白石部長は机の上に置いた退職届を指先でこちらへ滑らせた。隣では派遣社員の吉岡さんにも同じ紙を押し付けていた。
「中卒を部下に持つだけで俺の経歴に傷がつくんだよ。お前は今日で首だ」
俺は三十一歳。高校を途中で辞めた。学歴だけを見れば白石がいつも口にする通り、立派なものではない。それでもこの五年間、地域振興の仕入れ営業として農家や小さな加工所、パン屋や味噌蔵と一軒ずつ信頼を積み上げ、車内トップの売上を守ってきた。だが白石にとっては、そんな実績よりも学歴のほうが大事らしい。
俺は退職届を手に取り、迷わず名前を書いた。
「わかりました。今日で辞めます」
白石は勝ち誇ったように笑った。
その三ヶ月後、白石は会社の窓から道路を挟んだ向かい側を呆然と見つめることになる。何年も空き店舗だった古びた建物の前に、朝から長い行列ができていたからだ。その店の看板の下で客を迎えていたのは、白石が無能と呼んで追い出した俺と吉岡さんだった。しかも店内には、かつて白石の会社と取引していた農家や職人たちの商品がずらりと並んでいた。
そしてこの日を境に、白石が誇っていた会社の売上は音を立てて崩れ始める。
学歴や肩書きだけで、人の価値まで決められるのだろうか。
俺の名前は神谷介、三十一歳。長野県松本市にある地域振興会社「信州未来物産」で仕入れ営業をしていた。仕事は地元の野菜や加工食品、菓子、パン、味噌、漬け物などを仕入れ、県内外のスーパーや百貨店、道の駅に卸すこと。最初の企画や売り場づくりまで任されることも多く、俺は一週間の半分以上を外で過ごしていた。
俺の家は裕福ではなかった。高校二年の冬、父が脳梗塞で倒れ、長期入院することになった。母はパートを増やしたが、入院費と生活費で家計はすぐに苦しくなった。妹はまだ中学生だった。
俺は母に止められたが、高校を辞めて働くことを決めた。世間では高校中退も最終学歴は中卒と扱われることが多い。十八歳の俺には、それが将来どれほど重くのしかかるのか分かっていなかった。
スーパーの品出し、居酒屋の厨房、弁当工場、配送センター。昼も夜も働いた。正社員の面接も何度も受けたが、履歴書の学歴欄を見た瞬間に空気が変わることも珍しくなかった。
「どうして高校を辞めたの?」
理由を説明しても、その後の質問は急に少なくなる。二十代半ばまで、俺はそんな経験を何度も繰り返した。
今の会社に入ったのは五年前だ。当時の社長だった高瀬さんが、たまたま配送センターで取引先のトラブルを収めている俺を見ていたらしい。後日、知人を通じて連絡が来た。
面接で高瀬社長は履歴書を見た後、俺の顔をまっすぐ見て言った。
「学歴は分かった。それより君は、現場で人が困っている時に何をする人なんだ?」
俺は正直に答えた。
「できることを探します。自分の仕事じゃないと言って逃げるのは嫌です」
高瀬社長は笑った。
「それなら営業をやってみないか?」
それが俺の人生で初めての正社員だった。
入社してからは必死だった。名刺の渡し方も企画書の作り方も商談の進め方も知らなかった。先輩に教えてもらったことは全部メモした。失敗した日は家に帰ってから何度も振り返った。
ただ意外なことに、長く続けてきたアルバイト経験が役に立った。スーパーでは客が何を見て商品を手に取るかを見てきた。飲食店では厨房がどんな食材を扱いやすいと感じるかを知っていた。配送センターでは納品時間が少しずれるだけで現場がどれほど混乱するかも知っていた。
だから俺は商品を売る前に、必ず相手の現場を見るようにした。店長が何に困っているのか、厨房が何を嫌がるのか、農家がどこで苦しんでいるのか。数字だけでは見えないことを拾う。それが俺の営業だった。
入社一年目の終わりには営業成績が車内三位まで上がった。二年目からは毎年トップか二位。三年目以降はほとんどトップを譲らなかった。
それでも俺が誇りに思っていたのは売上ではなかった。取引先との関係だ。
二年前、松本周辺を記録的な大雨が襲った。長年付き合いのある山辺地区の農家では、トマトやキュウリの多くに傷がつき、形も崩れた。味には問題がないが、スーパーの通常売り場には出しにくい。普通なら価格を大きく下げるか廃棄するしかない量だった。
農家の小松さんは畑の前で肩を落としていた。
「今年はもうダメだな。箱代をかけても赤字だ」
俺はその場で会社に戻らなかった。傷のあるトマトを一箱車に積み、取引のあるレストランや飲食店を回った。
「見た目は悪いです。でも加熱すれば問題ありません。品質も通常品とほとんど変わりません」
サンプルを切って味を見てもらった。ソース用、スープ用、煮込み用。用途を変えれば十分売れる。その日のうちに数店舗を回り、翌日も朝から動いた。三日後にはほぼ全ての売り先が決まった。価格も買い叩かれないよう、加工用途として成立する水準まで交渉した。
一週間後、小松さんが会社に来た。手には泥のついた小さな紙袋を持っていた。
「神谷君がいなかったら半分以上捨ててた。本当に助かった」
中には形の悪いリンゴが入っていた。
「これ、家で食べてくれ。売り物にならんけど、味はいいから」
小松さんの目が赤かった。俺はその時、営業という仕事が好きだと思った。商品を右から左へ流すだけじゃない。困っている作り手と、必要としている売り手をつなぐ。その間に立つのが俺の仕事だ。
俺がここまで成長できた理由は、車内に競い合える仲間がいたことも大きい。堀内拓也。俺と同い年で、高校を卒業してすぐ信州未来物産に入り、商品と市場調査を担当していた。俺が入社した初日、会議室の場所が分からず廊下を何度も往復していた時に声をかけてくれたのが堀内だった。
「新人さんですよね。会議室なら反対側ですよ」
そこから顔を合わせるたびに話すようになり、同い年だと分かってから一気に距離が縮まった。営業と企画で仕事は違う。だからこそ互いに持っていない情報を交換できた。俺が現場で拾った客の声を堀内に渡し、堀内が市場データや競合情報を俺に返す。仕事が終われば二人で飲みに行った。
昔は新商品の話ばかりだった。だがここ一年ほど、酒の席で出る話題は白石部長への愚痴が増えていた。
白石俊助、四十八歳。一年前に東京の大手食品会社から中途で入ってきた営業部長だ。有名大学を出て大手で管理職をしていたことを何より誇りにしていた。
入社した最初の週から、白石は俺の学歴を知ると態度を変えた。
「神谷君、高校も出てないのか? ようやるな」
笑いながら言われた。俺は聞き流した。アルバイト時代にも似たようなことは何度も言われてきた。
だが白石にはもっと大きな問題があった。現場を見ない。そして現場の声を聞かない。会議室で資料だけを見て、売れるか売れないかを決める。数字を見ること自体は悪くない。だがその数字が何を意味しているのかを確かめようとしない。
春先、俺は安曇野の小さな菓子工房が作っているリンゴバターサンドを仕入れたいと提案した。白石はサンプルを一口も食べずに言った。
「こんなもの仕入れたって売れやしないよ」
「観光客向けだけじゃなく、県外百貨店の催事でも行けます。箱のサイズと価格帯も合っています」
「根拠は?」
俺は現場で聞いた話を説明した。最近は小包装で素材が分かりやすく、千円前後の商品が土産売り場で動いている。だが白石は鼻で笑った。
「感覚の話だろう。中卒の勘なんて会議で出すな」
俺は腹が立ったが、担当役員に直接許可を取り、一ロットでテスト販売した。結果は三日で完売。追加発注をかけても追いつかなかった。
夏には木曽の味噌蔵が作った味噌ナッツを提案した。白石はまた言った。
「誰がそんな変なもの買うんだ」
これも初日で完売。秋には規格外リンゴを使ったドライフルーツ。白石は売れないと言った。これも売れた。
そんなことが何度も続いた。白石は俺が成果を出すたびに、面白くなさそうな顔をした。
もちろん俺だって全てを勘だけで決めていたわけではない。現場の客層、価格、棚の動き、季節、競合商品。頭の中ではいくつも重ねて判断している。ただそれを資料として言語化するのが得意ではなかった。
そんな俺にとって助けになったのが、派遣社員の吉岡美咲さんだった。二十八歳。営業企画部の事務として半年前に入ってきた。第一印象は少し近寄りがたい人だった。髪をきっちりまとめ、口数はほとんど無駄話をしない。だが話してみると物凄く頭の回転が速かった。
俺が仕入れたい商品の話をすると、吉岡さんはすぐに販売実績や検索傾向、催事の客単価、競合価格をまとめてくれた。
「神谷さんの感覚、かなり再現性ありますよ」
ある日、そう言われた。
「本当ですか?」
「はい。神谷さんは言葉にするのが苦手なだけです。見ているポイントをデータに置き換えると、かなり筋が通っています」
それから俺は吉岡さんに助けてもらいながら提案書の精度を上げた。白石も数字を並べられると簡単には否定できない。それがまた気に入らなかったらしい。
営業部には白石に媚びる人間もいた。出世のためなら何でも賛成する者。俺が成果を出しても無関心な者。自分の数字さえ良ければいいという空気が、少しずつ強くなっていた。
最初の雰囲気は、高瀬社長が現場にいた頃とは違っていた。高瀬さんは半年前に病気で会長職へ退き、実務から離れている。その後、東京出身の新社長が就任し、白石のような大手出身者を何人も管理職に入れた。「効率化」という言葉が増えた一方で、取引先の顔を見る人は減った。俺はその変化が気になっていた。
白石とぶつかった日は、よく営業部の窓から外を眺めた。道路の向かい側に古い二階建ての空き店舗があった。昔は酒屋だったらしい。色あせた外壁、錆びたシャッター。誰も借り手がついていない。なぜか俺はその建物がずっと気になっていた。まさか後になって、そこが俺の人生を変える場所になるとは思ってもいなかった。
そんなある日の午後、白石から会議室へ来いと呼び出された。扉を開けると、すでに吉岡さんが座っていた。
「吉岡さんも呼ばれたんですか?」
「はい。理由は聞いていません」
白石はまだ来ていない。二人で顔を見合わせた。十分ほどして、白石が不機嫌そうに入ってきた。挨拶もせず、自分だけ椅子に深く座った。そして俺を見るなり言った。
「お前さ、いつまでうちの会社にいるつもりなの?」
意味が分からなかった。
「どういうことですか?」
白石は大きくため息をついた。
「お前、中卒だろ。俺みたいな人間の部下に中卒がいるっていうのは、正直経歴に傷がつくんだよ」
あまりにくだらない話で、返す言葉が出なかった。白石はそれを俺が怯えていると勘違いしたらしく、口元を歪めた。
「俺は大手にいた頃、中卒の社員なんて見たことなかった。世の中に本当にいるんだなと思ったよ。しかも営業トップだって。笑わせるよな」
「営業成績と学歴に何の関係があるんですか?」
「そういうところだよ。上司に口答えする。自分が評価されてると勘違いしてる」
白石は今度は吉岡さんを見た。
「あんたもだよ。派遣のくせに、いちいち俺の資料に口出ししてくるよな」
吉岡さんの表情が硬くなった。
「数値に誤りがあったので、確認をお願いしただけです」
「昨日だってそうだ。減価率が違うとか前年比の集計範囲が違うとか、細かいことを何度も言いやがって」
俺は思わず口を挟んだ。
「それ、吉岡さんが仕事してるだけですよ。数字が間違ったまま役員会に出たら困るのは部長でしょう」
白石は机を指で叩いた。
「上司にいちいち意見してくる女が俺は嫌いなんだよ。それに中卒の無能も嫌いだ。そんな連中が俺の周りにいること自体が不愉快なんだ」
吉岡さんが静かに言った。
「今の発言は、業務上必要な指導とは思えません」
その一言で白石の顔がさらに険しくなった。
「めんどくさいなあ。もういい。お前ら二人、今日でいらない」
「なんですって?」
俺と吉岡さんの声が重なった。白石は鞄から二枚の紙を出した。
「退職届。書くほうで用意してやった。神谷は名前を書け。吉岡も書け」
紙を見ると、退職理由の欄には「一身上の都合」とすでに記入されていた。
「部長、これは会社の解雇じゃないんですか?」
俺が聞くと、白石は笑った。
「お前が自分から辞めればいいだけだろう。面倒を増やすな」
さすがに呆れた。会社として正式な手続きもなく、部長個人が退職届を書かせようとしている。本来なら人事に確認すべき話だ。だが俺の中では、その瞬間に何かが切れた。五年間、何度理不尽なことを言われても取引先と仲間のためだと思って耐えてきた。だが人としての尊厳まで差し出して、この人間に頭を下げる理由はない。
俺は退職届を手に取った。
「わかりました。では今日で辞めます」
吉岡さんが驚いて俺を見た。
「神谷さん」
白石は勝ち誇った顔をした。
「そうそう。それでいいんだよ。やっと自分の立場が分かったか」
俺はペンを置いた。
「勘違いしないでください。あなたの言うことが正しいと思ったから辞めるんじゃありません。あなたの元で働く価値がないと判断しただけです」
白石の笑顔が消えた。
「なんだと?」
「自分を必要としてくれるところで働きます」
白石は鼻で笑い、もう一枚の紙を吉岡さんへ押し出した。
「ほら、あんたも書け」
吉岡さんは紙を見てから白石を見た。
「私は派遣社員です」
白石の手が止まった。
「ですから、白石部長に退職届を提出する雇用関係ではありません。契約終了の申し入れは派遣元へお願いします」
白石は一瞬黙った。俺は思わず言った。
「部長、それくらい確認してから呼び出したほうが良かったんじゃないですか?」
白石の顔が真っ赤になった。
「そんなことは分かってる。今すぐ派遣会社に連絡してやる」
そう言いながら会議室を出て行った。扉が閉まると、吉岡さんが小さく息を吐いた。
「本当に辞めるんですか?」
「はい。もういいかなって」
「私のせいで余計に話が大きくなったならすみません」
「逆です。巻き込んだのは僕のほうでしょう」
吉岡さんは首を振った。
「実は私、来月が契約更新なんです。仕事自体は嫌いじゃないんですけど、白石部長の元で続けるのは難しいと思って、派遣元に相談していたところでした」
少し安心した。すると吉岡さんは少し迷ってから言った。
「神谷さん、これからも連絡を取ってもいいですか?」
「もちろんです」
「神谷さんの営業の考え方、私はすごく好きなんです。数字だけじゃなくて生産者や売り場の人まで見てるでしょう。できれば今後も情報交換させてください」
俺たちは連絡先を交換した。
その夜、俺は堀内を駅前の居酒屋に呼び出した。事情を話すと、堀内は息をのんだ。
「あいつ、そこまでバカだったのか」
「まあ、ちょうどいいよ。俺も疲れてたし」
強がって言った。堀内は俺の顔をしばらく見ていた。
「で、辞めてどうするんだ?」
「まだ決めてない。営業ならどこかあるだろう」
「あるだろうけど、お前それでいいのか?」
「何が?」
堀内は腕を組んだ。
「お前はこの五年で農家だけでも何十件と関係を作った。加工場、パン屋、味噌蔵、飲食店、スーパーのバイヤー。会社の看板だけで繋がってる相手ばかりじゃないだろう」
「だからって、俺一人で何ができるんだよ」
堀内はしばらく考え、突然言った。
「独立しろよ」
俺は大声が出た。
「はあ?」
周りの客が振り向いた。堀内は続ける。
「地域の商品を集めて売る店をやれ。直売と卸しを両方やる。お前ならできる」
「簡単に言うなよ。店舗も資金も仕入れも必要だ」
「だから考えるんだろ」
そこへスマートフォンが震えた。吉岡さんからだった。少し話したいことがあるという。近くにいるなら来ませんかと返すと、二十分ほどで吉岡さんが現れた。初対面に近いのに、堀内が突然言った。
「吉岡さん、神谷に独立させようと思うんですけど、どう思います?」
俺は慌てた。
「勝手に決めるな」
吉岡さんは少し驚いた後、真剣な顔になった。
「私は賛成です。むしろ、それを相談したくて来ました」
吉岡さんは鞄からノートを取り出した。
「今日、派遣元に白石部長の発言を全部報告しました。担当営業がかなり怒っていて、会社側へ正式に抗議するそうです。私は更新せず、今月末で契約終了にします。次の派遣先はまだ決めません」
吉岡さんは俺を見た。
「神谷さんが独立するなら、手伝わせてください」
俺は言葉に詰まった。
「いや、成功する保証なんてないですよ」
「分かっています」
「収入だって安定しないかもしれない」
「それも分かっています」
「だったら……」
吉岡さんは静かに言った。
「私は半年間、神谷さんの仕事を横で見ていました。農家の人が困ったら自分で走って、売り先が困ったら夜でも連絡を返して、数字が悪ければ自分の提案を疑う。売れた時は自分の手柄より先に生産者に報告する。そういう人と仕事がしたいと思っていました」
俺は何も言えなかった。堀内が俺の背中を軽く叩いた。
「二人とも腹が決まってるのにお前だけ弱気になるなよ」
「お前はどうするんだ?」
「俺はまだ辞められない。でも外からできるだけ手伝う。市場情報も公開情報の範囲なら調べられるし。何よりお前の仕入れ感覚を俺は信用してる」
堀内は少し笑った。
「それに俺だって、いつまでも白石の下にいるつもりはない」
その夜から、俺たち三人の計画が始まった。
翌朝、吉岡さんから大量の資料が送られてきた。周辺スーパーの価格帯、観光客の動線、店舗の賃料相場、想定客単価、粗利率、初期費用、必要運転資金。俺は思わず電話した。
「これ、一晩で作ったんですか?」
「大枠だけです。細かいところはこれからです」
吉岡さんは淡々と言った。俺は笑ってしまった。
「吉岡さん、本当にすごいですね」
「神谷さんが感覚でやっていたことを、数字にしただけですよ」
計画の中心は小さなアンテナショップだった。一般客へ地元商品を直接販売する。その売れ行きそのものを実績として見せ、飲食店やスーパーのバイヤーへ卸し売りを提案する。店舗は売り場であり、商談場所であり、テストマーケティングの場でもある。
問題は場所だった。
「駅前は家賃が高いです」
吉岡さんが資料をめくった。
「遠すぎるとバイヤーが来にくい。観光客だけに依存するのも危険です」
堀内が言った。
「だったらあそこは」
三人同時に同じ場所を思い浮かべた。信州未来物産の道路向かい。何年も空いている元酒店。俺が毎日のように窓から見ていたあの古びた建物だ。
吉岡さんはすでに調べていた。
「家賃、かなり安いです。築年数が古いのと、内装を全部直さないと使えないのが理由ですね」
「そこが一番金かかるじゃないですか」
俺が言うと、吉岡さんは少し笑った。
「そこも手があります」
以前、吉岡さんは地元のリフォーム会社に派遣されていたことがあるらしい。担当者へ相談したところ、条件付きでかなり安く施工してくれるという。条件は、施工事例として店を広告に使わせること。古びた空き店舗を地域商品の店へ再生したという事例は、リフォーム会社にとっても宣伝になる。さらに木材は、取引のある地元の製材所が端材を安く提供してくれることになった。
俺は呆れるほど関心した。
「吉岡さん、営業向きなんじゃないですか?」
「神谷さんに言われると、褒められている気がします」
資金は俺の貯金だけでは足りなかった。そこで創業支援の窓口に相談し、事業計画を作り直した。自己資金、制度融資、小規模事業者向けの補助制度。何度も数字を修正した。吉岡さんは資金繰り表を作り、俺は仕入れ先を回った。
もちろん、会社に在籍中の取引先へ強引に契約変更を迫るようなことはしなかった。退職後、一軒ずつ挨拶に回った。
「会社を辞めました。これから自分で地域の商品を扱う仕事を始めます」
最初に訪ねたのは小松さんの農園だった。話を聞いた小松さんは驚いた後、大きく笑った。
「やっと自分でやる気になったか」
「何ですか?」
「前から思ってたよ。神谷君は会社の営業というより、この地域全体の営業みたいなことしてただろう」
俺は照れた。
「まだ店もできてません」
「できたら声をかけろ。うちの商品、置いてくれ」
その言葉だけで胸が熱くなった。次に味噌蔵、パン屋、ジャム工房、漬け物屋、リンゴ農家、そば屋。誰もがすぐに契約してくれたわけではない。
「新しい会社で本当に支払いは大丈夫か?」
そう聞かれることもあった。当然だ。だから俺は仕入れ条件も支払いサイトも無理のない範囲で全部説明した。吉岡さんが作った事業計画も見せた。信用は昔の関係だけで借りるものではない。新しい約束を一つずつ積み直す必要がある。
それでも多くの人が協力してくれた。
そして退職から一ヶ月ほどした頃、妙な話を耳にした。信州未来物産が取引先に対して一斉に仕入れ価格の引き下げを要求し始めたという。理由は利益率の改善。白石が主導しているらしい。パン屋の野沢さんは怒っていた。
「光熱費も電気代も上がってるのに、いきなり一割下げろだぞ。君がいた時は一緒に売り方考えてくれたのに、今度は値段下げろの一言だけだ」
「契約はどうするんですか?」
「更新しない。ちょうどお前が店やるって言うからな。そっちで扱ってくれ」
農家でも同じことが起きていた。白石は俺がいなくなれば取引先は会社に従うと思っていたらしい。だが逆だった。俺が抜けた後、会社と取引先の間にあった信頼の糸が、思った以上に細くなっていた。
俺はそこで初めて気づいた。俺が守っていたのは自分の売上ではなかった。会社と地域の間の信頼だったのだ。
準備開始から三ヶ月。店は生まれ変わった。古い木の柱を残し、内装には県産材を使った。入り口には季節の野菜と果物。中央にはパンと菓子。奥には味噌、漬け物、乾麺、ジャム。二階の一部は小さな商談スペースにした。
店の名前は「信州つなぐ商店」。作り手と買い手をつなぐ。俺たちがやりたいことをそのまま名前にした。
オープン前日。三人で店内を見回した。吉岡さんが言った。
「最初に見た時、本当に床が抜けるかと思いました」
「俺もです」
堀内からメッセージが届いた。「明日行く」。それだけだった。俺はてっきり客として来るのだと思っていた。
ところがオープン当日の朝七時。店の裏口から堀内が大きなダンボールを抱えて入ってきた。
「おはよう」
「何してるんだよ」
「手伝いに来た」
「会社は?」
堀内は一枚の紙を俺の前に出した。退職届の控えだった。
「昨日が最終出社。残ってた有給も全部使った。今日から無職」
「聞いてないぞ」
「言ったら止めるだろう」
「当たり前だ」
堀内は笑った。
「俺もずっと独立したかったんだよ。商品しかやってこなかったから、一人じゃ踏み切れなかった。でもお前と吉岡さんが本気でやってるのを見て決めた」
吉岡さんがエプロンを一枚投げた。
「では堀内さん、今日から品出し担当です」
「役職低くないですか?」
「初日ですから」
三人で笑った。
午前十時、店を開けた。事前に地元のフリーペーパーとSNSで告知していた。農家や取引先も自分の客へ紹介してくれた。開店前から二十人ほどが並んでいた。十時半には店内がいっぱいになった。
小松さんのトマト、野沢さんのパン、木曽の味噌ナッツ、安曇野のリンゴバターサンド。俺が以前の会社で提案し、白石に売れないと笑われた商品もいくつか並んでいた。どれもよく動いた。
昼前に店の前がざわついた。道路の向かいにある信州未来物産の社員たちが窓からこちらを見ていた。そして正午前、白石が一人で道路を渡ってきた。腕を組み、店の前でしばらく立っている。俺と目が合った。白石はゆっくり店内へ入ってきた。
「おい、何やってるんだ?」
声は抑えていたが、近くの客が振り向いた。俺は接客用の笑顔で頭を下げた。
「いらっしゃいませ」
「ふざけるな。この店は何だ」
「地域の商品を集めた直売と卸しの店です」
白石は棚を見回した。
「あれ? これ、うちで扱ってた商品じゃないか」
「今は契約が終了したメーカーさんの商品ですよ。正式に新しく契約しています」
白石の顔が引きつった。俺は少しだけ笑った。
「ご挨拶が遅れてすみません。向かいの会社でお世話になっていた神谷です。白石部長に散々中卒と馬鹿にされた僕ですが、こうして店を持つことができました」
周囲が静かになった。近くにいた年配の女性二人が小声で話した。
「あの会社の元上司なの?」
「わざわざ隣に来たのかしら」
白石が焦ったように周囲を見た。そこへ堀内がダンボールを抱えて現れた。
「白石部長じゃないですか?」
白石の目が見開かれた。
「堀内、お前までなぜここにいる?」
「辞めましたから」
「何だって?」
「商品担当の堀内です。もう元部下ですけど」
堀内は商品を補充しながら言った。
「トップの営業を追い出して、その後仕入れ先に値下げ要求までして、何がしたかったんですか?」
白石が声を荒げた。
「会社の利益改善だ。お前らみたいな現場しか知らない人間には分からない」
俺は静かに言った。
「利益改善は必要です。でも相手が続けられない価格まで一方的に下げたら、仕入れ先そのものがなくなります」
「うるさい。お前に経営が分かるか?」
するとレジに並んでいた女性客が白石を見た。
「向かいの会社って、最近この辺のスーパーに卸してる野菜の値段が上がったところかしら」
別の女性が答えた。
「そうそう。前より高いのに種類は減ったわよね」
白石が苛立ったように言った。
「気に入らないなら買わなきゃいいだろう」
店内の空気が凍った。俺はすぐ一歩前に出た。
「白石部長、お客様に向かってその言い方はやめてください」
「被害者のお前が俺に指図するな」
「ここは僕たちの店です。被害者はあなたです」
白石が黙った。奥から吉岡さんが出てきた。
「白石さん、店内で大声を出し続けるなら営業妨害として対応します。防犯カメラにも記録されています」
白石は吉岡さんを見て顔をしかめた。
「お前までここにいるのか?」
「はい。今はこの店の運営責任者です」
吉岡さんは淡々と言った。
「ちなみに以前のように数字を間違えても、今は私が直して差し上げる立場ではありませんので」
近くで小さな笑いが起きた。白石の顔が赤くなった。俺は入り口を示した。
「今日はお引き取りください」
白石は俺を睨んだ。
「こんな小さな店、半年も持たない。せいぜい今だけ楽しんでろ」
「それは数字で判断してください。白石部長。数字がお好きでしょう」
吉岡さんが静かに返した。白石は何も言わず店を出て、道路を渡っていった。その背中を見ても、俺は不思議と勝った気にはならなかった。ただ、もうこの人に怯える必要はない。それだけで十分だった。
店の初日は予想を大きく上回った。三日で一部商品が完売した。だが俺たちは浮かれなかった。吉岡さんは毎日の販売データをまとめた。時間帯別、客層別、商品別、リピート率、セットで売れやすい組み合わせ。堀内は売り場を調整し、俺は生産者と販売先を回った。
二週間後、近隣のレストランから業務用仕入れの相談が来た。一ヶ月後には県内スーパー二社のバイヤーが店を訪れた。
「ここで動いている商品を、うちでもテストしてみたい」
俺たちの狙い通りだった。店そのものが商品見本になった。
一方、向かいの会社では問題が続いていた。元同僚の営業が昼食を買いに来た。
「神谷、こっちかなりやばいぞ」
「何があった?」
「お前の担当だった取引先、更新しないところが増えてるんだ。白石部長は全部価格で抑え込もうとして、余計こじらせてる。会社の売上は先月、営業部全体で前年同月比二十三パーセント減。大手のスーパーも仕入れ先を分散させるって話だ」
俺は驚いた。そこまで早く影響が出るとは思っていなかった。だが理由を聞けば当然だった。白石は俺が辞めた後、営業担当を入れ替えれば取引は続くと思っていた。しかし新しい担当は農家の収穫時期も加工所の生産限界もバイヤーごとの好みも知らない。引き継ぎ資料に書けることには限界がある。しかも白石は利益率を上げるため仕入れ価格を下げろと指示した。取引先は次々に距離を置いた。
さらに悪いことに、吉岡さんの派遣元から正式な抗議が入り、人事が白石の言動を調査し始めたらしい。会議室での発言については、吉岡さんが当日のメモと業務チャットの記録を残していた。俺も人事へ事実確認を求められ、聞かれたことだけを正確に答えた。
俺たちは白石を潰そうとはしなかった。そんな時間があるなら、店をよくするほうが大事だった。それでも事実は積み重なっていった。
二ヶ月後、堀内が向かいのビルを見ながら言った。
「人、減ったなあ」
確かに以前より窓の明かりが少ない。知っている社員が店へ来るたび、退職の話を聞いた。
「白石部長の責任逃れがひどい。売上が落ちたのを全部現場のせいにしてる。企画の人間まで営業に回されてる」
吉岡さんはタブレットを見ながら言った。
「公開されている求人情報を見る限り、営業と仕入れの募集が増えています。人員補充が追いついていない可能性がありますね」
堀内が笑った。
「相変わらず冷静だな」
「数字は感情で変わりませんから」
三ヶ月目、信州つなぐ商店は黒字になった。大きな利益ではない。それでも家賃、人件費、仕入れ、返済を払った後、少し残るところまで来た。俺はその数字を見た時、初めて肩の力が抜けた。成功が約束されたわけではない。来年どうなるかも分からない。でも少なくとも俺たちは、自分たちの足で立っていた。
その頃、信州未来物産では役員会が開かれ、白石が営業部長から外されたと元同僚から聞いた。理由は一つではない。売上低下、主要取引先の離脱、部下への不適切な発言、派遣会社からの正式な抗議。そして提出資料の数値ミスを部下に責任転嫁していた件まで見つかったらしい。白石は降格され、別部署へ移動した。
会社そのものはすぐに倒産したわけではない。新しい営業責任者が入り、取引先との関係修復を始めたと聞いた。俺はそれでいいと思った。会社には白石以外にも真面目に働く人がいる。潰れてほしいわけではない。ただ、人を数字や肩書きだけで見ていたやり方が間違っていたと、会社が気づくきっかけになれば十分だった。
ある日の午後、小松さんが店に新しいリンゴを持ってきた。
「今年の出来、いいぞ」
「本当ですか?」
「去年より甘い。ちょっと傷があるやつも出るけどな」
俺は笑った。
「傷があるなら、また売り方を考えましょう」
小松さんも笑った。
「やっぱり神谷君はそう言うと思った」
そこへ吉岡さんが新しい販売データを持ってきた。
「規格外リンゴを使った焼き菓子セット。去年のドライフルーツ購入者と相性が良さそうです」
堀内が奥から顔を出す。
「じゃあ、菓子工房に試作品頼むか」
話はすぐ動き始める。俺はふと道路の向かいを見た。あの会社へ毎朝通った五年間。理不尽なこともあった。学歴を笑われた。何度も腹が立った。それでもあそこで覚えた仕事も、出会った人も、失敗も、全部今に繋がっている。
高校を辞めたことを、俺は長い間引け目に感じていた。履歴書を書くたびに胸が重くなった。自分には何かが足りないと思っていた。
でも今は違う。学歴がいらないとは思わない。学ぶことは大切だ。俺だって、できるなら高校で学び続けたかった。ただ、学歴だけで人間の価値や可能性まで決めることはできない。現場で覚えたこと、誰かのために動いた時間、失敗から学んだこと、信頼を積み重ねた日々。それも全部、その人が身につけてきた力だ。
「神谷さん、次の農家さんとの打ち合わせ、三時ですよ」
吉岡さんの声で我に返った。
「わかりました。行ってきます」
堀内が箱を持ち上げながら言った。
「戻りにコーヒー頼む」
「自分で買え」
「社長なのに冷たいな」
「誰が社長だよ」
三人で笑った。
店を出ると、秋の風が気持ちよかった。俺は車に乗る前にもう一度だけ店を振り返った。三ヶ月前まで、あそこは誰も使わない古びた空き店舗だった。今は人が集まり、商品が動き、新しい話が生まれている。
人も同じなのかもしれない。誰かに価値がないと決めつけられても、それで本当に価値がなくなるわけじゃない。場所が変われば力を発揮できることもある。信じてくれる人に出会えば、もう一度立ち上がれることもある。
俺はエンジンをかけた。今日も新しい農家に会いに行く。この地域で作る人と、必要としている人をつなぐために。やっぱり俺はこの仕事が好きだ。肩書きや学歴はその人の一部を表すことはあっても、その人の全てを決めるものではない。大切なのは、目の前の仕事にどう向き合い、誰とどんな信頼を積み重ねてきたかではないだろうか。
