「中卒の詐欺師は出ていけ。こんな契約は無効だ」
アイザー部長は吐き捨てるように言うと、俺の目の前で二十四億円の契約書を真っ二つに破いた。さらにもう一度破いて、床に投げ捨てた。
「こんな小さな会社に二十四億も払うなんてどうかしてる。中卒相手に騙される製造部も製造部だな」
俺は足元に落ちた契約書を見下ろした。怒りで手が震えそうになったが、拳を握りしめてこらえた。
俺たちは三ヶ月かけて八台の検査装置を完成させていた。相手企業の役員会でも承認済みだった。それを、営業部長として入社したばかりの男が、事情も知らずに破り捨てたのだ。
俺は静かに言った。
「わかりました。それではこの契約はなかったことにします」
アイザー部長は勝ち誇ったように笑った。
「最初からそうすればいいんだよ」
だが彼は知らなかった。その八台がなければ、彼の会社が抱える巨大な生産ラインが数週間以内に止まる可能性があることを。そして、俺がその日のうちに八台全てを彼らの最大の競合企業へ譲ることになるとは。
翌朝、俺のスマートフォンには百件を超える着信が残されていた。電話に出た瞬間、昨日とは別人のようなアイザー部長の声が響いた。
「黒田さん。頼む。昨日の契約を元に戻してくれ」
人生は不思議なものだ。肩書きや学歴だけで人を判断していると、本当に必要な人間が目の前に現れても、その価値に気づけないことがある。
俺の名前は黒田直樹。四十二歳。愛知県にある検査技研という産業用検査装置メーカーで営業課長をしている。社員数は三百人ほど。大企業とは呼べないが、電池や電子部品向けの特殊検査設備ではそれなりに名前を知られている会社だ。
俺は中卒だ。高校には行っていない。正確には、行かなかったのではなく行けなかった。
俺が中学三年生の時、母が倒れた。父親は俺が小学生の頃に家を出ていて、それ以来母が一人で俺を育ててくれていた。昼は弁当工場、夜はスーパーの品出し。そんな生活を何年も続けたせいで体を壊したのだ。
進路面談の時、担任からは高校進学を進められた。成績も悪くはなかった。だが家には高校の制服を買う余裕すらなかった。
俺は中学を卒業するとすぐに働き始めた。最初は倉庫、次は金属加工工場。十九歳の時、今の会社に拾ってもらった。当時の工場長が機械を触る俺を見て言った。
「黒田、お前は覚えるのが早い。学校を出ていなくても現場で覚えればいい」
その言葉に救われた。それから必死に働いた。図面の読み方、電気回路、センサー、制御盤、検査精度、品質保証。客先で設備が止まれば夜中でも駆けつけた。十五年前には技術サービス部に移動し、全国の工場を回った。その後、現場の知識を持っている人間が営業に必要だということで営業部へ移った。今では営業課長という肩書きをもらっているが、俺自身は偉くなったとは思っていない。現場で困っている人間がいる。その問題をどうすれば解決できるか。俺の仕事は今でもそれだけだと思っている。
そんな俺が十年以上付き合っている取引先の一つが東映バッテリー株式会社だった。自動車向けの大型蓄電池を製造している大手企業だ。
その日、東映バッテリー製造本部長の藤川部長が俺の会社を訪れた。
「こんにちは。黒田課長」
「藤川部長。わざわざこちらまでありがとうございます」
「少し話がありましてね」
応接室に案内し、コーヒーを出した。藤川部長とは十年近い付き合いになる。五十代半ばの現場上がりの人で、役職が上がってからも工場を歩き回っているような人だった。大企業の部長だからといって偉そうにしたことは一度もない。
「ご依頼いただいている電池セル検査装置の件ですか」
「いや、今日は別です。装置は予定通りでお願いします」
東映バッテリーから依頼されていたのは、次世代車載電池向けの非破壊検査装置だった。電池内部の微細な異物や溶接不良を高精度で検出する装置だ。完成すれば八台。総額二十四億円。一般の人が聞けば驚く金額だと思う。だが大型製造設備の世界では珍しい数字ではない。特に今回の装置は高速処理と高精度検査を同時に行う特型で、世界でも同等品を安定して製造できるメーカーは数社しかなかった。
藤川部長がコーヒーカップを置いた。
「実はうちの営業本部に、外部から新しい部長が来ましてね」
「営業部長ですか」
「ええ、相沢光一さんという方です。以前は大手商社にいたそうです」
俺の手が止まった。
相沢光一。名前だけなら同姓同名かもしれない。しかし、藤川部長が口にした会社を聞いた瞬間、嫌な記憶が蘇った。
「以前は常南物産に」
「そうです。ご存知ですか」
俺は一瞬迷った。
「いえ、昔同じ名前の方に会った気がしただけです」
「なるほど。今回かなり期待されているようですよ。海外で実績を上げていたらしくて」
「そうなんですね」
俺は笑顔を作った。だが心の中では、五年前の出来事を思い出していた。
当時、俺はまだ営業課長ではなかった。新規顧客を増やすため、常南物産へ産業用測定装置を提案しに行った。担当者として出てきたのが相沢光一だった。四十代前半だったと思う。高級そうなスーツ、磨かれた靴。腕には一目で高級品と分かる時計をしていた。
説明の最初は普通だった。俺が製品の特徴、導入効果、価格、保証体制について説明すると、相沢さんは資料を眺めながら聞いていた。ところが説明を終えたところで、彼は突然聞いた。
「黒田さんって、大学はどちらですか」
「大学ですか」
「ええ、こういう設備を売ってる人なら理系ですよね。東大、名古屋大」
「いえ、俺は大学には行っていません」
相沢さんの眉が動いた。
「じゃあ高卒」
俺は正直に答えた。
「中卒です」
数秒間、沈黙が続いた。そして相沢さんは小さく鼻で笑った。
「中卒」
「はい」
「今時珍しいですね」
その言い方だけで、彼が何を考えているのか分かった。それでも俺は仕事なので、営業用の笑顔を崩さなかった。
「家庭の事情がありまして。ただ、設備について必要な知識は現場で身につけています」
「いやいや、そういう問題じゃないでしょう」
相沢さんは椅子の背にもたれた。
「中卒の人間が何億もする設備を説明してるんですか」
「設備の設計や仕様についても説明できます」
「本当に理解してるの」
「もちろんです」
「怪しいな」
相沢さんは資料を指で叩いた。
「この価格、本当に適正なんですか」
「はい。構成部品、精度保証を含めれば妥当です」
「中卒の人がそう言っても、説得力がないんですよ」
俺は耳を疑った。相沢さんはさらに続けた。
「自分が何を売っているか理解してないんじゃないですか。言われた資料を読んでるだけでしょう」
「違います」
「じゃあ値段の根拠を説明してみてくださいよ」
俺は説明した。センサーの仕様、検出精度、構成方法、耐久試験、導入後の保守費用。相沢さんが途中で質問してきた内容にも全て答えた。それでも彼の態度は変わらなかった。
「知識を暗記しただけでしょう」
「そう思われるのであれば仕方ありません」
「中卒の営業から何億の商品を買えって言われてもね。俺からすると詐欺みたいなものですよ」
「詐欺ではありません」
「でも普通は疑いますよ。中卒でしょ」
ここまで言われ、俺もさすがに腹が立った。だが反論したところで話がまとまる相手ではない。俺は資料を片付けた。
「ご興味がないようでしたら、本日は失礼します」
「ああ、そうしてくれ。無駄な時間だった」
それが相沢さんとの最初の出会いだった。五年経っても忘れられない。中卒を馬鹿にされたことだけが理由ではない。俺はこれまで何度も学歴について嫌なことを言われてきた。だから多少のことなら慣れている。だが相沢さんは、俺が何を説明しても聞こうとしなかった。最初から人間として下に見て、そこから結論を変えるつもりがなかった。それが強く記憶に残っていた。
藤川部長を見送った後、俺は窓の外を眺めた。
まさか本当にあの相沢さんじゃないだろうな。
同姓同名。同じ職種。年齢も合う。別人だと考える方が不自然だった。もし顔を合わせることがあっても、仕事は仕事だ。そう自分に言い聞かせた。
それから約二ヶ月後、東映バッテリーから依頼されていた八台の検査装置が完成した。藤川部長には工場まで来てもらい、実機確認も済ませた。検査速度、精度、連続運転、全て問題なし。残るのは正式契約だけだった。
俺は契約書を持って東映バッテリー本社へ向かった。
「黒田課長をお待ちしていました」
藤川部長が笑顔で迎えてくれた。
「今日はよろしくお願いします」
会議室に入り、契約内容を確認する。
「八台で総額二十四億円。納入は来月から順次ですね」
「はい。最初の二台は三週間以内、その後二台ずつ納入する計画です」
「助かります」
藤川部長は大きく息を吐いた。
「この案件は役員会でも最優先で承認されています。製造部も検査技研さんの技術をかなり評価していますよ」
「ありがたい話です」
「正直に言うと、この装置が入ればかなり安心できます」
「そこまで言われると責任重大ですね」
「だからお願いしますよ」
契約書へ判を押す直前だった。突然、会議室の扉が開いた。
「おい、何やってる」
三人の男性社員が入ってきた。先頭にいた男を見た瞬間、俺はすぐに分かった。
相沢光一。五年前の男だった。少し髪が薄くなっていたが、見間違えるはずがない。相沢さんは俺の顔を見ても何の反応も示さなかった。どうやら向こうは覚えていないらしい。
「この会議室は俺が押さえてたはずだけど」
藤川部長が時計を確認した。
「相沢部長、こちらは十六時まで私の名前で予約されています」
「そんなはずないだろう」
予約表を確認された相沢さんは、露骨に不機嫌そうな顔をした。そして藤川部長をじろじろ見る。
「あんた、誰だっけ」
俺は驚いた。同じ会社の部長同士だ。着任して二ヶ月とはいえ、製造部門トップの顔くらい把握していて当然だと思う。
「製造本部の藤川です」
「ああ、工場の人か」
相沢さんは笑った。
「悪いね。現場の人間の顔までいちいち覚えてなくて」
藤川部長の表情が一瞬固まった。だがすぐに穏やかな声で返した。
「そうですか。では今日覚えていただければ幸いです」
相沢さんの顔が曇った。反論されるとは思っていなかったらしい。
「なんだその言い方」
「普通に自己紹介をしただけですが」
「まあいい」
相沢さんは部下を振り返った。
「別の部屋を探せ」
そのまま出ていくのかと思った。しかし相沢さんの視線が、俺の手元に止まった。
「それ何」
机の上には契約書が置いてあった。
「設備購入の契約書です」
藤川部長が答えた。
「いくら」
「営業部門には関係のない設備投資です」
「いくらって聞いてるんだよ」
相沢さんは勝手に契約書を手に取った。藤川部長が眉をひそめた。
「相沢部長、まだ社外秘の内容も含まれています」
「同じ会社だろう」
相沢さんはページをめくる。そして金額欄で手を止めた。
「二十四億」
声が一段高くなった。
「なんだこれ」
「電池セル検査装置です。八台で二十四億円です」
「そうです」
相沢さんは俺を見た。じっと顔を見つめる。その目が少しずつ細くなった。
「お前、どこかで見たな」
俺は何も言わなかった。相沢さんは数秒考え、突然指を鳴らした。
「ああ、思い出した」
嫌な笑顔が浮かんだ。
「中卒の営業だ」
藤川部長が俺を見た。俺は小さく息を吐いた。相沢さんは楽しそうに続けた。
「五年くらい前に常南物産へ来たよな」
「お会いしましたね」
「まだ営業やってたのか」
「はい」
「しかも二十四億」
相沢さんは契約書を持ち上げた。
「これ、詐欺じゃないの」
「違います」
「こんな聞いたこともない会社に二十四億払うの」
俺は静かに返した。
「検査技研はこの分野で四十年以上設備を製造しています」
「知らないね」
「あなたが知らないことと、会社の技術は関係ありません」
相沢さんの顔色が変わった。五年前なら黙っていた。だが今回は藤川部長まで馬鹿にされている。そして何より、すでに役員会で承認された正式な案件だ。俺も言うべきことは言うつもりだった。
「それに金額についても適正です。藤川部長には仕様と原価構成をご確認いただいています」
「中卒が適正って言ってもね」
「学歴と設備価格に何の関係がありますか」
相沢さんの笑顔が消えた。
「口応えするようになったな」
藤川部長が割って入った。
「相沢部長。この案件は専務を含む役員会で承認されています。営業部長が介入する案件ではありません」
「現場は黙ってろ」
相沢さんは吐き捨てた。
「製造の人間は機械だけ見てればいいんだよ。金の話に口を出すから騙される」
藤川部長の顔が険しくなった。
「あなたこそ内容を何も知らないでしょう」
「内容なんか見れば分かる」
相沢さんは契約書を振った。
「八台で二十四億なんて異常だ」
「なぜ異常だと判断できるのですか」
「常識だ」
「この設備の仕様をご存知ですか」
「そんなもの知らなくても分かる」
「検査速度は」
「知らん」
「検出可能な異物サイズは」
「だから、細かい話はどうでもいい」
「画像解析方式は」
「しつこいな」
藤川部長は深く息を吐いた。
「何も知らないではありませんか」
その言葉が決定打だった。相沢さんの顔が真っ赤になる。
「俺を馬鹿にしてるのか」
「事実を確認しているだけです」
「いい加減にしろ」
相沢さんは突然、契約書の中央を両手で掴んだ。俺は嫌な予感がした。
「部長、それを返してください」
「中卒の詐欺師は出ていけ」
次の瞬間だった。ビリという乾いた音が会議室に響いた。契約書が二つに裂けた。
「相沢部長」
藤川部長が立ち上がる。相沢さんはさらに紙を破った。そして床へ捨てた。
「こんな契約は無効だ。部長命令だ」
俺は言葉を失った。藤川部長も床を見つめている。相沢さんだけが満足そうだった。
「これで終わり。分かったら帰る」
藤川部長が声を荒げた。
「あなたに契約を破棄する権限はありません」
「うるさい。これは役員会案件だ」
「だからなんだ。俺は営業本部長だぞ」
「製造設備の購入決済とは関係ありません」
「現場の人間が俺に指図するな」
相沢さんは俺の肩を軽く押した。その瞬間、腹の奥で何かが切れた。怒鳴ろうと思えば怒鳴れた。胸ぐらを掴みたい気持ちもあった。だが、それをすれば相手と同じになる。
俺は床に落ちた紙を拾わなかった。
「分かりました」
相沢さんが笑う。
「何が」
「この契約はなかったことにします」
藤川部長が振り返った。
「黒田課長、待ってください」
「申し訳ありません。藤川部長、私から役員に説明します。契約書も作り直しますから」
俺は首を横に振った。
「契約書だけの問題ではありません」
藤川部長が黙った。俺は相沢さんを見る。
「取引先としてここまでのことをされた以上、予定通り八台を納入することはできません」
「最初からいらないって言ってるだろう」
「承知しました」
俺は鞄を持った。
「八台は別の会社へ譲ります」
「勝手にしろ」
相沢さんは鼻で笑った。
「そうですね。ちょうど以前から欲しいと言ってくださっている会社があります」
「どこ」
「北森エナジーです」
藤川部長の顔が変わった。北森エナジーは東映バッテリー最大の競合企業だ。相沢さんは知らないのか、平然としていた。
「好きにすればいい」
「では失礼します」
「黒田課長」
藤川部長が追いかけようとした。俺は頭を下げた。
「藤川部長には長い間本当にお世話になっています。今回の件で部長を責める気持ちは一切ありません。でも会社に戻ってから、改めてご連絡します」
そう言って俺は会議室を出た。駐車場につき、車へ乗った。怒りはまだ収まっていなかった。俺はエンジンをかける前に、一人の人物へ電話した。北森エナジー設備企画部の長谷川さんだ。以前展示会で何度も話をしていた。
「黒田さんのところの高速検査機、本当に空きが出たら教えてください」
そう言われていた。電話するとすぐに繋がった。
「検査技研の黒田です」
「黒田さん、どうしました」
「以前お話ししていた検査装置ですが、完成品が八台あります」
「八台」
「急な事情で納入先がなくなりました」
電話の向こうが静かになった。
「本当にうちで買えるんですか」
「条件があえば、全部欲しいです」
即答だった。俺の方が驚いた。
「八台全てですか」
「はい。以前からずっと導入を検討していました。今日にでも役員へ上げます」
「わかりました」
その日の夕方には、北森エナジーから購入を示す正式な連絡が届いた。
翌朝、俺は出社すると部下のトラブル対応に追われた。別の納入先でセンサー異常が出たらしく、技術部との調整や代機の手配で午前中が潰れた。昼前になってようやく自分のスマートフォンを確認した。俺は目を疑った。
着信九十八件。留守番電話十七件。メッセージ二十件以上。ほとんどが東映バッテリーからだった。
なんだこれ。画面を見ていると、また電話が鳴った。東映バッテリー。俺は少し迷ってから出た。
「はい、黒田です」
「なんで出ないんだ」
耳が痛くなるほど大きな声だった。俺はスマートフォンを少し話した。
「相沢部長ですか」
「そうだよ」
「何のご用でしょうか」
「昨日の契約書、コピーあるだろう」
「あります」
「すぐ持ってこい。改めて契約する」
俺は一瞬聞き間違えたかと思った。
「昨日、契約を無効にするとおっしゃいましたよね」
「撤回する」
「随分急ですね」
「いいから持ってこい」
五年経っても何も変わっていない。謝罪より命令が先だった。俺は落ち着いて聞いた。
「何があったんですか」
電話の向こうで沈黙があった。
「別に」
「事情が分からなければ対応できません」
「めんどくさいやつだな」
「それでは失礼します」
「待て」
相沢さんの声が弱くなった。
「話すから切るな」
俺は黙って待った。
「昨日、藤川が役員に報告したらしい」
「そうでしょうね」
「あいつ、余計なことしやがって」
「余計ではないと思いますが」
「今朝出社したら、専務に呼び出された」
相沢さんの声に焦りが滲んでいた。
「どうして勝手に契約を破棄したんだって怒鳴られた」
「役員会で承認された案件ですからね」
「俺は知らなかったんだよ」
「何をですか」
「今使ってる検査ラインに問題が出てることだ」
やはりそうだったのか。実は俺も詳しい事情までは聞いていなかった。ただ藤川部長が異常なほど納期を急いでいたため、何かあるとは思っていた。相沢さんは続けた。
「最近、電池セルの不良率が急に上がってるらしい」
「検査機の精度低下ですか」
「そうだ。既存設備の画像センサーが劣化し、微細な異物を見逃すケースが増えているという。すでに複数の生産ラインで品質保証値を超える兆候が出ていた。この状態が続けば一部製品の出荷停止。最悪の場合、大手自動車メーカーとの供給契約にも影響する」
だから東映バッテリーは急いで新しい設備を必要としていた。
「そんな重要な話、俺は聞いてなかったんだ」
「それは当然ではありませんか」
「なんだと」
「設備投資の情報は営業部全体に知らせる内容ではありません。競合他社へ漏れれば信用問題になります」
「でも俺は部長だぞ」
「営業部長ですよね。製造部の機密情報を何でも知る立場ではないと思います」
「とにかく今はそんな話をしてる場合じゃない」
声がさらに焦っている。
「昨日の八台が必要なんだ」
「そうですか」
「だから持ってこい。昨日のことは水に流してやる」
俺は思わず笑いそうになった。水に流してやる。被害を受けた側に向かって言う言葉ではない。
「お断りします」
「は」
「契約はできません」
「なんでだよ」
「理由は昨日ご自身で作ったでしょう」
「俺は撤回するって言ってるだろう」
「契約書を破ったことも撤回できるんですか」
「新しく作ればいい」
「取引先を詐欺師と呼んだことは」
「それは言葉のあやだ」
「俺の会社を信用できない会社だと言ったことは」
「だから今はそんなことどうでもいいだろう」
「俺にとってはどうでもよくありません」
相沢さんの呼吸が荒くなった。
「黒田。頼むから意地を張るな」
「意地ではありません」
「じゃあ何なんだよ」
「八台はもう売却先が決まりました」
電話の向こうが静かになった。
「何」
「昨日申し上げましたよね。別の会社へ譲ると」
「まさか」
「北森エナジーです」
「嘘だろ」
「本当です。昨日の今日だぞ」
「以前から導入を希望されていましたので」
相沢さんが息を飲む音がした。
「全部か」
「八台全てです」
「取り消せ」
「できません」
「まだ契約書は交わしてないんだろ」
「正式締結はこれからですが、購入意思確認書をいただいています」
「なら断れるだろう」
「なぜ断る必要があるんですか。うちが先だった。その契約を破棄したのは相沢部長です」
「東映バッテリーには今まで世話になっただろう」
「藤川部長を始め、多くの方にはお世話になっています」
「なら恩を返せよ」
「その恩に、昨日のあなたの行動は含まれていません」
相沢さんは何も言えなかった。俺は続けた。
「相沢部長、俺は学歴がありません」
「今それ関係ないだろう」
「五年前は、俺が中卒だという理由だけで製品説明をまともに聞きませんでした」
「昔の話を持ち出すなよ」
「昨日も同じでした。だから設備の仕様も知らず、価格の根拠も知らず、製造部が置かれている状況も知らずに、俺が中卒だから詐欺だと決めつけた。その結果が今です」
電話の向こうで相沢さんが何か言おうとしていた。俺はさえぎった。
「要件がそれだけなら失礼します。仕事がありますので」
「待て。黒田」
俺は電話を切った。
一時間ほど経った頃だった。受付から内線が入った。
「黒田課長、東映バッテリーの方が三名いらしています」
会議室へ行くと、藤川部長が立っていた。その隣には専務。そして二人の少し後ろに相沢さんがいた。昨日とは別人のようだった。顔色は白く、額には汗。視線が落ち着かない。
専務が俺を見るなり、深く頭を下げた。
「黒田さん。この度は弊社の社員が大変な失礼をいたしました。本当に申し訳ありません」
俺も頭を下げた。
「専務、頭をあげてください」
藤川部長も頭を下げた。
「黒田課長、私がその場で止められず申し訳ありませんでした」
「藤川部長は悪くありません。むしろ昨日一番被害を受けたのは藤川部長だと思っています。何年も一緒に仕事をしてきました。部長を信用しています」
藤川部長の表情が少しだけ緩んだ。専務が相沢さんを見る。
「何をしている。謝罪しろ」
相沢さんが俺の前に立った。
「昨日は申し訳ありませんでした」
頭を下げるが、声が小さい。専務が低い声で言った。
「これだけか」
相沢さんの肩が震えた。
「黒田さんを学歴で判断し、会社と製品を侮辱し、権限もないのに契約書を破りました。本当に申し訳ありませんでした」
俺はしばらく相沢さんを見た。
「一つだけお願いします」
「何でしょうか」
「これからは人を学歴だけで判断しないでください」
相沢さんは唇を噛んだ。
「はい」
「大学を出ていても仕事ができない人はいます。中学しか出ていなくても、現場で何十年も技術を磨いている人もいます」
「はい」
「藤川部長を現場の人間と呼んで見下したことも同じです。工場で働く人がいなければ、営業が売る商品も存在しません」
「おっしゃる通りです」
専務が深く頷いた。
「黒田さん、今回の件についてこちらから弁解できることは何もありません。ただ、大変厚かましいお願いだとは承知しています」
何を言われるかは分かっていた。
「検査装置をなんとか弊社へ納入していただくことはできないでしょうか」
俺は少し考えた。
「完成した八台は北森エナジーさんへ譲る予定です」
「承知しています」
「先方にも事情があります。こちらの都合で全部返してくださいとは言えません」
「もちろんです」
藤川部長が苦しそうな顔をしている。俺はその顔を見て決めた。相沢さんのために何かするつもりはない。だが、藤川部長には長年世話になってきた。現場の社員たちにも罪はない。
「一つ方法があります」
三人が俺を見る。
「北森エナジーさんに事情を説明して、一台だけ納入時期を遅らせてもらえないか相談します」
藤川部長が身を乗り出した。
「可能なんですか」
「分かりません。ただ担当者とは長い付き合いなので、話だけはしてみます」
俺はその場で長谷川さんへ電話した。事情を全て正直に話した。もちろん相沢さんの侮辱など細かい部分までは言わない。取引先の設備トラブルが深刻で、一台だけ先に譲って欲しいという依頼が来ていると説明した。しばらく相談した末、長谷川さんは言った。
「黒田さんには以前から世話になっています。一台だけならいいですよ」
「本当ですか」
「ただし残り七台は約束通りでお願いします」
「もちろんです。ありがとうございます」
電話を切る。
「一台なら確保できます」
藤川部長が大きく息を吐いた。
「ありがとうございます」
専務も頭を下げた。
「本当に助かります」
俺は藤川部長へ聞いた。
「一台で対応できますか」
「フル稼働をさせれば、緊急分だけなら」
「どのくらい持ちますか」
「長期間は無理です。最低でもあと四台、できれば五台は必要です」
専務が俺を見る。
「黒田さん、新たに製造をお願いした場合、最短でどのくらいかかりますか」
「通常なら四ヶ月以上です」
「そこをなんとか短縮できませんか」
「簡単ではありません」
「費用は通常価格の二倍まで出します」
相沢さんが驚いた顔で専務を見る。
「二倍」
専務が睨む。
「お前が口を出す話ではない」
相沢さんは黙った。俺は頭の中で生産計画を組み立てた。夜間対応、協力工場、部品の先行手配、設計変更。かなり厳しい。ただ不可能ではない。
「社内で検討します」
「お願いします」
「ただし、社員に無理をさせるので、全て二倍という条件ではなく、特急対応の追加費用として正式に見積もりを出します」
専務が少し驚いた顔をした。
「二倍でも構いませんよ」
「必要以上のお金をいただくつもりはありません」
その時、横にいた相沢さんが俺を見た。五年前、彼は俺を詐欺師と呼んだ。昨日も同じ言葉を使った。だが本当に相手の弱みにつけ込む人間なら、この状況で二倍どころか三倍でも要求できただろう。俺はそんな仕事をするために二十年以上働いてきたわけではない。
専務が静かに言った。
「黒田さんが長年信頼されてきた理由が分かった気がします」
「買いかぶりですよ」
話がまとまり、専務と藤川部長の表情にようやく安堵が浮かんだ。相沢さんも安心したのか、小さく笑った。
「よかった。これで全部解決ですね」
その瞬間だった。専務の表情が変わった。
「全部ではない」
相沢さんの笑顔が止まる。
「設備の問題については見通しが立った」
藤川部長も相沢さんを見る。
「残っているのは、相沢部長の処分です」
「処分」
相沢さんが仰天する。
「ちょっと待ってください」
専務は冷静だった。
「役員会で承認された二十四億円の設備契約へ、権限なく介入した」
「でも契約は戻りました」
「戻っていない。新しい装置を作ってもらえるじゃないですか。追加費用と納期リスクが発生している」
相沢さんが黙る。
「さらに取引先の担当者を詐欺師呼ばわりし、契約書を破った」
「それは謝りました」
「謝れば終わる問題だと思っているのか」
専務の声が低くなる。
「北森エナジーへ八台全て渡っていた可能性もあった。そうなれば我が社の生産計画は大幅に狂っていた」
「俺は事情を知らなかったんです」
「知らないから何をしてもいいのか」
「違いますけど」
「知らない案件なら確認する。それが部長という立場の人間の仕事だ」
相沢さんは何も言えない。俺は専務へ言った。
「一つお願いがあります」
相沢さんが驚いて俺を見る。専務もこちらを向いた。
「何でしょう」
「相沢部長の処分について、俺が口を出す立場ではありません。ただ、今後うちとの取引には関わらせないでいただきたいです」
相沢さんの目が大きくなる。
「黒田」
「正直に言います。二度と仕事で関わりたくありません」
相沢さんの顔から血の気が引いた。専務はすぐに答えた。
「分かりました。検査技研さんとの窓口には、今後一切関与させません」
藤川部長も頷く。
「それがいいと思います」
相沢さんが慌てた。
「専務、待ってください」
「なんだ」
「営業部長なのに主要取引先から外されたら、仕事になりません」
「それを考えるのはこちらだ。だが、お前は今回だけではないらしいな」
相沢さんの動きが止まった。
「何の話ですか」
専務は俺を見た。
「黒田さん、藤川から聞きました。相沢とは以前にも会ったことがあるそうですね」
相沢さんの顔色がさらに悪くなった。俺は頷いた。
「五年前です」
「その時も何かあったのでしょうか」
相沢さんが俺を見る。
「黒田。昔のことだろ」
俺は答えなかった。専務が言う。
「黒田さん、教えていただけますか」
「五年前、常南物産へ設備提案に行った際、俺が中卒だと知った相沢さんから、製品説明をほとんど聞いていただけませんでした」
「それだけですか」
「詐欺師のようなものだと言われました」
藤川部長が眉をひそめた。専務の表情が完全に消えた。
「五年経っても同じことを」
「少なくとも俺に対してはそうです」
「黒田」
相沢さんが一歩前に出た。
「もういい」
専務が止めた。
「専務、俺は今回初めて」
「初めてではないだろう。会社に入ってからは初めてです」
「問題はそこではない」
専務は冷たい目で相沢さんを見た。
「人間の根本的な部分が変わっていないと言っている」
相沢さんの額から汗が流れる。
「これから直します」
「昨日の今日で、何を信用しろと」
「絶対に二度としません」
「五年前も同じようなことをして、昨日またやった」
相沢さんの声が震え始めた。
「専務、お願いします。俺はこの会社に来たばかりなんです」
「だからこそ問題なんだ。営業部長として期待されて採用された。その営業部長が、最大級の設備取引を壊しかけた」
「結果的には助かったじゃないですか」
その一言で部屋の空気が凍った。専務が目を細めた。藤川部長も呆れた表情を浮かべる。俺も何も言えなかった。
「結果的には助かった。つまり、自分がしたことの重大さをまだ理解していない」
専務は静かに言った。
「相沢、もう黙れ。これ以上話せば話すほど、自分で処分を重くしている」
相沢さんの唇が震えた。
「人事と役員会で正式に協議する。それまで営業部長としての決済権を停止する。異論があるなら役員会で聞く」
相沢さんは椅子に手をついた。足に力が入らないようだった。
「俺はキャリアを捨ててこの会社に来たんですよ」
「だからなんだ。前の会社でも部長候補だった。それを黒田さんも二十年以上努力して今の立場にいる」
相沢さんが黙る。専務は続けた。
「お前が大学を出たことも、大手商社で働いていたことも否定するつもりはない。それはお前が積み上げてきたものだ。だがそれを理由に、他人の積み上げてきたものを踏みつける権利はない」
誰も言葉を発しなかった。相沢さんは最後まで俺と目を合わせなかった。
三人が帰った後、俺は長く息を吐いた。正直疲れた。契約を失ったことより、人間同士のくだらない争いの方がよほど疲れる。
その日の午後、俺は社長と製造部長を集めて事情を説明した。急ぎで五台を追加できるか。最初は無理だと言われた。当然だ。一台でも数百種類の部品を使い、特殊センサーは納期も長い。だが取引先メーカーや協力工場へ一本ずつ連絡し、工程を組み換えた。夜勤を増やして社員を疲弊させる方法は取りたくなかった。代わりに外部協力会社へ一部を依頼し、設計部門も通常案件との優先順位を調整した。
三日後、なんとか三ヶ月以内に五台を製造する計画ができた。東映バッテリーへ伝えると、藤川部長は電話口で何度も礼を言った。
「黒田課長、本当にありがとうございます」
「藤川部長のおかげですよ」
「私ですか」
「十年の付き合いがなければ、ここまではしません」
電話の向こうで藤川部長が笑った。
「それなら十年前の自分を褒めておきます」
「そうしてください」
それから約一ヶ月後、藤川部長から電話があった。
「黒田課長、少し報告してもいいですか」
「もちろんです」
「相沢部長の処分が正式に決まりました」
俺は手を止めた。
「どうなりました」
「営業本部から外れました」
「そうですか」
「現在は総務企画部の業務改善チームです」
「かなり違う部署ですね」
「はい。営業権限は全てなくなりました」
藤川部長によると、今回の件をきっかけに人事が相沢さんの過去の言動を調べたらしい。すると着任からわずか二ヶ月の間にも、複数の問題が出てきた。部下社員の出身大学を聞き、露骨に態度を変える。工場から来た社員を会議で軽く扱う。高卒のベテラン社員の提案を、内容も確認せず却下する。一つ一つは大きな問題になっていなかった。だが今回の件と合わせると、偶然では済まされなかった。
「今いる部署には、経験二十年以上のベテラン社員がかなり多いんです」
藤川部長が言った。
「学歴も経歴もバラバラですが、業務フローを全部知っている人ばかりです」
「なるほど」
「相沢さん、最初はかなり偉そうだったみたいですよ」
「想像できます」
「ところが分からないことだらけで、毎日周りに教えてもらわないと何も進められないらしくて」
俺は思わず苦笑した。
「それも勉強でしょう」
「そうですね。ちゃんと学べば、いつか変わるかもしれません」
「黒田課長は優しいですね」
「優しくはないですよ。二度と関わりたくないという気持ちは、今も変わっていませんから」
藤川部長も笑った。
「それくらいでちょうどいいと思います」
「設備の方はどうですか」
「最初の一台、ものすごく順調です」
「良かったです」
「検出精度が以前の設備とは全然違います。不良率の問題もかなり改善しました。追加分も予定より少し早く出せそうです」
「本当ですか」
「部品が想定より早く集まりました」
電話の向こうで藤川部長が本当に嬉しそうな声を出した。
「黒田課長には頭が上がりません。今度飲みに行く時に、一杯多く奢ってください」
「一杯でいいんですか」
「では二杯で」
「わかりました」
電話を切った後、俺は机の上に置いてある小さな写真を見た。母の写真だった。母は俺が三十歳になる前に亡くなった。俺が営業になった頃、母はよく言っていた。
「直樹、学校に行かせてやれなくてごめんね」
俺はその度に答えた。
「俺は十分だよ」
本心だった。高校や大学へ行けなかったことを悔しいと思った時期はある。同級生が大学生活の話をしているのを聞き、羨ましく思ったこともある。履歴書の学歴欄を書くたびに、少しだけ手が止まった時期もあった。
だが働き始めて二十年以上経った今、俺には分かる。学歴は大切だ。勉強する機会があるなら、できるだけ勉強した方がいい。大学でしか学べないこともたくさんある。だから学歴そのものを否定するつもりはない。ただ、それは人間の価値を測る定規ではない。
現場で三十年間機械を見続けた人。子育てをしながら働いてきた人。失敗を繰り返しながら技術を覚えた人。毎朝誰より早く会社へ来て掃除を続けている人。目立たなくても会社を支えている人間はたくさんいる。肩書きだけを見ていれば、そういう人たちの本当の価値には気づけない。
相沢さんは優秀な大学を出て、大手商社で実績も残した。それ自体は立派なことだ。だが自分が持っているものを誇るうちに、持っていない人間を見下すようになってしまった。その結果、自分にとって最も重要な契約を、自分の手で破り捨てた。
俺は相沢さんを不幸にしたかったわけではない。復讐のために北森エナジーへ装置を売ったわけでもない。契約がなくなった。完成品が八台残った。欲しいと言ってくれる別の会社があった。だから売った。ただそれだけだ。
仕事は感情だけでは動かせない。だからこそ相手を尊重することが重要なのだと思う。
数ヶ月後、追加の検査装置は予定より早く完成した。東映バッテリーの工場へ納入すると、藤川部長が自ら立ち合ってくれた。設備が動き始め、モニターに正常判定が並ぶ。藤川部長が俺の肩を叩いた。
「黒田課長、これでようやく安心して眠れます」
「長かったですね」
「本当に長かった」
「今度こそ飲みに行けますね。約束してましたからね」
「今日は俺が全部払います」
「では遠慮なく」
工場を出る前、俺は振り返った。大型の検査装置が一定のリズムで動いている。
あの日、相沢さんが破った契約書はもう存在しない。だが、その契約より強い信頼が、俺と藤川部長の間には残った。
人の価値は履歴書の一行だけでは決まらない。学歴や肩書きは、その人が歩んできた道の一部に過ぎません。相手を知ろうともせず見下せば、いつか本当に大切な信頼まで自分の手で壊してしまいます。



