七十歳まで生きてきて、松崎総一が本当に恐ろしいと思ったのは、死ぬことでも孤独でもなかった。誰かに必要とされたいという気持ちが、まだ自分の中に残っていたのだと気づいた瞬間こそが、何より恐ろしかった。その感情は、錆びついた扉を無理やりこじ開けるような鈍い痛みを伴うものだった。そして彼は、その扉を開けてしまったことを、後になって何度も悔やむことになる。
二〇二六年の春、東京の古い住宅地に建つ木造の家に、総一は一人で住んでいた。昭和三十年代に建てられたその家は、築六十五年を超え、玄関先の柱には時間の重みが刻まれていた。総一自身もその家によく似ていた。背が高く、若い頃は肩幅の広さで仕事場でも目立ったというが、今はその肩が少し前に落ちている。肌は何十年も外で釘や金具を扱ってきた日焼けの跡が残り、洗っても落ちない油のシミのような職人特有の色をしていた。顔のしわは深く、笑いというよりは長年の無言の積み重ねが刻んだ線だった。
彼は若い頃から、住宅修繕の資材を扱う小さな商売を一人でやってきた。釘、ネジ、木材の切れ端、建築現場で余った材料を安く仕入れ、個人の修繕業者や大家に卸す仕事だった。特別に儲かるわけではなかったが、真面目に続けてきたおかげで、それなりの蓄えと今住んでいる土地の一軒家を残すことができた。二年前に店を畳んだのは、仕入れルートが変わり、取引先の業者が高齢化で廃業し、気がつけば商売を続けるための人間関係そのものが消えていたからだ。体力的に問題があったわけではない。ただ、店の電話が鳴らなくなった。それだけのことだった。
閉店してからの二年間、総一には決まった日課がいくつかあった。朝六時に起きること、近くのコンビニで缶コーヒーを一本買うこと、午後に誰も来ない店の前を掃くこと。そして毎日午後五時ちょうどに、一本だけタバコに火をつけること。そのタバコを吸う時間だけは、胸の中で何かが緩んだ。縁側に腰を下ろし、煙が薄い夕暮れの空気に混ざっていくのを見ながら、彼は何も考えなかった。何も考えないことが、今の彼にとっての贅沢だった。
問題は、そうして日々をやり過ごせている間は良かったのだが、ある春の夕方に、見なくてもいいものを見てしまったことだった。近所の公園の前を通りかかった時だ。ベンチに、自分と同じくらいの年の男女が並んで座っていた。男がビニール袋から缶コーヒーを二本取り出し、一本を女に渡した。女はそれを両手で受け取り、何も言わずにプルタブを開けた。二人はしばらく黙って同じ方向を向いて、缶を傾けていた。それだけの光景だった。別に特別なことは何もない。しかし総一は立ち止まって、その二人の後ろ姿を三秒ほど見てしまった。そして急いで視線をそらし、足を早めて家に帰った。
帰り道、胸の中に何かが引っかかっていた。縁側でタバコに火をつけても、その夜はうまく煙が肺に入っていかなかった。一口吸って揉み消した。その夜、畳の上に横になって天井を見ながら、自分が何を見たのかを、はっきりと言葉にした。自分には、缶コーヒーを黙って渡す相手がいない。声を出さなくてもいい、隣に座っているだけでいい。それだけのことが、この七十年一度もなかった。
総一は結婚したことがなかった。若い頃に一度付き合った女性がいたが、商売の不安定さを理由に別れた。それ以来、仕事を優先し続けた。仕事が終わった時には、声をかけるべき相手を探す気力が残っていなかった。兄は二十年前に病気で亡くなっており、兄の息子、つまり甥の松崎秀樹とは、盆と正月に顔を合わせる程度だった。
その夜から、胸の中の何かが少し変わった。ずっと押さえつけていたものが、少しだけ浮き上がってきたという方が正確かもしれない。総一が高齢者向けの婚活支援センターの存在を知ったのは、近所の薬局で待合の椅子に座っていた時だった。テーブルに置いてあったフリーペーパーの裏に、小さな広告が載っていた。「シニアの出会いを丁寧にサポートします」という一文と電話番号だけの、飾り気のない広告だった。総一はそれを見てすぐにページをめくった。しかし薬局から出て歩いて帰る間、その広告が頭から消えなかった。結局、三日後に電話をかけた。電話に出た女性の声は事務的で穏やかで、総一に余計なことを何も言わせなかった。説明会は木曜日の午後二時から、参加費は無料だという話だった。
当日、総一はクリーニングから戻ってきた袋に入れていたグレーのジャケットを着た。玄関の鍵を閉めて、それから五秒ほど扉を見つめた。こんなことをしている自分が恥ずかしいような気もしたが、来週の同じ時間に縁側でタバコを吸っている自分の姿を想像したら、その恥ずかしさの方がまだマシだという気がした。そのまま歩き出した。
センターは駅前のビルの三階にあった。受付で名前を書き、番号札を受け取り、椅子に座って待った。部屋の中には、総一の他に五人の男性がいた。総一と同じくらいの年代で、誰も言葉を交わさなかった。それぞれが膝に手を置いて、正面の壁を見ていた。担当のスタッフが全員を会議室に案内した。テーブルを挟んで向かい側に、女性たちが座っていた。十人ほどいた。総一がドアから入ると、複数の視線が一斉に向いた。品定めをするような目つきだった。表情は笑っているが、その笑顔の奥にある視線は、別のどこかを見ていた。
自己紹介の時間になった。総一が自分の名前と元の仕事の話を少し話すと、向いに座っていた派手な色のニットを着た女性がすぐに割り込んできた。「お一人で住んでいらっしゃるんですか? それは広いお家ですね」という言葉だった。質問というより確認のような口ぶりだった。別の女性が続けた。「東京の土地って、今いくらくらいになるんでしょうね。老後の資金って大事ですよね」。また別の女性が旅行の話を持ち出しながら、「去年はヨーロッパに行ってきたんです。そういった余裕はおありですか」と聞いた。
総一は答えながら、自分の中で何かが静かに引いていくのを感じた。怒りではなかった。失望とも少し違った。ただ、この部屋の空気が急に薄くなったような感覚があった。自分がここに来た理由を、この場所は全く理解していない。缶コーヒーを一本、黙って渡してくれる人間が欲しかっただけなのに。そんな話は誰も求めていない。それが分かった瞬間、立ち去りたくなった。スタッフが次の段取りを説明しているのを聞きながら、静かに立ち上がることを考え始めた。途中で帰ることへの申し訳なさは少しあったが、それより、留まる理由の方がもう見つからなかった。
廊下に出たのは休憩時間のわずかな隙だった。エレベーターのボタンを押して扉が開くのを待ちながら、総一は自分が今日ここに来たことを、明日以降誰にも話さないだろうと思った。扉が開いた瞬間、中から出てきた人物と肩がぶつかった。相手は女性だった。小柄で灰色がかったベージュのニットを着ており、白い髪が首の後ろで小さくまとめられていた。手提げの布鞄を胸の前に持っていて、ぶつかった衝撃で少し体が揺れた。総一は反射的に「すみません」と言った。女性は「いいえ」と答えた。それだけのやり取りだったが、総一はなぜか、その「いいえ」の言い方が気になった。謝罪を受け取るでも遮るでもなく、ただ事実として「いいえ」と言った。女性は総一の横をすり抜けて、フロアに入りかけた。そこで総一は、自分でも理由の分からない言葉を口にした。「今日初めて来られましたか?」 女性は一瞬だけ振り向いた。「ええ、でも入るかどうかまだ迷っていて」。廊下の窓の方向を少し見てから、また総一に目を戻した。「あなたは帰るところですか?」 総一はエレベーターのボタンが点滅したままになっていることに気づいた。「ああ、そんなところです」。女性は小さく笑った。笑顔というより苦笑いに近い、穏やかな表情だった。「私ももうやめようかと思っていたところです」。総一はボタンの点滅を消した。「せっかく来たなら、一杯くらいお茶を飲んでからでも遅くないかもしれません」。自分でも、なぜそう言ったのか後から考えると分からなかった。ただ、その女性が廊下の窓の方向を見た時の、少し困ったような横顔が、部屋の中の誰のものとも違って見えた。それだけだった。
女性は少し考えてから「そうですね」と言った。その答え方も、受付のスタッフのような愛想のある同意ではなく、本当に少し考えて出した答えだった。二人はエレベーターで一階に降り、近くの路地裏の喫茶店に入った。総一はアイスコーヒーを頼み、女性はホットの緑茶を頼んだ。向かい合って座ると、最初の数秒間、どちらも何も言わなかった。女性が先に口を開いた。「私、黒川千鶴と申します。六十九歳です」。総一は「松崎総一です。七十です」と答えた。名刺を交換するような確認だったが、不思議と不自然ではなかった。
千鶴は夫を四年前になくしており、区の出張所で長年パートとして働いていたが、今は退職して一人で暮らしているということだった。今日センターに来たのも、娘や友人に勧められたからではなく、何かをしなければという漠然とした焦りから、自分一人で決めてきたと言った。「焦りというのは、どういう焦りですか」と総一が聞くと、千鶴はコップを両手で包みながら少し考えた。「このまま何も変えないと、また一年が終わってしまうような気がして」。それから「変な言い方ですね」と小さく付け加えた。総一は「変じゃないです」と言った。「私も似たようなことを考えてきました」。千鶴はコップから目を上げ、総一の顔を見た。長く見るわけでもなく、すぐに視線を外すわけでもなく、相手の言葉を確認するような目つきだった。
総一は昔の仕事の話をした。資材の話、釘の規格の話、木材の種類によって打ち込む角度が変わるという話。自分でも、こんな話を初対面の人間にするとは思っていなかったが、千鶴が黙って聞いていた。相槌を打つでも話を遮るでもなく、ただ聞いていた。途中、「釘の頭の形に種類があるんですか」と千鶴が聞いた。「平と丸頭と、あとはそれぞれに変形があります」と総一が答えると、「面白いですね。そんなところまで違うんですね」と言った。「面白い」という言葉が、社交辞令でなく、本当に少し驚いた時の声だった。気がついたら三十分も話していた。センターでは一言も話したくなかったのに、この狭い喫茶店の向かいの席で、釘の話を三十分した。
千鶴は自分の仕事の話もした。区の出張所での窓口対応、毎日来る同じ顔の老人たちの話、書類の不備を穏やかに指摘するコツ。「怒られることも多いんです。窓口って、怒っている方の本当の気持ちは別のところにあることが多くて」。「別のところというのは?」 と総一が聞くと、「誰かにちゃんと聞いてもらいたいだけということが多かったです。書類のことは大抵、後からなんとかなるんです」と千鶴は言った。総一はその言葉を聞いて、窓の外を少し見た。グラスの氷が半分溶けた頃、千鶴が少し声を落として言った。「今日来たのは、正直に言うと少し後悔してたんです。センターに向かう電車の中で」。「なぜですか?」 と総一が聞くと、千鶴は少し間を置いてから「こういう場所に来る自分が、恥ずかしいような気がして。夫が亡くなって四年経つのに、まだそういうことを考えているのが恥ずかしいと思って」。総一はその言葉を聞いて、自分がフリーペーパーを見た夜のことを思い出した。「私も同じです」と言った。特に説明は加えなかった。千鶴もそれ以上は聞かなかった。
会計の時、総一が伝票を取った。千鶴が「割り勘にしましょう」と言ったが、総一は「次は出してください」と言った。自分でも、その「次」という言葉が出るとは思っていなかった。千鶴は一瞬だけ驚いたような顔をした。それから小さく「わかりました」と言った。
店を出て、総一は千鶴が使う駅まで一緒に歩いた。二人並んで歩くと、ちょうど総一が少し大きく、千鶴が少し小さく、自然に間隔が保たれた。改札の前で、千鶴は振り向いた。「今日はありがとうございました。お話、楽しかったです」。総一は「また話しましょう。よければ番号を教えてください」と言って手帳を出した。千鶴は自分のスマートフォンを鞄から出し、数字を確認しながらゆっくり書いた。返してくれた手帳の字は、小さくて整っていた。千鶴が改札の中に入り、振り向かずに階段を降りていくのを、総一は立ったまま見ていた。姿が見えなくなってから、手帳を胸のポケットにしまった。七十年で初めて、他人の電話番号を手帳に書いてもらった気がした。
帰り道、総一は少し遠回りをした。胸の中に、うまく名前のつけられない感覚があった。浮かれているとは少し違う。ただ、歩く速度が普段より遅くなっていた。足が帰ることを急いでいなかった。
自分の家の路地に曲がった瞬間、総一は足を止めた。玄関先に人影があった。暗くなりかけた夕方の光の中で、その人物は軒下に背を預けてスマートフォンを見ていた。総一が近づくと顔をあげた。甥の松崎秀樹だった。四十二歳、総一より頭一つ分低い体格だが横幅があり、首が太かった。ジャケットは張りのあるデザインのものだったが、首元が少し伸びていた。秀樹は総一の顔を見て、すぐに笑顔を作った。「いやあ、おじさん待ってたよ」。声は明るかったが、その明るさが作り物だと、総一は長年の付き合いで分かった。秀樹の左手に、赤い封筒が数枚握られていた。総一はそれを見た瞬間、胸の中にさっきまであった感覚が、音もなく引いていくのを感じた。「ちょっと相談があってさ、中に入れてよ」。その「相談」という言葉の使い方は、本当の相談をしたい人間のそれではなかった。
総一は黙って鍵を出した。扉を開けながら、今日の午後に手帳に書いてもらった小さく整った数字を頭の中で思い浮かべた。それから秀樹の持っている封筒をもう一度見た。赤い色だった。催促の類いに使われる色だということは、商売を長年やってきた総一には分かっていた。照明のついていない玄関に二人で入った。秀樹は遠慮なく靴を脱いだ。総一は電気のスイッチを入れた。廊下に照明がついて、秀樹の顔がはっきり見えた。疲れた顔だったが、その疲れ方は、誠実に働いて疲れた人間の顔ではなかった。
秀樹は封筒を総一の前に差し出した。「おじさんの名前出したら、向こうが話聞いてくれるかもしれないんだ。もう少し時間があればどうにかなるんだけど」。言葉は下手に出ていたが、その下手さが計算された下手さだった。総一は封筒を受け取らなかった。「いくらだ」と聞いた。秀樹はその質問を予想していたようだった。「今すぐは三百万あればなんとかなる。あとは後で返すから」。不動産の仲介が今年に入って全然動かなくて、市場が悪くて、と言った。総一は靴を揃えてから顔をあげた。「金はない」と言った。嘘ではなかった。ないとは言えないが、簡単に出せる金でもなかった。何より、出す気がなかった。秀樹の表情から、作り笑いが少し消えた。「おじさん、俺困ってんだよ。本当に頼れる人間がいないんだよ」。声の温度が一段下がった。総一は秀樹の顔を見た。困っているのは本当だろうとは思った。しかし、自分がその困りごとの出口になることが、秀樹のためになるかどうかは、また別の話だった。「帰れ」と総一は言った。短く、それだけだった。
秀樹は黙った。それから「おじさんさ」と言い始め、声の温度がもう少し下がった。「昔からそんな生き方すんだよね。俺が頼んでんのになんで素直に聞けないわけ? 一人ぼっちで生きてきて、金だけ抱えて死ぬつもりかよ?」 その言葉は、狙いを定めて投げてきた言葉だった。総一の胸のどこかに刺さった。刺さったが、総一はそれを顔に出さなかった。「帰れ」と繰り返した。秀樹はしばらく総一を見ていた。それから封筒を手に取り、廊下を歩いて玄関に戻った。靴を履きながら「考えといてよ」と言った。「また来るから」という言葉を残して、扉が閉まった。
総一は廊下に一人残った。足の裏から、古い木の床の冷たさが伝わってきた。秀樹が来る前、総一はこの家に帰るのがいつもより楽しみだった。手帳を胸ポケットに入れたまま帰ってきた。しかし、今廊下に一人立って閉まった扉を見ていると、今日の午後が遠い場所の出来事のように感じた。それでも総一は胸のポケットに手を当てた。手帳の薄い硬さが指先に触れた。今日の夕方の喫茶店が、本当に今日のことだったかどうかを確かめるように、そのまま数秒動かなかった。
秀樹が帰った後、総一はしばらく廊下に立ったままでいた。台所へ向かい、やかんに水を入れて火にかけた。手が少し震えていた。怒りなのか、それとも別の何かなのか、自分で判別がつかなかった。湯が湧くまでの間、テーブルの前の椅子に座って、封筒の枚数を頭の中で数えた。秀樹が持っていたのは三枚か四枚だった。あの赤い封筒の色は、総一がかつて取引先の業者から受け取ったことのある督促状と同じだった。あれはこちらが支払う側だったが、今日の秀樹が持っていたのは、誰かに支払いを催促されたものだった。
翌朝、総一は六時前に目が覚めた。二度寝しようとしたが眠れなかった。天井の木目を見ていたら、昨日の夕方の光景が次々と浮かんだ。秀樹の顔、赤い封筒。そして、その前の喫茶店の向かいに座っていた千鶴の横顔。起き上がって顔を洗い、台所で缶コーヒーを開けた。昨日の言葉がまだどこかに引っかかっていた。「一人ぼっちで生きてきて金だけ抱えて死ぬつもりか」。言い方は乱暴だったが、外れているわけでもなかった。それが総一には、静かな重さとして残っていた。
秀樹は、父親である兄が亡くなった後、しばらく総一の家を出入りしていた。その頃の秀樹は二十代で、不動産会社の営業職に着いたばかりだった。愛嬌があり、仕事の話を嬉しそうにした。総一は何度か食事をご馳走した。しかし、だんだんと秀樹が来る理由が金の話になっていき、総一は距離を置くようになった。今回も同じだった。違うのは、秀樹の顔が若い頃のような軽さを失っていたことだった。追い詰められた人間の顔つきというのは、怒りより先に疲れが出る。総一にはその疲れが分かった。分かるからと言って、金を出す理由にはならないが。
三日後、総一は手帳を引き出しから出して、千鶴に電話をかけた。かけるかどうかを二日悩んだ。二回呼び出し音が鳴ってから、千鶴が出た。「はい、黒川です」。少し低めの落ち着いた声だった。総一は名乗った。「先日のセンターで、廊下でお会いした松崎です」。一瞬の間があった。「ああ、松崎さん。覚えています」。その「覚えています」の言い方が、社交的な答え方でなく、本当に少し意外そうな響きを含んでいた。総一は「もしよかったら、また話しませんか。喫茶店でもどこでもいいですが」と言った。自分で言っていて、少し硬い言い回しだと思った。千鶴はしばらく何も言わなかった。電話の向こうで、微かに物音がした。「来週の水曜日はいかがですか」。駅の近くに静かな喫茶店がありますので、と言った。総一は「それで構いません」と答えた。時間と場所を聞いて、手帳に書いた。電話を置いてから、しばらくそのままの姿勢でいた。
水曜日の午後一時、総一は千鶴が指定した駅前の喫茶店に向かった。昔ながらの純喫茶で、窓際に背もたれの高い椅子が並んでいた。千鶴はすでに席についていた。今日は淡い色のカーディガンを着ており、テーブルの上にミルクティーが置かれていた。「お待たせしました」と総一が言うと、「いいえ、私も今来たところです」と千鶴は言った。向かい合って座り、総一はコーヒーを頼んだ。千鶴は少し話しにくそうに「ひとつ聞いていいですか」と言った。「先日から考えていたんですが」。総一は「何でしょう」と言った。「私が今もらっている年金なんですが」。声が少し小さくなった。「夫の遺族年金が毎月十二万円あって、それが今の生活の柱になっているんです」。総一は聞いていた。促しもせず、遮りもせず。「あの年金は、私が誰かと婚姻届けを出すか、または事実婚と認定されると、打ち切りになる仕組みなんです」。千鶴はコップの縁を指でなぞりながら言った。「社会保険事務所に確認しました。同じ家に住んで実態が夫婦と見なされれば、形式的な婚姻関係がなくても対象になると言われました」。総一はコーヒーカップを持ち上げかけて止めた。「それは知りませんでした」と言った。正直な言葉だった。「私も最初は知らなくて。夫が亡くなった後、手続きをしている時に初めて教えてもらって。だから、センターに登録していても、実際のところはどうするかよく考えていなくて」。月十二万というのは大きいですね、と総一は言った。
「だから、もし誰かと一緒になるとしたら、相手の方に経済的にずっと頼ることになるか、自分が働いて補うか、どちらかしかなくて。でも私はどちらも、なかなか気持ちの整理がつかなくて」。総一はその言葉を聞きながら、千鶴が今日ここでこの話をしたことの意味を考えた。これは断りの言葉ではなかったか、と言って前に進もうという話でもなかった。ただ、自分の状況を正直に話したということだった。「私が援助すればいいだけの話ではないですか」と総一は言った。言ってから少し踏み込みすぎたかと思ったが、聞き戻しはしなかった。千鶴は首を振った。緩やかに、しかし明確に「それはできません」と言った。「お気持ちはありがたいですが、それだと私が困ります」。「なぜですか?」 「自分で払えないものに、人の金を使いたくないんです。夫が生きている間もそうでした。夫の収入で暮らしながら、自分が出せる分は出ていた。それが私のやり方で」。総一はそこで少し黙った。押し返せる余地は特になかった。千鶴の言い方には、説得を求める隙がなかった。自分の原則を話しているだけで、相手に変えさせようとしていなかった。「つまり」と総一は言った。「今のところ、一緒に暮らすことも籍を入れることも難しい」。「そうなります」と千鶴は言った。目を伏せてからあげた。「それでも会うことはできます。ただ、その先のことは」。言葉が途切れた。総一はコーヒーを一口飲んだ。「それでいいです」と言った。千鶴が少し驚いたように総一を見た。「でも、松崎さんはもっとはっきりした形を求めているのかと思っていました」。「そういう歳でもないですよ」と総一は言った。「結婚より、話せる相手の方が先です」。千鶴はしばらく総一の顔を見ていた。それから、また少しだけ笑顔に近い表情をした。「変な言い方ですけど、安心しました」。
喫茶店を出た後、二人は近くの小さな公園を少し歩いた。春の夕方で風はまだ少し冷たかったが、並木の光は傾いて金色になっていた。千鶴は歩きながら、自分の家の近くにある小さな畑の話をした。昔は夫と一緒に区民農園で野菜を作っていたが、今は一人では広すぎて、プランターでほうれん草を少し育てているだけだという。「ほうれん草がうまくいきません。土が合わないのか、途中で黄色くなってしまって」。総一は「日当たりですかね」と言った。「材木屋をやっていた頃、大工さんが植物の話を少し聞いたことがあります。南向きでも、窓ガラスの反射で温度が上がりすぎると良くないと言っていました」。千鶴は「そういうことがあるんですか」と言いながら、少し考える顔をした。「確かにうちのプランター、窓の真横に置いていて」。少し離すといいかもしれません、と総一が言った。千鶴は小さく笑った。喫茶店での表情から、力が抜けていた。遠くの橋まで歩いて引き返した。夕日が木々の間から斜めに差し込んでいた。千鶴の白い髪がその光を受けて、柔らかく見えた。総一は横目でそれを見て、すぐに前に視線を戻した。「息子さんはいるんですか」と総一が聞いた。センターでは聞きそびれていた話だった。千鶴は少し間を置いた。「息子が一人います。仙台に住んでいて、家族がいます」。「お孫さんは?」 「お盆と正月に電話があります」。それだけ言って、千鶴は続きを付け加えなかった。総一もそれ以上は聞かなかった。千鶴を最寄り駅まで送った。改札の前で少し話して、また来週会う約束をした。千鶴が改札を通り、総一は駅前に少し立ってから帰り道に着いた。
商店街を抜けて住宅地の路地に入ったところで、総一はなんとなく後ろを振り向いた。特に理由はなかった。強いて言えば、視線のような感覚があった。路地の手前の通りに、一台の車が路肩に停まっていた。くすんだ銀色のセダンで、エンジンがかかっているのか、わずかに排気が出ていた。窓が少し曇っているため、中は見えなかった。総一は一秒だけ見て、また前を向いて歩き出した。車はどこにでもある。路肩に停まることも珍しくない。それでも、その車が視界に入った時の違和感は、歩いている間もどこかに残っていた。家に帰りついてから、鍵を開ける前にもう一度だけ振り返った。路地の外の通りに、車は見えなかった。総一は鍵を開けて中に入った。余計なことを考えすぎたと思いながら、台所へ向かった。
その夜、くすんだ銀色のセダンの中では、秀樹がシートを少し倒して座っていた。スマートフォンの画面には、今しがた撮った数枚の写真があった。改札前で向かい合って立つ総一と、小柄な白髪の女性。総一が手帳のようなものを出して、何かを書き取っている場面。二人が並んで公園の中を歩いている場面。秀樹は写真をしばらく見てから、ゆっくりと画面を閉じた。それから手元の空き缶を助手席のフロアに落として、エンジンをかけた。何かを決めたわけではなかった。ただ、何かに使えると思った。それだけだった。
翌日、秀樹はスマートフォンで検索を始めた。不動産の仲介を長年やってきた人間で、土地台帳や登記情報の調べ方は知っていた。調べていくうちに、白髪の女性についての手がかりが一つ出てきた。総一と並んで歩いていた路線の駅の出口。そこから徒歩で行ける範囲に、市営住宅の一画があった。小柄で白髪の高齢女性が住んでいるとすれば、その辺りの可能性が高いと秀樹は踏んだ。秀樹は翌日、その辺りを車でゆっくり流した。特に収穫はなかった。しかし、その途中で偶然、コンビニから出てきた女性が目に入った。ベージュのカーディガン、白い髪を後ろでまとめた小柄な老婆。女性は近くのマンションの入り口に入っていった。秀樹はそのマンションの表札と部屋番号をスマートフォンで撮った。車に戻りながら、秀樹の頭の中で一つの構図が出来上がっていた。おじさんはあの女性に惚れている。あの女性を巻き込めば、おじさんは動く。おじさんが動けば、家の名義か現金か、どちらかが引き出せる。
その計画の粗さには、秀樹自身も気づいていた。しかし、今の秀樹に、粗くない選択肢を考える余裕はなかった。不動産の仲介手数料で食っていた収入が、今年に入って八割以上減っていた。個人の借金は膨らみ続けており、督促の電話が週に三度は来ていた。秀樹は車のシートに背を預けながら天井を見た。おじさんは昔から融通が効かない。真正面から頼んでも動かないなら、動かさざるを得ない状況を作るしかない。そう考えながら、秀樹は目を閉じた。眠れなかった。
その週の土曜日、総一は千鶴と近くの商店街を歩いた。千鶴が「少し面白いお豆腐屋さんがあるので」と話していたのを、総一が覚えていて誘ったのだった。豆腐屋は商店街の中ほどにある昔ながらの店で、ガラスケースの中に白くて大きな豆腐が並んでいた。千鶴は絹豆腐と油揚げを買った。総一は勧められるままに木綿豆腐を一丁買った。「煮てもいいし、味噌汁に入れてもいいですよ。一人だと豆腐一丁も多いくらいですよね」と千鶴が言った。「そうですね。半分余ってしまいます」。「私もです」と千鶴は言った。それだけの会話だったが、総一には何かが通じた気がした。豆腐一丁が多いという感覚を共有できる相手がいる。それだけのことが、今の総一には十分だった。
商店街の外れにある小さなベンチに二人で座った。「松崎さんって、怒ったりしますか」と、千鶴が突然聞いた。「怒るというのは?」 と総一が答えた。「感情を出して声を荒げたりとか。夫は滅多にしない人だったんですが、一度だけ仕事のことで怒鳴られたことがあって、それが意外で、すごく記憶に残っていて」。総一は少し考えた。「若い頃は取引先と飲んだ時に、声を出したことはあります。でも今はそういうことはしません。しても意味がないと気づいてから」。「意味がないというのは?」 「声を荒げた後、こちらが得をしたことが一度もなかったので。損得の話ですかね」。千鶴はそれを聞いてまた少し笑った。「実用的ですね」と言った。「怒り方が分からなくなったという方が正確かもしれません。起こる理由はあっても、どこにぶつければいいのか分からなくて。大体そのまま飲み込んでいました」。千鶴は黙って聞いていた。「それは辛くないですか」と言った。「慣れました」と総一は言った。それから少し間を置いて「でも、慣れたことと、辛くなかったことは違いますね」と付け加えた。千鶴は「そうですね」と言った。二人はしばらく黙って前の通りを見ていた。自転車が一台通りすぎた。子供を乗せた母親が小走りで通った。風が商店街の軒先から吹いてきて、千鶴の白い髪を少し揺らした。
帰り道、住宅地の路地に入ったところで、総一は千鶴の手が自分の手の近くにあることに気づいた。意識したわけではない。ただ、歩幅が近くなっていて、二人の手の甲が一度触れた。総一はそのまま止まらなかった。千鶴もそのまま歩き続けた。しかし、次の一歩で、総一の手が千鶴の手をそっと包んだ。どちらが先に動いたのか、後から考えても分からなかった。千鶴の手は小さく、指が細かった。総一の手は大きく、掌が熱かった。二人は何も言わなかった。ただ並んで歩き続けた。街灯がちょうど灯り始めた時間で、夕暮れの淡い光の中を、二人の影が重なり合いながら伸びていた。
その場面を、十五メートルほど後ろから秀樹は見ていた。今日は車ではなく歩いていた。コンビニの袋を持った、普通の通行人に見えた。スマートフォンを取り出して、二人の後ろ姿を数枚撮った。手をつないでいる。秀樹はその事実を頭の中に入れた。おじさんがこんなことをするとは思っていなかった。七十年一人で生きてきた人間が、こんなに急に変わるものか。秀樹には、驚きより先に、「使える」と思った。その夜、秀樹は自分のアパートのテーブルで督促状の書類を広げていた。返済期限が近いものが二件あった。合わせると四百万円を超えていた。自分の口座には十三万円しかなかった。秀樹はスマートフォンで撮った写真を見た。後ろ姿で手をつなぐ二人の老人。あの小柄な女性がおじさんにとってどれほど重要なのかは、今日の光景で十分に分かった。秀樹はメモ帳に何かを書き始めた。まず、あの女性の住所を確定させる。次にタイミングを見て、女性に何らかの形で近づく。その上で、おじさんに「あの女性を守りたければ」という話を持ちかける。秀樹は目を閉じた。手が少し汗をかいていた。自分がこういうことをする人間だとは思っていなかった。しかし、やらなければならない状況が、少しずつ自分をここまで押し込んできたのだという気持ちも、秀樹の中にはあった。
その週の終わり、総一は縁側でタバコを一本吸った。いつもの午後五時ちょうどだった。煙が夕暮れの空に溶けていった。千鶴と最後に会ってから二日が経っていた。手を繋いだことは、二人とも何も言わなかった。次に会う時も、おそらく何も言わないだろうと総一は思った。言葉にしなければならないことではないと感じていた。
タバコを半分吸ったところで、総一は手を止めた。昨日、近所の路地を歩いていた時、また銀色の車を見た気がした。気のせいかもしれない。同じ車はたくさんある。ただ、もし秀樹が何かをしようとしているなら、一番危ない方向は一つだった。総一に対して直接何かをするのではなく、総一が大事にしているものに対して何かすることだ。千鶴のことが頭に浮かんだ。総一はタバコを揉み消した。まだ半分以上残っていたが、今日はここまでで十分だった。空の色が、暗くなるより少し前の、一番中途半端な時間の灰色になっていた。総一はその色を見ながら、自分が今何かの瀬戸際に立っているような気がした。具体的に何がと言えるわけではなかった。ただ、そう感じた。感じても、今すぐ動ける根拠は何もなかった。縁側から立ち上がり、総一は家の中に戻った。鍵を確認した。台所の窓も確認した。普段しないことを、今日はした。それだけだった。
その朝、黒川千鶴は台所でお湯を沸かしていた。窓の外は曇り空で、光が薄く、部屋の中がいつもより薄暗く感じられた。プランターのほうれん草を確認しようと思って窓の近くに立ったが、葉の色がまた少し黄ばんでいるような気がして、気持ちが沈んだ。総一に教えてもらった通り、プランターを窓際から少し離したのに、まだうまくいかなかった。
やかんが鳴り始めた頃に、インターフォンが鳴った。千鶴はガスを止めて玄関の方へ向かった。モニターを見ると、見覚えのある顔が映っていた。相沢ゆり子。亡くなった息子の元妻だった。千鶴は一瞬だけ動きを止めた。それから鍵を開けた。扉を開けると、ゆり子は斜めに傾けた笑顔で立っていた。四十歳で、化粧は薄かったが目元に疲労の跡が見えた。その隣に、小学校二年生の孫の両太郎がいた。赤いランドセルを背負ったまま、下を向いてスニーカーのつま先で床を蹴っていた。「突然すみません」とゆり子は言った。声は柔らかかったが、その柔らかさが自然なものではなく、今日のために用意されたものだということが、千鶴には分かった。「両太郎がおばあちゃんに会いたいって言っていたので」。両太郎は顔をあげなかった。千鶴は孫の頭のてっぺんを見た。あの子が自分に会いたいと言ったとは思えなかった。しかし、今はそこを掘り下げても意味がなかった。「どうぞ」と千鶴は言って、二人を中に入れた。
台所でお茶を入れた。両太郎はランドセルを下ろしてテレビのリモコンを手に取り、特に許可も求めずにテレビをつけた。子供向けのアニメが映った。千鶴は何も言わなかった。お茶を出して、千鶴はゆり子の向かいに座った。ゆり子は両手でコップを持ち、一口飲んでから「実は」と言い始めた。「少し困ったことになっていて」。カードの支払いが少し積み重なってしまって、来月の引き落としが百八十万円になってしまっているんです。千鶴は黙って聞いた。「私の親にはもう頼めなくて。子供のことがあるから消費者金融も難しいし。それで、おばあちゃんに相談しようと思ってきたんです」。ゆり子はそこで少し間を置いた。「百五十万でも百万でも、今月だけ何とかなれば、後は自分でやりくりできるんですが」。
千鶴はゆり子の顔を見た。ゆり子の目尻が少し赤くなっていた。本当に追い詰められているということは分かった。しかし千鶴は、その追い詰められ方が、今だけのものではないことも分かった。「ゆり子さん」と千鶴は言った。声の温度を変えないようにした。「今日のお話は、両太郎が会いに来たのではなくて、お金の相談に来たということで良いですか?」 ゆり子の表情がわずかに揺れた。「そんな言い方しなくても」「両太郎だって、おばあちゃんに会いたいのは本当で」「それは信じています」と千鶴は言った。「でも、今日の順番は逆だったと思います」。ゆり子は少し黙った。それから「おばあちゃんは昔からそういうところがありますよね」と言った。言い方はまだ穏やかだったが、その穏やかさの下に硬いものがあった。千鶴は答えなかった。両太郎がテレビに向かって、何かアニメのセリフを繰り返していた。ゆり子が少し体を前に傾けた。「おばあちゃん、両太郎のことを大事に思っているのは知っています。でも、私が生活できなくなったら、両太郎がどうなるか分かりますよね」。声のトーンが変わっていた。柔らかさが消えて、目的のはっきりした言い方になっていた。「もし今後も経済的に無理なら、両太郎と合わせる余裕がなくなるかもしれない。引っ越しも考えているし。そうなったら連絡も難しくなって」。ゆり子はそこで少し間を置いてから「そういうことになってしまうかもしれないということは、分かって欲しいんです」と言った。
千鶴は両太郎の方を見た。アニメを見ている横顔は、今の大人の会話を聞いているのかどうか分からなかった。聞いていて欲しくなかった。千鶴はゆり子に視線を戻した。「両太郎を合わせないということですか」と言った。ゆり子は直接「そう」とは言わなかった。「そういうことになってしまうかもしれないと言っているんです。私だって望んでいるわけじゃなくて」。千鶴は自分の手を見た。膝の上で、指が少し強く組み合わさっていた。七年間、あの子の誕生日に必ずカードを送ってきた。運動会の写真が来るたびに、自分では行けなくても返事を書いた。仙台に住む息子が亡くなってからも、ゆり子との関係を丁寧に続けてきたのは、両太郎のためだった。「いくら必要ですか」と千鶴は言った。ゆり子の表情が少し緩んだ。「百万あれば、今月は何とかなります。残りは分割で返せると思うので」。
千鶴はもうゆり子の顔を見ていなかった。窓の外の曇った空を見ていた。百万円。今の千鶴に出せる金額ではなかった。しかし、出せないとも言えなかった。郵便局の定額預金に百三十万円あった。それは夫が残した保険金の残りで、千鶴が手をつけないようにしていた金だった。
ゆり子は要件が済むと「また連絡します」と言って、両太郎を連れて立ち上がろうとした。両太郎がテレビから目を離した。「もう帰るの?」と言った。子供の声は大人の空気を読まない。千鶴は「両太郎、少しいてくれますか」と言った。ゆり子を見て「もう少しだけ」と言った。ゆり子は了承した。千鶴は両太郎に昆布茶を入れた。「甘くないけど飲めますか」と聞いたら「飲める」と両太郎は言った。本当かどうか分からなかったが、受け取って一口飲んだ。少ししかめっ面をしたが、またコップに口をつけた。「学校は楽しい?」 と千鶴は聞いた。「まあまあ」と両太郎は言った。「算数が難しい」。「どんなところが?」 「掛け算の七の段だけ覚えられない」と両太郎は言った。千鶴は「七の段は難しいですよね。私も子供の頃、七の段が一番後回しになりました」と言った。両太郎は「本当?」と顔をあげた。「本当です」と千鶴は言った。それだけのことだったが、両太郎がコップを両手で持ったまま、少し前に身を乗り出した。その仕草が、千鶴の胸のどこかを静かに押した。
ゆり子が時計を見て立ち上がった。「行くよ、両太郎」。両太郎はランドセルを背負い直しながら、千鶴に「また来る」と聞いた。千鶴は「来てください。七の段、一緒に練習しましょう」と言った。両太郎は「うん」と言った。二人が出ていった後、千鶴は扉が閉まる音を聞いた。玄関に一人立ったまま、しばらく動けなかった。
その夜、千鶴は郵便局の通帳を出した。定額預金の欄を確認した。百三十二万。夫の名前で入れてあった保険金の残りだった。夫の名義ではなく千鶴の名義に移した時、千鶴はこれを自分の老後の最後の砦だと思っていた。百万をゆり子に渡せば、残りは三十二万になる。毎月の遺族年金十二万円と合わせれば、当面の生活は回る。しかし、冷蔵庫が壊れたら、体の具合が悪くなったら。そういう時のための蓄えが、ほとんどなくなる。千鶴はしばらく通帳を持ったまま、畳の上に座っていた。部屋の中が静かだった。夫が生きていた頃は、夜にはテレビの音があった。今の静寂は、その頃の静寂とは種類が違った。両太郎の顔が浮かんだ。七の段が覚えられないと言って、少し前に乗り出してきた顔が。千鶴は通帳を閉じた。
翌日、郵便局に行って百万円を下ろした。封筒に入れて、ゆり子に渡した。領収書も念書も求めなかった。求めても意味がないことは分かっていた。家に帰ってから、千鶴は台所で一人、声を出さないようにして泣いた。泣いている間も、涙が出ているのか出ていないのか分からないような、乾いた泣き方だった。そのことを総一には話さなかった。話せなかった。自分が情けなく見えるかどうかということより、この話をすることで総一を余計な心配の中に引き込みたくなかった。
その日の午後、総一は千鶴に会いに行っていた。千鶴の最寄り駅の近くの、いつもの純喫茶だった。千鶴は今日も時間通りに来た。顔色が少し悪いような気がしたが、総一は直接聞かなかった。二人はいつも通りの話をした。豆腐の話、商店街の話、千鶴がプランターをついに窓から離したという話。会話は自然に続いたが、今日の千鶴の相槌には、どこかわずかな遅れがあった。話を聞いてはいるが、その後ろで別の何かを考えている時の、薄い不在感だった。総一はそれを感じていたが、何も言わなかった。二時間ほどして二人は店を出た。総一は千鶴を駅まで送り、改札の前で別れた。
総一が家に帰り着いたのは、夕方の四時半頃だった。玄関の鍵を差し込んだ時、少し違和感があった。鍵が入りにくかった。それだけだった。しかし、鍵を回した時、内側からの抵抗感がいつもと少し違った。総一はそれを気のせいかと思いながら扉を開けた。室内は特に変わったところがなかった。靴箱の上の位置も、玄関の傘も、台所の方向も、普段と変わりなかった。総一は靴を脱いで廊下に上がった。台所へ向かいながら、それでも何かが引っかかっていた。引き出しの一つが、わずかに開いていた。普段から開けっぱなしにすることはない引き出しだった。総一は引き出しを開けた。中には領収書の束と古い通帳が入っていた。それ自体はそこにあったが、積み方が違った。総一は几帳面な性格ではなかったが、あの束は縦に立てて入れていた。今は横に倒れていた。台所の奥の棚に向かった。薬箱の後ろに、総一が普段から使っている印鑑を入れた小さな箱があった。蓋を開けた。印鑑はあった。しかし、印鑑の下に一緒に入れていた小さな袋。その袋の位置が明らかに違った。総一はその袋を出した。中身を確認した。実印がなかった。総一は床に膝をついた形になった。棚の奥まで手を入れた。見つからなかった。箱の周りも探した。落ちていなかった。立ち上がって台所を出た。奥の和室に向かった。押し入れを開けた。段ボール箱が三つあり、一番下のものを引き出した。登記関係の書類を入れていた箱だった。紐で束ねた書類の束が入っていた。束を手に取って確認した。一番上の書類は土地の登記簿だった。その下に建物の写し、さらにその下に本来あるはずの権利証の封筒があった。封筒は切れ目が破れていた。中を確認した。権利証はあった。しかし、権利証の中に挟んでいた総一の住民票の写しと、印鑑証明書の写しが消えていた。
総一は押し入れを閉めた。和室の畳の上に持っていた書類を置いた。それから座って少し考えた。誰が入ったかは分かっていた。秀樹が印鑑証明書の写しと住民票の写し、そして実印を持ち出した。不動産の仲介を長年やってきた人間が、それをどう使うか。総一は想像した。最悪の場合、総一の名前で誰かの借金の保証人になる書類を作られる。あるいは、第三者に対する担保設定の書類に使われる。そういうことが現実にできてしまうだけの材料が、今の彼の手の中にあった。
総一はすぐに秀樹に電話をかけようとした。スマートフォンを手に取って、止まった。電話をかけて秀樹が「知らない」と言ったら、あるいは開き直ったら。それでこちらに何か対応できることがあるか。今すぐできることの限界は見えていた。それより、秀樹が今何を目的にしているのかを考える方が先だった。秀樹は金が必要だ。金を得るために実印と証明書類を使おうとしている。しかし、一人では書類を作れない。誰かに頼むか、あるいはすでに誰かに話を持ちかけているかもしれない。総一は畳の上に正座したまま、少し天井を見た。この状況で一番考えたくないことを、総一は考えた。秀樹が目的を達成するための一番の近道は、総一本人に圧力をかけることではなく、総一が動かざるを得ない状況を作ることだ。そして、そのための材料として、秀樹はすでに千鶴の存在を知っている。
総一は立ち上がった。電話を手に取り直した。今度は秀樹ではなく、千鶴の番号を探した。しかし、電話をかけようとして、また止まった。千鶴に何を言うか。秀樹が自分の甥で、書類を盗んだかもしれないというのか。千鶴を心配させることが目的ではない。それに、今の段階では、秀樹が書類を使って何かをした事実はまだない。総一は電話を置いた。台所に行って、水を一杯飲んだ。夕方五時になった。タバコに火をつけた。しかし、今日は縁側ではなく、台所の小さな窓を少し開けて、その前に立って吸った。秀樹のことを、今夜一晩だけ考えてみることにした。動くのは、考えてからにする。今の総一にできることは、焦らないことだけだった。
同じ夜、秀樹は古い知り合いに電話をかけていた。不動産業界の外側にいる人間で、正規の取引では扱えないような案件を処理することで知られている人物だった。秀樹はその男に、手持ちの書類の話をした。電話の向こうの男は、実印と印鑑証明の写しがあれば、ある種の金融商品の保証人として名前を使うことができると言った。実際の登録には本人確認が必要なケースもあるが、最近は緩くなっているところもあるとも言った。秀樹は全部を信じたわけではなかった。しかし、それがどれほどのリスクを伴うことかについては、もう深く考えないようにしていた。三百万でも二百万でも、今月中に手元に入らなければ、来月を乗り越えられない。それだけが今の現実だった。
翌日の朝、秀樹は手持ちの書類と印鑑を封筒に入れ、その男の事務所に持っていった。事務所は古いビルの二階にあり、看板には小さく「不動産コンサルティング」と書いてあった。男は書類を見て「これで組める話がある」と言った。詳細は一週間後に話すと言った。秀樹は了解して引き上げた。帰り道、秀樹は少し足が重かった。これが後戻りのできない方向に進んでいることは、自分でも分かっていた。ただ、後戻りができる状態はとっくに過ぎていた。
数日後の土曜日の夕方、総一は千鶴を自分の家に招いた。千鶴の方から「一度ちゃんとしたご飯を作りたい」と言い出したのだった。千鶴は市場でいくつかの食材を買ってきた。豆腐、薄切りの豚肉、春菊、しめじ、白菜。総一の台所で、鍋をつついた。テーブルの上の鍋は小さく、土鍋ではなくアルミの普通の鍋だったが、白い湯気が上がると、台所の空気が少し変わった。千鶴は手際よく材料を入れていった。総一は向かいに座って、材料が入る順番を見ていた。「白菜が先ですか」と聞いた。「根元の方を先に。葉の部分は火が通りやすいので」と千鶴は言いながら、白菜の根元を鍋の縁に添わせた。「なるほど」と総一は言った。一人で鍋をすることはほとんどなかった。するとしても、袋麺に野菜を一種類入れる程度だった。
鍋の用意が整うまでの間、二人はほとんど何も言わなかった。しかし、黙っていることにならなかった。台所に二人いて、湯気が上がって、その間に沈黙があっても、その沈黙が寂しくなかった。総一はその感覚をどこかで言葉にしようとしたが、うまく形にできなかった。ただ、今この台所にある空気が、以前の台所とは違うということは分かった。
鍋を食べ始めて少し経った頃、千鶴が取り皿に豚肉を取り分けた。総一の皿に置いた。総一は「ありがとうございます」と言った。千鶴は自分の鍋の前で箸を動かしながら、少し間を置いてから「松崎さん、最近何か気になることはありますか?」と言った。総一は箸を止めた。一瞬だけ止めて、また動かした。「なぜですか」と聞いた。「なんとなく。いつもより少し遠くを見ているような気がして」。総一は豚肉を一口食べた。「少し、身内のことで面倒なことがあって」と総一は言った。「身内というのは?」 と千鶴は聞いた。「甥です」と総一は言った。それ以上は言わなかった。千鶴も、それ以上は聞かなかった。二人は鍋を続けた。春菊を入れた。葉が柔らかくなった。鍋ではないから、焦げつきが心配で、総一は時々立ち上がって火加減を見た。その度に、千鶴が「ありがとうございます」と言った。総一の箸が、少し震えていた。ほんのわずかだった。鍋の湯気のせいかもしれない。あるいは、違うものかもしれない。千鶴はそれを見ていたが、何も言わなかった。千鶴はしめじを一つ、総一の皿に入れた。「しめじは好きですか」と聞いた。「好きです」と総一は言った。「よかった」と千鶴は言った。その短いやり取りの間に、総一は今夜のこの台所を、できる限り長く記憶しておこうと思った。意識してそう思ったというよりも、身体がそう思ったという方が正確だった。
翌朝、総一は郵便受けを開けた。普段はほとんど何も入っていないが、今日は白い封筒が一通入っていた。差出人は、見たことのない社名だったが、住所を見ると都内の番地だった。台所に戻って封筒を開けた。中には三枚の書類が入っていた。最初の一枚は「ローンの保証人登録確認書」と書かれていた。氏名欄に松崎総一と書いてあり、印鑑がついていた。総一が押した覚えのない印鑑だった。次の一枚は「融資金額の明細」だった。金額の欄を見た。千五百万円と書かれていた。三枚目は返済スケジュールの表だった。月々の支払い開始は翌月からと書かれており、もし初回支払いに遅延が生じた場合、担保として提供された不動産の差し押さえ手続きを開始する旨が、小さな字で書かれていた。担保の欄には、土地及び建物の住所が書かれていた。総一の家の住所だった。
総一は三枚の書類をテーブルの上に置いた。それから、椅子の背もたれに体を預けた。窓の外から、通りを走る自転車の音が聞こえた。どこかで犬が一斉に吠えた。台所の時計が秒針の音を立てていた。総一はテーブルの上の書類をしばらく見ていた。それから、両手を顔の前に持ってきて、目を覆うように当てた。声は出なかった。そのまま数十秒動かなかった。手を下ろして、書類を再び見た。千五百万。自分の家が担保になっている。自分が押した覚えのない印鑑で。秀樹がやったということは分かっていた。分かっていたが、これほど早く、これほどの金額になるとは思っていなかった。総一は立ち上がって窓を開けた。冷たい外の空気が台所に入ってきた。深く一回、息を吸った。どうするかはまだ分からなかった。ただ、今すぐ崩れるわけにはいかないとだけ分かっていた。
通知書が届いてから三日間、総一はその書類をテーブルの上に置いたままにした。片付けなかったのは、見たくないからではなく、目の届くところに置いておくことで、現実から目をそらさないためだった。朝起きると、まずその書類を見た。千五百万という数字と、自分の家の住所と、自分が押した覚えのない判子の跡。三日間、毎朝それを見ながらコーヒーを飲んだ。二日目に、総一は区役所へ行った。印鑑登録の窓口で、実印の再登録について聞いた。担当者は手順を丁寧に説明してくれたが、すでに実印として登録された判子を第三者が使用して作成された書類について、区役所ができることは限られていると言った。「民事の問題として、当事者間で解決するか、弁護士に相談するかになります」と言われた。総一は「そうですか」と言って窓口を離れた。廊下を歩きながら、「弁護士」という言葉を頭の中で転がした。弁護士に頼めば費用がかかる。費用を出す金はある。しかし、問題は金だけではなかった。秀樹は亡き兄の息子だった。兄の正夫は、総一が若い頃に苦しい時期を一緒に支えた人間だった。その兄の息子を訴えることが、どういうことか。秀樹が捕まっても、書類はすでに動いている。家が戻ってくるかどうかは、別の話だった。
三日目の夜、総一は縁側に腰を下ろしてタバコに火をつけた。煙を吸いながら、この家が自分のものでなくなる可能性について、初めて落ち着いた頭で考えた。この家は六十五年の家だ。総一が十代の頃から住んでいた。店をここで開いて、ここで閉めた。外壁の痛みも、廊下の軋みも、台所の水道の少し遅い流れも、全部知っていた。この家から出ていく自分の姿は、うまく想像できなかった。しかし、想像できないことと、起こらないこととは別だった。タバコを吸い終えて、総一は縁側から立ち上がった。台所に戻って水を飲んだ。それから手帳を出して、千鶴の番号を見た。書けなかった。今夜ではなかった。
その翌日の午後、総一は千鶴と近所の公園で会った。特に約束はしていなかったが、千鶴が近くに用事があるという話を聞いていたので、総一の方から連絡した。公園は昼過ぎで平日だったため、人は少なかった。ベンチに二人で並んで座り、千鶴が買ってきたという饅頭を食べた。皮が薄く、中の餡が甘すぎなかった。「これはうまいですね」と総一は言った。「この辺りの和菓子屋さんで、昔からある店なんです」と千鶴は言った。普通の午後だった。少し風があって、公園の外れにある桜の木が葉を揺らしていた。花はとっくに散っていたが、若い緑の葉が光を受けていた。
そこへ、女の声が飛んできた。「おばあちゃん、こんなところにいたんですか?」 総一と千鶴が同時に振り向いた。公園の入り口から、四十歳前後の女性が早足でこちらへ向かってきた。派手さはないが、全身に力の入った格好をしていた。肩にかけたバッグを揺らしながら、目がまっすぐ千鶴に向いていた。千鶴の体が、ほんの少し硬くなったのが、総一には分かった。「ゆり子さん」と千鶴が言った。声の温度が、今までと少し違った。相沢ゆり子は二人の前で立ち止まった。総一を一瞬見て、また千鶴に視線を戻した。「聞いてもいいですか?」 とゆり子は言った。聞くと言いながら、聞く前にすでに答えを決めているような声だった。「先日のお金、本当に両太郎のために使えると思っていたんですか? それとも」と言いかけて、総一の方を見た。「こういう方のために取っておくつもりだったんですか?」
千鶴は「ゆり子さん」ともう一度言った。今度は少し低い声だった。しかし、ゆり子は止まらなかった。声が上がっていた。周りに人がいないわけではなかった。公園の向こうのベンチに、老人が一人いて、こちらを見ていた。「孫は腹をすかせてるのに、おばあちゃんはここで饅頭食べてるんですね。知らない男の人と並んで、恥ずかしくないですか? いい年して。恥ずかしいと思わないから、そんなことができるんでしょうけど」。ゆり子の言葉が、公園の空気に広がった。千鶴はベンチの上で背筋を伸ばしたまま、唇を一度だけ動かした。しかし、言葉は出なかった。顔から色が引いていくのが、総一には分かった。
総一は立ち上がった。「少し落ち着いてください」と言った。声は低く、大きくはなかった。ゆり子が総一を見た。「あなたには関係ない話です。おばあちゃんと私の話ですから」。「公共の場所で大きな声を出しているのは事実です」と総一は言った。「場所を変えて話すか、今日のところは日を改めるか、した方がいい」。ゆり子は総一の顔を二秒ほど見た。それから「何なんですか? あなたは」と言って、総一の胸の辺りを両手で押した。大きな力ではなかったが、総一は一歩よろめいた。千鶴が「ゆり子さん、やめてください」とベンチから立ち上がった。ゆり子は押した手を引いた。自分が今何をしたか、その事実に少し驚いたような表情だった。しかし、すぐに顔を引き締めて「また連絡します」と千鶴に言い、来た方向に歩いていった。足が早かった。公園の出口を曲がってから、姿が見えなくなった。
公園にまた静けさが戻った。総一はベンチの前に立ったままだった。胸の辺りを押された感覚がまだあった。痛みではなく、ただ触れられた事実の残りようなものだった。「大丈夫ですか」と千鶴が言った。総一の方を心配する言葉だった。「私の方は大丈夫です」と総一は言った。「黒川さんの方は」。千鶴は答えなかった。ベンチに座り直して、膝の上に両手を置いた。指が微かに動いていた。口を固く閉じていた。総一は隣に座った。饅頭の袋がベンチの上に残っていた。風が少し吹いて、袋の端が揺れた。二人はしばらく何も言わなかった。少しして、千鶴が小さく息をついた。「すみません」と言った。「松崎さんに、こういう場面を見せてしまって」。「謝ることではありません」と総一は言った。千鶴は、少し前にお金の相談があって渡してしまったんです、と言った。「それが帰ってこないことへの怒りが、ああいう形になったんだと思います」。総一はそれを聞いて、少し前からの千鶴の様子が頭の中で繋がった。顔色が悪かったこと、相槌にわずかな遅れがあったこと。「渡したんですね」と総一は言った。「両太郎のことがあるから」と総一は言った。千鶴は答えなかった。それが答えだった。総一は饅頭の袋を手に取って、ベンチの端に置いた。「あなたのことを恥ずかしいと言った言葉は、間違っています」と言った。「あなたは何も恥ずかしいことをしていない」。千鶴は総一の方を見なかった。前を向いたまま「ありがとうございます」と言った。声が少しかすれていた。
その夜、総一の家に電話がかかってきた。固定電話だった。番号は非通知だった。出ると、男の声だった。聞いたことのない声だった。落ち着いた声で、威圧的な言い方はしていなかったが、言葉の内容は明確だった。「先日お送りした書類の件ですが、ご確認いただけましたか」と男は言った。「保証契約の件です。来月から返済が始まりますので、もし初回に遅延が生じますと、担保物件の処分手続きに入ることになります」。総一は「私はそんな保証をした覚えはない」と言った。声が低くなるのを意識して抑えた。「書類上は、お名前と実印が揃っております」と男は言った。「そちらでの確認事項については、私どもには関与できませんが、手続き上は正規のものとして扱われます」。「誰がその書類を持ってきたんですか」と総一は聞いた。男はその質問には答えなかった。それから、こう続けた。「最近、お連れの方がいらっしゃるようですが。ご高齢の女性の方ですね。万が一返済の目途が立たない場合、代替の手段として、その方の協力をいただくことも、選択肢の一つになるかもしれません。もちろん、そうならないようにお願いできれば、こちらも望ましいと思っていますが」。総一は受話器を持ったまま、一秒だけ止まった。「どういう意味ですか?」 と総一は言った。声が変わっていた。「そのままの意味です」と男は言った。「ご検討ください」と言って、電話が切れた。総一は受話器を置いた。台所のテーブルに手をついた。掌に、冷たいテーブルの感触があった。千鶴のことを言った。確認した目的で言ったわけではなく、こちらが動くための圧力として使ってきた。千鶴の存在を、あの男たちが知っている。それが今夜の電話の意味だった。
その夜、総一は眠れなかった。布団の上に横になって、天井を見ていた。千鶴に危険が及ぶかもしれない。具体的にどういうことができるかは分からなかった。しかし、あの男が千鶴の存在を知っているという事実だけで、十分だった。総一は考えた。千鶴に今の状況を全部話すべきか。話せば千鶴は心配するだろう。心配だけで済めばいいが、あの男たちが千鶴に接触しようとした場合、千鶴が何も知らない方が危ない場面もある。しかし、話せば千鶴を今以上にこの問題に巻き込むことにもなる。もう一つの考えが浮かんだ。千鶴と距離を置くことだった。自分から離れれば、千鶴が標的として使われる意味がなくなる。あの男たちが千鶴を圧力の材料にしようとしているのは、総一が千鶴を大事にしているからだ。総一と千鶴の間に何もなければ、千鶴を引き合いに出しても意味がない。総一はその考えを頭の中で何度も裏返した。千鶴と距離を置く。それは、今ある唯一の温かさを、自分の手で壊すことを意味していた。しかし、千鶴が理由もなく突然巻き込まれることと、総一が自分の意思で関係を断ち切ることは、どちらがより千鶴を傷つけるかという比較ではなかった。問題は、千鶴の安全を守れるのはどちらかという一点だった。
総一は午前三時頃、やっと一つの考えに落ち着いた。千鶴に会って、関係を終わらせる。理由は話さない。話せば千鶴がその理由を解決しようとする。それは、あの女性の性格から見えていた。だから理由を話さず、ただ、冷たくさせる。そうすることで千鶴が傷つくことは分かっていた。分かっていて、それしかないと総一は思った。
三日後、総一は千鶴に連絡して、いつもの純喫茶で会う約束をした。当日、総一は家を出る前に鏡を見た。久しぶりに見た自分の顔は、三日間まともに眠れていないせいで、目の下が暗くなっていた。服は普段より古いものを選んだ。しわのある、普段は外に着ていかないような上着を引っ張り出した。靴下は、合っていないものにした。意識してそうした。
喫茶店には、千鶴が先に来ていた。いつもと同じ窓際の席で、ミルクティーの前に座っていた。今日の千鶴は、薄い茶色のカーディガンで、髪が綺麗にまとめられていた。総一の顔を見て、軽く頷いた。総一は向かいに座った。コーヒーを頼まなかった。千鶴が少し不思議そうな顔をした。「何も頼まないんですか」と言った。「今日は、少しだけ話があって」と総一は言った。声を低く保った。感情が乗らないように意識して、平らにした。千鶴は総一の顔を見た。何かを読もうとしているような目つきだった。「どんな話ですか」と言った。総一は千鶴の目を見た。見ながら、言わなければならないことを頭の中で確認した。正確に言わなければ伝わらない。しかし正確に言えば言うほど、傷が深くなる。それでも、言わなければならなかった。
「もう、会うのをやめたいと思っています」と総一は言った。千鶴の表情が止まった。「センターで最初に会ってから、少し考えていたんですが」と総一は続けた。「私には、誰かと付き合うということが向いていないようです。一人の方が楽だということが、改めて分かりました」。千鶴はしばらく総一の顔を見ていた。「急に、どういうことですか」と言った。声は低く、問い詰める調子ではなかったが、意味を確認しようとしていた。「急ではないです」と総一は言った。「少し前から感じていたことです」。「少し前というのは、いつからですか」と千鶴は言った。総一は答えなかった。その質問に答えれば、公園の日のこと、書類の話、電話のことが出てくる。それを言えなかった。千鶴は総一の沈黙を見ていた。「何か、あったんですか」と言った。今度は確認ではなく、分かっているから聞いているような声だった。「何もないです」と総一は言った。嘘だった。今まで生きてきた中で、これほど明確な嘘をついたことは、数えるほどしかなかった。「松崎さん」と千鶴は言った。総一は千鶴の目を見た。その目に何かがあった。非難ではなかった。ただ、総一を見ていた。見ていて、見えているものに対して、自分なりの判断をしようとしていた。それが分かったから、総一はもう一押しした。これ以上、千鶴に考える余地を与えてはいけなかった。「あなたのことは、面倒だと思っていました。最初から」と総一は言った。「収入のことも、ご家族のことも、色々と複雑で。私の年齢では、そういった事情を引き受けるのが、正直しんどい。それが分かりました。今まで付き合っていただいたことは感謝しています。ただ、もうここで終わりにしたい」。
千鶴はしばらく何も言わなかった。テーブルの上のミルクティーを見ていた。飲まなかった。指でコップの縁に触れて、それから手を膝の上に戻した。「分かりました」と千鶴は言った。ただ、その三文字だった。声の震えは、外からは分からないほどわずかだった。しかし、総一には分かった。千鶴は椅子から立ち上がった。バッグを手に取り、総一の方を向いて、静かに頭を下げた。礼儀正しく、丁寧に。まるで仕事の打ち合わせが終わったかのような、しかしその動作の一つ一つに何か重いものが載っているような、そういう頭の下げ方だった。「今までありがとうございました」と言った。それから、前を向いて、テーブルの間を歩いて出口に向かった。総一は席についたまま、その後ろ姿を見ていた。小さな背中が、カーディガンの薄い布の中で、一度だけわずかに揺れた。気づかなければ気づかないような、ほんの小さな揺れだった。扉が開いて、千鶴が外に出た。扉が閉まった。喫茶店の中はそのままだった。BGMが流れていた。総一は両手をテーブルの上に置いた。それから、掌を顔の前に持ってきた。声は出なかった。指の間に息を吐いた。細く、長く。そのまま、しばらくそうしていた。
喫茶店を出たのは、それから十分後だった。外の空気は冷たかった。通りには人がいた。向こうから、老夫婦が歩いてきた。二人は並んでいて、どちらも前を向いていて、互いのことを特別意識している風でもなかった。ただ並んでいた。総一は、その二人が自分の横を通り過ぎるまで、立ち止まっていた。それから歩き出した。千鶴の「分かりました」という声が、歩きながら頭の中で繰り返された。あの三文字の中に何が入っていたか。怒りか、悲しみか。それとも、総一が隠しているものを見抜いた上での了承か。総一には判断できなかった。面倒だと思っていたという言葉を、自分が言ったことを思い出した。千鶴に向けて言った言葉だった。この七十年で、あれほど嘘の言葉を言ったことはなかった。釘の話を聞いてくれた人間に向けて、一番遠い言葉を選んで放った。それが正しかったかどうかを考えることは、今はできなかった。
家に帰ってから、五日が経った。秀樹が来た。今回は一人ではなく、もう一人、スーツ姿の若い男を連れていた。玄関先で、その男が書類を広げた。土地と建物の差し押さえに関する通知書だった。秀樹は総一の顔を見なかった。隣に立ったまま、黙っていた。スーツの男が手順を説明した。「すでに手続きは進んでおり、一週間以内に退去していただく必要があります」と言った。声に感情はなかった。総一は書類を受け取った。確認した。内容は通知書に書いてあった通りだった。秀樹がその間ずっと、玄関先の床を見ていた。顔をあげようとしなかった。罪悪感があるのか、気まずいだけなのか。総一には判断できなかった。「わかりました」と総一は言った。スーツの男に向かって言った。二人が帰っていく足音が遠くなって、玄関が静かになった。総一は台所に戻って、椅子に座った。退去まで一週間。持って出られるものは限られる。この家に、六十五年分の時間があった。台所の引き出しの中身、押し入れの段ボール、縁側の古い灰皿。それらのほとんどは、持って出ることはできなかった。
翌日から、総一は少しずつ荷物を整理し始めた。必要なものと不要なものを分けた。不要なものの方が、圧倒的に多かった。それは当然だった。七十年分の不要なものが、二十畳にも満たない家に詰まっていた。退去の三日前、総一は近所の清掃業者に電話して、引き取れないものを処分してもらうよう頼んだ。業者が来て、テーブルや棚を運び出していった。台所が空になった。和室が空になった。部屋が広くなるほど、古い壁の染みや天井の木目がはっきり見えた。
退去前日の夜、総一は空になった部屋に一人で座った。持って出る荷物は、布の鞄一つ分だった。財布と保険証と手帳と、着替えが二日分。それだけだった。縁側に行って、最後のタバコを吸った。煙が夜の空気に溶けた。庭の向こうに、隣の家の屋根が見えた。向こうの窓に明かりがついていた。誰かの夜が、そこにあった。タバコを吸い終えて揉み消した。灰皿を縁側の隅に残した。持っていかなかった。
当日、総一は鍵を玄関の内側に置いて、外に出た。扉を閉めた。振り返らなかった。夕方の路地は静かだった。総一は布の鞄を肩にかけて、歩き出した。どこへ行くか決めていなかった。決める必要があるとは、まだ思えなかった。しばらく歩いて大きな交差点を渡り、高架の下を通った。高架の影に入ると、街灯の光が届かなくなった。風がコンクリートの壁の間を抜けてきた。高架の下の歩道に、段ボールを敷いている男がいた。総一より年上に見えた。毛布を肩にかけて、目を閉じていた。眠っているのか、眠れていないのか、分からなかった。総一はその男の少し前で立ち止まった。高架の柱に背を預けた。下に段ボールはなかった。コンクリートの地面だった。鞄を足元に置いて、柱に体を預けた。夜風が吹く度に、高架の上を電車が通った。振動が柱を伝ってきた。総一はその振動を背中で感じながら、目を開けていた。遠くに、町の明かりが見えた。東京の夜は暗くならなかった。空が鈍い色に光っていた。総一は鞄の持ち手を足先で抑えた。手帳のことを思い出した。胸のポケットに入っていた。取り出して開いた。千鶴の電話番号が書いてあるページを開いた。街灯の光が届かないため、字がはっきり見えなかった。しかし、数字の形は、暗い中でも輪郭だけは見えた。総一は手帳を閉じた。胸のポケットに戻した。高架の上をまた電車が通った。振動が来た。総一はコンクリートの壁に背を預けたまま、東京の夜の光を見ていた。この光の中のどこかで、千鶴がまだ今夜を過ごしているはずだった。プランターのほうれん草が、窓から離した場所で、どうなっているか。総一には知る方法がなかった。
高架で最初の夜を過ごしてから、三週間が経った。総一は今、駅から二つ離れた場所にあるネットカフェに通っていた。一泊パックで朝まで個室に入り、日が開けると外に出た。荷物は布の鞄一つで、その中身は着替えが一日分しかなかった。財布の中は、少しずつ減り続けていた。食事は近くのコンビニで、値引きのシールが貼られた商品を選んだ。百円以下のおにぎり、期限の近いサンドイッチやパン。それを一日に一度か二度、人目の少ない時間に買った。買う時、レジの若い店員の視線を避けた。視線を避けることに、総一は最初は抵抗があったが、三週間経つうちに、それが自然な動作になっていた。
空き缶を集めるようになったのは、二週間目からだった。最初は偶然、公園のゴミ箱の横に転がっていた空き缶を拾ったことがきっかけだった。近くのスーパーに買い取りの機械があることを、ネットカフェで隣の席に座っていた男から教えてもらった。空き缶十本で、数十円になった。一日に集められる数は限られていたが、やることがあるという感覚が、いくらか気持ちを支えた。体の疲れは蓄積していた。眠れない夜が続いた。目が覚めるたびに、天井の低い個室の壁を見た。その壁が、毎夜少しずつ近くなっているような気がした。しかし、総一が最も消耗していたのは、体ではなかった。何かをしようとする気力が、三週間でほぼ消えていた。空き缶を集めることは続けていたが、それは生きるための行動というより、体が覚えた習慣に近かった。
ある朝、駅のホームを歩いていた時、総一は自分が電車の来る方向をずっと見ていることに気づいた。特に理由はなかった。ただ、立っていた。しばらくして、後ろから人がぶつかってきて、総一は我に返った。白線の内側に下がって、次の電車が来るのを待った。乗って、また降りた。どこへ行くわけでもなかった。その夜、ネットカフェの個室で、総一はしばらく壁を見ていた。手帳が鞄の中にあることは分かっていた。取り出すことはしなかった。
総一と別れてから、千鶴は三日間、ほとんど外に出なかった。冷蔵庫の中にあるもので食事を作り、プランターの水やりをして、テレビをつけたまま小さくして座っていた。総一の言葉を、何度も頭の中で繰り返した。「面倒だと思っていた」という言葉。「複雑な事情を引き受けるのがしんどい」という言葉。千鶴は長年、窓口で働いてきた。人の言葉と、その言葉の後ろにあるものを、職業的に読み続けてきた人間だった。「窓口って、怒っている方の本当の気持ちは別のところにあることが多くて」と総一に話したのは、嘘ではなかった。だから、総一の言葉が引っかかった。あの言葉は、今まで総一と話して積み重ねてきた中にある人間から出てくる言葉ではなかった。
四日目の朝、千鶴は近くの図書館へ行った。目的は本ではなかった。図書館のパソコンで、不動産登記の情報を調べた。総一の家があった住所を入力した。窓口の仕事で覚えていたものだった。画面に出てきた情報を見て、千鶴はしばらく動かなかった。総一の家の土地と建物に、抵当権が設定されていた。設定日は最近で、権利者の名前は総一ではなかった。千鶴には法律の専門知識はなかったが、この情報が何を意味するかは、窓口で相談を受けてきた経験から理解できた。帰り道、千鶴は商店街を歩きながら考えた。総一が別れを告げてきた理由と、この登記情報が繋がった。総一は何かに追い詰められていた。そして、その何かが千鶴に関係することを心配して、わざと突き離すような言葉を選んだ。その判断が合っているかどうか、千鶴には確信はなかった。しかし、合っていないと思う根拠も、特になかった。
千鶴は家に帰って、ゆり子に電話をかけた。着信拒否されているかと思ったが、繋がった。千鶴は手短に話した。「両太郎のことについては、今後、お金を渡さない形で、直接連絡を取る方法を考えたい」と言った。ゆり子が何か言いかけたが、千鶴は「今日はそれだけです」と言って、電話を切った。切った後、手が少し震えていた。震えたまま、千鶴はコートを取って外に出た。
千鶴がまず向かったのは、総一の家があった路地だった。路地の奥に、総一の家が見えた。しかし、玄関の様子が違った。表の郵便受けが開いたままになっていた。表札はあった。しかし、窓に人の気配がなかった。カーテンが引かれたままで、内側の光がなかった。千鶴は玄関の前まで行って、インターフォンを押した。音がしたが、応答はなかった。もう一度押した。やはり応答がなかった。路地を出て、近くのタバコ屋の前に立っていた老婆に、さりげなく話しかけた。「この辺りに、総一さんという方が住んでいたと思うのですが、最近どうされているかご存知ですか」と言った。老婆は少し考えてから「ああ、松崎さんね。先週、業者さんが来て荷物を出していったよ。引っ越されたんじゃないかね」と言った。千鶴はその場で少し立ち止まった。それから「ありがとうございます」と言って、歩き出した。
次に千鶴が向かったのは、総一の家の周辺から徒歩で行ける範囲のネットカフェだった。この辺りに長期で泊まれる安い施設があるとすれば、という前提で、スマートフォンで検索しながら一軒ずつ確認した。最初の一件は、店員に事情を話したが、個人情報は教えられないと言われた。当然だった。千鶴は諦めて出た。二件目も同じだった。三件目の店に入った時、千鶴は別の方法を試した。総一の特徴を伝えて、もし見かけたら、本人に「黒川から電話があった」と伝えてもらえないかと頼んだ。店員は少し困った顔をしたが、「もし来たら言っておきます」と言った。四件目、五件目も回った。足が疲れてきた。しかし、止まる理由がなかった。高架の下も見た。毛布を持った人が数人いたが、総一ではなかった。公園のベンチも回った。見つからなかった。夜になって、千鶴は一度帰宅した。足の疲れと、見つからなかったことの重さが、同時にのしかかってきた。台所で水を飲みながら、今日だけでは足りない。もう少し範囲を広げる必要があると思った。
翌日も、千鶴は出た。今度は路線を変えて、一駅ずつ降りながら調べた。三日目の午後、六件目のネットカフェを出た時、千鶴のスマートフォンに着信があった。見知らぬ番号だった。出ると、店員の声だった。先日、千鶴が伝言を頼んだ店だった。「先日お話されていた方ですが、今日いらっしゃっています」。千鶴は急いで戻った。店に入ると、店員が奥を示した。千鶴は番号札を受け取って、その番号の個室に向かった。ドアをノックした。「松崎さん」と言った。中から音がした。少し間があって、ドアが内側から開いた。総一が立っていた。三週間前と比べると、頬が落ちていた。上着にしわが増えていた。目の下が暗かった。鞄を持ったまま、ドアを開けた状態で立っていた。千鶴の顔を見て、動かなかった。千鶴は総一の顔を見た。玄関先で、また突き離されるかもしれないと思っていた。しかし、今の総一の顔には、突き離す力が残っていなかった。「出ましょう」と千鶴は言った。総一は何も言わなかった。しかし、鞄を持ったまま、ドアから出てきた。二人で店を出た。外の空気が冷たかった。通りに出て、千鶴は少し先にあるファミリーレストランに向かった。総一はその後ろをついてきた。
ファミリーレストランは夕方の時間で、家族連れが何組かいた。千鶴は奥の、人目の少ないテーブルに総一を連れて行き、向かいに座った。総一はメニューを開かなかった。テーブルの上に両手を置いたまま、下を向いていた。千鶴は飲み物を二つ頼んだ。総一の分はコーヒーにした。しばらく何も言わなかった。コーヒーが来てから、千鶴が口を開いた。「登記を調べました」と言った。「先週、図書館で」。総一は顔をあげた。千鶴の顔を見た。「家が抵当に入っていることが分かりました」と千鶴は続けた。「それから、総一さんが家を出たことも聞きました。近所の方に」。「甥御さんのことですか」と千鶴は言った。総一はコーヒーのカップに視線を落として、それから顔をあげた。「どこまで分かっていますか」と言った。声がかすれていた。三週間あまり、人と話していなかったせいかもしれなかった。「詳しいことは分かりません」と千鶴は言った。「ただ、総一さんが喫茶店であの日言ったことが、本当のことではないということは、分かっています」。総一はカップを持ち上げた。一口飲んだ。「あの男たちが」と総一は言い始めた。言葉が出てくるのに、少し時間がかかった。「あなたのことを、材料として使うと言ってきました。私のことを動かすために。だから、距離を置けば、あなたに関係がなくなると思って」。千鶴はそれを聞きながら、総一の顔を見ていた。「私は、あなたが最初に言ったように、面倒だと思っていたわけではないです」と総一は言った。「それは嘘でした」。「知っています」と千鶴は言った。総一は少し黙った。それから「申し訳なかった」と言った。千鶴はすぐに返さなかった。コーヒーを一口飲んでから「謝ることも大事ですが、今は別の話をしましょう」と言った。「別の話というのは、これからのことです」と千鶴は言った。声が落ち着いていた。千鶴がバッグから封筒を一つ出した。テーブルの上に置いた。「区役所の相談窓口で、司法書士の先生を紹介してもらいました」と千鶴は言った。「先週会いに行って、詳しい話を聞きました。実印と印鑑証明を本人の同意なく持ち出して、第三者の債務の保証人として使用した場合、警察上の問題と民事上の問題の両方が発生し得ると言われました。本人が知らなかったことを証明できれば、保証契約自体が無効になる可能性がある」。「いつから、それを」と総一は言った。「あなたを探し始めた頃から、並行して動いていました」と千鶴は言った。「証明するためには」と総一が言いかけると、「書類があります」と千鶴は言った。「甥御さんが、某所の事務所に持ち込んだという話を、その司法書士の先生が調べてくれました。先生の知り合いの弁護士の方が、すでに警察に相談の窓口を開いてくれています。署名や実印の使用状況に矛盾がある案件として、動いてもらえることになりそうだと」。「そこまで動いてくれたんですか」と総一は言った。「先生が熱心な方で」と千鶴は言った。それだけ言って、続きは足さなかった。
その翌日、松崎秀樹は警察からの任意の事情聴取に応じた。自分に有利になると踏んで応じたようだったが、書類の矛盾と取引相手の証言が積み重なった。秀樹はその場では否定したが、数日後、改めて呼び出されて、事情が変わった。秀樹が書類の件について認めたのは、それから一週間後だった。保証契約は、本人の意思能力の欠如と書類の不正使用を根拠として、向こうの申し立てが行われた。手続きには時間がかかった。すぐに家が戻るわけではなかった。しかし、少なくとも総一を追い続ける根拠が崩れた。秀樹がその後どうなるか、総一にはまだ分からなかった。分からなくていい部分もあった。秀樹はもう、総一の日常の中にいる人間ではなかった。
千鶴の側でも、一つの整理がついた。ゆり子に電話をしてから一週間後、ゆり子から折り返しがあった。予想外のことだった。ゆり子は開口一番、謝った。公園での言葉について、言いすぎたと思っていたと。千鶴は黙って聞いた。ゆり子は自分が消費者金融から借り直して、カードの返済を整理することにしたと言った。千鶴に返せる目途が立つまで時間がかかるが、返すつもりはあると言った。千鶴は「それはあなたのペースで構いません」と言った。両太郎との連絡については、ゆり子が月に一度は電話させますと言った。千鶴は「ありがとうございます」と言った。電話を切った後、千鶴はしばらくスマートフォンを手に持ったままでいた。ゆり子が変わったわけではないと思った。ただ、少し余裕ができたのかもしれない。人間は、余裕がなくなると、一番近くにいる人間に向かう。千鶴はそれを窓口で何度も見てきた。
それから二週間後、両太郎から電話があった。ゆり子が横についているのか、少し緊張した声だった。「おばあちゃん、元気ですか」と言った。千鶴は「元気ですよ」と言った。「両太郎君は?」 「まあまあ」と両太郎は言った。「七の段、少し覚えた」。千鶴は「それは良かった」と言った。「難しいところが、少しは分かってきたんです」と両太郎は言った。「今度、教えてください」と千鶴は言った。「うん」と両太郎は言った。その電話を切ってから、千鶴は少しだけ泣いた。今度は、台所で声を出さないようにする泣き方ではなかった。部屋の中に一人で座って、静かに泣いた。泣き終わってから、顔を洗った。
それから二ヶ月後、総一は今住んでいる場所について、以前と比べれば落ち着いて話せるようになっていた。総一が住んでいるのは、木造の古いアパートの一室だった。六畳一間で、台所は共有ではなかったが、風呂はなく、近くの銭湯を使う前提の物件だった。家賃は月に三万五千円だった。生活保護の申請を、千鶴が紹介してくれた区の相談窓口で行った。審査に数週間かかったが、受給が決まった。これで当面は回る。千鶴のアパートは、同じ路線の一駅先にあった。千鶴のアパートも、決して広くはなかった。一LDKで、日当たりは良くなかった。しかし、前の家より家賃が安く、貯金の残りを少し守ることができた。
二人の部屋は、壁を隔てた隣同士ではなかった。一駅の距離があった。そのことについて、二人は一度だけ話した。「同じ場所に住めれば」と総一が言いかけた時、千鶴が年金の問題がある、と言った。事実婚と認定される実態があれば、打ち切りになる可能性がある。総一は「そうでしたね」と言った。二人はしばらく黙った。それで話は終わった。籍を入れることも、話さなかった。話す意味が、今はなかった。籍を入れれば、千鶴の遺族年金が打ち切られる。今の二人に、その穴を埋められる余力はなかった。だから、入れなかった。入れないまま、続けた。
週に二度か三度、総一が千鶴の部屋に行くか、千鶴が総一の部屋に来るかした。どちらかが食事を作り、二人で食べた。話す時もあれば、テレビを小音のまま並んでいる時もあった。総一の部屋には縁側がなかった。タバコを吸う場所がなくなったので、近くの公園のベンチで吸うようになった。一日一本の習慣は続けていたが、最近は半分吸う前に揉み消すことも増えた。半分吸えば十分な日もあった。
ある朝、総一は六時前に目が覚めた。部屋の中が静かだった。薄い壁の向こうから、隣の住人が動く音が微かにした。この部屋は防音が良くなかったので、隣の人間が歩くと、わずかに振動が伝わった。隣は若い男で、早朝に出かけることが多かった。総一は布団の上に横になったまま、天井を見た。この部屋の天井は白くて、木目がなかった。前の家の天井とは違った。木目がないと見ていて落ち着かないということに、引っ越してから初めて気づいた。枕元のスマートフォンを取った。時刻を確認した。六時を二分過ぎていた。それから、スマートフォンを置いた。代わりに、壁に向かって手を伸ばした。壁は薄い石膏ボードで、少し冷たかった。指の関節を曲げて、三回、コンコンと叩いた。壁の向こうは別の部屋だったが、千鶴の部屋ではなかった。千鶴は一駅先にいた。この壁を叩いても、千鶴には聞こえない。それでも、総一は叩いた。叩いてから、少し間があった。当然、返事はなかった。総一は手を壁から離した。布団の上に戻した。天井の白い面を見た。スマートフォンを取った。千鶴の番号を開いた。メッセージのアプリを開いた。文字を打った。「起きましたか?」 送った。三分ほどして、返信が来た。「起きていました。今日は早いですね」。総一は少し考えてから打った。「眠れませんでした。そちらはどうですか?」 返信が来た。「私は眠れました。ほうれん草、また少し色が悪くて」。総一は「土かもしれませんね。今度、配合を変えてみてください」と言った。少し間があって、千鶴から返信が来た。「今日、昼から時間はありますか?」 総一は「あります」と言った。「では、そちらに行きます。昼ご飯、一緒に食べましょう」と千鶴から来た。総一は「分かりました」と。それから、スマートフォンを置いた。天井を見た。白い、木目のない天井だった。六時を少し過ぎた朝の部屋に、総一は一人いた。しかし、一駅先に、今日の昼に来てくれる人間がいた。プランターのほうれん草のことを気にしている人間が、今朝も起きていた。それが今の総一の朝だった。華やかではなかった。安心とも、少し違った。ただ、今日の昼に誰かが来るということが、朝を起きる理由になった。それだけで、今日は十分だった。
二人が失ったものは多かった。総一は家を失った。六十五年分の時間が積み重なった場所を、書類一枚で失った。法的な手続きが進んでいたとしても、元の家が戻るかどうかはまだ分からなかった。千鶴は、老後のために取っておいた貯金の大部分を失った。ゆり子が返すと言ったが、いつになるかは分からなかった。帰ってこないかもしれないという覚悟も、どこかにあった。二人とも、戸籍を持たなかった。法的には他人だった。緊急の時に連絡先として名前を貸せるかどうかも、状況によっては難しかった。それでも、二人は続けることを選んだ。選んだというより、続けることを止める理由が、お互いの中になかった。
千鶴が一駅先の総一の部屋に来る昼、二人は小さな台所で向かい合って、何かを作った。材料を出す順番、火加減、皿の置き場所。そういった細かいことが、少しずつ二人の間で決まっていった。決めたわけではなく、自然にそうなっていった。総一が公園のベンチでタバコを吸う時、ベンチの端に、千鶴の分の座る場所を開けておくようになった。千鶴が来ない日も、開けた。なぜそうするのか、自分でも理由を言えなかった。ただ、そうした。
千鶴のプランターのほうれん草は、土の配合を変えてから、少し葉の色が良くなった。まだ完全ではなかったが、少し良くなった。それで十分だった。完全でなくても、少し良くなれば十分だということを、この年になって、二人はそれぞれの形で理解していた。東京の春が、また来ようとしていた。去年の春とは、少し違う場所にいた。去年より多くのものを失っていた。しかし、去年の春と違うのは、今日の昼に誰かが来ることだった。台所に、二人分の皿を出しておけるということだった。それが、今の二人の全部だった。



