「中卒の底辺女など、うちとは釣り合わないんだよ」——姉の結婚披露宴の最中、新郎の父親がそう叫んだ瞬間、会場が凍りついた。快晴の日曜日、温かい光が差し込む式場で、私は姉への感謝の手紙を読み終えたばかりだった。なのに、新郎の父は突然怒鳴り込み、ビールグラスを姉にぶちまけた。「聞いてないぞ。中卒だなんて」。姉は十五歳で高校進学を諦め、私を育てるために昼も夜も働いてきた。その人生を、たった一言で踏み…

「中卒の底辺女など、うちとは釣り合わないんだよ」——姉の結婚披露宴の最中、新郎の父親がそう叫んだ瞬間、会場が凍りついた。快晴の日曜日、温かい光が差し込む式場で、私は姉への感謝の手紙を読み終えたばかりだった。なのに、新郎の父は突然怒鳴り込み、ビールグラスを姉にぶちまけた。「聞いてないぞ。中卒だなんて」。姉は十五歳で高校進学を諦め、私を育てるために昼も夜も働いてきた。その人生を、たった一言で踏み...

「中卒なんて聞いてないぞ。俺は騙されたんだ。こんな結婚はなしだ。破談だ」

幸せに満ちていたはずの姉の結婚式。しかし、それは思わぬ行き違いから大騒ぎを招いてしまった。新郎の父は怒り狂い、姉に侮辱の言葉を浴びせかけてくる。波と叫ぶ新郎の父を俺は必死に止める。そのそばで姉は泣いていた。

「中卒の底辺女など、うちとは釣り合わないんだよ」

怒りに任せて新郎の父が姉に突きつける。その言葉で、俺の怒りに火がついた。

「そういうことでしたら、あなたの会社を潰させてもらいます」

俺にしか言えない、新郎の父と新郎への反撃。それを底辺のガキのたわごとと笑い飛ばした新郎の父だったが、俺の言葉をきっかけにして新郎一家は崩壊の道に足を踏み入れることになった。

俺の名前は青木哲也。会社員として働き、今年三十歳になった。三十年の俺の人生に、両親の姿はほとんどない。俺の両親は俺が五歳の時に事故で亡くなり、それからは八歳上の姉の真弓と二人で生きてきた。というか、生きてきたようなものだった。

「うちも色々大変なの」

両親が亡くなって以来、俺と姉は父母双方の親戚の家で生活していた。誰かが俺たち兄弟を不便に思い、声をあげるが、そのうち大変になり放り出す。

「ああ、もう二人とも大きくなったから」

俺も姉も親戚たちを困らせたつもりはなかったが、その時々の家の事情で俺たちは手放されていた。

「私、もう徹子の親になるつもりでいるから」

中学を卒業する時期になり、姉が俺にそう宣言した。姉は芯が強く、なかなかに豪気な女性。十五歳でその決意を俺に見せた姉は、自分の高校進学をないものとして社会に出ることを選んだ。姉は中卒でも正社員になれる職場を探し、それからひたすら働いた。昼間は会社員をして、夜は清掃や居酒屋でバイト。

「ちゃんと俺だって新聞配達ぐらいするから」

俺が忙しい姉を気遣えば、姉はそれを拒んだ。

「いいの。徹子は頭がいいんだから、いい学校に行くっていうのを考えなさい」

姉の望みは、俺の高校と大学への進学。俺は姉の夢と自分の将来のため、中学時代は特に勉強に打ち込んでいた。その甲斐もあり、俺は成績優秀者への学費免除制度のある高校に進学。そしてそこで、後の親友となる美野あゆると出会った。

「別に友達がどんな家に生まれたかなんて関係ないだろう」

「そうなのか」

「そらそうだろう。だって単純に人と仲良くなるって言うだけなんだ。相手のこと気にする人もいるだろうけど、俺は気にしない」

「そっか。そう言ってもらえると、俺は助かるな」

あゆるはいいとこのおぼっちゃまみたいな男だったが、腰が低くて優しい人間だった。俺の身の上など考えず、気が合うからと親しくしてくれて、勉強の面では良きライバルでいてくれた。

「入試の成績でも競争してみるか」

「いいけど、まずは合格目指さないと。勝負に気を取られたら危ないかもしれないぞ」

俺たちはいつしか、同じ国立大学を志望するようになった。同じ大学に行きたいと思ったわけではなかったが、目指す将来は一緒だった。俺とあゆるは無事志望校に合格し、それぞれ目指していた学部で勉強に励んだ。勉強もしたが、学生らしく遊んでバイトもして、それは楽しい四年間。そばにいたあゆるもそうだが、俺は改めて姉への感謝の思いを深めた。学費と生活面の心配をしなくて良かったのは姉のおかげ。いつか必ず恩返しをしようと心に誓い、俺は就職して会社員になった。

新卒で就職した会社で八年勤め、今は都内の別の会社で働く。忙しいが張り合いのある日々に、俺は成長させてもらっていた。

「突然なんだけど、結婚することになったの」

ある日、姉が俺の一人暮らしの部屋に婚約者を伴ってやってきた。

「私のこと、家族のことを理解してくれる素敵な人よ」

「初めまして。清水大輔と申します」

俺は何も事前に聞かされておらず、姉と婚約者の大輔さんの登場に戸惑った。しかし姉は穏やかに淡々と俺に大輔さんを紹介し、馴れ初めを明かした。仕事の関係で知り合い、大輔さんが姉に一目惚れしたそうだ。そして自分の身の上を気にして大輔さんとの付き合いに及び腰になっていた姉を、大輔さんが根気強く説得したらしい。

「私は大切な人の全てを受け入れて守りたいんです。だから真弓さんに結婚を申し込みました」

温かく微笑む大輔さんは、照れながら姉と目を合わせていた。

「良かったです。姉には本当に幸せになってほしいので」

大輔さんの言葉に、気づけば俺はそう漏らしていた。自分で姉のために何かしたいと思ってはいたが、その前に姉は自分で幸せを掴んだ。その幸せのそばには、優しげな大輔さんがいてくれる。俺は姉の婚約を喜び、それからは親族の顔合わせにも参加した。

「大輔はうちの跡を務めてくれていまして。それはもう本当に、親の贔屓目もありますが頼もしいものなんですよ」

大輔さんの実家は会社を経営していた。三代続く中堅規模の企業で、大輔さんは我が子を自慢に紹介した父親の後を継ぐ立場だった。近い将来、大輔さんは社長になって会社の舵取りをする。

「真弓さんは苦労をされていたそうだが、本当に良い人だ。人を思いやり、自己犠牲の精神に溢れている。今時そんな人は珍しいから、感動しましたよ」

大輔さんのお父さんは姉を誇らしげに語っていた。その傍らでは、姉の義母になる大輔さんのお母さんが微笑んでいる。俺はその光景に、姉の苦労が報われたと思っていた。

顔合わせも済み、その後は結婚式と披露宴に向けて時間が進む。その準備に追われた姉は忙しそうだったが、いつも笑顔で嬉しそうにしていた。俺は姉を手伝いながら、式と披露宴が無事に終わる。そう信じていた。

式と披露宴の当日は、快晴でとても温かい日だった。招待客たちは続々と集まり、式を済ませて披露宴に臨む。披露宴では姉の友人たちや仕事の関係者が顔を揃え、姉を祝福してくれた。そして式の終盤。俺は弟として、姉にこれまでの感謝の思いを綴った手紙を読み上げた。

「私が徹子の親になる。そう宣言された時から、僕と姉の人生は大きく変わりました」

俺は手紙の始まりを、自分にとって印象的だった場面から始めた。姉の一大決心から始まった、俺と姉だけの家族の話。

「姉はいつも僕を励まし、将来を考えなさいとアドバイスをくれました。僕だけでは、今まで歩んだ道のりは作れなかった。学校に通う、自分のやりたいことを見つける。姉がいたから、今の僕はあります」

これまでを思い出し泣きそうになるが、その度に俺は招待客たちの顔とリアクションを見ていた。ありがたいことに誰もが目を潤ませていたが、その中で表情を曇らせる人たちがいた。そのことに俺は引っかかりを覚えたが、手紙を中断するわけにもいかず読み進める。

「姉さん、本当におめでとう。そして大輔さん、姉のことを支えてあげてください。これからよろしくお願いします」

手紙を読み終えた俺は深く一礼した。すると、そこに大きな怒号が飛んできた。

「聞いてないぞ。真弓さんが中卒だなんて。聞いてないぞ」

大輔さんのお父さんはそう言いながら、披露宴会場に突っ込んできた。

「え、ちょっとすみません。今はやめてください」

「うるさい。こんなこと、俺は騙されたんだぞ」

「お父さん、落ち着いてください」

俺と揉み合う大輔さんの父との間に、ドレス姿の姉が割って入る。俺はとっさに姉を庇って、少し揉み合いから引き離す。

「ああ、邪魔だ。どけ。こんな結婚はなしだ。破談だ」

叫んだお父さんが手元のビールグラスを掴み、中身を俺と姉にぶちまけた。ここで会場のざわめきが大きくなり、披露宴は終盤で打ち切りに。式場のスタッフが導線を作り上げ、清水家と俺と姉は控え室に誘導された。

「あの、申し訳ありません。私のことでご迷惑をおかけして」

控室に入ると、姉が真っ先に義両親に頭を下げた。

「でも、私のことは大輔さんから聞いているのでは」

姉はそう言って、困惑しながら大輔さんを見る。

「ああ、僕は君はいい人だって言ったんだ。それはほら、間違いないからね」

姉の必死な様子に比べて、大輔さんはどこか他人事のようだった。曖昧な笑みを浮かべ、姉と自分の両親の機嫌を取ろうとする。

「そういうことではなくて。姉のこれまでのこと、人生だったり、そういうことを話したりは」

俺は姉を助けるつもりで大輔さんに問いかけた。しかし大輔さんは変わらない笑みを浮かべて言い訳を始めた。

「そういうことは、あんまり良くないかなと思ったんだ。そういう話したら、何かうまくいかなそうでね。うちはほら、それなりの家柄で、親もこういう感じだから」

大輔さんの態度はその場を取り繕うだけのもの。へらへらと笑い、都合よく場を収めようとする。そして姉との結婚までの道筋にも、そんな考えがあるようだった。親に反対されないように、親と自分の考えが違ったからと、披露宴で明らかにされた姉の身の上に関する自分の対処は間違っていなかったと弁明する。

「何言ってるんだ。大輔だって騙されたようなもんだろう」

見逃えない大輔さんに、怒り狂ったお父さんが火蓋を切る。

「こんな馬の骨、うちで引き受けるなんて。そんなことあってたまるか」

スタッフや周囲の親族の静止を振り切り、お父さんは姉に暴言を浴びせた。

「待ってください。それはあんまりでしょう」

俺は対抗するが、姉はすっかり正気を失い呆然としていた。大輔さんは、いつの間にか両親の背後に隠れて知らぬ顔をしている。

「中卒だなんて、そんな人間は表に出るべきじゃない」

お父さんの暴言は抑えが効かなくなっていた。俺も対抗するが、それを上回る音量でこちらをなじる。

「中卒の底辺女など、うちとは釣り合わないんだよ」

お父さんは姉を指差し叫んでいた。姉はその言葉にこらえていた涙を流すと、声をあげて泣き崩れ落ちた。俺は姉を支え、両親の影に隠れた大輔さんを見る。大輔さんは俺から目をそらすと、口を結んで小さく俯いた。

こちらの話に聞く耳を持たない大輔さんとその両親。その姿に、俺も辛抱がたまらなくなる。

「わかりました。そういうことでしたら、清水さんの会社を潰させてもらいます」

怒りに任せて、俺は勢いでそんなことを口ばしり、お父さんを睨んでいた。我慢強いと言われ、怒るのが苦手な自分からしてみれば、想像もできない振る舞い。しかし俺は、姉を侮辱されて我慢できず、そんな宣言をしていた。

「はあ? あんた何言ってるんだ? どうかしたのか?」

俺に睨まれていたお父さんが、大声で笑い出した。ありえない俺の宣言に呆気に取られるも、一拍置いて笑いを響かせる。

「中卒の弟が頭に血が上ったと思えば、それは傑作だな」

そうして控室には、それもまた不釣り合いな笑いが響き続けた。

「失礼します」

大輔さんの父の笑いが止まらない中、申し訳なさそうに一人の男性が現れた。それは俺の友人の美野あゆるで、やむを得ない事情で遅れて式場に到着していた。

「すみません。遅れてしまいまして。話を聞いたら、皆様がこちらにいらっしゃるとのことです」

あゆるは控室全体を見回し、辺りを窺うようにして部屋に滑り込む。そして俺の姉の様子を見て、俺に駆け寄った。

「どうした? それとなく話は聞いたけど、何がどうなった?」

俺にはそうして耳打ちをしたあゆるだが、表情は硬い。その硬い顔つきで、大輔さんや大輔さんの両親に冷たい目を向けていた。

「許せないよな。俺も許せないんだ」

あの怒りの言葉は、俺だけではなく周囲の人たちにも聞こえる大きさ。それにそう言いながら、あゆるは大輔さんの父に視線を固定していた。

「あ、あなたは」

大輔さんのお父さんが、あゆるに睨まれて固まる。俺はその隙にあゆるに全てを説明した。

「大輔さんが姉の事情を何も言わなかったみたいなんだ。姉さんと俺の、家庭の事情を。それで騒ぎになった。そんなこと知らない、中卒の嫁はいらないと」

「そうか。そういうことか」

俺の話に、あゆるは残念そうに唸った。

「なあ、あゆる。俺はもう自分の考えは伝えたんだけどな」

あゆるの登場前、俺は怒りに任せて大輔さんのお父さんにぶつけた宣言を実行しようと、あゆるに確認を取る。

「大輔さん家族の会社潰すけど、それでいいよな」

俺があゆるに許可を取ったのには意味があった。俺は今、あゆるが社長を務める美野グループにいる。人材派遣と育成開発を手掛ける大手企業で、俺はコンサルタントの経歴を買われてスカウトされていた。あゆると同じ大学に通った俺は、そこで経済学部に在籍していた。お金と労働について考えさせられがちな自分の生まれと、自分で何かを成し遂げなければという漠然とした希望。その課題に向き合うために、経済とビジネスについて学び、コンサルタント業界を志した。そして大手の企業専門のコンサルタント会社に就職し、成果を上げた。若手時代は貪欲に動き回り、いつしか会社のエースとして名を馳せる。そんなタイミングで、あゆるは俺に声をかけていた。

あゆるの実家の会社は、当時はあゆるの両親が経営していた。将来の社長の座が約束されていたあゆるは、自らの立場に奢らずに、親が貸した修行の道を歩む。俺をスカウトした時、あゆるは両親の元で黙々と将来に向けての準備を進めていた。そしてこの日、あゆるが姉の披露宴に間に合わなかったのも仕事の都合だった。海外出張中だったあゆるは、日本に戻る帰国便に遅延が発生して、予定時刻に帰り着けなかったのだ。

「本来ならば私も披露宴で一部始終を目撃していたわけですね。というか、私がいなければこんな騒ぎは起こさなかったんでしょうね」

あゆるの意味ありげな問いは、お父さんと大輔さんに向けられていた。それというのも、大輔さん一家が誇りにしている会社は、美野グループの下受け企業なのだ。

「私は青木君の意見に賛成です。そして従います。ですので今後、清水さんの会社とは取引を停止させてもらいます」

「それは、それだけは申し訳ない。披露宴のことは冗談ですよ。本心じゃない」

「それは別のところに。それは本気で言ってるんですか? 私にはあなたの本心と見えましたが」

必死に弁明するお父さんに、俺とあゆるで畳みかける。

「そのような話はしませんでしたが、私の担当する会社は御社なんです。清水社長。日頃、御社の状況を見ています」

「あ、ああ、そうなのか」

「その報告を受けて、私は彼と考えていたんです。このような事態にならなくても、御社との取引は」

大輔さん一家の会社は、ここ数年で少しずつ業績が悪化していた。その原因は一言で言えば無能。業務内容の見直しが行われず、問題や顧客からのクレームも放置されることが当たり前の状態に陥っていた。俺とあゆるはそんな現状を踏まえ、美野グループに提供されるサービスの質の低下を理由に、大輔さん一家の会社との関係を終了しようと考えていたのだ。

「それとこれとは。会社に関しては、こちらで努力します。ですから、このプライベートと仕事を切り分けてはいただけませんか?」

お父さん、いや、清水社長が俺とあゆるの説明の途中で横槍に出た。土下座する手前まで体を動かすが、それを俺たちで止めた。

「もう何をされても。正式な通達は後々ですが、これは決定事項とさせてもらいます」

大輔さんとその両親を俺とあゆるが見限り、この日は解散。騒ぎは尾を引いていたが、俺たちは式場から引き上げて、騒ぎをひとまず収めていた。

「私には、男を見る目がないのかもしれない」

騒動の後、姉は自虐的に呟いた。騒ぎの後の冷静な時間が訪れると、大輔さんの素顔が明らかになっていったのだ。姉の結婚がどうしてダメになってしまったのか。その理由を調べると、大輔さんの人でなしの側面が見えてきた。人の良さそうな部分は隠れ蓑だった。

「そうね。本性は冷酷というか、何枚あるのか分からないような人」

大輔さんの真の人間性は、父親譲りの傲慢さに溢れたもの。人を顎で使い、見下した上で自分が頂点に立ちたがる。そしてとにかく女好きでもあった。大輔さんには姉の他にも同時進行の女性たちがいて、姉を結婚相手にしたのは、姉が真面目で人当たりが良く、自分の言うことを聞くタイプだったから。

姉はその事実を知った後、毅然と対応していた。弁護士に相談して、大輔さんに慰謝料を請求する。自分に振りかかった理不尽に対抗するため、姉は非常に振る舞った。

「ごめんね。徹子のところに押しかけて」

「いや、そんなこと気にしないで」

毅然とした姉だが、騒動の後は心細さを口にもしていた。大輔さんがしつこく姉に復縁を迫り、さらには俺に対して仕事の話をしつこく持ちかけてきていたのだ。会社同士の付き合いの再開、身の修めの関係修復をしつこく迫っていた大輔さん。それでも俺たちは、余計なことは考えずに騒ぎの前の日常に戻っただけ。俺はそう思いながら、冷静に生活しようとしていた。

しかしある日、帰宅の遅くなった姉が何者かに襲われそうになった。

「徹子、とにかく来て」

姉に言われて指定された駅前に駆けつけると、怯えて震える姉がいた。仕事帰りに家に向かっていた姉は、その途中で男に車に連れ込まれそうになったという。駅から少し離れた人気のない路地で、姉に一台のセダンが近づいてきた。姉が気づいた時には、車から男が降りてきた。そして無言のまま姉を引きずり、後部座席に押し込もうとした。

「だけど、ちょうどコーヒーを持ってたの。それを引っかけた。そう、買ったばっかりで暑かったの」

姉は自分に襲いかかった男と格闘して、熱々のコーヒーにひるんだところを爪で引っかき、逃げ出したという。俺は混乱している姉と駅前の交番に行った。事情を話して、警察官の案内に従う。姉も俺も被害届けを出すことに決め、姉は起きたことを少しずつ振り返った。

「男の声は、そうね、大輔の声だったと思う」

コーヒーを引っかけた時に相手が漏らした声を覚えていて、警察でそう証言した。そして引っかいた姉の爪に残っていた皮膚片が、事件解決の決め手になった。腕に残っていた引っかき傷の痕跡も一致し、大輔さんは逮捕され、その報道はテレビのニュースにも流れた。

「親に見放されそうで、会社はもうどうにもならない。だったら、せめて前科ぐらいは手にしておきたかった」

弁護士を通じて聞いた話では、そんなことを話していたという。騒動の影響もあり会社は倒産寸前。似た者同士の親とも折り合いがつかなくなり、人生の意味を見失った。自暴自棄と破れかぶれで、大輔さんはとんでもないことをしでかしたのだ。

「これで終わりだな」

「呆けるというか、最初から最後まで自業自得だな」

大輔さんとその一家の会社は、事件直後に倒産した。事件があってもなくても、風前の灯火と言われた会社は、あっけなく消え去った。大輔さんは裁判を待つ身なのだが、その両親は息子を擁護しようと必死だ。弁護士費用を必死で書き集めながら、無謀なことに大輔さんの無罪のために戦おうとしていた。一時はマスコミ相手に、自分たち家族を悲劇の一族と言わんばかりに立ち回ったが、それを世間から避難された。今や清水一家は、道中一人で人目を避けて逃げ隠れして暮らしているようだ。

俺と姉は事件の後、久しぶりに一緒に暮らすようになっていた。事件で恐怖を味わった姉は、一人で暮らすことを怖がるようになったのだ。

「迷惑だよね」

という姉に、俺は何も言わずにうちに来るように言った。姉の気持ちは痛いほど理解できたし、誰かのそばにいたくなるのは当たり前だと思ったのだ。姉の気持ちが変われば、その時は姉の行動を見守る。そう考えて過ごした一年後、俺と姉の人生に大きな転機が訪れた。

「真弓さんは、俺が責任を持って幸せにする」

ある晴れた春の日曜日。俺はあゆると姉と対面していた。

「これからは俺が真弓さんを守ります。哲也さん、この結婚を認めてください」

俺に改まるあゆるは、神妙なおももちで俺に頭を下げた。事件の後、あゆるもまた姉を心配して心を砕いていた。俺と姉の暮らす部屋に足を運び、姉を励まし寄り添った。

「あゆる、これからもよろしく頼む。姉さんを守って、大切にしてくれ」

あゆるが姉を思う気持ちは、俺が一番理解している。俺はあゆるの頼みを聞き入れ、姉の結婚を今度は晴れやかな気持ちで受け入れた。

とは言っても、あゆるの姉への思いを知るのは二度目のことだった。高校時代、あゆるは姉に一目惚れをしていたのだ。告白したけど玉砕。あゆるは大人の姉に思いを打ち明けていた。しかし姉は年の差と生まれの違いを考えて、あゆるを諦めさせていた。だが、色々あった一年の間に、二人はお互いの存在を意識するようになった。兄弟で暮らし、そこにあゆるも顔を見せる。そんな日々で姉は回復し、あゆるを正面から見つめるようになった。裏表なく、自分と真摯に向き合ってくれるあゆるという人間。姉はあゆるの素直な心に癒され、あゆるの思いを真剣に受け止めるようになった。

「最初のドレスよりこっちの方が似合うよ」

姉の二度目の結婚式の日、ウェディングドレス姿の姉に俺は声をかけた。姉は晴れやかな顔で笑う。

「これ、あゆる君が選んだの」

姉が「あゆる君」と呼ぶ声は、聞いたことのない柔らかなものだった。式も披露宴も、今回は質素なものだった。それは姉とあゆるの希望に沿ったもので、飾らず奢らず、目の前の幸せに気づける二人らしい式と披露宴になった。

「姉さん、あゆる君と幸せになってください。それは僕の幸せでもあります」

披露宴の最後、俺は姉への手紙をそう締めくくった。それは俺の本心で、心からの願いだった。姉とあゆるの明るい未来を願いながら、俺も真面目に実直に生きていこう。そう思った日だった。

Thumbnail