「ねえ、中卒って本当なの?」兄の婚約者に初めて会った夜、兄が席を外した瞬間、彼女の優しい笑顔が消えた。まるで別人のように冷たい目線で、私を「中卒でフラフラしてる」と笑った。私は何も言い返せず、ただ呆然とするしかなかった。数週間後、彼女は家族の前で「この家は私と彼で守ります」と宣言し、私に「1人暮らししたら?」と提案した。私は手元に隠し持っていたあるものを握りしめ、食卓へ向かった。彼女が知らな…

「ねえ、中卒って本当なの?」兄の婚約者に初めて会った夜、兄が席を外した瞬間、彼女の優しい笑顔が消えた。まるで別人のように冷たい目線で、私を「中卒でフラフラしてる」と笑った。私は何も言い返せず、ただ呆然とするしかなかった。数週間後、彼女は家族の前で「この家は私と彼で守ります」と宣言し、私に「1人暮らししたら?」と提案した。私は手元に隠し持っていたあるものを握りしめ、食卓へ向かった。彼女が知らな...

「ねえ、中卒って本当なの?」

兄が連れてきた婚約者のマキさん。初めて会ったときは、白いワンピースが似合う、本当に綺麗で優しそうな女性だった。鈴のなるような声で、家族の前では控えめに微笑む。母が作った料理を囲んで、酒も進み、楽しい時間が流れていた。

ところが、兄が電話に出て席を外した瞬間、彼女の表情が変わった。

「あのさ、まるでさっきの雰囲気が嘘みたいに、机に頬杖をついて足を組んだマキさんは、低い声で言った。

「彼から聞いたけど、あなた中卒なんでしょ?」

「え?ああ、まあね」

嘘をつく必要もないと思い、頷くと、彼女は「うわ、マジ?」と笑った。

「兄は名門大学出て、今や会社役員。方や弟は中卒でフラフラしてんの。だっさいね」

「中卒レベルの頭じゃ人生うまくいかないでしょ。いい大人になって、今でも実家に寄生してダラダラ生きて。兄はあんなに立派に働いているのに」

あまりの変わりように、悲しみや恐怖よりも呆れが勝った。

「遺相郎は早く家から出ていかないとね」

意地悪く口元を歪める彼女。そのとき、電話を終えた兄が戻ってきた。

「帰りなさい」

兄がドアを開けた瞬間、マキさんは優しい笑顔に戻っていた。女優並みの見事な演技だった。

数週間後、結婚式の打ち合わせのため、再びマキさんが実家に来た。俺はソファーに深く腰かけ、テレビを見るふりをしながら、家族の会話に聞き耳を立てた。

打ち合わせが終わった頃、マキさんが声を潜めて言った。

「これからのことなんですが、正式に籍を入れた後、この家は彼と私で守っていきたいと思っています。ですからお母さんとお父さんには、安心して引退していただきたいと思っています」

「引退?」

「あ、すみません。言い方が悪かったですね。これまでお父さんたちは家族のために懸命にこの家や家族を守って来られたんだと思います。私は結婚したら、お2人にはその重圧から解放していただいて、静かにのんびり暮らしていただきたいと思っています」

まるで父母のことを思ってでもいるかのような演技。兄は横で静かに頷いている。

「それから、剣さんなのですが、もう30歳になるんですし、1人暮らしとかした方がいいかなって」

その刃は俺にも向いた。マキさんの根胆は、少なくとも俺にとっては丸見えだった。

父と母は戸惑いながらも「うちのことを思ってくれてるんだね。ちょっと考えてみようか」と答えていた。兄は少し納得いかないような顔をしている。

そこで俺は我慢が効かなくなった。手元に隠し持っていたものをぎゅっと握り、立ち上がって食卓へ進んだ。

「これ見てほしい」

「何?」

「いいから」

数枚の資料が入った封筒を食卓に置いた。父がゆっくりと封筒を持ち上げ、中身を取り出す。

「これは…調査?」

母は立ち上がり、テーブルに両手をついた。

「あんた、自分が何しているか分かってるの?」

「いや、母さん、1回見てみよう」

父の言葉に母は落ち着きを取り戻し、2人で資料を黙って眺めた。マキさんはにやけた顔のまま固まっている。

調査報告書には、とんでもないマキさんの本性が書かれていた。

冒頭には、彼女が夜な夜なホストクラブに通っているという内容が写真と共に報告されていた。気に入っているホストの家に入り浸っている様子や、「勇気」というホストに貢ぐための金を作るために、多額の借金を抱えていることも記載されていた。

会社での発言も記されていた。

「彼氏の実家がかなり立派で資産家であるから、結婚すれば財産も自分のもの。借金も綺麗になくなって、勇気君にもいくらでも貢げるようになる」

そんな内容ばかりが並べられていた。30ページに渡る報告書を、父は黙って全て読んだ。母は冒頭の10ページほどで読む気力をなくし、頭を抱えて動かなくなった。

「これが彼女の本性だと思う。俺は兄と彼女に結婚して欲しくないと思っている」

「そうだな。突然すぎて…」

初めて会った夜に見た変貌に不審感を抱き、探偵事務所に依頼して調べてもらったことは正解だった。

「剣さん、どうしたの?」

家族が見ている間は、優しくて美しい嫁を演じるらしく、優しい声で俺を気にかけるようにしていた。

俺は彼女が知らないであろう話を始めた。

「俺のこと、中卒でフラフラしてるってバカにしたよな。兄貴で弟は実家に寄生してダラダラ生きてるってさ」

「私、そんなこと言ったかしら?あなたの聞き間違いじゃない?」

「兄が役員を務めている会社は、俺の会社だ」

固く微笑むマキさんをしっかり見据え、俺は告げた。

「は?何の冗談?」

たっぷりの沈黙の後、引きつった表情でマキさんはそれだけ漏らした。

「この家も俺が3年前に建てたものだし、両親が家を出ても、マキさんがこの家を継ぐことはないよ」

「そんな話、聞いていない」

マキさんはテーブルの上で拳を握る。

「マキ、本当のことだよ」

兄の言葉にマキさんは大きく目を見開いた。兄は調査書を静かにテーブルに置き、厳しい視線をマキさんに向けた。

「剣、前にも伝えたように、俺は新卒で入ったメーカーでの働き方が好きじゃなくて転職したんだ。それが今の会社、剣の会社だよ」

「信じられない…」

マキさんはあんぐりと口を開けたまま言葉を発さない。

「組織の歯車になって働いていた俺からしてみると、生き生きと働いている剣に憧れて、剣の会社に転職したんだ。それに、マキと出会ったあの店も剣の店だよ。俺ら家族と初めて会った日、楽しそうに話していた慣れ染めの店だ」

「嘘でしょ?」

絶望とでも言わんばかりのマキさんに、兄は静かな声で話を続けた。

「剣は中卒だけど、19の時に始めた雑貨屋がうまくいって、複数店舗を展開するまでになっていたんだ。その1つを俺に任せてくれていたんだ」

「そんなの聞いていない。なんで言ってくれなかったのよ」

「俺が兄に言ったんだ。弟が俺が社長だと公表しないで欲しいと。何も知らない周りからしてみれば、弟に利用されている兄と誤解を産んでしまう可能性を考えてのことだった」

そんな俺の口止めがあったから、友人は愚か婚約者のマキさんにも、弟は高校を中退し苦労してきたんだという話しかしていなかった。

「嘘?嘘でしょ?」

マキさんは俯いて肩を震わせる。

「こんなの信じないで。これは剣さんが自分で作ったものでしょう」

調査を指差し叫ぶ。それから両目をうるうるさせて兄を見た。

「マキ」

兄は静かな声で彼女の名前を呼ぶ。母は口元を抑え、今にも泣きそうな顔で目の前の光景を眺めていた。父は俯いたまま何も発さずにそこにいる。

「金目当てだったんだな」

兄の言葉にマキさんが唸る。

「婚約は解消だ」

マキさんの様子と反対に、落ち着いた様子を見せる兄は静かな声でそう言った。

「ちょっと待って。ごめん、マキ。いや、いやよ。ごめんなさい。もうホストには行かないから。ごめんなさい。許して」

「マキ、ごめん」

兄はマキさんの目をじっと見つめてそう言った。兄は何も悪くないというのに、申し訳なさそうに頭を下げる。

「待って待ってよ」

マキさんは泣きじゃくる。

「ホストも勇気君ももうやめるから。借金も頑張って返すから。別れたくない。もうしない」

その2つを延々と繰り返すマキさん。もう掛ける言葉もないと言った様子の兄は、マキさんを見ずに俯いたままだった。

そんな状況に、先ほどから黙っていた父親が突然立ち上がった。

「マキさん、話を」

「お父さん…」

泣きじゃくるマキさんは、なんとか父にすがりつく。

「もう帰ってくれ」

「お、お父さん…」

「もう帰ってくれと言っている。2度と顔も見せないでくれ」

なかなか話を聞かないマキさんに、ついに怒りが頂点に達した父が土を飛ばす。

父に怒鳴られたマキさんは、兄の腕にしがみつく。

「待って、お願い。私が悪かった。ごめんなさい」

「すまない。出てってくれ」

取り乱したマキさんとは反対に、とびっきり落ち着いた様子の兄が低く冷たい声でそれだけ言った。その姿とその声にもう無理だと感じたのであろう、マキさんは一瞬で静かになった。そして荷物をまとめ、「お邪魔しました。ごめんなさい」と呟いて家を出ていった。

その後、兄は婚約解消に至った件について慰謝料を請求することにした。しかしマキさんは調べの通り借金まみれで一銭も払うことができず、結局マキさんの両親が肩代わりして支払っているという。そしてマキさんは現在、自分で作った借金を返すために大変な生活を送っているとのことだった。

騒動がしっかり落ち着いたのは3ヶ月後のことだった。今も変わらず実家に住む俺と、たまに遊びに来る兄。関係性は変わらなかった。

両親が寝静まった後、食卓を囲んで静かに飲んでいると、一連の騒動の話となった。

「剣のおかげだよ」

「え、あのままマキの本性に気づかずに結婚していたら…」

正直なことを言うと、俺はちょっとだけ怖かった。もしあの時俺が動いていなければ、今頃兄とマキさんは幸せに過ごしたんじゃないか。父も母も可愛い嫁が来て幸せに過ごしていたんじゃないか。そんな幸せを俺が壊したんじゃないかなんて思ってしまう夜がある。

「いや、そんなこと思う必要ないよ。あの時剣が気づいてくれていなかったら、家庭崩壊だったよ、きっと」

そのことを打ち明けると、兄はそんな風に俺を励まし、冗談のように笑い飛ばす。

「俺に見る目がなかっただけだよ。剣は何も悪くない。むしろあそこで動いてくれてありがとう」

兄は俺の空になったグラスを見て、焼酎を入れてくれた。氷が溶ける音が静かなダイニングに響いた。

「俺もいい勉強になったよ」

「は、仕事より難しいな」

「あ、そうだな」

そんな風に兄弟の夜は更けていった。

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