「下請けの分際で、俺と同じブランドのスーツなんか着てんじゃねえよ」
取引先の電気メーカーが主催する懇親会で、俺は社長の息子にいきなり怒鳴られた。すぐに謝罪したが、彼の怒りは収まらない。
「気に入らないんだよ」
粘着質な口調で絡んでくる姿は、次期社長というより、喧嘩を売ってくるヤンキーのようだった。
そして、彼が肩を震わせたかと思うと、右手に握っていたシャンパングラスを、俺に向かって勢いよく振り払った。
「パシャン」
派手な音とともに、頭からシャンパンを浴びせられた。
「あー、いい気味だ。これでお前もやっと身の程を知ったな。下請けなんて、俺はどうにでもできるんだよ。ああ、そうだ。下請けの分際でスーツなんて勿体ない。来年からは作業着で来い」
一瞬何が起きたのか分からず、俺は固まってしまった。周囲は驚きの目で見ているが、彼だけが高笑いしている。
スーツのブランドが被ったくらいで、シャンパンを浴びせるなんて、どういう思考回路をしているんだ。
俺が怒りで震え始めた、その時だった。
「これは一体どういうことだ?」
驚きと怒りに満ちた声が響き、社長の息子は凍りついた。
俺の名前は桜木健二。様々な部品の製造工場を経営している。規模は大きくないが、品質の高さには定評があり、安定した経営を続けている。俺は昔から機械部品に興味があり、本業の合間を縫っては、新しい部品の開発に没頭している。社員からは「ケンさんは部品オタクですよね」と呆れられるほどだ。
そんなある日、大手電気メーカーから懇親会の招待状が届いた。俺の工場は、そのメーカーの下請けも請け負っている。年に一度開かれる懇親会には、下請け業者も一堂に会するため、毎年なかなか賑やかな光景が見られる。
招待状には、今年は社長の息子のお披露目会を兼ねていると書かれていた。次期社長として、本格的に父に付き始めたらしい。
「それなら、今年は次期社長に顔つなぎをしたい取引先も加わって、さらに賑やかになるだろうな」
俺はそう推測しながら、懇親会に出席するための日程を調整した。
迎えた懇親会当日。会場は名の通った一流ホテルの大広間で、豪華なシャンデリアの下、多くの人々が歓談していた。
あまりの人の多さに戸惑いながら辺りを見渡していると、少し離れたところにいるスーツの集団の一人が、笑顔で手を振ってくる。同じく下請けをしている同業者たちだ。
「久しぶり。みんな元気そうでよかった」
「お前も元気そうだな。それに、そのスーツよく似合ってるよ」
業者の中でもおしゃれで通っている一人が、俺のスーツを褒めてくれた。
「ありがとう。これ、今日のために新しく誂えたんだよ。さすがに5年も同じスーツで懇親会に出るわけにもいかなくてさ」
俺は照れ笑いをしながら答えた。前のスーツも着られることは着られるが、せっかくの機会だと思い、有名ブランドのものを奮発して購入したのだ。
しばらく業界の話や互いの近況に花を咲かせていたが、時間が経つにつれて、大広間の人だかりは増える一方だ。
「にしても、すごい人数だよな」
俺は思わず苦笑した。
「だよな。まあ、社長の息子のお披露目会ってのもあるんじゃないか」
視線を巡らせながら、同業者の一人が肩をすくめる。その話題に、別の同業者が声を潜めて乗っかってきた。
「なあ、社長の息子、確か名前はハルトだったか。そのハルトの噂、知ってるか?」
「噂なんだ、それ?」
首をひねる俺に、相手が答えた。
「何でも、その若い頃から派手に遊んでたらしいんだよ。当然、親の金で。社長が年を取ってからの息子だってんで、甘やかされたらしくてな。三十路を超えても定職につかず、ぶらぶらしてたって。まあ、一人息子だし、可愛いのは分かるけどな。で、見かねた社長に説得されて、この度ようやくそのドラ息子もしぶしぶながら社長修行を始めたらしい」
情報通の同業者が、さらにそう付け加えてくる。
甘やかされた常習引き籠りの息子が次期社長か。俺はにわかに不安を覚えた。
「なあ、その息子、大丈夫なのか?」
「いや、心を入れ替えて真面目に修行してるんだったら、大きなお世話なんだが」
俺の言葉に、その場にいた同業者は一様に何とも言えない顔をする。思うことはみんな一緒らしい。
と、その時。
「おい、あれ噂の息子だぜ」
同業者の一人がそう言って、入り口付近に目をやった。その視線の先には、数人のスーツ姿の男性がいた。地味な紺のスーツを着た男性数人の中心で、偉そうに何事かを指図している年若い男の姿が見える。その男がまとうのは明るいグレーのスーツで、それ単体ではとても上品な作りなのだろうが、残念ながら合わせられたネクタイや時計等の主張がそれぞれ強いため、全体的に見るとなんともちぐはぐな仕上がりになっていた。
きっとあの男性が、社長の息子であるハルトなのだろう。周りにいるのは役職付きの社員たちだろうか。ハルトはずっと不機嫌そうな顔で、親子ほども年の離れた彼らを、まるで自分の荷物持ちであるかのような態度で扱っているのが、この距離からでも分かった。
やがて取り巻きの一人が、機嫌を取るようにして早々にグラス入りのシャンパンを渡す。それを存在に受け取ったハルトは、その場で一息にそれを煽ると、濡れた口元をせっかくのスーツの袖で拭うようにして、さらにお代わりのシャンパンを取り巻きに取りに行かせた。
「うわ、偉そう。何様だよ」
「まあ、次期社長様なんだろう」
「てか、いいとこの坊っちゃんな割には、仕草が雑だなあ」
声を潜めながら、同業者たちがこそこそとそんなことを口にする。声に出して言わないまでも、俺も似たような感想を抱いた。
やがて、新しいグラスを手に持ち、そのままハルトとその取り巻きたちはこちらへと歩いてくる。そして俺たちとすれ違う瞬間、ハルトは不満たらたらといった様子でこうこぼした。
「つうか、なんで俺がこんなかったるいことしなくちゃいけねえの?せっかく女の子たちと飲みに行く約束してたのに」
子供のわがままのようなそれを、周りの社員たちが必死に取りなしている。
「そう言わないでください、ハルトさん。こういった挨拶の場も、次期社長には必要なことで」
「なんでよ。俺、未来の社長よ。ってことは、ここにいる誰よりも偉いってことだろう。それがなんでこっちから挨拶しなきゃいけねえんだよ」
「ああ、もうマジでかったり」
ご機嫌取りもハルトには通じなかったらしい。これ見よがしに舌打ちを落としながら通り過ぎていくその一団を、俺たちは呆気に取られて見送っていた。
「なんかすごいなあ」
「うん」
次期社長のあまりの暴虐無道ぶりに、同業者たちも思わず言葉をなくしている。なるほど、噂以上に問題ありの人物らしい。俺も内心ため息をついてしまった。
だが、このままハルトに挨拶をしないまま会場を後にするわけにもいかない。それを同業者らも分かっているので、誰からともなく「行くか」と口にして、俺たちはハルトの後を追いかけたのだった。
大広間の壁に近いところでは、ハルトは取引先らしい数人から挨拶を受けていた。誰が誰だかろくに分かっていない様子のハルトの隣で、秘書らしき男性が困ったように眉を寄せながら、逐一彼に耳打ちしている。
そんな様子に呆れつつも、順番を待っていると、ついに俺たちの番が回ってきた。
じろりとハルトは俺たちを見る。見るからに不機嫌かつ意地の悪そうなその視線にびくつきながら、同業者らの中では年長の俺が代表して口を開いた。
「初めまして。私たちはそれぞれ御社の下請けをしている会社の代表で」
だが、俺のそんな挨拶は、無作法なハルトの一言に遮り切られてしまった。
「あ、あんた、それどこのスーツ?」
「え?」
唐突すぎる問いかけに、俺は言葉に詰まる。これは俺に対する質問なのだろうか?相手の意図を測りかねて首をかしげると、こちらの反応の鈍さに苛立ったように、さらにハルトが言い募った。
「だから、それどこのスーツかって聞いてんの?」
「あ、はい。えっと」
そして俺がブランド名を答えると、ハルトは途端に頬を歪めてこちらを睨んできた。
「やっぱりな。あんた、うちの会社の下請けだとか言ってたな。な、下請けの分際が、一丁前に俺と同じブランドのスーツとか着てんじゃねえよ」
言い放たれた言葉に、俺は目を見張る。まさか同じブランドだとは気づかなかったが、確かにこれは気まずい。特にこの男は、自分が一番にならないと気が済まないタイプの人間なのだろう。
俺の近くにいる同業者たちも困ったように顔を見合わせており、とにかくこれ以上ご機嫌を損ねて彼らにまで迷惑をかけるのも忍びなく、俺はすぐさま謝罪を口にした。
「これは気づきませんで、大変失礼いたしました。ですが、今日はこれ一着しか手元にないもので、どうかご容赦いただければ幸いです」
だが、あくまで静かにそう述べた俺の態度は、ハルトの意に沿うものではなかったようだ。
「何、それで謝ったつもり?仮にも未来の社長の俺とスーツが被ぶったって気づいたら、普通なら真っ先にジャケット脱ぐもんじゃねえの」
粘着質な口調でこちらにそう絡んでくるハルトは、次期社長というより、喧嘩を売ってくるヤンキーのようにも見えた。
「まあ、あんたが着てるものの上位互換が俺の着てるモデルなんだけど、あんたのよりゼロが一個多いやつな」
「あ、そうなんですね」
得意げに鼻を鳴らして、子供じみたマウントを取ってくる相手にどう返していいか分からず、俺は曖昧な笑みを浮かべてしまう。
そしてハルトの取り巻きの社員たちは、ここぞとばかり彼を持ち上げにかかった。
「そうですよ、ハルトさんはブランドを着こなしていらっしゃるから、元のスーツがさらに何倍も良くなって見えますしね」
「彼の着ているブランドと同じなんて、とてもとても」
「いや、さすが我が社の次期社長。優秀な上にセンスもいいなんて、素晴らしいですなあ」
冷汗を浮かべながらそう口にする取り巻きたち。俺でさえ見え透いたお世辞だと分かるそれらに、だがハルトはまんざらでもなさそうにふんと鼻を鳴らす。
だがやはり、それだけでは彼の理不尽な怒りは収まらなかったらしい。ハルトは改めて俺を一瞥すると、にやりと口元を持ち上げた。
「じゃあ、そこのあんたが土下座して俺に謝れば、許してやるよ」
「はい?」
浴びせられた一言に、俺はポカンと口を開ける。果たしてこの人は何を言っているんだろうか。スーツのブランドが被ったくらいで、他人に土下座をしろなどと、どんな思考回路をたどったらそんな考えに至るんだろうか。あまりにも予想外のことを言われ、俺はとっさに反応ができずにいた。
すると、俺の代わりに横にいた同業者たちがハルトに反論する。
「あの、さすがにそれはあんまりじゃないでしょうか。桜木も先ほどちゃんと謝ってることですし」
「そうですよ。それに、先ほど下請けの分際とかおっしゃいましたよね。そりゃこの会社は大手だが、だからと言ってあなたにそこまで馬鹿にされる言われはありませんよ」
「ああ?」
明らかに見下していた相手からの反論が思いの外だったのか、ハルトは一度然りとなり、それからわなわなと肩を震わせる。そしてその顔を真っ赤に染めて、彼は大声で怒鳴った。
「お前ら、未来の社長に向かってなんだその口の聞き方は。俺の会社から仕事もらってる分際で。いいか、俺にはかう下請けなんて、パパに言って潰してやるからな」
直後、ハルトがその右腕を大きく動かした。その指に握られているのは、シャンパンの注がれたグラス。当然の動きに合わせて中身はグラスから弧を描いて飛び出す。そしてその真正面には、俺がいた。
「パシャン」
思ったよりも派手な音がして、俺は頭からそのシャンパンを浴びせかけられたのだった。
一瞬何が起きたのか把握できずフリーズする周囲を尻目に、ハルトだけがその場で高笑いをしている。
「あー、いい気味だ。これでお前もやっと身分相応になったな。汚らしくて、見窄らしくて、下請けの分際のお前にはよく似合ってるぞ」
会場に響くその声に、周囲が何事かとこちらを振り返っては目を丸くしている。けれどそんな騒ぎなど耳にも入っていない様子で、ハルトはざらついた声でなおも怒鳴り続けた。
「お前ら、下請けなんて俺はどうにでもできるんだよ。ああ、そうだ。下請けの分際のお前らなんかにスーツは勿体ないな。よし、来年からは作業着で来い」
そしてハルトが再度そう言った、その時。
「これは一体どういうことだ?」
呆気に取られたような声が俺たちにかけられた。視線を向ければ、それはハルトの父、つまりこの会社の社長である吉田だった。
社長は頭からポタポタと雫を垂らす俺に慌てて駆け寄ると、秘書らしき女性にタオルを持ってくるよう言いつけ、自身のポケットからもハンカチを取り出し、こちらへ差し出す。
「桜木さん、これは」
顔を真っ赤にした自身の息子、そしてずぶ濡れの俺を順番に見つめてそう問うてくる社長に、俺は苦笑を返した。
「ああ、どうやら私が息子さんのご機嫌を損ねたようで」
「ということは、これはハルトが」
「俺をこんな状態にしたのは、息子か」
驚いた様子で確認してくる社長に、俺は首を振る。瞬間、社長の顔色がさっと青ざめたのを俺は見た。
肝心のハルトと言えば、自身の父親が姿を現したのをこれ幸いと、早速声を張り上げた。
「パパ、こいつら下請けのくせに偉そうだし、なんか図に乗ってたみたいだから、俺が時々に立場を分からせてやったよ。こんな奴ら相手にして、パパも大変だね」
こちらを指差すその顔は、まさしく父親に褒めてもらいたい子供のそれだ。
だが、ハルトの主張を聞いた社長は、青ざめていた顔をさらに蒼白にすると、間髪入れずに息子を怒鳴りつける。
「お前、自分がしでかしたことを分かっているのか?桜木さんをこんな目に合わせるだなんて、本当になんてことを」
このあまりの迫力に、先ほどまで騒めいていた周囲の空気が、今度は完全に固まってしまった。しかしその中心では、ハルトだけはポカンと口を開けていた。その様子に、俺は深く呆れてしまう。本当にこの息子は、自分のしたことが分かっていないらしい。
「し、ていまいピンと来ていない息子に、社長が再度口を開こうとした、その時」
大広間の神座に設置されていたスピーチ用の壇上から、間延びに華やかな司会進行の声が響く。どうやら会場が大きすぎて、こちらの騒ぎは神座には届いていないみたいだ。
司会を務める女性は、予定通り朗らかな声で次の催しを告げる。この会社の業績発展に寄与した下請け企業の発表並びに感謝状の贈呈が始まるようだ。
そして司会の女性は、俺の名前を呼んだのだった。
「桜木さん、桜木健二さん、いらっしゃいますか?」
すぐに姿を現さなかった俺を、司会の女性が戸惑ったように呼んでいる。俺は借りたタオルで顔の雫を拭き取ると、今だ顔色の悪い社長を小声で促した。
「ひとまず、壇上へ行きましょう」
やがて社長が気まずそうにしながらも壇上へ上がり、後についていった俺もまたそれに習う。さすがに雫は垂れていないとはいえ、俺がなぜか微かに濡れているのは誰の目から見ても明らかで、そのため壇上に近いところにいる参加者たちは一様に困惑したようにしてこちらを見上げていた。
「それでは、取締役社長の吉田より、桜木氏へ感謝状を授与いたします」
慇懃とした仕草で、社長が俺に感謝状を渡してくる。その指先はわずかに震えていた。俺はそれに気づかなかったふりをして、感謝状を受け取る。
このままスピーチを促された社長は、顔色が悪いながらもゆっくりと話し始めた。
「まずは、ここにいる桜木さん及び常日頃我が社を支えてくださっている下請け企業の皆さんに、最大級の感謝を申し上げます。特に我が社は、桜木さんのお力がなければ未来がありません」
いつもはこんな言い方をせず、当たり障りのないスピーチをすることが多い社長が、珍しく必死でそう言い切ったことに、参加者たちが目を丸くしているのが分かる。
だがそんな参加者たちの様子には目もくれず、社長はひたすら自身の息子のいる方角を睨んでいた。そして少し離れたところにも、その圧迫感のある睨みは伝わったのだろう。俺の目にも、壁際のハルトが今更ながら慌て始める様子が見て取れた。彼はまた何事かを自身の取り巻きに当たり散らしているようだ。
全て自分のせいであるのに、必死に責任逃れをするその姿は、もはや滑稽にすら見える。
一方壇上では、社長のスピーチが終わり、司会の女性が俺の開発した部品について参加者たちに説明していた。
「桜木氏は、電気自動車の性能を向上させる部品を開発され」
そうなのだ。俺は新しく開発したその部品を、この電気メーカーに納品している。またその部品を使用することにより、この会社は業界トップに踊り出るだろうと期待されていた。そして今日、その功績が認められての感謝状贈呈式があるということを事前に聞いていた俺は、それならということで気合いを入れてスーツも新調したのである。
自身のジャケットをちらっと見れば、さすがにシャンパンが多くかかった場所は染みも目立っている。クリーニングで落ちればいいなと俺が呑気に思っていると、司会の女性が再び俺の名を呼んだ。
「それでは、こちらの桜木氏に今一度大きな拍手を」
そしてその声に促されるようにして、俺は会場中からの盛大な拍手を受けたのだった。
待て。結局、その後に予定されていたハルトの挨拶はカットされることとなり、懇親会は慌ただしくしてお開きとなった。
しかし俺はあれから多くの人々に囲まれ、延々と挨拶を受けていたため、未だシャンパンを被ったままの格好だ。濡れた箇所は乾き始めていたが、ベタベタする感触に耐えきれず、ひとまずジャケットを脱ごうとしていた俺の元に、向こうから慌てた様子で人が駆け寄ってくる。
社長と、それから父親に引っ張られるようにして連れてこられたハルトだった。
「この度は本当に、息子が申し訳ないことをしました」
こう言って社長は深く頭を下げると、不機嫌そうな様子の息子を無理やり膝かせ、頭を下げさせる。
「この通りです。こんなバカ息子ですが、どうぞ許してやってください」
けれど、父親に頭を掴まれて土下座させられている息子はと言えば、この後に及んで自身がやったことを反省していないようで、「あれは別にちょっとしたお遊びで」などと、懲りずに言い訳を口にする始末。
「うるさい。黙って頭を下げろ」
「ちょっとパパ、痛いってば。もう、なんで俺がここまでしなくちゃいけないんだよ」
しまいには父と息子の二人で親子喧嘩が始まる中、俺のスマートフォンが着信を告げた。目の前の親子は俺そっちのけで言い争っているので、その隙に俺はその電話へと出る。
「ああ、先ほどもありがとうございました。ええ、はい。ええ、そうですね。それであの、その件なんですが、今後は御社に納品をさせていただこうかと。いえ、はい。では、日を改めまして。そうして失礼します」
俺が電話を切ると、いつの間にか親子喧嘩をやめたらしい社長が、目を丸くしてこちらを見ていた。
「あの、桜木さん、それはまさか、あの部品を来月からは他の企業に納品するって話じゃ」
今の電話の話はまさしくそのままなのであるが、俺はもうわざわざ説明する義理もないだろうと、社長に一礼して無言でその場を後にしたのだった。
さて、それから三ヶ月が過ぎた。俺の工場との取引がストップした電気メーカーは、業績が急激に悪化してしまった。それもこれも全てはハルトに起因しているとのことで、彼は会社を追われ、また父親からも勘当され、無一文で家を出されたらしい。
また今回の件を受けて、あの場にいた下請けの同業者たちもそれなりの対応をした。そのまま取引を続行した者もいたが、大半は吉田社長の会社とは取引を終了し、新たな企業と契約し直したようである。
そして俺は電話の通り、あの懇親会に参加していた別の会社と取引を始めたのだった。最初は吉田社長の会社からの妨害等もあるかと身構えていたのだが、俺に嫌がらせするほどの体力はもうあの会社には残っていなかったようで、今のところは実に気持ちよく取引ができている。
そして取引先が変わっても、俺の仕事は基本的に変わらない。忙しい合間を縫って新たな商品開発をしていることにも変わりなく、今は電気メーカーに下ろしていたあの部品にさらに改良を加えて小型化しているところである。
やはり、手元の部品をいじりながらあれこれと考えを巡らせているこの瞬間が、何より楽しい。
俺はこれからも、部品オタクの名に恥じない仕事を精一杯頑張っていこうと思っている。



