「うわーっ!」
力強い産声が病室に響き渡り、私は涙で視界を滲ませた。初孫の誕生だ。夫とこの喜びを分かち合おうと顔を向けた、その瞬間だった。
「じこ、もう行くぞ」
夫は鬼のような形相で私の腕を掴むと、わけもわからぬまま私を車に押し込んだ。
「一体何があったのよ!」
私の問いに、夫は底なしの憎しみに満ちた目で言った。
「お前、聞こえなかったのか?」
そう言って突きつけられたスマホの画面。そこに映っていたのは、娘が命をかけて子供を産んでいる同じ病院の廊下で、別の女と子供に「パパ」と呼ばれ、満面の笑顔を浮かべる娘の夫・淳の姿だった。
思えば、あの男の態度はいつもおかしかった。妊娠中の娘への暴言、生活費を入れない傲慢な態度。私たちはただ娘と孫のために耐え続けてきた。だが、これが全ての引き金となったのだ。
「絶対に許さない」
私と夫は動き出したのだった。
私の名前はじ子、63歳。夫の徹也は小さな会社を経営している。私たちには今年28歳になる一人娘のみほがいる。そのみほが結婚してちょうど1年が経った頃の話だ。
お相手は高校時代から長く付き合っていた淳という青年。彼は高卒だったが、安定していた大手企業を退職し、今は売れない芸人としてアルバイトを掛け持ちする毎日を送っている。
「あんな男にみほを任せて本当に大丈夫なのか?」
夫は今でも2人の結婚に納得していない様子だった。だが、私は娘が選んだ道を応援したかった。
「みほが幸せならそれが一番よ」
心配じゃないといえば嘘になるだろう。それでも2人が仲睦まじく暮らしているのが唯一の救いだった。
そんなある日、みほから弾んだ声で電話がかかってきた。
「お母さん、あのね、赤ちゃんができたの」
初孫が誕生する。夫と2人で手を取り合って喜んだのを今でも覚えている。お腹の赤ちゃんの成長を聞くことが、私たち夫婦の何よりの楽しみになった。この穏やかで幸せな日々が、まさかあんな形で崩れ去ることになるなんて。この時の私はまだ知るよしもなかった。
その日は突然やってきた。予定日より数日早い、娘のみほからの電話だった。
「お母さん、生まれそう…」
私と徹也は全ての予定をキャンセルして病院へと車を走らせた。病室に着くと、みほはすでにベッドの上で苦しそうな息を吐いていた。
「みほ、大丈夫よ。お母さんがついてるからね」
私は手を握りしめた。細く冷たい手だった。だが、そこにいるはずの人間がいなかった。みほの夫である淳の姿がどこにもない。
「淳君、連絡はついたの?」
「さっきから何度も電話してるんだけど、出なくて…」
不安そうな娘の顔を見て、私の胸はどす黒い感情で満たされていく。またか、という思いだった。この子は娘が命をかけて子供を産もうとしているこの後に及んで。
思えばあの男はいつもそうだった。肝心な時に決まってその場にいない。結婚してからのこと。私たちが娘夫婦の家に遊びに行くと、彼はいつもアルバイトや芸人の活動を理由に不在がちだった。
一度、徹也がしびれを切らして言ったことがある。
「淳君、いつも忙しいようだが、一緒に食事でもどうだ?俺が出すから」
孫の誕生も近い。少しは父親としての自覚を促す、夫なりの気遣いだった。だが、淳は嘲笑するような目で夫を一瞥すると、鼻で笑ってこう言い放ったのだ。
「お父さん、ありがたいですけど、こっちの生活分かってます?夢を追ってる人間は、あんたらみたいに呑気に飯食ってる暇なんてないんですよ。一口飯食う金稼ぐのに、こっちは必死なんで」
彼が吐き捨てるように言ったその言葉には、明らかに毒があった。娘の父親である徹也に対する敬意など微塵も感じられない。夫の顔がみるみる険しくなっていく。
ああ、まただわ。この子はいつもこう、夫の善意を毒のある言葉で突き返す。
「お願いだからやめてちょうだい」
私は慌てて2人の間に割って入った。
「あなた、淳君も頑張ってるのよね」
その場はなんとか収めたが、私の心には重いものが溜まっていくのだった。
一番許せなかったのは、別の日のことである。その日、みほが着ていたセーターの袖が少しほつれていることに気がついた。よく見れば、スカートの裾にも小さな穴が開いている。
女になるまであの子は何も言わないけれど、本当は…。私はたまらない気持ちになった。公務員である娘の給料だけでは生活が苦しいのは明らかだった。
「みほ、生活は大丈夫なの?何か困っているなら、いつでも言いなさいね。母さん、いつでも…」
私がそう声をかけた瞬間である。今まで黙ってテレビを見ていた淳が、リモコンをテーブルに叩きつけ、突然立ち上がって怒鳴った。
「何なんですか。さっきから哀れんでるんですか?施しでもしようって言うんですか?」
「違うのよ、淳君。ただ心配で…」
私の言葉を彼は鼻で笑って遮った。
「心配、結構ですよ。俺だって寝る間も惜しんで必死でやってるんです。金持ちでのんびり老後を過ごしてるあなたたちとは違うんですよ」
金切り声に近いヒステリックな叫び。その目は私たちに対する嫉妬と憎悪で濁っていた。
違う。そんなつもりじゃ。ただ娘が、この子が不便で心配なだけなのに。見下してる?私たちがいつこの子を見下したというの?悔しさと情けなさで涙が滲んだ。
そんな私を見て、みほが慌てて淳との間に割って入った。
「淳さん、やめて」
「うるさい。お前は黙ってろ」
彼はみほの肩を乱暴に突き飛ばした。妊娠している娘の体をだ。
「貴様、今みほに何をした?」
夫の血が凍るような低い声が響く。一発の空気を察したのか、淳は「ちっ」と舌打ちをすると、部屋から出て行ってしまった。
残されたのは重い沈黙と、泣きじゃくる娘の姿だけ。
「ごめんなさい。お父さん、お母さん。淳さんも本当はあんな人じゃないの。きっともうすぐ父親になるプレッシャーと戦ってるんだと思う」
そう言って必死に夫を庇う娘の姿が痛々しくて、見ていられなかった。この子の優しさがあの男につけ込まれている。そう思うと腹が煮えくり返る思いだった。
その日の帰り道、夫と私は1つの決意をする。
「もう限界だ。あんな男に任せてはおけん。俺たちがみほと孫の面倒を見る」
「ええ、そうね。あの子たちのために、私たちがしてあげられることは何でもしましょう」
それから私たちは毎月、娘の口座に生活費の足しになるよう金額を振り込むことにした。みほは電話口で何度も「ありがとう」と感謝してくれる。だが、その金の恩恵を受けているはずの淳から、私たちに感謝の言葉が向けられることはただの1度もなかった。
長い回想から意識が病室へと戻る。みほの陣痛はどんどん間隔が短くなっていた。
「頑張って、みほ。もうすぐよ」
みほの額に浮かぶ汗を拭いながら、私は何度も携帯電話を確認する。淳からの着信はない。メッセージを送っても既読にすらならなかった。自分の子供が生まれようというこの瞬間に、彼は一体どこで何をしているのか。
その時だった。今まで黙って壁際に立っていた徹也が、おもむろにスマホを取り出した。
「記念に取っておくか」
そう言って、苦しむみほの姿を動画で撮り始めたのだ。
「あなた、やめてちょうだい。みほがこんな大変な時に」
私が止めると、看護師が口を開く。
「お父さん、申し訳ありませんが、分娩室に入ってからの撮影は規則で禁止されておりまして」
「おっと、そうか。それはすまなかった」
夫は素直に撮影を中止した。だが、その表情はどこか残念そうである。初孫の誕生をどうしても記録に残したかったのだろう。彼は撮影を諦めきれない様子で病室を出ていった。廊下や待合室の様子でも撮っておこうと思ったのかもしれない。その時の私は、夫の行動を深く気にも止めていなかった。
それから長い長い時間が過ぎる。みほの苦痛に満ちた声が何度も病室に響き渡る。私の手はとっくに祈る形に固まっていた。
そして——
「うわーっ!」
力強い産声が全ての音をかき消す。聞こえた。生まれたのだ。
「生まれたわ。みほ、よく頑張ったわね」
涙が溢れ、視界が滲む。安堵と喜びで全身の力が抜けていくようだった。早くこの感動を夫とも分かち合いたい。そう思って廊下へと顔を向けた、その瞬間だった。
「じこ、もう行くぞ」
そこに立っていた夫の顔は、喜びとはほど遠い鬼のような形相をしていた。彼は私の腕を強く掴むと、言葉も言わさず引っ張り始めた。
「ちょ、ちょっと、あなた、何するの?孫の顔を見ないと」
「いいから来い。説明は後だ」
夫のただならぬ気配に、私は抵抗できなかった。私たちは生まれたばかりの孫の顔も見せず、ステーションの前を駆け抜けた。看護師たちの居心地悪そうな視線が突き刺さる。裏口の非常階段を転がるように駆け降り、駐車場の隅に止めてあった自分たちの車に乗り込んだ。
夫はエンジンもかけず、ただじっと正面玄関の一点を見つめている。その横顔は怒りに燃えていた。
「一体何があったの?ちゃんと説明してちょうだい」
私の問いに、夫はゆっくりとこちらを向いた。その目は底なしの憎しみに満ちている。
「いいから黙ってこれを見ろ」
夫は何も言わず、無言で自分のスマホを私に突きつけた。画面には先ほど彼が撮影したであろう動画が再生されている。
「何なの?一体…ただの廊下じゃない」
そこに映っていたのは病院の廊下だった。若い派手な身なりの女が小さな男の子の手を引いて歩いている。そして、その親子に向かって1人の男が笑顔で駆け寄ってきた。
「え、今の男、どこかで…」
男の子がその男に向かって叫ぶ。
「パパ!」
男は満面の笑みで男の子を抱き上げた。幸せそうな家族の光景。その父親らしき男の顔がアップになる。
「嘘でしょう…」
見間違えるはずがなかった。それは、娘が命がけで子供を産んでいるというのに連絡1つよこさなかった、あの男。娘の夫であるはずの淳の顔だったのだ。
動画を見終わった瞬間、私の頭の中で何かが焼き切れる音がした。怒りという生易しい感情ではない。殺意。純粋などす黒い殺意が私の全身を駆け巡った。
「分かったか?」
夫の低い声が車内に響いた。
「ええ、分かったわ。あいつは、みほが命をかけている。同じ時間、同じ場所で別の家族と笑い合っていたのね」
私はただ震える拳を握りしめることしかできなかった。腹が煮えくり返るというのは、こういうことを言うのだろう。
「ああ、そういうことだ。絶対に許さん。あいつの人生を根こそぎ叩き潰してやる」
夫の低い声が車内に響いた。私はただ震える拳を握りしめることしかできなかった。その握りしめた私の目に、動画の中のもう1つの現実が焼きついている。淳の隣で幸せそうに微笑む若い女。その腹は大きく膨らんでいた。臨月が近いのであろう。そして、淳に「パパ」と呼び抱きつく幼い男の子。その目元鼻筋は、実に奇妙なほどあの男にそっくりだった。
つまり、淳には別の家庭があったのだ。私たちの一人娘であるみほと結婚するずっと前から。全身の血が怒りで沸騰する。あの男は一体どれだけの人を騙して遊べば気が済むのか。
その時、病院の正面玄関から3人の姿が見えた。淳とあの女、そして子供だ。3人は仲睦まじく言葉を交わしながら、バス停の方へと歩いていく。その光景を夫は氷のような目で見つめていた。
「じこ」
「ええ」
「お前は病院に戻れ。みほと生まれたばかりの孫のそばにいてやってくれ」
その声は不思議なほど冷静だった。だが、その奥には決して消えることのない怒りの炎が燃え盛っているのが分かった。
「あなたはどうするの?」
「決まっているだろう。あいつらを尾行する」
夫は車のエンジンを静かにかける。
「あの男がどこに住み、どんな生活をしているのか、全て洗い出してやる。そして、あいつが一番大事にしているものを根こそぎ奪い取ってやるんだ」
「ええ、お願い。絶対に許さないで」
私は頷くと、静かに車を降りた。振り返ると、夫の車は闇に溶けるように走り去っていく。私は生まれたばかりの孫が眠る新生児室へと向かった。ガラス越しに見るその寝顔は、天使のように愛らしかった。だが、その顔を見るたびに私の胸は張り裂けそうになる。この子の父親は、あの裏切り者の男なのだ。この事実は決して変えることができない。
それから半月、私は地獄のような日々を過ごした。娘のみほは退院し、自宅での新たな生活を始める。私は毎日のように娘の家へ通い、慣れない育児を手伝った。みほの前では非常に振る舞っている。
「淳さん、最近はバイトも増やしてくれて、すごく頑張ってくれてるの。り太のこともすごく可愛がってくれるし」
生まれた孫はり太と名付けられた。みほは、淳が改心したと信じようとしていた。出産当日に連絡がつかなかったことも、「大事な仕事だった」という彼の嘘を無理やり飲み込んでいる。その健気な姿が、私の心をナイフのようにえぐった。言えない。とてもじゃないが、真実を告げることなど出来はしなかった。
そして、運命の日がやってくる。その日も私と徹也は、り太の顔を見るために娘夫婦の家を訪れていた。全ての証拠が揃い、計画を実行に移す日だった。
「お父さん、お母さん、来てくれてありがとう。り太も喜んでるわ」
何も知らない娘は心からの笑顔で私たちを迎えてくれた。その笑顔があまりにも眩しくて、胸が痛い。リビングには淳の姿もあった。私たちが来ることは事前に伝えてあった。彼は私たちを見るなり、気まずそうに立ち上がる。
「ああ、お父さん、お母さん、すみません。俺、これからバイトなんで」
そう言ってそそくさと部屋を出て行こうとする。その背中に、夫の冷たい声が突き刺さった。
「座りなさい」
淳の足がぴたりと止まる。
「今日は君のバイトは休みだと、みほから聞いたが」
「え…」
淳は一瞬、虫を噛みつぶしたような顔をしたが、すぐにぎこちない笑顔を私たちに向けた。
「そうでしたっけ?いや、最近忙しくて、シフトを勘違いしてました」
その場を取り繕おうように、彼はソファーに腰を下ろした。リビングの空気が急に重くなる。
私はみほの隣に座り、眠っているり太の頬を優しく撫でた。
「みほ、初めての出産、本当によく頑張ったわね。大変だったでしょう」
「うん、大丈夫だよ。り太の顔を見たら、疲れなんて飛んでっちゃう」
幸せそうに微笑む娘。私はその笑顔をしっかりと目に焼きつけると、ゆっくりと淳の方を向いた。そして、静かにだがはっきりとこう言ったのだ。
「それに比べて、淳君は手慣れたものだったかもしれないわね。あなたにとっては、2人目の子供だったのかしら」
リビングの空気が凍りついた。みほの顔から笑顔が消える。淳の顔がみるみる強張っていくのが分かった。
「お母さん、一体何のことです?」
彼は震える声でとぼけて見せる。その厚かましさに吐き気がした。もう黙って見てはいられなかった。徹也が静かにスマホを取り出す。そして、テーブルの上に置くと、ボリュームを最大にして動画を再生した。
「パパ!」
幼い子供の甲高い声がリビング中に響き渡る。淳はビクッと肩を震わせた。画面には、あの日病院の廊下で撮れた、幸せそうな偽りの家族の姿が映し出されていた。
「これ、何?淳さん、この人たち誰なの?」
娘の震える声が響く。淳は顔から血の気を失いながらも、必死で言い訳をひねり出した。
「ち、違う。これは違うんだ。みほ、他人の空似だよ。そう、俺にそっくりな別の人だ」
乾いた笑い声が虚しく響く。
「大体、その日俺は仕事だったんだよ。そう、芸人の大事な営業で地方に行ってたんだ。だから、この病院にいるはずがないんだ」
彼は早口にまくし立てた。その必死な姿が哀れで滑稽だった。だが、そんな見え透いた嘘が、今の私たちに通じるはずもない。夫は心底つまらなそうに、深くため息をついた。
「ほう、地方か。それはご苦労だったなあ」
彼は嘲るように言った。
「だから念のために確認させてもらったよ。君が働いている全てのアルバイト先と、君が所属している芸人事務所のスケジュールにな」
淳の顔から表情が消えた。
「答えはどちらも同じだった。その日、君は休みだったとな」
「あ…」
淳は声にならない声をもらし、ソファーに崩れ落ちる。だが、私たちの追求はまだ終わらない。これはただの始まりに過ぎなかった。
徹也は鞄から分厚いファイルを取り出すと、それをテーブルの上に叩きつけた。バサッという乾いた音が静けさに大きく響く。
「君の芸人としての才能は知らないが、嘘をつく才能は三流以下だな。君の薄っぺらい嘘にはもううんざりなんだよ」
そのファイルには「調査報告書」という無機質な文字が印刷されていた。
「君が地方に行っていたというその日にね、私は探偵を雇って、君の素行を徹底的に調査させてもらった」
「探偵」という言葉に、淳の目が大きく見開かれた。金持ちの道楽だと馬鹿にしていた義父に、金の力で全てを暴かれた。彼のちっぽけなプライドがズタズタに引き裂かれていくのが、手に取るように分かった。
夫は報告書のページを1枚、また1枚とゆっくりめくっていく。そして、あるページを開いたまま、淳の目の前に突きつけた。
「白井リナ、25歳、職業、アマチュアイラストレーター。心当たりはあるな」
そこには、淳とあの若い女が腕を組んで歩いている鮮明な写真が貼られていた。
「驚くのはまだ早い。君とこの女は、みほと結婚するさらに2年前から同棲生活を送っていた。そして、君たちの間には子供までいる。かや君、3歳。あの日、君を『パパ』と呼んでいたあの子だ」
夫は淡々と、しかし冷静に調査結果を読み上げていく。それは、淳が長年に渡って築き上げてきた嘘と裏切りの歴史そのものだった。淳の顔から完全に血の気が引いていた。唇は青ざめ、その体は小刻みに震えている。もはや言い逃れのできない絶対的な証拠。私たちはただ、その絶望に染まった顔を見つめていた。
夫が突きつけた冷酷な事実。淳は絶望に染まった顔でただ震えていた。だが、その顔に反省の色はない。あったのは、言い逃れできないことへの焦りと、全てを暴かれたことへの逆切れにも似た見苦しい怒りだった。やがて彼はわなわなと震える唇でこう叫んだのだ。
「ふざけるな!人のことを勝手に調べて、探偵までつけて。これはプライバシーの侵害だ。訴えてやる!」
論点のすり替え。追い詰められた人間の最も愚かな反撃だった。夫はそんな彼を鼻で笑った。
「訴える?好きにすればいいが、裁判官はどちらの言い分を信じるかな」
彼はあくまで冷静である。
「そもそも、これは娘の出産記録を残そうとした記念動画だ。そこにたまたま君たちが映り込んでいただけに過ぎん。何も恥ずかしいことはない」
正論だった。淳は言葉に詰まり、悔しげに歯噛みをする。私はその隙を逃さなかった。畳みかけるように、私は静かに問いかけた。
「淳君、報告書によれば、白井リナさんという女性、彼女、2人目を妊娠しているのよね」
その言葉は彼の心をえぐる次なる刃。どこまで知られているのかという恐怖が、彼の顔にありありと浮かんでいた。それでも彼は最後の悪あがきを試みる。ソファーから転げ落ちるようにしてみほの足元に跪く。
「みほ、信じてくれ。俺が愛しているのはお前だけなんだ。あんな女とはもうとっくに終わってる。これは何かの間違いなんだよ」
彼は娘の足にすがりついた。その姿は哀れを通り越して滑稽ですらあった。
今まで人形のように黙り込んでいたみほ。その娘がゆっくりと、しかしはっきりとした声で静かに口を開いた。
「そう。私だけを愛してるのね」
「あ、ああ、もちろん…」
娘は自分の足にまとわりつく淳を、氷のように冷たい目で見下ろしていた。
「じゃあ、証明してくれる?」
「え?」
私の知っている、優しくて少し泣き虫なみほは、どこにもいなかった。そこにいたのは、我が子を守るために覚悟を決めた、1人の強い母親の姿だったのである。
「そのかや君、ということ。あなたとの間でDNA鑑定を受けて、それで親子関係がないと証明されたら、あなたの言葉を信じてあげる」
DNA鑑定。それは感情論の一切通用しない、科学的な真実の証明。淳の顔が絶望で歪む。
「そ、そんな必要はない。言っただろう、俺は無関係なんだ」
彼はなおも必死に関係を否定し続ける。そのあまりにも見苦しい姿に、私は深く深くため息をついた。そして、私は自分のスマホを取り出すと、ある画面を淳の前に突きつけたのだ。そこに表示されていたのは電話の連絡先画面。登録されていた名前は「白井リナ」。
「なんで、お母さんがその連絡先を…」
彼の声はもはや泣きそうなか細いものであった。無理もない。彼にとってそれは絶対にありえない光景だったはずだ。
夫が淳の裏切りを突き止めたあの日から、私たちはただ手をこまねいていたわけではない。夫の調査で、リナさんのけじめのついた身元は割れていた。私はただの偶然を装い、その病院の待合室で彼女に接触したのだ。同じ子供の誕生を待つ者として、私はこれから祖母になる喜びを語る。彼女は2人目の子供の誕生を心待ちにする母親の顔をしていた。私たちはすぐに打ち解け、世間話を重ねるうちに、連絡先を交換するまでに親しくなっていった。もちろん、その時の私は、淳が既婚者であるという事実を彼女にはまだ知らせていない。彼女もまた、淳に騙されたもう1人の被害者なのだから。
私はスマホの画面を淳の目の前に突きつけたまま、冷ややかに言い放った。
「今すぐリナさんに電話するわ。あなたのこと、そしてみほのことを、全て正直に話す。そうすれば、きっと彼女もDNA鑑定に協力してくれるんじゃないかしら」
その言葉は淳に対する最後の通告だった。彼の最後の砦が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。
「ま、待て。やめろ。電話だけはやめてくれ」
彼は慌てて私のスマホを奪おうとするが、その手は空を切る。完全に挙動不審、顔面蒼白になった淳は、その場にへなへなと座り込んだ。
「あ、分かった。全部話す。全部話すから。頼むから、電話だけは…」
観念したのだろう。彼は全ての抵抗を諦め、ぽつりぽつりと全ての罪を白状し始めた。
「遠距離恋愛で寂しかったんだ。お前には分かってくれないだろう。俺はこっちで1人で…。それで、つい彼女と…そうしたら、子供ができてしまって…」
反省の色などどこにもない。ただ自分がいかに不幸だったかを語る自己弁護の羅列だった。そして、信じられないことに、彼は涙ながらに徹也に同調を求めてきたのだ。
「お父さんなら、同じ男としてこの気持ち分かってくれますよね。男にはこういう過ちが…」
その言葉を聞いた瞬間、今まで冷静だった夫の怒りがついに限界を超えた。
「黙れ!」
雷のような怒声がリビングに響き渡る。
「男だと?父親だと?どの口がそんなことを言うんだ。貴様のような、自分の欲望のために家族を平気で裏切る男に、父親を名乗る資格などない」
夫は心底軽蔑しきった目で淳を睨みつけた。
「そうだ、り太。り太はどうなるんだ?生まれたばかりなんだぞ。父親が必要だろうが」
「みほ、俺たちの子だぞ。この子のためにもう1度…」
自分の息子を盾にする、人間として最低最悪の行為である。その態度に、夫は完全に決別の意思を固めた。
「君のような嘘つきは、もう私たちの家族にはいらない。今すぐ、私たちの前に2度と顔を見せるな」
見放された淳は、最後の望みをかけて、文字通り床に這いつくばってみほの足元に泣きついた。
「みほ、もうお前なんて言いません。お願いします。お願いだから、芸人なんてやめる。真面目に働くから。だから、見捨てないでくれ」
彼は娘の足首にがっしりと掴みかかった。みほはその手を、虫けらでも見るかのような目で見下ろし、静かに足を振り払う。
「触らないで。気持ち悪いわ。あなたとは離婚よ」
淳はその声を聞いて、一瞬時間が止まったかのように固まった。次の瞬間には、血の気が引いて幽霊のように真っ青になる。
「う、嘘だろう。冗談だよな、みほ、なあ。ドッキリだって言ってくれよ」
彼はガタガタと震える手で床に着き、その場で何度も何度も頭を床に打ちつけ始めた。
「ごめんなさい。本当にごめんなさい。俺が、俺が100%悪かったです。だから、だから、離婚だけはどうかお願いします。何でもしますから」
ゴンゴンと鈍い音がリビングに響く。そのあまりにも滑稽で哀れな土下座。だが、娘の目は一切の光を失い、氷のように冷え切っていた。彼女は床に這いつくばる元夫を、虫けらでも見るかのように見下ろした。
「あなたのその謝罪、一円の価値もないわ。あなたの涙も、その土下座も、全部が安っぽくて滑稽よ。芸人なんでしょう。今までで一番面白いじゃない、その姿」
冷たく鋭い言葉が淳の心臓を貫く。彼は顔を上げたまま、呆然と娘を見つめていた。娘はその絶望しきった顔をまっすぐに見据えて、最後の質問を投げかけた。
「1つだけ教えて。どうして私と結婚したの?私のことが本当に好きだったの?」
その問いに、淳はしばらく黙り込んでいた。そして、次の瞬間、彼はふっと鼻で笑うと、まるで悪びれる様子もなくこう吐き捨てたのだ。
「決まってるだろう」
その目はもはや何の感情も映してはいなかった。
「お前が安定した給料をもらってる公務員だからだよ。そして、あんたの親父が金のありそうな会社の社長だからだよ」
彼は開き直った。全てを失った今、もはや自分を偽る必要もなくなったのだろう。
「両方だよ。両方。これで満足か」
その獣のような叫びが、静まり返ったリビングに響き渡る。だが、その叫びが彼の残された最後のプライドだった。叫び終えた淳の顔から、みるみる色が消えていく。自分が今何を口走ったのか。その言葉が最後の逃げ道さえも焼き尽くしたという事実に、ようやく気がついたのだ。
「あ、あ、あ、ち、違う。今のは嘘だ。冗談だよ。そう、ネタだ。俺、芸人だから。ほら、面白いだろ。ドッキリ大成功、みたいな」
引きつった笑いを浮かべ、彼は必死で取り繕おうとする。だが、その声は哀れなほど上ずり、誰の心にも響かない。リビングは墓場のような沈黙に包まれていた。その沈黙が、彼にとって何よりの答えである。
希望が完全に断たれた。彼は壊れたおもちゃのように「ごめんなさい。ごめんなさい」と虚ろに繰り返しながら、その場に崩れ落ちた。夫はそんな彼を一瞥して言い放つ。
「どうやら君の人生そのものが、誰も笑えない三流の引き芸だな。芸人として誰1人笑わせることもできず、最後はこうして自分が笑い者になるだけとは」
その言葉は彼の存在そのものを否定する、無慈悲な刃だった。淳の目から最後の光が消える。彼は最後の力を振り絞るように、震える声でみほに問いかけた。
「みほ、俺たち、もう一度やり直せるよな。り太のためにも…」
「早く出ていきなさい。そして、2度と私たちの前に現れないで。あなたの存在自体が、私とこの子の人生の汚点だから」
その声には、怒りも悲しみすらも感じられない、完全な無関心。それはどんな罵倒よりも淳の心を深く深くえぐった。
「ああ…」
人間ではない獣のような唸り声が彼の喉から漏れる。この男はもう終わりだ。心の底からそう思った。
あの地獄のような日から、私たちの戦いはすぐに決着を迎える。淳が全ての罪を自白した後、みほと彼の離婚は驚くほどあっさりと成立。娘はあの男に対して、相応の額の慰謝料と、り太のための養育費を請求したのだった。弁護士を立てた私たちの前で、彼に抗う術は残されていなかっただろう。
だが、みほはもう1人の被害者である白井リナさんに対し、慰謝料を一切求めはしなかった。
「彼女も私と同じ、あの人に騙されて人生を狂わされただけだから」
そう言った娘の目は、どこまでも澄んでいた。悪には厳しく、だが同じ痛みを負った者にはどこまでも優しい。そんな娘を、私は心から誇りに思った。
その後、淳がどうなったか。その顛末は、共通の知人などを通して私たちの耳にも嫌というほど入ってきた。彼の悪業は狭い芸人の世界であっという間に知れ渡ったのである。仲間からの信頼を失い、客席から罵声を浴びせられることも1度や2度ではなかったらしい。楽屋で先輩芸人に問い詰められ、殴られたという話も聞いた。
「違うんです。俺ははめられただけで…」
こんな見苦しい言い訳が通用するはずもなく、彼は居場所を失い、芸人をやめるしかなくなった。さらに、誰が流したのか、SNSでも彼の裏切りが拡散され、またたく間に炎上。「クズ芸人・淳」というハッシュタグと共に、彼の写真や私たちとの一件を面白おかしく脚色した話までが出回ったのだ。
その悪評は彼の生活を完全に破壊した。アルバイト先にも抗議の電話が殺到し、次々と首になった。家賃も払えずアパートを追い出され、ネットカフェを点々とする日々。見る影もなく痩せた彼は、ただ虚ろな目でスマホの画面を眺め、自分への誹謗中傷を浴び続けていたという。
当然、白井リナさんにもあっさりと別れを告げられたらしい。彼女からかかってきた電話に、彼は最後の望みをかけた。
「リナ、もうお前しかいないんだ。2人で、子供たちとやり直そう」
だが、帰ってきたのは氷のように冷たい声。
「あなた、まだそんなこと言ってるの?私の人生を、子供たちの人生を何だと思ってるのよ。あなたみたいな寄生虫はもうゴメンよ。2度と連絡してこないで」
それが最後の会話となったのだ。
全てを失った淳は、最後に実家の両親を頼る。ボロボロの姿で実家の玄関の前に立ち、彼はひたすら呼び鈴を鳴らし続けた。やがてドアが開き、父親が険しい顔で立っていた。
「父さん、助けてくれ。俺、もう行くところがなくて」
彼は子供のように泣きじゃくりながら、父親の足元にすがりついた。だが、父親はそんな息子を、虫けらでも見るかのような目で見下ろした。
「お前のしたことは全て聞いた。お前は我々の顔に泥を塗った。いや、それ以前に、人として終わっている。お前のような息子は、うちにはいない」
彼は家の中に引っ込むと、小さな器を持って再び現れた。その中に入っていたのは、真っ白な塩だった。
「2度とこの家の敷居をまたぐな。この恥知らずが」
父親は泣き崩れる息子に向かって、容赦なく塩を投げつけた。母親は家の中から嗚咽を漏らしていたが、決して出てくることはなかったという。
そして、無慈悲に閉められたドアの前で、淳はただ1人、塩まみれになって泣き続けたという。まさに自業自得の末路だった。
あれから1年の月日が流れた。娘のみほは、シングルマザーとしてり太を懸命に育てている。もちろん、私たち夫婦も全面的に彼女を支えていた。娘の顔には、あの頃のような翳りはもうない。母親になった彼女は、驚くほど強く、そして美しかった。
そして、私たちの腕の中には、いつもり太の笑顔がある。昨日までできなかった寝返りが、今日はできるようになった。小さな口から「あーうー」と愛らしい言葉が紡がれる。その1つ1つが、私たちにとって掛け替えのない宝物だ。
あれほど激昂して淳を敵視していた徹也。その彼が、今ではり太の前ではただのおじいちゃんである。その光景を見ているだけで、私の心は温かいもので満たされていくのだった。
私たちの戦いは終わったのだ。あの男がもたらした不幸は、この子の輝くような笑顔が全て洗い流してくれる。リビングには今日も娘と孫の笑い声。私たちの未来には、もうあの男の居場所などどこにもない。
新しい幸せな毎日が、今ここから始まっていくのである。私はただ、その事実を静かに噛みしめている。



