離婚してから十五年、母のように慕っていた義母と、商店街で偶然再会した。深く刻まれた白い薬袋を握りしめた震える手。目が合った瞬間、これまで抑えてきた恨みも恋しさも一度に溢れ出して、私はその場に崩れ落ちて泣いてしまった。
晩秋の風が冷たく吹きつける午後だった。裕子は買い物かごを提げて、商店街の路地をゆっくりと歩いていた。今日は娘の大好きな柿を買い、漬け物用の白菜も少し選んでみようという考えだった。
「あら、裕子さん、いらっしゃい。今日の白菜は本当にいいわよ」
八百屋の女将さんがにこやかに挨拶してくれた。裕子は微笑んで頷いた。この商店街に通うようになってからもう何年も経ち、今ではすっかり常連だ。娘が白菜漬けをとても好きなので、いつも気を使って良い白菜を選んでいる。女手一つで育てている娘だからこそ、なおさら良いものを食べさせてあげたいという気持ちが強かった。
「これをください」
「はい。いいのを選んだね。包んでおくね」
裕子は白菜の入った袋を買い物かごに入れ、果物屋へ向かった。柿をいくつか選べば今日の買い物は終わりだ。家に帰って、娘と一緒に夕飯の準備をしようと思った。
果物屋の前で柿を選んでいる時だった。古い咳、聞こえるか聞こえないかというような咳の音が聞こえてきた。裕子は思わず顔を上げた。薬局の方から聞こえてくる音だった。薬局の前に一人のおばあさんが立っていた。背中はひどく曲がり、片手には白い薬袋を固く握りしめている。顔はすっかりやせこけ、髪は真っ白になっていた。
裕子の心臓が急に早く鼓動し始めた。どこか見覚えのある後ろ姿だった。まさか、まさかあの方のはずがない。そんなはずはないと思いつつも、なぜか胸がドキドキした。
おばあさんが薬袋を鞄に入れようとした時、また咳をした。今度はもっとひどく長い咳だった。その姿を見た瞬間、裕子は全身が凍りついた。間違いなくあの方だった。十五年前の最後の日以来、一度も会うことのなかった義母の澄子だった。
随分変わってしまっていたけれど、裕子には一目でわかった。
「お義母さん」
口から自然と声が漏れた。声は震え、買い物かごを持つ手もガタガタと震えた。まるで夢を見ているようだった。これは本当に現実なのだろうか。
澄子さんがゆっくりと顔を向けた。かすんだ目で裕子を見ると、はっと驚いた表情をした。しばらく無言で互いを見つめ合った後、澄子さんの唇から震える声が漏れた。
「裕子さん……あなたなの?」
澄子さんの声はひどくしゃがれていた。まるで長い間話していなかった人のように枯れて、小さかった。彼女も裕子だと分かった瞬間、涙を落としそうになった。裕子はこらえていた涙が一気に溢れ出すのを止めることができなかった。澄子さんの変わり果てた姿があまりにも衝撃的だったからだ。
以前はあんなに堂々として元気だった人が、こんなに小さくなってしまっているなんて想像もしていなかった。記憶の中の澄子さんはいつも忙しく、活気に満ちた人だった。朝早くに起き出して家事を手際よくこなし、商店街に出れば店の人たちと大きな声で冗談を言い合っていた。しかし今の澄子さんはあまりにも違っていた。
商店街の騒音が急に遠のいていくようだった。まるでその場に二人だけしかいないようだった。
「お義母さん、どこか悪いんですか?」
裕子は泣きじゃくりながら尋ねた。澄子さんの手に握られた薬袋が随分と分厚く見えたからだ。そしてさっきからずっと咳をしている。
「うん、ただの年のせいの風邪よ」
澄子さんは少し顔を背けて答えた。しかし言い終わるか終わらないかのうちにまた咳込んだ。今度はさらにひどく長い咳だった。胸が苦しいのか、片手で胸をぐっと抑えている。
裕子は澄子さんの姿を改めて見た。頬はこけ、服装も以前のようにきちんとしていない。コートは古びて見え、靴もかなりすり減っていた。特にその寂しげな後ろ姿が、裕子の胸を深くえぐった。
十五年前、最後に会った日のことが蘇る。離婚届を提出して出てきた裕子を、澄子さんは黙って見つめていた。あの時の澄子さんの表情はどんなだっただろうか。今思えばきっと、とても辛かったはずだ。あの頃裕子は怒りに燃えていた。夫の浮気が発覚したというのに、義母は息子の味方ばかりしているように思えたからだ。しかし今になってみれば、澄子さんもどうしていいか分からなかったのだろう。息子と嫁の間で、どれほど苦しかったことか。
「裕子さんは、元気にしていたの?」
澄子さんが恐る恐る尋ねた。裕子を見つめるそのまなざしには、恋しさと申し訳なさが入り混じっていた。まるで長い間聞きたかったことを、ようやく口にできたかのようだった。
「はい。なんとか暮らしています」
裕子は涙を拭いながら答えた。本当に言いたいことは山ほどあったけれど、突然の再会に何から話せばいいのか分からなかった。喉まで出かかった言葉が、また胸の奥へと沈んでいった。
裕子の生活は楽ではなかった。一人で娘を育て、生活費を稼がなければならなかった。昼はジムの仕事をし、夜は家庭教師をして、一日一日を必死に生きてきた。しかしそんな苦労を澄子さんに話すことはできなかった。
澄子さんは裕子の顔をじっと見つめた。裕子も随分変わったなと思っているようだった。三十代前半だった嫁が、今や五十代になっているのだから。顔には歳の跡がはっきりと刻まれていた。
「娘は……あの子はどうしているの?」
澄子さんがまた恐る恐る尋ねた。孫の恋しさが声に滲み出ていた。これまでどれほど会いたかったことだろう。
「元気に育っています。もう二十歳になりました」
裕子の答えに、澄子さんの目が一瞬輝いた。しかしすぐに寂しそうな表情を浮かべた。孫の成長を見守ることができなかったことへの心残りなのだろう。
「そう、もうそんなに大きくなったのね」
澄子さんはつぶやくように言った。孫が小さかった頃、一緒に遊んであげた記憶が蘇っているようだった。あの頃は本当に幸せな時間だったのに、今では全てが思い出になってしまった。
「勉強はできるの?」
「はい。大学の二年生です」
「そう。素直にいい子に育ったのね」
澄子さんの声には誇らしさが混じっていた。そばで見守ることはできなくても、孫が立派に育ったことだけで安心したようだった。そしてまた咳をした。今度は前よりもひどく見えた。咳込みながら腰を曲げる姿が、とても辛そうだった。
裕子は気持ちを落ち着かせようと務めた。しかし澄子さんの衰えた姿を見ると、胸が張り裂けそうだった。一人で薬局に通って、こうして暮らしていらしたんだ。そう思うとまた涙が溢れてきた。
「お義母さん、もしやお一人でお暮らしなんですか?」
裕子は恐る恐る尋ねた。答えは想像できていたけれど、確かめたかった。
「ええ、一人よ」
澄子さんの答えは淡々としていた。しかしその淡々とした響きの中に、深い孤独が隠されているように感じられた。家に帰っても誰もいない。空っぽの家が待っているのだ。
裕子は胸が詰まる思いだった。以前はいつも賑やかだった澄子さんの家が、今は静まり返っていることが信じられなかった。
「達也は……達也さんはどうしていますか?」
裕子は元夫の安否を尋ねた。憎いけれど、それでも娘の父親だった。そして澄子さんにとっては、たった一人の息子なのだから。
澄子さんの表情が一瞬で暗くなった。何かを言いたそうだったが、簡単には口を開かない。深いため息をついてから、ようやく口を開いた。
「あのことは……連絡が取れないの」
澄子さんの声には怒りと失望が入り混じっていた。息子に対する深い傷が感じられた。きっと良くないことがあったのだろう。裕子はそれ以上は聞かなかった。澄子さんの表情を見るだけで何かがあったことは分かったし、今この瞬間にそんな話を聞きたくもなかった。
「じゃあ、私はこれで失礼するわ」
澄子さんが先に口を開いた。何か言いたげだったが、言葉がうまく出てこないようだった。長い年月の断絶が、大きな気まずさを生んでいたのだろう。
「お義母さん……」
裕子も何かを言おうとしてやめた。十五年もの間に積もった言葉が喉まで出かかっていたが、突然の再会で整理がつかなかった。何からどう話せばいいのか。
二人はしばらく互いを見つめ合った。その短い瞬間にも、多くの感情が交錯した。恋しさ、申し訳なさ、恨み、心配。言葉では言い表せない複雑な思いだった。
澄子さんがゆっくりと歩き始めた。背中はさらに曲がって見え、足取りも以前のような力強さはなかった。涙を固く握りしめたその小さな手が、裕子の目に焼きついた。裕子はその後ろ姿を見つめながら、また声を上げて泣いた。澄子さんが路地の向こうに消えるまで、ずっと見つめていた。
その夜から裕子はろくに眠れなかった。目を閉じると、澄子さんの衰えた姿が何度も浮かんできた。特にあの白い薬袋を固く握りしめていた姿が、頭から離れなかった。
「お母さん、どうしてそんなに寝返りばかり打つの? 眠れないの?」
隣の部屋から娘が心配そうな声で尋ねた。
「ううん、大丈夫。早くお休み」
裕子はそう答えたが、本当は大丈夫ではなかった。胸の中が息苦しく重かった。まるで大きな石が胸を押し潰しているかのようだった。
翌朝も裕子の心は沈んだままでした。出勤の準備をしながらも、ずっと澄子さんのことばかり考えていた。一人であのように薬をもらいに行き、家に帰っても誰もいない空っぽの家で、たった一人で過ごしている姿を想像すると胸が痛んだ。
「お母さん、今日なんか変だよ。何かあったの?」
娘が朝食を食べながら裕子の顔をじっと見つめた。やはり家族は少しの変化にもすぐに気づくものだ。
「何でもないわよ。ただちょっと疲れてるだけ」
裕子は必死に平静を装った。まだ娘に話すには、自分自身の気持ちの整理がついていなかった。
仕事の帰り道、裕子は再びあの商店街の近くへと足を向けた。もしかしたらまた澄子さんに会えるかもしれないという淡い期待があったのだ。しかし薬局の前も路地も、昨日とは違っていた。澄子さんの姿は見当たらなかった。
家に帰って、裕子は昔使っていた引き出しを開けた。その中に、澄子さんが昔プレゼントしてくれたハンカチがあった。淡いピンク色で、縁には小さな花の模様が刺繍されている。裕子が結婚して初めての年にひどい風邪を引いた時、澄子さんが心を込めて選んでくれたものだった。
「これ、綺麗でしょう。うちの嫁さんに似合うと思って買ったのよ」
あの時の澄子さんの温かい声が鮮明に蘇った。裕子のことを本当に実の娘のように可愛がってくれた澄子さん。幼い頃に実の母を亡くした裕子にとって、本当の母親のような存在だった。
裕子はハンカチを固く握りしめて座っていた。するとこらえていた涙がまた溢れ出てきた。なぜあの時、もう少し理解しようと努力しなかったのか。なぜもう少し話し合おうとしなかったのか。後悔が押し寄せてきた。
数日が経った。三日目の朝、裕子は出勤準備をしながら決意した。澄子さんがどんな病気で薬を飲んでいるのか、どれほど深刻な状態なのか、知りたくなったのだ。昼休み、裕子はその近くの薬局に行ってみた。
「すみません。お年寄りの方を一人お尋ねしたいのですが。七十歳前後で、白髪のおばあさんです」
「ああ、澄子おばあさんのことですね。胃薬をもらいによくいらっしゃいますよ」
薬剤師さんは親切に答えてくれた。
「胃薬ですか? かなりひどいのでしょうか?」
「慢性胃炎をお持ちで、薬をずっと続けないといけないんです。あと貧血も少しありますね。再検査も受けないといけないとおっしゃっていましたが、今週中には病院に行くそうです」
裕子の心はさらに重くなった。思ったよりも状態が良くないようだった。一人で病院に行くのだろうか。具合が悪いのに、誰か付き添うべきではないか。
その夜、裕子は娘と夕食を食べながら悩んでいた。澄子さんの再検査の日が近いという薬剤師さんの言葉がずっと心に引っかかっていた。
「お母さん、本当に何かあったんじゃないの? ここ数日ずっと変だよ」
娘が再び尋ねた。今度はもっと心配そうな表情だった。裕子は娘の顔を見つめた。もう大人になった娘に、祖母の話をすべきか。それとももう少し時間を置いて考えるべきか。しかし、今澄子さんが一人で再検査を受けに行くと考えると、心が落ち着かなかった。誰かが付き添ってあげるべきだという思いが強くなった。
二日後の午後、裕子は勇気を出して澄子さんに電話をかけた。昔の番号がそのままかどうか分からなかったが、幸いにもつながった。
「もしもし」
澄子さんの声が聞こえた。相変わらずのしゃがれ声だったが、裕子にとってはとても懐かしい声だった。
「お義母さん、私、裕子です」
裕子の声は震えていた。十五年ぶりにかけた電話に緊張していた。
「裕子さん……あなたから電話をくれるなんて」
澄子さんも驚いているようだった。しばらく沈黙が流れた。
「お義母さん、もしよければ、時間があれば少しお会いできませんでしょうか?」
裕子が恐る恐る尋ねた。
「ええ、いいわよ。どこで会う?」
「商店街の近くに小さな喫茶店があるんですが、そこで」
「分かったわ。いつ?」
「今からでもご都合いかがですか?」
「ええ、出かけるわ」
電話を切り、裕子は急いで着替えて家を出た。本当にまた会えるんだ。何から話せばいいか分からないけれど、まずは会って安否を確かめなければ。
喫茶店に先に着いた裕子は、隅の席に座って待った。外は秋の雨が静かに降っており、店内は温かく静かだった。十分ほどして澄子さんが入ってきた。傘を畳みながら辺りを見回し、裕子を見つけるとゆっくりと近づいてきた。
「お義母さん」
裕子は立ち上がって挨拶した。二人の間には気まずい沈黙が流れた。
「雨が降ってきたわね」
澄子さんがつぶやくように言った。
「ええ、急に降り始めましたね」
裕子も気まずくて天気の話から始めた。お茶が運ばれてくると、二人は静かに飲んだ。澄子さんの手が少し震えているのが見えた。湯のみを持つ時、カチカチと音がした。
「お義母さん、手が……」
「うん、大丈夫。最近ちょっとね」
澄子さんは手を膝の上に置いた。裕子は澄子さんの変わり果てた姿を改めてじっくりと見た。本当に痩せてしまっていた。頬はこけ、服もダブダブに見えた。
「お義母さん、ご飯はちゃんと召し上がっていますか?」
裕子が恐る恐る尋ねた。
「まあ、なんとか食べてはいるわ」
澄子さんの答えは淡々としていた。しかしその中に、どこか寂しさが感じられた。
「お一人だと、食事の準備も大変でしょう」
「年を取れば、みんなそんなものでしょう」
澄子さんはお茶を一口すすり、そして少し咳込んだ。
「咳がひどいですね」
「最近寒くなったからかしら」
裕子は澄子さんの咳の音を聞きながら胸が痛んだ。薬局で聞いた話が頭をよぎった。慢性胃炎に貧血まであるのに、一人で管理するのは大変なはずだ。
「お薬はちゃんと飲んでいらっしゃいますか?」
「ええ、飲んでいるわ」
「再検査も受けないといけないと聞きましたが……」
「どうして知っているの?」
「いや、薬局で偶然耳にしました」
裕子は正直に話した。
「ああ、そう。もうすぐ行かないと」
「いつですか?」
「今週の金曜日」
「お一人で行かれるんですか?」
澄子さんはしばらく黙っていた。
「大したことじゃないから」
そう答えましたが、裕子は心配だった。内視鏡検査だというのに、一人で行くのは心細いはずだ。
「娘は元気にしているの?」
澄子さんが話題を変えた。孫の話がしたいようだった。
「はい、元気です。大学二年生になりました。文学部で、書くことが好きで」
「そう、賢く育ったのね」
澄子さんの顔に一瞬笑みが浮かんだ。孫の自慢話を聞いて嬉しそうだった。
「写真、ご覧になりますか?」
裕子は携帯電話を取り出した。
「ええ」
澄子さんの目が輝いた。裕子は娘の最近の写真を見せた。大学で撮った写真で、娘が明るく笑っている姿だった。
「まあ、本当に綺麗に育ったわね」
澄子さんは写真を見ながら感心した。携帯電話を持つ手が少し震えていたが、まなざしは温かかった。
「小さい頃、お義母さんによく似ていると言われていました」
「そうだったかしら。もうよく覚えていないわ」
澄子さんは寂しそうな表情をした。孫が小さかった頃の記憶が恋しいようだった。
「お義母さんが遊んでくださったこと、覚えていますよ。たい焼きを買ってくれたり、ブランコを押してくれたり」
「あの頃は良かったわね」
澄子さんの声が小さくなった。しばらく沈黙が流れた。二人とも、昔の良かった時代を思い出していた。
「裕子さん」
澄子さんが先に口を開いた。
「はい」
「あの頃、随分辛かったでしょう」
その質問の中に、申し訳なさと心配が込められていた。裕子は胸が熱くなった。
「もう過ぎたことです」
裕子は淡々と答えた。しかし心の中では、多くの思いが駆け巡った。
「一人で子供を育てるのは大変だったでしょうに」
「でも、立派に育ってくれましたから」
裕子は微笑んで言った。澄子さんは裕子の顔を見つめた。嫁もたくさん苦労しただろうに、こうして気然と話す姿が逞しく見えた。
「私も、たくさん後悔したわ」
澄子さんの告白に、裕子は驚いた。
「お義母さん……」
「あの時、私がもう少ししっかりしていれば」
澄子さんの声には後悔が滲んでいた。
「お義母さんも、お辛かったはずです」
裕子が言った。当時は腹立たしかったけれど、今なら澄子さんの立場も理解できるような気がした。
雨が少し強くなってきた。
「雨が強くなってきたわね」
澄子さんが窓の外を見ながら言った。
「傘はお持ちですか?」
「小さいのを一つね」
「お家まで大丈夫ですか?」
「歩いてすぐだから」
澄子さんは時計を見た。
「もう少しいらして下さい。雨が止んだらお帰りになったら」
「あなたは大丈夫なの?」
「はい。私は大丈夫です」
二人はまたお茶を注文して飲んだ。最初と比べると、雰囲気は随分柔らいだように感じられた。
「お義母さん、最近は何をして過ごされているんですか?」
「別に何も。ただ家にいるだけよ」
「退屈じゃないですか?」
「年を取れば、みんなそんなものでしょう」
澄子さんの答えが寂しげに聞こえた。裕子は、澄子さんが本当に寂しく暮らしているのだと感じた。健康状態も良くないのに、一人で過ごすのはどれほど大変なことかと思うと胸が痛んだ。
「お義母さん、またお会いできますか?」
裕子が恐る恐る尋ねた。澄子さんは少し考えてから頷いた。
「ええ」
「再検査の日、私、一緒に行ってもいいでしょうか?」
澄子さんは驚いた表情をした。
「いや、大丈夫よ。お一人では大変でしょう。大したことじゃないから」
澄子さんは断ったが、裕子は諦めなかった。
「お義母さん、私、一緒に行きたいんです」
裕子の切実な声に、澄子さんはしばらくためらっていた。
「本当にいいの?」
「はい。是非一緒に行かせてください」
「それじゃあ……ありがとう」
澄子さんは恐る恐る承諾した。
雨が少し弱まってきた。二人は喫茶店を出る準備をした。
「お義母さん、金曜日は何時ですか?」
「九時半よ」
「八時半に、お宅に伺います」
「分かったわ」
喫茶店のドアの前で、二人はしばらく立っていた。
「では、金曜日にお会いしましょう」
「ええ、気をつけてお帰りなさい」
澄子さんは小さな傘を広げ、ゆっくりと歩いて行った。裕子はその後ろ姿を見つめながら、胸が熱くなった。
家に帰った裕子は、娘に話した。
「おばあちゃんに会ったの」
「おばあちゃん? どのおばあちゃん?」
「あなたが小さい頃よく遊んでくれた、父方のおばあちゃんよ」
娘の目が大きくなった。
「本当? どうして?」
裕子は娘に今日あったことを順を追って説明した。娘は真剣に聞いていた。
「お母さん、私もおばあちゃんに会いたい」
「金曜日に病院に付き添うから、その後にご挨拶しましょう」
「うん。分かった」
その夜、裕子は心が随分軽くなっているのを感じた。澄子さんと再び話せるようになって、本当に良かったと思った。まだ気まずさはあるけれど、少しずつ近づいていけるような気がした。
金曜日の朝、裕子はいつもより早く起きた。澄子さんと病院へ行く約束の日だった。八時十五分頃に家を出た裕子は、澄子さんの家へ向かった。歩いて十五分ほどの距離だった。
澄子さんが住んでいる路地に着いた時、裕子はしばらく立ち止まった。昔とほとんど変わっていなかった。路地の入り口の駄菓子屋も、そのままだった。澄子さんの家の前に立つと、胸がドキドキした。この門を出てから、もう十五年も経ったんだ。
「お義母さん、裕子です」
裕子はドアを叩いて言った。
「あら、待ってたわ。お入りなさい」
澄子さんの声が聞こえた。門を開けて入ると、小さな庭が見えた。昔は花がたくさんあったが、今は数本しか残っていなかった。家も全体的に古びて見えた。
「さあ、お入り」
澄子さんが玄関のドアを開けて出てきた。外出の準備はできていたが、顔がとても疲れて見えた。
「お義母さん、大丈夫ですか? お顔の色が……」
「絶食しているからよ。昨日の夜から何も食べていないの」
裕子は、それで内視鏡検査のために絶食しているのだと気づいた。
「お辛いでしょう」
「大丈夫よ。さあ、行きましょう」
二人はタクシーに乗って病院へ向かった。車内では特に会話はなかった。澄子さんは窓の外を眺めており、裕子は緊張した気持ちで座っていた。
病院について受付を済ませ、待っている間、裕子は澄子さんの隣に座っていた。待合室には同じくらいの年齢の患者さんがたくさんいた。
「澄子さん、どうぞ」
看護師さんが呼んだ。
「お義母さん、どうぞ。私はここで待っています」
「ありがとう」
澄子さんが検査室に入っていくと、裕子は一人で待った。内視鏡検査がどれくらいかかるか分からないが、終わるまで待つつもりだった。
一時間ほどして、澄子さんが出てきた。顔がさらに青白く見えた。
「お義母さん、大丈夫ですか?」
「少し疲れたわ」
澄子さんは椅子に座りながら言った。
「検査の結果は、いつ分かりますか?」
「一週間後にまた来るように言われたわ」
「お辛かったでしょう」
「まあ、我慢できるくらいだったわ」
しかし澄子さんの表情を見ると、かなり辛かったようだった。
「何か召し上がりますか? 絶食されていたでしょう」
裕子が心配そうに言った。
「家に帰って、おかゆでも作るわ」
「私が作りましょうか?」
澄子さんはしばらくためらっていた。
「いいえ。一人でできるから」
「お義母さん、私に手伝わせてください」
裕子が懇願した。
「本当にいいの?」
「はい。是非手伝わせてください」
結局、二人は一緒に澄子さんの家に帰ることになった。裕子が澄子さんの家に入るのは、本当に久しぶりのことだった。家の中は以前よりもずっとガランとしていた。家具も減り、全体的に寂しい雰囲気だった。
「座っていてください。私がおかゆを作ります」
裕子は台所へ行こうとした。
「いいえ。私がやるわ」
澄子さんが立ち上がろうとした。
「お義母さん、検査でお疲れでしょう。少し休んでいてください」
裕子は澄子さんを制して、台所へ向かった。台所も昔とは随分違っていた。冷蔵庫も小さくなり、食器もかなり減っていた。一人暮らしだから、あまり必要ないのだろう。
裕子は米をといで、おかゆを炊き始めた。久しぶりに立つ台所だったが、手は覚えていた。
「裕子さん」
澄子さんが台所へやってきた。
「はい」
「本当にありがとう」
「いえ、当然のことです」
裕子はそう答えながらも胸が熱くなった。昔はこの台所で、澄子さんと一緒に料理をした。あの頃が懐かしくなった。
おかゆが炊ける間、二人はリビングで待った。澄子さんはソファに座って、薬を飲んでいた。
「お薬、たくさんありますね」
裕子が言った。
「年を取ると、飲む薬が増えるものよ」
「胃はかなり痛みますか?」
「最近、ひどくなった気がするわ」
澄子さんの答えに、裕子は心配になった。
「お一人だと、食事もきちんと召し上がれないからでは……」
「そんなことないわ。ただ、年を取っただけよ」
しかし裕子はそうは思わなかった。一人で暮らしているから、健康管理がきちんとできていないように感じた。
おかゆが炊き上がると、裕子はお椀によそって持ってきた。
「お義母さん、どうぞ」
「ありがとう」
澄子さんはおかゆを一口、口に運んだ。
「美味しいわ」
裕子は澄子さんがおかゆを食べる姿を見つめていた。本当に痩せてしまっていた。
「お義母さん、最近、本当に大変だったでしょう」
裕子の問いに、澄子さんはスプーンを止めた。
「何が?」
「お一人で寂しくて、大変だったでしょう」
澄子さんはしばらく黙っていた。
「みんな、そうやって生きているんじゃないかしら」
裕子は言葉を続けようとしてやめた。何か言いたかったけれど、どう表現すればいいのか分からなかった。
「裕子さんも、一人で子供を育てるのは大変だったでしょう」
澄子さんは逆に、裕子のことを心配してくれた。
「私は大丈夫でした」
「大丈夫なはずがないわ。小さな子を一人で育てるのがどれほど大変なことか」
澄子さんの言葉に、裕子は胸が痛んだ。
「本当に大変でした。特に娘が小さい頃は、本当に精一杯でした。あの時、お義母さんがいてくれたらと思いました」
裕子が恐る恐る言った。澄子さんの手が一瞬止まった。
「あの時、私がもっとしっかりしていれば……」
「お義母さん……」
「いいえ。私が悪かったの。私が嫁のことをもっと気遣うべきだったのに」
澄子さんの声には後悔が満ちていた。裕子はその言葉を聞いて、心が複雑になった。これまで溜め込んでいた感情が込み上げてきた。
おかゆを食べ終えた澄子さんは、薬を飲んで少し休んだ。裕子は食器を片付け、台所を整理した。
「そろそろ失礼します。お義母さん」
裕子が言った。
「ええ、ご苦労様」
澄子さんは玄関まで見送ってくれた。家を出た裕子は、路地を歩きながら考えに沈んだ。今日、澄子さんと過ごした時間が心に残った。昔のようにはいかないけれど、それでもまた近づいていけるような気がした。
しかし、路地を出たところで、急に複雑な感情が押し寄せてきた。澄子さんの孤独な姿を見るのが辛かったが、同時に昔の出来事が蘇り、心が乱れた。裕子は路地の角で立ち止まった。急に涙が出そうになったのだ。
その時、後ろから澄子さんが出てきた。
「裕子さん、これ。財布を忘れていったのよ」
届けに来てくれたのだ。
「裕子さん」
澄子さんが裕子を呼びながら近づいてきた。裕子は澄子さんを見た瞬間、こらえていた感情が爆発してしまった。
「お義母さん」
裕子の声が震えた。
「どうしたの?」
澄子さんが驚いて尋ねた。
「どうしてあの時、私を引き止めてくれなかったんですか?」
裕子の声が大きくなった。これまで抑えていた言葉が吹き出した。
「何のことを?」
「お義母さんは、私の本当のお母さんみたいだったじゃないですか。なのに、どうしてあの時何も言ってくれなかったんですか?」
裕子は泣きながら叫んだ。澄子さんは呆然とした表情で裕子を見つめていた。
「私が一人で子供を育てるのがどれほど大変だったか分かりますか? 毎晩泣きながら、お義母さんのことを考えていたんですよ」
裕子の涙が溢れた。
「裕子さん……」
「どうして息子のことばかり考えていたんですか? 私は何だったんですか? 私は本当に家族じゃなかったんですか?」
澄子さんは言葉を失った。
「お義母さんが一言だけでも言ってくれたら。一言だけでも……」
裕子はそれ以上、言葉を続けられなかった。泣きすぎて声が出なかったのだ。
澄子さんは裕子の姿を見て、涙を流した。これまでどれほど苦しかったのか、今になってようやく分かったようだった。
「ごめんなさい。裕子さん」
澄子さんの声も震えていた。
「私は……私は本当に、裕子さんのことが好きだったのに」
裕子はしゃくり上げながら言った。
「私もよ。私もたくさん後悔したわ」
二人は路地で向かい合って泣いた。十五年間、積もり積もった痛みが爆発した瞬間だった。
「本当にごめんなさい。裕子さん。私が悪かったわ」
澄子さんが心から謝った。
「お義母さん……」
裕子はもう何も言えなかった。感情が込み上げすぎて、ただ泣くだけだった。
しばらく泣いてから、裕子はようやく気持ちを落ち着かせた。
「お義母さん、私、もう行きます」
「裕子さん、また会いましょう」
裕子は背を向けて歩き出した。澄子さんはその後ろ姿を見つめながら、しばらく立ち尽くしていた。
家に帰った裕子は、娘に話した。
「おばあちゃん、とても具合が悪そうだったわ」
「お母さんも泣いたの? 目が赤いよ」
「大丈夫。ただ心が少し複雑で……」
その夜も裕子は眠れなかった。今日あったことがずっと頭の中を駆け巡っていた。澄子さんにぶつけてしまった言葉を後悔する気持ちもあったが、一方で、すっきりした気持ちもあった。これからどうすればいいのか悩んだ。
その日から数日間、裕子と澄子さんは連絡を取り合わなかった。二人とも、路地での出来事で心が重くなっていた。裕子は会社でも集中できなかった。すみ子さんに怒鳴ってしまったことが、ずっと心に引っかかっていた。どんなに悔しい思いをしていたとしても、病気のお年寄りにあんな言い方をしたことを後悔していた。
「お母さん、おばあちゃんと何かあったの?」
娘が裕子の表情を見て尋ねた。
「少し、言い争いになってしまって。……私が言い過ぎたかもしれない」
裕子は正直に話した。
「おばあちゃんに、謝らないとダメなんじゃない?」
娘の言葉に、裕子は頷いた。その通りだった。
一方、澄子さんも辛い時間を過ごしていた。裕子の言葉がずっと耳から離れなかった。本当に裕子さんは、あんなに辛かったんだ。そう思うと胸が痛んだ。私が本当に悪かったんだ。澄子さんは一人でつぶやいた。
三日目の夜、裕子は勇気を出して澄子さんに電話をかけた。
「お義母さん、私、裕子です」
「裕子さん……」
澄子さんの声は恐る恐るだった。
「お義母さん、ごめんなさい。私、あの日は言い過ぎました」
「いいえ。あなたが言うべきことを言っただけよ」
「でも、お体の悪い方にあんな言い方は……」
「裕子さん、外で話しましょう」
澄子さんが先に提案した。
「はい」
「話したいことがあるの。商店街の前の屋台で会いましょう」
澄子さんの真剣な声に、裕子は驚いた。
「今からですか?」
「ええ、今から。一時間後」
二人は商店街の前の屋台で会った。冬の夜で風は冷たかったが、屋台の中は温かだった。出汁の煮える匂いと湯気の立ち上る様子が、どこか懐かしく感じられた。屋台の女将さんがにこやかに迎えてくれた。
「ラーメン二つください」
澄子さんが注文した。
「お義母さん、辛いものを召し上がっても大丈夫なんですか? 胃が悪いのに」
裕子が心配そうに尋ねた。
「大丈夫よ」
しかし、ラーメンが出てくると、澄子さんは箸を手に取ったもののためらった。スープが赤く見えるので、気が引けたのかもしれない。
「お義母さん、これじゃなくて他のものを頼みましょうか?」
「いいえ、大丈夫」
澄子さんは恐る恐る、麺だけを少し食べた。
「裕子さん」
澄子さんの声は真剣だった。
「はい」
「お義母さん、私から話したいことがあるの」
裕子は緊張した。
「達也の話を」
裕子は元夫の話が出てきて、さらに緊張した。
「あの子は、本当にどうしようもない子だったわ」
澄子さんの声には怒りが混じっていた。
「離婚した後もしばらくは、家に来てはお金をせびっていたの。その時は私も渡していたわ」
裕子は驚いた。そんなことがあったとは知らなかった。
「でも、三年前から様子がおかしくなってね。大きなお金を要求するようになったの」
「どうしてですか?」
「事業を始めると言ってね。だから、私が持っていたお金をほとんど全部渡したのよ」
「お義母さん、でも、そのお金は全部……」
「詐欺だったの。あの子、浮気相手に全部騙し取られていたのよ」
澄子さんの言葉に、裕子は衝撃を受けた。
「それからは連絡も取れなくなって、借金取りが家まで押しかけてきて、大騒ぎになったわ。それで銀行から督促の電話が来るのも、その時に知ったの。あの子、私の名前で借金までしていたのよ」
裕子は言葉を失った。澄子さんがそんな目に遭っていたとは知らなかった。
「家も担保に入っているの。今はただ、耐えているだけよ」
「お義母さん、それじゃあ、今は……」
「ええ、お金は一銭もないわ。病院も、やっとのことで払っている状態よ」
澄子さんの告白に、裕子は胸が痛んだ。
「私はあなたを放って息子を守ったのに、結局、両方とも失ってしまったわ」
澄子さんの声が震えた。
「お義母さん……」
「あの時、私があなたを引き止めていれば。あの子よりもあなたを選んでいれば……」
澄子さんは涙を流し始めた。
「私は本当にバカだったわ。息子だからって、無条件に肩を持ってしまった」
裕子も涙が出た。澄子さんがこんな苦労をしていたなんて、知らなかった。
「お義母さん、今更そんなことをおっしゃらないでください」
「いいえ。私が反省しないと。私が嫁を家族だと思っていなかったから……」
澄子さんは鞄から古いハンカチを取り出した。裕子が昔もらったものと同じハンカチだった。
「これ、あなたが置いて行ったものよ」
澄子さんはハンカチを裕子に手渡した。
「お義母さんが持っていてください」
「いいえ。あなたのものよ」
裕子はハンカチを受け取りながら、また涙を流した。
「裕子さん、本当にごめんなさい。私が気づくのが遅すぎたわ」
「お義母さんも、お辛かったじゃないですか」
「でも、言い訳にはならないわ。私が、母親としての役目をちゃんと果たせなかったのよ」
二人は屋台で向かい合って泣いた。周りにいた他のお客さんもチラチラと見ていたが、気にする余裕はなかった。
「お義母さん、これからどうされるんですか?」
裕子が心配そうに尋ねた。
「ただ、耐えるだけよ。病院さえ払えれば、それでいいわ。家はもうすぐ差し押さえられるでしょう。覚悟はしているわ」
澄子さんの言葉に、裕子はさらに胸が痛んだ。
「お義母さん、私の家に……」
「いいえ、そんなことはできないわ」
澄子さんは裕子の言葉を遮った。
「どうしてですか? 私は構わないのに」
「あなたも一人で家計を支えるのが大変なのに。年寄りまで引き取ることはないわ」
「お義母さんは、年寄りなんかじゃありません」
裕子の言葉に、澄子さんは力なく笑った。
「ありがとう。その気持ちだけで十分よ」
「本当です。私の家に来てください。娘も、おばあちゃんに会いたがっています」
「本当にいいの?」
澄子さんの目が輝いた。
「はい。ずっと、いつおばあちゃんに会えるのかって聞いているんです」
「でも、あなたたちの迷惑になるんじゃないかと思って……」
「迷惑なんかじゃありません。家族なんですから」
この言葉に、澄子さんはさらに涙を流した。
「私が、本当にまた家族になれるのかしら」
「お義母さんは、元々私たちの家族でしたよ」
二人は屋台で長い時間話し込んだ。これまで言えなかったことを、全て打ち明けた。
屋台を出ると、風がさらに冷たくなっていた。澄子さんが身を震わせると、裕子は自分のマフラーを外して澄子さんの首に巻いてあげた。
「いいのよ。あなたが寒くなるでしょう」
「私は大丈夫です。お義母さんが風邪を引いたら大変ですから」
「ありがとう」
二人は路地の入り口で別れた。
「お義母さん、検査の結果が出る日、一緒に行きますからね」
「ええ」
「それと、本当に私の家に来ることを考えてみてください」
「うん。考えてみるわ」
澄子さんが家に入っていく後ろ姿を見ながら、裕子の心は複雑だった。澄子さんがそんな困難な状況にあるとは知らなかった自分を、申し訳なく思った。
家に帰った裕子は、娘に今日あったことを話した。
「お母さん、おばあちゃん、本当に私たちの家に来てくれるかな?」
「分からないわ。お年寄りにはプライドもあるから」
「私はおばあちゃんに来てほしいな」
娘の言葉に、裕子も同じ気持ちだった。
その夜、澄子さんは家で一人座っていた。今日交わした会話がずっと頭から離れなかった。本当にまた家族になれるのだろうか。もう手遅れなのではないかという思いもあったが、裕子の温かい気持ちがありがたかった。
澄子さんは薬を飲んでベッドに入った。今日はなぜか、心が少し安らいでいるような気がした。長い間、一人で背負ってきた重りを、少しだけ下ろせたような気分だった。来週、検査の結果が出たらどうなるのだろう。心配だったが、もう一人ではないという思いがあった。裕子が一緒に来てくれると言ってくれたから。
「ありがとう。裕子さん」
澄子さんはつぶやきながら、眠りに着いた。
裕子もその夜、久しぶりに安らかに眠ることができた。澄子さんとの関係が少しずつ回復しているという思いに、心が温かくなった。本当に新しい始まりを迎えられるような気がした。
数日後、娘との会話で、裕子は澄子さんの状況を詳しく話した。
「おばあちゃん、そんなに悪いの?」
「胃炎がひどくて、薬がないとご飯も食べられないみたい。貧血もひどくなって、一人で倒れることもあるんですって」
「じゃあ、私たちの家に来てもらえばいいじゃない」
娘が当たり前のように言った。
「本当にそう思うの?」
「うん。どうして? おばあちゃんは元々私たちの家族だったじゃない」
娘の言葉に、裕子は心が温かくなった。その夜、裕子は澄子さんに電話をかけた。
「お義母さん、私の家に来てください」
澄子さんは驚いた表情をした。
「急に、どうして……」
「お義母さん、お一人では大変でしょう。私たちがお世話します」
「裕子さん、娘さんも、おばあちゃんと一緒に暮らしたがっています」
「本当にいいの?」
「はい。昨日の夜、娘と話したんですが、早く一緒に暮らそうって言っていました」
「でも、あなたたちの迷惑になるんじゃないかと……」
「迷惑なんかじゃありません。家族なんですから」
澄子さんはしばらく考えてから、首を振った。
「ありがとう。でも、まだ一人で大丈夫よ。あなたたちの生活の邪魔はしたくないの」
澄子さんの拒絶に、裕子は戸惑った。
「邪魔なんかじゃありません」
「いいえ。私は大丈夫だから」
澄子さんは頑なだった。
「お義母さん、本当に私たちと一緒に暮らしてください」
「どうして、そんなに言うの?」
「お一人にしておけないからです」
裕子の声は切実だった。
「裕子さん、その気持ちはありがたいけど……」
「お義母さん、お願いします」
二人の間に、しばらく沈黙が流れた。
「私も……一緒に暮らしたいわ」
澄子さんが小さな声で言った。
「じゃあ、来てください」
「でも、本当に大丈夫なの?」
「はい。もちろんです」
澄子さんはしばらく悩んでから、頷いた。
「それじゃあ、少しずつ準備をしてみるわ」
「本当ですか?」
「ええ」
裕子は澄子さんの返事に喜んだ。家に帰った裕子は、娘の部屋のドアを叩いた。
「おばあちゃん、私たちの家に来てくれることになったわ」
裕子の言葉に、娘の表情が明るくなった。
「本当?」
「うん。少しずつ準備するって」
「お母さん、ありがとう」
娘が突然、裕子を抱きしめた。
「ごめんね。昨日怒鳴ったりして」
「いいのよ。あなたの言うことが正しかったわ」
「お母さんが慎重に考えていたのも、分かるよ」
娘の言葉に、裕子は心が温かくなった。
「これで、私たち三人で一緒に暮らせるね」
「うん。すごく楽しみ」
母と娘は互いに微笑みながら、祖母を迎える準備について話し合った。家の中の雰囲気も、すっかり明るくなったようだった。
その夜、澄子さんは一人で荷物を整理し始めた。持っていくものと捨てるものを分けながら、心も整理していった。本当にまた家族になるんだ。澄子さんはつぶやきながら微笑んだ。久しぶりに、希望に満ちた気分だった。
しかし、いざ引っ越しの準備を始めようとすると、澄子さんの心は複雑だった。その夜遅く、澄子さんは一人で座って薬を飲んでいた。最近、胃がさらにシクシクと痛むような気がした。突然、お腹に鋭い痛みが走った。澄子さんはお腹を抱えて体を丸めた。痛みはどんどんひどくなっていく。冷や汗が出始め、呼吸も荒くなった。
澄子さんは慌てて薬を探した。しかし手がひどく震えて、うまく見つけられない。机が倒れて、薬が散らばってしまった。床に落ちた薬を拾おうとしたが、痛みで体をうまく動かせなかった。しばらくそうしていたが、ようやく胃腸薬を見つけて飲んだ。しかし痛みは簡単には収まらない。
このままじゃ、本当にダメかもしれない。こんな体で、嫁の家に行って迷惑をかけるだけではないか。その時、離婚した日の記憶が蘇った。裕子が荷物をまとめて出ていったあの日、澄子さんは引き止めることができなかった。息子の味方をしなければならないという思いから、裕子を引き止められなかったのだ。
私は本当にバカだった。澄子さんは涙を流し始めた。自分の間違った選択のせいで、全てが壊れてしまったように思えた。
その時、裕子の携帯電話が鳴った。時計を見ると深夜一時だった。知らない番号だった。
「もしもし」
「もしもし。澄子おばあさんのご家族の方ですか?」
「はい。どちら様でしょうか?」
「救急外来の者です。おばあさんが腹痛で搬送されてきたのですが、ご家族の連絡先がこれしかなくて……」
裕子は驚いた。
「お義母さんが救急外来に? はい、今すぐ行きます」
裕子は急いで着替え、家を出た。病院に着くと、澄子さんが救急外来のベッドに横たわっていた。点滴を受けており、顔は青白かった。
「お義母さん」
裕子が駆け寄ると、澄子さんが目を開けた。
「裕子さん……ごめんなさい」
「どうして謝るんですか? 具合が悪かったら、連絡してくださればよかったのに」
「あなたが寝ている時間でしょう」
「そんなことは関係ありません。痛いですか?」
澄子さんは頷いた。医師が来て説明してくれた。
「胃炎が悪化して、出血がありました。今は止血剤を投与して安定しています。命に別状はありませんが、一、二日様子を見る必要があります。とりあえず、今日は入院していただくのが良いでしょう」
裕子は澄子さんの手を握った。
「お義母さん、心配しないでください。私がここにいますから」
「ありがとう。裕子さん」
澄子さんは裕子の手を固く握り返した。その夜、裕子は病院で夜を明かした。澄子さんのそばで付き添いながら、色々なことを考えた。本当に、一人にしておいてはならない。裕子は澄子さんを絶対に迎え入れなければならないと、改めて決心した。
明け方、澄子さんが一度目を覚ました。
「裕子さん、眠らなかったの?」
「大丈夫です。お義母さん、具合はいかがですか?」
「随分、楽になった気がするわ」
「良かったです」
「裕子さん」
「はい」
「私が、あなたたちの家に行っても、本当に大丈夫かしら?」
澄子さんが恐る恐る尋ねた。
「もちろんです。早く来てください」
裕子の返事に、澄子さんは安心した表情を浮かべた。
「ありがとう」
「家族なんですから」
二人は互いを見つめ合った。本当に、一緒に暮らせるような気がした。
澄子さんは病院で二日間過ごし、退院した。裕子が全ての手続きに付き添い、娘も学校が終わるとすぐに病院へ駆けつけた。
「おばあちゃん、こんにちは」
娘が病室に入ってきて挨拶した。澄子さんと直接会うのは、本当に久しぶりだった。澄子さんは娘を見た瞬間、涙が出た。小さい頃の記憶とは、あまりにも違っていたからだ。もうすっかり、大人の女性だった。
「まあ、うちの可愛い孫娘。本当に大きくなったわね」
「おばあちゃん、辛かったでしょう」
娘が澄子さんの手を握りながら、心配そうに尋ねた。
「もう大丈夫よ。あなたが来てくれたから、もっと元気になったみたい」
澄子さんは娘の顔をじっくりと見た。幼い頃の面影が残りつつも、裕子によく似ていた。
「おばあちゃん、私のこと覚えていますか? 小さい頃、おばあちゃんがたい焼きを買ってくれたり、ブランコを押してくれたりしたこと」
娘が言うと、澄子さんの顔がぱっと明るくなった。
「もちろんよ。どうして忘れられるものですか? あの頃、あなたはたい焼きが大好きだったものね」
「はい。おばあちゃんがいつも温かいのを買ってくれましたよね」
二人が昔の話をするのを見て、裕子も心が温かくなった。
「おばあちゃんも、私たちの家に来るんですよね?」
娘が直接的に尋ねた。
「でも、本当に大丈夫なの?」
「もちろんです。私がおばあちゃんと一緒に暮らしたくて、お母さんにずっと言っていたんですよ」
娘の返事に、澄子さんは驚いた。
「あなたが……」
「はい。お母さんがぐずぐず言うから、私がおばあちゃんに直接連絡しようと思っていたくらいです」
「この子ったら……」
裕子は恥ずかしそうに言った。
「お母さんは慎重すぎるんだから。家族なのに、何をそんなに悩むの?」
娘の言葉に、澄子さんと裕子は笑った。
退院の日、三人は一緒に裕子の家へ向かった。澄子さんの荷物は、多くはなかった。着替えが数枚と薬、そして、いくつかの大切なものだけだった。
「おばあちゃん、この部屋を使ってください」
娘が自分の部屋の隣にある小さな部屋を指して言った。
「ありがとう。小さいけど、一人で使うには十分だわ」
澄子さんは部屋を見回し、満足した様子だった。
最初の夜は、三人で一緒に夕食の準備をした。澄子さんは胃があまり良くないので、刺激の少ない料理にした。
「おばあちゃん、これどうですか? 薄すぎますか?」
娘が作った味噌汁を、澄子さんが一口味わった。
「美味しいわ。本当に上手にできたわね」
「本当ですか? 良かった」
娘が喜んだ。食事をしながら、三人は自然に会話を交わした。最初は気まずくなるかと心配していたが、思ったよりも和いだ雰囲気だった。
「おばあちゃん、私、小さい頃ってどんな子でしたか?」
娘が興味深そうに尋ねた。
「あなたは本当に賢い子だったわ。言葉を覚えるのも早かったし、本も好きだった。お母さんに似てね」
「そうなんだ」
「あなたのお母さんも、小さい頃は本の虫だったからね」
澄子さんが裕子を見て笑った。娘は、澄子さんと一緒に暮らし始めたことに、すっかり満足していた。澄子さんも、孫との会話を心から楽しんでいた。
しばらくして、娘が澄子さんに言った。
「おばあちゃん、明日、検査の結果が出る日ですよね?」
「ええ、明日病院に行かないと」
「私も一緒に行きます」
「あなたは学校があるでしょう」
「午後の授業だけだから、午前中は時間があります」
娘が積極的に言った。
「本当にいいの?」
「はい。おばあちゃんを一人で行かせるわけにはいきません」
澄子さんは、娘の言葉に感動した。孫がこんなに気遣ってくれるなんて、夢のようだった。
「ありがとう。うちの孫娘は」
「当然のことです」
その夜、澄子さんは久しぶりに安らかに眠った。一人でいた時とは、全く違う気分だった。隣の部屋に裕子と娘がいると思うだけで、心が安らぎました。
翌朝、三人は一緒に病院へ行った。検査結果が出た。
「澄子さん、結果が出ました。幸い、出血は止まっていますし、炎症も随分良くなっています」
三人ともほっとした。
「でも、これからも管理をしっかり続けてください。食事に気をつけて、薬もきちんと飲んでくださいね」
「はい、分かりました」
澄子さんが答えた。
「ご家族が一緒だと、管理もしっかりできそうですね」
医師が裕子と娘を見て言った。
「はい。私たちがしっかり支えます」
裕子が答えた。病院を出ると、娘が言った。
「おばあちゃん、本当に良かった。これで一安心ですね」
「ええ、ありがとう」
その夜、澄子さんは裕子に言った。
「裕子さん、本当にありがとう」
「何がですか?」
「こうして私を受け入れてくれて。そして、娘さんをこんなに立派に育ててくれて」
「当然のことです。私たちは、家族なんですから」
「本当に、家族になったみたいだわ」
「はい。これから、私たち三人で幸せに暮らしましょう」
二人は互いに微笑み、穏やかな夜を過ごした。
澄子さんが裕子の家で暮らし始めてから、一週間が経った。三人は少しずつ、互いに慣れてきていた。しかし裕子と澄子さんの間には、まだかすかな気まずさが残っていた。
ある日曜日の午後、娘が友達と遊びに出かけ、裕子と澄子さんは家に二人きりになった。こんな時間ができると、二人は何を話せばいいのか分からず、気まずくなっていた。
「お義母さん、お茶でもいかがですか?」
裕子が先に口を開いた。
「ええ」
澄子さんはリビングのソファに座り、窓の外を眺めていた。外では初雪が静かに降っていた。裕子がお茶を入れて持ってきた。二人は静かにお茶を飲んだ。
「雪が降ってきたわね」
澄子さんがつぶやくように言った。
「ええ、今年の初雪ですね。もう冬なのね」
「お義母さん、お体はいかがですか?」
「薬を飲んでから、随分良くなった気がするわ。ここに来て、心も安らいでいるし」
澄子さんの返事に、裕子は安心した。
「お義母さん、私から、お話ししたいことがあります」
裕子の真剣な声に、澄子さんも裕子の方を見た。
「はい」
「あの、離婚の時のことです」
裕子が恐る恐る話を切り出した。澄子さんの表情が、少し硬くなった。
「裕子さん……」
「いいえ、聞いてください」
裕子は深く息を吸って、言葉を続けた。
「私にも、悪いところがありました」
澄子さんは、裕子の言葉に驚いた。
「何を言っているの?」
「あの時、お義母さんに私を引き止めて欲しいと、私も言えませんでした」
裕子の声が震えた。
「どういうこと?」
「本当は、私もお義母さんに引き止めて欲しかったんです。でも、言えませんでした」
澄子さんは、裕子の告白に戸惑った。
「どうして……どうして言えなかったの?」
「怖かったんです。お義母さんに負担をかけるのが。息子と嫁の間で、お義母さんがどれほどお辛いだろうと思うと、だから、ただ黙っていました」
裕子は涙を流し始めた。
「でも、心の中では、お義母さんに私を引き止めて欲しかったんです。お義母さんだけでも、私の味方になって欲しかったんです」
裕子の正直な告白に、澄子さんも涙が出た。
「私、本当に気づかなかったわ」
「お義母さんのせいじゃありません。私が言わなかったんですから」
「いいえ。私が気づくべきだったのに」
澄子さんは自分を責めた。
「あの時、私は本当に混乱していました。夫は浮気をして、義母は息子の肩ばかり持って、世の中に私一人だけのような気がしました」
裕子の言葉に、澄子さんは胸が痛んだ。
「ごめんなさい。裕子さん、本当にごめんなさい」
「お義母さんも、お辛かったでしょう」
「でも、言い訳にはならないわ。私が嫁のことをもっと気遣うべきだった」
澄子さんは裕子の手を握った。
「私の罪の方が大きいわ。息子だからって、無条件に肩を持ってしまった」
「お義母さん……」
「あの時、私があなたを引き止めていれば。息子に叱られても……」
澄子さんの声には後悔が満ちていた。
「今更、そんなこと……」
「いいえ。今だからこそ、言わないと。私が本当に悪かったわ」
二人は互いに涙を流しながら話した。
「裕子さん、許してくれる?」
「お義母さんこそ、私を許してください。あの時、私が正直に話していれば……」
「何を言っているの? あなたが何を謝るというの?」
「私も意地を張っていました。プライドのせいで、連絡もしませんでした」
裕子も自分の非を認めた。
「分かるわ。あなたも傷ついていたのだから」
「お義母さん、もういいのよ。私たち、また始めましょう」
澄子さんは裕子を抱きしめた。裕子も澄子さんを固く抱きしめた。しばらくそうして抱き合っていたが、二人は離れた。
「これで、本当に家族みたいね」
澄子さんが涙を拭いながら言った。
「元々、家族でしたよ」
「ええ、そうね」
「お義母さん、これからは、何かあっても正直に話します」
「私も、そうするわ」
二人は互いに微笑み、約束した。
その時、玄関のドアが開く音がした。娘が帰ってきたのだった。
「ただいま」
娘が明るく挨拶しながら入ってきた。
「あれ? お母さんとおばあちゃん、どうして泣いてるの?」
娘が二人の赤い目を見て尋ねた。
「うん。ただ、感動的なドラマを見ていただけよ」
裕子がごまかした。
「本当に? どんなドラマ?」
「ただの、家族の話」
澄子さんが笑って答えた。
「へえ、そうなんだ。私もそういうドラマ好きだな」
娘は疑うことなく受け入れた。
「ところで、外、雪が降っているの見た?」
「うん。おばあちゃんと一緒に見ていたわ」
裕子が答えた。
「わあ、すごく綺麗に降ってる。おばあちゃん、一緒に外に出てみませんか?」
娘が提案した。
「いいわね。久しぶりに雪を見るわ」
三人は一緒に外に出た。雪がしんしんと降っていた。
「すごく綺麗」
娘が感嘆した。
「今年の初雪だから、お願い事をしないとね」
「どんなお願い?」
澄子さんが尋ねた。
「おばあちゃんがずっと健康で、私たちの家族が幸せに暮らせますように、って」
娘の言葉に、裕子と澄子さんは心が温かくなった。
「いいお願い事ね。おばあちゃんは、どんなお願い事をするの?」
「私は、残りの人生をあなたたちと一緒に過ごすことかしら」
澄子さんの言葉に、娘が笑った。
「それはお願い事じゃなくて、現実ですよ。私たち、ずっと一緒に暮らすんですから」
「ええ、そうね」
澄子さんも笑った。
「お母さんは、どんなお願い事をするの?」
「私は、私たちの家族がみんな病気をしないで、健康で暮らすことかな」
裕子の願いに、みんな頷いた。
「いいね。じゃあ、みんなの願いが叶うようにお祈りしましょう」
娘が目を閉じて祈る真似をした。裕子と澄子さんもそれに習った。雪は降り続いていた。
それから数ヶ月が経ち、季節はすっかり変わり、温かい春になっていた。澄子さんは裕子の家での生活に完全に慣れ、健康状態も随分良くなっていた。
ある日、三人は一緒に病院へ行った。定期検診の日だった。
「澄子さん、検査の結果は非常に良好ですよ。胃炎も随分良くなっていますし、炎症の数値も正常値に戻りました」
三人とも喜んだ。
「ご家族がしっかりサポートしてくださっているようですね。食事の管理もうまくいっているようです」
「はい。できることは全てやっていますから」
裕子が答えた。
「このまま管理を続ければ、大きな問題はないでしょう。次の検診は一か月後で結構です」
「ありがとうございます」
澄子さんが深くお辞儀をした。病院を出ると、娘が言った。
「おばあちゃん、本当に良かった。すっかり元気になったね」
「みんな、あなたたちのおかげよ」
澄子さんは裕子と娘を交互に見ながら感謝した。
家に帰って昼食を食べ、娘が学校へ行った後、裕子と澄子さんは家事をしていた。
「お義母さん、今度の週末、白菜漬けを作りませんか?」
裕子が提案した。
「もう、そんな季節なのね」
「ええ。娘が、おばあちゃんの白菜漬けの作り方を習いたいって言っていました」
「そう、関心な子ね」
澄子さんは喜んだ。孫に自分の料理を教えられるのだから。
週末になり、三人は漬物作りの準備を始めた。白菜を買い、色々な材料を揃えた。
「おばあちゃん、これでいいですか?」
娘が白菜を塩漬けにしながら尋ねた。
「うん。しよう。満遍なく振らないとね」
澄子さんが娘の隣で指導した。
「おばあちゃんの白菜漬けが一番美味しかったな。レシピ教えてください」
「秘訣は何か知ってる?」
「何ですか?」
「愛情よ。心を込めて作れば、何でも美味しくなるの」
澄子さんの言葉に、娘が笑った。
「じゃあ、私も愛情、たくさん入れます」
漬物を作りながら、三人は楽しい時間を過ごした。澄子さんは久しぶりに、孫と一緒に料理をする喜びを感じていた。
漬物を作り終え、夕食を食べながら、娘が言った。
「おばあちゃん、写真撮りましょう」
「写真?」
「はい。記念写真です。おばあちゃんと白菜漬けを作った記念に」
娘が携帯電話を取り出した。
「いいわね。撮りましょう」
三人は漬物の樽の前で写真を撮った。みんな笑っていた。
数日後、裕子は写真をプリントして、綺麗な額に入れた。そして、リビングの棚に置いた。
「お義母さん、どうですか?」
「いいわね。私たちの家族写真だわ」
澄子さんは写真を見て、微笑ましく思った。すると澄子さんが、自分の部屋から何かを持ってきた。
「これも、一緒に置いたらどうかしら?」
澄子さんが持ってきたのは、古い写真だった。裕子と、小さい頃の娘が一緒に映っている写真だった。
「お義母さん、この写真……」
「あの時、撮ったものよ。ずっと、大切に持っていたの」
裕子はその写真を見て、涙が出た。澄子さんがずっと、この写真を保管してくれていたんだ。
「おばあちゃん、これ、私が小さい頃の写真?」
娘が不思議そうに尋ねた。
「ええ。あなたが五歳の時に撮ったのよ」
「うわあ、本当に小さい」
娘が笑いながら、写真をじっくりと見た。
「この写真も、一緒に飾りましょうか?」
裕子が提案した。
「いいですね。過去と現在が、一緒にあるみたい」
娘が言った。裕子は新しい額をもう一つ使い、古い写真も入れた。そして、新しい写真の隣に並べておいた。
夕食の時間になり、三人は一緒に食卓に着いた。澄子さんが作った漬物も一緒に食べた。
「おばあちゃん、この漬物すごく美味しい」
娘が感嘆した。
「私たちが一緒に作ったから、もっと美味しいのよ」
澄子さんが笑って言った。
「お義母さん、お元気になられて、本当に良かったです」
裕子が言った。
「みんな、あなたたちのおかげよ。一人だったら、こうはならなかったわ」
「私たちも、おばあちゃんのおかげでもっと幸せになりました」
娘が言った。
「そうかしら」
「はい。おばあちゃんが来てから、家がもっと温かくなった気がします」
娘の言葉に、澄子さんは喜んだ。
「私も、ここに来て本当に幸せよ。これからも、ずっと一緒に暮らしましょうね」
「もちろんよ」
三人は互いに微笑み、温かい夕食の時間を過ごした。
その夜、澄子さんは自分の部屋で窓の外を眺めていた。星がたくさん見える夜だった。本当に新しい始まりなんだな。数ヶ月前まで一人で寂しく暮らしていたのに、今では愛する家族と一緒にいる。健康も回復し、心も安らかになった。
澄子さんは手首に結ばれているハンカチに触れた。娘が綺麗に結んでくれた、淡いピンク色のハンカチだった。今では、悲しみの象徴ではなく、愛の証となっていた。
リビングでは、裕子と娘が明日の計画を立てていた。
「お母さん、明日、おばあちゃんと一緒に散歩に行かない?」
「いいわね。天気も良いみたいだし」
「おばあちゃん、最近すごく元気になったよね」
「そうね。表情も明るくなったし、私たちがちゃんとお世話できてるってことだよね」
「もちろんよ」
母と娘は互いに微笑み、明日を楽しみにしていた。歳月と病も、家族の絆を妨げることはできなかった。止まっていた時間が再び流れ始め、傷ついた心も癒されていった。
今、三人の前には、共に歩む未来が待っていた。互いを理解し、愛し合う本当の家族として、春の若葉のように、彼らの新しい始まりも希望に満ちていた。



