「高卒でバイト3週間の子がリーダー志望?笑わせんなよ。」…

「高卒でバイト3週間の子がリーダー志望?笑わせんなよ。」...

「高卒でバイト3週間の子がリーダー志望?笑わせんなよ。」

立花店長の声がフロア中に響いた。夕方のミーティング、バイト6人が全員揃っていた。先輩バイトたちが一斉に俯いた。田中副店長が口元を緩めた。誰も何も言わなかった。

「大体さ、なんで高卒なの?大学くらい出ていればもうちょっとマシな仕事できたんじゃないの?バイトしかできないって要するに使えないってことだろ?学歴じゃなくて頭の問題だと思うけどな。」

私はその言葉を全部聞いた。顔はあげたままでいた。目をそらさなかった。隣ではるかちゃんが息を飲む音がした。

分かった。今夜動く。この日、私がただのバイトでいる必要はなくなった。

遡ること3週間前。私がフォルテコーヒー渋谷店に入ったのは、ある理由からだった。3ヶ月前、本社に匿名の内部通報が届いていた。渋谷店の労働環境が異常です。離職者が止まりません。売上の数字が操作されている可能性があります。その通報を最初に受け取ったのが私の祖父だった。フォルテコーヒー創業者、宮本誠一郎。76歳になった今も会長としてこの会社に君臨している。

祖父は私を本社の会議室に呼んで静かに言った。「さ、お前が見てきてくれ。本社の人間が正面から行っても本当のことは見えない。現場の人間として内側から調べてほしい。お前ならできる。信頼している。」

そして私、宮本さ、22歳は高卒の新人アルバイトとしてこの店のドアを開けた。本社では経営企画室に席を置いている。でもここでは誰もそれを知らない。私はただの使えない高卒バイトとしてこの店に潜り込んだ。

初日から空気の悪さは肌で分かった。バックヤードで着替えを終えてフロアに出ると、副店長の田中が腕を組んで立っていた。32歳、キャリア7年のベテラン男性だと後から聞いた。

「あなたが新しい子ね。ルールは自分で覚えて、いちいち聞かないでね。こっちは忙しいから。」

それだけ言ってすぐに背を向けた。名前を聞くことも挨拶を返すこともなかった。先輩バイトたちも似たようなものだった。「よろしくお願いします」と頭を下げると、視線だけ向けてすぐにそらす。「よろしく」と返してくれた人は1人もいなかった。

昼のピークは1人で乗り越えるしかなかった。レジの操作が分からなくて、田中副店長に声をかけると「マニュアル読んだ」と言われた。隣のレジの動きを盗みながらどうにか乗り越えた。仕事終わり、ロッカーで着替えながら静かに思った。これが通報の言っていた異常な環境か。

店の本当の大きさは表面からでは決して分からない。私は翌日も笑顔でこのドアを開けるつもりだった。

店長の立花裕介と初めてまともに話したのは入店から3日目のことだった。38歳、背が高くて声が大きい。フロアを歩く時、周りが道を開ける人間だった。自分が1番偉い場所にいる人間の独特の空気を持っていた。

「あ、新しい子じゃん。どう?慣れてきた?」

にこやかだった最初は。「はい。少しずつ慣れてきました。」

「履歴書に高卒って書いてあるね。」

「はい。」

「ふん。まあ、うちは学歴関係ないから、頑張れば評価するよ。期待してるよ。」

言葉だけ聞けば親切な上司だ。でも私には見えた。その目が最初から私を戦力として使えるかどうかだけで見ていることが。笑顔の下に冷たい眼差しがある。そういう目を私はよく知っていた。

実際、立花店長が私に興味を示したのはその日だけだった。翌日からはまるで空気のように扱われた。名前も呼ばれない。指示は全部田中副店長を経由してくる。バックヤードにいると立花店長の振る舞いがよく観察できた。気に入っているバイトには長話をして笑わせる。気に入らないバイトには目も合わせない。その差はあまりにも露骨だった。

田中副店長はいつも立花店長の横に立ち、何を言われても深く頷いていた。まるで動作確認をするだけの機械のようだと思った。でも私はそれでよかった。目立たなければ観察できる。記録できる。私はその夜からこの店のことをスマホに書き留め始めた。日付、発言内容、誰に対してか、証人になりそうな人物の名前。全部丁寧に起こした。これが証拠になる日が必ず来る。そう信じていた。

2週目に入ると立花店長のやり方がはっきり見えてきた。バイトへの扱いが露骨に違う。気に入った子には丁寧に、気に入らない子には徹底的に冷たい。その基準はたった1つだった。自分に逆らうかどうか。

ある日、先輩バイトの1人が清掃のやり方について「こうした方が効率良くないですか」と提案したことがあった。立花店長はその場では笑って受け流した。でも翌週、その子のシフトは週5から週1に削られていた。理由は何も言われなかったらしい。

田中副店長も便乗するように嫌みを言ってくる。「宮本さん、この拭き方じゃ全然ダメ。見て分からない?センスないね。」私が「申し訳ありません」と謝ると、満足そうに鼻を鳴らして去っていく。その表情が心底嫌だった。

バックヤードでは先輩バイト同士がひそひそ話している。内容は大体、次に誰が消えるかという話だった。「今週シフト減らされた子、来月にはやめるんじゃないかな。」「あの子何か言ったっけ?」「先週清掃の件で一言言ったらしい。」「ああ、それだ。」

誰かが何かを言う。シフトが削られる。また誰かが消える。この店ではそれが当たり前のように繰り返されていた。この店の全員が怯えながら働いている。私は毎晩帰宅してから記録をつけた。日付、発言内容、誰に対してか、証人になりそうな人物の名前も忘れず書いた。Excelにまとめ、メモも残した。これが証拠になる日が必ず来る。私はそれだけを信じて毎日エプロンをつけた。

吉田はるかと最初にちゃんと話したのは3週目の火曜日の休憩室だった。20歳、明るそうに見えて実は目が鋭い子だと思った。この店で1番長くいるフルタイムのバイトだと後から聞いた。

「新人さんってさ、大体2週間で顔が死ぬんだけど。」はるかちゃんはお茶のペットボトルを持ちながら言った。「あなたはなんか全然死なないね。毎日全く同じ顔してる。しかもなんかじっと周りを観察してるじゃないですか。立花さんのこととか田中さんのこととか。」

「慣れてるんで。」

答えに困った私を見て「まあいいか」と笑った。それから少しずつ話してくれるようになった。この店のこと、やめていった人たちのこと。立花店長が怖くて誰も本当のことが言えないこと。

「去年だけで7人やめてる。」静かな声だった。「みんな立花さんに逆らったり、気に入らないことをした人ばかり。次のシフトからいきなりゼロになる。連絡しても既読無視。それが立花さんなりの答えなの。みんな突然消えていくんだよね。」

「あなたはやめないの?」

「やめたいけど、やめたら負けな気がして。なんか悔しいじゃないですか。私は何も悪くないのに。なんで私が怖い思いをしなきゃいけないのって。」

はるかちゃんの声が少し震えていた。私は頷きながら頭の中でメモを取った。7人の退職者、強制的なシフト削除、連絡を絶つ形での事実上の解雇。

「さっちゃんはやめないの?」

「今のところはね。やめたくない理由があるから。」

はるかちゃんは少し不思議そうな顔をして、それ以上は聞かなかった。でもその空気はこの店に来てから初めて感じる温かいものだった。

確信を得たのは3週目の水曜日だった。閉店後の片付けをしているとバックヤードから声が聞こえた。立花店長と田中副店長が小声で話していた。

「今月また少し足りない。あの値引き分どう処理する?」

「先月と同じでいいんじゃないですか?本社は細かく見ていないですし。」

「そうだな。じゃあそれで。来月も同じようにやろう。」

「値引き分の処理」という言葉が引っかかった。翌日、私はレジのゴミ箱を確認した。立花店長は毎日閉店後に数字を確認して紙を丸めてゴミ箱に捨てる習慣があった。拾い上げたレシートを見ると明らかな差があった。会計システムに登録された値引き金額と、実際にレジが弾いた数字がずれている。1日あたりにすると小さな額だ。でも毎日積み重なれば大きな額になる。

私はそのレシートをそっとポケットに入れた。仕事終わり、誰よりも遅くロッカーを出ながらスマホで証拠を撮影した。翌日もその翌日も同じように確認した。3日分のデータを並べると全部同じパターンだった。ランダムなミスではない。意図的に繰り返し操作されている。

通報の内容は本当だった。いや、通報が書いていた以上のことこの店では起きていた。証拠はもう手の中にある。あとはタイミングを見極めるだけだった。でもその前にもう1つだけ確認したいことがあった。やめていった7人の詳細をちゃんと記録として残しておく必要があった。

私はその夜も丁寧に記録を更新した。はるかちゃんにやめていった7人のことを詳しく聞いた。

「1番最初は田村って社員の人。立花さんのやり方に疑問を持って直接話しに行ったらしい。翌日から完全に無視されて仕事も振られなくなって、1ヶ月後に自分からやめた。有給も最後まで取らせてもらえなかったって聞いた。」

「他はバイトの子が多い。シフトを削られて生活できなくなってやめるっていうパターンが1番多い。あとは、1人レジの数字がおかしいって気づいた子がいて、本社の窓口に連絡しようとしたら、その前日に『明日から来なくていい』ってLINEが来たって。もう2度と連絡も来なかったみたい。」

「まさか個人のスマホまで勝手に見ていたってこと?」

はるかちゃんは答えなかった。でもその沈黙が答えだった。

「私は怖くて何も言えなかった。あの子がやめる時もただ見てるだけだった。声をかけることすらできなかった。ずっと後悔してる。」

はるかちゃんが初めてそう言った。その声は少し震えていた。私は何も言わなかった。ただ頷いた。

その夜、アパートに帰って7人全員の話をメモに起こした。名前、時期、経緯、状況、証人になりそうな人物の名前も可能な限り書き添えた。全部丁寧に整理した。これで素材は揃った。

本当はもう少しこの店にいたかった。私がいなくなった後、また誰かが消えていくんじゃないかと思うと胸が痛んだ。はるかちゃんのことも心配だった。でもだからこそ動かなければいけない。この店にいる全員を守るために、一刻も早く動かなければいけない。私はそう自分に言い聞かせ、スマホの画面を閉じた。

転機は4週目の月曜日に来た。朝のミーティングで立花店長が全員を集めた。バイト6人と田中副店長、それから私。全員がカウンターの前に1列に並んだ。立花店長は腕を組んでいつものように部屋の中心に立っていた。

「本社から通達があった。各店舗でアルバイトリーダー制度を導入する。対象は週4以上勤務で勤続3ヶ月以上のバイト。リーダーになれば時給も50円上がるし、シフト管理も一部任せることになる。店の運営にも幅広く意見を出してもらう予定だ。希望者は遠慮なく申し出てくれ。」

スタッフたちが少しざわめいた。先輩バイトの何人かが顔を見合わせた。でも誰も積極的に手をあげようとはしていなかった。立花店長に目をつけられたくないからだろう。

私の勤続は3週間だ。条件を満たしていない。黙っているべき場面だと分かっていた。でも隣のはるかちゃんがそっと私の袖を引いた。「さっちゃん向いてると思う。行ってみれば。」

私は1秒だけ考えた。これは調査のための行動ではない。でも立花店長がどう反応するかを公の場で引き出すことには意味がある。この人間の本性を全員の前で見せる機会になるかもしれない。今しかないと思った。

「あの。」

小さく手を上げた。全員の視線が集まった。

「条件は満たしていませんが、もし可能であれば希望させていただきたいです。経験は浅いですが精一杯取り組みます。よろしくお願いします。」

立花店長がゆっくりと振り返った。最初は何が起きたか分からないような顔をしていた。それが次の瞬間、じわじわと変わっていった。その顔が変わるのに1秒もかからなかった。

「はあ。」

低い声だった。全員の視線が一斉に私に集まった。はるかちゃんが息を飲む音がした。田中副店長が口元を緩めた。先輩バイトの1人が小さく息を止めるのが分かった。

「お前まだ3週間だろ。」

「はい。」

「それでもちょっと待って。」

立花店長は腕を組んで私を上からゆっくり見た。頭から足先まで値踏みするような視線だった。

「リーダーってのはなあ、ちゃんとした頭があって、経験があって、責任感がある人間がやるもんだ。高卒でバイト3週間の子が『精一杯取り組みます』?笑わせんなよ。よく恥ずかしくもなく手を上げられるな。」

田中副店長が小さく笑った。他のバイトは全員下を向いた。誰も何も言えなかった。フロアが水を打ったように静まり返った。

「大体さ、なんで高卒なの?大学くらい出ていればもうちょっとマシな仕事できたんじゃないの?バイトしかできないって要するに使えないってことだろ。学歴じゃなくて頭の問題だと思うけどな。俺はそういう子がリーダーとか、冗談にもならないよ。」

胃の底が冷えた。でも私は顔をあげたままでいた。目をそらさなかった。立花店長の言葉が終わるまでずっと正面を見ていた。この言葉も全部記録する。日付、時刻、その場にいた全員の名前。今日ここで起きたことは全部証拠になる。

「申し訳ありませんでした。出すぎたことを言いました。」

立花店長は「分かればいい」と鼻を鳴らして背を向けた。田中副店長がその後ろをついていった。先輩バイトたちは誰も私に目を合わせなかった。はるかちゃんだけがそっと私の手に触れた。

私はその背中を見ながら静かに決めた。今夜報告書を出す。もう十分だ。

その夜、私はアパートに帰って3時間かけて報告書をまとめた。売上操作の証拠写真。不当なシフト削減の詳細な記録。退職に追い込まれた7名の経緯と証人の名前。今日のミーティングでの立花店長の発言内容とその場にいた全員の名前。さらに田中副店長の日常的な嫌みの記録も加えた。全部日付と状況説明付きで整理した。

正直に言えば、今日の一言は半分計算だった。立花店長がどう出るかを全員の前で引き出したかった。あの発言が証言として使える。そう思っていた。でももう半分は計算でもなかった。積み上げてきた3週間が一気に胸に戻ってきた。高卒だから使えない。バイトだから口を出すな。そういう言葉には慣れているつもりだった。でも全員の前であの形で言われると、人間というのはやはり痛い。あのフロアにいた全員の俯いた顔が頭から離れなかった。

悔しいと思った。帰りの電車の中で少しだけ目が熱くなった。でも泣かなかった。泣く理由がない。まだ何もやり遂げていないから。泣くのは全部終わってからでいい。

報告書の最後にこう書いた。「以上の事実に基づき、渋谷店における労働環境の抜本的な改善と立花裕介店長の行為に対する厳正な調査を強く要請いたします。当該店舗の従業員が安心して働ける環境を一刻も早く実現していただくようお願いいたします。」

送信する前に祖父に短いメッセージを送った。「明日報告書を提出します。」しばらくして既読がついた。「頼む。お前を信じている。」私はその言葉を何度か読み返した。それからゆっくりと送信ボタンを押した。

翌朝、本社の監査部門から返信が来た。「内容を受領しました。詳細を精査した上で対応を検討します。」翌日には「社内調査を正式に開始します」という連絡が来た。そのさらに翌日、「来週木曜日に担当者が現地を訪問いたします」と続いた。

本社は動いていた。それも私が思っていた以上に早く。祖父が直接動いてくれたのかもしれないと思った。私はその間も普通にシフトに入り続けた。立花店長は月曜日のことなどなかったように振る舞っていた。田中副店長もいつも通りだった。2人とも何も知らない顔をしていた。その笑顔を見るたびに胸の奥で何かが静かに燃えた。

バイトの子たちがそっと声をかけてくれた。「月曜日のこと大丈夫だった?」「あんな言い方ひどすぎる。私なら絶対に泣いてた。よく耐えられたね。」私は「全然平気です」と笑った。心配してくれることが少しだけ嬉しかった。

はるかちゃんだけは何も言わなかった。でも翌日の火曜日、ロッカーを開けると小さなお菓子の袋が入っていた。チョコが入った袋に手書きの付箋が貼ってあった。「あの日かっこよかった。ありがとう。」私はその付箋を財布の中に大事にしまった。捨てる気にはなれなかった。

木曜日まであと4日。毎朝エプロンをつけながら立花店長の顔を見るたびに「あと少し」と心の中で繰り返した。その4日間が信じられないほど長く感じた。

木曜日の朝、私はいつも通り開店作業をしていた。ドリンクのシロップを補充して、テーブルを1枚1枚丁寧に拭いて、入り口のポップの向きを整える。いつもと変わらない静かな朝だった。でも私の中は違った。今日がその日だと分かっていたから。

午前10時を少し過ぎた頃、入り口のガラスドアが開いた。スーツ姿の男性が3人入ってきた。全員背筋が伸びている。表情は穏やかだが目の色が違う。歩き方も重心の置き方もフロアのスタッフとは明らかに違った。私にはすぐ分かった。本社の、しかも上の立場の人間だと。

立花店長がカウンターの奥から飛んできた。いつもより声が1段高かった。「いらっしゃいませ。本社からお越しでしょうか?どうぞ。こちらへ。お話は別室でゆっくりと。」

男性のうちの1人が立花店長の言葉を静かに遮るように、私の方へまっすぐ歩いてきた。立花店長が一瞬戸惑った顔をした。私は手を止めた。ドリンクを拭いていた布巾をカウンターの上にそっと置いた。

男性が深々と頭を下げた。「宮本さん、ご苦労様でした。」

その言葉が静かなフロアに落ちた。誰も動かなかった。誰も声を出さなかった。ドリンクを作っていた先輩バイトの手が止まった。田中副店長が持っていたバインダーがカウンターの上に落ちた。乾いた音が店内に大きく響いた。

立花店長の顔から笑みが消えた。「え?」その一言だけがぽつりと出た。いつもあれだけ大きかった声が嘘のように小さかった。

私は男性に向かって静かに頷いた。男性は私に向かって落ち着いた声で言った。「会長よりお預かりしております。」薄い封筒を差し出してきた。私は受け取って軽く頷いた。「ありがとうございます。詳細な報告は改めて行います。」

立花店長が一歩前に出た。顔がみるみる青くなっていった。「あの、宮本さんというのは…」

「宮本さです。本社経営企画室に所属しています。今月は会長の指示でこちらの店舗の実態調査を担当させていただいておりました。」

「そ、そんな、そんなこと聞いていない。」立花店長の声が震えていた。あれだけ大きくて威圧的だった声が、今は頼りなく揺れていた。

「調査ですから、事前にお伝えするわけにはいきませんでした。ご理解ください。」

田中副店長が「ええと」と繰り返しながら立花店長と私を交互に見ていた。先輩バイトたちは全員声も出せずに固まっていた。

立花店長がもう一歩前に出た。「ちょ、ちょっと待ってくれ。俺は何も…」言葉が続かなかった。何を言えばいいか分からないのだろう。3週間私に言い続けてきた言葉の数々が、今頃頭の中で渦を巻いているのかもしれない。

私はエプロンを外した。丁寧に、丁寧に畳んだ。急ぐ必要はない。焦る必要も何もない。カウンターの上にそっと置いた。

はるかちゃんだけがポカンとしながら小さく「すご…」と言った。その一言が少しおかしかった。私ははるかちゃんだけに小さく笑った。

「お世話になりました。」

フロア全体に向かって深く頭を下げた。立花店長は何か言いかけたが言葉にならなかった。田中副店長はただ立ち尽くしていた。私は本社の男性たちと一緒にガラスドアの方へ歩いた。背中に視線を感じた。でも振り返らなかった。

ドアを開けると外の空気が冷たかった。深く息を吸った。終わったと思った。

その後のことは社内で静かに処理された。立花裕介は翌日から自宅待機を命じられ、2週間後に懲戒解雇が決定した。調査の結果、売上操作による横領総額は3年間で310万円以上に上ることが判明した。刑事告訴の手続きも同時に進められた。

田中副店長は別店舗への強制移動を命じられたが、「今更別の店では働けない」という理由で自ら退職届を出した。同業他社への転職活動を始めたが、飲食サービス業界は狭い世界だ。渋谷店での件はすでに静かに広まっていて、書類選考すら通らない会社が続いた。半年後も定職にはついていないと聞いた。

立花の方はもっと厳しかった。法的手続きが進むにつれて周囲の人間が1人また1人と離れていった。かつての部下も、取引先の知人も、誰も連絡をしなくなった。転職活動は何十社受けたが、面接まで進んでも必ず同じ壁にぶつかった。「前職の退職理由を教えてください。」その質問にまともに答えられる言葉がなかった。どう答えても事実は変わらないから。

共通の知人から私に話が届いたのは、それからさらに半年後のことだった。立花は今、都内のどこかで配達の仕事をしているらしかった。かつて全員の前で「高卒は使えない」と笑い飛ばした男が、誰の目にも触れない場所で黙々と荷物を運んでいる。

私はその話を聞いてしばらく考えた。怒りも同情も優越感も何も湧いてこなかった。ただ終わったのだと思った。この店で起きたことがきちんと終わったのだと。それだけだった。

渋谷店は店長が変わってから変わった。3ヶ月でクレーム件数が半分以下になった。離職者が0になった月が続いた。かつて辞めていった2人が戻りたいと申し出て、受け入れられたと引き継ぎに書いてあった。あの店のスタッフたちがやっと普通に働ける場所を取り戻した。それだけで十分だと思った。

ある週末、はるかちゃんからLINEが来た。「さっちゃん今どこにいるんですか?」「本社です。」「そっか。あのさ、立花さんの話聞きました。近所でUberやってるの見たって友達が言ってた。」「聞きました。」「ざまって思ってもいいですよね。」「思っていいと思います。」

少し間があって、またメッセージが来た。「あの日のさ、本当にかっこよかったです。あの時誰も何も言えなかったのに、さっちゃんだけ顔をあげて目をそらさなかった。私ずっと後悔してて、あの時一言でも言えばよかったって。でもさっちゃんがいてくれてよかった。本当にありがとうございました。」

私はその言葉を何度か読み返した。お礼を言うのはこっちの方だ。「お互い様です」と返した。

その夜、祖父からメッセージが届いた。「大阪の店が少し怪しい。頼めるか?」私は少しだけ笑って返信した。「行きます。」

翌日、新しい鞄を買いながら新大阪行きの新幹線に乗った。今度はどんな設定にしようか。高卒のバイトはもう使った。夜間大学に通いながら、くらいにしようか。窓の外を景色が流れていった。次の店でも私はただの新人バイトだ。でもそれでいい。それが私の仕事だから。

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