「まさかお前、残業代稼ぎが目的か?」…

「まさかお前、残業代稼ぎが目的か?」...

「まさかお前、残業代稼ぎが目的か?」

視察に来た部長が、いきなりそんな言葉を俺に投げつけてきた。思いがけない言葉に驚きつつ、俺は必死に反論した。同席してくれていた工場長も味方になってくれたが、部長は聞く耳を持たない。ついには「金目当ての無能は消えろ」と言い放ち、俺の長年蓄積してきたものが一気に破裂した。

俺の名前は風、50歳。機械系の製造会社で技術者として働いている。8年前にこの工場へ異動してきて、技術主任として部品を製造するための専用機械の調整やトラブル対応を担当している。人手不足で専門的な知識のある人間に行ってほしいと頼まれたことと、個人的な事情が重なって異動を承知したのだ。

以前、こんなことがあった。専用の製造機械が原因不明の停止を繰り返し、若い技術者たちが何日調べても解決できなかった時期がある。俺は図面と実際の稼働音を突き合わせ、制御プログラムのわずかなタイミングのずれが原因だと突き止めた。メーカーの担当者ですら首をひねっていた不具合だ。

以来、工場長は「風さんがいれば大抵のことはなんとかなる」と冗談混じりによく言うようになった。自分で言うのもおこがましいが、この工場の生産ラインは俺の経験と勘に支えられている部分が少なからずあると思う。

うちの工場ではここ数年、地元の大手自動車メーカーから依頼された自動車部品の製造が増えていた。どうやらうちの会社を気に入ったようで、取引回数が増えているらしい。働く身としてはいい話に聞こえるが、現場からすればそれは単純に仕事量が増えるということだった。

俺が工場に来てから8年間、今でも工場は慢性的な人手不足だ。俺は技術者として今でも何かと残業を余儀なくされることも多い。実際には帰ってもいいのだろうが、対応できる人間が限られているとなると、放り出して帰るわけにはいかない。工場長が本社に何度も人員増強を掛け合ってくれたが、その度に「検討する」「予算が」とうやむやにされてきたと聞いている。

工場長自身、自分の仕事の合間を縫って残業する俺や同僚を率先して手伝ってくれているため、文句を言う気にはなれなかった。専門的な調整などはさすがに任せられないが、工場なりに俺たちの負担を減らそうと行動してくれているのだろう。

ここ数ヶ月はある事情のせいで特に残業時間が跳ね上がっていたが、そんな事情もあり俺は不満の声をあげることができなかった。「忙しいのは今だけだ」と言い聞かせて仕事をしてきたのだ。

そんなある日、休憩中に工場長とこんな話になった。

「近いうちに本社から視察が来るらしいんだ」

いつもの工場長らしくない、晴れの悪い言い方だ。詳しく聞いてみると、その人物は黒田と言い、最近若くして生産管理部の部長になった男性だという。

「優秀な人なんですね」

俺が言うと、工場長がため息をつく。

「ああ、そうらしいんだが、ちょっといい噂を聞かなくてな。黒田は典型的な数字しか見ないタイプで、とにかく無駄を嫌う。人のミスを許さず、黒田の標的になった人間は徹底的に排除する傾向があるらしい。あくまで噂だけどな。でも本社から離れた工場にまで噂が回るなんて、相当だと思わないか?黒田部長に目をつけられて辞めさせられた社員もいるって話だ。以前も同じような手口で若手を追い詰めて自主退職に追い込んだことがあるらしくてな。それでも揉めないのは、本社の上層部に相当な後ろ盾がいるからだなんて話も聞いたことがある」

工場長に言われて俺は息を飲んだ。確かにあくまで噂だが、工場長の言う通り、遠く離れた土地の工場にまで噂が回っているのは異常と言っていいだろう。それに、と不安がよぎる。慢性的な人手不足により、俺を含め工場員の多くは残業を余儀なくされている状態だ。理由を知らない人間からすれば、問題視する可能性もあるだろう。

俺の不安が顔に出ていたのか、工場長が苦笑した。

「すまない、不安にさせたな。もしも何か言われても、俺が工場長として言うべきことを言うから」

工場長の言葉に首を横に振る。

「いえ、大丈夫です。その時はこの際ですから、工場の実態を知ってもらいましょうよ。そんなに優秀な人なら、直接上層部に掛け合ってくれるかもしれませんよ」

俺が少し茶目っ気を含めて言うと、工場長は苦笑したまま「そうだな」と頷いた。なるようになるさ。この時の俺はそう考えていた。その考えが甘かったと思い知るとも知らずに。

工場長との会話から半月が経過した。

「本社から来た黒田です」

全体朝礼でスーツ姿の男性がそう挨拶する。そうか、今日が視察の日だったっけ。毎日忙しかったので日付を把握できていなかった。40代前半くらいに見える辺り、やはり部長としては若いのだろう。工場長の話通りの印象通り、どこか冷たそうであり、神経質そうに見える。いや、見た目で判断したら失礼だよな。俺は心の中で苦笑する。何であれ、俺は俺のやるべきことをやればいい。そう考え、俺はいつも通り作業を開始した。

全員が作業着で仕事をしている中、黒田の姿はとても目立つ。上等そうなスーツに、高そうな腕時計がかなり浮いて見えた。工場長と何か話しているようだったが、何かと足を止めては眉を潜めている。作業をしていた俺はふと視線を上げた。少し離れたところから黒田がこっちを見ていた。明らかに目があった感覚がして、俺は軽く頭を下げ、すぐに作業に戻る。視界の端で黒田が俺を指さして何か工場長に言っているように見えた。目があった時、かなり険しい表情に見えたのは気のせいだろうか。その答えはそこからおよそ1時間後に分かった。

「君、悪いんだが事務所まで来てくれないか?」

工場長に言われて俺は振り向いた。壁にかけられた時計がちょうど視界に入る。時刻は間もなく定時を迎えようとしていた。

「何かありましたか?」

わざわざ事務所にというところが気になり、俺は理由を尋ねた。

「いや、それが……」

工場長は晴れが悪く心苦しいと言った表情だ。ややあって工場長は口を開いた。

「実は黒田部長が風君を呼んでいてね、言いたいことがあると言って聞かなくてね。何やら険しい表情をしていた。私も同席するから来てほしい」

わざわざ俺を指名。わけがわからないが、そこまで言うからには重要な話なのだろう。一瞬、さっき目があった時のことを思い出して不安になる。いや、工場長も同席してくれるのだ。そう心配する必要はないだろう。俺はそう自分に言い聞かせる。

「わかりました。行きましょう」

俺は快く承諾し、工場長と共に事務所へと向かった。

事務所では事務系の仕事をする人たちが作業しており、奥の方に相談用の小さなスペースがある。仕事中の同僚たちの脇を通り抜け、パーテーションで区切られた場所に向かうと、不機嫌そうな黒田と目があった。

「全く、もう少しまともな場所はなかったのか」

俺たちがやってくるなり、黒田は工場長に向かって不満をもらす。足を組んで膝を揺らしていた。

「申し訳ございません。来客用の部屋はこの時間清掃中でして」

工場長が事情を説明すると、黒田は鼻を鳴らす。

「ふん。まあいい。おい、そっちのお前が風だな」

「はい。そうですが」

俺が返事をすると、黒田は資料らしき紙を取り出した。

「単刀直入に言う。これはこの工場の残業時間を可視化したものだ。全体的に残業が多いのも問題だが、か、お前のこの残業時間は何だ?ここ数ヶ月なんて残業時間が100時間を超えているじゃないか。が、工場の主任クラスの人間程度が、まさかお前、残業代稼ぎが目的か」

思いもよらない質問に、俺は間の抜けた声を漏らした。8年間、この工場の面倒を見続け、生産を支えてきたという自負がある。それを金目当てだと決めつけられ、腹の底が一気に冷えていくのを感じた。

じろりと黒田に睨まれ、俺は慌てて説明する。

「機械の調整や検品対応など、とにかく人手が足りないこと。工場長がずっと本社に増員を掛け合っていてくれたこと。それから、実は特に最近は……」

と続けようとした時、黒田は俺の言葉を遮った。

「もういい。言い訳はうんざりだ」

「しかし、君の言っていることは事実です。この工場はもう何年間も人手不足で……」

工場長が俺の味方をしようとしてくれたが、黒田は机を乱暴に叩いた。さっきまでキーボードのタイピング音など事務作業の音がかすかに聞こえていたが、ぴたりと音が止んだ。

「言い訳は結構。数字が全てを語っている。人手不足?きちんと工場が回っている以上、そんな言葉は通用しない」

「なんだその理屈は。俺はさすがに眉を潜めた」

「ですから、それは我々が残業していたからで……」

「なんだ、今度は恩を売るのか?自分たちのおかげで工場が成立しているとでも?馬鹿らしい」

吐き捨てるような言い方で黒田は笑う。俺と工場長の顔を順に見て、黒田は足を組み直した。

「やれやれ。厳重注意で済ませようと思ったが、まさか言い返してくるとはな。気が変わった。金目当ての無能は消えろ。お前は首だ。上にはお前が不当に残業代を稼いでいたと報告するからな」

黒田自身に首にする権限はなくとも、その報告が受理されれば自然と俺が首になる。黒田としてはそう考えているらしい。

8年間ずっと我慢してきた。これまで何度も工場長が本社に掛け合ってくれたのを知っている。それでも結局うやむやにされて終わるのを何度も目撃してきた。だからこそ、自分が訴えたところで何も変わらないだろうとも思っていたのだ。そもそも毎日残業続きで心も体もドロドロに疲れていた。訴えるべきだと人は言うかもしれないが、それだけの余裕も気力もなかった。

「本気で風君が残業代目当てに残業時間を申請したと?」

工場長が静かに口を開く。いつも穏やかな工場長だが、表情は険しく張り詰めていた。

「さっきも言ったが、数字が証明している。んだ。もしや風を庇うのか。お前も残業時間が多いが、まさかグルじゃないだろうな」

黒田の発言に、俺と工場長は揃って大きくため息をつく。全く話にならない。8年間蓄積し続けたものが、音を立てて破裂したような気がした。怒りが湧き上がるというよりは、むしろすっと感情が冷めたような感覚だった。

この8年間、不満だけがあったわけではない。だが確実に飲み込んできたものがある。それをこの男は数字だけを見て一笑に付し、いたずらに俺に「首だ」「消えろ」と言い放ったのだ。工場長も同じ気持ちだったのだろう。ちらりと様子を伺うと、目を大きく見開いたまま肩を震わせている。再び黒田に視線をやると、まるで「どうだ」と言わんばかりに薄笑いを浮かべていた。

ああ、この人には何を言っても伝わらないのだ。

「わかりました。では失礼します」

今までこらえていたのが嘘のように、俺はそう言って軽く一礼する。

「風君」

工場長が驚いたように俺を見た。俺は言葉で答える代わりに苦笑する。

「はあ。ちょっと言われたくらいであっさり辞めるのか。情けないな。まあ、残業代に頼るような人間なんていない方が会社のためだ」

俺はもう何も返す気になれず、事務所を出る。事務仕事をしていた同僚たちが複雑そうな目でこっちを見ているのが分かったが、俺は足を止めなかった。

「君」

事務所を出てすぐ、肩を掴まれる。振り向くと、工場長が息を切らせて立っている。

「私も決心がついたよ」

工場長がそう言った時、俺は静かに頷いた。

翌日、俺はいつも通り出勤していた。辞めるとは言ったものの、私物の整理や引き継ぎ業務、退職届の提出などをする必要がある。出勤早々、俺は工場長に声をかけられた。いつになく真剣な表情だった。

「君、来てくれないか?」

工場長に連れられ、俺はある部屋の前までやってくる。そこは来客用の個室だった。中に入ると、スーツ姿の2人の男性が視界に入る。

「風さん、この度は本当に申し訳ない」

男性のうち1人が立ち上がり、深く頭を下げた。その男性とは、うちの本社社長である。もう1人は黒田だ。

「今日は確か増産初日でしたね」

謝罪に対しての返答ではなく、そうぽつりと呟くと、社長は勢いよく顔を上げる。今日、大手取引先である自動車メーカーの依頼の品の増産を開始するはずだった。社長の慌て方からして、何か問題が起きているのは間違いない。であれば、と俺の頭に1つの筋道が見えてくる。昨日俺が首を宣告されたことと何か関係があるのではないか。そう考えると、社長がわざわざここに来ている理由にも納得がいく気がした。

「そ、そうだ。だが……」

社長がちらりと工場長を見る。工場長は静かに口を開いた。

「黒田部長とのお話の後、私はすぐに行動した」

工場長の言う行動とは2つ。1つは社長への直訴だ。黒田の言動と、長年放置された人手不足について包み隠さずぶつけたという。

「もう辞める覚悟で言うしかない。そう思ったんだよ」

もう1つは取引先への連絡だった。

「担当の方に電話をすると、『風さんがいなくなるなら品質保証の前提が崩れる』とかなり強い口調で言われてね」

ここで俺の残業時間が長かった理由が繋がる。今日からの増産の中核を俺が担っていたのだ。

「いえ、私はそんなことは知らなかった」

俯いて黙り込んでいた黒田が、動揺を隠しきれない様子で俺を睨みつける。俺はやれやれと首を横に振った。

「知らぬ存ぜぬは通用しませんよ。私たちは説明しようとした。なのに聞かなかったのはあなたです」

「私が取引先から問い合わせの報告を聞いた時には、黒田君に話を聞いていた。黒田君は『何も知らない。風君は自分から勝手に辞めたんだ』と言っていたが、その後に取引先から連絡も来て、黒田はことの大きさに言い逃れができないと判断したのだろう。ついには俺についての一件を認めたという」

工場長が必死で訴えてくれたからこそだと、俺は工場長に頭を下げる。

「工場長である私がしっかりしていないばかりに、風君にもみんなにも負担をかけてきた。当然のことだよ」

ちなみに工場長は、事務所に設置されている防犯カメラの映像を証拠として提出しておいたらしい。防犯カメラの映像には音声は入っていないが、室内では複数の人間が事務作業をしていた。ただ、この映像は補強材料に過ぎず、決め手になったのは取引先からの直接の苦情だったようだ。おそらく取引先がよほど強く本社に迫ったのだろう。たった一晩でここまで話が動くとは思わなかった。

「改めて申し訳なかった」

社長は再び俺たちに向かって頭を下げる。社長が言うには、取引先からの連絡を受けて増産は一時的に中止となったようだ。先方としては、今まで信頼していた技術者の俺がいなくなることで、何か問題が発生した時のリスクなど多くの懸念点が浮かび上がったのだろう。俺と同レベルの技術者があと何人もいれば、もしかしたら中止にまではならなかったかもしれないが、俺個人への信頼もある。結局、俺がいなければ取引先は増産を進めることを不安視していただろう。

「風君たちがずっとこの工場を支えていてくれたが、私は把握が甘かったと痛感している。人手不足についてもずっと放置していた。全て私の責任だ」

黒田は唇を噛みしめたまま俯いている。膝を揺らし、空調が効いているにも関わらず汗を流していた。

「黒田君、何をしている?君が謝罪しなくてどうするんだ?」

社長がそう言い放つと、黒田は弾かれるように立ち上がる。俺と工場長を交互に見て、ぐっと声を漏らした。明らかにプライドが高そうな人物だ。見下し暴言を吐いた相手に謝罪をするなど、黒田にとって耐え難いに違いない。

「黒田君」

社長に急かされ、黒田はゆっくりと俺たちに向かって頭を下げた。そして、少しずつ謝罪の言葉を口にする。

「この度は事情があるということも知らず、決めつけで発言してしまい申し訳ございませんでした」

俺と工場長は顔を見合わせ、俺は続けた。

「それだけではないですよね。その場で不当に私に首だと宣告しました。この工場での8年間を、あなたは簡単に踏みにじったんです」

俺が言うと、黒田は俺を睨みつける。やはり黒田は本心から謝罪しているわけではないようだ。次の瞬間、険悪な空気にそぐわない明るい調子の言葉が響いた。

「よし、これで分かったな。では互いに水に流すということにして、今度は取引先に説明を」

声の主は社長だった。どうやら社長としては、俺たちが和解したと認識したようだ。きっとこの人は、いや、この会社の体制は変わることがない。俺は黙って胸元からあるものを取り出した。

「私は辞めます」

「私も風君と同じ気持ちです」

工場長もまた、あるものを取り出す。それは退職届だった。

「うっ」

社長は本当に驚いたように、退職届と俺たちを交互に見る。なぜ、このまま俺たちが変わらず働き続けると思ったのか。

「では失礼いたします」

俺たちは揃って一礼し、部屋を出た。

その後、知り合いから聞いた話だが、黒田は広告と田舎の支社への異動を告げられたという。プライドの高い黒田は納得できず、人事の担当者に対して暴行を働き、解雇になったそうだ。身から出た錆とはいえ、少しも同情する気にはなれなかった。会社そのものも、長年の人手不足を放置してきた体質が取引先や業界内に知れ渡り、信頼を落としていった。

一方、俺と工場長は工場を辞めた。戻ってきてほしいと言われたが、長年変わらなかったものが急に変わるとは思えない。弁護士に労働環境について相談すると、社長からの連絡はぴたりと止んだ。

そして、いいこともあった。あの自動車メーカーから、2人とも是非うちに来てほしいと声がかかったのだ。待遇もよく、断る理由は見当たらなかった。忙しさは変わらないが、新しい職場の日々は充実感に満ちている。8年間誰にも評価されなかったものが、ようやく報われた気がした。

Thumbnail