「お父さんが倒れたの。今、病院にいる」――十月の終わり、東京で営業の仕事をしていた俺のもとに、滅多に電話をかけない母から着信が来た。その瞬間、胸の奥がざわついた。終電に飛び乗り、十五年ぶりに故郷へ戻った。駅前の商店街はシャッターだらけで、実家の「高梨湯」には「休業中」の張り紙。父は毎朝四時に起きて、釜に火を入れ続けていたらしい。幼馴染みの坂本は言った。「あの銭湯は、この町の心みたいなもんだっ…

「お父さんが倒れたの。今、病院にいる」――十月の終わり、東京で営業の仕事をしていた俺のもとに、滅多に電話をかけない母から着信が来た。その瞬間、胸の奥がざわついた。終電に飛び乗り、十五年ぶりに故郷へ戻った。駅前の商店街はシャッターだらけで、実家の「高梨湯」には「休業中」の張り紙。父は毎朝四時に起きて、釜に火を入れ続けていたらしい。幼馴染みの坂本は言った。「あの銭湯は、この町の心みたいなもんだっ...

東京を離れたのは十月の終わり、木枯らしが吹き始めた夜のことだった。スマートフォンの画面に母からの着信が表示された瞬間、胸の奥に嫌な予感が走った。俺の名前は高梨順一。東京で営業の仕事をしている。母は滅多に電話をかけてこない。だから、その着信だけで何か取り返しのつかないことが起きたのだと分かった。

「お父さんが倒れたの。今、病院にいる」

俺は終電に飛び乗り、十五年ぶりに生まれ故郷の町へ戻った。単線のホームに降り立った瞬間、時間が巻き戻されるような感覚に包まれた。駅前の商店街はシャッターが目立ち、子供の頃の賑わいとはまるで別物だった。

病院へ向かう途中、気づけば実家の前に足を止めていた。「高梨湯」と書かれた古い看板は色あせ、引き戸の前には「休業中」の張り紙が貼られていた。実家は銭湯を営んでいる。父が丹精込めて育てていたはずの草花は、すっかり枯れ果てていた。胸の奥がじくりと痛んだ。

そこへ背後から声がかけられた。

「順一か。聞いたぞ。おじさんのこと、心配してたんだぞ」

振り返ると、幼馴染みの坂本浩が大きな体を揺らしながら歩いてきた。坂本は工務店で働いている。商店街を並んで歩きながら、坂本は父のことを話してくれた。体調を崩してからも毎朝四時に起きて、釜に火を入れ続けていたこと。常連客がいる限り、店を閉めることができなかったこと。

「あの銭湯は、この町の心みたいなもんだったんだ。みんな高梨に集まって、友達になって、笑い合って。そういう場所だったんだよ」

病院に着くと、母が廊下のベンチで待っていた。小さく縮んだように見えた母は、俺の顔を見た瞬間、唇を震わせた。

「来てくれたのね」

父は個室のベッドに横たわり、点滴の管が繋がれていた。少しの言語障害と、左半身の麻痺が残るとのことだった。俺を見た父は右手をゆっくりと持ち上げた。何かを言おうとして、でも声にならなかった。ただ、その目が語っていた。後悔と、安堵と、伝えたくてたまらないもどかしさが入り混じっていた。

「銭湯のことは心配しなくていいから」

気づいたら口から出ていた。父の目がゆっくりと細くなった。

帰り道、一人で高梨湯の前に立った。夜の闇の中で古い建物は、静かに息をしているようだった。引き戸に手を当てると、冷たくてざらざらしていた。

やるしかない。俺は決意していた。

翌日から、銭湯の状態を把握するために動き始めた。腐った床板、黒ずんだタイル、錆びた配管、そして赤字続きの帳簿。どこから手をつければいいのか、途方に暮れた。翌朝、坂本に来てもらうことにして、その日の夕方は一人で帳簿と向き合っていた。頭を抱えていると、引き戸がゆっくりと開く音がした。

「あの、すみません。こちら高梨湯さんですか?」

振り返ると、入り口に一人の女性が立っていた。紺のコートを着て、革のビジネスバッグを肩にかけている。美しいというより、凛としているという言葉が先に浮かんだ。

「突然お邪魔して申し訳ありません。白石沙知と申します。経営コンサルタントをしております。この銭湯には個人的な縁がありまして、もし再建をお考えなら、お手伝いさせていただけないでしょうか? 報酬は結構です。私にとって、ここは大事な場所なので」

「大事な場所」という言い方が、どこか引っかかった。見たことのない顔だった。少なくとも、俺の記憶にはない。それなのに、なぜだろう。初めて会ったはずなのに、この人をどこかで知っているような気がしてならなかった。懐かしさにも似た感覚が、胸の奥に静かに広がった。

「少し、話を聞かせてもらえますか」

沙知は静かに微笑んだ。その笑顔がまた、どこかで見た気がした。二人で脱衣所の椅子に腰かけて話をした。彼女は設備の状態、客足が遠のいた時期、地域の人口動態を、俺が口にするより先に的確に問いかけてきた。

「すぐに何かを変える必要はありません。まず現状を正確に把握することが先決です。焦らず、一緒に考えましょう」

帰り際、彼女は一度だけ浴室の方を振り返った。

「では、明日また参ります」

扉が静かに閉まった。

翌朝、銭湯に着くと、沙知はすでに入り口の前に立ち、手帳に何かを書き込んでいた。カーディガンを羽織り、髪を一つに束ねた姿は、昨日より少し柔らかい印象だった。

「おはようございます。早くてすみません。習慣でして。煙突は思ったより傷んでいません。むしろ配管の方が先決かもしれません」

九時過ぎに坂本が来て、三人で建物を見回った。床板の補修、タイルの張り替え、浴槽の修理。坂本が見積もりを出し、沙知が優先順位を整理していく。二人のやり取りは噛み合っており、俺はその間、ノートにメモを取り続けた。

昼過ぎには常連客の山口正さんが顔を出した。

「再開するの、本当に嬉しいね。純一君が戻ってきてくれて、お父さんも喜んでるよ、きっと」

山口さんは沙知のことをちらりと見て、なにか言いかけたように口を閉じ、そのまま帰っていった。

夕方、作業が一段落して、俺と沙知は二人で浴室に立った。夕日が高窓から差し込み、古いタイルを橙色に染めていた。

「綺麗な空間ですね」

「古いけどね」

「だから綺麗なんです」

俺はなんとなく壁のタイルに触れた。冷たくて滑らかで、所々欠けていた。

「白石さんは本当にここに来たことがあるの?」

沙知の動きが一瞬止まった。

「昔のことです」

それ以上は教えてくれなかった。彼女は銭湯のいろんなことを最初から知っていた。それは資料では絶対に分からないことだった。

その夜、俺は一人で高梨湯の前に立った。再建計画が少しずつ形を取り始め、坂本がいて、山口さんがいて、そして沙知がいる。一人じゃないということが、こんなにも心強いとは思わなかった。十一月の夜空に、星が細かく散っていた。

十一月に入ると、高梨湯は少しずつ息を吹き返し始めた。坂本の工務店仲間が手伝いに来てくれて、床板の補修が終わり、タイルが洗浄され、浴槽も新しくなった。たまに火が入った日、俺は浴室の入り口に立って、湯気が白く立ち上るのをただ見つめていた。子供の頃に何度も見た景色が、そこに戻ってきていた。

沙知の提案で、再開の日に合わせて小さなイベントを開いた。近隣への案内を坂本が手配し、山口さんが口コミで広めてくれた。

当日、開店前から数人が列を作っているのを見て、俺は言葉を失った。

「ほら、言ったでしょ。みんな待ってたんだから」

懐かしい常連客たちが次々とのれんをくぐり、脱衣所に笑い声が戻ってきた。湯船につかりながら談笑する人々の顔を眺めていると、坂本が俺の肩を叩いた。

「やったじゃないか。これだよ」

俺は頷きながら、少し泣きそうになった。

その日の夜、片付けを終えた俺と沙知は、脱衣所の椅子に並んで腰を下ろした。疲れていたはずなのに、不思議と立ち上がる気になれなかった。

「うまくいきましたね」

「あなたのおかげだ」

「いいえ、この町の人たちのおかげです。みんなここを必要としていたんです」

彼女はそう言って静かに笑った。俺はその顔から目が離せなかった。

いつからだろう。気づけば、彼女の一挙一動が気になっていた。帳簿を確認する時の真剣なまなざし、常連客と話す時の柔らかな笑顔、タイルに触れる時の、どこか懐かしそうな指先。仕事ができる人だとは思っていた。でもそれだけじゃなかった。この人のそばにいると、不思議と肩の力が抜けた。

「白石さんは、東京に帰りたいと思わないの?」

「今は、ここにいたいです」

それだけ言って、また前を向いた。二人の間に静かな時間が流れた。それが心地よくて、俺は何も言わないことにした。

再開から二週間が経った頃、黒田会長が銭湯にやってきた。商店街会長で不動産業を営む黒田は、がっしりした体格の落ち着いた男で、話し方に有無を言わせない圧があった。

「高梨さん、率直に言います。この土地、うちで買い取らせてもらえませんか。再開発の計画があって、ここに複合施設を立てれば町全体が活性化する。銭湯一件を維持するより、よほど現実的な話です」

「それは、すぐには答えられません」

「一週間考えてください。ただ、あまり時間はない」

黒田が帰った後、俺は沙知に経緯を話した。数字だけ見れば、黒田の言う通りかもしれなかった。銭湯の収益はまだ安定しておらず、設備の維持費もかかる。沙知はしばらく黙って聞いていたが、やがて静かに口を開いた。

「一週間、私に任せてもらえますか」

沙知は翌日から動いた。常連客へのアンケート、近隣住民へのヒアリング、行政の補助金制度の調査、さらに銭湯を地域の交流拠点として位置づける事業計画書を作り上げた。一週間後、黒田を呼んで三人で向き合った。

「この銭湯が閉まれば、高齢者の孤立が進みます。数字では見えにくいですが、ここは町の福祉インフラとして機能しています。行政の補助を組み合わせれば、経営は十分に成立します」

黒田はしばらく資料を眺めていた。それから、ふっと表情を緩めた。

「なかなかやりますね。わかりました。今回は引きましょう。ただし、経営が傾いた時は、また話を聞いてください」

黒田が帰ると、俺は思わず息を吐いた。

「やったよ。すごい」

「心臓が止まるかと思いましたわ」

その夜、四人で銭湯の脱衣所に集まって、缶ビールで乾杯した。坂本と山口さんがはしゃぎ回って帰った後、俺と沙知は再び二人になった。

「よかった」

小声だった。その一言に、安堵よりも深いものが滲んでいた。

「白石さん、昔ここで何があったの? 『大事な場所』って、ずっと気になってた」

沙知はしばらく黙っていた。それから、ゆっくりと口を開いた。

「昔、ここで人生を変えられたんです。小さい頃、辛いことがあって、この銭湯の湯の中で、声をかけてもらったんです。それだけのことなんですけど、あの瞬間があったから、今の私がいる気がして」

「誰に?」

「それは、まだ言えません」

彼女は微笑んだまま、それ以上は語らなかった。俺は問い返せなかった。ただ、その横顔を見ながら、胸の中で何かが静かに動いた。

十二月に入り、高梨湯は町にすっかり馴染んだ。平日の夜も常連客が顔を出し、週末には親子連れの姿も見られるようになった。父の回復も順調で、車椅子に乗って訪れた日、父は浴室を見渡してゆっくりと目を細めた。その顔を見た瞬間、俺はここまでやってきてよかったと思った。

そんなある朝、沙知がいつもより改まった様子で俺の前に立った。

「高梨さん、少しお時間をいただけますか」

脱衣所の椅子に向かい合って座ると、彼女は静かに切り出した。

「私の役目は、ここまでだと思っています。経営も安定してきました。あとは高梨さんなら一人でできます。東京に戻ろうと思って」

頭では理解できた。元々彼女はここの人間ではない。仕事を持ち、東京に生活がある。いつかこうなることは分かっていたはずだった。それでも、言葉が出てこなかった。

「そうか」

それだけしか言えなかった。

「本当に楽しかったです。ここに来てよかった」

彼女の目が、少しだけ潤んでいるように見えた。

出発の朝、俺は銭湯の前で沙知を見送った。コートの襟を立て、バッグを肩にかけた彼女は、振り返って深々と頭を下げた。

「お父さんの回復をお祈りしています。高梨湯、ずっと続けてください」

「ああ。体に気をつけて」

それだけだった。言いたいことは他にいくらでもあった。あの懐かしさの正体が何なのか、ずっと聞きたかった。そばにいてほしいと伝えたかった。でも何も言えないまま、彼女はタクシーに乗り込み、角を曲がって見えなくなった。冬の朝の空気が、ひどく冷たかった。

銭湯の引き戸に手をかけたまま、俺はしばらく動けなかった。湯が白く立ち上っていた。

沙知を見送って銭湯に戻ると、山口さんが差し入れを持って立っていた。いつものように世間話をしていると、彼女は「あ、そうだ」と言ってバッグの中を探り始めた。

「順一君、これ、見たことある?」

差し出されたのは、色あせた一枚の写真だった。銭湯の前で撮られたものらしく、背景に高梨湯の看板が写っていた。そこには、幼い男の子と、泣きそうな顔をした女の子が並んでいた。男の子には見覚えがあった。俺だ。

「これ、俺ですよね。でも、この子は……」

「この子の近くに親戚がいてね、夏になると来てたんだよ。ある日、銭湯で泣いてたところを、あなたが声をかけたんだって。お父さんから聞いたことがあってね。ずっと思ってたの」

俺は写真から目が離せなかった。女の子の顔を見つめながら、胸の中で何かが動いた。

俺はそのまま山口さんに写真を借りて、父の病室へ向かった。リハビリが功を奏して、父は少しずつ言葉を取り戻していた。写真を見せると、父はゆっくりと目を細めた。

「父さん、この女の子のこと、覚えてる?」

「あの子か。よう笑いよったな。お前が声をかけたんじゃ。泣いとったから。お前は、笑っとる方がええって言うたんじゃ」

「笑っとる方がいい」。その言葉が胸の中で静かに響いた。そして、沙知の声が重なった。

《昔、ここで人生を変えられたんです。声をかけてもらったんです。それだけのことなんですけど、あの瞬間があったから、今の私がいる気がして》

全部が繋がった。あの懐かしさの正体は、これだったのか。初めて会った気がしなかったのは、本当に会っていたからだ。ずっとそばで笑っていた彼女が、あの日泣いていた女の子だった。そして彼女はそれを知りながら、一度も言わなかった。

「行ってこい」

父の短い言葉が背中を押した。俺は病室を飛び出した。駅まで走った。冬の空気が肺に刺さったが、足は止まらなかった。改札を抜けてホームに駆け込むと、電光掲示板に「発車まで一分」の文字が見えた。

ホームの端に、紺のコートが見えた。沙知だ。

「沙知さん!」

声が裏返った。彼女が振り返った。驚いた顔でこちらを見ている。電車のドアが閉まりかけていた。沙知はドアに手をかけていて、でも乗り込まずに、こちらをじっと見つめた。そのまま一歩、ホームへ踏み出した。電車が静かに動き出し、やがて見えなくなった。ホームに二人だけが残された。

息を切らしながら、俺は彼女の前に立った。

「やっと思い出したんだ。あの夏、銭湯で泣いていた女の子。俺が声をかけたんだ」

沙知の目が、ゆっくりと潤んだ。

「なんで言ってくれなかったんだ? ずっと気になってたのに」

「なんか、どうしても言えなくて」

「あの日、泣いていた君のこと、覚えてるよ。これからは俺が、ずっと笑顔にするから。そばにいてくれないか」

声が震えた。沙知の頬を涙が伝った。

「ずっと、好きでした。あの日から、ずっと」

俺は彼女を引き寄せて、強く抱きしめた。冬のホームで、二人分の息が白く混ざり合った。泣いているのか笑っているのか、自分でも分からなかった。ただ、この人をもう離したくない。それだけは、はっきりと分かった。

翌年の春、高梨湯は完全に息を吹き返した。黒田が地域活性化の協力者として名乗りを上げ、商店街との連携イベントが定期的に開かれるようになった。行政の補助もおり、設備の一部が新しくなった。それでも、古いタイルはそのまま残した。あのタイルがなければ、高梨湯じゃない。父は杖をつきながら歩けるようになり、週に何度か銭湯に顔を出すようになった。釜場を覗いては「火加減が甘い」と言い、俺が苦笑いで返す。それがまた、心地よかった。

沙知は東京の仕事を整理して、この町に移り住んだ。銭湯の相談に乗りながら、近くの事務所でコンサルタントの仕事を続けている。

六月のある日曜日、高梨湯ののれんを二人で掲げた。入籍の日だった。派手な式はあげなかった。坂本と山口さんと両親を呼んで、銭湯の脱衣所で小さな宴を開いた。

「こんな結婚式、初めて見たよ」

「でも、ここが一番似合ってるわね」

「順一のやつ、ここまでやるとは思わなかったよ。沙知さん、これから苦労しますよ」

「覚悟はできています」

笑い声が脱衣所に満ちた。父はずっと笑っていた。

そして一年が過ぎた頃、高梨湯に新しい笑い声が加わった。沙知が産んだ女の子で、俺たちは「日向」と名付けた。

休日になると、沙知は日向を抱いて番台の横に座った。常連の山口さんが日向の頬をつつき、日向がキャッキャと笑う。その声が湯気の中に溶けていくのを聞きながら、俺は釜場で火加減を確かめた。父が日向を膝に乗せて、静かに目を細めている。その顔を見た瞬間、胸がいっぱいになった。

夜、日向を寝かしつけた後、俺と沙知は二人で浴室に立った。湯が白く立ち上り、古いタイルを柔らかく包んでいた。

「あの夏、ここで泣いていなければ、あなたに会えなかった」

「泣いてくれて、よかったのかもな」

沙知が笑った。

Thumbnail