも幼い頃に両親を亡くし、親戚との縁が薄かったのも、すぐに結婚を決めた要因かもしれない。
職場の先輩である花江さんは、どうやら近所に住んでいるらしく、散歩中に顔を合わせることが多かった。しかし彼女はよく思っていなかったようだ。話し声がうるさいと大きなため息をつかれたり、「幸せアピールうざいんだよ」と聞こえるように言われたりした。夫は職場で何か言われているんじゃないかと気にしていたが、私は会社では静かにしているし、優しい同僚もいるから大丈夫だと答えていた。
ある日の昼休み、同僚が話しかけてきた。
「この前話してたあの映画、来週一緒に見に行かない?」
彼女の推しの俳優が主演の映画で、原作者の小説が好きだった私は実写化も気になっていた。
「ごめんなさい。夫と行く約束をしてしまっていて、もう予約もしてあるの」
「なんだ、またデートなんだ。相変わらず仲いいね」
結婚してまだ三年しか経っていないのだから、そんなものだろうと思うのだが、夫と出かける話をするとからかわれてしまう。気恥ずかしくなって話をそらすことにした。
「それより映画館がよく知らない場所にあるんですけど、近くでご飯とかお茶とかできそうなお店知りませんか?」
上映している映画館が少なく、一番近い場所は普段降りたことのない駅が最寄りだった。
「そこなら知っているわ。ちょうど駅と映画館の間くらいにいいバーがあるわよ。雰囲気もいいからデートにはいいんじゃない?」
その声に振り返ると、通りかかった花江さんが立っていた。普段は私と同僚が雑談していると嫌な顔をするのに、今日は優しい。意外で驚いたが、これを機に険悪な雰囲気が少し柔らぐかもしれない。私は嬉しくなって、花江さんのおすすめする店の場所や名前を聞いた。
「遅くまでやってるし、映画の後でもゆっくりできるわよ。夫婦で羽でも伸ばしたら?」
「ありがとうございます」
思いがけず優しい言葉をもらい、私は少し浮かれていた。
一週間後、映画が終わった夜九時過ぎ、私は夫と花江さんから教わった店に着いた。花江さんが席も予約してくれていたが、店内はだいぶ空いていた。照明は少し暗めで、確かに落ち着いた雰囲気だ。建物は新しいのに家具は古びていて少しちぐはぐな違和感を覚えたが、映画の余韻が残っていて早く夫と感想を言い合いたかったので、すぐに忘れてしまった。窓際のテーブル席に二人で座る。夕飯は映画の前に軽く済ませていたこともあり、話すことに忙しく、注文したのはカクテルやクラフトビールを二杯ずつと軽いおつまみの盛り合わせだけだった。
帰らなければならない時間になり、会計をお願いすると、伝票には五十万円という金額だけが書かれていた。
「えっと、これは何かの間違いではないですか? 明細を見せていただけませんか?」
焦って言葉が出てこない私の代わりに、夫が丁寧に店員に尋ねた。不機嫌そうな店員は乱暴に伝票を取り返すと、奥へ引っ込んだ。しばらくして、今度は体格のいい、顔に傷のある男がこっちへやってきた。
「この店の店長だが、食い逃げしようとしているっていうのは、あんたたちか?」
大きな声で乱暴に言われ、私たちはまた驚いた。
「そんなこと言ってません」
「あら、後輩が食い逃げなんて恥ずかしいんですけど」
続いて奥から出てきたのは、花江さんだった。
「ここね、うちの弟の店なの。おいしかったかしら。払わなかったら、職場で『松永さんがうちの弟の店で食い逃げしたんです』って言いふらしちゃう」
花江さんは心底楽しそうに言い放った。
「食い逃げではありません。明細を見せて欲しいと言ったんです。我々が注文した品数で五十万円はおかしい。納得のいく説明をお願いします」
怖くて言葉もままならない私と違って、夫は泰然としていた。店長は乱暴にメニューを広げて見せてきた。飲み物が二十万、つまみが十万、席代が十万、サービス料金で十万。確かにそう書いてある。しかし外側は同じでも中身は私たちが見たメニューとは違う。さすがの私でも分かった。これはいわゆるぼったくりというやつだ。小説で読んだことがある。怖い人たちがやる悪い手口で、断ると痛い目に遭わされたり、コンクリートに詰められて海に捨てられたりするんだった。
「それぞれの値段も高すぎますし、そもそも頼んでないものまで混ざってるじゃないですか。飲み放題なんてつけてませんし、サービス料金って何のことか説明もなかった。正当な飲食分をお支払いするので、ちゃんとした伝票に直していただきたい」
適当に急いで作ったであろう偽の明細を見ながら、夫は冷静にまともなことを言い返している。しかしぼったくりに理屈は通じない。夫が何をされるのか気が気ではなく、私は夫の腕にぎゅっとしがみついた。
「グダグダうるせえな。さっさと五十万払え。見直したって金額増えるだけだぞ。ケツ持ちのヤクザ呼ぶぞ」
ケツ持ち? 知らない言葉だが、ヤクザという単語が出てきたので物騒な雰囲気は理解できた。
「ケツ持ちのヤクザとは、何組ですか?」
「は? 何の関係があるんだ?」
あまり怖がっていない夫の態度に、店長はいら立っている。
「松田組だ。弟も松田組の組員だよ。松田組はこの辺を牛耳っている大きな組織よ。さっさと払った方が身のためよ」
花江さんにも追い打ちをかけられ、私はもう払うしかないと思った。すると夫が小さく呟いた。
「松田組が、こんな店に関わるかな」
夫の独り言だったが、相手を怒らせるには十分だった。
「何ごちゃごちゃ言ってんだ、俺が」
店長が夫を殴った。よろけた夫の顔を見ると、左目の上が切れて出血している。
「やめて! 払うから! 私が払うから、もうやめて!」
頭が真っ白になり、夫を守らなければと私は二人の間に入った。
「いい女じゃねえか。店長、この女、店で働かせたらどうですか?」
しまった。目をつけられた。今支払っても、何度も職場に来て嫌がらせをする。ヤクザものの小説で何度も読んだ展開だ。私の足は震えていた。
「すまない、ひなこ。これは避け損なったかすり傷だ。しかし、ひなこに手を出そうとするとは、見過ごせない。こいつらは完全に消す必要がある」
夫は覚悟を決めたようにどこかに電話をかけた。
「お久しぶりです。はい。実はお願いがありまして」
どこにかけているのか。口調から友達ではなさそうだ。夫には親はなく、兄弟もいないと聞いていたのに。
「ええ、そこです。すぐ来てもらえますか?」
電話を切った夫は静かにため息をつき、私をぎゅっと抱きしめた。
「たけおさん、一体誰に電話を?」
夫はそのまましばらく何も答えなかった。花江さんたちが何か騒いでいるが、様子がおかしい夫が心配で、私の耳には届かなかった。しばらくすると店の外が騒がしくなり、大きな車が何台も止まったようだ。入ってきたのは、眼光の鋭い和服の男性と、艶のある黒髪をなびかせたスーツの美女だった。
「竹夫、久しぶりだな。連絡してきたと思えば、変なのに巻き込まれてんじゃん」
「たけおさん、知り合いなの?」
夫の名前を呼びながら入ってきたので、私は小声で尋ねた。
「ひなこ、ごめん。家族はいないって嘘ついてた」
「ああ、あんたか。うちの息子が随分世話になったみたいだな」
和服の男性が、夫の顔の怪我をちらりと見て、低い声で言った。
「なんだ、じじい。お前が代わりに払うってのか? 五十万払えや」
「そうよ、そうよ。誰だか知らないけど、代わりに払いに来たなら払いなさいよ。この店のバックには松田組がついているんだから」
美女がふふふと笑い、艶やかな黒髪をかき上げた。
「松田組なのに、私のことを知らないのかしら。どうも、松田組組長、ご本人です」
「松田組は当代組長だし、有名だと思ったんだけどな」
「私もまだまだね」
店長と花江さんは目を丸くして、口をあんぐり開けた。
「そして俺が、松田組の若頭だ。息子のために払ってやろうかと思ったが、どうせ払ってもうちの組に戻ってくるだけだな」
「親父、そもそもこいつ、本当にうちの組ですか?」
夫が普段は聞いたこともないような口調で言った。
「いやあ、俺は知らねえな。少なくともこんな店も知らん。この辺は確かに松田組の縄張りなんだがな。どうやら勝手に商売しているようだな」
どうやら松田組がバックについているというのは嘘だったようだ。まさかの本人登場で店長はどうなるのか。
「うちの縄張りで勝手に営業して、勝手にうちの名前を使って金儲けしていたんだ。覚悟はできてるんだろうね」
美女に胸ぐらを掴まれて、店長は情けない声をあげた。美女が外で待機していた若頭を呼ぶと、店長を事務所に連れて行けと命令した。
「ちょっと、弟に何するつもり? どこに連れて行くのよ?」
「自分のやったことの責任を取りに、うちの事務所まで。お姉さんも行く?」
「え? いや、行かないわよ」
花江さんは、怒って赤くなったと思えば次は青ざめて、今度は私に攻撃を始めた。
「ちょっとどういうことよ。じゃあ、あんたの旦那もヤクザなんじゃないの?」
それは私も疑問だった。そっと夫の顔を伺うと、少し悲しそうな顔をしていた。
「そうだ。俺はこの通りヤクザの家に生まれ、そのまま一時期、組長をしていたこともある。黙っていてすまなかった。今は家族とも縁を切って、普通の会社に就職して、堅気になったつもりでいたんだ。でも結局頼ってしまった」
「竹夫は、ひなこちゃんに一目惚れして、それでヤクザやめたいって言ったのよ」
「おい、姉貴」
私は言葉を失った。夫の姉ということは、この美女は夫の実の姉で、そして義父もここにいる。
「ここまで来たら全部話しちゃえばいいのよ。夫婦に隠し事は良くないでしょ。まあ、竹夫は不器用だから、継がないって無理していたところもあったしね。私の方が向いてるから、組長の座を奪ってやったわ」
照れ隠しか、姉は夫の頭を軽く叩いた。
「ひなこさん、黙っててすまなかったな。組にいる限り、お前は一生組長の妻になる。ひなこさんを守りたかったら、家業は隠し通せと言ったのは俺だ。世間の目はなかなか厳しいからな」
「ちょっとちょっと、人の弟を連れ去ってひどい目に合わせといて、自分たちは家族で仲良く何やってんのよ」
花江さんからしたら、何を見せられているんだという状態だ。
「そうよ。あんた、そこそこの企業に務めてるじゃない。ばらすわ。あんたの会社に、あんたが元組長だってばらしてやる。困るんじゃない?」
いいことを思いついたと調子づく花江さん。
「ばらされたくなかったら、弟を返しなさいよ。そして飲み代もきっちり払うのよ。それに、そうね、口止め料。追加で口止め料も払いなさいよ」
花江さんは高らかに笑って言った。
「あんたもよ」
今度は私を指差し、続けて言う。
「うちの職場やご近所にも言いふらしてやるわ。『松永さんとこの旦那さん、ヤクザなんだそうですよ』って。あんたも病院の受付なんてできなくなるわよ。首よ、首。ご近所からもひそひそ言われて、引っ越すことになるかしら」
元々私のことを快く思っていなかった花江さんだ。今の状況が嬉しくてたまらないだろう。
「大体、ヤクザだって隠して結婚してるんだし。もうこれ、結婚詐欺じゃない? きっと離婚ね」
「ねえ、旦那さん、分かってるんでしょうね」
素性を明かした以上、私に迷惑がかかるのを避けられない。夫は離婚も覚悟の上なのかもしれない。私の肩を抱いていた手に、ぐっと力がこもった。
「え? なんでそうなっちゃうの? 二人で勝手に何を訳の分からないことを言ってるんですか?」
今度は花江さんと夫が、きょとんとした顔で私を見た。
「仕事が首になったら、別の仕事を探しますよ。ここに居づらくなったら、引っ越せばいいじゃないですか。それがなんで離婚の話になるんですか? 多少隠し事があったって、竹夫さんは竹夫さんじゃないですか。何か変わるんですか?」
私の中から、腹立たしさが込み上げてきた。
「私だって竹夫さんに言ってない黒歴史の一つや二つはありますよ。秘密のない人なんていません。家での一面もあれば会社での一面もある。いろんな側面を持っているのは、人間として当たり前です。私は断じて結婚詐欺だなんて思いません」
こんなに大声を出して怒ったのは久しぶりだった。
「昨日だって、子どもがお使いをする番組で号泣してました。小動物がただたれているだけの動画を何時間も見てます。元ヤクザかなんか知りませんけど、私から見たら竹夫さんはずっと優しい人なんです」
「ひなこ、もうやめろ」
せっかく私が夫の人柄を力説しているのに、なぜか真っ赤になっている夫に止められてしまった。
「ああ、でも私、竹夫さんのお家のことは手伝える気がしません。向いてないです。頑張ってもお姉さんみたいにはなれない。そういう意味でだったら、離婚されても仕方ないのかもしれない。でも、でも!」
急に涙が込み上げてきて、ぼろぼろと大粒の涙をこぼしながら、子どもみたいにわあんと泣いてしまった。夫は私のジェットコースターのような感情に振り回され、今度は私の涙におろおろしている。義父と義姉が盛大に笑った。
「ああ、本当に面白い妹ができたわ。からかうのが楽しくなるわね」
「あっちは何も問題なさそうだな。さて、問題はこっちだな」
義父が言った。
「若頭から連絡があった。あんたの弟は、店を畳むことになったそうだ。飲み代の請求は諦めろ。やっぱりあんたも一緒に事務所に行こうか。うちの弟夫婦にちょっかいをかけないように、お話し合いしましょう」
凄みのある美女の笑顔に、花江さんは金縛りにあったようになった。そこをさっと組員に取り囲まれ、あっという間に外へ連れ出されていった。その後のことは、私は泣いたり怒ったりで大忙しだったし、アルコールも入っていたこともあって、途中から記憶がない。いつの間にか義父と義姉もいなくなっていて、終電はとっくに終わっていたので、タクシーを呼んで帰ったそうだ。
それからしばらく経った。あの店の店長は、店を出すたびに大きな組の名前を勝手に使ってぼったくりで儲け、しばらくすると移動して別の場所で同じことを繰り返す常習犯だったそうだ。あちこちの組に名前の使用料として莫大な金額を払うことになり、当然借金まみれ。今はマグロ漁船に乗せられ、過酷な労働を強いられているらしい。全部返済するのに、一体何年かかるのだろう。花江さんも弟の儲けを使って賭博をしていたらしく、一緒にマグロ漁船に送られたそうだ。私や夫の職場、ご近所などに夫の素性をばらさないこと、今後私たちに近づかないことを条件に、かなり借金を減額してあげたと義姉から聞いた。おかげで私たちは、今までと何も変わらない生活を続けている。夫の実家とはあれっきり、何の関わりもなく過ごしている。向こうも、ヤクザとの繋がりを不用意に知られないように気遣ってくれているのだろう。
でも、孫の顔を店に見に行ってもいいよね。
お腹に小さな命が宿っていることが分かったのは、つい昨日のことだった。何とも言えない顔で喜んでいる優しい夫の手を、私は強く握った。生まれてくるこの子には、秘密にしたくない。この子はきっと、かっこいいおじいさんとおばさんのことが好きになるに違いない。



