高速バスの窓の外を、秋の山々が流れていく。紅葉は散り始め、景色はどこか寂しげだった。実家で母に言われた言葉が頭から離れなかった。「あなたももういい年なんだから、一人で暮らすのは大変でしょう」。五十七歳。息子の早人は結婚を控えて忙しく、毎月届く請求書の山が心を押しつぶすようだった。バスがサービスエリアに停車した。トイレに行こうと席を立ったその時、後方から聞き覚えのある声が聞こえてきた。「いえ、…

高速バスの窓の外を、秋の山々が流れていく。紅葉は散り始め、景色はどこか寂しげだった。実家で母に言われた言葉が頭から離れなかった。「あなたももういい年なんだから、一人で暮らすのは大変でしょう」。五十七歳。息子の早人は結婚を控えて忙しく、毎月届く請求書の山が心を押しつぶすようだった。バスがサービスエリアに停車した。トイレに行こうと席を立ったその時、後方から聞き覚えのある声が聞こえてきた。「いえ、...

高速バスの窓の外を、秋の山々が流れていく。紅葉は散り始め、景色はどこか寂しげだった。私は、実家で母に言われた言葉を思い出して、重い気持ちでいた。

「あなたももういい年なんだから、一人で暮らすのは大変でしょう」

五十七歳。息子の早人は結婚を控えて忙しく、毎月届く請求書の山は、私の心を押しつぶすようだった。電気代、ガス代、管理費。ひと月の出費はバカにならない。

「母さん、大丈夫だって言ってるでしょう。僕も結婚したら、もっと頻繁に顔を見せに来るから」

数日前の早人の言葉も、心に響かなかった。結婚したら、むしろもっと忙しくなるのに。

バスがサービスエリアに停車した。トイレに行こうと席を立ったその時、後方から聞き覚えのある声が聞こえてきた。

「いえ、大丈夫です。ただ東京まで行ければいいので」

私の心臓は一瞬止まったかのようだった。その声は、十年前に離婚届に印を押した日以来、一度も聞いていない声。ゆっくりと振り返ると、そこには確かにいた。

伊藤正雄。私の元夫だった。

正雄は以前よりずっと痩せて、やつれて見えた。髪は白髪が増え、服装もかなり見窄らしかった。かつてはきちんとした会社員だったのに。複雑な気持ちで、私は慌てて顔を窓の外に向けた。心臓が激しく高鳴る。十年ぶりの再会が、こんなに突然訪れるとは思っていなかった。

サービスエリアで人々が乗り降りする間も、私は席を立つことができなかった。トイレにも行きたかったが、我慢するしかなかった。どうしてよりによって今日、このバスで会うことになるの。実家で一人暮らしの心配をされたばかりなのに。

バスが再び走り出しても、私は全く落ち着けなかった。後ろに感じる正雄の存在感。遠くから聞こえる、静かな咳の音。以前も季節の変わり目には、よく咳をしていた人だった。二十年間の結婚生活で、正雄は体調が悪くても大きな音を立てない人だった。いつも静かに堪えるタイプだった。その姿は、私にとって馴染み深く、どこか他人行儀にも感じられた。

ギャンブルで家を潰したと言われていたけど、今はどうやって暮らしているんだろう。離婚する時、正雄がギャンブルの借金に苦しんでいるという話を聞いていた。だから私も、仕方なく離婚に同意した。早人のためにも、そうするしかなかった。当時、近所では、正雄が不倫までしているという噂が立っていた。私はその噂が事実か確かめようとしたが、正雄は最後までまともな説明をしてくれなかった。

「お前が知っている通りだと思えばいい」

それが正雄の最後の言葉だった。

バスが東京に近づくにつれて、私の心はさらに複雑になった。十年前、最後に会った時の記憶が鮮明に蘇る。

「英子、すまなかった。本当にすまなかった」

あの時、正雄が最後に言った言葉。しかし、私はその言葉を受け入れることができなかった。あまりにも腹が立っていた。二十年間の結婚生活が、ギャンブルと不倫で崩れ去るなんて信じられなかった。特に早人が失望している姿が辛かった。

東京のターミナルに到着し、私は計画通り素早く立ち上がり、一番前に進んだ。他の乗客より先に降りようと急いだ。正雄と顔を合わせるのだけは避けたかった。ターミナルの出口を出る時も、私は振り返らなかった。家へ帰る地下鉄の中でも、心は落ち着かなかった。今日の出会いが、ただの偶然なのか、それとも何か意味があるのか。疲れ切った自分の姿が、窓に映っていた。

数日経っても、私は正雄 の姿を忘れられなかった。買い物に出かけた商店街で、聞き慣れた名前が耳に入ってきた。

「あの人、最近よく病院に通ってるらしいわよ」
「あら、誰のことを?」
「伊藤正雄さんのことよ。昔この辺りに住んでて、離婚して出ていったあの人」

私は手に取っていた大根を置いた。

「もしかして何か重い病気でもしたのかしら」
「うちの親戚がその病院で働いてるんだけど、かなり頻繁に来るって言ってたわ」

正雄が一人で病院に通っている。そのことが、どうしてこんなに気になるのだろう。私は買い物を終えて家に帰ったが、心は重かった。

その夜、夕食のキムチ鍋を作りながら、私は昔を思い出していた。正雄は私の作ったキムチ鍋が一番好きだと言ってくれた。家族三人で食卓を囲んでいた頃。正雄はどんなに些細なことでも、早人の話を楽しそうに聞いてくれた。

どうしてこんなに気になるの? 確かに離婚して十年も経つのに。

翌日、私は意を決して、商店街で聞いた病院へ足を運んだ。ロビーは患者や付き添いの人々でごった返していた。一時間待っても、正雄の姿は見えなかった。病院の周りを歩いていると、午後二時頃になって、正雄が病院から出てくる姿を見つけた。数日前にバスで見た時よりも、さらに辛そうだった。歩き方に力強さはなく、顔色も悪い。

私は正雄の後を追った。彼は古びた集合住宅の団地に入っていった。以前住んでいたマンションに比べると、かなり見窄らしい場所だった。私はそれ以上追わず、近くのカフェに入って考え込んだ。

正雄の住まいを見ると、経済的に余裕がないことは明らかだった。私は再び病院へ戻り、受付の近くで様子を伺った。すると、看護師の電話の声が聞こえてきた。

「はい。伊藤正雄さんの件ですね。治療費の未納の件でご連絡しました。……はい。患者様ご本人からは、ご家族には連絡しないで欲しいと伺っておりますが、すでに二ヶ月分滞納されておりまして」

私は衝撃を受けた。正雄は治療費すらきちんと払えていない。それに、家族に連絡しないで欲しいと言ったということは、早人にも自分の病気を知らせたくないということだ。一人で全てを背負おうとしている。

家に帰ってからも、私は考えた。十年前の離婚は、本当にギャンブルが原因だったのだろうか。もし本当にギャンブルで金を使い果たしたのなら、今のように治療費も払えないほど困窮するだろうか。むしろ、静かに一人で全てを背負おうとするタイプの人間のように思えた。

あの時も、正雄は口数が少なく、何も説明せずにただ静かに受け入れていた。「お前が知っている通りだと思えばいい」それが全ての答えだった。本当に自分が悪いことをしたのなら、言い訳の一つでもしようとするはずなのに。

正雄が一人で簡単な食事を済ませているかと思うと、胸が痛んだ。結婚していた頃、正雄は必ずご飯におかずを添えて食べたがった人だった。そんな正雄が、今はどんな食事をしているのだろう。

数日後、スーパーの前で、正雄のかつての職場の同僚だった木村に声をかけられた。離婚当時、正雄に関する悪い噂を広めた人物の一人だ。

「あら、鈴木さんじゃないですか。最近どうですか? 一人暮らしで大変じゃないですか?」

私は気まずく挨拶を返したが、木村は話を続けた。

「ところで、最近伊藤さんの話、聞きました? 最近体がだいぶ悪いらしいですよ。病院によく通ってるとか。それで、鈴木さんに一つ助言しておきたいことがありまして。もし伊藤さんから鈴木さんに連絡があったり、助けを求められたりしても、あまり気にしない方がいいですよ。伊藤さんは最近経済的にかなり困窮しているらしくて、離婚した奥さんにまで金の無心をするかもしれないって話があるんですよ」

私は腹が立った。正雄がそんな人間でないことを知っていたからだ。

「伊藤さんはそんな人じゃありません」

木村は少し戸惑った様子だった。

「あ、まあ、そうかもしれませんが。人間、追い詰められるとどうなるか分かりませんからね。もう終わったことなのに、また関わると厄介でしょう」

木村は気まずそうに笑って去っていった。家に帰る道すがら、私は木村の言葉を反芻した。「もう終わったこと」という表現。「まるで私が正雄に関心を持つことを阻止しようとしているかのようだ」。そして、木村が昔、仕事で正雄に先を越されたことを思い出した。もしかして、その頃から恨んでいたんじゃないかしら。

昔の隣人だった佐藤さんに電話をかけてみると、彼女はこう言った。

「木村さんっていう人が、近所で正雄さんの悪口をたくさん言ってたわ。ギャンブルしてるとか、浮気してるとか。でも、正雄さんは何も言わなかったわ。ただ静かにしていた。普通、悔しかったら弁明の一つでもするでしょう」

正雄はなぜ弁明しなかったんだろう。本当に事実だから言うことがなかったのか。それとも、他に理由があったのか。

佐藤さんの証言を聞いて、私は確信を得た。十年前の離婚には、別の本当の理由があるに違いない。そして、木村が突然現れて警告めいたことを言ったのも、私が真実を知ることを恐れているように思えた。

一ヶ月ほど悩み抜いた末、私は正雄に直接会う決心をした。

雨の降る午後、私は正雄が住む集合住宅の近くのバス停で待った。三十分ほど経つと、本当に正雄がバスから降りてきた。傘も差さずに、雨に濡れながらゆっくりと歩いてくる。

「伊藤さん」

正雄は驚いて私を見た。

「鈴木さん……」

「雨に濡れていますね。少しお話しできませんか?」

バス停の屋根の下で、十年ぶりの再会を果たした。私は勇気を出して本題に入った。

「伊藤さん、どうしてもお聞きしたいことがあってきました。私たちが離婚したのって、本当にギャンブルが原因だったんですか?」

正雄の表情が硬直した。

「木村さんにあったんです。あの人がおかしなことを言うものですから。伊藤さんが私に連絡してくるかもしれないから、気にしないようにって。もう終わったことだからって」

正雄はため息をついた。

「あの男は、またそんなこと……」

「伊藤さん、本当にちゃんとした答えを聞かせてください。一体十年前に何があったんですか?」

正雄はしばらく空を見上げた。

「君が知っている通りだと思えばいい」

また同じ答えだった。私は腹が立った。

「またそんな言い方をするんですか? どうしてちゃんと説明してくれないんですか?」

「説明したところで、どうにもならない」

「どうにもならないなんてことないでしょう。私は真実が知りたいんです。もし伊藤さんが無実の罪を着せられていたのなら、私は謝らなければならない」

正雄は初めて驚いた表情を見せた。しばらくためらった後、彼は口を開いた。

「木村が会社の金を横領したんだ。私がそれに気づいてしまった。木村が私に借金の保証人になってくれと言ってきたんだが、調べてみたら横領した金を埋め合わせるためだった。私は当然断った。すると木村は、私が断れば私をギャンブル狂に仕立て上げると脅してきたんだ」

「それで、伊藤さんはそんな濡れ衣を着せられたんですか?」

「木村が近所の人たちに、私がギャンブルをしていると噂を広めた。不倫までしていると」

「じゃあ、どうして弁明しなかったんですか? どうして私にも真実を話してくれなかったんですか?」

正雄は深いため息をついた。

「木村が、早人にまで手出しをすると言ったんだ」

私は胸が痛んだ。正雄は息子を守るために、全てを甘んじて受け入れたのだ。

「それで、ただ受け入れたんですか?」

「君が私を信じてくれることを願っていたが、証拠もないし、木村の脅迫もあって、諦めたんだ」

涙が出そうになった。

「伊藤さん、本当にごめんなさい。私はどうしてあの時、あなたを信じてあげられなかったんでしょう」

「いいんだ。仕方がなかったことだ」

「今からでも遅くありません。早人に真実を話すべきです」

しかし正雄は首を横に振った。

「もう十年も経ったんだ。今更話したところで何になる?」

「なりますよ。早人もお父さんのことを誤解しているんですから。これは正さなければ」

「早人はもうすぐ結婚して新しい人生を始めるんだ。昔のことで、あいつを苦しめたくない」

「伊藤さん、お体相当悪いようですが、病院では何と?」

「肺に問題があるらしい。治療は受けているんだが……」

「治療費は大丈夫なんですか?」

正雄は苦笑いを浮かべた。

「それが、少し負担でね」

「もしや治療費が滞っているんですか? 病院に、家族には連絡しないで欲しいとお願いしたそうですよね」

正雄は戸惑った様子だった。雨がますます強くなってきた。

「は、早人に負担をかけたくなくてね」

「伊藤さん、そんなことじゃだめですよ。病気のことまで一人で抱え込もうとするなんて」

「鈴木さん、私は大丈夫だ。一人でもやっていける」

「伊藤さんが大丈夫だと言っても、私はもう見てみぬふりはできません。早人に真実を話します。そして、伊藤さんの治療も手伝います」

「だめだ。私のせいで鈴木さんまで大変な思いをする必要はない」

「大変なんかじゃない。当然のことです」

しかし、正雄は断り続けた。その時、正雄のポケットから何かが落ちた。風に飛ばされて、私の足元まで転がってきた。それは、くしゃくしゃになったバスの切符だった。正雄がそれを拾おうとしたが、私は早く手に取った。

「これは何ですか?」

正雄は答えずに、それをポケットにしまった。雨が少し上がり始めた。正雄はその隙を見て席を立った。

「私はこれで失礼するよ」

「伊藤さん、このまま終わらせるわけにはいきません」

「鈴木さん、頼むからそっとしておいてくれ」

正雄は雨に打たれて歩いていった。私はその後ろ姿を見ながら、決心を固めた。

数日後、私は早人に電話をかけた。

「早人、少し時間作れるかしら? 大事な話があるの」

「分かった。明日の夜行くよ」

翌日の夜、早人は婚約者の咲と一緒に家に来た。私は早人だけに話すつもりだったが、彼は「咲ももうすぐ家族になるんだ。何を隠すことがあるの」と言った。

私は慎重に切り出した。

「早人、お父さんのことどう思ってる?」

早人の顔がすぐに曇った。

「どうして急にお父さんの話を? 母さんも知ってるでしょう。僕は父さんを許せない」

「早人、お父さんが本当にそんなことをしたって確信しているの?」

「母さん、どうしてそんなことを言うの? 当時母さんだって、お父さんを信じられなくて離婚したんじゃないか」

「それは……母さんが間違っていたのかもしれない。当時近所のみんながそう言ってたけど、その噂は嘘だったのかもしれないのよ」

私は、正雄が木村に脅されていたこと、会社の金を横領したのは木村だったこと、正雄は早人を守るために全てを受け入れたことを話した。

早人は信じられないという顔で立ち上がった。

「嘘だって? じゃあ、父さんは無実の罪を着せられたってことか? そんな、じゃあこの十年間は何だったんだ?」

早人は過去の傷を吐き出し始めた。中学の時から父の話を一度もまともにできなかったこと。大学の時も父はいないものとして生きてきたこと。結婚式の準備の時、新郎の父親がスピーチをする場面で、父を呼べなかったこと。咲の両親にどうして新郎の父がいらっしゃらないのかと聞かれた時、「亡くなった」と嘘をついたこと。

「は、早人、本当にごめんなさい。母さんが間違っていたわ」

「謝って済むことじゃない。十年だぞ。十年」

「じゃあ、父さんはどうして弁明しなかったんだ? どうして黙ってやられてたんだよ」

「あなたを守るためだったって。真実を話せば、あなたにまで被害が及ぶかもしれないからって」

早人はしばらく言葉を失った。

「それで、お父様は今どうされているんですか?」と咲が尋ねた。

「体がだいぶ悪いの。肺に問題があるらしくて。一人で病院に通って治療を受けてる。でも、治療費も満足に払えていないみたい」

「どうして僕に連絡してこなかったんだ?」
「あなたに負担をかけたくなかったからよ。今も家族には連絡しないでくれって、病院に頼んでいるみたい」

早人は複雑な表情を浮かべた。父親への怒りと心配が同時に込み上げてくるようだった。

「じゃあ、今父様は一人で全てを背負っていらっしゃるんですね」と咲が言った。

誰もが重い沈黙に包まれた。

その後、数日して、私は正雄が引っ越す時に置いていった荷物を思い出した。マンションの地下の物置きに行き、埃をかぶったダンボール箱を調べた。すると、その中から分厚い書類封筒を見つけた。中には借受書が入っていた。木村の名前で、金額は三百万円。正雄が木村にお金を貸したことになっていた。

さらに、銀行の口座履歴書も見つかった。離婚する二ヶ月前の二〇一三年八月に、三百万円が一度に引き出された記録があった。借受書の日付と正確に一致している。

そして、書きかけの手紙を見つけた。正雄の筆跡で、私当てのものだった。

「英子へ。この手紙を書きながらも、果たしてお前に渡せる日が来るのかわからない。だが、いつか真実を知って欲しいという思いでこれを記す。木村が会社の金を横領していること、私が知ってしまった。木村は私に借金の保証人になれと言ってきた。それがダメなら、私をギャンブル狂に仕立て上げると脅迫してきた。私は当然断った。しかし木村の脅迫はそこで終わらず、早人にまで手出しをすると言ってきたんだ。私は悩んだ末、自分が犠牲になることにした。木村に三百万円を貸す条件で、早人だけには手を出さないでくれと頼んだ。だが、木村は約束を守らなかった。金を受け取っても、私に関する噂を広め続けた。ギャンブルをしている。不倫をしていると。英子、私はお前に信じて欲しかった。だが、証拠もなく話したところで、お前が信じてくれるとは思えなかった。何より木村が早人まで巻き込んで事態を複雑にすることを恐れた。だから、ただ受け入れることにした。お前と早人が穏やかに暮らせるなら、私が悪者になることくらい……」

手紙はそこで途切れていた。私は涙が止まらなかった。正雄がどれほど苦しみ、どれほど悔しい思いをしたか、痛いほど伝わってきた。

さらに、小さな手帳も見つけた。二〇一三年七月から九月までの記録があった。離婚直前の時期だ。

「七月十五日。木村がまた来た。今度は五百万円を要求してきた。無理だと言うと、早人の学校に私が横領犯だと通報すると言われた。どうすればいいんだ」
「七月二十日。眠れない。英子に話したいが、信じてくれるだろうか?」
「八月五日。結局木村に三百万円を貸した。家の定期預金を解約した金だ。英子には投資すると嘘をついた。すまない」
「八月二十日。木村が約束を破った。金を受け取っても、噂を広め続けている」
「九月三日。英子が離婚の話を切り出した。あまりにも辛い。だが、仕方ないのかもしれない」
「九月十日。離婚届けに判を押した。英子は泣いていた。私も泣きたかったが、堪えた。真実を話したかったが、そうすれば早人に被害が及ぶと思った」

日記の最後のページには、こんな言葉が記されていた。

「いつか真実が明らかになる日は来るのだろうか。その日が来たら、英子と早人は私を許してくれるだろうか? いや、許しは望まない。ただ理解してくれればいい。私がどれほどお前たちを愛していたか。それだけを分かってくれれば、それで十分だ」

私はもう続きを読むことができなかった。

私はこの証拠を全て早人に見せた。早人は父の手紙と日記を読みながら涙を流した。

「僕が本当にバカだった。父さんをあんなに憎んでいたなんて」

そして、私たちは一緒に正雄を訪ねた。正雄は突然の訪問に戸惑いながらも、私たちが見つけた証拠を見て驚いた。

「これをどこで?」
「物置きに、あなたが置いていった箱の中から」

正雄は、自分がずっと探していた証拠がそこにあったことに安堵した。

「父さん、これ全部本当なの?」
「すまなかった。早人。お前に真実を話せなくて」
「父さん、僕の方こそ。父さんを誤解して。ごめんなさい」

父と子は、十年ぶりに互いの気持ちを確かめ合った。

「それで、これからどうされるんですか? 木村をこのままにしておくわけにはいかないでしょう」と早人は怒りに満ちた声で言った。

正雄はしばらく考えた後、口を開いた。

「実は、数日前に警察に届けてたんだ。木村の横領の件で、会社と警察に通報した」

正雄は、私との再会を機に勇気を出して通報したと説明した。

「じゃあ、今捜査が進んでいるんですか?」
「ああ、数日前から調査が始まった。だが、木村は強く否定していると聞いている」

その日の夜、木村から早人に電話がかかってきた。

「早人君、木村おじさんだよ。君のお父さんが私に濡れ衣を着せようとしているんだ。君からでも、お父さんを止めてくれないか?」
「何を言っているんですか? 父さんには証拠があるんですよ」
「その証拠は全部捏造されたものだ。君のお父さんが借金に苦しんで作り上げたものなんだよ」
「もうやめてください。僕はもう真実を全て知っています」
「早人君、君が結婚の準備をしていることは知っている。こんなことで婚約者の方に良くない印象を与えたくないだろう。君の人生が台無しになってもいいのかい?」
「脅迫ですか? 僕は父さんの味方です。それに、咲も彼女の家族も全ての真実を知っています」

早人はそう言って電話を切り、すぐに私に連絡してきた。

「母さん、僕たちももっと積極的に動かないと」

数日後、捜査機関から中間報告があった。木村は依然として容疑を否認しているものの、正雄が提出した証拠がかなりの説得力を持っているという内容だった。

「もう少し時間はかかりますが、真実は必ず明らかになります」

すぐに結果は出なくても、正しい方向に向かっているという確信が持てた。そして、最も重要なことは、家族が再び結びついたことだった。早人はその日から父親と頻繁に連絡を取り始め、治療費も積極的に支援した。私も正雄の病院の治療に関心を持ち始めた。心の重荷が降りたおかげか、正雄の咳も減り、顔色も良くなった。

咲は、正雄を結婚式に招待しようと提案した。

「本当に父さんを結婚式に呼んでもいいのか?」
「当たり前じゃない。もう堂々と『僕の父です』って紹介できるでしょう」

早人は感動した。十年間隠したかった父親を、今では誇らしく紹介できるようになったのだ。

冬が過ぎ、春が訪れると、全てが新しく始まるかのようだった。木村に対する捜査も結論が出た。彼は結局、横領と恐喝の容疑で起訴され、会社から解雇された。正雄の名誉は、公式に回復されたのだ。

そして、今日、ついに早人の結婚式の日がやってきた。式場で、正雄は新調したスーツを着て、本当に素敵に見えた。十年前の堂々とした姿が戻ってきたかのようだった。

結婚式が始まり、早人が入場する時、正雄は涙を堪えることができなかった。特に、早人が招待客に「私の父、伊藤正雄です」と堂々と紹介した時、正雄は胸がいっぱいになった。

祝辞の時間、正雄は震える声で話し始めた。

「こんにちは。新郎の父、伊藤正雄です。今日、息子の早人が結婚の日を迎えました。長い間、父親らしいことを何もしてやれませんでしたが、こうして息子の結婚式に立つことができ、本当に感謝しています。早人、これまで父さんが至らなくてすまなかった。これからは本当に良い父親になれるよう努力するよ。そして咲さん、私たちの家族になってくれてありがとう。二人が幸せに暮らすこと。心から願っている」

正雄は涙を流しながらスピーチを終えた。招待客からは温かい拍手が送られた。

結婚式が終わり、披露宴も終盤に差し掛かった時、早人が正雄の元へ来て言った。

「父さん、今日は本当にありがとう。最高の結婚式になったよ」
「何を言っているんだ? 当然のことだろう」
「うん。父さんがいてくれて、本当に心強かった」

父と子は抱き合った。私はその姿を見ながら、涙がこぼれた。

式場を出て、私たちは一緒にバスに乗ることにした。ちょうど、あの思い出の路線のバスがやってきた。十年前に初めて再会した、あのバスだ。

「このバスに乗りましょう」と私が提案すると、正雄も特別な意味を感じて頷いた。

バスが走り出すと、正雄が言った。

「このバスから、全てが始まったんですね」
「そうだな。そして、このバスから全てが新しく始まる気がするよ」

私は正雄の手をそっと握った。正雄はその手をぎゅっと握り返した。

「伊藤さん、もう本当に一緒にいられるだろうか」
「ああ。今度は本当に一緒に」

正雄の返事に、私は涙が出た。ついに、本当の新しいスタートを切ることができたのだ。

バスの窓の外には、春の景色が流れていった。新しく芽吹いた緑が、希望に満ちて見えた。十年という長い年月を遠回りして、再び出会った二人。もうあの日は、涙のバスではなかった。これからどんなことが待ち受けているかは分からないが、もう二人は一緒だった。それだけで、十分に幸せだった。

春の風がバスの窓を撫でていった。まるで、新しい出発を祝福してくれているかのようだった。

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