あの日、玄関を開けた瞬間に顔面を殴られたんだ。痛みよりも先に、目の前が真っ白になった。三年付き合った彼女の両親に挨拶に行く、ただそれだけのはずだった。土曜の午後、クリーニング済みのスーツに袖を通して、鏡の前で何度もネクタイを直した。緊張で手が震えていたのに、彼女は隣で笑っていた。「私を大事にしてるって伝えてくれれば大丈夫」と。なのに、彼女の父親は拳を握ったまま私を見下ろして言った。「娘を傷物…

あの日、玄関を開けた瞬間に顔面を殴られたんだ。痛みよりも先に、目の前が真っ白になった。三年付き合った彼女の両親に挨拶に行く、ただそれだけのはずだった。土曜の午後、クリーニング済みのスーツに袖を通して、鏡の前で何度もネクタイを直した。緊張で手が震えていたのに、彼女は隣で笑っていた。「私を大事にしてるって伝えてくれれば大丈夫」と。なのに、彼女の父親は拳を握ったまま私を見下ろして言った。「娘を傷物...

俺の名前はリクト。二十八歳の会社員だ。別の会社に勤める彼女のみさとは合コンで知り合い、付き合って三年になる。みさは今年三十歳になることもあってか、最近は会うたびに結婚の話を持ち出すことが多かった。そのせいで少し気が重く感じることもあったが、俺はみさとの将来を真剣に考えていたので、先日プロポーズした。

彼女は喜んでくれたかと思ったが、気持ちはもちろんOKよ、でも両親にきちんと認めてもらってからお返事したいの、と言われて一度は断られた。正直、少しショックだった。

同僚のかにその話をすると、結婚するのか、おめでとう、と笑顔で言われた。いや、だからまだ正式に決まったわけじゃないんだ、と唸っている俺の背中を、元気出せと言わんばかりに叩いてくる。

もう決まったも同然だろう。ご家族への挨拶、頑張れよ。

なんだか俺も釣られて笑ってしまう。

ありがとう。

彼女の両親への挨拶。結婚を決めた男なら大半が通る道だ。俺はコーヒーを飲み干す。かは微笑ましいものでも見るような表情をしていた。

正式に結婚が決まったら、ちゃんと言えよ。

少し話しただけなのに、かのおかげで勇気が湧いてくる。

当たり前だろ。

俺はゴミ箱にカップを入れ、シャキッとした気持ちで残業に取りかかった。

みさの両親への挨拶当日。クリーニングに出しておいたスーツに袖を通し、何度も鏡の前でネクタイの位置をチェックしていた。こんなに緊張したのは就職活動の面接以来だ。いや、それ以上かもしれない。

うろうろと落ち着かない俺を見て、みさが優雅に紅茶を飲みながらくすくすと笑う。みさは俺を迎えに来るといって、朝早くから俺の家を訪れていた。二人で挨拶に行く方がロマンチックで気分が盛り上がるから、というよくわからない理由だったが、きっと俺を心配して来てくれたのだと思う。

そんなに緊張しないで、大丈夫だよ。

いや、無理だよ。マジでドキドキして落ち着かないんだ。

しっかりしてよ、とみさが背中をさする。

私を大事にしているってことを伝えてくれれば大丈夫。

みさの両親は一人娘のみさを目に入れても痛くないほど可愛がって育ててきたそうだ。門前払いされやしないかと想像するだけで、頬が痛くなる。

しっかり伝えるよ。

俺はぎこちなく笑い、みさと一緒に家を出た。

みさの家に着くと、穏やかな笑顔のお母さんが出迎えてくれた。

あら、いらっしゃい。今日は娘のために来てくれてありがとう。

お時間をいただきありがとうございます。本日はよろしくお願いいたします。

緊張が全身からにじみ出ている俺の様子に、みさの母はあらあらと笑っていた。お父さんもこれくらい穏やかそうな人ならいいんだけど、と小さな希望を胸に、俺は通された。

扉が開かれ、正面に座っていたみさの父が立ち上がる。以前みさに見せてもらった家族写真で顔は知っている。俺は挨拶をするために口を開いた。しかし、何も言うことはできなかった。

頬に強い衝撃と、激しい痛みが走る。気づいた時には、壁を背にそのまま床に尻もちをついていた。一瞬何が起きたのかわからないくらい、突然の出来事だった。

頬を押さえて恐る恐る見上げると、みさの父が拳を握ったまま仁王立ちでこちらを見下ろしている。

娘を傷物にしやがって。お前との結婚など認めん。

なんとか視線だけを動かすと、お茶を運んできたみさの母が俺を見て驚いて固まっていた。みさはというと、なぜかニコニコと嬉しそうだ。

何この状況? 俺は普通に交際して、結婚の挨拶に来ただけだ。みさを傷物にしたつもりなど全くない。冷静になろうとすればするほど、沼にはまるように混乱していく。

ほらリクト、しっかりして。私への気持ちをパパにアピールしなきゃ。

土下座でもしろって言うのか。極めつけはみさのこの発言だ。

娘を泣かせてまで手に入れたいのか。土下座なんて、みっともない。全く、あまりのことに呆然としていると、みさの父が鼻を鳴らす。みさの母が氷を巻いた濡れタオルを持ってきて、俺の頬に当てがってくれた。

余計なことをするな。

みさの父が俺の頬からタオルを奪い取る。なんだこの父親は。それにみさもみさだ。だんだんと怒りの感情が湧いてきた俺は、すっと立ち上がり、ひとまずみさの母に頭を下げてお礼を言う。

今日は帰ります。また後日、話しましょう。

そう言って、俺はさっさとみさの実家を後にした。後ろから、ちょっとリクト、土下座してパパを説得してよ、私への気持ちを熱弁しないとパパも納得しないんだってば、と先ほどから大して変わらない内容のみさの言葉が飛んでくるが、俺は決して振り返らなかった。一刻も早く外に出たい。殴られた恐怖と、居たたまれなさが、弱った心をちくちくと刺す。なんだか自分が情けなくて、涙が出そうになった。

外をとぼとぼ歩いていると、少しずつ頭が冷えて落ち着いてくる。しかし反対に、みさの父に殴られた頬がじんじんと熱く、すごく痛んだ。頭に血が上っていたせいで感覚が鈍っていたのだろうか。

気がつくと、俺はかに電話をかけていた。土曜日で休日だったこともあり、かはすぐに電話に出て、心配して駆けつけてくれた。みさの家での出来事を、かはただ黙って聞いてくれた。

マジかよ。大変だったな。頬が真っ赤に腫れてるし、唇も切れてるぞ。とにかく病院に行こうぜ。

泣き出しそうな俺を元気づけてくれる。俺は言われるままに、かの付き添いで病院へ行き、念のため診断書の依頼をした。診察してもらった帰り道、俺はかに頭を下げた。

ごめん、迷惑かけた。

かは、バカ、気にすんなよ、と笑う。

俺はため息をつく。

俺、どうしたらいいのかな?

深刻な表情の俺に、かはしばらく考え込んで口を開いた。

お前がこんなに理不尽な目にあったのに、少しも彼女がお前の味方になってくれなかったのか? 一度こういうことがあると、またあるかもしれないし。

かの言葉に、俺ははっと顔を上げた。この後に及んで、みさの父をどう説得しようかなどと考えてしまっていた自分を殴ってやりたい。いや、もう殴られているけど。

あんな非常識な父親を、お父さんって呼べるか。しかも理不尽に殴られた俺を、みさはろくに心配もしてくれなかった。仮に結婚してまた理不尽な目にあった時、みさは俺の味方になってくれるのか。

俺、みさとの結婚は考え直す。

ぽつりとつぶやいた俺に、かはぽんと背中を叩いた。

そうだな。俺もその方がいいと思う。まあ元気出せよ。怪我が治ったら、なんかうまいもんでも食おうぜ。

こういう時、友達がそばにいて良かったと心から思う。かに見送られ、俺は帰宅した。

翌日、何度目かのスマホの振動で目を覚まし、眉を寄せる。寝ぼけまなこで画面を見ると、みさからの大量の着信履歴が表示されていた。思わず声が出てしまうほど気分が重くなり、同時に頬の痛みで顔をしかめる。鏡を見ると、左頬が腫れて変な色になっていた。医者の話では骨折はしていないようだが、こうして見ると心配になる。タオルで保冷材を巻いて頬を冷やしていると、再びスマホが着信を告げた。表示を見ると、またみさだ。

俺はため息をついて、机の引き出しからボイスレコーダーを取り出す。主に仕事の会議で使っているものだ。録音ボタンを押し、みさからの着信に出た。

あ、リクト、やっと出た。全くどういうつもりなのよ。あれからパパがもっと怒っちゃって、大変だったんだからね。

みさの高い声が耳につく。

大の大人の男にいきなり本気で殴られたんだぞ。というか、他に言うことないのか。病院に行ったり、他にも色々と大変だったんだよ。

パパが私に手を出したのは許すって、私が説得を頑張ったおかげなんだからね。だからリクト、今がチャンスよ。

全然話が噛み合わなくて、俺は頭を抱えた。俺の話を聞く気など全くないらしい。みさって、こんなに自分勝手で変なやつだったっけ? 自分の彼女なのに、三年も付き合ってきたのに。俺は何も分かっていなかったんだな。

もう被害届、出したよ。

実は病院に行った後、俺はかの勧めで警察に被害届を出していたのだ。ようやくみさのマシンガントークが止まる。被害届、という単語と、俺の突き放すような言い方に驚いたようだ。

え、冗談だよね。だって、将来リクトのお父さんになる人だよ。

俺は頬の痛みに耐えながら苦笑する。

ならないよ。だって、みさと結婚しないから。

そんな、それだけはやめて。被害届も取り下げて。

みさは必死に訴える。

あれはパパが私のお願いを聞いただけなの。

俺はもう通話を切ろうとしていたが、やめた。

どういうこと?

俺が聞き返すと、みさは言った。

私がパパに頼んだのよ。リクトの愛情を確かめたいから、一発リクトを殴ってほしいって。それでも食い下がって私との結婚を許してほしいって言ってくれたら、それは本物の愛でしょ。

はあ?

思わず声が大きくなり、全身から力が抜けた。少女漫画のヒロインかよ、と内心ツッコミを入れてしまう。確かに前から少し子供っぽいところはあったが、そこが可愛いと思っていた。だが認識を改めよう。少し子供っぽいのではなく、脳内がお花畑なのである。結婚に反対する娘の父親に懸命に結婚の許しを願う婚約者。あれこそ二人の愛の試練って感じじゃない、とみさは言う。だから俺が殴られた時、どこか嬉しそうな表情をしていたのか。

今俺がどんな心境かも構わずに、みさは愛やロマンに満ちた言葉をぺらぺらと語り続ける。そもそも娘の頼み通りに行動する父親も父親だ。本気で殴られたし、言われた言葉も本音だと思うが。

とにかく今夜、もう一度私の家に来て話し合いましょう。

俺は断るつもりだったが、みさは俺の返事も聞かずに電話を切ってしまう。付き合いきれないし、もう関わりたくないので無視を決め込むつもりだったが、俺はふと考えた。みさは俺の職場を知っている。みさの父も簡単に職場を知ることができる。そこからみさの父が職場に突撃してくるところまで想像が膨らみ、俺は頭を振った。ありえそうで怖い。

正直行きたくないが、俺は腹を決め、もう一度みさの実家へ行くことにした。

その日の晩、俺は再びみさの実家を訪れ、昨日と同じようにみさの母が優しく出迎えてくれる。座敷に通されると、殴られた時のことを思い出して手が震えた。そこにはみさの父がソファーにふんぞり返っている。

リクト、来てくれたのね。

ヒーローと再会したヒロインのように嬉しそうに駆け寄ってくるみさ。俺は腕に絡みついてくるみさの手を、さりげなく振り払った。

お前、被害届を出したらしいな。ちょっと俺が鉄拳制裁してやったからって、ケツの穴の小さい男だぜ。娘を傷物にされたんだから、父親として当然の権利だろうが。

みさの父は品のない口調で俺を小ばかにし、グラスを煽った。こいつ、酒を飲んでいるのか。言葉や態度からも、反省しているようには見えない。

みさの大事な父親を、簡単に警察に突き出すだなんて。お前のみさへの気持ちなんて、その程度ってことだな。

ネチネチとしたみさの父の言葉に、俺はあっさりと切り返した。

そうですよ。

え?

俺の言葉に、みさと父は声を揃えて戸惑う。見事なシンクロだ。さすが親子と言うべきか。

私を愛してないの?

金切り声をあげるみさに、俺は本音を語った。

とても大事に思ってた。でもお父さんには理不尽に殴られ、君の本性も分かって、君と一生を添い遂げるなんて無理だって気がついたんだ。プロポーズはなかったことにしてほしい。俺は今日、これを言いに来たんだよ。

俺が言い終わると、みさはへたり込んだ。見る見るうちに涙が溢れていく。みさの父は発狂したように大声をあげ、俺の胸ぐらを掴んだ。

てめえ、みさを傷物にしただけでなく、泣かせやがったな。大体、被害届が何だってんだよ。俺が殴った証拠だってない。

また殴られると瞬時に悟った俺は、固く目を閉じ、歯を食いしばった。しかし、みさの母の声がみさの父の拳を止めた。

証拠なら、ありますよ。

みさの母は穏やかな微笑みのまま、ある場所を指さしている。そこには棚があり、さらにその上には小型のカメラ。みさの家では猫を飼っていると聞いたことがある。おそらく、猫用のペットカメラだ。

顔色を変えたみさの父が慌ててカメラを叩き落とすが、もうクラウドに保存されているから無駄よ、とみさの母は笑っている。カメラでの記録は全て自動でそこに保存されているのだろう。

俺もみささんとの電話でのやり取りを録音しておいたので、お父さんが殴ったことの証明になるかもしれません。

俺の言葉が追い打ちとなり、みさの父は顔を真っ赤にして怒号をあげた。そのままガシャーンとものすごい音を立てて、そこら中のものをひっくり返したりして暴れまくる。泣き続けているみさと、状況に困惑している俺の手を引き、みさの母は俺たちを別の部屋へと避難させてくれた。

その時に聞いた話だが、みさの母は長年夫の暴言や暴力に悩まされていたらしい。そのためペットカメラを使って証拠を集め、熟年離婚を計画していたそうだ。そんな時にみさの父が俺を殴ってしまった。俺の状況が自分と重なり、いざとなったらカメラの映像で俺を助けようと思ってくれていたらしい。

この人も苦労したんだな。俺はみさの母に改めて感謝を伝えた。やがて遠くからサイレンの音が近づいてくるのが聞こえ、到着した警官たちが暴れるみさの父を連行していった。騒ぎを聞きつけた近隣の住民が、これはただ事ではないと通報したらしい。

リクト、考え直して。お父さんの被害届を取り下げて。そして私を幸せな花嫁にしてよ。

すがるようにみさが俺の腕を引くが、俺は首を横に振った。こんな状況でも、自分がヒロインだという思考は変わらないらしい。

まだそんなことを言っているのか。元をたどれば、みさが馬鹿げたお願いをお父さんにしたせいでもあるんだぞ。

俺の言葉に、みさは俺のシャツの袖を掴んだまま俯く。

愛情を試される俺の気持ちを考えたら、今回みたいなことはしちゃいけないって、すぐに気がついたはずだ。俺は頬だけじゃなく、気持ちも傷ついたよ。だからもう、みさとの結婚は考えられない。

俺は改めてまっすぐみさの目を見て、真剣に伝えた。

分かった。ごめん。

みさはようやく諦めたのか、俺のシャツから手を離す。こうしてみさとの交際は幕を下ろした。

みさの父は一晩留置場で過ごし、次の日には解放されたそうだ。頭が冷えたのか、弁護士を介して俺に謝罪と示談の交渉をしてきた。俺も弁護士に依頼して、示談に応じることになった。結果、俺はみさの父から慰謝料と治療費として示談金六十万円を受け取った。被害届を取り下げることにはなったが、きちんと謝罪させることができたので、気持ちはすっきりしている。

後日、俺のことは許さずとも構わん。だから娘のことは許して、嫁にもらってくれないか、という伝言をみさの父の弁護士からもらったが、絶対に嫌ですと伝えてほしいと俺が言うと、弁護士は苦笑していた。警察沙汰になったことで、みさと父は近所から白い目で見られているらしい。俺とみさが結婚することで丸く収めたいのかもしれないが、自業自得だ。

示談から一ヶ月後、念願叶って離婚できたみさの母から聞いた話だが、みさは同僚や友人に俺との破局理由を話し、ドン引きされて孤立した。理解されないことに腹を立て、高い会費の結婚相談所に複数登録し、白馬の王子を探しているらしい。自分のどこが悪かったかを自覚して、父親をどうにかしない限り、みさに明るい未来はないだろう。

俺はと言うと、頬の痛みもすっかりなくなった。今夜はたくさんお世話になったかに、いい焼肉をご馳走する予定だ。俺も久しぶりにうまい飯を食べて、元気をつけようと思う。

私の名前はさえ子。三十四歳。二つ年下の夫のあつひととは、結婚して四年が経つ。私は幼い頃に母を事故で亡くしてから、父に育てられた。その父も私が大学を卒業して間もなく病で亡くなり、私は天涯孤独になった。だから夫との結婚で家族ができたことが、とても嬉しかった。夫婦仲も良く、互いに仕事をして支え合う私たちは、自分で言うのもなんだが、順風満帆な夫婦生活を送っていると思う。しかし私と夫は現在、とある大きな問題に直面していた。

その発端は半年ほど前まで遡る。この日、私は仕事が休みで、義母とお茶をするために町へ出ていた。義母と出かけることはそう頻繁にあることではなかったが、私はこの時間が嫌いではなかった。

私のことは本当の母親だと思って、甘えてちょうだいね。

これは結婚の挨拶の時に、義母が私にかけてくれた言葉だ。優しい笑顔とこの言葉に、私は涙が出るほど嬉しいと思ったのを、今でも覚えている。

ねえ、さえ子さん。

義母はアイスティーの氷をストローでつつきながら、いつもの穏やかな笑顔でこう言った。

百万円、貸してくれないかしら?

突然のことに、思わず私はコーヒーを吹きそうになる。なんなら少し逆流して、鼻が痛い。この義母の発言が、私と夫を悩ませる大きな問題へと発展するなんて、この時には考えもしなかった。慌てながら私は聞き返す。

百万ですって?

ええ、そうなの。なんとか頼めないかしら。ちょっと欲しいバッグがあるのよ。

きっと何かの聞き間違いに違いない、という期待は無駄に終わった。私の知る限り、義母は自由に使えるお金が少ない。義父は長年郵便局に勤めている人で、実家は経済的には余裕がある方だと思う。しかし義父はお金に関して潔癖な人なのだ。特に貸し借りなんてとんでもない。生活費とわずかな義母のお小遣いを義父が義母へ毎月手渡しし、何か急にお金が必要になれば、その都度義父にお金を下ろしてもらう、といった生活が、夫が子供の頃から続いているらしい。だから義母はお小遣いが足りないと、パートに出ている。給料がまるまるお小遣いになっているだろうから、急にお金を貸してと言ってくるのも違和感が大きい。

義母にはよくしてもらっているし、私の中で手助けしてあげたい気持ちが少しはあった。しかし百万は大金だ。私の一存で貸せる金額ではない。

あつひさんに相談してもいいですか?

夫の名前を持ち出すと、義母は表情を変えた。

ああ、いえ。あつ人には言わないでちょうだい。怒られちゃうわ。

すみません。それじゃ私はお役に立てそうにないです。

申し訳ない気持ちで断ると、いつもの優しい表情を曇らせる義母。先ほどと同じようにストローで氷をガシガシと鳴らし、じゅっとアイスティーを吸い上げる。そしてぽつりと一言。

私、さえ子さんに嫌われるようなことしたかしら?

あ、いえ。そういうわけでは。

睨みつけるような義母の視線に、私は言葉をつまらせた。

でも、貸してくれないのよね。

あ、はい。すみません。

義母は大きなため息をつき、扇子で顔を仰いだ。

いいのよ。所詮、私とあなたは嫁と姑、トメとヨメだものね。娘だと思っていたのは私だけだったんだわ。

ねちねちという効果音が聞こえてきそうなセリフに、私は耳を塞ぎたくなる。手のひらを返したようにこんな言われ方をして、腹が立つという以前に、なんだか悲しい気持ちでいっぱいだった。何も言い返さない私に、義母はやり場のない感情をぶつけるように言った。

お会計、しておいてね。じゃ。

義母は自分の荷物を持って帰って行ってしまう。残された私は、伝票をしばらく無言で眺めるしかできなかった。

帰宅後、私は義母にお金を貸してほしいと言われたことを夫に話すことにした。義母は夫に話さないでほしいと言っていたが、どうにも義母の様子が変だったのが引っかかっていた。夫は驚きながらも私の話を真剣に聞いてくれた。

母さんがそんなことを。嫌な気分にさせたよな。ごめん。

私は首を横に振る。

それはいいのよ。ただ、お母さんが心配で。欲しいバッグがあるなんて言っていたけど、本当は何か違う理由がある気がするの。

そんな会話をしていた時だ。噂をすればなんとやらで、義母から私へ着信があった。夫にも聞こえるようにスピーカーモードにして、私は電話に出る。

ああ、もしもし、さえ子さん。今日話した百万円のことなんだけどね。もう一度考え直してもらえないかしら。私のパート代から毎月返すって約束するわ。

まだ諦めていない様子の義母に困り果ててちらりと夫を見ると、夫は電話を代わって、とジェスチャーしている。スマホを渡すと、夫は義母と話を始めた。

話は聞いたよ。

私のそばで夫が聞いていたとは思わなかったのだろう。

さえ子さんたら、告げ口したのね。

義母がそう怒っているのが聞こえてくる。夫は子供じみた義母の言葉にやれやれと首を振り、どうしてもって言うなら、せめて俺に相談しろよ。さえ子を困らせるな、と義母に注意してくれた。

だって、さえ子さんなら優しいから、すぐに貸してくれるかなって思ったの。

確かに、義母のお願いに一瞬でも迷ってしまったあたり、義母の目は正しかったのだろう。夫はしばらく考え込んでいたが、ややあって口を開いた。

ああ、仕方ない。今回だけだからな。このお金は俺とさえ子が一生懸命働いたお金だってことは、くれぐれも忘れないで使ってくれ。借用書もちゃんと書いてもらうし、もちろん返済もきちんとしてもらう。

夫の決断に、義母は何度もありがとうと繰り返した。後で夫に聞いた話だが、義母は物欲を好む義父に合わせて、自分の買いたいものもほとんど買わずに過ごしてきたらしい。人のお金を借りてまで、というのは褒められたことではないが、夫にも思うところがあったのかもしれない。

後日、夫との約束通り借用書を書いて、百万円を受け取った義母。しかしこれが悪い流れを呼び込んでしまう。義母は懲りもせず、お金を貸してほしいと言ってくることが増えた。日に日によっては一万、三万など金額はバラバラだが、少しずつ確実に借金の額は増えていく。私も夫も、どうしてもと言われて、結局は貸してしまっていた。返済してくれと訴えても、家族であることを持ち出されて、話にならない。厳密に返済日を決めていなかった私たちも悪いのだが、義母はそれを逆手に取り、お金を一円も返してはくれなかった。実際、私たちが母であり義母であるから、強く出られないところがあるのを、義母はよく分かっていたのだろう。加えて、借用書がどれだけの効力を持っているかなど、義母はかなり軽く考えているようだ。

しかし、親しい中にも礼儀あり、という言葉がある。例を挙げればきりがない義母の言動に、私も夫も次第にうんざりし、義父に全てを打ち明けることも視野に入れ始めていた。本当はもっと早くそうすべきだったのかもしれない。

もういい加減にしてください。

私は何度目かの大きなため息をついた。

さえ子さん、そんなこと言わないで。

電話の向こうから、今日も義母が猫なで声で私を説得中だ。

もう私たち夫婦が貸したお金は、二百万にもなっているんですよ。パートのお金で少しずつ返してくれるってお話だったじゃありませんか。

私がぴしゃりと言うと、義母は「でも」と口ごもる。

とにかく、今後は返済のご連絡以外は受け付けませんから。返済もせずにお金を借りようとしたら、今度こそお父さんに言いますからね。

義母はまだ何かを言いかけていたが、私は問答無用で通話を切った。

一週間が経過し、義母から私へメッセージが届く。またお金を貸して、という内容だと思っていた私は、内容を見て驚いた。返済の用意ができたので、私一人で実家へ取りに来てほしい。簡単に言えば、そういった内容だった。

もちろん俺も行くよ。

夫は私を心配してくれたが、私は義母の指示通り、一人で実家へ向かうことにした。その代わり、私は夫にとあるお願いをしたのだった。

約束の日、私は予定通り実家を訪れていた。

二百万、入れておいた。

そう言って義父が封筒を差し出す。

確認させていただきますね。

念のために、私がその場で一枚ずつお金を数え始めると、義父は私を一喝した。

援助される立場のくせに、その態度は何様だ。まずは礼儀からだ。

義父の激しい言い方にも驚いたが、「援助」という言葉に私の指が止まる。

はい? むしろお金を差し上げたのは、私と夫の方ですが。

私の言葉に、義父は不快そうに眉を寄せた。

何? 母さんの話では、息子夫婦が困ってるから援助してやってほしいってことだったが。

私と義父の目が同時に義母へ向く。義母は途端に顔面蒼白になり、決してこちらと目を合わせようとはしない。おろおろとした義母の様子で、私の言っていることが本当だと、なんとなく分かったのだろう。義父は私に、どういうことなのかと聞いてきた。

半年くらい前から、私たち夫婦がお母さんにお金を貸し続け、その額が二百万まで膨れ上がったんです。パートのお金から少しずつ返すという約束だったのに、一円も返してもらっていません。今日はようやく返していただけるとお母さんにご連絡をいただいて、こちらへ伺ったんですが。

違うわ。あなた、騙されないで。さえ子さんは嘘をついているのよ。

義母が取り繕おうと必死に口を挟むが、私は説明すると同時に借用書を義父に見せていたため、義母の言い訳は通用しない。義父は「信じられない」と声を震わせていた。

ちょうどそのタイミングで、夫が実家へ合流した。私のお願いにより、夫はある人物を、彼女が住んでいるアパートまで迎えに行っていたのだ。夫が連れてきた人物は、夫より五歳年下の義妹だった。それを見た義母は、さらに顔を青くしている。

え、ど、どうして、あんたがいるんだ?

首をかしげる義父をよそに、義妹はすっと唇をへの字に結んで、ふてくされた様子でその場に座った。

今まで私たち夫婦が貸した二百万は、全部、あんたの生活費に回っていたんですよね。

義母は何か言おうとしたが、言い訳はもう通じないと諦めたのか、がっくりと肩を落として頷いた。

義母の話によると、元々遅刻や無断欠勤、業務中にサボってスマホゲームをするなど、不真面目さを周りから注意されていたという義妹。あまりにだらしがなさすぎること、そして何度目かの大きな仕事上のミスが原因で、会社を首になったそうだ。その事実を義妹に告げられた義母は、実家に帰ってきなさいと言ったそうなのだが、「お父さんに怒られるから絶対に嫌」と、義妹はその一点張りだったのだとか。

そうだ。お兄ちゃんたちなら、きっと子供もいなくてお金も余ってるわよ。ねえ、お母さん、なんとかお金もらってきてくれない?

義妹はさも当然と言わんばかりに目を輝かせ、義母にそう提案したそうだ。「欲しいバッグがある」と最初に私に切り出したのは、お金を借りるための方便だったと、これについても義母は白状した。正直、そんな考えに乗る義母も義母である。最初の百万がうまくいったことですっかり味を占めた義妹は、生活費だけでなく趣味のアニメやゲームなどにもお金を使うようになっていたようだ。義母も最初は義妹をたしなめていたが、お金を自由に使う楽しさに目覚めて、義妹と共犯関係になっていたらしい。

私たちの働いたお金が、こんなことに使われたなんて。ろくなお金の使い方をしていないなとは最初から分かっていたことだが、こうして改めて聞かされると、虚しい気持ちになる。

どうやって義妹の存在にたどり着いたかといえば、私が義母を尾行したことがきっかけだ。義母は私や夫からお金を受け取ると、その足で義妹に会いに行き、お金を渡していた。実家に私一人でと言われた時は少し不安だったが、こうして呼び出してもらえたおかげで、全てを暴露するいい機会となった。義母としては二百万を義父に払わせつつ、私を悪者にしたかったのだろう。

お兄ちゃんもさえ子さんも、子供もいないのにたくさん稼いでるじゃん。家族なんだし、仕事をなくした私のことを助けてくれてもいいでしょ。そもそもお母さんがお兄ちゃんたちに借りたお金なんだから、私関係ないし。

周囲の目に耐えられなくなった義妹は、早口で言い訳をまくし立てる。「私が悪いの」と、義妹は涙を流す。自分の身勝手のために私だけでなく実の家族まで巻き込んで、言い訳も情けない。まさに自業自得だ。

私と夫が呆れた目で義妹を見ていると、義父の怒鳴り声が飛ぶ。

二人とも、いい加減にしないか。

義父の剣幕は、先ほど私を怒鳴りつけた時とは比べ物にならないくらいのものだった。鬼が実際にいるとしたら、こんな顔をしているのかもしれない。

お前たち、いい年をした大人が、人の金を恥を知れ。さえ子さんとあつ人に、謝罪しないか。

義父の怒りの迫力に、義母はがばっと畳に頭を擦りつけて謝罪の言葉を繰り返す。まるで念仏のように「ごめんなさい」と言い続ける義母の姿は、ひどく哀れだった。だが騙されてはいけない。義母は少しでも多くの同情を引きたいだけだ。

一方で義妹は、むすっとした顔のまま言った。

お父さんが二百万返したんなら、もういいじゃん。

義妹の言葉に、ついに堪忍袋の緒が切れたのだろう。義父は義妹に近寄ると、両肩を掴み、半ばねじ伏せるようにして畳に頭を押しつけた。

ちょ、ちょっと、痛い。やめてよ。

謝るんだ。

義父が義妹を張り倒すと、ようやく義妹も私たちに謝罪の言葉を述べた。

ごめんなさい。

義母と義妹の泣き声が響く中、義父は改めて私たちに頭を下げて謝罪した。

二人とも、本当にすまなかった。特にさえ子さん、さっきは怒鳴りつけて、申し訳ないことをした。

そして義父は泣いている義母と義妹に目を向け、冷たく言い放った。

お前たちには、ほとほと愛想が尽きた。もう縁を切りたいくらいだ。

縁を切る、イコール離婚、と結びついた義母が、弾けるように体を起こし、私にすがりついてくる。

離婚なんて嫌よ。さえ子さん、お父さんを止めてちょうだい。あなたも私の娘でしょ。私の味方をしてくれるわよね。私はあなたを守りたかっただけなのよ。

もう何度、こんな都合のいい言葉を聞いただろう。私はすがりついてくる義母の手を取り、ゆっくり引き剥がした。

お母さんに初めてご挨拶した時、「本当の母親だと思って」って言ってもらえて、私、本当に嬉しかったんです。

表情がぱっと輝く義母。私は言葉を続ける。

でも実際は、お母さんは都合のいい時ばかり私を娘と呼んで、私の気持ちを考えてはくださらなかった。そんな母なら、私いりません。

義母は瞬時に顔を歪め、私を罵倒した。そんな義母を義父が押さえつけて言った。

こちらで始末をつけるから、お前たちはもう行きなさい。

私は義母に目を向けることなく、二百万の入った封筒を鞄にしまう。

あねさん、元をたどれば、あなたの存在が、これだけ家族を傷つけてめちゃくちゃにしたんですよ。お母さんも間違っていたけど、あなたのしたことも、それ以上に最低です。しっかり反省して、お父さんにお金を返してくださいね。

義妹にそう声をかけると、私と夫はその場を後にした。

数週間が経ち、義父が私たちの住むマンションを訪れた。迷惑をかけたと差し出した包みを開けると、中には五十万もの現金が入っていた。私が返そうとすると、これは少ないけど慰謝料にしてほしい、と義父は譲らない。夫も手助けしてくれ、お金を受け取ることになった。

改めて私たちに謝罪した義父から、その後の話を聞いた。義母は最後まで嫌だとぐずっていたが、無断で義父のカードにも手をつけていたことが発覚し、結局離婚となった。義妹と一緒に家を追い出され、今では互いを攻め合いながら、親戚の経営する民宿で住み込みの仕事をする日々なのだとか。

実は実家での騒動の後、私の妊娠が判明し、夫も義父もとても喜んでくれている。返してもらった二百万と、義父のくれた慰謝料の五十万は、生まれてくる子供のために使おうと思う。

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