「支払い担当だから、金だけ置いていけばいい。」
成田空港のチェックインカウンターで、私はその言葉を思い出しながら呆然と立ち尽くしていた。朝のターミナルは楽しそうな家族連れで溢れている。なのに、私だけがひとりぼっちだった。
胸が締め付けられる。足から力が抜ける。
「申し訳ございませんが、王野様のご予約は30分前にキャンセルされています」
航空会社のスタッフの声が、まるで別世界から聞こえてくるようだった。手が震える。今朝、息子の健二が私のバッグをごそごそと触っていたのを思い出す。まさかと思いながら財布を確認すると、昨夜入れておいたはずの300万円の現金が消えていた。
スマートフォンが震える。健二からのメッセージだった。音声を再生すると、冷たい声が流れてきた。
「母さん、悪いけど俺たちだけで行くことにした。お前は支払い担当だから、金だけ置いていけばいい。もう家族じゃないだろ」
私は空港のベンチに崩れ落ちた。40年間、保育園で3000人の子供たちを育ててきた私が、実の息子にこんな仕打ちを受けるなんて。
私は王野知恵子、67歳。40年間地域の保育園で働き、退職金は2800万円。亡き夫の遺産と合わせて貯金は4500万円あった。でも、そのほとんどを息子のために使ってきた。健二の大学費用800万円、就職活動の支援金100万円、結婚式の費用100万円。全部、私が喜んで出したものだ。
嫁の水希も、最初のうちは優しかった。
「お母さん、これからもよろしくお願いします」
あの頃の水希の笑顔が、今となっては演技だったのかと思うと胸が痛む。3ヶ月前、健二から電話があった。
「母さん、退職祝いだよ。ハワイに行こう。家族3人で楽しもう」
私は心から嬉しかった。やっと親孝行してくれるのかと思った。旅行代金300万円を現金で用意してほしいと言われた時も、「カードだと手数料がかかるから」という理由に納得していた。
でも、この1年を振り返ると、おかしな兆候はあった。孫の教育費として月8万円を12ヶ月分、車の購入資金200万円、リフォーム費用150万円。全て私が出していた。
「お母さんには老後の楽しみなんてないでしょう。孫のために使う方が幸せよね」
水希のその言葉に、なぜあの時違和感を持たなかったのだろう。私はただ家族の役に立ちたい一心で、求められるままにお金を出し続けていた。
旅行計画が持ち上がったのは3ヶ月前。健二が珍しく実家に顔を出し、水希と一緒に切り出してきた。
「母さん、そろそろハワイでも行こうよ」
「急にどうしたの?」
「いや、母さんにはいつも世話になってるし。たまには親孝行しないとな」
その言葉に私の心は温かくなった。ところが水希が横から口を挟んできた。
「お母さん、旅行代金は現金で用意してくださいね。カードだと手数料がもったいないから」
「現金で300万円?」
「ええ、3人分のファーストクラスとホテル代、それにオプショナルツアーも含めてですから」
水希の説明は妙に具体的だった。でも、家族旅行に水を刺したくなくて、私は素直に頷いた。
「母さんは支払い担当。俺たちは楽しむ担当だから」
健二が笑いながら言った言葉。今思えば、あれが全ての始まりだった。
出発の前日、私は健二の家に泊まることになっていた。朝早い便だから一緒に空港に行こうという話だった。夜10時頃、私が荷物の最終確認をしていると、リビングから夫婦の会話が聞こえてきた。
「あの金ヅル、まだ使えるな」
健二の声だった。私の手が止まる。
「300万も現金で用意するなんて、本当に頭が悪いわね」
水希の声が続く。
「でも、これが最後だろ。もう絞れるだけ絞ったし」
「そうね。空港に置いて行けばもう終わりよ。ファーストクラスに変更する金も浮くしな」
全身の血の気が引いていく。まさか、最初から私を連れて行くつもりなんてなかったのか。
「明日の朝、財布から金を抜き取るのは任せろ」
「ちゃんとやってよ。あのババアに気づかれたら面倒だから」
「大丈夫だよ。どうせ年だし、気づきやしない」
2人の笑い声が、私の心を真っ二つに引き裂いた。
翌朝、健二は優しい息子を演じていた。
「母さん、準備できた? 荷物も持つよ」
私のバッグに手を伸ばす健二を、私は思わず制した。
「大丈夫よ。自分で持てるから」
「いいから任せて」
強引にバッグを取られ、健二は「トイレに行く」と言って姿を消した。5分後に戻ってきた時、バッグは元通りに見えた。でも今思えば、あの時すでに現金は抜き取られていたのだ。
空港までの車中、水希は上機嫌だった。
「お母さん、ハワイ楽しみですね」
その笑顔の裏にどす黒い企みが隠されていることを知りながら、私は黙っていた。証拠もないし、まさか本当に置き去りにされるとは思っていなかったから。
チェックインカウンターに着いた時、健二が言った。
「母さん、ちょっと先にチェックインしてて。俺たちコーヒー買ってくる」
2人が立ち去った後、私は1人でカウンターに向かった。そして、予約がキャンセルされていることを知らされた。
慌ててスマートフォンを確認すると、健二からのメッセージが届いていた。財布を確認して300万円が消えていることに気づいた時、私の中で何かが壊れる音がした。
40年間、子供たちのために尽くしてきた私が、実の息子にここまで裏切られるなんて。保育園の子供たちは皆、私を慕ってくれていたのに。空港の喧騒の中で、私はひとりぼっちだった。
でもその瞬間、私の中に冷たい炎が灯った。
絶対に許さない。10倍にして返してやる。
私は震える手でもう一度、航空会社のスタッフを呼び止めた。
「すみません。王野の予約状況を確認してもらえますか?」
スタッフが端末を操作する。その表情が曇るのを見て、私の予感は確信に変わった。
「王野健二様は、30分前にファーストクラスに変更されて搭乗されました」
「ファーストクラス?」
「はい。エコノミークラス3人分をキャンセルして、その場で現金でファーストクラス2人分に変更されています。追加料金は約120万円でした」
私の頭の中が真っ白になる。300万円から120万円を引けば180万円。息子夫婦は私の金で贅沢な旅行を楽しみ、お釣りまで懐に入れたというのか。
スマートフォンが再び震えた。今度は水希からのメッセージだった。音声を再生すると、甲高い声が響いた。
「お母さん、私たちは本当の家族で楽しんできますから。お荷物は日本でお留守番してて。あ、それと家の鍵は郵便受けに入れておいてくださいね。お母さんの部屋、物置にするつもりなので」
続けて健二の声。
「母さん、これが現実だよ。お前みたいな老いに家族旅行なんて贅沢すぎる。金だけ出してりゃいいんだよ。40年も働いてきたんだから、金ぐらい持ってるだろ。それを家族に使うのは当然の義務だ」
私の手からスマートフォンが滑り落ちた。老い、お荷物、金ヅル。息子の口から出た言葉とは思えなかった。
周りの視線が痛い。泣き崩れそうになる私を、空港の警備員が心配そうに見ている。
「大丈夫ですか?」
「はい。大丈夫です」
嘘だった。全然大丈夫じゃない。でも、ここで泣いてなんかいられない。
立ち上がろうとした時、また着信があった。今度は動画メッセージだった。恐る恐る再生すると、機内の様子が映っていた。シャンパンを手にした健二と水希が、ファーストクラスのシートで乾杯している。
「金ヅルババアのおかげで最高の旅行だな」
「本当。あんな簡単に騙されるなんて、ボケてるんじゃない」
「まあ、67歳だしな。そろそろ施設にでも入れるか」
「それがいいわね。財産管理も私たちがしてあげないと」
2人の高笑いが響く。動画の最後に健二がカメラに向かって言った。
「母さん見てるか? これが俺たちの本音だよ。今まで演技してたのも疲れたんだ。もう2度と会うこともないだろうし、好きに生きてくれ。あ、でも金は定期的に振り込んでくれよな。息子への仕送りだと思ってさ」
動画が終わった。私の中で何かが完全に切れる音がした。
情けは必要ない。泣き言も必要ない。この裏切りには、必ず報いを受けさせる。
私は空港のベンチから立ち上がり、背筋を伸ばした。涙を拭い、深呼吸をする。40年間、園長として多くの困難を乗り越えてきた。今回も必ず乗り越えて見せる。いや、ただ乗り越えるだけじゃない。完璧な復讐を遂げて見せる。
タクシーに向かいながら、私は冷静に状況を分析し始めた。健二たちは私を完全に見くびっている。金ヅルとしか見ていない。でも彼らは知らない。私がどれだけの人脈を持っているか、どれだけの隠し玉があるか、そしてどれだけの覚悟を持っているかを。
帰りのタクシーの中で、私は次々と行動を開始した。まず旅行会社に電話をかけた。
「王野と申します。予約番号はK1290531です。家族が病気のため、ホテルとオプショナルツアーを全てキャンセルしたいのですが」
「承知いたしました。キャンセル料が発生しますが、よろしいですか?」
「構いません。お願いします」
次に銀行に電話した。
「健二名義の共同口座を解約したいのですが」
「ご本人様の同意が必要ですが」
「私が全額入金した口座です。証明書類もあります」
私には切り札があった。健二は知らないが、共同口座の大半は私の退職金から入金したもので、その証明書類を全て保管していた。
家に着くと、すぐに金庫を開けた。そこには健二も水希も知らない、もう1つの通帳があった。亡き夫が私のために残してくれた3000万円。そして私の両親から相続した都心の土地の権利書。直近にすれば2億円は下らない資産だった。
健二たちは私が退職金と貯金しか持っていないと思っている。年金暮らしの哀れな老人だと見下している。でも実際の私の資産は、彼らの想像をはるかに超えているのだ。
パソコンを開き、メールを確認する。保育園時代の同僚や保護者からの連絡先がずらりと並んでいる。その中には弁護士、警察官、市議会議員、マスコミ関係者もいる。40年間誠実に子供たちと向き合ってきた結果、築き上げた信頼と人脈だ。
「もしもし、弁護士の田中先生ですか? 王野です。ご相談があるのですが」
「王野先生、お久しぶりです。どうされましたか?」
田中弁護士はかつて私が園長をしていた時の保護者だった。今では都内有数の法律事務所を経営している。
「それは許せませんね。詐欺罪、横領罪に問える可能性があります。すぐに動きましょう」
次に警察官の山田さんに連絡した。
「金銭トラブルですね。被害届を出すことも検討しましょう」
最後に、健二の会社に電話をかけた。
「人事部をお願いします。王野健二の母ですが、息子が会社の金を横領した可能性があります。社内調査をお願いしたいのですが」
これは嘘ではない。健二は以前、会社の接待費を個人的に使い込んだことがあった。その証拠も私は密かに保管していた。母親として見逃すべきだったかもしれない。でも、もう母親じゃない。私は今、復讐者だ。
窓の外を見ると、夕日が沈もうとしていた。健二と水希。あなたたちが奪った300万円の10倍、3000万円分の損害では足りない。精神的にも、社会的にも、経済的にも、全てにおいて10倍の報いを受けてもらうわ。
夜、私はノートを広げて作戦を練り始めた。感情的になってはいけない。計画的に、確実に、完璧に実行しなければならない。
利用できる資産。退職金の残り2000万円。夫の遺産3000万円。両親から相続した都心の土地。そして何より強力な人脈。健二たちの弱点。会社での立場。世間体を気にする水希の見栄っ張りな性質。私を完全に見くびっていること。
次に、市議会議員の佐藤先生に連絡した。佐藤議員もかつての保護者だった。
「実は高齢者への経済的虐待について相談があります」
「それは重大な問題ですね。市の福祉課とも連携して、この問題を明るみに出しましょう」
続いてマスコミ関係者の鈴木さんに連絡した。
「王野先生、それはひどい話ですね。社会問題として取り上げる価値があります」
「まだ大々的には出さないでください。時期を見計らっています」
「わかりました。いつでも動けるよう準備しておきます」
電話を切ると、私はパソコンに向かった。健二と水希のSNSのアカウントを全てチェックする。案の定、2人はハワイの写真を次々とアップしていた。最高のファーストクラス。5つ星ホテルのスイートルーム。高級レストランでのディナー。全て私のお金で楽しんでいる。
でも、この投稿が後で彼らの首を締めることになる。私は全ての投稿をスクリーンショットで保存した。
次に、健二の会社について詳しく調べ始めた。会社のホームページを開くと、企業理念のページに「誠実と信頼」という文字が大きく掲げられていた。誠実と信頼ね。母親から金を騙し取る社員がいる会社が、よくもそんなことが言えるわ。
私は取引先リストもチェックした。その中に見覚えのある会社名があった。山田正司。社長の山田さんは私の教え子だった。30年前、やんちゃだった彼を根気よく指導した記憶がある。
電話をかけると、すぐに懐かしい声が聞こえてきた。
「王野先生、お久しぶりです!」
「山田君、覚えているかしら? 実は相談があるの」
事情を話すと、山田社長は怒りを露わにした。
「先生にそんな仕打ちを。許せません。ちょうど来月、健二さんの会社との契約更新があります。考え直す必要がありそうですね」
人脈の力に、私は改めて実感した。40年間誠実に生きてきたことが、今、私の最大の武器になっている。
夜8時、私は最も重要な準備に取りかかった。健二名義の不動産について調べる。彼のマンションは私が頭金500万円を出して購入したものだ。しかし名義は健二単独になっている。
ここで私は隠し持っていた切り札を取り出した。頭金を振り込んだ際の明細書、健二が書いた借用書、そして録音データ。
「お母さん、この500万円は借りるだけだから、必ず返すよ」
3年前の健二の声がICレコーダーから流れてきた。水希は知らないが、私は全ての証拠を残していたのだ。
田中弁護士にこの証拠を送ると、すぐに返事が来た。
「完璧です。これなら裁判で勝てます。利息も含めて請求しましょう」
最後に、私は健二の上司の連絡先を調べた。営業部長の高橋さん。真面目で正義感の強い人物だと聞いている。明日の朝一番に連絡を取ろう。
私は立ち上がり、鏡を見た。そこにはもう泣いている老婆はいなかった。瞳には強い決意が宿っていた。
健二、水希。あなたたちは大きな間違いを犯したわ。私を金ヅルとしか見ていなかった。でも、この金ヅルには牙があることを教えてあげる。
健二と水希がハワイに到着して3時間後、最初の悲劇が起きた。ワイキキビーチが見える5つ星ホテルのロビー。2人は優雅にチェックインしようとしていた。
しかし、フロントスタッフの表情が曇る。
「申し訳ございません。王野様のご予約は2時間前にキャンセルされています」
「なんだって? そんなはずはない!」
健二が声を荒げた。水希も青ざめている。
「確認しますが、7日間のスイートルーム、予約番号はHW7531ですね。確かにご予約はありましたが、日本時間の午後3時にキャンセルの連絡が入っています」
2人は呆然とした。スイートルームどころか、通常の部屋すら満室だという。ファーストクラスの疲れも吹き飛び、途方にくれる2人。結局、空港近くの安いモーテルを探すはめになった。
「どういうことよ!」
水希が健二に詰め寄る。
「分からない。でも、まさか母さんが……あのババアに何ができるっていうんだ?」
2人がモーテルで言い争っている頃、日本では次の展開が始まっていた。
翌朝、私は健二の会社に電話をかけた。
「営業部長の高橋様をお願いします。王野健二の母です。重要な話があります」
「王野さんのお母様ですか? どうされましたか?」
「実は息子が会社の金を使い込んでいる可能性があります。証拠もあります」
高橋部長は驚愕した。すぐに調査が開始され、私が提供した情報により、健二が接待費を私的流用していた事実が次々と発覚した。
同じ頃、健二のスマートフォンに会社から緊急連絡が入った。
「王野君、すぐに帰国しなさい。重大な問題が発生した」
「え? でも休暇中ですが」
「休暇は取り消しだ。明日までに出社しなければ、懲戒解雇もあり得る」
健二は真っ青になった。せっかくのハワイ旅行が、入国初日で終わってしまう。さらにレンタカー会社でも問題が起きた。
「申し訳ございません。ご予約の高級車もキャンセルされています」
「オプショナルツアーも全部キャンセル? 冗談でしょう!」
水希の悲鳴が響く。豪華なハワイ旅行の計画は全て水の泡と消えた。
一方、日本では私の反撃が加速していた。健二名義の共同口座から全額を引き出した。法的に私に権利がある金額、800万円。これは全て私が入金したものだった。
資産ゼロになることを知らない健二が空港のATMで残高を確認して愕然とした。次に私は、孫用の教育資金贈与信託の解約手続きを行った。これも私が設定したもので、解約権は私にあった。500万円の教育資金が消えた。水希が泣き崩れた。
3日目、健二の会社では大きな動きがあった。山田正司からの契約解除通知。年間3億円の取引が消滅した。
「王野君のせいで会社は大損害だ。お母様から聞いたよ。君が母親を騙して金を奪ったそうじゃないか。そんな人間は我が社にはいらない」
健二は必死に弁明しようとしたが、証拠を突きつけられて言葉を失った。
同時に、私は次の一手を打った。市の福祉課に高齢者虐待の相談に行った。経済的虐待の証拠として、音声データと動画を提出した。
「これは悪質ですね。調査を開始します」
福祉の担当者は、健二の家を訪問することになった。さらに、私の教え子でもある地元新聞の記者・木村さんが動き始めた。「高齢者から金銭を騙し取る息子夫婦」という記事の取材を開始した。まだ掲載はしないが、いつでも出せる準備は整った。
4日目、健二と水希は途中帰国を余儀なくされた。帰りの飛行機はエコノミークラス。しかもキャンセル料と変更手数料で、手持ちの現金はほとんど消えた。
「こんなはずじゃなかったわ」
水希が泣きながら呟く。
「全部あのババアの仕業よ」
「でも証拠はない」
「証拠なんていらない。絶対にあの女がやったのよ」
成田空港に到着した2人を待っていたのは、さらなる地獄だった。自宅のポストには複数の通知書が入っていた。貸金返還請求の通知。私が健二に貸した500万円、利息を含めて合計600万円の返還を求める訴訟。市の福祉課からの調査通知。高齢者虐待の疑いについての聞き取り調査の日程。会社からの出社命令。懲戒委員会への出席要請。
「終わった……」
健二が膝から崩れ落ちた。
5日目、水希の周囲でも異変が起きていた。ママ友のグループラインから突然外されてしまった。
「あなたみたいな人とは付き合えない」
「お義母さんにあんなことするなんて最低」
どうやら水希の行いが、保護者の間で噂になっているらしい。私の人脈の中には、水希の子供と同じ幼稚園の保護者もいたのだ。水希は地域での信用を完全に失った。
6日目、健二の会社では懲戒委員会が開かれた。
「王野健二君は会社の信用を著しく損なった。よって降格および減給処分とする」
部長から係長への降格。給与は40パーセント減。事実上の左遷だった。
「これじゃローンが払えない」
健二は頭を抱えた。
そして7日目、私は最後の切り札を使った。健二たちがSNSに投稿したハワイの写真。それを証拠として、詐欺での被害届を提出した。
「母親から騙し取った金で豪遊していた証拠です」
警察も動き始めた。健二の家に、警察から事情聴取の連絡が入った。
「詐欺容疑で捜査を開始します」
健二と水希は完全に追い詰められた。
私は自宅でその一部始終を確認しながら、静かに微笑んだ。これが10倍よ。300万円を奪った報いが、3000万円では済まないことを思い知りなさい。仕事を失い、社会的信用を失い、財産を失い、そして家族としての絆も完全に失った。
健二から何度も電話が来たが、私は一切出なかった。留守番電話には、泣きながら謝罪する健二の声が残されていた。
「母さん、ごめん。本当にごめん。もう一度やり直させてくれ」
でも、もう遅い。私はもうあなたの母親ではない。
窓の外を見ると、青い空が広がっていた。まるで私の心が晴れ晴れとしたように。さあ、新しい人生の始まりね。私は立ち上がり、友人との約束のために準備を始めた。今日から本当に自由な人生が始まる。誰にも利用されない。誰にも騙されない。私だけの人生が。
健二と水希から謝罪の手紙が届いたのは、事件から1ヶ月後のことだった。
「母さん、本当に申し訳ありませんでした。どうか許してください。もう一度、家族としてやり直させてください」
「お母さん、私たちが間違っていました。お金を返しますから、どうか訴訟を取り下げてください」
私は手紙を読んで、静かに破り捨てた。
その日の午後、健二が直接家にやってきた。インターホン越しにやつれた顔が見える。
「母さん、お願いだ。話を聞いてくれ」
私はインターホンに向かって冷静に答えた。
「お荷物にお金はありません。それに、私はもう家族じゃないんでしょう。あなたが空港で言った通りよ」
「母さん、それは……」
「私から金を奪い、空港に置き去りにした。それはれっきとした計画的犯行よ。外の人に援助する義務はないわ。あなた自身がそう教えてくれたじゃない」
そう言って、私はインターホンを切った。
2週間後、私は都心の高級マンションに引っ越した。亡き夫の遺産と両親から相続した土地を売却して購入した、セキュリティ万全の部屋。リビングの大きな窓からは東京の景色が一望できる。朝日を浴びながらコーヒーを飲む時間が、何より幸せだった。
「知恵子さん、素敵なマンションね」
保育園時代の同僚、佐々木さんが遊びに来てくれた。
「本当に良かったわ。あんな息子さんとは縁を切って正解よ」
「ありがとう。でも、40年間育てた子供にあんな仕打ちを受けるなんて、思っても見なかったわ」
「知恵子さんは悪くない。むしろよく耐えて、見事に反撃したわ」
私たちは優雅なアフタヌーンティーを楽しんだ。こんな穏やかな時間を過ごせるなんて、数ヶ月前には想像もできなかった。
新しい生活は想像以上に充実していた。週に3回、地域の子育て支援センターでボランティアを始めた。若いお母さんたちの相談に乗り、子育てのアドバイスをする。私の40年の経験が、今度こそ正しく評価される場所だった。
「王野先生、本当にありがとうございます。先生のアドバイスのおかげで、子育てが楽しくなりました」
若いお母さんたちの笑顔が、私の心を癒してくれた。
また、保育園のOB会も定期的に開催されるようになった。私が園長だった時代の卒園生たちが、今では立派な大人になって集まってくる。
「先生、お元気そうで何よりです。先生に教わったことは、今でも私の宝物です」
「先生みたいな大人になりたくて、私も保育士になりました」
教え子たちの言葉に、私は心から幸せを感じた。これこそが私の本当の財産だった。金では買えない、人との絆という財産。
趣味の時間も充実していた。絵画教室に通い始め、水彩画を学んでいる。旅行にも頻繁に出かけるようになった。先月は京都、今月は北海道、来月はヨーロッパクルーズを予約している。もちろん、全てひとりか、気の合う友人たちとだ。
「知恵子さん、人生を楽しんでるわね」
「ええ、今が一番幸せよ。誰にも縛られない自由な人生を満喫してるの」
ある日、銀行のVIP担当者が訪ねてきた。
「王野様の資産運用について、特別なプランをご提案したく」
私の資産は今や1億円を超えていた。適切な運用で、老後の心配は全くない。
一方、健二と水希の状況は悲惨だった。風の噂では、健二は会社を退職し、アルバイトで生計を立てているという。水希とは離婚調停中で、親権争いで揉めているらしい。
因果応報ね。私は特に同情もしなかった。自業自得というものだ。
ある秋の日、私は昔の保育園を訪れた。今は新しい建物が立っているが、庭の大きな桜の木は残っていた。その木の下で、ふと健二の小さかった頃を思い出した。
「ママ、大きくなったらママを幸せにしてあげる」
あの頃の健二は純粋で優しい子供だった。どこで道を間違えたのだろう。
でも、もう過去は振り返らない。私には未来がある。67歳。まだまだ人生は長い。これからの20年、30年を、私は自分のために生きる。誰かの金ヅルとしてではなく、ひとりの人間として、尊厳を持って生きていく。
夕暮れ時、マンションのバルコニーから夕日を眺めながら、私は静かに微笑んだ。人を軽く見た者は、必ず報いを受ける。でも、誠実に生きてきた人にも、必ず幸せが訪れる。
私の物語はここで終わりではない。新しい章の始まりだ。今、私は心から言える。私は勝利者だ。そしてこれからも強く、美しく、誠実に生きていく。
空に向かって、私は誓った。もう二度と、誰にも屈しない。私の人生は、私のものよ。
風が心地よく頬を撫でていく。まるで亡き夫が「よく頑張ったね」と言ってくれているような気がした。



