65歳で派遣を切られ、娘に「もう電話しないで」と言われ、全財産を託した旧友に逃げられた。それでも俺は、今日も生きている。 「お父さんって、いつもそう。電話してくるのはお金が必要な時だけ」 その言葉が、28年間逃げ続けてきた現実を突きつけた。妻は癌で入院していた。俺は何も知らなかった。そして、最後の望みをかけた50万円も、消えた。…

65歳で派遣を切られ、娘に「もう電話しないで」と言われ、全財産を託した旧友に逃げられた。それでも俺は、今日も生きている。 「お父さんって、いつもそう。電話してくるのはお金が必要な時だけ」 その言葉が、28年間逃げ続けてきた現実を突きつけた。妻は癌で入院していた。俺は何も知らなかった。そして、最後の望みをかけた50万円も、消えた。...

午前2時、交差点の中央で黒川総一は蛍光グリーンのベストをまとい、光る誘導棒を振っていた。真冬の東京、みぞれ混じりの雪がヘルメットのつばを伝い、首筋に滑り込む。体の芯が冷えるというより、少しずつ体温を奪われていくような寒さだった。信号機は夜間停止で黄色く点滅するばかり。それでも深夜のトラックはヘッドライトを煌々とつけて突っ込んでくる。黒川は体を動かし続けた。棒を振る、目線を移す、トラックを止める。動作に無駄はなく、65歳の体とは思えないほど素早かった。だが頭の中は、来月の契約更新のことでいっぱいだった。

黒川が今の派遣会社で働き始めて10ヶ月。交通誘導警備員として、資格も体力もあった。夜勤の3連続も、雨の中の10時間立ち仕事も、一度も休んだことはなかった。だから次の契約も続くはずだった。そう自分に言い聞かせながら、この夜の寒さも、みぞれも、指先の感覚がなくなることも、やり過ごせるような気がしていた。

午前3時を回った頃、交代の作業員がやってきた。黒川は誘導棒を引き渡し、現場事務所の仮設小屋へ戻った。プラスチックの椅子に腰を下ろし、熱いお茶を一口飲む。その瞬間だけが、今夜の仕事でほんの少し人間に近い時間だった。手の震えが止まるまで、黒川はジットカップを両手で包んでいた。

夜が明けるのを待って、黒川は派遣会社の事務所へ向かった。勤務報告のついでに、来月も同じ現場に入れるか確認しておきたかった。それだけだ。難しい話ではないはずだった。

東新宿の路地に入ったところに、派遣会社「大行アークス」の事務所はあった。看板は薄汚れた水色で、引き戸のガラスは内側から曇っていた。黒川は手で息を吹きかけてから引き戸を開けた。受付の若い女性が顔も上げずに「少々お待ちください」と言った。5分ほど待たされ、奥のドアが開いて胃科しが出てきた。32歳、グレーのスーツが体に合っていて、それなりの高さのある革靴を履いていた。髪はきっちり横に分けられ、青白い蛍光灯の下でも肌に艶があった。

胃科しは黒川を見ると、ごく自然な動作で隣の小部屋へ視線を向け、「どうぞこちらへ」と言った。声は穏やかだったが、その穏やかさが何かを覆い隠しているような気配があった。

小部屋には事務机が一つと、向き合う形で二客の椅子が置いてあった。胃科しは机の向こうに座り、ファイルを一冊取り出してページをめくった。それからファイルを閉じ、黒川の目を見た。その目がほんの一瞬、どこか遠い場所を見ているように感じられた。

胃科しは机の上に一枚の紙を滑らせた。黒川はそれを見た。最初は何なのかすぐには理解できなかった。タイトルが視界に入り、次の行を読んでようやく分かった。

「契約終了通知書」

胃科しは言った。「今年で65歳になられますよね、黒川さん。それが一つ目の理由です。保険料の負担が増えていまして、会社として継続が難しくなってきました。それからもう一点、今月から別ルートで人材の確保ができたんですよ。東南アジアからの技能実習の枠で若い人材が複数入ってくることになりまして、皆さんまだ20代で体力もある。それでいて報酬は黒川さんの3分の1以下です。申し訳ないですが、競合になってしまうんですね」

胃科しの口調は謝罪のように聞こえなかった。事実を読み上げているだけだった。値段が上がったから古い商品を棚から下ろす。そういう感覚で言っているように聞こえた。

黒川は両手を膝の上に置いていた。膝の上でそっと握りしめると、手の甲の青筋が浮き上がった。爪が手のひらに食い込む感覚があった。それを感じながら、黒川は顔に何も出さないようにした。

胃科しは続けた。「本日付けで契約を終了していただく形になります。お荷物があればまとめていただいて、ロッカーの鍵を返却していただければと。給与は月末に振り込みます」

黒川は答えなかった。すぐには言葉が出なかったというより、出すべき言葉が何もなかった。頭の中で反論の形をしたものがいくつか浮かびかけては消えた。自分はきちんと仕事をしてきた。一度も遅刻もせず、無断欠勤もせず、クレームもなかった。それは事実だ。しかしそれを今ここで言っても、胃科しの書類の内容は変わらない。保険料は下がらない。外国人労働者の賃金も3倍にはならない。全部事実だ。抗えない事実が、冷たい紙一枚の上に綺麗に並んでいた。

黒川はゆっくりと立ち上がり、机の上の紙を手に取った。小さく折りたたんで、ベストの胸ポケットに入れた。胃科しは何も言わなかった。黒川もまた何も言わなかった。

事務所を出ると、路地に弱い風が吹いていた。みぞれはやんでいたが、空はまだ灰色で、どこかに光の出口があるようには見えなかった。黒川は歩いた。どこへ行くともなく、ただ歩いた。大通りに出ると自動販売機があって、100円玉一枚でコーヒーの缶が出てきた。黒川はそれを受け取り、プルタブを引いた。手が少し震えていた。缶を傾けてコーヒーを一口含んだ。甘すぎて、胃に落ちてもそこで止まったような気がした。

「なぜいつも自分なのか」

その言葉がゆっくりと胸の中で形になった。

黒川は大学を出ていた。地方の国立大学だったが、一応大学だった。卒業後は食品メーカーの事務職につき、20年近く働いた。あの頃はまだ景気も良かったし、毎年少しずつ給料も上がった。家族もいた。狭いアパートだったが、3人で食卓を囲む時間があった。

1998年に会社が潰れた。バブル後の不況が続く中で取引先の連鎖に巻き込まれ、気がつけば会社は存在しなかった。37歳の時だ。黒川はそこから再就職を試みたが、当時の就職市場はひどいものだった。採用の枠は狭く、30代後半の事務職を歓迎する会社は少なかった。何度も面接を受け、その度に断られた。半年が経ち、1年が経つうちに、黒川の選択肢はどんどん狭くなっていった。最終的に選んだのは短期の派遣だった。最初は一時しのぎのつもりだった。きちんとした仕事に着くまでの間だけだと。

それが今も続いている。28年間、派遣で生きてきた。職種はその都度変わった。データ入力、引っ越し補助、工場の仕分け、交通誘導、倉庫管理。どれも資格や技術の積み上げにはならなかった。どれも次の更新を待ち続ける日々だった。そしてその度に黒川は自分に言い聞かせてきた。「時代が悪いのだ。バブルが引けさえしなければ、景気がもう少し良ければ、自分はこんな風に放り出されなかったのだ」と。そう信じることで何かを保っていた。

缶が空になった。黒川は缶を近くのゴミ箱に捨て、しばらくその場に立っていた。通りを行き交う人たちは誰も黒川を見なかった。黒川も誰のことも見なかった。薄汚れたビルの窓に、ベストを着たままの自分が映っていた。頬がこけ、顎が尖り、顔の皮膚がたるんで落ちかかっている。背はまだ真っすぐだったが、それが逆に悲しかった。体だけが現役の顔をして、中身は空洞になっているようだった。

黒川はようやく歩き出し、電車に乗って自分のアパートへ向かった。荒川区にある木造アパートの一室。家賃は3万5000円で、築30年以上の建物だった。鍵を開けて入ると、狭い玄関に昨日の作業着が脱ぎっぱなしになっていた。黒川はそれを見て、少しの間動けなかった。泥と油で汚れた作業ズボン。洗えばまだ着られる。洗う理由がもうない。安全ベストを脱ぎ、作業着を脱ぎ、靴下を脱いだ。畳の上に腰を下ろすと、座った拍子に膝がきしむような気がしたが、それは錯覚だと思うことにした。

本棚もテレビもない殺風景な部屋に、ダンボール箱が2つ積まれていた。一つには仕事関係の書類が、もう一つには冬物の衣類が入っていた。壁には何もかかっていなかった。棚の上に小さなラジオが一台あって、今は電源が切れていた。黒川はゆっくりと体を倒し、畳の上に横になった。天井を見上げると染みが一つあった。いつ頃からあったかもう覚えていない。雨漏りではなく、おそらく前の住人が残していったものだ。この染みを毎晩見ながら、黒川はこの部屋で何年も眠ってきた。

目を閉じると胃科しの顔が浮かんだ。32歳、体に合ったグレーのスーツ。机の上を滑ってきた一枚の紙。あの目のどこか遠い場所を見ているような、感情が抜けた視線。黒川の胸の奥で何かが固まっていくのを感じた。怒りとも悲しみとも違う。もっと重く、もっと根が深い。そういう何かだった。

しばらくそのまま天井を見ていた後、黒川は起き上がった。部屋の隅に作業服が入った袋があった。黒川はそれを持ち上げ、廊下へ出てゴミ集積所の横に置いた。その袋を置いた瞬間、手がほんの一瞬だけ止まった。また必要になるかもしれない。でもそう思う自分が嫌だった。戻ってきた。

部屋に戻ってから、黒川は畳の上にあぐらをかいて座り、壊れかけの古い携帯電話を手に取った。画面の端にひびが入っていたが、まだ使えた。連絡先の一覧を開く。スクロールしていくと、ほとんどが会社関係の番号で、個人の名前はほとんどなかった。途中で指が止まった。

「星野み咲」

娘の名前だ。電話番号は変わっていないはずだった。最後に連絡したのは4年前だったか、もう少し前だったか。はっきりとは覚えていなかった。あの時も何かを頼もうとして電話したのだったか。それともただ声が聞きたくてかけたのだったか。記憶の輪郭が曖昧になっていた。

黒川は画面を見つめたまましばらく動かなかった。アパートの外を軽トラックが一台走り抜けていった。エンジン音が遠ざかり、また静かになった。ラジオの電源は切れたまま。部屋に何の音もなくなると、黒川の息の音だけが聞こえた。

電話をかけるべきか。かけてどうする?金の話をするつもりか?来月の家賃が払えないから娘に頭を下げるつもりか?そんな電話をかけていい立場か自分は。頭の中をいくつかの声が行き交った。情けないという声。他に手がないという声。お前が弱いからだという声。時代のせいだという声。全部自分の声だった。

黒川は親指を画面に当て、星野み咲の名前に触れた。発信ボタンを押す前に、一度だけ深く息を吐いた。タバコの箱を探して上着のポケットに手を入れた。エコーの箱が潰れたまま入っていた。一本取り出して口に加えたが、火はつけなかった。ただそのままにしていた。電話をかけようとした理由が自分でも整理できていなかった。助けを求めたいのか、顔が見たいのか、聞こえるはずもない言葉を言いたいのか。何がしたいのか分からないまま、黒川は画面の光の中に娘の名前を見ていた。

部屋の外で誰かが階段を登る足音がした。隣の住人が帰ってきたらしい。ドアの音がして、鍵の音がして、また静かになった。黒川はタバコを箱に戻した。携帯の画面が暗くなり、またつけた。暗くなり、またつけた。それを3度繰り返してから、ようやく発信ボタンを押した。

発信音が3回なった。4回目に入る前に電話が繋がった。間が一秒あった。それから女の声がした。

「はい」

たったそれだけの一言に感情はなかった。名乗りもせず、誰からの電話かも確認せず、ただ「はい」とだけ言った。その声が娘の声だとは分かった。黒川はすぐに言葉が出なかった。口の中にタバコの味がまだ残っていた。火をつけていないのに、それでも唇の奥に苦みのようなものがあった。

「み咲か」と黒川は言った。自分の声が思ったより低く掠れていた。電話の向こうで短い間があった。それから娘が言った。

「何ですか?」

敬語ではなかったが、親しみもなかった。飼い主を覚えていない犬が吠える前の沈黙に似ていた。黒川は息をついてから「元気か」と聞いた。自分でも情けないと思ったが、他に切り出す言葉が見つからなかった。

「別に」と娘は言った。それ以上は続かなかった。アパートの一室に、外の交通音だけが薄く聞こえていた。黒川はあぐらを描いたまま左膝の上に肘を乗せ、携帯を耳に当てていた。畳の目を見ながら、どこから話すべきか考えた。

「実は仕事がなくなってな」と黒川は言った。「今月で契約が切れた。しばらく次が決まらんかもしれんから、家賃が」と言いかけて喉が詰まった。残りの言葉が出てこなかった。娘は何も言わなかった。黒川は続けた。「10万都合してもらえんか。来月には必ず返す」

しばらくの沈黙があった。その沈黙の質がさっきとは違っていた。さっきは無関心の沈黙だったが、今のはそうではなかった。何か言葉を選んでいるのではなく、怒りを整えているような、そういう沈黙だった。

「やっぱりそういうことか」と娘は言った。声が低くなっていた。黒川は何も返せなかった。

「あのね」と娘は続けた。「お父さんって、いつもそう。電話してくるのはお金が必要な時だけ。社会のせい、時代のせい、景気のせい、会社のせい。何かある度に誰かのせいにして、それで自分は何もしない。ずっとそうやって生きてきたじゃないですか」

黒川は黙っていた。反論の材料を探していた。見つからなかった。

「お母さんがね、今入院してるんです」と娘は言った。声が少し揺れた。「癌の治療で。それも知らないでしょう。知らせる気もないと思ってたから言わなかったけど。私はお母さんの付き添いや病院の手配や、仕事と両立しながら全部やってる。それでもまだこっちに頼ってくるんですか?」

黒川は息を飲んだ。妻が入院している。その事実が耳から入って頭の中に落ちて、それでもすぐに形にならなかった。

「もう連絡しないでください」と娘は言った。今度こそ声が揺れていなかった。揺れていないことの方が、揺れているよりも重かった。「本当に、もう電話はしないでください」

ツーという音が続いた。黒川は携帯を耳から離した。画面には通話時間が表示されていた。4秒。20年以上の時間が4秒に収まっていた。外の交通音がまた聞こえた。黒川は携帯を畳の上に置こうとして、途中で力が入り、そのまま壁に向かって投げた。乾いた音がして、画面がひびだらけになった。端末は壁際で止まり、それきり動かなかった。

黒川はしばらくその場にいた。怒鳴りたい気持ちはなかった。泣く気力もなかった。ただ部屋の真ん中で、背筋だけまっすぐにあぐらをかいて座っていた。妻が入院している。癌。それを知らなかった。知る機会も、知ろうとする動作も、この20年の間になかった。黒川は目を閉じた。暗い瞼の裏に何も映らなかった。

翌朝、黒川は近所の公園へ行った。昨夜は結局ほとんど眠れなかったが、横になっていることにも疲れた。コンビニで買った100円のおにぎりを一個持って、ベンチに腰を下ろした。梅干しの入ったおにぎりだった。包装フィルムの剥がし方を間違えて、のりがぐちゃぐちゃになった。それでも食べた。公園には鳩が数羽いて、黒川の足元まで近づいてきた。足を動かすと逃げて、また戻ってきた。財布の中身を確認した。紙幣が3枚と小銭が少し。来週には家賃の督促が来る。次の仕事が決まらなければ、その翌月は払えない。頭の中で数字を並べてみたが、どう計算しても足りなかった。

おにぎりを食べて包み紙をゴミ箱に捨てた。ベンチに戻ると、隣に男が座っていた。いつの間にか来ていた。70代くらいに見えた。今のジャケットを着て、綺麗な革靴を履いていた。靴は磨かれていて、それなりの値段のものだとは分かった。黒川は少し体をずらした。男の方を見なかった。

「おい、黒川じゃないか?」

男が言った。黒川は顔を上げた。声を聞いてから顔を見るまでの1秒の間に、記憶の奥から何かが引っ張り出されてきた。その顔に見覚えがあった。28年前の記憶の中にある顔と、目の前の顔が重なり始めた。

「中山か」と黒川は言った。男は笑った。皺の多い顔に、昔と同じ形の笑いが浮かんだ。

「そうだよ。中山だ。久しぶりだな。何年ぶりだろう」

中山啓介。かつての同僚だ。同じ食品メーカーで働いていた。倒産した年、2人とも職を失った。あの後中山がどうなったか、黒川は知らなかった。知ろうとしなかった、とも言える。

中山は言った。「こんなところで会うとはな。どうした、仕事は?」

黒川は少し間を置いてから「今はちょっとな」と言った。それ以上言わなかった。中山は黒川の様子を上から下まで一度眺めた。その視線は意地悪ではなかったが、何かを確認しているようだった。

「飯食ったか」と中山は言った。黒川は「少し前に食べた」と答えた。「ちゃんとしたもの食ったか」と中山は重ねて聞いた。黒川は答えなかった。

「いいものでも食いに行こう」と中山は言って立ち上がった。黒川が断る前にもう歩き出していた。その背中が妙に確かな足取りをしていた。公園の外に黒い外車が止まっていた。運転手が乗ったまま待っていた。中山は後部座席に乗り込み、黒川にも乗れと言った。黒川は車に乗りながら、中山の靴と車を見比べた。倒産した時、中山も同じように仕事を失ったはずだ。それがこれだけの格好をしている。何かがうまくいったのだろう。あるいはうまく行かせたのだろう。

車は新宿方向へ走り、昼間から明るい定食屋ではなく、落ち着いた和食の店に入った。黒川が一生のうちに自分で入ることはまずないような、そういう種類の店だった。座敷に通され、黒川は20年ぶりに箸置きを使った。中山は注文を決めてから、ぽつぽつと話し始めた。自分もしばらく苦労したと言った。日雇いも経験したし、土方の仕事もした。ただ40代になった時、知り合いに誘われて物流関係の会社に入って、そこで運が良かった。今はその会社の一部門で管理職をやっている。小さいけれど、自分で判断できる範囲の仕事だ。そういう話をした。

黒川は聞きながら自分の手元を見ていた。箸の横に置かれた湯呑み。湯呑みの白い縁。

「実は今、うちで人を探しているんだよ」と中山は言った。黒川は顔を上げた。「物流の小さな倉庫だ。年配の人間が欲しくてね。若い連中だとすぐやめちまうから。落ち着いた人間に管理の仕事を任せたい。倉庫の現場管理、出荷の確認、スタッフの取りまとめ。難しいことは何もない。黒川みたいな経歴の人間にはちょうどいいと思う」

「給料はどのくらいか」と黒川は聞いた。声が少し低くなっていた。

「月に30万は出せる」と中山は言った。「もちろん社会保険込みで。うちは新しい会社でまだそんなに大きくないが、伸びているところだから、安定はしている」

黒川の胸の中で何かが動いた。長い間感じていなかった感覚だった。30万。社会保険。管理職。28年間、それらとは縁のない生活をしてきた。それが急に目の前に現れた。

「ただ」と中山は続けた。「うちは新規立ち上げで資本金が薄くてな。役職につく人間には、責任の証として50万円の出資をお願いしているんだよ。株式ではなくて、入社時の責任担保みたいなものだ。退職する時には全額返還する。形式的な手続きなんだが、これが会社の規則になっていて」

黒川は中山の顔を見た。中山は箸を置いて、黒川の方をまっすぐに見ていた。

「50万か」と黒川は言った。

「ないなら仕方ない」と中山はあっさりと言った。「無理に誘うつもりはないよ。ただ、黒川が困っているようだったから、声をかけてみただけだ。他にも候補はいる」

黒川は箸を取った。椀の中の出汁の色が静かな琥珀色をしていた。28年間ずっと使い捨てられてきた。年齢で切られ、外国人の方が安いと言われ、今朝もあの事務所の小部屋で一枚の紙を滑らせられた。それがずっと続いてきた。今の自分には50万などない。しかしそれを出せば、今度こそ違う場所に立てるかもしれない。娘に、元妻に、あの胃科しに、自分はまだやれると見せられるかもしれない。

中山は料理を食べながら急かさなかった。黒川は食事を終えてから言った。「50万、なんとかする」

中山は軽く頷いた。「よかった。来週の月曜に連絡してくれ。詳細を送る」そう言って店を出た。

タクシーで帰宅しながら、黒川は窓の外を見ていた。東京の町が流れていく。車窓の向こうにサラリーマンの集団が信号を待っていた。スーツを着た30代か40代の男たちだ。当たり前のように会社員の顔をして立っていた。その顔に、自分が28年前に失ったものがあった。

黒川は翌朝銀行へ行った。通帳を記帳してから残高を確認した。62万8000円。これが今の自分の全財産だった。28年間の派遣生活で積み上げた全部だ。この中から50万を出せば、12万ほどしか残らない。家賃を払ったら7万を切る。窓口の担当者は若い女性で、黒川の顔を見ることもなく手続きを進めた。50万円、札束50枚。封筒に入れられた紙幣の束がカウンターの向こうから差し出された。黒川はそれを受け取り、上着の内ポケットに入れた。

中山との待ち合わせ場所は新宿の喫茶店だった。黒川は10分前に着いて、ドアの前でタバコを一本吸った。体に馴染んだ動作で火をつけ、煙を吐いた。人生が変わる前の最後の一本だと思った。店の中に入ると、中山はまだ来ていなかった。黒川は窓際の席に座り、コーヒーを注文した。時計を見た。約束の時間の5分前。

10分が過ぎた。中山は来なかった。20分が過ぎた。コーヒーが覚めていった。黒川は携帯を取り出した。ひびだらけの画面を叩いて中山の番号を呼び出し、発信した。呼び出し音が鳴り続けた。誰も出なかった。もう一度かけた。同じだった。黒川はコーヒーを飲んだ。冷めていて苦かった。30分が過ぎた。黒川は席を立って、中山が教えた会社の住所へ向かった。

地図アプリで確認した住所。新宿から電車で数駅。そこに会社があるはずだった。降りた駅から歩いて7分。路地の通りに歩いて行くと、更地が現れた。フェンスに囲まれた空地だった。何もなかった。建物の基礎の跡のような凹凸が地面にあるだけで、後はただの土の広がりだった。黒川は更地の前に立った。もう一度中山の番号に電話した。「接続できません」という音声が流れた。番号が使えなくなっていた。

5月の昼だった。空は青かった。日差しが強く、黒川の薄くなった頭頂部に直接照りつけていた。スーツは唯一の一着で、裾がほつれかけていた。靴は昨夜磨いたからまだ光っていた。黒川は動かなかった。怒鳴る気力がなかった。走り出す先もなかった。50万円が入っていた封筒は、昨日中山に渡した。今のうちポケットは空だった。更地の向こうに普通の住宅が並んでいた。どこかで子供の声がした。風が一本の草を揺らしてやんだ。黒川は両手をだらりと体の横に垂らしたまま、太陽の下に立ち続けた。声を出す必要がなかった。感情を処理する必要もなかった。ただそこにいた。

やがてゆっくりと体が動いた。足が一歩前に出た。次の一歩。黒川は歩き出した。どこへ向かうとも決めずに、ただ駅の方向へ歩いた。背中に日差しが当たっていた。駅へ向かう道の途中に自動販売機があった。黒川は財布から100円玉を出し、コーヒーのボタンを押した。落ちてくる音がした。取り出してプルタブを引いた。液体が口の中に入り、甘さと苦さが混ざって喉を通った。それだけだった。黒川は歩きながら缶を飲んだ。今の自分には全財産の8割が消えた。仕事はない。家賃の督促が来る。娘には拒絶された。元妻は入院している。どうにもならない事実がまた並んだ。今度は紙の上ではなく、頭の中に直接並んだ。

「なぜいつも自分なのか」その問いがまた浮かんだ。しかし今度は、その問いに対して何かが引っかかった。何か小さな鋭いものが。黒川はその感覚を押しのけるように缶の残りを飲み干した。駅の改札口に入り、ホームのベンチに腰を下ろした。電車が来るまで7分あった。黒川は膝の上に両手を置き、ホームの反対側の壁を見ていた。壁には路線図が張ってあった。路線の色分けが蜘蛛の巣のように広がっていた。電車が来た。黒川は乗り込んだ。吊り革を持って立ちながら、黒川は窓の外を見ていた。トンネルに入り、窓が暗くなると、そこに自分の顔が映った。ほつれかけたスーツの袖、磨かれた靴、やつれた顔。その顔の目が何かを見ようとしていた。何を見ようとしているのか、黒川にも分からなかった。電車がトンネルを抜けた。窓の外に街の景色が戻ってきた。黒川の顔は消えた。

ハローワークの入り口に朝から人が並んでいた。自動ドアが開くたびに冷房の効いた空気が外に漏れ出し、列に並ぶ人たちの顔を一瞬だけ涼しくした。6月の東京はもう蒸し暑く、日光が肩や首筋に重くのしかかってきた。黒川は列の最後尾に加わり、前の人間の背中を見ながら待った。前に立っているのは40代くらいの男で、くたびれたポロシャツを着てスマートフォンをずっと触っていた。その隣には50代の女性が一人、紙袋を抱えて俯いていた。誰もが自分の順番が来るまで、なるべく他の人間を見ないようにしていた。黒川も同じだった。視線を落として自分の靴を見た。昨夜磨いた。それ以外にすることがなかった。

窓口まで40分かかった。担当者は30代の女性で、名前のプレートに「田中」と書いてあった。黒川の書類を受け取り、画面を見ながらいくつか質問した。「直近の職種は」と聞かれたので交通誘導と答えた。「その前は」と聞かれたので倉庫管理と答えた。「希望職種は」と聞かれて、黒川は少しの間だけ黙った。「事務の仕事があれば」と言いかけてやめた。65歳の男を事務職で雇う会社が今の東京にどれだけあるか、考えなくても分かった。

「何でも」と黒川は言った。「体が動けば、何でもやります」

田中は画面を見ながら少しだけ表情を変えた。「難しいのは年齢のことだけですね」と言った。悪意ではなく、ただ事実として言っていた。「65歳以上を受け入れている求人が今は限られていて。それでも介護の分野は今とても人手が足りていなくて。短期の研修を経て資格を取れば、すぐに就業できる可能性が高いです」

「介護」と黒川は繰り返した。田中はモニターの方を向いたまま続けた。「初任者研修というコースがあって、大体1ヶ月半から2ヶ月で取得できます。費用の一部は補助が出ます。研修中は無給になりますが、終わればすぐに施設に紹介できます。体力があれば、むしろ戦力として歓迎されます」

黒川は窓口の縁を握りながら田中の横顔を見た。田中は黒川を見ていなかった。画面のスケジュールを確認しながら、来週から始まるクラスに空きがあることを確認していた。

「わかりました」と黒川は言った。声が出た。それだけで精一杯だった。受付の手続きをして、書類をいくつかもらい、ハローワークを出た。外に出ると蒸し暑さが戻ってきた。黒川はビルの影に入り、タバコを一本取り出した。火をつけて深く吸った。煙が肺に入り、ゆっくりと吐き出した。

介護士。その言葉を頭の中で転がしてみた。大学を出て食品メーカーで20年働いて、37歳で路頭に迷って以来、ずっと肉体労働の派遣を渡り歩いてきた。その終着点が、老人の世話をすることだった。誰かがそれを聞いたら笑うかもしれなかった。黒川は笑えなかった。笑う余裕がなかった。タバコを吸い終えて、フィルターを携帯灰皿に押し込んだ。

1ヶ月半後、黒川は初任者研修を終了した。課題も同期の中では群を抜いてできた。同期には20代の若者も40代の主婦もいたが、黒川は誰よりも早く動作を覚え、誰よりも丁寧に実習をこなした。講師の女性が一度だけ「飲み込みが早いですね」と言った。黒川は頷いただけで何も言わなかった。

紹介されたのは、荒川区の外れにある民間の老人介護施設だった。外壁は古く、玄関に飾った造花はほこりをかぶっていた。定員は40名で、スタッフは常時5名から6名。一人当たりの担当人数が多すぎる施設だということは、入職初日にすぐに分かった。黒川は現場に入り、仕事を覚えた。入居者の食事介助、排泄ケア、着替え、入浴補助。どれも覚えたてで不慣れだったが、黒川は手を抜かなかった。匂いにも重さにも慣れようとした。慣れるまでの時間は、仕事をすることで縮めるしかなかった。

施設の中はいつも騒がしかった。廊下のどこかで誰かが呼んでいて、別の誰かが泣いていて、スタッフはいつも走っていた。「走るな」と書いてある廊下のプレートを、全員が無視していた。立ち止まっている時間がなかった。

長谷川という男がこの施設の主任だった。28歳、背が低く、顔が丸く、メガネをかけていた。メガネのフレームは安っぽいシルバーで、片方のネジが緩みかかっていて、いつも少し曲がっていた。来たばかりの黒川を見る時、長谷川の目には何か複雑なものが混じっていた。65歳の男が自分の部下になっているという事実を、どう処理していいか分からないような、そういう目だった。

最初の2週間、長谷川は黒川に対して極端に愛想が良かった。必要以上に丁寧な敬語を使い、黒川が何かをするたびに「ありがとうございます」「お願いします」と言った。その過剰な礼儀正しさが、却って距離を感じさせた。

変わったのは3週目に入った当たりだった。その日、黒川は夕方の食事介助を一人でこなしていた。介助の入居者が7人いて、そのうち2人は一人で食べられないため補助が必要だった。終わった頃には夜勤のシフトが始まる時間に近くなっていた。長谷川がやってきて「ついでに廊下の床を拭いておいてくれ」と言った。その言い方が「ついでに」だった。黒川はモップを持った。黙って廊下を拭いた。

次の日、長谷川は黒川に別の雑用を頼んだ。洗濯物の仕分けだった。それも仕事のうちだと黒川は思った。やった。3日後、長谷川は黒川に厨房の片付けを頼んだ。厨房のスタッフがまだいたにも関わらず。1週間後、長谷川は黒川に「コンビニに行って、自分用の飲み物を買ってきて欲しい」と言った。150円を渡しながら、言い方はひどくさりげなかった。業務の一環であるかのような顔をして言った。黒川は150円を受け取り、コンビニへ行った。お釣りを渡した時、長谷川はそれをポケットに入れながら言った。「うちの施設は色々厳しいからさ、黒川さんには色々やってもらうことになると思うけど、まあ頑張ってよ」その言い方は、こちらが恩義を感じなければならないような、計算された口調だった。

黒川はその夜、アパートの畳の上に座ってタバコを吸いながら、自分が今どういう立場にいるかを改めて考えた。65歳。学歴だけはある。かつては事務職だった。今は介護士の見習い。その見習いが、28歳の主任の個人的な使い走りをしている。腹の底で何かが燃えていた。だが燃やしてどうなる?燃やせる場所がどこにもなかった。

翌週から、長谷川の態度が少しずつ変わっていった。他のスタッフがいる場面で、長谷川は黒川に対してある種の口調を使い始めた。ため口ではなかった。しかし敬語でもなかった。その中間の、上司が部下に使うような、立場を示す口調だった。それ自体は問題ではなかったかもしれない。問題は、その口調が他のスタッフへのそれと明らかに違ったことだ。若いスタッフには長谷川はよく笑って話していた。黒川に対してだけ、笑わなかった。

実習生が2人入ってきた日のことだ。20歳前後の女性が2人、研修で1週間施設に来ることになった。その日の午後、長谷川は黒川を呼んで「ちょっといいですか」と言った。黒川が近づくと、長谷川は実習生2人の前で言った。「この方がですね、入居者の田代さんのそばを離れていたんですよ。ちょっと目を離した隙に。それで田代さんが転倒しそうになったんですよね」

黒川は長谷川の顔を見た。言葉の意味が一拍遅れて入ってきた。田代さんというのは80代の女性入居者で、その日の午後、黒川は田代さんの隣の部屋で別の入居者の着替えをしていた。田代さんのそばにいたのは、長谷川本人だった。そして転倒しそうになったというのも、黒川には心当たりがなかった。しかし長谷川はさらに続けた。実習生たちに向かって「こういうことがあるからね。どんなに些細なことでも、目を離さないように」と言った。まるで教育の一環として、黒川の失態を例に出しているような口調だった。

実習生の2人は困ったような顔で黒川を見た。黒川は一瞬顔を上げて長谷川を見た。長谷川は黒川の目を見返した。その目に挑むような光があった。「言い返してみろ」という光だった。黒川の右手が、ポケットに入れていたエコーの箱に触れた。その箱をポケットから出して、今日長谷川に頼まれてコンビニで買ってきたという事実を示そうとした。頼まれた時刻と、田代さんが転倒しそうになったという時刻は、重なっているはずだった。長谷川の視線がすっと細くなった。ほんの一瞬だけ。それで十分だった。言い返せば、誰が信じるか。研修中の見習い介護士、65歳、前職なしの経歴。対して長谷川は主任で、この施設に3年いる。どちらの言葉が通るか。言い返せば、次の日から仕事が続けられなくなるかもしれない。この仕事を失えば、次はない。

黒川はタバコの箱をそっとポケットの奥に戻した。それから深くお辞儀をした。「気をつけます」と言った。自分の声が遠くから聞こえるような気がした。実習生の2人は、黒川の頭の下がった姿を見ていた。黒川はその視線を感じた。おそらく2人には、自分が本当に何か失敗をした老人に見えているだろうと思った。頭を下げたまま、その場を離れた。

廊下の突き当たりに小さな物置きがあった。黒川はそこへ入り、ドアを閉めた。モップと掃除用具が立てかけてあり、洗剤の匂いがした。狭かった。黒川は立ったまま、その狭い空間の中でしばらくじっとしていた。口の中に鉄の味がした。

翌朝出勤してシフトに入ると、フロア主任の長谷川から声がかかった。「今日は夜勤の田村さんが急に休みになったから、夜も入ってほしい」と言った。田村という夜勤スタッフが休んだのは事実だったかもしれない。しかし黒川は朝から入っていたから、その日はすでに8時間以上働くことになる。黒川は頷いた。

夕方になり、夜勤の時間帯に入った。施設内が静かになり始めた頃、廊下の奥で音がした。黒川が急いで向かうと、田代さんが廊下に出ていた。夜中にトイレへ行こうとして、部屋を出てきてしまったらしかった。黒川が田代さんのそばに着いて、ゆっくりと誘導し始めた。その最中に、田代さんが体をよじった拍子に足が絡み、膝から崩れるように床に落ちた。黒川は即座に田代さんを支えようとしたが、体重の移動に間に合わなかった。

施設内に緊急コールが鳴り響いた。救急車が呼ばれた。施設長が飛んできた。施設長は60代の男性で、眼鏡の奥の目がひどく険しかった。長谷川がその場に現れたのは、救急車が到着してからだった。黒川の横に立ち、施設長に向かって言い始めた。「実は今日の日中にも、黒川さんが離れているところを確認していまして。先日も入居者のそばを離れる件で注意をしたばかりなんですが、今回また同じことが起きてしまいました。私の指導が至らなかった部分もあると思いますが」

長谷川の声は落ち着いていた。慌てていなかった。むしろ、ここで何を言うべきかをよく知っているような、そういう落ち着きだった。施設長は黒川を見た。黒川は施設長の目を見返した。その目の中に、すでに判断が出来上がっているのが見えた。施設長はもう長谷川の言葉を信じることに決めていた。証拠を確認する前に、黒川の言葉を聞く前に。

黒川は口を開きかけた。「今日の昼間、長谷川に頼まれてコンビニへ行っていた。その時刻と田代さんの件が重なっている」それを言おうとした。しかし施設長はすでに長谷川の方を向いて、今後の対応について話し始めていた。黒川に向けていた視線が、もう戻ってこなかった。黒川は口を閉じた。

田代さんは骨盤の一部にひびが入っていた。入院が必要な怪我だった。その翌朝、施設に呼ばれた。短い会話だった。施設長は「申し訳ないが、今後の契約は難しい」と言った。それだけだった。給与については「来月の振り込みで対応する」と言ったが、その表情を見ていると、実際に振り込まれるかどうかは分からなかった。黒川は頭を下げ、私物を取って施設を出た。

外は朝の光の中にあった。黒川は施設の前に立ち、ロッカーから持ち出した紙袋を片手に下げていた。中身は水筒と着替えと少しの書類だった。タバコを取り出した。ポケットの中のエコーの箱。火をつけた。タバコの煙が朝の空気に溶けていった。黒川はそれを見ていた。消えていく煙を、ただ見ていた。

1ヶ月分の給与は、結局1円も振り込まれなかった。家賃の督促状が2枚、玄関のドアの下から差し込まれていた。1枚目は先月分、2枚目は今月分だった。黒川はそれを拾い上げて、畳の上に並べた。合計7万円。財布の中には8000円と小銭がいくらかあった。残りはどこにもなかった。施設からの給与は振り込まれなかった。中山に渡した50万は戻らない。銀行口座の残高は3000円を切っていた。黒川は督促状を折りたたみ、ダンボール箱の隙間に差し込んだ。見えないところに入れれば、少しの間だけ存在を忘れられるような気がした。そういう気がするだけで、現実は変わらないことは分かっていた。

3日後、大家が直接やってきた。60代の小柄な男で、いつも首にタオルをかけていた。ドアを3回ノックして、開けると同時に「まあ、立ち話も何だから」と言って玄関に入ってきた。黒川は玄関に立って大家の顔を見た。大家は黒川の目を見ず、部屋の中を一度だけ眺めた。その目がダンボール箱とラジオと、何もない壁を順番に見た。「2ヶ月分は無理でも、せめて1ヶ月分だけでも」と言った。声に怒りはなかった。ただ疲れたような、諦めに近い口調だった。「うちも余裕があるわけじゃないから」

黒川は「今月中に何とかします」と言った。大家は黒川の顔を見て1秒ほど間を置いてから「分かった」と言って出ていった。ドアが閉まる音がして、廊下に足音が遠ざかった。黒川は玄関に立ったまま、しばらく動かなかった。「今月中に何とかします」という言葉が自分の口から出たことの意味を、改めて考えていた。今月中はあと11日だった。11日で7万円を作る方法が、今の自分にあるかどうか。答えは最初から分かっていた。なかった。

黒川はクローゼットを開け、中を確認した。スーツが1着、作業着が1着。下着が数枚、靴が2足。それだけだった。売れるものを探したが、売れるものがなかった。ラジオは2000円にもならないだろう。携帯電話はひびだらけで、値がつかない。

翌朝、黒川は荷物をまとめた。バックパックに詰めたのは、下着と靴下が数枚、普段着が2枚、歯ブラシと石鹸、タバコとライター、そして財布だけだった。スーツは持った。クローゼットの残りは置いていくことにした。大家へ一言残すべきか迷ったが、紙もペンも見当たらなかった。結局、鍵だけをドアの鍵穴にかけて、部屋を出た。廊下に出ると、隣の部屋のドアが少し開いていた。中から料理の匂いがした。玉ねぎを炒めているような匂いだった。それだけで胃が締め付けられるような感覚があった。今朝は何も食べていなかった。

階段を降りて外に出た。6月の朝だった。空が白く、じっとりと湿気を含んでいた。黒川はバックパックを背負い、スーツの入った袋を右手に持ち、アパートの前に立った。振り返らなかった。振り返る理由がなかった。

ネットカフェを探して、2駅先まで電車で移動した。見つけたのは、駅から徒歩5分ほどのビルの半地下にある店だった。入り口は薄暗く、受付のカウンターに若い男が一人いた。黒川は一人用の個室を頼んだ。最も小さい部屋で、料金は1時間に190円。12時間パックで2000円を少し超える。黒川は12時間パックを申し込み、財布から2000円を出した。

案内された部屋は、両手を広げると壁に届くほどの広さだった。椅子はリクライニングで、前にモニターとキーボードが置いてあった。棚にヘッドフォンと充電ケーブルが並んでいた。頭上の換気扇が低い音を立てて回り続けていた。黒川はバックパックを床に置き、スーツの袋を棚の上に立てかけた。椅子に座ると、リクライニングがギシリと音を立てた。これが今夜の寝床だった。

翌日の朝、黒川はネットカフェを出て、駅前で無料配布の求人誌を一冊手に取った。ベンチに座り、ページをめくった。「65歳以上歓迎」という文字が一つも見当たらなかった。「年齢不問」と書いてある欄をいくつか見つけたが、電話番号に電話をかけると、年齢を確認した段階で断られることが多かった。黒川は午前中だけで3件断られた。昼に駅のそばのコンビニで100円のおにぎりを一個買った。それが昼食だった。

夕方になって、黒川は工業地帯の方へ歩いた。どこかで聞いた話を思い出していた。日払いで雇ってくれる廃品回収の作業場があの辺りにあると。正式な雇用ではなく、書類も必要なく、ただ来て働けばその日のうちに金がもらえるという場所だ。工場と倉庫が混在する一角を30分ほど歩き回って、目当ての場所を見つけた。鉄板のフェンスに囲まれた敷地に、錆びた建物が一棟あった。入り口に男が一人立っていて、黒川を上から下まで見てから「何しに来た」と聞いた。「働きたい」と黒川は言った。男はしばらく黒川の顔を見てから「年は」と聞いた。「65です」と黒川は答えた。「体は動くか」と聞かれた。「動きます」と答えた。「明日の朝6時に来い」と男は言った。

翌朝6時に、黒川は作業場の前に立っていた。中に入ると、20人ほどの男たちがすでにいた。年齢はバラバラだった。20代に見える者もいれば、黒川と同じくらいの年齢に見える者もいた。皆、口が少なかった。目が合っても、誰も頷かなかった。

仕事は廃棄物の分類だった。ベルトコンベアの上を流れてくる廃棄物を素手で拾い上げて、種類ごとに分ける。プラスチック、金属、紙、ガラス。流れのスピードは一定で、止まらなかった。取りこぼすと、後ろの人間の手元に余分なものが来る。だから取りこぼせなかった。手袋は一枚だけ渡された。右手だった。左手には何もなかった。ガラスの破片が何度か左手の皮膚をかすめた。傷にはなったが、深くはなかった。

昼休みは15分だった。外に出ると、地面に座り込んで弁当を食べている男たちがいた。黒川は水を一杯もらい、コンクリートの縁に腰を下ろして飲んだ。食べるものを持っていなかった。腹が鳴ったが、聞こえた人間はいなかった。もしくは聞こえても、誰も気にしなかった。

夕方の5時に作業が終わった。事務所で一人ずつ名前を確認され、封筒を受け取った。中に5000円入っていた。黒川はその封筒を握ったまま、作業場の前に立った。5000円。12時間の労働。その計算を頭の中でするのをやめた。しても意味がなかった。今夜の寝床と明日の食事が確保できる。それだけで十分だった。

帰り道、100円のおにぎりを買った。コンビニの前のベンチに座り、それを食べた。1個目を食べて、2個目を手に取った時、手が少し震えていることに気づいた。空腹のせいか、疲労のせいか。どちらかは判断できなかった。両方だったかもしれない。ネットカフェに戻り、個室に入り、椅子を倒して横になった。換気扇が回り続けていた。隣の個室から誰かがゲームをプレイする低い音が聞こえていた。壁一枚を隔てたその向こうで、誰かが画面を見て何かをしていた。その誰かが何者かも、黒川にはどうでも良かった。目を閉じると、あっという間に眠れた。疲れ果てた体は、考える間もなく意識を落としていった。

それが毎日の繰り返しになった。朝6時に作業へ行き、12時間働き、5000円を受け取り、おにぎりを買い、ネットカフェに戻る。その繰り返しの中で、日付の感覚が薄れていった。今日が何日かを意識する必要がなかった。明日も同じだとは分かっていたから。

ある夕方のことだった。作業場からネットカフェへ向かう途中、大通りに面した電気店の前を通った。店先のガラスの向こうに何台ものテレビが並んでいて、それぞれ別の映像を流していた。黒川は足を止めなかった。足を止める理由がなかった。しかし、何かが目に入った。小さな画面の一つに映っていた。アナウンサーがしゃべっているのが見えたが、音は聞こえなかった。一瞬見えるその映像は、黒川の視界の端を通りすぎていくはずだった。黒川は立ち止まった。画面の中に映っているのはニュースではなかった。天気予報だった。天気自体は関係なかった。問題はその隣の画面だった。そちらには別のチャンネルの映像が映っていて、病院の外観が映っていた。黒川はガラスに近づいた。病院ではなかった。何かの施設だった。映像は切り替わり、別の場面になった。黒川はそこで顔を上げ、また歩き始めた。

歩きながら、ポケットの中の携帯電話に触れた。ひびの入った画面。壁に投げたあの夜からずっと使っている。今日は何日だと思った。正確な日付は思い出せなかった。ネットカフェに移り住んでから何日が経ったのか。3週間は経っていたように思った。もしかすると1ヶ月近いかもしれなかった。

ネットカフェの個室に戻り、椅子に腰を下ろし、携帯を充電ケーブルにつないだ。画面が光った。着信はなかった。メッセージが一件あった。差出人の番号は知らない番号だった。黒川は開いた。文は短かった。弁護士の事務所の名前が書いてあり、その下に一文あった。「黒川千子様がお亡くなりになりました。葬儀は近親者のみで執り行い、すでに終了いたしました。ご確認ください」と書いてあった。

黒川は画面を見た。黒川千子。自分の元妻の名前だった。メッセージを受信した日時を確認した。3日前だった。3日前に届いていたのに、充電が切れていたせいで気づかなかった。葬儀はすでに終了している。黒川は携帯を膝の上に置いた。画面が暗くなった。静かだった。換気扇が回る音だけが聞こえた。目を閉じた。暗い瞼の裏に何も浮かばなかった。何かを浮かべようとしたが、うまくいかなかった。

30年前の話だ。結婚したのは黒川が30代の前半で、千子はまだ20代だった。狭いアパートに2人で住み、み咲が生まれて3人になった。あの頃、千子がよく作っていたのは肉じゃがだった。特別な料理ではなく、ただ普通の肉じゃがだった。それを覚えているのは、理由があるわけではなかった。ただ覚えていた。

会社が潰れた年、黒川は変わった。本人は変わったとは思っていなかったが、後から考えれば変わっていた。口数が減り、家にいても上の空で、仕事の話になると不機嫌になった。千子が何か言うたびに「お前には関係ない」と言った。言いながら、なぜそう言うのかよくは分かっていなかった。ただ言ってしまっていた。

千子が出ていったのは、み咲が5歳の時だった。荷物をまとめて出ていく前日の夜、千子は黒川の顔を見て「もう頑張れない」と言った。黒川はその時何と答えたか、正確には覚えていなかった。何か言ったような気はするが、それが千子への言葉だったのか、自分への言葉だったのか分からなかった。翌朝、2人はいなかった。

黒川は携帯を見た。画面はまだ暗いままだった。もう一度メッセージを開いた。弁護士の名前。葬儀は終了。すでに終了。黒川は葬儀に行けなかった。行く権利があったかどうかも分からなかった。しかし行く金がなかった。行く服装があったとしても、場所を知る手段がなかった。み咲に電話することはできなかった。「もう電話しないでください」という言葉は覚えていた。

千子が死んだ。それだけが静かにそこにあった。

翌朝も、黒川は6時に作業場へ向かった。ベルトコンベアの前に立ち、手袋をはめ、流れてくるものを拾い分けた。プラスチック、金属、紙、ガラス。動作は変わらなかった。体は動いた。手が動いた。目が動いた。ただ頭の中で何かが違っていた。いつも頭の端に引っかかっていた何かが、今日はなかった。怒りでも焦りでもなかった。それらが消えたのではなく、何か別のものがその場所を占領していた。何と名前をつければいいか分からないものが、静かに胸の中心あたりにあった。

昼休みに外へ出て、コンクリートの縁に腰を下ろした。タバコを一本取り出した。火をつけて煙を吐いた。隣に見知らぬ男が座った。40代くらいで、顔に傷跡のある男だった。2人は並んで、何も言わずにタバコを吸った。やがて男が言った。「あんた、毎日来てるな」黒川は頷いた。男は続けた。「体は大丈夫か?ここはきついから、慣れないうちに倒れる人間もいる」「大丈夫です」と黒川は言った。男はそれ以上何も言わなかった。タバコを吸い終えて、また中へ入っていった。黒川もタバコを吸い終え、立ち上がった。体は大丈夫だった。正確には、大丈夫だと思っていた。思っていたというより、大丈夫であることにしていた。

午後の作業が始まって3時間が経った頃だった。ベルトコンベアが目の前で動いていた。黒川の手がプラスチックのかけらを拾い上げた。次の瞬間、コンベアの上のものがゆっくりとぼやけ始めた。焦点が合わなくなった。黒川は目を細めたが、ぼやけは消えなかった。頭の中で音が遠くなった。コンベアの回転音が、水の底から聞こえるような感覚になった。隣に立っている男の動きがゆっくりに見えた。それから、コンベアがゆっくり回っているのか、早く回っているのか分からなくなった。黒川は手を伸ばし、コンベアの縁を掴もうとした。掴めなかった。膝が折れた。コンクリートの床が近づいてきた。黒川はそれを見ていた。止められなかった。体が落ちていった。床が体に当たる感触があった。冷たかった。どこかで誰かが叫んだ。作業場の警報音が鳴り始めた。その音は最初大きく聞こえて、それからどんどん遠くなり、やがて聞こえなくなった。暗くなった。

消毒液の匂いがした。それが最初に感じたことだった。目はまだ開いていなかった。意識が戻る前に、鼻だけが先に戻ってきた。冷えた空気と消毒液の匂い。どこかの天井が瞼の向こうにある気がした。まだ確認できなかった。次に聞こえたのは、廊下を歩く靴音だった。コツコツと一定のリズムで近づいてきて、部屋の前を通り過ぎた。止まらなかった。黒川は目を開けた。白い天井があった。照明が天井に埋め込まれていて、白く均一な光を出していた。それを見ていると、ここがどこかが分かった。病院だった。

窓の外に午後の光が斜めに差し込んでいた。白いカーテンが薄く揺れていた。体を動かそうとした。腕に点滴の針が刺さっていた。左手は自由だった。首をゆっくり動かして部屋を見回した。ベッドが2つある個室で、もう一つのベッドは空だった。テレビが壁にあったが、電源は切れていた。ドアが開いて看護師が入ってきた。40代くらいの女性で、クリップボードを持っていた。黒川を見て「あ、お目覚めですね」と言った。声は事務的だったが、乱暴ではなかった。「どこか痛いところはありますか」と聞いた。黒川は少し考えてから「ない」と答えた。看護師は体温計を渡し、いくつかの確認をして「先生が来られるので、しばらくお待ちください」と言って出ていった。

体温計を脇に挟みながら、黒川は天井を見た。生きていた。その事実を確認するのに少し時間がかかった。死んでいないという事実は、当たり前のことのように聞こえるが、実際には確認するのに少し時間がかかった。作業場の床に倒れたところまでは覚えていた。その後のことは覚えていなかった。

医師が来た。30代の男性で、眼鏡をかけていた。カルテを見ながら黒川の横に立ち、「状況を確認させていただきます」と言った。「検査の結果、深刻な疾患は見当たりませんでした。ただ、著しい栄養不足と過労の状態にあります」と医師は言った。「体重が標準よりかなり少ない。血液検査の数値も、長期間の栄養不足を示しています。いつから食事が取れていなかったか、覚えていますか?」

黒川は少し考えた。ちゃんと食べていなかったのは、おそらく1ヶ月以上前からだった。100円のおにぎりを1日1個か2個。それが続いていた。「1ヶ月ほど」と黒川は言った。医師は何も言わずにカルテに何か書いた。それから顔を上げて「2、3日は入院して経過を見させてください」と言った。「費用については、社会福祉の窓口を通じて相談できます。後ほど担当者が来ます」医師が出ていった。黒川はベッドの上で点滴の管を見ていた。透明な液体が少しずつ落ちて、管を伝って針の先へ入っていく。ゆっくりとした速度だった。それを見ていると、時間の流れがはっきりと感じられた。早くも遅くもなく、ただ一定のリズムで流れていた。

翌日の午前中、ノックがあってドアが開いた。入ってきたのは40代くらいの女性だった。地味な色のジャケットを着て、肩にバッグをかけていた。「区の社会福祉協議会から来ました、山本と申します」と言って名刺を差し出した。黒川は点滴の管を避けながら名刺を受け取った。山本は椅子を引いてベッドの横に座り、「いくつか確認をさせていただきたいのですが」と言った。「現在の住居はどこですか」と聞かれた。黒川は少し間を置いてから「今はない」と答えた。山本は特に驚いた様子もなく「ネットカフェなどをお使いでしたか」と聞いた。「そうです」と黒川は答えた。山本はまたメモを取り、「家族との連絡は」と聞いた。「ない」と黒川は言った。山本は顔を上げて、黒川の顔を一度だけ見た。責めているのでも、同情しているのでもない。ただ事実を確認している目だった。「わかりました」とだけ言った。

退院後の生活についていくつかの選択肢を話してくれた。生活保護の申請ができること、住居確保給付金という制度があること、就労支援の窓口につないでもらえること。それぞれの手続きについて書類を置いて行ってくれた。「後にまた連絡します」と言って、山本は出ていった。黒川は書類を手に取り、表紙を見た。それから膝の上に置いた。窓の外に空が見えた。青い空に白い雲がゆっくり流れていた。

その夕方、ドアがノックされた。看護師ではなかった。入ってきたのはまた別の人間だった。50代くらいの男性で、職員の証票をつけていた。「黒川さんですね」と確認してから「お荷物が届いています」と言って、ダンボール箱を一つ持ってきた。「ネットカフェの登録住所に転送されていた郵便物を、施設の方で受け取っておいてくれたようです」と説明した。黒川はそのダンボール箱を見た。小さな箱だった。15cmほど。宛先に自分の名前が書いてあった。差出人の欄は空白だった。

職員が出ていってから、黒川は箱を持ち上げた。軽かった。ガムテープを慎重に剥がした。中からさらに小さな箱が出てきた。深い紺の布張りの箱だった。その横に、折りたたんだメモ用紙が一枚入っていた。メモを広げた。手書きの文字だった。筆圧が強く、几帳面な字だった。み咲の字だと黒川は思った。「母の遺品を整理していたところ、これが出てきました。父のものだと思います。母がずっと持っていたようです。返します」とだけ書いてあった。

黒川はメモを折りたたみ、シーツの上に置いた。布張りの箱を手に取った。蓋を開けた。中に腕時計が一本入っていた。機械式の時計だった。文字盤が少し黄ばんで、ガラスに細かな傷が何本もついていた。ベルトは革で、端の方がひび割れていた。裏蓋に刻まれた文字で何か刻印されていた。光に当てて確認すると、父親の名前だとは分かった。黒川の父親の時計だった。

父が亡くなったのは、もう20年以上前のことだ。葬儀の後、遺品の整理をする時、この時計が出てきた。黒川はその時、受け取らなかった。受け取らなかった理由は、父への怒りだった。「努力は裏切らない」という父の言葉が嘘だと思っていた。会社が潰れ、職を失い、家族を失いかけていたあの時期に、その言葉は嘘にしか聞こえなかった。だから受け取らなかった。

千子がそれを拾っていた。20年以上、千子はこの時計を持っていた。黒川が去った後も、離婚してからも、入院していた間も、ずっと持っていた。なぜ持ち続けていたのか、今となっては聞く方法がなかった。黒川は時計をベッドの上に置いて、しばらく見ていた。眺めていても何も変わらなかった。時計は時計のままだった。千子が何を思いながら持ち続けたのか。それは永遠に分からないままだった。み咲がなぜ「もう連絡しないでくれ」と言った後で、これを送ってきたのか。それも分からなかった。「返します」という言葉が怒りなのか、それとも何か別のものなのか。紙の上の字は読み取れなかった。

黒川は時計を両手で包んだ。冷たかった。金属の冷たさが手のひらに伝わってきた。しばらくそのままにしていると、少しずつ暖かくなってきた。手の体温が金属に移っていくのが分かった。黒川は目を閉じた。暗い瞼の裏に、この数ヶ月のことが順番通りではなく、断片のように浮かんだ。胃科しの机の上を滑ってきた一枚の紙。中山の顔の笑い。公園のベンチ。更地に立つ日差し。施設の廊下。長谷川の細くなった目。物置の洗剤の匂い。ネットカフェの換気扇の音。コンベアの上の流れ。コンクリートの床の冷たさ。そして千子の肉じゃがの匂い。それらが順番もなく、ただそこにあった。

目を開けた。窓の外の空が夕方の色になっていた。橙と灰色が混じった色だった。黒川はゆっくりと時計を左手首に当てた。ベルトを通す穴は、手首よりも少し大きかった。体重が落ちたせいだろうと思った。一番端の穴に止めても、まだ少し余った。それでも外れるほどではなかった。時計の針が動いていた。機械式の時計だから、動かしておかなければ止まるはずだった。千子が定期的に巻いていたのだろうか。あるいは最後に入院する前に巻いて、そのまま動き続けているのかもしれなかった。どちらなのかは分からなかった。ただ針は動いていた。

その夜、黒川はベッドの上で病院の薄暗い天井を見ながら、ずっと考えていた。眠れなかったわけではない。眠ろうとしなかった。考えたかった。正確には、長い間避け続けてきたことを、今夜だけはきちんと見ようとしていた。

37歳の時、会社が潰れた。あの時、本当に何もできなかったのか。答えを探すと、そうではなかった。選択肢はあった。技術を学び直す機会はあった。小さな会社でも、正規雇用として働ける場所はあったかもしれなかった。しかしそれらはどれも怖かった。また失敗するのが怖かった。面接で断られるのが怖かった。新しいことを始めて、それでもうまくいかなかった時の自分を想像するのが怖かった。だから一番怖くない選択をした。派遣という、責任の小さい、いつでも終わりにできる。しかし、いつまでも積み上がらない選択を。

「一時しのぎのつもりだった」と何度も自分に言った。しかし本当は、それが一時しのぎで終わらないかもしれないことを、どこかでは分かっていた。分かっていて、目をそらし続けた。そして何かうまくいかないことがあるたびに、時代のせいにした。バブルのせいにした。社会のせいにした。会社のせいにした。胃科しのせいにした。長谷川のせいにした。中山のせいにした。そうしている間に、千子はいなくなり、み咲との時間はなくなり、65歳になった。

「努力は裏切らない」という父の言葉。黒川は長い間、この言葉を憎んでいた。あの言葉に騙されたと思っていた。しかし今夜、左手に時計をはめたまま天井を見ていると、別の見え方が浮かんできた。父の言葉は間違っていなかったのかもしれない。ただ、自分が努力と呼んでいたものが、本当は努力ではなかっただけかもしれない。怖いことを避けながら、目の前の仕事だけをこなすことを、努力と呼んでいた。それは努力ではなく、ただの消費だった。時間を消費し、体力を消費し、年齢を消費した。そうやって消費し続けた結果が、今夜のこの病室だった。

裏切ったのは時代ではなく、自分自身だった。その考えが浮かんだ時、黒川の胸の中で何かが崩れた。怒りが崩れるような感覚ではなかった。もっと静かな、長い間張り続けていた何かが、少しだけ緩むような感覚だった。涙が出るかと思ったが、出なかった。ただ息が少し楽になった。

2日後、黒川は退院した。病院の玄関で山本が待っていた。支援の車が一台と、運転手が待っていた。「一時的な宿泊場所を手配しました」と山本は言った。「生活保護の申請は、明日一緒に手続きします」黒川は頷いた。

車に乗り込む前に、黒川は病院の入口で一旦立ち止まった。上着のポケットからエコーの箱を取り出した。一本残っていた。火をつけようとして、ライターを取り出した。それから、しばらく火をつけなかった。タバコを口に挟んだまま、病院の前の通りを見ていた。車が走っていた。自転車に乗った中学生が2人、並んで走り過ぎた。道路脇のコンビニの前に、配達の軽トラックが止まっていた。何もない、普通の午後だった。ライターの火をつけた。タバコの先端が赤くなり、煙が細く立ち上がった。黒川は一口吸い、ゆっくりと吐いた。

今日からどうするか、おぼろげに考えた。生活保護の申請をする。住む場所を確保する。体を戻す。それから仕事を探す。清掃でも、洗場でも、警備でも、できることをする。人に頼まれた仕事を、きちんとする。それだけだ。劇的な何かはない。逆転もない。ただ自分の手で自分の分を稼いで、その日その日を生きる。それだけのことだ。それだけのことが、今の自分にとってはちょうど良かった。

左手首の時計に目をやった。針が動いていた。タバコが短くなった。黒川は火を消して、携帯灰皿に押し込んだ。山本がこちらを見ていた。「準備できましたか」と言った。黒川は頷いた。車に乗り込んだ。助手席の窓から病院の建物が見えた。それから街並みが流れ始めた。黒川は窓の外を見ていた。東京の午後だった。人が歩いていた。店が並んでいた。電柱が並んでいた。信号が変わった。何も特別なことのない、普通の町の午後だった。

山本が言った。「明日のハローワークの件ですが、就労支援の担当の方にも同席してもらう予定です。年齢的に選べる職種は限られますが、体力があれば、清掃や施設補助の仕事は見つかります」

「わかりました」と黒川は言った。清掃でも施設補助でも構わなかった。どんな仕事でも、自分の体で働いて、自分の手で金を稼ぐ。それだけだ。それ以上のことを、今は望まなかった。望む必要もなかった。

左手首の時計の重さが感じられた。ほんの小さな重さだった。普通にしていれば気づかないくらいの重さだった。しかし意識すれば、確かにそこにある重さだった。

車が信号で止まった。横断歩道を老人が一人、渡っていた。杖をついて、ゆっくりと渡っていた。信号が黄色になっても、まだ渡り終えていなかった。後ろから来た車が、その老人を待った。クラクションは鳴らなかった。老人は渡り終え、歩道に上がり、また歩き始めた。信号が赤になり、また青になった。車が動き出した。黒川はその老人の後ろ姿を窓越しに見ていた。小さな背中が遠くなった。左手首の針が、また一秒を刻んだ。黒川はそれを感じながら、前を向いた。

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