納品日当日、俺は完成したサーバー本体と基幹システムを車に積み込み、吉見商事へと向かった。朝からずっと続いてきた徹夜続きの作業がようやく終わり、社員たちの顔にも達成感が浮かんでいる。ところが現地に到着して受付で名乗り、納品書を差し出すと、応対した社員が怪訝な顔で首をかしげた。
「納品の予定は聞いていないんですが」
耳を疑った。この規模の案件の納品日を忘れるはずがない。胸の奥で嫌な予感が走り、すぐに吉見修平へ電話をかけた。数回のコールの後、軽い調子の声が返ってくる。
「おお、原口。どうした?」
「どうしたじゃない。サーバーと基幹システムの納品に来てるんだが、そっちの社員が知らないと言ってる。どういうことだ?」
「ああ、それキャンセルで」
一瞬、言葉が出なかった。
「は? 冗談だろ?」
「いやいや、本当だって。お前んとこに頼んだ後、別の業者がもっと安くできるって言ってきてさ。そっちに変えたんだよ」
「当日のこのタイミングでか? 十億円の契約だぞ」
「だから何? 契約なんて紙一枚だろ。お互い様だって」
「お互い様じゃない。うちはこのために何ヶ月も動いてきたんだ」
「そんなの知るかよ。人間、言い忘れることってあるじゃん。そんなにカリカリすんなって。同級生だろ?」
「同級生なら許せと?」
「そうだよ。お前、昔から細けえんだよな。だから面白くもないし、持たないんだよ」
その軽口に、血の気が引いていく感覚がした。これは明らかな契約違反だ。俺の怒りが頂点に達する前に、吉見はさらに言葉を重ねる。
「だからさ、お前んとこが高いから切られるんだろ。大手でもないんだし。下請けは黙ってろって」
下請け。その言葉が胸の奥に突き刺さった。学生時代からこいつはこうだった。他人を見下し、挑発することで優越感を得る。俺が何も言い返せないのを知っていて、わざと傷つける言葉を選ぶ。その態度は何も変わっていなかった。
「お前、昔から変わらないな」
「そういうところがうざいんだよ、お前は」
それだけ言うと、吉見は一方的に通話を切った。スマホを握る手に力が入り、関節が白くなる。頭の中では吉見の笑い声が何度も反響していた。納期に間に合わせるため、社員全員が必死で積み上げてきた努力。徹夜で重ねた作業時間。それら全てを、この一言で踏みにじられた。怒りは静かに、しかし確実に膨れ上がっていく。胸の奥底で、氷のように冷たい決意が形をなした。
俺は絶対に、この裏切りを許さない。
握りしめたスマホをゆっくりとポケットにしまい、納品書とともに鞄を閉じた。このままここにいても無駄だ。応対した社員に軽く会釈し、無言で会社を後にする。外に出ると、冷たい風が頬を打った。車に戻り、ハンドルを握ったまま深く息を吐く。怒りで頭が熱くなるが、感情に任せて動けば相手の思うつぼだ。まずはこのサーバーとシステムを無駄にしない手を打つべきだ。
エンジンをかけ、自社オフィスへ戻る途中から業界の仲間に連絡を入れた。長年付き合いのある社長や、知人が経営する関連会社に話を持ちかける。
「急なんだが、高性能なサーバーと基幹システムを探している会社はないか?」
数件目の電話で、思わぬ返答が返ってきた。
「実はうち、来月から新しい会社を立ち上げる予定でね。サーバーの導入先を探していたんだ」
「条件が合えば、すぐに詳細を送る」
相手は即決した。しかも「原口システムズの製品がこの価格で手に入るなんて安すぎる」とまで言われ、こちらも胸を撫で下ろした。こうして大きな損失は避けられたが、怒りは収まらない。吉見はこのまま放置すれば、同じ被害者をまた生むことは目に見えている。
次にやるべきは、奴が依頼したという新しい開発会社の特定だった。業界内の伝手を辿り、数時間後には名前を突き止めた。すぐにその会社へ電話を入れる。
「初めまして。原口システムズの原口と申します。御社が吉見商事から案件を受けたと伺いました」
「ええ、そうですが。何か?」
「その案件、危険です。私どもが請け負っていたサーバーと基幹システムを、納品当日に一方的にキャンセルされました」
一瞬の沈黙の後、担当者の声が低くなる。
「そんなことが。うちも契約したばかりですが、納期や条件に無理があると思っていたところなんです」
「私のように、直前で切られる可能性は高いですよ」
担当者は契約を見直すと約束し、通話を終えた。だがこれで終わりではない。俺はさらに業界内の取引先リストを開き、順番に電話をかけていった。
「納品当日にキャンセルされた案件がありました。依頼主は吉見商事です。契約しても同じ被害を受ける可能性があります」
相手の反応はほぼ同じだった。
「そんな危険な会社とは取引できない。リスク回避が第一だから、話が来ても断る」
数時間で十数社に情報が回り、吉見商事は完全に危険案件として業界内に共有された。電話を切るたび、冷たい満足感が胸に積もっていく。信頼を失えば、どれだけ口先で取り繕っても仕事は取れない。俺は椅子に背を預け、次の一手を考えた。吉見がこの事態を知るのは、そう遠くないはずだ。
あれから二ヶ月後、吉見商事は複数の取引先から案件を断られ続け、大混乱に陥っていた。最初に吉見が目をつけた開発会社は契約を見直し、そのまま案件を辞退。慌てた吉見は別の会社にも声をかけたが、こちらも「条件が合わない」とやんわり拒否してきた。気づけば営業部員たちも、外回りから手ぶらで戻ってくる日々が続いていた。
「ふざけんな。どいつもこいつも」
苛立ちを隠せないまま日々が過ぎ、最大の難関が目前に迫っていた。親会社のデータ移行まで残された時間はわずか。移行が滞れば、親会社の業務全体に支障が出る。それはそのまま吉見の首が飛ぶことを意味していた。会議室では重い空気が漂い、書類の束が机に積まれたまま誰も手を伸ばさない。時計の針の音だけが、夜更けに大きく響く。
「どうにかしろ。このままじゃ親会社から大目玉だぞ」
「国内で引き受けてくれるところはもう……」
「じゃあ海外だ。安くて早いところを探せ」
最後の手段として、吉見は海外の業者に依頼する決断を下した。相手はオンライン会議で笑顔を見せ、「任せてくれ」と自信満々だった。だがその言葉は虚しいものだった。納品されたシステムは、営業部で使い始めて数日も経たないうちにエラーが頻発。顧客データやシステムデータが次々と消失し、業務はほぼ停止状態に陥った。
復旧を依頼しても、時差と言語の壁で対応は遅れる。届いた修正版も、別の不具合を抱えていた。
「またデータが消えました。復旧用のバックアップも破損しています」
「ああ、ふざけんな」
問い合わせ窓口は苦情の電話で埋まり、メールには赤字のシステムエラー通知が延々と届く。会議室では社員たちが顔を見合わせ、誰も前を向けない。吉見は視線をそらし、机の木目を睨みつけたまま言葉を失った。デスクに突っ伏すようにして、低く呟く。
「どうすればいいんだ……このままじゃ終わる」
頭の中では、原口ミキトという名前が何度も浮かんでは消えた。あの日、電話口で怒りを抑えながらも冷静に話していた顔。業界で築いた信頼と実績。どれを取っても、自分とは真逆の存在だった。
そうだ。原口だ。あいつなら。
縋る思いで吉見はスマホを手に取り、震える指で番号を押した。その数秒後、俺の携帯が静かに鳴り響いた。画面に表示された名前を見て、思わず口元が歪む。予想通りだ。ここまでくれば、プライドも何もかなぐり捨てて縋るしかないのだろう。
通話ボタンを押した瞬間、耳をつんざくような声が飛び込んできた。
「助けてくれ!」
「今更、何の用だ?」
冷たく返すと、向こうは息を荒げたまま言葉をつぐ。
「お、ほら、お前のところに頼んでたサーバーの話、覚えてるだろ? あの後、業者変えたやつだ。そいつらがな、開発の途中で急に『やっぱりできない』って投げ出しやがったんだ。違約金払うから中止にさせてくれってよ。それで今、移行期限が迫ってるんだ。新しいサーバーが必要なんだよ」
状況を説明しているつもりなのだろうが、声は弱々しく、言葉は途切れ途切れだった。その中途半端な必死さに、俺は苛立ちを覚える。話したくもない相手に、時間を奪われているのだ。
「困っているのは分かった。だが要件を簡潔に言え。こっちも暇じゃない」
最速すると、吉見はついに本題を吐き出した。
「悪いが……あの時キャンセルしたサーバー、もう一度お前から納品してもらえないか。頼む」
縋るような声だった。しかし俺は即座に切り捨てた。
「あれはもう別の会社に納品した。無理だ」
「マジかよ……でも、本当に困ってるんだ。なんとかしてくれ」
二度目の懇願にも、俺の答えは変わらない。納品直前に一方的に切って、罵倒までしてきた相手を助ける義理はない。
「あれは目先のコストに目がくらんでただけなんだ。本当に悪かった。恥を忍んで頼んでるんだ。あの会社だけじゃなく、他の会社にも片っ端から声をかけたが、条件を聞いた途端に全部断られたんだよ。最後は海外の業者に頼むしかなくてな。でも入れてみたらエラー続出。データは消えるわ、復旧もしないわで、完全に積んでるんだ。国内で頼れるのはお前のとこだけなんだ」
必死さがにじみ出ている。それでも俺の胸は一切動かなかった。
「ああ、当然だ。俺が業界に注意喚起したからな」
「は? どういうことだ?」
「お前の会社に納品日当日に契約解除されたと、そのまま伝えたんだよ。そりゃ誰もリスクの高い案件なんか受けないだろう」
その言葉に、一瞬吉見の息が詰まった。しかし次の瞬間、懇願の表情は消え、耳に刺さる怒鳴り声が飛び込んできた。
「お前、それ完全に営業妨害じゃねえか! 裁判してやってもいいんだぞ! 調子乗んだよ、下請け不覚が!」
さっきまで哀願していた男が一転して牙を向く。あまりの変わり身の速さに、怒りよりも呆れが勝った。
「営業妨害? 何の話だよ。俺は事実しか伝えていない。お前の会社に納品日当日に契約解除された、その一点だけだ。誇張も煽りもない。淡々と事実を述べただけだ。それで裁判? 笑わせるな」
受話器越しに吉見のはぎしりがはっきりと響く。俺は畳みかけるように、さらに刃を突き立てた。
「それと、裁判の話ならこっちが起こさせてもらう。不当な契約解除に対する損害賠償請求だ。金銭的な人件費、サーバー再販売にかかる追加コスト、全て計算中だ。近いうちに請求書が届く。逃げ道はない」
「ふざけんな! 今、こうしてデータは消えるわ、顧客と親会社から詰められるわ、それどころじゃねえんだ!」
「それはお前の都合だ」
「なんで今更言うんだよ。二ヶ月も経ってから!」
「お前の言葉を借りれば、『伝え忘れてた』ってやつだ。同級生の吉見に教えてやったんだ。感謝しろ」
過去に吐き捨てられたセリフを返すと、吉見の声は爆発した。
「ふざけんな! 評価も地に落ちてんだ。そこに賠償請求なんて来たら、本当に首が飛ぶ!」
「助ける理由がどこにある?」
短く返すと、相手の呼吸が乱れ、声が震え始めた。プライドを食いつぶし、必死にすがろうとするその様子は、かつて見下されていた自分とは正反対だった。
「嘘だろ? なあ、首が飛ぶんだぞ。人生終わっちまう。何でもするから、助けてくれ」
「いいや。助けない。あの日、お前は自分で道を選んだ。その結果を受け止めろ」
「なあ、頼む。原口!」
耳をつんざく絶叫。俺は無言で親指を動かし、通話を切った。残ったのは電子音の余韻と、鼓動の速さだけだった。長かった因縁が終わったという実感が、じわりと部屋を満たしていく。部屋の空気は重く冷たかったが、それはもう俺の心を乱すものではなかった。むしろ、すっきりとした解放感さえ感じていた。
あの電話から数週間が過ぎた。吉見修平の名前は、業界の外にまで広まった。損害賠償の請求書が届き、親会社からはデータ消失の責任も問われて解雇されたという噂も耳にした。俺の知る限り、あいつに就職先はどこにもなかった。業界内での悪評はあまりにも強烈で、新たな職を見つけることは絶望的だったのだ。プライドだけは高い吉見は、職業訓練や事務職すら拒否し続けた。ハローワークで職員に逆切れし、ついには出入り禁止同然の扱いを受けたという話も聞いた。
一方、俺は日々の仕事に戻っていた。新規案件の打ち合わせに向かう電車の中、心の中で静かに呟く。信頼を守ることこそ、最大の資産だ。この言葉は今回の一件で何度も反芻した真実だった。オフィスに戻ると、デスクに向かい再びキーボードを叩く。次のプロジェクトに向けて、集中力を切らさずに前へ進んでいく。過去の出来事を振り返ることはしない。ただ目の前の仕事に全力を注ぐだけだ。信頼は一朝一夕で築けるものではない。失った信頼が、もう二度と戻らないことを俺は誰よりも知っている。
