五年かけて開発したクラフトビールが、ついに最終工程を終えた翌日のことだった。取引先の部長が、俺に残酷な要求を突きつけてきた。「開発料、半額でどうにかなりませんか?」あまりに突然の言葉に、俺は思わず耳を疑った。俺の名前は与田、五十六歳。代々続く酒屋を経営している。このクラフトビールには、地域の在来種と手蔵が守り続けてきた伏流水を使い、社員全員が五年間、心血を注いできた。なのに三井は「本当は早く…

五年かけて開発したクラフトビールが、ついに最終工程を終えた翌日のことだった。取引先の部長が、俺に残酷な要求を突きつけてきた。「開発料、半額でどうにかなりませんか?」あまりに突然の言葉に、俺は思わず耳を疑った。俺の名前は与田、五十六歳。代々続く酒屋を経営している。このクラフトビールには、地域の在来種と手蔵が守り続けてきた伏流水を使い、社員全員が五年間、心血を注いできた。なのに三井は「本当は早く...

五年かけて開発したクラフトビールが、ついに最終工程を終えた翌日のことだった。取引先の部長が、俺に残酷な要求を突きつけてきた。開発契約の量を半額にするか、それとも契約を終了するか。向こうは、こちらが渋々でも飲むと思っているらしい。俺は大きくため息をついた。

俺の名前は与田。五十六歳だ。代々続く酒屋を経営している。地域の商店街に店を構え、他所から仕入れた酒や、自社の手蔵で造った酒も販売している。うちの手蔵は店とは別の場所にあるが、決して小さいものではない。この土地に根を張り、長年続けてきたという誇りがある。

今から五年前のことだ。取引先の一つから、ある相談を持ちかけられた。その取引先は、今は引退した父の代からの付き合いで、先方が製造販売する酒を仕入れさせてもらっている。父の後を継いでしばらくして、先方の社長から声をかけられた。

「与田さん、クラフトビールの開発を協力してくれないか?」

詳しく聞くと、こういうことらしい。うちの酒の中で一番売り上げが高いのはビールなのだが、正直なところ開発力が弱い。そこで思い出したのが、父のことらしい。

「ああ、父も以前、開発について申し上げたことがありましたね」

「ええ、あのアドバイスは非常に助かりました」

電話口でも分かるほど、社長は懐かしそうだった。社長の考えとしては、開発はうちに任せて、販売や宣伝は自分たちが担当する。地域も盛り上がるし、双方に旨みがある。そういうことらしい。

地域活性化という言葉には、正直引かれるものがあった。代々から父まで、店を継ぐ者はみんなこの地域が大好きだ。もちろん俺も、本当に地域活性化につながるなら、社長の申し出に乗る価値はあると思った。

こうして契約がまとまり、開発がスタートした。目指す方向はすぐに固まった。副材料には、この地域でしか手に入らない在来種の素材を使う。地元の農家が細々と守り続けてきたもので、他所ではまず流通しない。仕込み水は、うちの手蔵が長年使い続けてきた山の伏流水だ。ミネラルが少ない軟水で、素材の香りをそのまま引き出せる。これはうちが何十年もかけてこの水と付き合ってきたからこそ分かることだ。同じレシピを渡されても、他所では同じ味は出せない。この土地に根を張ってきた酒屋だからこそ生み出せる一本を、俺たちは作ろうとしていた。

ここから足かけ五年。俺たちはこのクラフトビールに取り組んでいくことになる。先方の購買部長の三井が担当窓口となったのだが、この男が曲者だった。

まず、アポなしでやってくる。もちろん事前連絡すらない。「ちょっと進捗を確認しに来ました」と言い、挙げ句にスーツ姿のまま手蔵の中に入ろうとして、慌てて引き止めるはめになった。雑菌一つで繊細な発酵状態が全て狂うということを、まるで分かっていないのだろう。同じ業界に身を置く者だというのに、こんな基本的なことさえ分からないのか。怒鳴りつけたい衝動に駆られたが、俺は言葉を一度飲み込み、冷静に注意するだけにとどめた。

「なんだよ、こんなことでどうにかなる酒なんて製品になるのか」

そう返された時は、素直に怒鳴れば良かったと後悔したものだ。

それだけではない。三井は開発費の話になると、輪をかけてひどかった。

「材料費が高すぎる。え、こだわり? 何言ってんだ? 高がクラフトビールで」

自分の仕事自体を否定するような言葉まで出る始末。そんな時、隣にいた社員たちの悔しそうな顔が忘れられない。俺たちが丹精込めて選んだ素材を、高がの一言で切り捨てる男の浅さに、誰もが言葉を失っていた。

「コスト削減は確かに大切なことでしょうが、こちらも必要以上に高くしているわけではありません。配合はもちろん、温度などの調整、どうしても試行錯誤が必要になります。必然的にコストはこれくらいかかるんです」

俺は社員と一緒にそう説明した。その時、三井が言ったのを覚えている。

「社長はこの仕事に期待してるんだよ。俺個人としては地域活性化なんてどうでもいいがね。だけど、この仕事で功績を上げた社員にはボーナスを出すって話なんだよ」

そうなれば話は別だと、三井は生き生きしていた。つまり、やたらと進捗を確認したがったり、開発費に関して物申してきたのは、そのボーナスのためだったらしい。どうでもいいという言葉は聞き捨てならないが、こういう話なら三井が気になるのも分からなくはない。正直な話、あきれ返っているとしか言いようがないが、それでも開発は着々と進んだ。俺も社員たちも、全員が一丸となってこのクラフトビールに情熱を注いできた。三井に振り回されることもあったが、その分だけクラフトビールへの思いが強くなっていったと思う。

そしておよそ五年。ついに最終段階へ踏み入った。最終工程を経て、クラフトビールはついに完成した。工程には取引先の社長にも確認してもらったのだが、「これなら、与田さん、ありがとう」と目を細めていったのが印象的だった。その言葉が純粋に嬉しかった。俺も社員たちも同じ気持ちだったのだろう。顔を見合わせて笑い合った。これで終わりではないが、ようやく一区切りだという安心感もあった。

その翌日のことだった。

「今近くにいるんで、そっちに行きますね。話したいことがあるんで」

三井が電話をかけてきたと思ったら、一方的にそう言って電話を切られてしまう。何なんだ。通話終了と表示された画面を見て、俺は一人つぶやいた。三井がアポなしでやってくるのはいつものことだ。だが、最終工程が終わった次の日に連絡が来たのが気になった。何か問題でもあったのだろうか。いや、俺たちの仕事は完璧だったはずだ。俺は少しの不安を胸に抱えながら、三井の到着を待った。

しばらくして姿を表した三井は、どことなく真剣な表情に見える。俺はその雰囲気を察して、三井を事務所のソファーへ案内した。

「それで、本日はどうされたんですか? 何か問題がありましたか?」

続けようとしたタイミングで、三井が口を開く。

「開発料、半額でどうにかなりませんか? 正直に言って、開発だけなのに多く取りすぎなんじゃないかと前から思っていたんです」

想像もしていない言葉が飛び出たので、俺は思わずぽかんとする。そばで事務作業をしていた社員たちも、目を丸くしてこっちを見ていた。

「それは約束が違います」

俺たちは当初の契約に基づき、開発を進めてきたのだ。今さら、しかも購買部長にそれだけの権限などあるとは思えない。俺は冷静さを取り戻し、三井をまっすぐ見据えた。正直、心配して損をしたという気分だ。珍しく真剣な表情をしていると思ったら、まさかこんな要求を突きつけてくるなんて。

「約束って開発に五年。その間、こっちだって費用がかさんだから、分かるだろう」

三井の言葉に、俺は目を細める。つまり、開発に時間と金がかかりすぎて予算をオーバーしたから安くしろ、と言いたいのだろう。筋の通らない話だが、三井にとっては立派な理屈らしい。確かに想定よりは費用がかさんだ。費用の全額ではないが、必要経費の何割かは依頼主である取引先が負担している。しかし、その金額も正当であると認められたからこそのものだ。

「昨日、本社の社長に試飲していただいたクラフトビールは、その費用をかけて開発を重ねたからこそ生まれたんですよ」

俺はそう言ったが、三井には伝わっていないらしい。

「本当は早く開発できたんじゃないの? わざと時間と金をかけて、こっちの金を吸い取ってたんじゃないの?」

浅ましい挑発の言葉だ。いつも卑怯な言動はしていたが、ここまでじゃなかった。だが、三井のその一言は聞き流せない。口こそ挟んでこなかったが、周りにいた社員たちの空気が変わる。今までのうっぷんもあったのだろう。俺の中で、暗く重い圧迫感のようなものが胸の奥を押した。そんな俺を横目に、三井は言葉を続ける。

「そもそも販売はうちにあるんだから、上のレシピっていうのをこっちも知ってる。だから、ちゃんと考えた方がいいと思うけどな」

ヘラヘラと緊張感のない薄笑いが、この場にいる全員の神経を逆撫でした。自然と拳に力が入る。五年間、俺たちはこの開発に心血を注いだのだ。アポなしで押しかけられ、工程を省けと言われ、現在材料を変えろと言われ。それでも一切妥協せずに作り上げた。完成したらこっちのもの、とでも言いたいのだろうか。そのあまりの浅はかさに、嫌悪感が込み上げる。

俺は時間をかけて言葉を絞り出す。

「お断りしたら、どうするんですか?」

言いたいことは他にもあった。ふざけるなと声を張り上げたい気持ちを抑え込む。ここで感情的になったら、三井の思うつぼだろう。三井は鼻で笑った。

「はっ、そんなの決まってる。開発料半額か、契約終了か、どちらかに一つだ」

三井は持っていた鞄からあるものを取り出す。契約解除に関する書類だという。購買部の部長が、こんな書類を単独で持ち込める権限などあるはずがない。これは完全に三井が独断で動いた狼藉行為だ。

俺は三井の言葉を聞き、細く長い息を吐く。

「その言葉、訂正するつもりはありませんか?」

「は? そんなことするわけがない」

その返答を聞き、「そうですか」とつぶやいた。この時点で、俺の気持ちは決まっていた。

「では、契約終了で。二度と作りませんよ。いいんですね」

まさか俺がすんなり受け入れるとは思わなかったのだろう。三井が大きく目を見開いた。

「ちょ、ちょっと待て。五年だぞ。無駄にするのか。販売できなければ、そっちだって困るんじゃ」

俺は慌てる三井を無視して、用意された書類を手に取る。三井が止めようと手を伸ばしてきたが、俺はひらりとかわした。事務所の空気がしんと静まり、社員たちが固唾を飲んでこちらを見守っているのが分かった。

俺はゆっくりと書類に目を落とし、丁寧に読み進めた。正当な書類と呼べるような代物には見えない。おそらく脅しの道具として、三井が適当にそれらしいものを用意しただけなのだろう。それでも、ペンを手に取り、静かに言った。

「私どもは誠心誠意、仕事をしてきただけです。脅しに屈したりはしません」

そう言って書類にサインをした。三井が青ざめた。顔から血の気が引いていく。

「どうされました? お望み通り選択肢を選んだだけですが」

俺は冷たい目で三井を見つめる。これが最後だと思えば、言いたいことは山ほどある。だけど、最後だからこそ俺は言葉を選んだ。こんな男と同じ土俵に立ちたくはなかった。

「以前言ってましたね。ボーナスが出る。そのために功績を上げたい。今日のことも、その一環では? 最終工程が終わってしまった以上、チャンスは激減すると思い、出たのではありませんか?」

それは図星らしい。三井はサインがされた書類を見つめ、呆然としている。

「うちが従わないわけがない。そんな思いがあったから、こんな真似ができたんですよね。我々の誠意と情熱を踏みにじるような真似を」

自然と声が低くなる。抑え込もうとした怒りの感情が、どうしても出てしまう。三井がかすかに震えているように見えた。

「いや、嫌だな。与田社長。冗談ですよね」

「いえ」

三井が慌てて言うが、俺はゆっくりと首を横に振る。

「話し合い? 話し合いなら、十分してきたはずでしょう。少なくとも私どもは、その機会を提示してきました。無視してきたのはいつも、三井部長。あなたです」

三井が何か言おうと口を開いたが、俺は手のひらで事務所の出口を差し示した。

「お引き取りください」

はっきりした言葉に、三井は従うしかできなかった。

三井が帰ってからおよそ二時間後のことだ。もうすぐ日が沈むという頃、俺のスマホに着信が入る。画面を見ると、取引先社長の名前が表示されていた。

「与田社長、この度は弊社の者がとんでもないことを。本当に申し訳ございません」

俺がもしもしと言う前に、取引先社長が必要以上に細い声で謝罪する。三井から話を聞いたのだろうか。尋ねてみると、取引先社長が肯定した。

「ええ、三井から報告があり、一連の出来事を把握いたしました。社長としてお恥ずかしい限りです。私がきちんと管理できていれば、このようなことは」

話を聞けば、帰社した三井が真っ青になって訴えてきたらしい。脅しをかけてくるような人物だから、事実を包み隠さず報告しそうなものだが、俺はすぐに思い直した。俺があっさり契約終了を受け入れた時、明らかに三井は動揺していた。事の大きさを自覚して、パニックのまま社長に駆け込んだのだろう。むしろその様が目に浮かぶようで、思わず電話口で笑いそうになる。取引先社長には申し訳ないが、無様なことこの上ない。

ついでに他人だけでなく、自分の行動にも不誠実で一貫性がない。

「つまり、あなたとしては寝耳に水だったということでしょうか」

俺の静かな問いかけに、社長は言葉をつまらせた。

「情けない限りです」

この一言に、全てが込められている気がした。

「そうですか」

社長が言うには、三井からの報告を聞き、即座に激怒したという。その場で三井を叱りつけたそうだ。

「こちらの勝手で恐縮なのですが、どうか明日改めて謝罪に伺わせていただけませんでしょうか?」

正直な気持ちを言えば、何も把握していなかった社長にも問題があるだろう。しかし、謝罪を受け入れるかどうかは別として、謝罪の機会まで奪ってしまうのは、それこそ不誠実なのではないだろうか。俺は少し考えた後、思い切って口を開く。

「分かりました。では、明日お待ちしております」

その瞬間、社長の安堵の息遣いが聞こえたような気がした。だが、と俺は付け加える。

「社長お一人の訪問は受け入れません。謝罪と言うからには、三井部長がいないと話になりません」

そして、今に至るというわけだ。

俺の目の前には、心妙な顔をした取引先社長と、いつもは浅ましい表情をしているはずの三井が座っている。社長は眠れていないのか、目元に隈が刻まれており、三井は血の気がない。

俺が黙っていると、社長は深く頭を下げた。

「この度は誠意を欠いたことを、申し訳ございません」

それに従うように三井が頭を下げて謝罪したが、どこかぎこちない。それもそのはずだ。今まで侮って見下していた俺に頭を下げるはめになったのだから。

俺がそう考えていると、社長が口を開いた。

「三井君の口から、与田社長に説明しなさい」

三井は俺、そして社長へと視線を移す。ややあって、観念したように話し始めた。

「俺、いえ、私も今回のプロジェクトにかけていました。功績を上げ、ボーナスが欲しかったんです。完成した後であれば、開発料を半額にされても、そちらは要求を飲む。そう高をくくっていました」

うちが提出したデータとレシピさえあれば、自分の会社で製造できると考えたそうだ。そのくらいのことは、俺も想像はできた。というか、いたのなら、もっと誠心誠意真面目に働けばいいだけのことだ。あまりに言い訳臭いと、俺は思わずため息をつく。

三井はさらに続けた。

「でも、社長に叱られて初めて、自分の過ちに気づきました」

三井は社長にこう言われたという。

「お前、ただデータさえあれば真似できると。これが我が社の社員とは情けない。レシピはいわば設計図のようなものだ。それを最高のものにするのは作り手次第。つまり、与田社長の会社でしか、あの味は出せない」

三井から社長の言葉を聞き、俺は衝撃を受けた。社長はやはりよく分かっていたのだ。分かった上で、うちに開発をお願いしてくれたのだ。だからこそ、俺は三井を許せない。三井を睨みつけると、社長が呆れたように首を横に振った。

「三井君、それだけが理由じゃないだろう」

社長の言葉に、三井はびくっと肩を震わせる。

「仕方ないじゃないですか。そ、それはプライベートなことなので」

「どういうことですか?」

俺が追求すると、三井はしぶしぶといった様子で続けていく。

「実は、ちょうどこの開発が始まった頃に離婚して、慰謝料やら養育費やらで金がいるんです。こっちにだって事情があるんですよ」

半ばやけになった口ぶりに、俺と社長が眉をひそめる。それで私どもが五年の心血を注いだものを、完成した途端に奪おうと。どうせ受け入れるに違いないと高をくくってかかったわけだ。だが、結局これが一番の理由だったに違いない。

「もう一つ言い忘れているぞ。ギャンブルにもはまっているらしいじゃないか」

社長が、さらに呆れたように追撃する。

「社長!」

三井が屈辱に顔を歪めるが、自業自得だ。俺は三井のことをよく知らない第三者に過ぎないが、離婚の理由も突き詰めればそこに行きつくのではないだろうか。もう、これ以上話す気になれない。少なくとも、三井のような信用できない男とは。

「それで、どうするんですか? あなたの非常識な行動のせいで、契約は終了です。どう責任を取るおつもりですか?」

俺と社長がじろりと三井を睨む。味方などどこにもいない。言い訳も聞かない。今さらながら、三井は現実を思い知ったのだろう。

「ううっ、申し訳ございませんでした」

繰り返したが、その言葉は誰の心にも響かなかった。

後日、取引先社長から連絡があり、改めて契約について話し合いを行った。最終的に、うちにとってかなり有利な条件での再契約となった。取引先側の契約違反として、慰謝料も受け取ることに。

「お金が全てではない」と断ったが、「今後のために誠意として支払わせてほしい」と言われては、もう断れなかった。その際に聞いたことだが、三井は懲戒解雇となったそうだ。クラフトビールは無事に発売され、地域でも話題になった。地元出身の著名人の投稿から動画が広がり、海外から観光に来た外国人にも受けがいいらしい。

発売後、社員たちと一緒にそのビールを飲んだ夜のことは、きっと忘れないだろう。五年分の疲れと誇りが、琥珀の泡の中に溶けているような気がした。

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