高級料亭の前で、見覚えのある男に声をかけられた。
「あれ?もしかして、うちの店を辞めていったジジイじゃねえの?」
その男は、かつて俺が職場で指導していた部下であり、俺を退職に追い込んだ張本人、木村敬吾だった。
甘やかされて育ったせいか、わがままで社会人としての自覚がなく、人を見下す言動を繰り返していた。さすがに我慢できずに怒鳴ったことがあったが、それがこの男の恨みを買い、俺は退職に追いやられてしまった。
あの出来事以来、男に会うことはなかったが、まさかこの料亭で再会するとは思わなかった。
「あのなあ、ジジイ。ここは老人会をやる場所じゃねえんだよ。とっても重要な相談をする場所なんだ。どれくらい重要かって?10億だぞ。10億。今から俺は10億の商談をするんだよ。お前には間違いだ。消えろよ。」
相変わらずの暴言に呆れていると、一人の男が近づいてきた。すると、俺に暴言を吐いていた男は急に態度を変え、気持ち悪いほどの笑顔で出迎えた。
「社長、お待ちしておりました。さあ、準備ができておりますので、中へお入りください。」
どうやらこの男が10億の商談相手らしかった。だが、社長と呼ばれた人物は、媚びる男を無視して俺に近づき、にっこりと笑った。
「親父、偶然だな。」
俺の名前は日野正。関東地方の大手スーパー「木村」で、成果部門のバイヤーとして働いていた。現場で鍛えられて買い付けの仕事を覚えた、叩き上げのバイヤーだ。
バイヤーの仕事を知れば知るほどのめり込み、気づけば良い食材を求めて国内外を飛び回る毎日を送るようになっていた。そんなキャリアを買われて、今では後輩を指導する立場になっている。
バイヤーはただ品物を仕入れればいいというものじゃない。消費者の需要があるものを見極めて仕入れる必要があり、市場動向や仕入れ先との関係性も重要になる。仕入れた商品が売れずに余ってしまったら、それはバイヤーの責任だ。
大変ではあるが、お客様が喜んで品物を買っていく姿を見ると嬉しくなるし、自分の予測通りに品物が売れるのは達成感がある。俺はバイヤーの仕事に誇りを持ち、日々の業務に当たっていた。
ある日、社長からとんでもないお願いをされた。
何でも社長の息子、木村敬吾さんが中途入社し、バイヤーとして勤務するという。その指導を俺に任せたいということだった。
バイヤーは販売員から経験を積み、徐々にステップアップしてなるもので、最初からバイヤーとして務めるのは異例だ。大学で流通やマーケティングなどを勉強したのかと聞けば、そうでもないという。どうやら息子の「バイヤーになりたい」という一言に、親バカで有名な社長がゴリ押しで決めてしまったようだ。
「よろしく頼むぞ」という社長に、俺は「はい」と曖昧な返事をして社長室を出た。
息子の入社の話も、俺が指導係になることも、あっという間に広まった。特に耳が早いのが、長年木村に勤めているパート清掃員の年配女性だ。俺が入社するよりも前から勤めているから、まさに木村の生き字引とも言える人だ。
俺の顔を見るなり「日野さん、大変ね」と声をかけてきた。
「今度入ってくる社長の息子さんの面倒を見ることになったんでしょ?あのわがままな子をお世話するなんて、苦労するわよ。」
「え、わがままなんですか?社長の息子さん。」
「そうなのよ。ほら、うちの社長、親バカでしょ。息子の欲しがるものはホイホイ買って、何でも言うことを聞いて。そりゃわがままに育つわよ。」
そこまで言うと、パート社員は周りを気にするように声を潜めた。
「何でも大学卒業して一度は就職したらしいんだけど、職場が合わないってすぐにやめたんですって。その後は働かないでブラブラしていたそうよ。そんな子が日野さんみたいなバイヤーになれるかしらね。」
パート社員の話を聞いていて、だんだん不安になってきた。俺にわがまま息子の指導ができるだろうか。
「まあ、頑張ってね、日野さん。」
パート社員の女性は無責任に俺を励ました後、掃除用具の積まれたカートを押しながら去っていった。
俺の不安は的中し、入社してきた社長の息子、敬吾さんは絵に描いたような不真面目な若者だった。
まず姿勢が悪く、話を聞くのもポケットに手を突っ込んだまま。ギロリとした目つきは人を小馬鹿にしているかのようだ。こんなに構えたような態度で、よく一度は就職できたなと思う。
「木村敬吾です。どうぞよろしく。」
指導係の俺に対して、いかにもめんどくさそうに挨拶する。バイヤー云々の前に、まず社会人として教育しなければならないと思うと頭が痛くなった。
「指導係の日野です。今日からバイヤーの仕事について色々指導していきますが、その前にその言葉遣いを直してください。ここは職場だ。上司には敬語を使いなさい。」
「はあ?めんどくせえ。言葉遣いなんかより、早くバイヤーの仕事教えろよ。」
「こんな口の聞き方で取引先やお客様とやり取りができると思ってるんですか?社会人として基本的なことすらなっていないのに、いきなり教えることはできませんよ。」
「うるせえな。社長の息子にそんなこと言ってもいいのかよ。」
「そんなことは関係ありません。今は私が上司なんです。入ってきたばかりの新人なんだから、素直に言うことを聞きなさい。」
すると敬吾さんは、あからさまに嫌そうな顔をして舌打ちをした。
「ちっ、うぜえ。バイヤーって響きがかっこいいからやってやろうと思ったのに。なんでこんなジジイの言うこと聞かなきゃならねえんだよ。」
舌打ちしたくなるのはこっちだ。これまで指導してきたどの後輩よりも苦戦しそうだと感じた。
それから指導が始まったが、敬吾さんは全くやる気を見せようとしない。店頭に出ても不機嫌な態度は崩さないし、店内のことや商品についても覚える気がない。他の社員やお客様への態度も最悪。
敬吾さんの態度に呆れ果てた俺は、何度か社長に直談判したが、「まだ仕事に不慣れだから、きっとそのうち良くなる。根気よく指導してやってくれ」などと、まるで取り合ってくれない。
こんな親バカな態度だから、あんなわがままで常識知らずな息子に育つのだと、内心呆れてしまった。
そんなある日、俺は仕入れ先の農家へ挨拶に行くため、敬吾さんを連れて行こうとした。
スーパー木村の売りは新鮮な農産物だ。もちろんこれは俺が直接農家へ行き、野菜の状態を見極めて仕入れるかどうか決めている。それに生産者と話すことで、野菜作りのこだわりや思いを聞ける。どれだけ愛情を込めて野菜や果物と向き合っているのか聞くだけで胸が熱くなるし、ぜひ消費者に届けたいと思う。このような生産者との交流もバイヤーの魅力の一つだ。
敬吾さんにも同じような思いを少しでも感じてもらいたかったのだが、俺の話を聞くなり嫌な顔をした。
「の?遠いの?」
「1時間半ぐらいかな。」
「でげえじゃん。わざわざ挨拶でそんな田舎に行きたくねえよ。」
「何を言っているんですか?木村に新鮮な野菜を届けてもらっているんですよ。挨拶に行くのは当然です。」
「なんでそんな面倒なことやらなきゃならないんだよ。勝手に持ってきてるだけじゃねえか。」
「勝手じゃない。いいですか?バイヤーは自分の目で品物を見て、店に置く商品を決めます。適当に決めて売れ残ったりしたら、それはバイヤーの責任なんです。しっかりした見極めが大切なんですよ。」
俺は懸命に説明するが、敬吾さんは少しも耳を貸そうとしないで、鬱陶しそうに顔をしかめるだけだ。すると突然、何か思いついた顔をした。
「そんな面倒なことしなくても、あんたの仕入れ先をもらえばいいんだよ。おい、あんたの仕入れ先全部俺によこせ。あんただってもう年だし、そのうちやめるんだろ。俺がそのまま引き継いでやるよ。」
「バカを言わないでください。引き継ぐにしても、今のあなたには到底任せられない。バイヤーよりもまずは社会人として自覚を持って。」
「ガチャガチャうるせえジジイだな。長く働いてるからって偉そうにしてんじゃねえよ。いい加減引退しろ。」
敬吾さんの暴言にカチンと来た。社会人としての態度もなっていない上、俺の仕入れ先を横取りしようとする。どの仕入れ先も大切だというのに、こんな常識知らずに任せてたまるかと怒りが湧く。気づけば俺は職場にも関わらず大声をあげていた。
「いい加減にしろ。バイヤーを舐めるな。」
俺の一喝に敬吾さんは驚き、腰かけていた椅子から転がり落ちた。恥ずかしさのせいか、それとも怒りのためか、敬吾さんの顔がみるみる赤く染まっていく。
「く、くそ。ふざけんなよ、ジジイ。偉そうにしやがって。ただじゃおかねえからな。」
敬吾さんは吐き捨てると、止める間もなく部屋から出ていった。
俺の怒声と突然の敬吾さんの逃亡に驚いたのか、ほかの社員が恐る恐る部屋を覗く。「何があったんですか」との質問に、俺は「何でもない。驚かせて悪かった」と答えた。
指導係としてこちらは真摯に接しているつもりだが、敬吾さんが改善する様子は一向に見られない。これ以上の指導は無駄ではないかと思い始めた俺は、明日もう一度社長に直談判しようと考えながら、仕入れ先に向かう準備をした。
翌日、出社すると社長に呼ばれた。昨日の件もあるため、早速社長室へ向かうと、険しい顔をした社長が俺を出迎えた。
社長が重々しく口を開く。
「昨日、単刀直入に聞く。仕入れ先に不当な取引を要求しているというのは本当か?」
「は?何のことですか?俺が不当な取引をしたことは一度もないし、やろうとも思わない。何をどうすればそんな話が出てくるのか、全くもって謎だ。」
だが、なんとなく嫌な予感がした。
「昨日、息子が報告したんだ。お前が木村の有利になるように仕入れ先に圧力をかけているとな。」
「何ですかそれは?そんなことありえません。」
「なら、嘘をついているというのか?息子が嘘をつくわけがない。嘘をついているのはお前の方だろう。」
社長はデスクをバンと叩き、俺を睨みつける。俺はとっさに察した。敬吾さんが昨日の腹いせに、父親に嘘の報告をしたのだと。
親バカな社長のことだ。息子の言うことを疑うことなく信じている。長年木村に務め結果を出してきた俺よりも、わがままな息子の言うことを信じているのだ。社長の目は節穴なのかと、怒りよりも失望感が胸に広がった。
「これは木村の信頼を失墜させる重大事案だ。昨日付でお前を成果部門のバイヤーから外し、代わりに息子に後を引き継がせる。お前はグループ会社へ出向だ。いいな。」
社長の言葉が死刑宣告のように聞こえて、頭が真っ白になる。間違っていたのは敬吾さんではなく、俺だというのか。社会人としてもバイヤーとしても自覚のかける息子を怒鳴ったぐらいで、こんなことになるとはあんまりじゃないか。
俺は唇を噛みしめ、震える拳を握り込む。
「話を聞いているのか?」
「社長、私は出向先へは行きません。このまま会社をやめます。」
何度言っても態度を改めない敬吾さんにも、俺の言い分を聞かず息子の嘘の報告を信じる社長にも愛想がつきた。もうこれ以上木村にしがみつく必要もないし、したくもなかった。
「そうか。分かった。」
社長は惜しむ言葉もないまま頷いた。
その日のうちに退職の手続きが行われ、俺は今までお世話になった取引先や社員たちに挨拶して回った。誰もが驚き、「やめないで」と言ってくれたのがありがたかったが、俺はすっかり意気消沈して、力なく「お世話になりました」と返すだけだ。
挨拶回りも落ち着いた頃、ぐったりする俺に敬吾さんがニヤニヤしながら近づいてきた。落ち込む俺を一瞥すると、鼻で笑う。
「ざまあみろ。俺をバカにするから、お前をやめさせてやったぜ。俺の言う通りにしていれば、もう少し長く働けたかもしれないのにな。」
俺は言い返す気力もないまま黙っていると、敬吾さんは下卑た笑い声をあげる。
「はっ、いい気味だ。やめてくれて助かるぜ。ああ、あんたの仕入れ先は俺がちゃんと引き継ぐから、安心してやめていいぜ。じゃあな、ジジイ。」
敬吾さんは手をヒラヒラと振って去っていく。あんな言い方をされて、悔しさよりも情けなさが勝った。あんな若造にいいようにされて、俺のこれまで築いてきたものは何だったのかと、気持ちがずっと重くなる。これまでの仕事人生で一番の屈辱に、もう二度と立ち直れないと思うほど強い失望感を味わった。
退職後、俺は家に引きこもり、重苦しいため息ばかりついて過ごしていた。再就職どころか社会復帰できるか危うい状態だった俺を救ってくれたのは、息子の正一だった。
一人息子の正一は、俺が成果のバイヤーとして働いていることに影響を受け、卒業後は大手食品メーカーに就職した。家では食品業界のニュースやトレンドについて意見を言い合い、まだ見ぬ食材を求めて一緒に遠出するなど、親子揃って食材バカだ。
俺の退職の経緯を聞いた正一は「なんて親子だ」と俺の代わりに怒り、そしてこう言った。
「親父、バイヤーの経験を生かして新しいことを始めてみたら?俺は親父以上のすご腕バイヤーは見たことないし、このまま引退なんてして欲しくない。親父の力を必要としてくれる人は、日本のどこかに必ずいるはずだ。俺も協力するから、頑張ろう、親父。」
正一の力強い言葉に、思わず涙が出た。同時に、ここまで頼もしく育った息子を誇りに思った。そうだ、俺はまだやれる。あんなわがままな敬吾さんに振り回され、社長に信じてもらえなくても、俺はこれまで自分が築き上げてきたものや息子を信じる。
退職してからずっと下を向いてばかりだったが、ようやく顔を上げて立ち上がった瞬間だった。
それから2年後のある夜のこと、俺はある料亭の前にいた。落ち着いた雰囲気のあるその料亭は、有名人もこっそり通う隠れた名店だ。俺はここで会食があるため出向いたのだが、そこで思いがけない人物と再会することになる。
俺を木村退職に追いやった人物、木村敬吾さんだった。
敬吾さんは高級そうなスーツを着て身なりは立派にしていたが、俺に気づくなりニヤリと嫌な笑みを浮かべた。会見は立派だが、中身は変わっていないことが一目でわかる。
「あれ?もしかして、うちの店をやめていったジジイじゃねえの?」
軽薄な雰囲気をまといながら近寄ってきた。俺は敬吾さんと話すことはないので無視したが、向こうは俺に構わずベラベラと一方的に喋ってくる。
「相変わらずうざそうな顔してんな。やめる時あんなにしょぼくれてたのに。俺はあんたが残した取引先のおかげで順調にやってるぜ。それだけは感謝だなあ。」
敬吾さんはそう言ってニヤニヤと笑う。部下を持つ立場になったのか、敬吾さんの背後には数名の社員らしき男たちが困惑の表情を浮かべて佇んでいる。その様子を見て、あのわがままな男に振り回され苦労しているのだろうなと心の中で同情する。
そんな風に思われているとは知らない敬吾さんは、「実はこれから商談なんだよ」と聞いてもいないことを口にした。
「聞いて驚くなよ。10億の商談だぞ。しかも相手は有名な大手食品メーカーの社長だ。どうだ?もうあんたがごちゃごちゃ文句を言っていた頃の俺じゃねえんだよ。かったらどっかへ消えろよ、ジジイ。」
「あいにく俺もこれからここで会食なんだ。」
「はあ?ジジイが会食?老人会の集まりの間違いなんじゃねえの?来る場所違うっつうの。」
そんな無意味なやり取りが続いていた時だ。スーツ姿の男が一人、コツコツと靴音を鳴らしながらこちらに近寄ってきた。敬吾さんはその姿を確認した途端、急に態度を変え「社長」と呼んだ。どうやらその男が商談相手らしく、敬吾さんは気持ち悪いぐらいの愛想で出迎える。
「いやあ、お待ちしておりました。さあ、準備はできておりますので参りましょう。」
俺は少し感心してしまった。まさか口の聞き方も分からなかったあの敬吾さんが、目上の人間に対して適切な言葉遣いができるようになっていたとは。中身は変わらないが、上の言葉だけはこの2年間で変わったようだ。
だが、社長と呼ばれた男は敬吾さんを無視して横を通り過ぎると、俺の目の前で立ち止まり口を開いた。
「親父、偶然だな。」
「なんだ、お前もここに用があったのか、正一。」
「ああ、まあね。」
敬吾さんが社長と呼んだ人物、それは息子の正一だった。
大手食品メーカーに務めていた正一は、同期で入社した社長の一人と職場恋愛して結婚。正一は義理の父親、つまり社長に気に入られていたことから、社長の秘書として仕事を覚えた後、新たに社長の座に着いたのだった。
「もしかして親父も商談に?」
「ああ、そうだ。コンサル順調だな。」
正一がニカッと笑う。
退職後、正一の勧めで俺が始めたのは、食品企業向けのコンサルティング業だ。内容はバイヤーとしての経験を基にアドバイスを送り、経営や売上アップに貢献するというものだ。
俺のコンサルティングを受けた最初のクライアントは、実を言うと正一の会社だ。若干伸び悩みのある部分についてアドバイスすると、問題が解決し業績が良くなったのだ。これに自信を持った俺は、SNSで自分のプロフィールや経歴を書き、「コンサルティング受け承ります」と発信したところ、数件の問い合わせをもらって驚いた。
自分では気づいていなかったことだが、俺はバイヤーとしてそれなりに名前が知られていたようで、「ぜひお願いしたい」との連絡を受け取った時は嬉しくて涙が出そうになった。
こうしてコンサルの仕事を始めて2年、今ではすっかり有名になり、業界内でそれなりの影響力を持つようになっていた。俺としては有名になるよりも、バイヤーの経験を生かして人の役に立てていることが嬉しいのだが。
この料亭もクライアントと食事しつつ、共に進めているプロジェクトについて話し合うつもりで予約したのだが、まさか敬吾さんと正一も同じ料亭に来るとは思わなかった。
「偶然同じ料亭を使うことになるとはな」と親子揃って話していると、状況についていけない敬吾さんが呆然とした表情でこちらを見ていた。
「社長、そのジジイと知り合いですか?」
「知り合いも何も、俺の父親ですよ。今は結婚して苗字が変わっていますが、俺の旧姓は日野です。」
「日野…そこのジジイと同じ…。」
「あと、人の父親をジジイ呼ばわりするのをやめてもらえませんか?実は先ほどあなたが父に暴言を吐いているのも聞こえていたんですよ。随分失礼な物言いをするんですね、木村さんは。」
正一に詰め寄られ、敬吾さんはしどろもどろになって答えられない。どうやら力のある人間には、自慢の暴言は吐けないらしい。
正一は「こんなに失礼な相手との商談は無駄なようだ」と息をつく。それに驚いたのは敬吾さんで、とっさに腰を低くして頭を下げる。
「ま、待ってください。今のはほんの冗談ですよ。冗談。商談の緊張を和らげようとしただけで…。」
慌てる敬吾さんは、後ろに控えている部下にも頭を下げろと号令する。慌てて頭を下げる部下たちを見て、正一はますます顔をしかめる。
「父が木村を退職したのは、あなたが原因だと聞いている。そんな相手と大事な取引をしようと考えたのが、そもそもの間違いだったかな。」
「そ、それはそこの男が勝手にやめただけで…。」
「正一。もういい。終わったことだ。」
「親父…。」
正一はまだ納得がいっていないという顔をしているが、いくら敬吾さんを責めたところで過ぎたことが変わるわけではない。それよりも未来のことが重要だ。
俺は敬吾さんに、今日会う商談相手の名前を伝えた。そこは近年売上を急激に伸ばしているスーパーで、木村のライバル店だ。さすがに敬吾さんも名前は知っているようで、ゲッと苦い顔をした。
そのスーパーは現在大きなプロジェクトが進行中で、成功すれば売上の面で木村に追いつき、引き離すことにもなるだろう。そこまで話すと、俺は正一に「お前も同席しろ」と呼びかける。
「相手にとっても、お前の会社にとってもいい話になるはずだ。それに…。」
そこで一旦言葉を切って、敬吾さんを指差す。俺の視線に、敬吾さんの方が一瞬ビクッと震えた。
「…木村はこいつで終わりだ。ここで見切りをつけて、新しいビジネスパートナーを見つけておけ。」
「分かった。親父がそういうなら同席するよ。」
「というわけで、木村さん。今日の商談も取引の話も、なかったことにしてください。それでは。」
正一はにっこり笑って一礼すると、俺に続いて料亭の中へ入る。背後では敬吾さんの慌てふためく声が聞こえたが、俺も正一も振り返ることはなかった。
その後、先方のクライアントも到着し、正一を交えての商談はスタートした。話し合いはスムーズに進み、プロジェクトは正一の会社も参加しての一大事業に発展した。俺も持てる力や知識の限りサポートした結果、プロジェクトは見事に大当たりし、売上の面でとうとう木村に追いついた。
先方にとって木村に追いつくことは悲願だったらしく、何度も礼を言われた。この瞬間がたまらなく嬉しく、コンサルティングを始めて良かったと心から思う。
プロジェクトの成功を喜んでいる一方で、木村の業績は悪化しているとの情報を耳にした。調べてみると、敬吾さんが俺から横取りした仕入れ先との契約が次々終了しているらしく、更新もできていないとのことだ。木村の売上を支える新鮮な野菜や果物、それらが入荷できず、代わりに品質の低い商品を置いたため客足が遠のいているようだ。
バイヤーにとって商品の目利きは重要だが、人とのコミュニケーションも同じぐらい大切なものだ。敬吾さんのあの人を馬鹿にするような性格では、仕入れ先も今後も契約を結びたいとは思わないだろう。敬吾さんが仕入れ先との信頼関係を深める努力をしていなかったことが、ここに来て露呈したのだ。
コンサル業を始め業界内の情報に多く触れるようになって以降、こうなることは薄々わかっていた。だから俺は商談の前、敬吾さんに向かって「終わりだ」と言ったのだ。
この事態を受けて、木村の社長の影響力も弱まり、お荷物でしかない息子は地方店舗に左遷されたと聞いた。
木村の影響力が失墜していく中、俺は木村に務めていた頃にお世話になった農家へ挨拶周りへ行った。俺はもう木村の人間ではないが、「お久しぶりです。お変わりありませんか」と声をかけると、どの農家も心よく迎えてくれた。そして「日野さんの後任の木村敬吾って人、態度が悪くて最悪だ」と口を揃えて言うのだった。
俺が現在コンサル業をしていること、そしてどの会社もいい仕入れ先を探しているので話をしませんかと伝えると、農家側も「ぜひ話を聞きたい」と乗り気になった。こうして農家と企業に新しい繋がりができて、双方にとって良い取引が行われることになる。
お互いが満足する取引ができたことに、俺は深い満足感を覚える。ああ、長年バイヤーの仕事をしてきて良かった。コンサルティングを始めて良かったと。
木村を退職した時、自分を見失いかけたが、第二の人生とも言える今の仕事を始めたことで充実した毎日を過ごしている。それに息子の正一も俺の背を見て食品業界に入り、今や社長として活躍している。俺がこれまでやってきたことは間違いではなかったと振り返りながら、今日も企業と仕入れ先の間に立つべく忙しく飛び回っている。



