「あなたは首にする。っていうか、そうしたい。」…

「あなたは首にする。っていうか、そうしたい。」...

「ちょっと、正談すっぽかして何してくれたのよ。」

首を言い渡されてから一週間後の朝、前に働いていた会社の社長から電話がかかってきた。どうやら俺が参加するはずだった正談に俺が来なかったせいで、大変なことになったらしい。電話の向こうで社長が声を大にして怒っている。

だが、そう言われても困る。

「あの、私はあなたに一週間前に首にすると言われているのですが。」

俺が戸惑いながらそう告げると、社長は自分の発言をすっかり忘れていたようで、「え、ちょっと、そんな…」と声にならない声をもらした。その後、俺がとある真実を伝えることにしたのだが、それにより社長は涙を流して謝罪することになったのだ。

俺の名前は二宮ハルト。28歳の副業持ちの会社員で、現在デザイン関連の事務所に務めている。大学時代に副業の仕事を始め、就活もして今の会社に就職した。事務所の社長は伝説の広告マンと言われていた人で、かつては大手広告代理店でデザイナーとして活躍していた。その人が40歳で独立して設立した今の事務所は、広告やデザイン業界では知る人ぞ知る先鋭的な集団として有名だ。

芸大でデジタルデザインと商業デザインを学んでいた俺は、副業とは違う分野の技能も磨こうと就職を望んだ。

「二宮、先方からデザインも任せられるか確認が来た。どうだ?デザインも君がやって一括で進めるか?」
「任せてもらえるのならば、是非。」

新卒で入社した俺は、元々はデザイン部門でデザイナーとして働いていた。だが今から3年前に営業に移動になり、それからは取引先の開拓と外回りに忙しくなった。

「それにしても、最近調子いいな。」

上司に褒められ、嬉しくなる。俺はどちらかと言うと営業マンができる性格ではない。芸大に行きたいと思い実現したように、子供の頃から自分の世界に浸りやすく、感性がアーティストのようだと呆れられるようなタイプだった。熱血で突っ走る気質はないが、こだわって掘り下げるには困らない。そこで俺は、自分が気に入るものや美しいと感じたものを飽きるまで眺めるように、向いていないと考えていた営業活動にもこだわりを持とうと気持ちを切り替えていた。

デザインの提案をとことんまで尽くし、自己アピールを忘れない。自分なりの突破口を見つけてからというもの、俺の成績は上向いた。デザイン部門に長く所属していて、デザイナーたちとの息も合わせられる俺は、営業部とデザイン部門の橋渡し役としても機能するようになった。営業を始めたばかりの頃は頭を抱えているばかりだったが、今は仕事への張り合いも感じながら頑張っている。

夢見た会社で結果を残し、期待してもらえる嬉しさも噛みしめ、俺は社会人生活の手応えも得ていた。今後のことはこれから少しずつ決まる。しかし、今は目の前の仕事を通常通りに。顧客がいるということは忘れないように。

年度末を控え、業務が忙しくなり出した年明け過ぎのことだった。事務所の創設者である社長が突然倒れて亡くなってしまった。

葬儀や法要を終え、事務所の業務が通常進行に戻ったタイミングで、上司が困惑を隠せない表情で今後について話した。

「今後、社長は事務所の所長である綾さんが引き継ぐことになっている。正式に決まり次第通達される予定だが、それまでは内々の話として公表しないように。」

上司は、社長亡き後の事務所を引き継ぐある女性の名前をあげた。綾さんと言われたその人は、社長の長女で事務所に勤務している清水綾さんだ。企画室に席を置き、デザイナーとしても活動する綾さんは、大学時代の仲間とユニットを組んで個人でもデザイナーとして活躍している。クリエイティブで行動力があり、社内コンペやコンテストにも参加して賞を取り名をあげた。亡くなった父親である社長の血を間違いなく受け継ぐサラブレッドと言われ、その才能を社内の誰もが認めている。

そして性格的には姉御肌で、良くも悪くもはっきりとした物言いが特徴だ。気が強いと苦手とする人もいれば、そのぐらいでなければデザイン業界では生き残れないという人もいて、評価は様々。そんな綾さんが事務所を引き継ぐと内定して、社内の雰囲気は一気に落ち着かなくなった。

綾さんとうまくやれるのか。綾さんならば事務所を進化させられるのではないか。綾さんへの期待と不安が入り混じっていたが、そんな人たちの中で俺は不安を抱えている1人だった。大人しく繊細と見なされていた俺は、正反対の勝気な綾さんに苦手意識を持たれているようだった。

「あなた、どうしてそう鈍いの?能力があるのは分かるけど、アピールできないと意味がないの。」

企画と営業の合同会議に参加した時、俺は綾さんに厳しく質問されていた。アイデアを発表したのはいいが、内容が詰めきれていない。自分で考えに自信を持てているのなら、人から質問される前に要点を押さえなさいと叱られた。

「誰かが盛り上げてくれると思ってるの?それじゃだめよ。」

行動力と自分のやり方に絶対の自信を持つ綾さんらしい叱責に、俺は何も反論できなかった。そしてそんな俺に綾さんは厳しい批判を畳みかけてきた。「使い物にならない」「考えが浅い」と容赦なく。さすがの俺も、どうしてそこまで言われるのか分からずに頭を抱えてしまった。自分と綾さんのそりが合わないといえばそれまでなのだろうが、とにかく俺にとって綾さんという人は、疑問と言える存在だった。

「これから社長所長として頑張るだけだと思っています。父の志しと事務所への愛情を忘れず、私と皆さんでそれを育て続けましょう。」

新年度を迎え、綾さんは正式に事務所の社長に就任した。綾さんの涙をこえながらの就任の挨拶を、社員たちは静かに聞き、最後は心からの拍手を送っていた。事務所の新体制は慌ただしいスタートを切り、業務も滞りなく進行する。綾さんは精力的に事務所に顔を出し、営業とも積極的にコミュニケーションを取った。

しかし、そうなると俺は綾さんと頻繁に顔を合わせないといけなくなる。

「二宮君、あなたはいつまでそうやって鈍くて愚かなの?」

綾さんは営業部内で俺に目をつけ、小言を漏らす。

「あなたは何に関しても時間をかけすぎなのよ。」
「すみません。私なりに考えてはいるんですが。」
「自分で考えてるって、それが愚図の元だと思わない?あなたがどれだけ考えても、スピード感が足りない。」

俺が物事にこだわりを持ち、何かと考えすぎて時間を使うのは、その通りかもしれない。そんな自覚があるだけに、綾さんの言うことは聞きたくもなる。

「あなたはクリエイターでもあるのに、刺激を受けているようには見えないの。どうしてうちに秘めるじゃないけど、そんなに大人しく黙っていられるの?」
「それは、どうしてもうちにこもってしまうというか…」
「あのね、それじゃ困るの。この事務所は個性を出してのびのびとやってもらうことを是としてきたの。それなのに、そうも黙々とされてもね。」
「ああ、はい。」
「この事務所の精神を理解してないんじゃないの?あのね、本当にもっと考えて、自分との向き合い方を見直してみなさいよ。」

どうして綾さんは自分に対してこうも厳しいのか。やはりその理由がピンとこず、困ってしまう。綾さんの側に、俺をピンポイントで気に入らない事情でもあるのではないか。色々と想像しながら、それでも自分への指摘に思い当たるところはあると感じる。

「すみません。もう少しこれからも努力はしますので、どうぞよろしくお願いします。」

自分にできることは、ひたすら努力して自分を磨くことだけ。自分がいる環境に文句はない。先代社長が残して綾さんが引き継いだ事務所には、俺も愛着がある。それだけに、俺は俺なりにどうにか事務所と仕事にしがみつこうと、綾さんに頭を下げていた。人に気に入られようと思ったかと聞かれればそうではないが、綾さんに自分を認めてもらいたい気持ちがある。自分の仕事に自信はあって、目の前の仕事に真剣に向き合っている。俺は日々どうにか上向きに試行錯誤を繰り返した。

綾さんが事務所の社長になってから半年、俺は少々無理がたたって体調を崩した。風っぽく、周囲のことを考えれば休んだ方がいいだろう。微熱があるのを確認し、俺は事務所に欠席の連絡を入れた。すると、たまたま俺の電話を取る人が綾さんになってしまった。

「そんなの、体調不良なんて言えない。」

とにかく、つべこべ言わずに出なさいよ。

「すみません。熱があるので、ご迷惑かと。」
「微熱だったら大したことない。大体、今時みんな予防してるのよ。マスクもしてれば注意だってしてる。あとはあなたの気合いの問題。」

熱のせいで頭の回らない俺を、綾さんは勢いで押し切った。気合いで出社してどうにかしろと言われれば、行かなければならないと力んでしまう。電話を切る頃には、俺も行かねばならないと思い込むようになった。そのまま俺はだらだらと着替えて仕事に向かう。そしてどうにか事務所にたどり着いたのだが、仕事を始めようにも体がうまく動かなくなってしまった。

午後になる頃には熱が上がり、咳がこらえられない感覚に襲われて、早退を考えた。上司に帰らせて欲しいと頼んだのは、昼食を終えた直後。上司は俺の顔を見ると、何も問題はないと帰るように言ってくれた。この時、綾さんは外出していて不在。俺は直属の上司の許可を得て、ふらふらになりながら帰宅した。

それから数日、俺は高熱にうなされながら家で寝込んで過ごしていた。体調が回復し、すっきりした頭で仕事再開となったその日、事務所に出社して自分のデスクを見た俺は違和感を覚えて首をひねった。早退したその日、資料と一緒にデスクに置いていたはずの漫画本がなくなっていた。

「あのさ、俺のデスクの漫画本知らないか?」

俺は隣のデスクを使う同期に訪ねた。

「ああ、そういえばあったな。」
「それ、どこにあるか知らない?」
「そういえば、綾さんが見ていたような…そのまま持っていったのかもしれない。」

「それ本当?俺の見間違いじゃなければ。」

同期の答えに俺は焦った。自分が何気なく漫画本を置きっぱなしにしてしまったのも悪かったが、何も言わずにしれっと持っていった綾さんも良くはない。俺は綾さんを探しに出た。営業には顔を出していないとなれば、企画のオフィスにいるはず。手始めに企画のオフィスに行くと、そこに綾さんがいた。

「すみません。」

と綾さんに呼びかけ、俺のデスクにあったはずの漫画本について聞いた。

「すみません。私も置いたままにしていたのは悪かったと思いますが、けど、何も言わずに持ち出されてしまうのは…あれはそもそも私ので…」

俺に話しかけられた綾さんは、俺を怪しげにというか、下げるように睨んでいた。そんな綾さんに押されず、俺はどうにか漫画本を取り戻そうと務めた。

「すみません。とにかく漫画本を返してください。あれは本当に大切なものなので。」

俺が頭を下げると、綾さんは黙って俺を睨んだままだった。何か言うかと待っていると、綾さんが返したのは特大のため息。

「のさ、大切なものを机に置きっぱなしって、そんなのあり得る?あんな風にしてたら、いりませんって言われてるようなものなんだけど。」

腕組んだ綾さんが一歩前に乗り出し、俺をすごむ。

「私もね、漫画好きなのよ。それだから、ああして適当に漫画が置かれてるなんて頭に来るのよ。適当にその辺に投げ出してるなんて、冗談じゃない。それは何?何か文句あるの?そんなに大事なら、あんなことするんじゃないわよ。」

綾さんの思わぬ漫画好きという告白に、俺は驚く。洋美術好きな綾さんの一面は知っていたが、漫画にも興味があるとは考えていなかった。綾さんは漫画好きとして、俺の漫画本の扱いを叱責する。そして、俺から漫画本を取り上げたのは間違いではないと言いはる。

「漫画を大切にしていない人から、大切にできる自分のところに取り戻しただけ。あなたに返せるわけがない。」

「そう言われても困ります。私物ですし、あれは本当に大切なんです。昨日はたまたま頭がふらついて忘れてしまっただけで…」

俺はとにかく、宝物と言える漫画本を取り戻すために綾さんに懇願した。

「すみません。自分の不始末は謝ります。ですから、どうかあれだけは返してもらえませんでしょうか?」
「無理。」
「あの、無理だと言われても筋が通りませんよ。言っていますが、あれは私のものなんです。とにかく返してください。」

強い綾さんに挑み、俺の口調も強くなる。「返せ」「無理だ」の問答を繰り返し、しばらく立つと綾さんがそのやり取りを投げ出した。

「あなたさ、私になんで指図するの?」
「指図じゃありません。返してくださいと言っているだけです。」
「それが指図なのよ。冗談じゃない。許せないんだけど。」

最後の最後に怒りを炸裂させた綾さんに、俺も一気に凍りつく。「むかつく」と一言をつぶやき、綾さんは俺を一層きつく睨む。そして、ありえない最後通告を俺に突きつけた。

「もういい。あなたは首にする。っていうか、そうしたい。」

「え、ちょっと待ってください。」

漫画本を返してくれと言いに来ただけで、まさか解雇通告を突きつけられるまで発展するとは思っていなかった。俺は目を白黒させて驚いてしまった。

「誰が待つのよ。もういい。手続きはこっちでする。だから出ていって。」

顔を赤くした綾さんは、俺に首を宣告してどこかに消えた。オフィスに残された俺は、周囲から心配されながら呆然と立ち尽くす。その後、何人かの社員が綾さんを追いかけていったのを見たが、話の後先は分からないまま。「綾さんに確認すると」と、俺は社員の1人からそう言われ、営業のオフィスに戻った。

騒ぎの翌日、俺は事務所から自宅待機と言われて、出社せずに過ごした。その後も事務所からは特に何も言われず、「ほこりが覚めるまでは家にいるのが最善」というアドバイスももらった。自分が本当に事務所から首を切られたのかは分からなかったが、何も言われず実質的にはそうなのだろうと思うしかない。そんな立場になり、俺は自宅で時間を過ごすようになった。

その流れが変わったのは、綾さんの宣告から1週間後のことだ。

「ちょっと、正談すっぽかして何してくれたのよ。」

徹夜明け寝ぼけた頭に、綾さんの声が響いた。正談の予定に俺が現れず、綾さんが大変な思いをしたと電話で告げられる。

「先方から、あなたに何があったのかって。だから私があなたをかばってやるしかなくなったの。」

綾さんに叱られ、一気に目が覚める。何か言わなければと思い、俺はとっさに1週間前の出来事を話す。

「あの、私はあなたに1週間前に首にすると言われて、その後も何も進展がないようで、もう首になったのだと。」

俺は1週間前からこれまでの経緯を打ち明ける。事務所に連絡しても、俺の処遇は宙に浮いているまま。綾さんが俺を解雇したのかどうかすら定かではなく、人事も誰も何も触れられずにいた。

「事務所に所属があるかどうかも分からないようなら、身動きは取れないという話になっているんです。」

「え、ちょっと、そんな…」

俺の話に、電話の向こうから声にならない声が漏れる。

「そんなこと言われても、じゃあどうしたら…」

綾さんがはっきりと困惑を口にする。それを聞いて、もしやと俺は思った。綾さんは自分が俺に首を宣告したことを忘れていたのではないだろうか。だから1週間経っても落とし前がなく、何にも決まらなかった。そんなことを考えていると、綾さんはスイッチを切り替えたかのように強い口調で俺に命じた。

「だったら、もう前のことなんてどうでもいい。あなたはとにかく取引先に謝りに行きなさいよ。迷惑かけた自分のせいだって。」

綾さんはいつもの気の強さを全面に押し出し、何事もなかったかのように振る舞う。自分と取引先にブレーキを働いたお詫びと、自分に恥をかかせたことへの謝罪。それを俺に求め、今すぐどうにかしろと叫ぶ。

「いいわよ。首は撤回する。あなたなんて、うちが雇わなければ行場なんてないんだから。どうにかしてあげるから、今すぐ挽回しなさい。」

1週間前の騒ぎを思い出し、俺は電話の向こうの綾さんらしさに呆れる。俺の漫画本を持ち去り、返却を拒み、自分の行いを顧みようともしない。俺に謝るなど眼中になく、自分が正しいというばかり。首の撤回も、そもそもの宣告すら忘れるような気分屋。さすがの俺も頭に来て、強い口調で言い返した。

「申し訳ありませんが、全てお断りさせてもらいます。行き当たりばったりで首にされて、今度は謝れと言われ、どう考えても納得できません。」

俺は綾さんの要求を断り、首にするならそれで構わないと言い返した。

「ここで決めてくださって結構です。あなたに従わないから首だと、そう決めてください。」

仕事と事務所への未練も感じず、俺はそう言いきっていた。綾さんへの怒りと自分のプライド。それを意識して、俺は息を荒くして綾さんの返事を待った。

「バカなこと言わないで。あなたなんて、うちから切られたら路頭に迷うだけでしょ。鈍くさい、鈍いあなたが、業界で転職先なんて見つけられないわ。」

綾さんはすっかり俺の怒りに火がついていた。鼻を鳴らして笑い、俺を挑発しながら、首にはしないと断言した。俺のような大人しく鈍い人間は、自分しか雇うわけがないと豪語して、自分に従わせようとする。

俺はそんな綾さんに、それまで黙っていたことを切り出した。

「そんなことはありません。実は学生の頃より副業をしていまして、それで十分に食べていけるんです。」

会社に属していなくても、転職先を探さずとも自分は生きていける。先代の社長にはお伝えして許可を得ていました。ただ、綾さんには副業の話をする機会がなく…。

「それが何だって言うの?副業なんて今時珍しくもない。大体、副業で食べていけるだなんて甘く考えすぎ。いい?」

「私の場合は、副業の域を超えていて、この前の漫画本は覚えていますよね。」

「もちろん。」

綾さんは俺の話を白けた様子で聞いていた。

「時と蒼井先生の単行本よ。」

俺が1週間前に綾さんに持ち去られた漫画本。話をそこに向けると、綾さんが先に反応した。漫画家の名前をあげ、先生と呼び直す。

「私が、その時と蒼井です。」

「はあ?」

「大学時代にデビューして、ここまでその名前で活動してるんです。」

俺は副業について説明した。長く語っても綾さんには無意味だと思ったのだ。正直なことを言えば、会社員の収入を漫画家の収入が上回っている。しかし、それも電話では触れない。

「私は漫画家として生きてもいいというか、これを機にその道に向き合うべきだとも思っています。」

「そんなの、誰が信じるのよ。あんたがあの時と蒼井先生だなんて。」

綾さんは自分は時と蒼井のファンだと名乗り、俺の話を否定した。確かに綾さんの言うことも分かるが、俺からしたら真実なのだから仕方がなかった。

「そう言われても、私は私だとしか言いようがありません。私は二宮ハルトですが、時と蒼井でもあるんです。」

「あのね、いい加減にしなさいよ。そうやって先生を貶めないで。時と蒼井の名を汚すな。」

と、綾さんが叫び、俺に事務所に戻れという。

「くだらない嘘をつくなら、事務所に来て頭を下げろ。」

そう言われて、俺は綾さんの求めに従うことにした。謝罪をするかどうかは別で、自分のことを知ってもらうために。急いで支度をして事務所に駆けつけると、綾さんは営業のオフィスで仁王立ちして俺を待っていた。

「何か言うことがあるわよね。」

怒り顔の綾さんは、俺を見て腕を組み、不満に息を漏らした。

「言うことも何も、先ほどの電話でお伝えした通りです。」
「ああ、あなたが時と蒼井だっていう妄想ね。」
「妄想ではなくて…」
「まだ言うの?誰があんな話を信じるの?あなたが時と蒼井先生のわけがない。それでも言うようなら、病院紹介してあげるから。」

綾さんは俺の話をまともに受け入れず、俺を病人扱いした。人気漫画家の時と蒼井が男性のはずがない。繊細なタッチの絵とストーリーは、感性の細やかな女性にしか作り出せないという持論を展開した。俺はそれを聞き、「そうなのかもしれない」と綾さんの考えに頷く。少女漫画家への世間のイメージはそれが一般的だ。

「でしたら、少し時間をください。」

俺はデスクの椅子に腰を下ろした。そして手近な紙を手に取ると、無心で自分が生み出したキャラクターをそこに描く。俺の漫画家としてのペンネームは、出版社の編集者と共同で考えてつけた。元々劇画で硬派な青年漫画家を志望していた俺が、紆余曲折の末にたどり着いた少女漫画の世界で生きていくための名前だ。

「絵はうまい。ただ、ストーリーが繊細すぎる気がする。」

青年漫画を書いていた大学時代の俺は、世話になっていた出版社の人にそう言われていた。画力とシナリオのセンスを生かせる道はないかと模索をして、話し合いの末、当時出版社が力を入れ始めた少女漫画への転向を進められた。本名としていたペンネームを一新し、性別も隠してのデビュー。試しに書いた少女漫画が認められ、俺は新人漫画家の時と蒼井として世に出ることになった。読み切りの連載を数本経験し、月刊誌での連載を任されて実績を積み、時と蒼井は人気漫画家に成長。その傍らで、俺はデザインの道も極めたいと、会社員との二足のわらじ生活に没頭していた。

「これでどうでしょうか?」

キャラクターを書き上げた俺は、綾さんにそれを見せた。事務所の社長にこんなことをするのは、実は2度目だ。最初は綾さんの父、先代の社長に頼まれて、直筆のキャラクターを書いたことがあった。先代は俺の素性を全て把握して、俺を会社に入れてくれた。綾さんにそれを言えなかったのは、自分が綾さんに嫌われているのと、少女漫画を書くことへの恥を捨てきれなかったから。今はその気持ちはかんでいるが、まだどこか正面から向き合えていない。世間からの反応や自分への真っすぐな声援に、どうしても引いてしまうのだ。

「どうでしょうか?これで信じていただけますか?」

俺は、自分が書いたキャラクターが描かれた紙を手にする綾さんに問いかけた。

「ま、まさか…」

としていた。綾さんはキャラクターを見て、涙をこぼした。

「嘘…本当に、蒼井先生がいるだなんて。」

綾さんはさっと涙を拭い、顔をあげた。

「私、時と蒼井先生のファンなの。ずっと、デビューされた時から。」

「それは先ほど伺いました。」

電話での綾さんの宣言。それは小心証明の真実で、偽らざる綾さんの本音だということは伝わってきていた。

「これまでの作品は全部見てる。単行本も全部初版で買ってるのよ。」

「そうだったんですか。」

どうやら綾さんのファンとしての熱意は相当なもののようだ。綾さんは時と蒼井の著作全てに目を通し、発売される単行本も関連グッズも全て買っている。そして、そのファンぶりは俺への敵意にもつながっていた。俺の持ち物やデスクの上の私物。時折りそこに、自分が買い逃してしまった限定物のグッズが置かれているのを目撃していた。

「どうしてあなたが…と思うと、モヤモヤして…」

時と蒼井の大ファンの自分が手に入れられなかったグッズを、少女漫画に興味もなさそうな男の俺が持っている。綾さんはそれがたまらなく悔しかったのだと漏らした。俺は時々、新作グッズのサンプルを会社に持ち込んでいたこともあった。出版社からチェックを頼まれ、仕事の合間や昼休みにそれをこなすためだった。しかし、事情を知らない綾さんはその姿も見て、俺への嫉妬や敵意を深めた。その果てに、彼女は俺にきつく厳しい態度を見せるようになっていたのだ。

「私も、どうにもならない気分屋なのよね。」

綾さんから自虐とも取れる言葉が飛び出し、俺は「その自覚はあったのか」と驚いてしまった。俺はてっきり、綾さんは何の自覚もなく奔放なだけだと思っていた。

「あのグッズは、出版社の好意で頂いたものなんです。それから、あの…」

俺は綾さんに、1週間前に取り上げられたままの単行本の真実を明かした。

「あの単行本は、私が時と蒼井としての最初の単行本なんです。刷り上がった最初の1冊で、記念に送っていただいたんです。」

俺が単行本を宝物扱いし、仕事場に持ち込んでいた理由。自分のお守りとして、俺は常に自分の見えるところに置いていた。なので、あの単行本は返してもらいたい。

「あ、ごめんなさい。あの、それはすぐに…」

俺の頼みに、綾さんは頭を深く下げて答えてくれた。実際に俺の単行本を取りに行き、丁寧な謝罪と共に俺に返す。

「本当にすみませんでした。無粋な振る舞いと失礼をお許しください。」

俺は綾さんの謝罪を受け入れ、単行本を受け取った。そして、綾さんから求められたサインに応じた。自分が書いたキャラクターに、時と蒼井のサインを添える。か子騒ぎはそれで終焉を迎えた。というか、俺はそれで手を打つと決めた。将来をどうするかはまだ分からないが、今はただ今の流れに身を任せるだけだと考えたのだ。

その後も、俺はデザイナーとしてしばらくは事務所にとまることになった。漫画の世界とデザイン業界は別物で、それぞれの仕事からしか得られない刺激がある。ひとまずは、年齢的な体力の限界まではこのままでと思っている。それに、和を以て自分の副業を理解してくれた綾さんは、俺にフレックス制での勤務を提案し、漫画家生活を全面的にサポートしてくれるようになった。今では、綾さんは俺の新作にいち早くレビューを寄せてくれる大事なファンだ。長年の少女漫画ファンだけあって、綾さんのレビューは的確で参考になる。漫画好きの友人同士として、最近では気の置けない仲間のような感覚で綾さんに接している。

Thumbnail