「間違っていることは間違っているって、はっきり言えるか?」
そんなことを考えながら、俺は今日も怒鳴られている。名前は菅野ミキア。個人経営の車関係の会社で働いている。小さな中古車販売店で、朝から社長の大声が飛んでくる。
「おい、ミキア!作業が終わったらすぐに報告しろって言ってるだろ!」
「すみません。後でやろうと思ってたんですけど……」
「その『後で』をやめろって何回言ったら分かるんだ!」
こうやって怒鳴ってくれるのは、この会社の社長だ。この地域に十店舗近くの中古車店を持ち、板金塗装の修理屋や小さな喫茶店まで経営しているやり手の社長で、俺はこの人に命を救われたようなものだ。
五年前、高校を卒業したばかりの俺は、親にも見放され、当然のように警察の世話になるような不良だった。就職先なんて見つかるはずもなく、ぶらぶらしていた。そんなある日、俺は欲しい車を眺めるために社長の店の前をうろついていた。すると、店から出てきた社長に声を掛けられた。
「お前、この辺で有名な不良のミキアだろ。車が欲しいならちゃんと働け。うちで雇ってやるから」
その一言で、俺の人生は変わった。社長は俺にとって本当の父親のような存在になった。社長も俺を実の息子のように可愛がってくれた。
「俺は本当は息子が欲しかったんだ。娘ってどう接したらいいか全然分からなくてな。お前みたいな根性がある男が欲しかったんだよ。だからミキア、お前覚悟しておけよ」
だからこそ、叱られることも日常茶飯事だ。怒鳴られること自体に抵抗はない。むしろ、成長させてくれていることへの感謝しかない。いつかは俺が中心となってこの会社をもっと大きくして、社長に恩返ししたいと思っている。
そう思っていた矢先、社長が言った。
「ミキア、しばらく喫茶店へ行って接客の修行をしてみろ。いろんなことができるに越したことはないからな」
飲食店で働いたことのない俺が、なぜ喫茶店なのか。普通の若者なら文句の一つも言いたくなるだろう。しかし、俺が育った環境では、目上の命令に対しては「はい」の一択だった。
「分かりました。やってみます」
「よし。俺はお前の何にでも挑戦する姿勢が好きなんだ」
そんな日々が続き、入社して六年目の春、俺にとっての転機が訪れた。社長がかつて「どう接したらいいか分からない」と言っていた娘が、うちの会社に入ってきたのだ。
名前は英子。大卒だというが、社長が言うには「勉強が全然できなくてミキアと同じくらいなんじゃないか」とのことだった。そして、その第一印象は最悪だった。
「私、英子。あんたは?」
「……あ、あんた?」
社長の娘が、初対面の先輩に対してのこの口の利き方。社長の目の前でなければ、ぶん殴っていたかもしれない。
「おい、英子先輩には敬語を使いなさい」
社長が窘めるが、英子は気にした様子もない。それにしても、社長の扱いの差がすごい。俺が同じ挨拶をしたら、今頃顔が腫れ上がっていただろう。
そして、俺は嫌な予感がしていた。その予感はすぐに当たることになる。
「よし。というわけで、英子のことはお前に託すから、仕事のことを教えてやってくれ」
「え、ちょっと、それはさすがに無理ですよ」
目上の人からの命令に、俺は初めて「ノー」と答えた。この会社は十分に人手が足りていて、俺が入社してから五年間、退職者は一人も出ていない。つまり、俺は今でも一番下っ端だ。そんな俺に、新人の教育係だなんて無茶にもほどがある。
「ミキア、人に物事を教えるというのは、自分自身も成長するチャンスなんだぞ」
「そうかもしれませんが、もっと指導に適した人がいるじゃないですか。英子さんにとっても、そっちの方がいいんじゃないですか?」
俺は当たり障りのない理由をつけて断った。本当は他にも理由があった。社長の娘だからこそ、俺のせいでつまづいてほしくなかった。それに、英子が去り際に「だるいなあ」と言っていたのも気になっていた。俺は上下関係のことだけは、高校時代から厳しく叩き込まれてきた。どう考えても、相性が良くない。
だが、その日は想像以上に早くやってきた。
「ミキア、お願いがあるんだ」
翌日、社長に呼び出された俺の前に、不機嫌そうな英子がいた。
「やはりお前に教育係を頼めないだろうか。みんな忙しくて、それどころではないらしい」
社長が英子の顔色を伺いながら言うと、英子が口を開いた。
「あんたミキアだったっけ? 他の人たちは私に合わないから、教育はあんたでいいわよ」
これにはさすがの社長も申し訳なさそうな顔をしている。
「悪いな。英子からのご指名ってことで受けてくれないか?」
「……分かりましたよ。俺がやります」
なぜか俺にグイグイ来る英子と、悲しそうな社長。この親子に負けて、俺は引き受けてしまった。
こうして英子の教育が始まったが、その大変さは想像をはるかに超えていた。
「私も車を売ってみたいな。ねえ、営業してもいい?」
「とりあえず、朝出勤してきたらメールの確認をして。社長からメールが来てたりするからね」
「メールって、どうやるの?」
「……は?」
驚いたのは、メールの開き方すら知らないことだけではなかった。何より、未だに俺への口の利き方が悪い。一日の中で何度も切れそうになる。
「えっと、英子さん、メモは?」
「え、メモって何?」
「メモってのは、俺が教えたことを書いておく紙のことだよ」
「いやいや、メモが何かは私でも分かるよ。なんでメモがいるのかを聞いてるの?」
彼女の口から出てくる言葉は、全てがめちゃくちゃだった。今の若者はみんなこうなのだろうか。それとも社長令嬢はこれが普通なのだろうか。俺は社長に拾われてから、礼儀や仕事への向き合い方を徹底的に叩き込まれてきた。書類の作り方も分からずに諦めそうになった時も、社長は「そんな簡単に諦めるな」と怒鳴ってくれた。逆に、一つのことを最後まで成し遂げた時は、「お前ならやれると思ってた」と優しく褒めてくれた。
その忍耐力と責任感が、今の俺を作っている。しかし、英子の態度はそんな俺の忍耐力をいとも簡単にへし折ってきた。
「そもそもメモって、仕事ができない人が使うやつでしょ。私に必要だと思う?」
「分かった。じゃあ、さっき教えたメールを返信する時の注意事項は?」
「ああ、注意事項ね。えっと、それは……あれだ」
こんなやり取りが毎日続くと思うだけで、メンタルがどうにかなってしまいそうだった。
さらに追い打ちをかける出来事があった。車が売れた後、書類の処理方法を教えていると、英子が逆ギレしたのだ。
「あんたができるなら、自分でやればいいじゃない。私は自分でできることだけやるから」
その瞬間、俺の中で何かが切れた。
「いい加減にしろよ! 誰のためにこんなに時間を割いてると思ってるんだ!」
俺はそう怒鳴りながら、英子のデスクを思いっきり叩いていた。周りの社員はもちろん、英子までもが固まってしまった。しかし、一度切れてしまうと、そんな簡単には収まらない。
「お前と社長が頼んできたから指導してやってんだよ。それなのに俺がやれだと? しかも、ずっとため口で話しやがって。あんまり俺のこと舐めるなよ!」
俺は久しぶりに自分を見失うほど怒鳴ってしまった。すると次の瞬間、英子は目に涙を浮かべ、その場から走り去って行った。
我に返って、深い後悔が押し寄せてきた。俺を鍛えてくれた社長の娘を、俺は泣かせてしまった。もしかしたら、もうこの会社にいられないかもしれない。
しかし、意外なことに、周りの社員は俺の味方だった。
「あれは仕方ないよ。俺ならもっと早く切れてるし」
「そうそう。むしろ今までよく耐えた方じゃない?」
「いくら社長の娘でも、あれはやりすぎだよ」
「そうですよね。俺、間違ってないですよね」
そう言ってくれる社員たちに、俺は少しだけ救われた。そして、社長から怒鳴られても、自分の意思をしっかり伝えようと心に決めていた。
しかし、その機会は訪れなかった。なぜなら、社長は怒るどころか、俺に頭を下げてきたのだ。
「話は聞いた。英子を説教してくれたらしいね」
そう語る社長は、なぜか笑顔だった。
「ミキアにはたくさん迷惑をかけてしまったな。すまん。あいつは俺に全然似ていないだろう。実は、理由があってな」
「え、理由ですか?」
「実は、英子は俺の子供ではないんだ」
社長の口から出たのは、衝撃の事実だった。
「あの子は俺の兄の子供なんだ。兄は英子が十五歳の時に亡くなった。元々あいつには母親もいないもんだから、それからはうちで引き取って育てていたんだ。ただ、兄はあの子のことをかなり甘やかして育てたみたいでな。うちに来た時には、もうあの状態だったよ」
英子の父親も社長だったらしく、仕事の忙しさを理由に英子をほったらかしにしていたという。そして、お金と自由だけを与えられて好き勝手に成長した結果、あの問題児が誕生したというわけだ。
「十五歳にもなれば、性格はほとんど出来上がっている。俺も娘なんて育てたことがないから、どう接していいか分からんしな。自分の子じゃないってことで、つい遠慮してしまう」
社長も色々と苦労してきたようだ。とはいえ、あの英子の態度が社会で許されるわけがない。ただ、俺も家庭環境には恵まれなかったから、なんとなく英子の気持ちも理解できた。きっと彼女は、親の愛情を感じることなく育ってきたのだろう。
そして、この事件の翌日、意外にも英子が俺に謝りに来た。
「私って、やっぱりちょっとおかしいよね。敬語を使えないことがやばいとも思ってなかったし。社会を舐めてたんだと思う。ごめんなさい。昨日みたいにはっきりと怒られたことがなかったから、何が間違っているか気づかなかった。本当にごめんなさい」
彼女の言葉には、嘘がなかった。きっと修正すべき箇所はまだ山ほどあるだろうが、初めて成長の兆しが見えた瞬間だった。
これを機に、社長も本格的に英子を矯正しなければと危機感を抱いたようだった。
「そもそも英子は、自分で物事を成し遂げたり、苦労をしたりしたことがないんだ。俺がお前に教えたように、何かを最後までやり抜くことの大切さを、英子にも教えてやらないとダメだと思うんだ」
そこで社長がひらめいたらしい。
「ミキア、英子を連れてキャンプに行ってきてほしい。これは社長である私からの命令だ」
「き、キャンプですか?」
「そう、キャンプだ」
社長は俺たちが困っているのを楽しんでいるようだった。
「なんで二人でキャンプなんですか? 俺、キャンプなんてしたことないですよ」
「キャンプは何でも自分たちでしないといかん。きっと英子の自立心も養われるだろう」
どうする? 俺は恐る恐る英子に聞いてみた。頼む、断ってくれ。しかし、英子の反応は俺の期待をあっさり裏切った。
「私、やってみる。キャンプ。外にいるのも好きじゃないし、虫も嫌いだし、ミキアと二人なのも微妙だけど、やってみるよ。私、変わりたいんだ」
普段は人任せなのに、こんな時だけやる気を見せやがって。こうして、俺と英子のキャンプが決定してしまった。
「俺が金を出すから、二人で必要な道具を買ってきなさい。キャンプは買い出しから始まってるんだ」
その週末、俺と英子はキャンプ用品の買い出しに出かけた。待ち合わせ場所に現れた英子は、カードだけを持って、荷物も何も持っていなかった。
「荷物は?」
「荷物? ないけど。カードだけは持ってきたけどね。パパはお金を出すって言ってたけど、私は自分で払うつもりなの」
「そ、そっか」
俺も全額社長に出してもらうのは申し訳なく思い、自分のお金を下ろしてきていた。キャンプ用品店に入ると、英子は値段を一切気にしなかった。
「何がいるのか全然分かんないな。とりあえず、この辺のやつ全部買ってみる」
「いやいや、それじゃあどんだけお金があっても足りないよ」
「こんな安っぽくてすぐ壊れそうなやつ、誰が買うんだろう」
「きっと欲しい人がいるから置いてあるんだよ。自分がいらないからって、悪く言うなよ」
買い出しに出かけただけで、俺は英子にたくさんのことを注意した。値段を見て必要なものだけ買うこと。店員に偉そうな態度を取らないこと。安いものが必ずしも悪いものではないこと。
「ミキア君、私に文句ばっかり言ってるね。でも、それが普通なのか。君は今までどんな生活してきたんだよ」
亡くなった英子の実の父親は、かなり大きな会社の社長だったようで、家は屋敷のように広く、お手伝いさんもいたらしい。
「そんな状態でカードだけ渡されてたからさ。家のことは全部誰かがやってくれるし、一人で外に出たこともなかったな」
英子の言葉は言い訳ではなく、事実なのだろう。本当のお金持ちと庶民の価値観の違いをまざまざと見せつけられた俺は、英子の価値観のズレを少しでもなくす必要があると思った。
こうして何とかキャンプ用品を揃え、翌週のキャンプ本番を迎えることになった。その間も、職場での英子は少しずつ変わっていった。
「ねえ、これどうやるの? 教えて」
「え? 英子さんが自発的に聞いてきてる?」
「ちょっと一々驚かなくていいから、早く教えてよ」
英子の手には、メモ帳とペンが握られていた。
「何回も聞かなくてもいいように、できるだけ一回で覚えるから。これのやり方を教えてください」
彼女の「変わりたい」という意思が、俺にも伝わってきた瞬間だった。
俺も英子の努力に答えられるように、キャンプ当日までにテントの組み立て方や火の起こし方を必死で勉強した。
しかし、やはりそんな簡単にはいかなかった。
「ちょっと待って。なんでそんな格好してるの?」
キャンプ当日、英子はなんと可愛いワンピースを着て現れたのだ。
「いやいや、逆になんでそんな本格的な格好してるの? キャンプにワンピースって聞いたことないよ」
やはり、肝心なところで非常識な一面が顔を覗かせる。着替えを持っているわけもなく、結局英子はその格好のままキャンプの準備をすることになった。
その中でも、特に衝撃的だったのは料理のシーンだった。
「さすがにこれくらいなら、私でもできるよ」
英子は包丁で玉ねぎを切ろうとするが、いつ怪我してもおかしくない状態だった。これにはさすがに俺も声を上げて怒った。でも、これは社長の娘を守るためでもあったが、それ以上に、俺の中で彼女はもう「放っておけない存在」になっていた。
「おいおい、危なっかしいな。俺がやるからもういいよ」
二人だけのキャンプ場に、俺の怒鳴り声が響いた。
「そんなに怒らなくてもいいでしょう」
英子はあの日のように涙ぐんでいた。
「私にそんなに怒鳴るの、ミキア君だけですよ」
「英子さんが心配だから怒ってんだろ」
俺がそう返すと、英子はさらに目を潤ませた。
「ちょ、ちょっと泣くなよ。別に英子さんのことが嫌いで怒ってるわけじゃないんだから」
「分かってるよ。分かってるけど、涙が止まらないんだもん。私、怒られ慣れてないからさ」
怒られたことがないなんて、俺には理解ができなかった。俺なんてこれまで怒られっぱなしの人生だったから。でも、彼女が仕事でもこのキャンプでも、なんとか変わろうと必死になっていることは分かっていた。
そして、英子は散々泣いた後、突然変なことを言い出した。
「なんか、ミキア君ってかっこいいよね」
「え? どうしたの、急に」
「そうやって叱ってくれるところかな? なんかドキドキするし、胸がキュってなる」
「どういうこと?」
「私にも分かんないけど、なんか変な感じだから。これからも悪いところがあったら言ってね。頑張って直すから」
英子は顔を赤くしながらそう言って、俺まで恥ずかしくなってきた。
「ミキア君は、私にとって特別なんだ。初めて怒ってくれた、特別な存在。ミキア君にとって、私はどんな存在?」
せっかく一人用のテントを二つ買ったのに、その一つは無駄になってしまった。俺たちはその晩、一つのテントで一緒に寝ることにしたんだ。この大自然が、俺たちの気持ちを大胆にしたのかもしれない。
「好きなら好きって、早く言ってよ」
「英子が頑張ってる間は、これからも言い続けてやろうかな」
「うーん。意地悪だなあ。絶対に諦めないから」
「はいはい。分かりました。また調子に乗ると社長に言いつけるからな」
俺には英子の生意気さが少しずつ移っていった。これからは、英子に俺の忍耐力が移ればいいと思う。
そして、俺たちがこうなることを予感していた人がいた。
「やっぱり、二人とも付き合うことになったか」
「え、社長、『やっぱり』ってどういうことですか?」
「実はな、俺も嫁と付き合うきっかけがキャンプだったんだよ。自然の中にいると、気持ちも解放的になるだろう。なあ、英子」
英子の顔が真っ赤になっている。
「英子がうちに入社する前から、家でずっとミキアの話をしてたんだ。勉強は全然できないけど、根性だけはある男がいるってな。そしたら英子が、お前に興味を持ち始めたんだ」
「英子、お前あの時なんて言ってたっけ?」
社長が嬉しそうに英子に尋ねると、英子は小さな声で答えた。
「パパがそこまで認める人なら興味がある。根性ある人って、かっこいいねって」
つまり、教育係に俺を指名してきたのは、俺たちが出会う前からの英子の願望だったのだ。
こうして俺たちは順調に交際期間を経て、結婚をした。今では社長も含めて三人でキャンプをするのが、我が家の恒例の家族行事になっている。英子は今では一人でテントも組めるし、料理も作れるようになった。英子にも、俺の忍耐力が移ったのかもしれない。
あの日、社長に拾われて、怒鳴られて、ここまでの道のりがあった。誰かが間違っていることをはっきり言えるというのは、やっぱり大事なことなんだと、今ならそう思える。



