「中卒というのは世の中のゴミだな。知れ物、一族の恥というものだ」——妹の結婚式の控え室で、義父になる男が親族を集めてそう叫んだ。俺は18歳で家を飛び出し、海外で20年を過ごした中卒の兄。薬剤師の妹にふさわしくないと、式当日に大勢の前で罵倒された。母と妹を残し、俺は黙って頭を下げるしかなかった。しかし妹が立ち上がった。「お父さん、兄の仕事は知ってますか?」と。義父は鼻で笑い「参拝業者か何かか」…

「中卒というのは世の中のゴミだな。知れ物、一族の恥というものだ」——妹の結婚式の控え室で、義父になる男が親族を集めてそう叫んだ。俺は18歳で家を飛び出し、海外で20年を過ごした中卒の兄。薬剤師の妹にふさわしくないと、式当日に大勢の前で罵倒された。母と妹を残し、俺は黙って頭を下げるしかなかった。しかし妹が立ち上がった。「お父さん、兄の仕事は知ってますか?」と。義父は鼻で笑い「参拝業者か何かか」...

「中卒というのは世の中のゴミだな。知れ物、一族の恥というものだ」

結婚式の控え室に、義父の罵声が響き渡った。妹は薬剤師として働き、医者の家系である小森家にとっては申し分のない息子の嫁。それに比べて、兄の俺は中卒。そんな俺に親族と顔を合わせるのは真っ平ごめんだということだろうが、そんなことを式当日に親族を集めて言わなくてもいいのに。

「お父さん、もうそのぐらいでやめてください」

そこで、はっきりとした声が割って入った。妹は口元を引き締め、義父の前にどっしりと立ちはだかる。

「お父さん、兄の仕事は知ってますか?」

「中卒じゃまともな仕事にも就けてないだろうな。あれか、参拝業者か何かか」

妹は調子に乗ったままの義父に呆れたようにため息をついた。

「知らないんですね。実は兄は」

そして一言、ある企業名を口にした。

俺の名前は矢田和。とある業界で経営者として働く42歳だ。日頃の俺は年相応にちゃんとしたスーツを着て、身だしなみにも気を使い、考え方や言葉遣いに違和感を持たれないように生きている。ちゃんとした社会人、大人に見られるようにしなければ。

そんな風に俺が身だしなみや言葉遣いなどと考えているのは、自らの過去が少々風変わりだという自覚からだ。

思春期に難病を患った父を亡くし、それからは母と7歳下の妹・愛花との3人暮らしだった。父がいなくなり、生活は苦しく、反抗期を迎えていた俺は家庭内で屈折した人間になっていた。

「高校には行きなさい。ふてくされてるのも構わないけど、将来は今と違うのよ」

投げやりになっていた俺は、中学生当時の一大行事である高校受験にやる気を見出せずにいた。しかし母はどんな高校でも出ておけと俺の尻を叩き、ひとまず高校へ進学させた。ところがその後、俺は結局母の思いを無視してしまう。

「やめたいんだよね。学校に行ってもすることないから」

せっかく高校に入ったものの、俺は斜に構えて不貞腐れた。そして大学も望まなかった。俺を心配する母とは高校や大学を巡って激しい口喧嘩になってしまったが、最後は俺が自分の意思を押し切って高校をやめていた。

それからの俺の生活は、バイトと一食。高校で出会った友人の紹介でいろんな仕事を転々として働き、お金を貯めて、最後は時間を持て余した若者が行きつきがちなあることを思いついた。

「ちょっと海外を回ってみようと思って」

「はあ? あんた何言ってるの」

「だから海外に行くんだよ。旅だ。旅」

「お兄ちゃん、外国に行くの?」

「そう、外国に行くの。ちょっとだから」

「何言ってるのよ。そんなことしてどうするの? お金は?」

「金なら貯めた。あとは向こうでも働くんだよ」

当時の俺は18歳。以前よりはやさぐれるのもひねくれるのも落ち着いていたとは言えども、考えは幼く、過激だった。「自分探し」を安直に思いつき、昔からよくある放浪の旅に憧れてしまった。

高校や大学と同じで母と揉め、愛花とはお決まりのやり取りをして、最後は俺が家を飛び出した。適当な荷物だけ背負い、アジアを目指して飛行機に乗る。

最初に訪れた東南アジアの国で、俺は思いがけず良い仕事に巡り合う。運に恵まれたのだ。日本料理屋でのバイトと調理の手伝い。日本で飲食業界で長くバイトした経験を買われ、俺は現地の料理店のオーナーに気に入られた。

そこで働き、お金を貯めて、時々旅を挟みつつ、本格的に次の国々へ。アジアを出てヨーロッパやアフリカに少し滞在し、アメリカ大陸へ移る。そんな生活をして約20年。生活が安定していた時期には日本に帰国もしていたが、若い時代の大半を海外で過ごした。

ちゃんとした基盤を作って生活をするために帰国したのはつい最近で、帰ってみれば母は年を取り、愛花はすっかり大人になっていた。

「大人になったって当たり前じゃない? 私もね、35になったんだから」

「そうか。成人したのも随分前のことだもんな」

「そうだよ。だからもうやたらに大人になったとか言わないで」

実家に顔を出して食事をしていると、愛花とは相変わらずの調子で話が弾んだ。愛花は俺と違って堅実に勉強して薬科大学を出て、今や薬剤師として働いている。好き勝手な兄の振る舞いを見聞きしながら、愛花は自分がどうなりたいのか真剣に考えたのだろう。俺の代わりに母ともうまく付き合ってくれていた。

妹には頭が上がらないと思っていたが、愛花はさらに人生の次の一歩を踏み出そうとしていた。

「あのね、私、結婚決まったの」

「あ、そうだった。和に言わないといけなかったのよね」

愛花がさらりと人生に関する重大報告をしたかと思えば、母が呑気に続ける。

「あんた忙しいから言うタイミングがなくてね」

「いや、タイミングがないって。そんな大事なこと、いつでもいいから教えてくれないと」

「まあもう決まったから、そんなに驚かず騒がずでね」

愛花は驚き、軽く興奮した俺をなだめながら、自分の結婚情報を補足する。相手は大手商社に務める同年代の会社員。名前は小森健次郎と言って、優秀なのは間違いないが、びっくりするほど腰の低い人なんだとか。

「健次郎は次男だから、放任主義的に育てられて会社員なんだけど、実家は代々医者が多いらしいわ。それで曾祖父の代からは病院を経営しているという、そんな家の人なの」

「そうか。それはすごそうだな」

「でも健次郎は家は家、自分は自分っていう人で、後継ぎのお兄さんもそんな感じ。お母さんもそういう雰囲気」

「じゃあ本当にいい人なんだな」

「そう。この年でそんな人に出会えて感謝しかないって感じよね」

愛花は淡々と婚約者の健次郎君の身の上を教えてくれた。知り合ったのは仕事関連の勉強会で、30代半ば同士のあれこれ悩み相談をしているうちに意気投合したそうだ。結婚前提の付き合いをしながら家族との面談の感触も上々で、このまま結婚してほしいというのが相愛花が相手家族の約1名に対して表情を曇らせた。

「義家族の大半はいい人なんだけどね。1人だけくせ者がいて」

「誰だよ」

「哲也さん。お父さんがね、病院長で、代々の病院を取り仕切ってるんだけど、その人がまあプライドとエリート意識の塊でね」

これから愛花の義父になる哲也さんという人は、いい人揃いのはずの小森家の中で相当浮いているのだと愛花は言う。しかし病院で絶対的な権力を持ち、声が大きく、妙にカリスマ性もある義父は、さながら王様のように振る舞っているのだそうだ。

義父の持論は「医者は世の中で選ばれし存在で、看護師や薬剤師などの医療従事者はその他大勢で誰でも簡単になれるもの」というもの。聞けば呆れるような主張だが、愛花の義父は本気でそう言っているのだ。

「そうか。それは強烈な人だな」

「そうなんだけど、お兄ちゃんも会ってもらうことになるんだからね」

「え? ああ、それはまあそうだな」

「あと今度ね、家族で食事会するのよ。まあ、私たち側の人たちとあちらは健次郎君だけなんだけど」

「ああ、そうなの?」

「日程が決まったら連絡するけど、和も参加して」

いつの間にか母と愛花のペースに乗せられる。俺も顔を出す食事会の予定を2人に決められた俺は、直近のスケジュールを思い出しながら調整を考える。

そしてその食事会の開催は、母と愛花と話をしてから2週間後のこと。場所は実家近くのレストランで、俺はそこで親戚たちに合流した。亡くなった父の両親も顔を見せてくれて、久々の再開にそれだけでも話が弾んだ。

俺は食事の前に愛花から健次郎君を紹介してもらい、挨拶を交わした。

「初めまして。すみません。本来はもっと早くご挨拶をすべきでしたが」

健次郎君は愛花の言うように腰の低い男性だった。小綺麗で背が高く、声は穏やかで、所作が綺麗。

「愛花さんと結婚させていただこうというのに、お兄さんにお会いしようともせず、失礼いたしました」

挨拶をしながら俺に謝罪をして頭を下げ続ける。俺はそんな健次郎君に頭を上げてもらい、愛花を頼むとお願いした。

「いや、私のことは気にしないでください。あなたには愛花をお願いするだけです」

「これからどうか愛花をよろしくお願いいたします」

俺の言葉に健次郎君は真摯に嬉しい返事を返してくれた。義兄弟として彼との付き合いに障壁はないかもしれないと感じて、俺の気は少し軽くなった。

食事会まで愛花と健次郎君と話をして、そのまま席に着く。こちら側の親戚と健次郎君が顔を合わせ、自己紹介を含めながらの歓談。しばらくは明るく穏やかな会話が続いていたが、健次郎君が「話がある」と切り出した。

その話とは、愛花が語っていた健次郎君の父親・哲也さんについて。

「これから皆さんと父が顔を合わせることになります。もうすでに私の父について聞いている方もいらっしゃるかと。ただ、まだ知らない方に知っておいていただきたいことがあるんです」

プライドとエリート意識の塊と愛花が言った哲也さんには、息子の健次郎君も含めて身内全員が手を焼いているらしい。

「私はこうして愛花さんと結婚することとなりましたが、私の兄は父の言動が原因で結婚を諦めた過去があります」

健次郎君は正直に家族の暗い過去を打ち明けた。なぜめでたい席でそんなことをしたのか。彼は詫びながらその理由も説明してくれた。

「兄の結婚がなくなってしまったのは、父が婚約者の親族に失礼な言動を取ったことが原因です。私たち家族も注意はしますが、父は私たちの目を盗むもので」

健次郎君の兄に振りかかった不幸と、その原因である哲也さんについて、すべて正直に話す。真剣な顔で申し訳なさそうにしている彼を見ていると、これまでどれほど父親に苦労させられてきたのか分かる気がした。

「今後、父は皆さんに何か失礼を働くかもしれません。その時は私に報告をしてください。私や家族が見ていないところで何かしても、私は許さないし父を叱ります。とにかく愛花さんと皆さんを守りますので」

健次郎君はこれまで父親の行動と言動が引き起こした数々のトラブルを振り返り、自分の結婚にも何かが起きると考えていた。父の哲也さんが悪気はないが無自覚の傲慢と悪意で人を傷つけてしまうかもしれない。健次郎君は結婚を前に自分なりにできることとして、事前に注意をすると決めたと言った。

健次郎君の真摯な告白を、俺と親戚たちは好意的に受け止めた。なかなか言えない家族の不都合な問題を正直に伝えてくれた。俺たちは全員そう思っていた。何も知らされないまま愛花が結婚するようなことになり、後から振り回されるのは悲劇に他ならない。

人によって健次郎君の印象は違うだろうが、俺も親戚たちも彼の人柄を認めていた。

食事会はそれから和やかさを取り戻し、無事にお開きになった。

帰り際、俺は健次郎君に話しかけられた。健次郎君は俺に、もし父と話す機会ができたら、父の話は話半分で聞いてくれと苦笑いを見せた。

「父はきっと実家の病院について自慢するはずなんです。うちは中核病院として地域に多大な貢献をしていると。それに続けて、病院をそこまで押し上げたのは自分の才能があったからだと言うはずなんです」

「そうなの。でも病院を経営しているのは本当なんだよね」

「そうなんですが、病院は代々続いているだけという感じで、中核病院なのも真実ですが、それは地域に他にその規模の病院がないからという、そんな運があってのことなんです」

「はあ、そうなんだ」

健次郎君は俺に「すみません」と詫び、気をつけてほしいと頼んだ。父の哲也さんのプライドの高さと傲慢さは想像もつかないほど手に負えない。実家の病院を継ぐ前の勤務時代も、その性格が災いして同僚たちとトラブルを起こしてばかりだった。

「とにかく何もかもを勘違いしていて、プライドの高さばかりが嵩んでいて、本当に困るんです」

頭を抱えてしまいそうな健次郎君を見て、自分の父がどうだったか思い出す。エンジニアだった父は物静かで賢い人で、人前で騒ぐことも出しゃばることもなかった。自慢話など、父の口から聞いた記憶すらない。

「父親と言っても、いろんな人がいるんだね」

俺はぽつりと漏らしていた。

父を早くになくし、俺にはあまり父親のイメージがない。それでもその代わりに海外放浪でいろんな国のいろんな人を見てきた。人への免疫はそれなりにある方だと思う。まだ会っていない健次郎君の父親・哲也さんは未知の人。

そんな風に考えていたこの時の俺は、まさか自分が哲也さんの標的にされるなど想像もしていなかったのだ。

食事会からしばらくの間、両家の親族が会う機会はあったらしい。「らしい」と俺が言うのは、自分がそこに参加することはなかったから。忙しさを理由に、俺は愛花と健次郎君の結婚式当日まで健次郎君側の親族と顔を合わせるチャンスを逃していた。

「式と疲労園も仕事なんだよとか言われたらどうしようかと思ってた」

「あのなあ、いくら何でもそこまでするわけないだろう」

「お兄ちゃんのことだからね。それもあるかと思ったの」

式当日。俺はドレスに着替えた愛花と控え室で軽口を叩き合っていた。親族や式に列席する人たちは時間まで各々自由に過ごしている。控え室にいたのは俺と愛花と式場のスタッフという感じでのんびりとしていた。

しかしそこに、俺には見慣れない風格溢れる男性が割り込んできた。控え室に来たところを見ると関係者や親族なのだろうとは思った。男性は辺りを見回し、俺に目の焦点を合わせると、出し抜けに俺に問いかけた。

「君が愛花さんのお兄さんかね?」

「ああ。ええ、そうですが」

男性は俺の答えに頷くと、そのまま自己紹介に入った。

「私は健次郎の父だ。小森哲也。小森病院の院長をしている。知ってるだろ? 小森病院だ」

「あ、ええ、あの、矢田と申します。すみません、ご挨拶もできず」

哲也さんの自己紹介はどこか上からで、王平な風味が出ていた。健次郎君が言っていた厄介さを感じはしたが、俺はこれまで自分が哲也さんに会っていないという引け目から、まずは名乗って頭を下げる。

俺と小森哲也さんの初対面はこうして噛み合わずに始まり、そのままずれたままだった。それどころか、ずれはどんどんひどい方向に進んでいったのだ。

「それでお兄さんの和さんは、高校を卒業していないと聞いているんだがね。それで海外に家出したと」

哲也さんは俺への不審感を一切隠さず、睨みつけるような目で俺を見て俺の経歴を確認した。母と愛花が俺の話をどう語ったのかは分からないが、哲也さんは自分なりに好きに解釈をしたようだ。それは事実だから認めるが、俺を「中卒」と強調し、放浪の旅は「家出」だと言っていた。

「それにしてもなあ」

「ああ。ええ、すみません」

「中卒というのは世の中のゴミだな。知れ物、一族の恥というものだ」

いくつもの大きなため息をつきながら、哲也さんは俺の顔を見て吐き捨てた。

「小森の家が知れ物と関わらねばならないなど、先祖に顔もできん」

言いたい放題。一方的に人を罵倒する哲也さんに面食らった俺だが、もう一度「そうなのか」と納得する。事前に健次郎君から聞かされていた哲也さんの性格とやり方。家族と身内の目を盗んで、誰かに悪意と傲慢さをぶつける。

「あの、よろしいですか?」

哲也さんを嫌な人、わけのわからない人だと思いつつ、何かしようと考えた。多少の怒りを覚えながら、まずは自分について説明をしようと口を開いた。

「高校を退学した後のことなんですが、少し説明させてもらえませんでしょうか?」

「そんなの面倒だ。聞く価値もない」

哲也さんは俺の顔の前で手をひらりと振り、俺の話を遮って断った。そしてどこに行くのかと思えば廊下に顔を出し、自分の親族たちを呼び寄せた。小森家の人々は不思議そうな顔で控え室に現れた。

これから何が起きるのか。そんなことを考える間もなく、哲也さんが得意げに俺を指差した。

「こいつ、中卒の馬鹿者で知れ物だ。だからなんだろうが、何もわからずに小森家と関わろうとしてるんだ」

俺を嘲り、哲也さんは親族たちに向けて大声で笑う。

「本物のバカには恥という概念すらないということだ。傑作だな」

「おい、哲也君。彼に失礼だろう」

哲也さんの大笑いの合間に、引きつった顔の親族から咎める言葉が漏れる。哲也さんの兄弟らしき男性は哲也さんの肩を掴んで止めようとしていた。しかし哲也さんの笑いは止まらず。哲也さんに変わって親族が代わる代わる俺に謝罪する始末。

笑い声と沈んだ雰囲気と、わけのわからない空気が混じる空間になってしまった。

「お父さん、もうそのぐらいでやめてください」

ふと見ると、愛花が椅子から立ち上がっていた。薄ら笑いを浮かべているような愛花だったが、目を見れば笑っていない。口元を引き締め、哲也さんの前にどっしりと立ちはだかる。

「兄の話を聞きたくないようなので、私から。お父さん、兄の仕事は知ってますか?」

愛花が哲也さんに訪ねると、哲也さんは半笑いで答える。

「中卒じゃまともな仕事にも就けてないだろうな。あれか、参拝業者か何かか」

愛花は調子に乗ったままの哲也さんに呆れたようにため息をついた。そして一言、ある外資系企業を口にした。

「スタリオメディケイド、ご存知ですよね」

ため息混じりの愛花の言葉に、哲也さんが首をかしげる。それを見た愛花は今度ははっきりと会社名を言う。

「だから、スタリオメディケイドです」

「それがどうした? アメリカの製薬会社だ」

「そうですよね。そのぐらいはご存知ですよね。小森病院とも取引があるでしょうから」

スタリオメディケイドという、アメリカで最も歴史が長いと言われる製薬会社の名前を巡って、愛花と哲也さんが静かにやり合う。アメリカ最古の製薬会社であり、世界中でも知られているスタリオ。その始まりは岐阜の薬を開発し成功したというものだが、時代と共に成長した。今や抗がん剤の製造と医療機器の開発にも進出。医療機器の分野ではいくつかの特許を取得している。スタリオの業績で最も有名なのは、皮膚疾患の特効薬を開発したこと。過去にもスタリオ社が医療の世界で名を上げて貢献をしてきた事実は大きい。世界中の病院にスタリオの薬と医療機器は下ろされているわけで、哲也さんが誇りにする小森病院もしかりだ。

愛花の様子を見て、俺は話を引き継ごうとした。スタリオに触れたのなら、その先は責任を持って自分が話す。しかし愛花は抑えきれないのか、すべてを明かした。

「お父さん、うちの兄はね、そのスタリオの日本法人社長なんですよ」

「は? なんだと?」

哲也さんが驚きと困惑が入り混じったような表情をして声をも漏らした。

「つい最近就任しましてね。まあ、まだ世間からそれほど認知されてないんでしょうね」

「ああ、そのぐらいにしてくれ」

「いいじゃない。ずっと不言いらないといけないんだから」

「だからって、そんな売り言葉に買い言葉みたいにしなくても」

「そんなこと言うから馬鹿にされるの」

思いがけない俺と愛花の口喧嘩も起こり、場はますます収拾がつかなくなった。哲也さんは不思議そうに首をかしげ、その背後の小森家の人々は戸惑っている。

「すみません。1から説明しますので」

俺は頭を下げて、一つ一つことの成り行きを明かした。

哲也さんが「家出」と表した自分探しの放浪の旅の最中、俺は20代半ばに差しかかる頃からアメリカに渡って滞在していた。あるタイミングでロサンゼルスの田舎町の牧場兼ホテルでの料理人の仕事を見つけ、俺は住み込みで働くようになった。

そこで俺はある感染症にかかってしまい、仕事に穴を開けることに。当時の俺の雇い主は知り合いの医者を紹介して、俺に診察を受けるように言ってくれた。そして雇い主の知り合いの医師が、とてつもなく良い人だった。

「その医師が、学校に通ってみてはどうかと。アメリカは意思と希望がある人には門戸を開いているから、日本人というのは関係なく挑戦すべきだと言ってくれましてね」

俺の身の上話を聞いた医師は、日本で中断した勉強を再開しろと俺に勧めた。移民が多いアメリカは、挑戦して学ぶ意思のある者に優しい。

医師はそれから決断しきれない俺に代わって、俺の将来の道筋を作ってくれた。俺に仕事を辞めさせ、自分の家に居候させて学校に通わせてくれた。しかもそれだけにとどまらず、日本で言う高校資格を取らせた後は、コミュニティカレッジから大学への編入を目指すとアドバイスしてくれた。

「僕はあまりよく分かっていませんでしたから、彼のすすめに乗りました。高校を出て大学を目指す。そうしているうちに、今に至る道筋が示されました」

俺がコミュニティカレッジに通っている頃、医師が俺にスタリオ社の話を聞かせてくれた。何の意味もない、ただの偶然の産物だったが、医師の親友がスタリオで研究員をしていたのだ。話を聞いているうちに、かつて俺の父が患った難病の名前が出てきた。医師の親友はその難病の薬を開発している。

「薬学の天才の親友ならば、いつかその夢を叶えるだろう」と医師は誇らしげだった。

「その話は本当にたまたまだったと思いますけど、僕には意味がありました。僕や家族が手をこまねいた病気に立ち向かおうとしてくれる人がいるんだと」

医師の話を聞いた俺は、自分の運命を勝手ながら悟った。父と同じやるせなさを感じているかもしれない人々に寄り添い、父の無念を晴らす。いつか自分もスタリオで働けば、願いを現実にできるのではないか。

そうして一念発起した俺は、現地の大学に編入して薬理科学とマーケティングを学んだ。語学力はアメリカ生活とそれまでの旅で磨かれ、問題はない。人生で初めて努力と根性を見せて勉強し、インターンも経験してスタリオ社への就職に挑んだ。最終段階になると、俺を救った医師も俺の売り込みに協力してくれた。

そうして俺はスタリオ社への入社を果たし、現地法人でMRとして活動を開始したのだ。

変わった経歴を持つ日本人として見られながら、俺はとにかく働いて成果を上げようと心がけた。変わり種として注目された俺がすべきだったのは、オーソドックスな活躍をすることだけ。脈絡とセオリーを無視すれば反発を買う。アメリカだろうが何だろうが、基本に忠実に働き続け、俺は日本法人への異動を命じられた。それも一般社員ではなく、日本法人の社長として。

「社長就任を抜擢と指摘されたら、そうとしか言えません。懸命に働く日本人らしさを認められて、日本に帰ることを任されたんですから」

「兄はそう思っているようですが、私にとっては誇りです。心の底から兄を誇っていいと思っています。だって兄は、小森スタリオメディケイドの日本法人社長ですから」

俺の長い説明の後に、愛花がダメを押す。それに小森家の人々が頷き、笑顔を見せる。その近くで、哲也さんが顔色を失っていた。

「こんなバカな話が」

哲也さんから、まだ諦めていないような声が漏れた。

「あの、まだ言いますか?」

そんな哲也さんに、愛花は追い込みをかけた。

「私の尊敬する家族の誇りの兄を、散々バカにしてくださって、どうしましょうか?」

愛花は正直で強気で価値観がしっかりした性格だ。もちろん協調性もあって器用に生きているが、ここぞという時の底力みたいなものは相当強い。

「はっきり言って、私は許せません」

愛花は哲也さんに畳みかけ、どうやら謝罪を要求していた。俺はそれを止めては見たが、こうなってはもう愛花の天下だった。

「私は、つい勘違いもあったから」

「はい?」

謝らない哲也さんを愛花が問い詰める。このままでは騒ぎが収まらないと思っていると、哲也さんの兄弟が口を開いた。

「お前の勘違いとプライドで、スタリオ社を敵に回すつもりか? そんなつもりは……」

「加減にしろ。そんなことでは病院は立ち行かなくなるぞ。うちの病院は、取引先がいなくなっても困らないような力のある病院じゃないんだ」

愛花も怒っていたが、哲也さんの兄弟の怒りも頂点に達していたらしい。スタリオ社との関係が絶たれることもそうなら、哲也さんの振る舞いがきっかけで何が起こるか分からない。少しは我が身を顧みろと、哲也さんは兄弟に叱られた。

「申し訳ありませんでした」

兄弟に窘められ、絶望を味わったのか。哲也さんは俺に土下座して詫びた。

「どうか、お許しください」

哲也さんの頭に手を置き、小森家の人々も俺に謝った。

「今日はめでたい日ですからね。おやめください。頭を上げて、仕切り直しましょう」

俺はひとまず哲也さんを立ち上がらせた。

「この件は健次郎君には伝えません。ただ、それは今だけのことです。式が終わったら、今日何があったのかは報告します」

結婚式と疲労園を壊したくなかった俺は、哲也さんを許すのは一時的な対処法だと釘を刺した。その上で、今は大人として平静に過ごしましょうと哲也さんに呼びかけた。

「今後は、今回の件を踏まえてのお付き合いを。過去から学んだとして、今後もスタリオ社との取引の継続をお願いします」

「それはもちろん。こちらこそお願いいたします」

「それから、愛花も薬剤師として働いています。兄弟揃って医師ではありませんが、医療分野に尽くすべく働いています。そのこともご理解ください。お願いします」

「はい。それはもう十分に理解を。そして私も協力を」

俺は静かに頭を下げる哲也さんに握手を求めた。和解と手打ちの印。俺はそうして哲也さんと握手を交わす。

そしてそのまま、慌ただしく結婚式と疲労園に向かった。式は厳かに、疲労園は温かく賑やかに進んだ。騒ぎを忘れ、特別な日に思いを巡らせ、それぞれが心を寄せる。こうして愛花の結婚式は無事にお開きになった。

結婚式が終わり、日常が戻り、俺は仕事で忙しく過ごしている。あの騒動以来、哲也さんは牙を抜かれて大人しくなっていた。自信を喪失したんじゃないかと言う人もいるが、そうなのかは分からない。しかし今、哲也さんは人の顔色を伺いながら、一挙手一投足を気にして生きているようだ。

愛花は義父になった哲也さんを見て、結婚式の日の騒ぎがいい薬になったのだと言っている。あのショックがあったから、哲也さんは黙るようになったと笑っている。

雨降って地固まる。それが実現されたようなものだと思っているが、これからもそれが続くように、俺は心の底から祈っている。

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