振られたその日、ゆかりは言い放った。「あなた、真面目すぎるんだもん。つまんなくて嫌だったの。日曜に会ってばかりで、話も真面目すぎて冗談の一つも楽しめないし。まあ、単純に飽きたんだよ。じゃあね。」
否定してくれると思っていた。なのに彼女はあっさりと認めて、これまで我慢していたのかと思うような言葉を並べ、何の戸惑いもなく去っていった。浮気相手はイケメンの金持ちらしいと友人が教えてくれた。泣いた。一人で何度も泣いた。それでも泣いてばかりはいられないと、学業に一層励んだ。辛いことの後にはいいことがあると信じていたからだ。でも現実はそんな物語みたいに甘くない。
その直後、両親が交通事故で亡くなった。踏切内で運転していた父が突然発作を起こし、ハンドル操作を誤ったのだ。車は溝にはまり、そのまま帰らぬ人となった。悲しんでいる暇もなく、鉄道会社からの多額の賠償金が振りかかってきた。返済と弟との暮らしをどうにかするためには働くしかなかった。大学に行っている場合ではない。その時間があるなら一円でも稼ぎたいと思い、大学を中退した。
憔悴しきっていた僕を心配してくれたのは、バイト先のオーナーだった。「こんなに真面目で信頼して仕事を任せられるバイトの子は、君と木下さんぐらいだからな」と話を聞いてくれ、正社員としての採用を提案してくれた。真面目がゆえに嫌われることもあるが、真面目で得することもあるもんだと初めて思えた。オーナーはフランチャイズで多くの店舗を経営していて、僕はこれまで働いていた店舗とは別の場所での勤務がスタートした。バイトとは違って責任は重く、疲労感に満ち溢れる日々だったが、それでも懸命に働いた。給料のほとんどは賠償金の返済に消えていき、少しの贅沢も許されなかったのがかなりの苦痛だった。
その時、支えてくれたのが木下彩子だった。彼女はバイト先で唯一の同い年で、厨房を担当していた。「これ、食べて。作ってくれたの?うん。だって、なんかどんどん痩せてる気がしたから。食べないと馬力出ないよ。しっかり食べなさいよ」と手料理を持ってきてくれたり、簡単にできる料理を教えてくれたりした。なぜそこまで優しくしてくれるのかと尋ねると、彼女は笑って言った。「疲れすぎて思考止まってるんじゃない?好きな彼氏だからだよ。」
いつの間にか僕たちは付き合っていた。巨額の賠償金を背負った僕に対しても、彼女はこれまでと変わらない態度で接してくれた。付き合うことになった時も「そんなの、好きな気持ちとは関係ないから」と言い放った。何としてでも早く返済して、彼女と一緒に過ごしていきたい。そう思うようになって、僕はとにかく必死に働いた。あれから十年近い月日が流れ、昇格してかなり高いポジションの仕事を任せてもらえるようになった。
その日、僕と彩子は記念日のお祝いを兼ねて、高級レストランに足を運んでいた。雑誌やメディアでもなかなか予約が取れないと話題になる、有名な店だ。自分が勤めているレストランもそこそこ高級な雰囲気だと自負していたが、やはり毎日のように取り上げられるだけの高級感が漂っていた。二人で乾杯しながら、どんな料理が出てくるのかとワクワクする。すると彩子が言った。「あ、ごめん。仕事の連絡入ったから、ちょっと電話してくる。」
僕自身も休みの日に店から電話がかかってくる身なので、彼女の休みが休みとして機能していないのもよく分かった。彩子を送り出して一人になると、少し緊張が強く感じられる。すると突然、聞き覚えのある声で声をかけられた。「あれ?もしかして。やっぱり、伊藤じゃん。なんでこんなところにいるの?」
振り返ると、ブランド物で身を固めたゆかりが、おかしそうに笑って立っていた。高級レストランであることお構いなしに話しかけてくる。ああ、落ち込んだけど、この人と別れてよかった。心からそう思った。「誰?この人。」連れの男が尋ねると、ゆかりはけらけらと笑いながら言った。「あー、ほら、真面目すぎてつまらない人がいたって言ってたでしょ。その本人。」「ああ、あの人か。実際会えると思ってなかったよ。どうも。」
人を天然記念物みたいに紹介するなよと内心腹が立ったが、ここで怒りを露わにしたらゆかりと同じになってしまう。僕は美味しい料理を食べに来たんだと心で唱え、怒りを抑えた。「どうも」と簡単な挨拶だけ返して、もうあなたには興味ありませんという雰囲気を醸し出したのだが、ゆかりには全く響いていないようだった。「この人が私の婚約者なのよ。あの有名なレストランチェーンの食材調達を任されている会社の次期社長なの。伊藤、今仕事何してんのよ?」「レストラン経営。」「え、あんたがレストラン経営してるの?食堂みたいなとこなんじゃない?」「そうだな。」「彼にごまをすっておいたら、あんたんとこにはもったいないぐらいの食材でも提供してくれるかもよ。」
黙っておけば言いたい放題だ。言ってくだされば何度かしますよと言おうかと思ったがやめた。婚約者という男も、ゆかりの言葉にその気になってか、僕を見下した態度で接してくる。「てか、あんたがここにいるの?聞いたわよ。私に振られた後、親が死んで大学も中退したそうじゃない。」人の辛い過去を実に楽しそうに話す。どうかしているとしか思えなかった。「借金まみれなんでしょ。あんたみたいな貧乏人が来るようなお店じゃないわよ。目障りだから出てってよ。」
ゆかりの中で僕は、当時のままのイメージで止まっているのだろう。暴言を吐きながら店から追い出そうとする姿に、もはや恐怖さえ感じられた。「ごめん、お待たせ。結構長引いちゃった。」仕事の連絡を終えて戻ってきた彩子を見たゆかりは、さらに高らかに笑い出す。嫌な予感がした。その予感は数秒後、見事に的中した。「え、あなた彼女さん?待って。こんな貧乏に選ぶとかチョイス悪すぎるでしょう。目悪いんじゃない?」
突然の攻撃に彩子は何事かと目を見開いていた。だが、それと同じように目を見開いている人物がもう一人いるのを僕は見逃さなかった。婚約者の男である。「ゆかり、ゆかり、だめだ。やめなさい。」「何よ。私、あなたのためを思って言ってるのよ。早く別れた方があなたにとってもいいと思うんだけど。」婚約者の声に全く聞く耳を持たない。「だめだって。おい。」ゆかりの暴言は止まらない。「でもまあ、揃ってみると貧乏そうな雰囲気が似ているからいいのかな。あんまり口出ししない方がいいわよね。」「いい加減にしろ。」
婚約者が突然大きな声を出した。ゆかりも僕も彩子も、他の客たちもみんな驚いた様子だった。「何よ、こんなレストランでそんな大声出すなんて。」これまで大声で散々喋っていたのを棚に上げて、よく言えるなと思いながら婚約者を見ると、彼は全身から血の気が引いたように真っ白になっていた。「この方は、あの有名な料理研究家だぞ。ゆかりも動画見てただろう。」「あの、ちょっとあんまり大きな声で言わないでもらえますか?」彩子が困ったように注意する。
彩子はアルバイトで料理に目覚め、そのまま料理研究家になっていた。今や知らない人はいないのではないかと思うほどで、動画投稿サイトに料理動画を載せれば、百万回再生なんてあっという間だ。動画はどれも少しの工夫で簡単に美味しく作れるものばかりだったこともあり、老若問わず人気を集めた。中には学生時代に僕が教えてもらっていたメニューもあったから、僕自身も少し嬉しくなる。メディアが放っておくはずがなく、連日テレビや雑誌の取材対応に追われて、休みが休みじゃない生活を送っていたのだ。
「僕のいる会社の親会社を経営しているのが、この彩子さんのお父様なんだぞ。そんな口の聞き方するな。」「え、そうなの?え、じゃあだいぶやばくなくない?」小声で言っているつもりなのだろうが、動揺しているのか、こちらにも思いっきり聞こえてくる大きさで話す二人が滑稽すぎて、笑いそうになってしまう。「そういえばさっき彼にかなりひどいこと言ってたみたいだけど、あれはどういうつもりなの?」「え?聞いてたの?」僕がゆかりにボロカスに言われているのを聞かれていたのかと思うと、急に恥ずかしい気持ちになった。彼女の前ではかっこいい自分でいたかったのに、と悔しくもなる。「遠目から見てもこの方の身なりは分かったから、いつ登場して驚かせようかって見計らっていたのよ。ねえ、どういうつもりなの?」「あ、いや、それはですね、その、なんというか、ほんの出来心でと言いますか。」「出来心?いい年して、そんな言い訳が通用すると思っているんですか?」
彩子は、これまで聞いたことがないような冷静な口調で咎め始めた。「こちらにも報告して、今後の取引を考えさせてもらいます。」「そんな、本当に申し訳ございませんでした。もう行くぞ。」婚約者は絶望感溢れる表情で、逃げるように店を後にする。ゆかりは「せっかく来たのにと」と駄々をこねていたが、婚約者に無理やり連れ帰らされていった。「彼の魅力が分からないなんて。あなた、センス悪いですね。」彩子がゆかりに放ったその言葉は、恥ずかしくもとても嬉しかった。よほど悔しかったのか、ゆかりも逃げるようにその場を後にした。
そして僕たちは、再び静かになった店内で、美味しい料理について語り合いながら楽しい時間に没頭したのだった。
それから数日後、信じられないニュースが飛び込んできた。ゆかりの婚約者が、会社の金を使い込んでいた容疑で逮捕されたというのだ。彩子が父親に報告し、父親が婚約者の会社に話を通したことで、これまでのことが徹底的に調べ上げられ、発覚したらしい。さらに驚くべきことに、ゆかりは「会社の資金に必要だから」と婚約者に言われ、多額の借金をしてしまっていたのだそうだ。「社長になったら全て返ってくるから」という都合のいい言葉にまんまと乗せられたせいで、今や朝から深夜まで時間を問わず働いて返済に追われているらしい。一度だけ助けてほしいと電話がかかってきたが、僕は遠慮なく断った。気の毒とは思ったが、そこまで義理立てする必要はない。
一方、僕たちはと言うと、僕の借金返済も無事に終わり、正式に彩子と婚約することができた。義両親に挨拶に行く時はとても緊張したが、僕がお世話になっているオーナーが元々義父の部下だったらしく、オーナーから僕の話を聞いて信頼を寄せていたのだという。僕は何度もオーナーに人生を救われているなと噛みしめた。さらには義父から「うちの会社で働かないか」と提案までもらえた。義父の会社は食品業界で知らない人はいない超大手企業である。「職でもっと多くの人たちを笑顔にしたい」と思っていた僕は、二つ返事でお願いした。結婚から一年後、僕は副社長に就任した。覚えることが膨大すぎて大変ではあるが、毎日充実している。さらに、僕と彩子の間に新しい命も授かった。
「行ってらっしゃい。気をつけてね。」
朝、いつも彩子が送り出してくれる。この言葉を聞くと、早く仕事を覚えて、早く家に帰って来られるようになろうと頑張る力になる。「うん。行ってくる。」「今日の晩御飯は、伊藤の好きな煮込みハンバーグ作るつもりだから。」「え、そうなの?もう爆速で帰ってくるから。」
これ以上ない幸せを噛みしめながら、僕は今日もドアを開けて仕事に行くのだった。



