「社員になりたければ、せめて誰もが知っている大学を出るべきだったな」
これが、俺と神崎さんを毎日こき下ろす近藤課長の口癖だった。俺は51歳のパート社員、風信彦。神崎さんは契約社員で、この会社で働き始めて5年になる。仕事はできるし、誰よりも会社のことを考えている。正社員になりたいという彼女の願いを、課長はいつも笑い飛ばした。
「神崎君、お茶を早く持ってきて。正社員になりたいんだろ」
課長は、彼女の希望を自分の遊び道具にしていた。コピーを取れ、会議室を準備しろ、昼飯を奢れ。そんな雑用を課せば、正社員にしてやるかもしれないと、にやにやしながら言う。俺も「50で会社を飛び出した人間は信用ならない」と、同じように見下されていた。
そんなある日、ロンドン本社への研修旅行が発表された。家族も連れて行けるという。神崎さんは海外旅行未経験の両親を誘い、俺も久しぶりの旅を楽しみにしていた。
当日、空港のロビーで課長が声を張り上げた。
「チケットは持ったな」
俺と神崎さんは手を挙げた。
「失礼ですが、私と神崎さんはまだ受け取っていません」
課長は大きなため息をついた。
「なんでそう空気が読めないのかね。パートも契約も来ていいっていうのは建前だ。本気でパートと契約の雑魚を連れていくと思うか? あんたたちは留守番だ。とっとと会社に戻っておとなしくしてるんだな」
周囲は戸惑い、神崎さんは呆然としていた。彼女の両親は何も言わず、娘の肩を叩くだけだった。
「ちょっと待っていてもらえませんか」
俺はそう言って、航空会社のカウンターへ走った。運良く、人数分のロンドン行きのチケットを確保できた。出発まで時間はあるが、行ける。神崎さんは「そんなお金はありません」と遠慮したが、俺は言った。
「会社が悪いんです。後でちゃんと事情は話しますから、今は気にしないでください」
俺たちは会社の一行より半日遅れでロンドンに到着した。ホテルを探し、会社の宿泊先の近くに部屋を取った。神崎さん一家は観光を楽しみ、俺も久しぶりのロンドンで友人と再会した。
そして、本社と日本社の交流会当日。会場で課長に気づかれてしまった。
「おい、あんた何してるんだよ」
「私たちはしっかりと会社に参加を申し出て、許可されています。それを課長が勝手に拒否しただけです」
「うるさい! 空気を読めないあんたたちが悪いんだろうが。帰ったら揃って処分してやるからな」
課長は声を潜めながらも、十分な脅しをかけてきた。俺と神崎さんは、課長に監視されながら懇親会を見届けた。
終盤、日本社の社長である砂川さんの挨拶があった。65歳を迎えるのを機に、社長を退任するとの発表。そして、後任の名が告げられた。
「風信彦君を新社長と考えております」
俺はステージに上がり、社長と握手を交わした。周囲の視線は驚きと困惑に満ちていた。無理もない。俺の経歴はここまで完璧に隠されてきたのだ。
俺は学生時代の一人旅から始まり、ロンドンで就職していた。現所属会社の本社となった貿易会社で、経営企画やマーケティングの部門で能力を発揮し、マネージャーまで上り詰めた。そこで砂川社長と知り合い、いずれ日本社の社長を任せるという話が進んでいた。パート社員として入社したのは、経歴を隠して会社に馴染むための策だった。
砂川社長は挨拶を終えると、俺を連れて近藤課長の元へ向かった。
「近藤君は何をしたのか分かっているのか?」
課長は何も言えなかった。
「君に旅への参加を拒否する権利があったのか? 神崎君もだ。私は全従業員に参加可能だと伝えたはずだ」
「私は、社長の気持ちを考えて…少数精鋭の旅にした方がいいのではと…」
「少数精鋭? 君はその精鋭に自分が含まれると思うのか? 人を区別し排除しようとするような浅ましい考え。私は呆れたよ」
全社員が課長を見つめていた。課長は呆然と立ち尽くすだけで、俺と神崎さんに謝ろうとはしなかった。
帰国後、俺は社長に就任した。まずは人事の見直し。正社員登用を希望する人たちの声を集め、神崎さんを総務部の主任に抜擢した。他の契約社員も希望部署に割り振った。近藤課長は、地方の物流会社に送り込まれた。人格を鍛え直すための修行だという。畑違いの会社で苦労の連続らしい。
俺は今、仕事の意味を考える毎日だ。何をすべきか、何をしたいか。社長としての務めは、若い世代に願望と現実が噛み合う環境を提供すること。自分のこれからの仕事とその意味を信じて、俺は日本での人生を歩んでいくだけだ。


