おせち料理が得意な母が、年末の夜になって買い忘れに気づいた。こんな時間に一人で行かせるわけにはいかない。俺は疲れた体を引きずって、母と一緒に近所のスーパーへ向かった。
公園の前を通りかかったとき、ガサゴソと物音が聞こえた。野良猫だろうか。気になった俺は、音のする方へ足を向けた。すると、土管の中に一人の少女がいた。裸同然の薄着で、寒さに震えている。小学校低学年くらいだろうか。
「大丈夫か?」
少女は何も答えず、ただ固まっていた。母も駆け寄り、少女の姿を見て息を呑んだ。
「お父さんとお母さんは?」
その言葉に、少女の目から涙がこぼれた。
「パパなんていない。ママを置いてきちゃった」
話を聞くと、少女は千尋ちゃん。両親は離婚していて、今は母と二人暮らし。その日、留守番中に父親が突然現れ、怖くなって家を飛び出したらしい。夢中で逃げるうちに靴も脱げて、土管に隠れていたのだ。
「ママが、パパにひどいことされてるかもしれない」
俺と母は顔を見合わせた。このまま放っておけない。俺は千尋ちゃんをおぶって、家に連れて帰ることにした。
家に着くと、母は毛布と温かいココアを用意した。千尋ちゃんは小さな手でカップを握りしめ、おずおずと口をつけた。
「おいしい」
その言葉に、母はほっとしたように笑った。名前を聞くと、千尋ちゃんは少しずつ話してくれた。父親は暴力を振るう人で、母親は千尋ちゃんを守るために離婚し、この町へ引っ越してきたという。
「一度警察に相談した方がいいかもしれないわね」
母の言葉に、俺は首を振った。
「でも、現場に父親がいなければ意味がない。千尋ちゃんの話だけじゃ、警察も動いてくれないだろう」
考えた末、俺は立ち上がった。
「母さん、千尋ちゃんを見てて。俺が様子を見てくる」
千尋ちゃんに住所を聞き、俺は家を出た。公園の近くまで来ると、女性の声が聞こえた。
「千尋! どこにいるの?」
声の主は、千尋ちゃんの母親だった。手には小さな靴を持っている。俺は事情を説明し、彼女を家に連れて行った。
玄関で母の姿を見た千尋ちゃんが、走って飛びついた。
「ママ!」
「千尋、無事で良かった」
母親は千尋ちゃんを強く抱きしめた。道端に落ちていた娘の靴を見つけたとき、嫌な予感がして怖かったと、彼女は震える声で話した。
落ち着いた頃、俺たちは母親から詳しい話を聞いた。彼女は酒井さん、33歳。元夫はストレスを家族にぶつけるような人で、その脅威から千尋ちゃんを守るために離婚した。しかし、今の住所がバレてしまったのだ。
「これからどうすれば……引っ越しするお金なんてないし」
酒井さんはうつむいた。すると、母が口を開いた。
「よかったら、うちに住まない?」
「え?」
「うちは4年前に夫が亡くなって、部屋が余ってるの。引っ越しの準備ができるまで、使ったらいいわ」
「でも、そんな……初対面の人にそこまでしてもらうわけには」
「気にしなくていいのよ。ご近所さんなんだから、助け合うのは当然でしょ」
俺も母の言葉に頷いた。
「そうですよ。俺たちにできることがあるなら、手助けします」
酒井さんは涙を流しながら、深く頭を下げた。
「本当にありがとうございます。お言葉に甘えてもいいですか?」
こうして、酒井さん親子との共同生活が始まった。
千尋ちゃんは母の作る料理が気に入ったのか、日に日に懐いていく。しかし、俺に対してはそっけない態度だった。父親のトラウマから、男性を警戒しているようだ。
「敬一さん、ごめんなさい」
酒井さんが謝ってくるが、千尋ちゃんが悪いわけではない。
「謝らないでください。少しずつ慣れてくれればいいと思います」
俺は千尋ちゃんと目線を合わせて話すように心がけた。構いすぎないように、でも優しく。
そして迎えたお正月。親戚が集まる中、酒井さん親子も一緒に過ごした。最初は知らない人に囲まれて怖がっていた千尋ちゃんも、母のおせちを食べて無邪気な笑顔を見せた。
「おいしい!」
その姿に、俺はほっとした。
冬休みの間、俺は千尋ちゃんの宿題を手伝ったり、公園に連れて行ったりした。少しずつ、千尋ちゃんも俺に話しかけてくれるようになった。
「敬一お兄ちゃん、この問題教えて」
ぎこちないながらも、言葉を交わす機会は増えていった。酒井さんが言うには、千尋ちゃんが男性と話すのは初めてだという。
「きっと敬一さんが優しいからだと思います」
その言葉に、胸の奥が温かくなった。
ある日、酒井さんが言った。
「千尋のお気に入りのぬいぐるみを取りに行きたいんです。あの時は慌てていて、持ってこれなかったので」
千尋ちゃんは毎日抱いて寝ていたぬいぐるみがないせいで、夜なかなか眠れないらしい。
「じゃあ、俺も一緒に行きますよ」
さすがに一人で行かせるわけにはいかない。週末、俺たちは酒井さんの元の家へ向かった。千尋ちゃんも一緒だ。
家に着き、ぬいぐるみを手にした千尋ちゃんは嬉しそうに抱きしめた。
「あ、くまちゃん!」
しかし、長居はできない。すぐに家を出ようとしたその時、背後から声がした。
「おい、やっと帰ってきたのか」
振り返ると、見知らぬ男が立っていた。酒井さんの元夫だ。
「お前たちが帰ってくるのを待ってたんだよ。俺たちは家族だからな」
千尋ちゃんは怯えて酒井さんの後ろに隠れた。酒井さんも顔を歪めて元夫を睨む。
「お前たちが出ていって、ようやく気づいたんだ。2人は俺にとって大切な存在だったって。だから、早くよりを戻そう」
しかし、その言葉には反省の色がない。
「これからもお前は俺のために働けよ。どうせ2人での暮らしは苦しいだろう」
酒井さんは冷たい目で元夫を睨んだまま言った。
「生活が苦しいって分かってるなら、養育費を払ってくれませんか? 私たちは大切な存在なんでしょう」
元夫は養育費を一度も払っていないらしい。
「養育費を払いもしないで、私たちのことが大切? 意味が分からない。笑わせないで」
「何を言ってるんだ」
「私はあんたの顔なんか見たくないの。千尋のためにも、今すぐここから立ち去って」
その言葉に、元夫の表情が一変した。
「人が優しく言ってりゃ、付け上がりやがって。なんでお前なんかに金を渡さなきゃならないんだよ。お前が勝手に逃げたんだろ。自分の金で育てろよ」
元夫は酒井さんに詰め寄った。俺は慌てて2人の間に割って入った。
「待ってください。少し落ち着きましょう」
「なんだ、部外者が口出すな。邪魔だ」
「部外者じゃありません。俺にとって酒井さんと千尋ちゃんは大切な人なんです」
「だからなんだよ。お前と彼女がよりを戻すことはない。諦めてさっさと帰れ」
「ふざけるな」
元夫は顔を真っ赤にして俺を睨んだ。すると、今度は千尋ちゃんに泣きついた。
「千尋、2人がひどいことを言うんだ。千尋は味方だよな」
実の娘だから、自分の言うことを聞くと思っているのだろう。俺は思わず声を荒げそうになった。しかし、次の瞬間、千尋ちゃんが言い放った。
「新しいパパがいるから、もういらないの」
元夫は目を丸くして驚いた。俺も酒井さんも言葉を失った。
「新しいパパの方が優しいもん」
そう言って、千尋ちゃんは俺のシャツの裾を掴んだ。俺は一瞬戸惑ったが、すぐに酒井さんと千尋ちゃんを守るように前に立った。
「これからは俺が2人を守る。だから、あんたは帰ってくれないか? 帰らないなら警察を呼びますよ」
元夫は悔しそうな表情を浮かべたが、警察を呼ばれるのは嫌なのだろう。下唇を噛みしめたまま、ようやく帰っていった。
「よかった……」
酒井さんは安堵の息を漏らした。
「敬一さん、本当にありがとうございました」
「いえ、俺こそ彼氏のふりをしてすみません」
「いえ、助かりました。私だけだったら、元旦那は帰らなかったと思います」
しかし、安心はできない。今後も元夫が来ないとは限らない。やはり一刻も早く引っ越すべきだ。
翌日から、酒井さんは新居を探し始めた。そして、引っ越しが決まった途端、俺はとてつもない寂しさを覚えた。酒井さんと千尋ちゃんとの生活が、楽しかったのだ。
「叶うなら、まだ2人と暮らしていたい」
そう思った瞬間、俺は酒井さんが好きだと気づいた。しかし、2人のことを思えば思うほど、告白する勇気が持てない。
「敬一、あんたこのまま2人がいなくなってもいいの?」
母が心配そうに聞いてきた。母は俺の気持ちに気づいている。
「2人が幸せなら、それでいいよ」
「これであんたは後悔しないの?」
母の顔は真剣だった。
「結果なんか気にしないで、一度自分の気持ちを伝えるべきよ」
迷っていると、ある日、千尋ちゃんが俺をまっすぐ見つめて言った。
「敬一なら、千尋のパパになってもいいよ」
「え?」
「だから、これからも一緒にいようよ」
知らない間に、千尋ちゃんはこんなにも心を開いてくれていたのか。
「引っ越したくないってこと?」
「うん。ママと敬一お兄ちゃんとおばちゃんと、4人で暮らしたい」
「千尋ちゃん……」
「ママに気持ち伝えてもいい?」
「え? 敬一ならいいよ」
千尋ちゃんは笑顔で言った。俺は目頭が熱くなった。ここまで言われたら、頑張らなくちゃいけない。
数日後、仕事を終えて家に向かうと、後ろから酒井さんに声をかけられた。
「敬一さん、今帰りですか?」
「ああ、お疲れ様です」
俺たちはいつものように話しながら、一緒に家へ向かった。酒井さんは家探しが順調だと言う。ここで言わなければ。
「あの、酒井さん。やっぱり引っ越さないでください」
「え、どういうことですか?」
心臓が大きく波打った。俺は思いを正直に伝えた。
「これからも酒井さんと千尋ちゃんと一緒にいたいんです。俺は酒井さんが好きです」
そう告げると、酒井さんの目から涙がこぼれた。
「本当に?」
「はい。だから、引っ越しはやめて、俺と家族になってください」
すると、酒井さんは俺の手を握ってきた。彼女の手は温かくて、内心ドキッとした。
「私も敬一さんが好きだったんです。本当は引っ越したくなかった。でも、迷惑はかけたくない。そう思って急いで家を探していました」
「そ、それじゃ……」
「はい。私と千尋を家族に入れてください」
「もちろんです」
俺は先日の千尋ちゃんの言葉を酒井さんにも伝えた。
「やっぱり千尋も寂しかったんですね」
「やっぱり?」
「ここのところ千尋、元気がなかったんです。引っ越してもまた2人に会いに来ればいいって話したんですけど、でもあの子には辛すぎたのかもしれません」
「これからは、酒井さんと千尋ちゃんは俺が守りますから」
「敬一さん……」
こうして俺たちは付き合うことになった。引っ越しはなくなったわけではない。元夫から逃れるためには、早々に俺の家に引っ越す必要がある。俺は母と千尋ちゃんに事情を伝え、酒井さんとの結婚を決めた。
「こんなに可愛い娘と孫ができるなんて、私は幸せね」
母は大号泣し、引っ越しにも大賛成だった。
引っ越しから半年後、小さいながらも式を挙げた。リングガールは千尋ちゃんが務めてくれた。親戚みんなが祝福してくれた。
3年後には2人目が生まれ、千尋ちゃんはお姉ちゃんになった。今では5人で暮らしている。千尋ちゃんは母と取り合うようにして、妹の面倒を見ている。
もうすぐまたお正月がやってくる。年末には家族でおせちを作るのが恒例になった。俺や酒井さんは母に教わり、娘たちは俺たちに教わる。この味は受け継がれていくのだろう。
これからも、この幸せな時間を守っていくつもりだ。



