昼過ぎ、事務所に取引先の部長がアポイントもなく上がり込んできた。いつも上から目線で、うちを「貧乏工場」と呼ぶ男だ。用件は何かと聞くと、彼はこう言った。「契約終了が嫌なら、お前の嫁を一晩貸せよ」。その瞬間、頭の中で何かが切れた。この一年、社員の生活と、父が遺した工場を守るため、俺は笑って頭を下げ続けてきた。二十歳の頃、父と二人で開発した技術。父は最後まで「技術と信用だけは金で売るな」と言ってい…

昼過ぎ、事務所に取引先の部長がアポイントもなく上がり込んできた。いつも上から目線で、うちを「貧乏工場」と呼ぶ男だ。用件は何かと聞くと、彼はこう言った。「契約終了が嫌なら、お前の嫁を一晩貸せよ」。その瞬間、頭の中で何かが切れた。この一年、社員の生活と、父が遺した工場を守るため、俺は笑って頭を下げ続けてきた。二十歳の頃、父と二人で開発した技術。父は最後まで「技術と信用だけは金で売るな」と言ってい...

中村が工場の事務所にずかずかと上がり込んできたのは、昼時を少し過ぎた頃だった。アポイントも何もない突然の訪問に、俺は嫌な予感しかしなかった。この男と会うたびにろくなことがない。だが、まさか今日、これほどまでに馬鹿げた言葉を聞かされるとは思いもしなかった。

俺は本田、三十八歳。祖父の代から続く町工場の三代目だ。一年ほど前に父が他界し、急遽後を継いだ。今も社員たちの支えがあって、どうにかトップの務めを果たせている。高校を卒業してすぐにこの工場で働き始めたから、父との思い出のほとんどは仕事にまつわるものだ。

二十歳の頃、父と二人で夜遅くまで油にまみれながら新技術の開発に打ち込んだ日のことは、今でも鮮明に覚えている。これはうちにしかできない技術だ。それを息子のお前と一緒に開発できるなんて、父親として、工場のトップとして、こんなに嬉しいことはない。父は疲れた顔をしながらも、本当に楽しそうに笑っていた。

いいか。技術と信用だけは、絶対に金では売るな。父は口癖のようにそう言っていた。工場と家族への愛情は誰よりも強い人だった。その父が突然いなくなり、俺も社員たちも深く悲しんだ。それでも今はみんなで一丸となって、父の遺した工場を守っている。

俺の代になってから、営業活動にも力を入れ始めた。父は人付き合いが不器用で、営業が苦手だったらしい。腕のいい職人が揃っているのに売上はずっと伸びず、建て替える余裕すらなかった。祖父の代から同じ建物で、見た目はかなり年期が入っている。

新規の取引先を増やし、少しずつでも売上を伸ばす。俺が四十歳になるまでには、この工場を新しくしたい。そんな目標を胸に、今日も汗を流している。もう一つ理由がある。病を抱えている妻に、いつか胸を張って新しい工場だと案内してやりたいのだ。

どうも本田さん。相変わらず狭い工場だな。失礼な言葉とともに工場に姿を現したのが、取引先の部長を務める中村だった。二年ほど前からうちの担当になった男で、業界大手の会社に務めていることもあってか、うちに仕事を与えてやっていると思い込んでいる節がある。常に上から目線で接してくるので、俺も父もその対応には手を焼いていた。

先代がいなくなってから一年くらい経つけど、経営には慣れたか。まあ、ぼちぼちですね。笑顔を作って返すと、中村もへらへらと笑いながら続けた。まあ、こんな小さな工場なら経営も楽だろうな。いいなあ、羨ましいよ。うちの会社は大きいから、部長の俺も毎日忙しくてね。

そうですか。俺は笑顔を張り付けたまま当たり障りのない返答をする。中村はいい大学を出ているらしい。だが学歴と人柄は決してイコールではないのだと、この男のおかげで学んだ。

あの人は、一度大きな会社に落ちた過去があるらしい。その失敗から目を背けて、自分より弱い相手を見下すことでプライドを保っているんだろうな。生前、父が中村をそう評していたのを思い出す。

ところでこの前の納品物なんだけどさ、一部に傷があったぞ。ほら、これ。そう言って中村がスマホの写真を見せてくる。よく見ると確かに部品に小さな傷がついている。品質管理の担当によると、メイン製品の製造には問題ないとのことだが、納品前にちゃんとチェックしてるのか。

すみません。以後気をつけます。曖昧に謝る。こういう時の最善策は、相手の言葉を否定せず、うまく受け流すことだ。一通り嫌味を言って満足したのか、中村が応接の椅子から立ち上がった。工場の外まで見送るため並んで歩いていると、廊下の角から女性が顔を覗かせた。

こんなところにいたのね。あなた、忘れ物よ。ああ、すまない。俺の妻だ。書類の入った封筒を差し出してくる。数多くのライバルを蹴散らして結婚した、俺の自慢の妻だ。妻は中村を見ると笑顔を浮かべて頭を下げた。それじゃあ、もう戻るわね。

妻はうちとは別の会社で営業をしていて、外回りのついでに忘れ物を届けてくれたらしい。妻を見送った後、隣にいる中村が急に静かになったことに気づいた。

おい、あの美人はお前の嫁か。ええ、そうですが。貧乏工場の嫁にはもったいないな。なあ、嫁を接待させろよ。下品な笑みを浮かべる中村を見て、この男が妻に下心を抱いていることが丸わかりだった。

申し訳ありませんが、それは無理です。妻はうちの社員ではありませんし、何より我が社は女性社員にそういうことをさせていないのでは。

俺は今まで、中村の頼みをはっきり断ったことがなかった。相手は大切な取引先だったからだ。だが今回だけは違う。別にいいだろ。減るもんじゃないし。お断りさせていただきます。しつこく食い下がる中村を、俺は一切の迷いなく拒絶した。

すると、中村の顔が徐々に怒りで歪んでいく。貧乏工場のくせに生意気だぞ。工場の規模は関係ありません。誰に向かって生意気な口を聞いてるんだ。自分の思い通りにならないことに怒りを爆発させた後、中村はこう言い捨てた。後悔させてやる。覚えてろよ。乱暴な足音を立てながら、中村は工場を後にした。

この日から中村の嫌がらせが始まった。発注数を理由なく減らされた上に、支払いまで延長された。うちの工場は金銭的な負担を強いられることになる。正直、これはかなり効果的だった。それでも社員たちに迷惑をかけるわけにはいかない。なんとかやりくりして給料に影響が出ないようにしたが、経営そのものは大きな打撃を受けていた。

中村の嫌がらせはこれだけにとどまらなかった。

オタクの工場、大丈夫ですか。ある日、別の取引先の担当者がやってきて、いきなりそう聞かれた。どういう意味ですか。尋ねると、担当者は言いづらそうにしながらも事情を教えてくれた。中村さんのところとうまくいってないって噂を聞いたんですよ。その担当者によると、俺が一方的に中村の会社へ文句を言い、うちが有利になるよう取引内容を無理やり変えさせたという噂が業界に流れているらしい。

そんなのありえませんよ。相手は業界大手ですよ。うちみたいな小さな工場がそんな真似できるはずがありません。でも、信じてる人もいるみたいですよ。その言葉通り、うちの工場の評判は徐々に落ちていった。営業で新規の取引先に話を持ちかけても、中村に関する噂を理由に断られることもあった。噂を流したのは、中村本人だろう。

社員たちの間にも、目に見えて不安が広がっていった。本田さん、大丈夫なんですか。もし中村さんの会社との取引がなくなったら、うちの経営はさらに危なくなりますよ。社員の一人にそう言われても、俺は大丈夫だと返すしかできなかった。周りに漂う不穏な空気は痛いほど感じていたが、当時の俺にはどうすることもできなかった。

困り果てていたある日のこと。中村がアポイントもなく、突然工場を訪れた。この男のせいで散々苦労しているのに、一体何のようだ。苛立ちを抱えながら応接室へ向かう。失礼します。どういったご要件でしょうか。なるべく一緒の空間にいたくないので、部屋に入ってすぐ本題を切り出した。

すると中村が、とんでもないことを口にした。

事前事業は廃止。契約終了だ。何ですって。目を丸くした俺を、中村が満足げな意味で見ている。貧乏工場との取引を強制的に終わらせる。人件費や資材の高騰で、我が社も余裕がないんだよ。貧乏工場に情けで仕事を与えるのはもうおしまいだ。

中村は、うちとの仕事を情けで与えていると思っていたのか。この男は本当に何も分かっていない。本人の言葉で確信した。驚きのあまり口を閉ざしている俺に向かって、中村はさらに信じられないことを言い放つ。

契約終了が嫌なら、お前の嫁を一晩貸せよ。

その瞬間、頭の中で何かがぷつりと切れる音がした。この一年、社員たちの生活を守るため、笑って頭を下げ続けてきた。これはうちにしかできない技術だと誇らしげに笑っていた父の顔が浮かぶ。数多くのライバルを蹴散らしてまで守り抜いた妻との日々が脳裏をよぎる。それら全部を、この男は土足で踏みにじろうとしている。

人は怒りが限界を超えると、逆に冷静になれるものらしい。心の芯だけが、氷のように冷たく静まり返っていくのを感じた。

はい、わかりました。俺の返答に、中村が満足そうに笑う。だが次の瞬間、中村の笑顔は俺の一言によって崩れ去った。

契約は終了だ。あんたの会社とはこれっきり。椅子から立ち上がり、応接室の扉を開ける。今すぐ出ていけ。静かに、しかしはっきりと告げた。最初は驚いた様子だったが、俺が言い放った言葉の意味を理解すると、中村の顔は怒りの形相に変わった。

自分が何を言ってるか分かってるのか。本当に取引を終わらせるぞ。うちとの仕事がなくなったら、こんな貧乏工場はすぐに潰れる。困るのはお前だけだ。それでもいいのか。俺は何も言い返さず、ただ中村を睨みつけた。すると急に声の調子が変わり、中村は唇を震わせた。おい、冗談だろ。本当に潰れてもいいのかよ。後で泣きついても遅いからな。最後は怒りよりも動揺が滲んだ声で、地獄に落ちろとだけ吐き捨てると、逃げるように工場を後にした。

一週間後、うちの工場は中村の会社との取引を失い、売上は一気に落ち込んだ。それでも祖父の代から続いた工場を閉めるような結末にはならなかった。実は俺や社員たちは、以前よりずっと忙しくしていたのだ。

本田さん、この書類が終わったら手伝ってくれますか。分かった。ちょっと待ってて。事務所で書類と格闘していると、現場の社員が顔を覗かせる。人手が足りないうちの工場では、トップの俺も毎日のように現場に立っていた。ようやく一段落ついた頃、来客を告げるインターホンが鳴る。本田さん、お客様です。中村さんがお見えになってます。

え、中村さんが。中村の会社とはもう取引を終えたはずだ。一体何のようだと首をかしげつつ、無視するわけにもいかず応接室に案内するよう頼んだ。扉を開けると、中村が勢いよく俺を見る。その顔には、隠しきれない焦りが滲んでいた。

よ、頭は冷えたか。反省してるなら、納品を許可してやるよ。いつもと同じ上から目線の物言いだ。俺がその話に乗ると、本気で信じている様子も伺える。俺は中村の向かいに座り、首を横に振って答えた。

オタクのライバル会社と、百二十億円で五年の独占契約したので、納品は無理ですね。

は。予想外の返答に、中村が言葉を失う。時間をかけて俺の言葉の意味を噛み砕いているようだった。やがて額に冷や汗がにじみ始めた中村に、俺はある事実を伝えることにした。

少し時間を遡る。まだ父が生きていた頃の話だ。中村の会社のライバル会社は業界最大手だ。そんな会社がうちのような小さな工場と関わりを持ったのは、奇跡に等しい。俺と一緒に仕事しようぜ。父が亡くなる前、馴染みの居酒屋でそう言ってきたのは、高校時代からの付き合いである親友だった。親友であり、俺が一番信頼している相手でもある。中村より偏差値の高い大学を出て業界一位の会社に入り、三十八歳の若さで部長を務める、将来有望な男だ。

お前の工場がどれだけすごいか、会社に入ってから分かったよ。親父さんに、一緒に仕事をさせて欲しいと伝えておいてくれ。話はしておくけど、親父は腰が重いからな。案の定、父はせっかくの提案を断ってしまった。だが俺は父と違い、工場をもっと大きくしたいと思っている。親友とは良好な関係を保ちながら、機会を伺っていたのだ。

今回の契約は単なる部品供給とは違う。父が開発したあの特許技術は、耐久性と精度において既存のどの製品よりも優れていて、ライバル会社が進める次世代主力製品ラインには欠かせない核となる。量産化までを見据えた技術と共同開発を含む契約だからこそ、百二十億円、五年間の独占という規模になったのだ。父が亡くなり、しばらくは工場の経営だけで手いっぱいだったが、最近になってようやく余裕が出てきたため、その契約に向けて本格的に話を進めていた。ちょうどその最中に、中村の嫌がらせが始まったのだ。なお、中村の会社との契約に専属条項はなかったため、水面下で新規交渉を進めること自体に何の問題もなかった。

うちとしては、あんたの会社との契約は継続したまま、ライバル会社との新規契約をするつもりだったんですよ。でも、あんなことがありましたし。中村の額には大量の汗が浮かんでいる。契約終了はそちらから持ちかけた話です。困るのはうちだけ。そう言いましたよね。それが今になって、なぜ納品の再開なんて言い出したんですか。

視線を泳がせ、口をぱくぱくと動かしていた中村は、やがてがっくりと肩を落とし、素直に事情を話し始めた。

一週間前、中村は一方的に取引を終了させた直後、会社にその旨を報告したという。するとまもなく、品質管理部長が顔色を変えて飛び込んできたそうだ。本田さんの部品がないと、うちのメイン製品は作れないんだぞ。あんな貧乏工場の部品なんて、いくらでも買い替えが効くだろう。軽く返した中村に、品質管理部長はこう言い放ったらしい。

あの部品には特許技術が使われているんだ。代わりなんてあるか。

中村はうちの担当でありながら、この重要事項を知らなかった。前任者から引き継いだばかりで、詳しい経緯を確認していなかったのだと、中村自身が悔しそうに白状した。この一件は経営陣への正式な報告書となり、中村の失態として扱われたらしい。この一週間、部品を作れる会社を探したが、どこも無理だと断られて、もうオタクに頼むしか道がないんだ。再契約できなければメイン製品は製造中止。俺は解雇になるかもしれない。だから。

中村の言葉は途中で止まった。応接室の扉が開き、うちの社員たちが入ってきたからだ。

すみません、本田さん。外で聞いてました。その人の頼みを聞く必要ありませんよ。

鋭い目で中村を睨む社員たちの中に、祖父の代からこの工場で油にまみれてきたベテランの職人もいた。三代かけて守ってきた工場だ。今更頭を下げられても、戻す気にはならんよ。しゃがれた声で、しかし意志のある口調で職人が言い放つ。

奥さんに無理やり迫ろうとしたそうですね。仕事相手としてだけじゃない。男としても最低ですよ。あと一つ、ライバル会社のそちらからの伝言です。

中村がゆっくりと俺を見る。顔色は白を通り越していた。よくも妹に手を出そうとしたな。今後は堂々と表を歩けると思うなよ。

は。妹。あなたが褒めた俺の妻は、その妹なんですよ。中村は脱水が心配になるほど汗を吹き出し、体を震わせた。

二十歳の頃の父の顔が、脳裏をよぎった。これはうちにしかできない技術だ。あの誇らしげな笑顔があったから、今の俺がある。

もし今回の件で解雇されても、再就職は難しいでしょうね。淡々と告げると、中村の目に涙が浮かんだ。す、すまなかった。二度と失礼なことはしない。心を入れ替える。だから。

その言葉、信じられると思いますか。仕事はお互いの信頼が大切です。中村さんが俺たちを見下し続けてきたから、信頼なんてなかった。それを今更都合よく、なかったことにしてくれと言うんですか。容赦ない反論に、中村は口をぱくぱくと動かすだけだった。

そもそもライバル会社とは独占契約済みです。以前、地獄に落ちろと言われましたが、落ちるのはあなた一人だけでしたね。

それがとどめだった。中村は大声で泣き叫び、頭を抱えてうずくまった。だが、手を差し伸べる者は誰もいなかった。

この後のことは噂で聞いた話になる。中村の会社はメイン製品の製造を中止せざるを得ず、経営に大きな打撃を受けたそうだ。中村は責任を取る形で退職。噂が広まったこともあってか、再就職はうまくいかず、今はアルバイトで食いつないでいるらしい。奥さんとは離婚し、家のローンも払えなくなって手放したという。この話を聞いても、天罰が下ったなとしか思えなかった。

中村との縁が切れた俺は、今はそのライバル会社との仕事で忙しくしている。売上は順調に伸びており、数年以内には工場の建て替えもできそうだ。よし、今日も頑張るぞ。俺は今日も、父が残したこの工場で、社員たちと共に働いている。

Thumbnail