「もう楽しくないんです」——そう言った瞬間、私は自分が何をしてきたのか、全部思い知った。3年間、私はこの団地の組長として、誰もやりたがらない仕事を一人で引き受けてきた。ゴミの分別を直し、共益費を集め、廊下の蛍光灯を管理会社に頼み続けた。誰かに感謝されたことなんて一度もなかった。それでも、やらなければ誰もやらないから、私は毎朝5時に起きて、黙々と続けてきた。でもあの日、ゴミ置場の前に立っていた…

「もう楽しくないんです」——そう言った瞬間、私は自分が何をしてきたのか、全部思い知った。3年間、私はこの団地の組長として、誰もやりたがらない仕事を一人で引き受けてきた。ゴミの分別を直し、共益費を集め、廊下の蛍光灯を管理会社に頼み続けた。誰かに感謝されたことなんて一度もなかった。それでも、やらなければ誰もやらないから、私は毎朝5時に起きて、黙々と続けてきた。でもあの日、ゴミ置場の前に立っていた...

正直に生きることが、これほどまでに人を消耗させるものだとは、長谷川千鶴は若い頃、思いもしなかった。

2026年4月、大阪府堺市の外れに古びたUR団地があった。かつては中流階級の象徴として建てられたその建物群は、今や外壁に苔が生え、エレベーターのない階段には錆びた手すりが続くばかりだ。住民の大半は高齢者か低収入の単身者。若い家族の姿はほとんど見当たらない。

4号棟の3階、304号室に長谷川千鶴は一人で住んでいた。68歳。夫が死んで5年が経つ。

その朝も千鶴は午前5時ちょうどに目を覚ました。目覚まし時計はいらない。体が覚えているのだ。布団を畳んで押し入れにしまい、扉を閉める。誰かに見られているわけでもないのに、彼女はこの手順を省いたことが一度もなかった。

洗面所で顔を洗い、鏡を覗く。痩せた輪郭、窪んだ両目。かつて鋭く澄んでいた瞳は、今は緑内障の初期症状のせいで、どこか遠くを見ているように見える。毎朝、点眼薬を欠かさず差すのが習慣になっていた。冷たい液体が眼球の表面を流れる時、千鶴はいつも軽く眉を潜める。それ以上の反応は見せない。

台所に移り、冷蔵庫を開けた。中身はいつもと変わらない。卵が3個。インスタントの昆布だし。乾燥わかめの袋。それだけだ。彼女は卵を1個だけ取り出し、鍋で茹でた。食事はいつも一人分。無駄なく、美儀に反するとうのが千鶴の信条だった。

ダイニングテーブルに座り、卵を半分に割る。黄身がちょうどよく固まっていた。窓の外では、早朝の団地に霞がかかっていた。

食後、千鶴は引き出しから1冊のノートを取り出した。表紙はビニールで丁寧に覆われ、綴じ目がセロハンテープで止めてある。もう3年前から使っているものだが、まだ捨てられない。そのノートには毎月の支出と収入が手書きで記録されていた。数字は几帳面で、1円の誤差もない。

年金の欄に目を落とすと、千鶴は鉛筆の先でそっとページを押さえた。夫の遺族年金と自身の基礎年金を合わせると、月21万円ほどになるはずだった。しかし実際に口座に振り込まれる額は、それより2万円以上少ない。

差し引かれているのは、夫が生前に黙って連帯保証人になっていた負債の返済分だった。義兄が経営していた会社が倒産した際、夫は400万円の保証債務を何も告げずに引き受けていた。それが発覚したのは、夫の死亡後の遺品整理をしていた千鶴が、古い封筒の中から金融機関の書類を見つけた時だった。封筒を手にした瞬間のことを、千鶴は今でもはっきりと覚えている。何も言わなかった。泣きもしなかった。ただ椅子に座って、5分ほど書類を膝の上に置いたまま動かなかった。それだけだ。

現在の残債はまだ250万円以上ある。千鶴は鉛筆を置き、ノートをまた引き出しにしまった。

午前9時を過ぎた頃、彼女は部屋で着替えた。黒のスラックス、白のシャツ。アイロンをかけるのを忘れない。襟の内側まで丁寧に伸ばし、袖の折り目を揃える。ドラッグストアの仕事は午後からだが、その前にやらなければならないことがあった。

4号棟の自治会の組長を、千鶴は3年前から務めている。誰もやりたがらなかったから押し付けられたというのが正確なところだ。当時の組長だった元公務員の老人が「千鶴さんは几帳面だから向いてる」と言い、他の住民も口を揃えて頷いた。断るだけの理由が見つからず、千鶴は引き受けた。

今月の仕事の一つは、各戸を回って月の共益費500円を集めることだった。彼女はビニール表紙のノートを脇に抱え、小さな封筒を何枚か持って部屋を出た。

まず301号室。ここには81歳の老人、富田義雄が一人で住んでいる。インターホンを押すと、しばらくしてから廊下に出てくる音がした。扉が開いて、薄暗い室内から老人が顔を出す。耳が遠く、補聴器をつけ忘れたまま出てくることが多い。

「今月の共益費の集金に参りました。富田さん」

老人は眉を潜め、首をかしげた。「なんじゃ。また先月も払ったぞ」

「先月分は確かに頂いています。今月分です」

千鶴はノートを開いて先月の領収欄を見せた。老人はノートをじっと見てから「ああ、そうか」と言い、財布を取りに引っ込んだ。出てくるまで3分かかった。渡された小銭の中に10円玉が1枚足りなかった。千鶴は何も言わず、自分の財布から10円を補った。

302号室には74歳の婦人が住んでいる。インターホンを押すとすぐに返事があった。扉が開いた瞬間から、女は何か言いたそうな顔をしていた。

「千鶴さん、廊下の蛍光灯がまた切れてますよ。あなたが組長でしょう。早くなんとかしてちょうだい」

千鶴は一度頷いた。「確認しておきます」と答えた。集金を済ませ、扉が閉まるのを確認してからノートに蛍光灯のことを書き留めた。管理会社への連絡は今日の午後にしなければならない。

305号室はここ数ヶ月で三度目の空き部屋になった。以前住んでいた80代の老夫婦が先月、息子一家に引き取られて外面の施設に入ったと聞いた。扉の前に立つと、室内が静まり返っているのがドア越しに感じられた。千鶴はインターホンを押さず通り過ぎた。

306号室には今月から新しい住民が入っている。松原さゆ、32歳。シングルマザーで3歳の子供と二人暮らしだと管理事務所から聞いていた。低所得世帯向けの家賃補助を受けているらしい。

インターホンを押すと、中からガタゴトと物音がした。少し間があってから扉が開いた。出てきたのは、くたびれたスウェットを着た女だった。目の下に隈があり、髪は雑に一つに結んである。千鶴が要件を告げると、女はぼんやりした顔で千鶴を見た。

「共益費って何ですか」

千鶴は少し間を置いてから説明した。「このフロアの廊下の電球交換や清掃用品の購入など、共用部分の維持に使う費用です。入居時にご説明があったかと思いますが」

女は少し考えてから「ちょっと待ってください」と言い、財布を探しに行った。戻ってくるまで2分ほどかかった。手には500円玉が1枚。千鶴はそれを受け取り、封筒に入れてノートに記録した。

「ありがとうございます」

女は何も言わず扉を閉めた。

1時間ほどかけて集金を終えた頃、千鶴は階段を降りながら足元を確認した。踊り場の壁に古いポスターが剥がれかけている。それをそっと押さえ直し、端を指で撫でた。誰もやらないから自分がやる。それが千鶴の習慣だった。

1階のゴミ置場の前を通りかかった時、異臭が鼻をついた。千鶴は立ち止まった。置場の柵の外に黒いビニール袋が2つ置いてある。今日は燃えるゴミの収集だが、昨日はプラスチック類の収集日だった。明らかに分別が間違っている。それだけではなく、袋の口が甘く閉まっており、中身の一部が地面にこぼれている。

彼女はその場に立ち尽くしたまま袋を一瞥した。見なかったことにすることもできた。今日の午後にはドラッグストアの仕事がある。その後に管理会社へ電話して、夕方には買い物をして、夜には翌月の集金の準備をしなければならない。やることは山積みだ。

しかし千鶴の足は動かなかった。彼女は自室に戻り、使い古しのゴム手袋を持って再び1階に降りた。ゴミ袋を横に置き、袋の口を結び直す。こぼれた中身を拾い集め、分別に従って仕分ける。ゴムの内側まで染み込みそうな匂いの中で、千鶴は黙々と手を動かした。

4号棟の住民の中にゴミの分別を正しくできない者が何人いるか、千鶴には大体見当がついていた。理由も分かっている。物忘れ、無関心、あるいは最初から気にする余裕がないのだ。それを責める気にはなれない。ただ、誰かがやらなければ収集者は袋を持っていかない。そのことが市から通知された時、苦情を言うのは住民全員だ。組長の自分に向かって。

午後1時、彼女はドラッグストアに出勤した。駅から3分歩いた商店街の奥にある、小さな地元のチェーン店だった。千鶴はレジ担当のパートタイマーとして、週に5日、1日5時間ずつここで働いている。時給は970円。月に約22時間の労働で得られる総収入は、手取りで7万円弱だ。年金と合わせると月23万円ほどになる計算だが、ローン返済と家賃と光熱費を引いた後の手残りは毎月ギリギリだった。

レジカウンターに入ると、隣の担当の若い女性スタッフが会釈した。千鶴も同じように返す。それ以上の会話はない。

午後3時を過ぎた頃、店長の野村が声をかけてきた。

「長谷川さん、ちょっとよろしいですか」

バックヤードに促された。野村は40代の男で、穏やかな口調の人物だった。感情を表に出さず、いつも丁寧な言い方をするが、それが却って話の内容を重くする。

「来月からシフトを変更させていただきたいと思っています。現在週5日でお願いしていますが、この地域の人口減少の影響で売上がかなり厳しい状況になっていまして、週2日に減らさせていただくことになりそうです」

千鶴は野村の顔を見たまま動かなかった。

「大変申し訳ありません。他の方にも同様にお伝えしているところです」

千鶴は一度軽く頭を下げた。「わかりました」と言った。それだけだ。何も言い返さなかった。何も聞かなかった。

バックヤードの扉を抜け、レジカウンターに戻るまでの数歩の間、千鶴の頭の中では素早く計算が走った。週2日、月8回、5時間。手取りはおそらく2万5000円を切る。年金と合わせても、月の収入は13万円から10万円以下に落ちる。ローンの自動引き落とし額は変わらない。家賃も変わらない。電気代も水道代も、薬局で買う点眼薬の値段も。

彼女は端末の前に立ち、次の客の買い物をベルトコンベアに乗せた。バーコードをスキャンし、金額を読み上げ、お釣りを渡す。その手は揺れていない。声も揺れていない。しかし唇の端がほんの少しだけ白くなっていた。

仕事を終えたのは午後7時を回った頃だった。帰りに駅近くの食品スーパーに立ち寄った。目的は決まっていた。総菜コーナーの前で千鶴は時計を確認した。午後7時半を過ぎれば総菜に半額シールが貼られる。あと10分ほどある。

彼女は総菜棚の前で立ち止まり、並んでいるパックを眺めた。塩鮭の弁当、豚肉の生姜焼き、太巻き寿司。どれも定価では買わない。いや、買えない。

千鶴はわずかに視線を動かしながら棚の横を向いた。誰か知り合いがいないか確かめるように。この癖がついたのはいつ頃からだろう。半額シールのついた総菜を買い物カゴに入れているところを、誰かに見られることへの言いようのない恐れ。働いていた会社の同僚でも、近所の知り合いでもなく、ただそこを通りかかる誰かの視線でさえ、彼女には耐えがたかった。

7時34分に店員が台車を押して総菜棚の前に現れた。手にはシールを貼るハンドガンを持っている。千鶴はその場から少し離れ、日用品のコーナーに移動してやり過ごした。5分ほど待ってから戻る。塩鮭の弁当に半額シールが貼られていた。千鶴はそれを一つカゴに入れた。他は何も入れない。

夜の商店街はひっそりとしている。シャッターの降りた店が多く、街灯の光がまばらに続くだけだ。千鶴は足早に歩いた。

団地に戻ると共用玄関の扉を開けて中に入った。廊下は薄暗く、蛍光灯が一つ点滅を繰り返している。昼間に気づいていたあれだと千鶴は思った。管理会社への電話は今晩には間に合わなかった。明日の朝にしなければならない。

3階の自室に入り鍵をかけた。電気をつける。部屋は片付いていた。物が少なく、しかし清潔だった。ダイニングテーブルの上に弁当の袋を置き、コートを脱いでハンガーにかける。電気代を意識して、千鶴は台所とダイニングの照明を片方だけつけた。

薄暗い中で弁当の蓋を開ける。塩鮭は冷めていた。食べながら彼女は何も考えないようにしていた。考えると数字が頭の中で列を作り始めるからだ。野村の言った「週2日」という言葉が、午後から何度も頭の表面に浮かんでは沈んだ。浮かぶたびに千鶴は別のことを考えようとした。明日の集金の残り、管理会社への連絡、点眼薬の残量。しかし数字は止まらなかった。

箸を置き、彼女は窓の外を見た。4号棟の向いに5号棟があり、そこに灯った窓の明かりがいくつか見える。どの部屋に誰が住んでいるか、千鶴はほとんど知らない。知っていても特別な感情はない。ただ、あの明かりの数だけ誰かがここで一日を終えたのだと思った。

弁当の残りを小さく畳んでゴミ袋に入れた。台所を洗い、テーブルを拭いた。それから引き出しからビニール表紙のノートを出し、今日の集金結果を記入した。数字を確認し、合計を出し、封筒に分けて翌日の引き継ぎ準備を整えた。

ノートを閉じながら、千鶴はふと手を止めた。今日、野村から告げられたことを、彼女はまだ誰にも話していない。話す相手がいない。友人というものが、いつの間にかいなくなっていた。夫が生きていた頃は夫に話した。夫は聞き上手ではなかったが、少なくともそこにいた。今は窓の外の明かりを見るだけだ。

千鶴はノートをまた引き出しにしまい、立ち上がった。歯を磨き、洗面所の電気を消し、寝室に戻った。布団を広げ、その中に体を沈める。点眼薬を差すのを忘れたことに気づき、もう一度起き上がって取りに行った。冷たい一滴が目に落ちる。それだけ済ませると彼女は再び横になった。

明日も5時に起きる。布団を畳む。卵を1個茹でる。ノートを確認する。それだけ考えていれば今夜は眠れる。それだけでいい。

部屋の外で夜風が団地の廊下を吹き抜ける音がした。千鶴はその音を聞きながら目を閉じた。目の裏に数字が並ぶ前に、意識がゆっくりと沈んでいった。

2026年4月下旬。空はまだうら寒く、堺市の外れに立つUR団地の周囲には、春の気配というよりも冬の名残りのような乾いた風が吹いていた。

千鶴がドラッグストアの制服のエプロンを外し、タイムカードを押したのは午後7時10分だった。今日は週2日に削られたシフトの一日目だった。かつて週5日、午後1時から6時まで働いていた場所に、今日は午後2時から来て7時に上がった。

帰り道、千鶴はまた食品スーパーに寄った。総菜コーナーへ向かう。7時半の値引きタイミングまでまだ15分ある。千鶴は一度、日用品の棚の前で立ち止まり、洗剤の値段を確認するふりをした。

値引きシールが貼られていくのを遠回りしながら確かめる。今日の目当ては牛肉と野菜の炒め物のパックだった。千鶴はそれを一つカゴに入れた。

団地に帰りついたのは午後8時少し前だった。共用玄関の扉を開けると、廊下に薄暗い蛍光灯の光が続いている。昨日、管理会社に電話して点滅している照明の交換を依頼したが、対応は今週中になると言われた。

ゴミ置場の横を通りかかった時、千鶴は足を止めた。匂いがした。生ゴミの異臭が冷えた空気の中に混じっている。柵の外を見ると、黒いビニール袋が1つ、ゴミ置場の隅に投げ置かれていた。今日はプラスチック類の収集だ。しかしその袋の口から野菜の切れ端のようなものが見えていた。明らかに燃えるゴミだ。

袋の側面を見ると、フロアの番号を示すシールが貼られていた。306号室。松原さゆの部屋だ。

千鶴はしばらく袋を見ていた。今日は疲れている。5時間立ち続けのレジ業務の後、ここに立っている。自室でお茶を飲みたかった。炒め物を温めて食べて、ノートを書いて、早めに横になりたかった。

しかし千鶴の足は階段の方へ向かっていた。3階に上がり、306号室の前に立つ。インターホンを押した。しばらく間があった。それから足音が聞こえてきた。扉が開いた。松原さゆが顔を出した。くたびれたスウェットのままだ。目の下の隈は薄くなっていない。室内から子供が何かを引きずるような音がしている。

千鶴は丁寧に言った。

「1階のゴミ置場に、306号室のシールの貼られた袋が出ていました。今日はプラスチック類の収集日で、明日の朝が燃えるゴミの収集になります。袋の中身を確認していただければ、明日に出し直せます」

松原の顔がわずかに変わった。目を細め、千鶴を見る。

千鶴は続けた。「収集日のカレンダーは1階の掲示板に貼ってあります。ご入居から日が浅いので分かりにくいかもしれませんが、分別のルールは自治会の規則で定められていまして……」

松原が口を開いた。声は低く、しかしはっきりとしていた。「分かってますよ。そのくらい」

千鶴は一度言葉を止めた。分かってて出したんですか、と言いかけて言わなかった。それは正確な問いかもしれないが、今ここで言う必要はない。彼女はもう一度穏やかな口調で言った。

「袋がそのまま残っていると、収集者に持って行ってもらえないことがありまして、その場合は組長である私に市から通知が来ることになっています。ご迷惑をおかけするつもりはないのですが、できれば明日の朝の収集に合わせて出し直していただけると助かります」

松原はしばらく千鶴を見ていた。それからため息をついた。ため息は短く、しかし明らかに苛立ちを含んでいた。室内から子供の泣き声が上がった。松原が振り向き、「ちょっと待って」と声をあげた。泣き声は止まらない。松原は千鶴に向き直り、言った。

「わかりました。後で出し直します」

千鶴は頷いた。「よろしくお願いします」と言い、一歩下がった。扉が閉まった。

翌日の朝、5時に起きて窓から下を見ると、1階のゴミ置場の前には306号室の袋はなかった。千鶴は点眼薬を差しながらそれを確認した。

今日は休日だ。ドラッグストアのシフトはない。朝の支度を終えた後、千鶴はビニール表紙のノートを開き、今月の予算を再度確認した。野村から告げられた週2日への削減が反映された今月の収入見込みは、年金と合わせて9万8000円前後になる。家賃が3万6000円。ローン返済の自動引き落としが2万2000円。光熱費が月平均1万円強。残るのは食費と日用品と医療費で使える額だ。

点眼薬の残量を確認した。あと10日分ほど。1箱2400円。今月の薬代に組み込まなければならない。

千鶴はノートに数字を並べ直し、線を引いた。破綻はしていない。ギリギリ足りる。しかしそれは、食費をさらに削ること、そしてどこかで予定外の出費が生じないことを前提にした話だった。予定外の出費が生じないことという前提が、いかに脆いものかを千鶴は50年の生活の中で何度も学んできた。

午前中、千鶴は管理会社に電話して廊下の照明について進捗を確認し、自治会の集金結果を記録したノートを整理し、翌月の回覧板の文面を手書きで下書きした。昼は残り物の炒め物を温めて食べた。午後になって、彼女はスーパーへ買い出しに出かけた。今日は特売日で、鶏の胸肉とキャベツが安くなっていると先週のチラシで確認していた。

スーパーの帰り道、千鶴は商店街の入り口あたりで足を止めた。向こうから歩いてきたのは、ドラッグストアの同僚、麻野だった。50代前半の女性で、千鶴より15年ほど若い。勤務は千鶴より長く、パートリーダーだ。

目があった。麻野は微笑んで会釈した。千鶴も会釈を返した。

「お買い物ですか」と麻野が言った。

「ええ」と千鶴は答えた。

麻野は少し間を置いてから言った。「シフトのこと、野村さんから聞きましたよ。大変でしたね」

千鶴は麻野の顔を見た。表情は穏やかだ。しかしそれ以上の言葉が続く気配はない。「大変」という言葉が宙に浮いている。

「大変というほどのことでもありません」と千鶴は言った。声に力がある。揺れていない。

「そうですか」と麻野は言った。また会釈した。千鶴も同じようにした。それで終わった。

千鶴は歩き続けた。後ろを振り返らなかった。

2日後の朝、千鶴が1階に降りてポストを確認すると、中に茶封筒が一通入っていた。差出人は市の廃棄物処理課。4号棟の自治会担当組長、長谷川千鶴様と宛て名が書いてある。封を開けるとA4の用紙が1枚入っていた。

「4号棟における分別不適切の継続的発生について。今後も改善が見られない場合は、該当棟の収集を停止する可能性がある旨、担当組長に通知する」

文面は丁寧だが、内容は明確な警告だった。千鶴は封筒を折り直して胸のポケットに入れた。

1階の廊下を歩きながらゴミ置場を確認する。今日は燃えるゴミの日。袋はきちんと出されていた。分別は問題ない。では、いつの分について通知が来たのか。千鶴は頭の中で直近の収集日を逆算した。先週の金曜日のプラスチック収集の際、収集車が黄色いシールを貼って持ち帰らなかった袋があったはずだ。確認していなかった。見落としていた。

ドラッグストアが休みの日、千鶴は午後から自転車で市の窓口に向かった。廃棄物処理課の担当者に通知の詳細を確認し、今後の対応について改めて伝えた。担当者は若い男性で、書類を見ながら形式的な返答をした。「分別ルールの徹底をお願いしたい。それだけです」と言い添えた。

その日の夕暮れ、千鶴が3階の廊下を歩いていると、306号室の前に黑い袋が2つ、扉の外に出されているのに気づいた。まだ夜の7時にもなっていない。翌朝の収集を待たずに出されたゴミだ。収集は明朝の8時までに出さなければならないが、前夜から廊下に置いておくことは禁止されている。廊下は共用部分であり、通行の妨げになる。

千鶴は立ち止まった。306号室のインターホンを押した。今度は早く扉が開いた。松原さゆが出てきた。今日は違う格好をしている。黒いパーカーとタイトなジーンズ。出かけるつもりなのか、あるいは帰ってきたところなのか。

「廊下へのゴミの仮置きは管理規則で禁止されています。収集は明朝ですので、朝7時半以降に出していただければ収集者に間に合います。夜のうちに廊下に置かれますと、他の住民の通行の妨げになりますし、管理組合からも注意が来ます」

松原はしばらく千鶴を見ていた。室内から子供の声がした。「ママ」と呼ぶ声。松原が振り向く。「すぐ戻る」と声をかけてから、再び千鶴に向き直った。松原の目が細くなった。

「こちらはこちらで精一杯やってるんです」と彼女は言った。声は低いが、刃を含んでいた。「仕事が終わって帰ってきて、子供見て、ご飯作って、ゴミ出しまで一人でやってるんです。あなたに言われなくても分かってます」

千鶴は黙っていた。

松原はさらに続けた。「毎回毎回こんなことで来られても困ります。私は悪人でも何でもないんです。ただちょっと間違えただけです。人の失敗をそんなにいちいち来て指摘して、あなた楽しいんですか」

千鶴は答えなかった。指摘に来ているのではなく、規則の周知に来ているのです、と言いたかった。しかしその言葉は、今この状況では何の意味も持たないということも千鶴には分かっていた。

松原は息を吐いた。「わかりました。中に入れます。どうぞ安心してください」声に棘がある。言葉は従順だが、内容は従順ではない。

扉が閉まった。千鶴は廊下に立っていた。松原の言葉が耳の中に残っていた。楽しくはない。千鶴は思った。楽しかったことなど一度もない。ゴミの分別を指摘することも、集金の電話を管理会社にかけることも、回覧板の文面を何度も書き直すことも、楽しいからやっているのではなく、やらなければ誰もやらないからやっている。そのことは誰にも伝わらなかった。誰にも、一度も。

千鶴はビニール表紙のノートをコートのポケットの中でわずかに握った。指がかすかに震えている。寒さのせいだと思った。寒さのせいにした。

廊下を歩き、自室の鍵を開けた。部屋に入り、鍵をかけた。電気をつけた。コートをハンガーにかけ、台所で湯を沸かした。お茶を入れ、テーブルに座った。ノートを出して広げ、何かを書こうとして、何も書かなかった。

蛍光灯の光が白く静かに部屋を照らしていた。千鶴は湯呑みを両手で持ち、中を見た。薄い緑色のお茶が揺れている。手が震えているのだ。怒っているわけではなかった。泣きたいわけでもなかった。ただ、長い時間をかけて積み上げてきた何かが、少しずつ静かに削れていくような感覚があった。その感覚に名前をつけることを、千鶴は自分に許していなかった。

お茶を一口飲み、湯呑みをテーブルに戻した。明日はシフトのある日だ。起きて、布団を畳んで、卵を茹でて、出勤する。それだけのことだ。

6月に入ると空の色が変わった。梅雨の前触れのような重たい灰色の雲が堺の空低く広がり、気温は下がらないが空気が湿り気を帯び、団地の外壁がじっとりと暗くなる。

6月の第2週に入ったある朝、千鶴が1階のポストを確認しようと廊下に出ると、異様な異臭が鼻を刺した。ゴミ置場の方向からだった。近づいてみると、柵の外側に袋が5つ乱雑に積み上げられていた。雨が続いていたせいで袋の底が濡れ、一つは破れかけている。袋に黄色いシールが貼られていた。収集拒否のシールだ。

千鶴は柵の前に立ち、袋を1つずつ確認した。分別が全くできていない。燃えるゴミ、プラスチック、ペットボトルが1つの袋にまとめて詰め込まれている。そのうち3つに4号棟のシールが貼られていた。

千鶴は自室に戻り、ゴム手袋を出した。それから古いビニールカッパをクローゼットから引っ張り出して羽織った。雨の中でのゴミ袋の分別をやり直すのは初めてのことではない。去年の夏にも一度あった。千鶴はゴム手袋をはめ、最初の袋の口を開いた。中身を確認しながら仮置きの袋に分けていく。

2袋目に手をかけた時、千鶴は視野の端に何かを感じた。顔をあげると3階のベランダに人影があった。301号室に住む富田老人だ。老人はベランダの柵に両手をかけ、真下を見ていた。目があったかどうか千鶴には分からなかった。老人の表情は遠くてよく見えない。千鶴は視線を戻し、袋の分別を続けた。その間、富田が降りてくることはなかった。

3袋目を仕分けしている時、千鶴の右手の指先が袋の破れた部分に引っかかった。鋭い感触があった。ゴム手袋の外側がわずかに切れ、その下の皮膚に細い傷が入った。大した傷ではない。血が滲む程度だ。

4袋目、5袋目。仕分けが終わったのは30分ほど後だった。正しく分別し直した袋を柵の内側に収め、収集のカレンダーと照合して出すべきものを確認した。拒否シールの貼られた袋は一旦回収し、次の収集日に正しい分類で出し直すしかない。千鶴はそれを自分の部屋の玄関前に一時的に置いた。ゴム手袋を外し、雨がっぱのままで手を水道で洗った。冷たい水が指先の傷に染みた。

翌朝、千鶴が5時に起き、窓から下を見るとゴミ置場は片付いていた。昨日、仕分け直した袋が柵の内側に整えられている。1階のポストに回覧が届いていた。管理組合からの連絡で、廃棄物の分別について改めて全住民に注意喚起する旨が書かれていた。末尾には「今後も問題が繰り返される場合、各棟の組長に対して指導が行われる」という文言が記されていた。

問題の根源は自分にあるわけではないが、組長である以上、責任の矢は自分に向く。それがこのポジションの構造だ。千鶴はそれをよく理解していた。理解した上で、3年前に引き受けた。

この日の午後、千鶴はドラッグストアの仕事から戻り、4号棟の掲示板に分別表を新しく貼り直した。市が配布している分類チャートを印刷し、ラミネート加工をして、見やすい高さに貼った。費用は自腹だった。

掲示板の前に立って貼り紙を確認していると、背後から足音がした。振り向くと、松原さゆが小さな子供の手を引きながら1階の廊下を歩いてきた。保育所の帰りだろうか。子供はリュックを背負っている。松原は千鶴を見た。千鶴も松原を見た。千鶴は一歩横にずれ、掲示板の前を空けた。松原はそこで立ち止まらず、子供を連れたまま通り過ぎた。挨拶もなかった。千鶴も何も言わなかった。

6月中旬、市の廃棄物処理課から電話があった。担当者は穏やかな口調で言った。「4号棟のゴミ置場の状況について、先週と今週、二度にわたって収集拒否の案件が発生していること、及び今後3週間以内に改善が確認されない場合、棟の収集を一時停止する可能性がある旨、担当組長にお伝えしたい」

千鶴は電話で一度「はい」と言った。続けて「現在、自治会による周知と個別対応を進めております」と答えた。担当者はそれを聞き「では、よろしくお願いいたします」と言って電話を切った。

収集停止が実行されれば、4号棟の住民全員がゴミを出せなくなる。文句を言うのは、全員、組長の千鶴に向かってだ。

何日か考えた末に、千鶴は決めた。各戸を回って、直接伝える以外にない。次の休日の午前中、彼女はノートを持って廊下に出た。上から順番に回る。301号室の富田老人は補聴器をしていたので話は通じた。ただ「すみません。わかりました」と言いながら、目が定まっていなかった。2階の老夫婦は「自分は関係ない。他所がやってることだ」と言った。千鶴は否定せずに聞いた。

306号室の前に来た時、千鶴は一度立ち止まった。インターホンを押した。しばらく待っても応答がない。押し直した。また待つ。千鶴は三度目を押さなかった。留守なのか、あるいは出たくないのか、確かめる術はない。ノートに「306号室、不在」と書き、次の戸に向かった。

全12戸のうち、在宅で話ができたのは7戸だった。残りは不在か、扉を開けなかった。

自室に戻り昼食を作った。冷蔵庫にあった豆腐と残り野菜で汁を作り、ご飯を茶碗1杯だけ持った。食べながら、午前中のことを頭の中で整理した。7戸に伝えた。残り5戸には伝わっていない。次の機会を作らなければならない。

梅雨は続いた。この頃から千鶴は、朝の点眼薬を差すたびに右目の違和感を意識するようになっていた。薬を差した直後だけでなく、日中も光の眩しい場所に出ると右目の周囲が重たくなる感覚がある。緑内障の初期症状として眼圧が上がると、そのような感覚が出ることは知っていた。3ヶ月前に眼科で検査を受けた時、先生は「経過観察で大丈夫」と言っていた。しかし次の受診は2ヶ月後に設定されていて、まだ日があった。薬の残りはあと4日分だった。

ドラッグストアで市販の類似成分の点眼薬を買えば処方薬より安くなる。しかし成分が完全に同じではない。処方薬を補充するには眼科に行って処方箋を出してもらう必要があり、受診料と薬代を合わせると5000円近くかかる。今月の手残りを考えると、その5000円は重かった。

千鶴はその計算を2日間繰り返した後に、眼科に予約の電話を入れた。来週の月曜日に見てもらえることになった。

6月の20日過ぎのある朝、千鶴が目を覚ますと外の雨音が昨日より強かった。朝食を済ませ、今日の予定を確認した。ドラッグストアのシフトは午後からだ。それまでに1階のゴミ置場を確認しておきたかった。今日は燃えるゴミの収集だ。

雨がっぱを着て1階に降りた。ゴミの前に立って確認すると、袋が7つある。分別を外から確認する限り、今日の分は問題なさそうだった。千鶴はカッパのフードを被り直し、雨の中に立っていた。その時、ゴミ置場の横の壁に黄色いシールが貼り残されているのに気づいた。先週の収集拒否のシールだ。剥がれかけていたが、まだそこにある。千鶴はそれを指で剥がした。湿気でのりが弱まっており、綺麗に剥がれた。丸めてポケットに入れた。

戻ろうとして、足元が滑った。コンクリートの地面に、ゴミ置場から流れ出た水と雨水が混じって薄く溜まっていた。千鶴の右足がその水溜まりの縁でわずかにずれた。体勢を立て直そうとして、左膝を地面についた。派手な転倒ではない。膝をついただけで、倒れ込んだわけではない。しかし起き上がると、黒のスラックスの左膝の部分が薄く擦り切れていた。

部屋に戻り洗面所で膝を洗った。皮膚が少し削れているが、血はさほど出ていない。絆創膏を貼り、スラックスを脱いで洗面台に置いた。予備の黒いスラックスに着替え、コートを羽織った。

ドラッグストアから戻ったのは午後7時半だった。ポストに金融機関からの封筒が一通入っていた。開封すると、今月の引き落とし結果と、来月以降の返済スケジュールの確認書だった。数字が並んでいる。千鶴はそれを一度読んで、折り直した。

自室に入り、コートを脱ぎ、電気をつける。台所に立ち、湯を沸かした。今日の夕食は豆腐と乾燥わかめの味噌汁だけにするつもりだった。食欲がなかった。それよりも早く横になりたかった。

お湯が湧くのを待ちながらテーブルに座った。引き落とし確認書をもう一度開いた。来月の自動引き落とし額は今月と変わらない。収入が減った分、その額の重さが変わっただけだ。

味噌汁を作り、豆腐を切って入れた。食べてから洗い物を済ませた。洗面所で歯を磨きながら千鶴は鏡を見た。今日の朝も同じ鏡を見た。頬がこけてきた。そう思った。それ以上は考えなかった。

寝室に入り布団を広げた。横になると雨の音がまた強まっていた。千鶴は何かを考えようとして、やめた。考えてしまうとまた数字が並ぶ。眼科の費用、点眼薬の残り、来月の引き落とし、減ったシフトの手取り。並べ始めると止まらなくなる。だから今夜は何も考えないことにした。ただ雨の音を聞く。それだけでいい。

しかし暗い天井を見上げながら、千鶴は一つだけ思った。誰も見ていなかった。今朝転んだ時、ゴミを開けていた時、雨がっぱのまま地面に膝をついた時。上の階の窓から見えていたかもしれないが、誰も降りてこなかった。それは知っている、分かっている、責めているわけではない。ただ、誰も見ていなかったという事実だけが、雨と一緒に暗い部屋の中にあった。

7月に入った最初の週、梅雨が開けた。空が急に高くなり、光の質が変わった。湿った灰色が取れて、青みが勝った白い光が団地の外壁を照らした。千鶴は久しぶりに布団を干した。布団を窓枠にかけながら空の色を確認した。晴れている。それだけのことだったが、少し気持ちが軽くなるという感覚を千鶴は持て余した。軽くなっていい理由が何もないからだ。

7月7日の朝、千鶴は通帳を確認するために最寄りの銀行のATMへ向かった。画面に表示された残高を見た。4万2000円。先月末に自動引き落としがあった後の残高だ。年金の振り込みはまだ今月分が入っていない。次の振り込み日まであと2週間ある。その間にドラッグストアのシフト分の給与が一度入るが、週2日に削られた今の勤務では手取りで2万円を少し超える程度だ。合わせても6万円台。そこから7月中に支払わなければならないのは、光熱費と日用品と食費、そして眼科の受診料と薬代だ。先週眼科に行って処方薬を補充してきた。1箱2400円。来月また買い足す必要がある。

現在の口座に残っている4万2000円の他に、もう1冊別の通帳がある。郵便局の通帳だ。そこには20万円が入っている。夫が死んだ後に千鶴がゆっくりと積み立てた額だ。使う目的は決めていた。自分が死んだ時の費用。葬儀は簡素でいい。骨だけ拾ってもらえれば十分だ。ただ、誰かに迷惑をかけたくなかった。だから費用だけは用意してある。

その20万円に今月手をつけることを考えた。しかし、千鶴はすぐにその考えを頭から追い出した。あれは触らない。そう決めている。

自室に戻り、引き出しからビニール表紙のノートを出した。今月の収支を書き直した。数字を並べると、隙間のない現実が紙の上に出てくる。千鶴は鉛筆でゆっくりと計算した。修正の線が増えていく。計算し直しても、出てくる数字は変わらない。このまま行けば、来月は生活防衛費の底をつく可能性がある。

「生活保護」という言葉が頭の端に浮かんだ。千鶴はそれを意識しないようにしながら、今月の食費の上限を書いた。1日100円以内。外食はしない。総菜の半額シールを利用する。豆腐、卵、海藻、季節の安い野菜。それでしのぐ。

数日後の昼下がり、千鶴は着替えを始めた。タンスの中から一番状態の良い服を出した。ノーカラーのジャケットと黒のスラックス。スラックスは先月膝をついたものとは別の、予備の一本だ。シャツは白。襟元を整えた。薄く口紅だけをつけた。鏡を見た。頬のこけが目立つが、化粧で多少はごまかせる。体は痩せているが、姿勢はまっすぐだった。

長谷川千鶴は区役所へ行くことにした。生活保護の申請について、相談だけでも聞いてもらえるかどうか。電話ではなく、直接向かった方がいいと判断した。

区役所の入口を入ると冷房が効いていた。案内の看板を確認し、生活支援相談窓口の番号札を取った。番号を呼ばれるまでプラスチックの椅子に座って待った。

担当者は30代半ばの男性だった。落ち着いた口調で「どのようなご相談でしょうか」と聞いた。千鶴は簡潔に説明した。夫の残した連帯保証債務の返済が続いていること。勤務時間が削減されて収入が落ちたこと。年金と合わせた月収が生活費を下回りつつあること。

担当者はメモを取りながら聞いていた。話を終えると、いくつか確認事項を尋ねた。現在の資産状況、家賃、扶養してくれる家族の有無。千鶴は答えた。子供はいない。親族とは疎遠だ。資産は預貯金の口座のみ。

担当者は書類を確認しながら続けた。「生活保護の受給を申請するためには、まず保有資産をできる限り活用することが条件になります。現在の預貯金残高が生活費の基準額を超えている場合、受給は難しくなります。また、ご主人様の連帯保証から発生した債務については、私的な負債として生活保護費からの返済は認められていません」

千鶴は担当者の言葉を聞きながら、手の上でビニール表紙のノートをわずかに抑えた。

担当者は続けた。「もし申請をご検討であれば、まず弁護士や司法書士に相談して、個人破産の手続きを検討されることをお勧めします。自己破産を経て債務がなくなった後であれば、審査の状況が変わる場合があります」

千鶴は一度「はい」と言った。それからもう一点確認させてください、と言って別の封筒から数字を見せた。現在の口座の残高が20万円弱あること。

担当者は画面を確認しながら率直に言った。「現時点では、その資産を生活費に充当することが先になります。目安として、最低生活費の1ヶ月分を下回る水準になった段階で、改めてご申請いただく形になります」

「わかりました」と千鶴は言った。「ありがとうございました」と言い、立ち上がった。担当者は頭を下げた。千鶴も頭を下げた。

区役所の出口を出ると日差しが強かった。千鶴はしばらく入口の日陰の中に立ったまま、特に何かを考えるでもなく、遠くを見ていた。結論は出ていた。今の状況では申請できない。20万円を使い切るまで、申請の対象にすらならない。しかしその20万円は葬儀費用として置いておきたい。そうなると、その20万円を維持したまま不足分を別のどこかで補わなければならない。しかし補う方法がない。矛盾した円環だ。

帰りの電車は混んでいた。席に座れず、吊り革を持って立った。電車が揺れるたびに、右目の周囲がかすかに重たくなる感覚がした。

乗り換えのために降りた駅のホームは、千鶴が住む団地の最寄り駅より一つ前の、やや規模の大きな駅だった。次の電車まで10分ある。千鶴はホームのベンチに座った。夕方のホームには人の往来があった。帰宅する人たち、出かける人たち、待っている人たち。それぞれが自分の時間の中にいた。

千鶴は鞄を膝の上に置き、背筋を伸ばして座っていた。線路を見た。ぼんやりと、自然に視線がそちらへ向いた。頭の中に言葉が浮かんだわけではない。決意が生まれたわけでもない。ただ、視線が吸い寄せられるように線路の方へ向いた。

千鶴はすぐに視線を戻した。正面の壁の広告を見た。保険会社の宣伝だった。家族が笑っている写真が使われていた。千鶴は目を伏せた。ベンチの木の感触を手のひらで確かめた。硬い。古い木材で、塗装が少し剥げている。

頭の中で別の考えが出てきた。ゆっくりと。明日の朝、4号棟のゴミ置場を確認しなければならない。今月の集金のノートを整理しなければならない。廊下の照明がまた点滅し始めているかもしれない。確認していない。些末な考えだと千鶴は思った。しかし考えが止まらなかった。掲示板の張り紙ののりが弱っていた。両面テープで張り直す必要がある。富田老人の補聴器の調子が悪そうだった。次に集金に行く時、声を掛けなければならない。

それらの考えが、一つずつ静かに頭の中を埋めていった。どこかへ行くとしたら、これらが片付いてから出なければ筋が通らない。そう思った瞬間に、千鶴は自分がどういう考え方をしているかに気づいた。気づいて、また視線を落とした。

電車の来るアナウンスが流れた。千鶴は立ち上がった。鞄を持ち直し、ホームの白線の内側に立った。電車が来た。扉が開いて人が出てきた。千鶴は乗り込み、座席に座った。

団地の最寄り駅で降り、夜の商店街を歩いた。コンビニの明かりが眩しかった。千鶴はそこには寄らず、まっすぐ団地へ向かった。

自室に戻り、夕食を作った。豆腐を切り、出汁で温めた。卵を溶いて流し込んだ。食事を終え、食器を洗い、テーブルを拭いた。引き出しからビニール表紙のノートを出した。今日の区役所での話を簡単に記録した。「自己破産の相談先を調べる必要がある。法テラスの番号を確認しなければならない」それをノートの端に書いた。それからもう一案、書いた。「掲示板の張り紙、両面テープで補修」

ノートを閉じ、引き出しに戻した。千鶴は立ち上がり、玄関の方へ歩いた。扉の脇に小さな木の板が画鋲で止めてある。「4号棟組長」と書かれた手作りの表示だ。3年前に前々任の組長が作ったもので、かなり前から塗料が色褪せている。千鶴はその木の板を画鋲ごと外した。両手の平の上に乗せて、しばらく見た。それからテーブルの上にゆっくりと置いた。画鋲の先がテーブルの木目に軽く当たる音がした。

洗面所へ行き、歯を磨いた。寝室に入り、布団を広げた。点眼薬を差し、電気を消した。横になると天井が暗い。窓の外に、団地の他の棟の明かりがぼんやりと見えた。

今夜は何も考えなかった。何も考えないということが、千鶴にとってこれほど近くにあったことは、これまでなかった気がした。

翌朝5時に目が覚めた。アラームではない。体が覚えているのだ。千鶴はしばらく天井を見ていた。昨夜の暗さがまだ部屋の隅に残っているような気がした。しかし窓の外はもう薄明るくなっている。7月の夜明けは早い。

布団を剥いで起き上がった。いつもと同じように布団を畳んだ。角を合わせ、皺を伸ばし、押し入れにしまった。扉を閉める。洗面所で顔を洗い、点眼薬を差した。鏡の中の自分を見た。今日の顔は昨日と変わらない。頬がこけている。口元が引き締まっている。それだけだ。

台所に移り、冷蔵庫を開けた。卵が1個、豆腐の残りが少し。千鶴は卵を茹でることにした。湯を沸かしながら、頭の中で今日やるべきことを整理した。まず書類を書く。それから印鑑を出す。テーブルの上に置いた木の板がまだそこにあった。「4号棟組長」と書かれたもの。千鶴はそれを一瞥してから、視線を鍋の方に戻した。

食事を終えると、千鶴は和室の押し入れの奥から小さな木箱を引き出した。蓋を開けると、中に印鑑と、薄い藍色の着物が1枚入っている。長襦袢の印鑑だ。夫が使っていたものと自分のと2本あったが、夫の遺品整理の時に処分した。残った1本が、千鶴が日常的に使う実印だった。

印鑑の隣に折りたたまれた書類が2枚入っていた。1枚は自治会の組長辞任届の用紙。3週間前に管理組合の事務所へ行って取り寄せておいたものだ。もう1枚は、UR都市機構の退去届の書式を自分で印刷したものだった。

千鶴はその書類をテーブルに広げ、鉛筆で下書きした後、ボールペンで清書した。辞任理由を書く欄がある。千鶴はそこに「一身上の都合により」とだけ書いた。それ以上のこと(は書かなかった。

退去届には退去予定日を記した。来月末、8月31日。2ヶ月前からUR機構に申し出ていたので、手続きは問題なく進んでいる。新しい住まいは、市内から電車で40分ほど離れた工業地帯に近い地区の、駅から歩いて10分ほどの木造アパートだ。先週、電話で仮予約をした。家賃は今より1万円安い。

書類に印鑑を押した。朱肉をつけて、まっすぐ、力を込めて。滲まないように、しかし薄くもならないように。2枚とも押し終えてから、千鶴は書類を封筒に入れた。封筒の表にそれぞれの宛先を書く。自治会管理組合事務所。もう一通は、UR都市機構の担当窓口。封筒2つを鞄の中に入れた。

午前9時を過ぎた頃、千鶴は着替えた。黒のスラックスと白のシャツ、アイロンをかけた。今日もきちんとした格好で出かける。鞄を持って部屋を出ようとして、テーブルの上の木の板に目が止まった。千鶴はそれを手に取った。しばらく見てから、ゴミの日に出そうと思い、引き出しの中にしまった。粗大ゴミだ。次の収集は明後日だ。

部屋を出た。鍵をかけた。3階の廊下は静かだった。301号室の前では、いつも朝になると廊下に新聞が置き去りにされている。今日も出ていた。千鶴はそれを拾い上げ、扉の新聞受けの口から押し込んだ。それから階段を下り、1階のゴミ置場を確認した。今日は燃えるゴミの日だ。袋は正しく出されている。分別のシールも問題ない。

管理組合の事務所は敷地内の1号棟の一階にある。扉を開けると、担当者の男性が顔を上げた。50代の温和そうな男性で、千鶴とは顔なじみだった。千鶴は封筒を差し出した。

「組長の辞任届です」

男性は封筒を受け取り、中を確認してから千鶴の顔を見た。「お世話になりました」という言葉を、少し困ったような顔で言った。千鶴は頭を下げた。それだけで良かった。

事務所を出て、次はUR機構の窓口へ向かった。バスで3駅ほどの距離だ。窓口では若い女性が対応した。書類を確認し、退去日の確定と敷金清算についての説明をした。千鶴は必要な箇所にサインをして、控えを受け取った。

用事を終えて外に出ると、7月の日差しが強かった。千鶴はバス停のそばの屋根のある場所に立って、次のバスを待った。鞄の中にはもう封筒は入っていない。バスが来た。乗り込んで、窓際に座った。

車窓から町が流れていく。スーパー、コンビニ、歯科医院、不動産屋。どこにでもある街並だ。千鶴はそれを見ながら、何かを考えていた。正確には、何かが考えの中に生まれてきそうで、しかし、まだ言葉になっていない状態だった。

団地の最寄りのバス停で降りた。歩いて4号棟に戻ろうとして、千鶴は途中で足を止めた。法テラスへの電話番号を昨夜ノートに書き留めておいた。自己破産の相談はそこからだ。電話は今日の午後にしようと思っていたが、今ここで携帯からかけることもできる。

千鶴は携帯を取り出し、ノートに書いた番号を確認した。その時、4号棟のエントランスの方から足音がした。振り向くと、松原さゆが子供の手を引いて出てきたところだった。子供は白いTシャツを着て、小さなリュックを背負っている。保育所へ行く時間だろう。松原は千鶴に気づいた。一瞬、目があった。どちらも何も言わなかった。松原は視線を前に戻し、子供を連れて歩き始めた。千鶴も携帯を鞄にしまい、エントランスへ向かった。

法テラスに電話をかけたのは、午後1時を過ぎた頃だった。案内に従っていくつかのボタンを押した後、担当者につながった。事情を簡潔に説明すると、担当者は丁寧に答えた。「個人破産の申し立ては弁護士または司法書士への依頼が必要で、費用は収入状況によって立替え制度が使えるかもしれない。まず面談の予約を取ることを進められました」

千鶴は最寄りの法テラスの面談日を聞き、来週の水曜日に予約を入れた。電話を終えてノートに記録した。「来週水曜、午前10時」。書類のリストも書いた。それだけ済ませて、千鶴はお茶を飲んだ。部屋は静かだった。外から蝉の声が聞こえてきた。7月の声だ。

夕方、千鶴は買い物に出た。今日はスーパーの特売日で、鶏の胸肉が安くなっているはずだった。先週のチラシで確認していた。

買い物を終えて団地に戻り、エントランスを入った時、千鶴は足を止めた。廊下の奥から泣き声が聞こえた。今度は気のせいではなかった。子供の鳴き声だ。くぐもっていて、呼吸が乱れている感じがある。3階から聞こえているように思った。

千鶴は階段を上がった。3階の廊下に出ると、声の方向がはっきりした。306号室からだ。扉の向こうで小さな子供が泣いている。断続的な鳴き声で、時々止まり、また始まる。

千鶴は扉の前に立った。インターホンを押した。返事がない。もう一度押した。やはり返事がない。千鶴は耳を扉に近づけた。泣き声だけが聞こえる。大人の声はしない。松原は今朝、保育所へ子供を連れて出て行った。しかし保育所は昼には終わる日もある。今の時刻は夕方6時前だ。保育所から戻った後、松原は仕事に出たのかもしれない。

千鶴は扉の取っ手に手をかけた。鍵はかかっていなかった。扉を少し開けた。中から熱気が出てきた。部屋の中に冷房が入っていない。7月の夕方の部屋だ。

千鶴は中に声をかけた。「ごめんください」と言った。子供の泣き声が止まった。それから、また小さく始まった。

千鶴は室内に入った。玄関を上がると、6畳ほどの和室がある。子供が部屋の隅にある薄い敷布団の上に横になっていた。顔が赤い。額に汗が滲んでいる。千鶴は子供のそばにしゃがんだ。額に手を当てた。かなりの熱がある。子供は千鶴を見上げた。3歳前後の顔だ。目に涙が残っていて、また泣き出しそうな表情をしている。しかし声は出さなかった。

千鶴は立ち上がり、台所を確認した。シンクに食器が数枚、洗われないまま置いてある。冷蔵庫を開けると、麦茶のポットと食品が少し入っていた。棚の上を見ると、日用品が雑に並んでいる。棚の端に小さな箱があった。市販の子供用解熱剤だ。未開封ではないが、中に薬が残っている。千鶴はそれを手に取り、説明を確認した。3歳以上用の記載。使用期限は来年だ。

台所でコップに麦茶を注いだ。子供のそばに戻り、体を起こして背中を支えた。子供は千鶴の腕を避けなかった。熱のせいで体がだるいのかもしれない。千鶴は子供の背中を片手で支えながら、麦茶を少し飲ませた。それから洗面所に行き、ハンドタオルを水で濡らして絞った。子供の額に乗せた。子供は目を細めた。泣き声が静かになった。

千鶴は子供のそばに座ったまま、しばらくそこにいた。解熱剤の容量を確認して、子供に飲ませた。水を少しずつ飲ませながら、タオルを取り替えた。

時間が過ぎた。千鶴は台所に戻り、引き出しを開けた。メモ帳はなかった。棚の端にある古い領収書の裏が白かった。それを取り、ボールペンを探した。ボールペンで几帳面な字を書いた。

「プラスチックゴミは火曜日の朝に出すこと。燃えるゴミは月・木。カン、ビン、ペットボトルは各州の金曜日」それを書いてから、もう一案だけ加えた。「部屋はこまめに換気すること」

紙をテーブルの上に置いた。それから自分の鞄を探した。持ってきていなかった。エントランスに置いてきてしまった。千鶴は一度部屋を出てエントランスに下り、鞄を取って戻ってきた。鞄の中から小さな巾着袋を取り出した。今月から財布とは別に持ち歩くようにしている日用品の小銭入れだ。その中に、ドラッグストアで自分に買っておいた市販の解熱鎮痛剤が一箱とあった。子供用ではないので子供には使えない。しかし千鶴はそれを取り出し、先ほど確認した子供用の解熱剤の箱の隣に置いた。万が一、松原が帰ってきて自分が具合を悪くしても、ここにあるということを示すために。

テーブルの上のメモを確認した。字は整っている。千鶴は部屋の中を一度見回した。散らかっているが、危険なものは見当たらない。子供の顔を見た。目が閉じかかっている。熱はまだあるが、少し楽になってきた様子だった。

千鶴は立ち上がり、玄関に向かった。扉を開ける時、後ろを振り返った。子供は目を閉じていた。千鶴は扉を閉めた。鍵はかかっていないままにしておいた。松原が鍵を持っているかどうか分からなかったが、鍵を閉めてしまえば松原が戻れなくなる。

廊下に出ると、夕暮れの光が窓から差し込んでいた。千鶴は自室に戻った。鞄を椅子の背にかけ、買ってきた食材を冷蔵庫に入れた。鶏の胸肉を今夜使う分だけ出して、まな板に置いた。塩を振り、しばらく置く。

台所に立ちながら、千鶴は廊下の向こうのことを考えた。松原はいつ戻ってくるのか。仕事が終わるのが深夜なら、子供は長い時間一人になる。しかし千鶴にできることはそれだけだ。それ以上でも、以下でもない。

夕食を食べてから、千鶴は引き出しからビニール表紙のノートを出した。来週の法テラスの面談のことを確認した。持参する書類のリストを見直した。夫の連帯保証の書類の原本がどこにあるかを確認しなければならない。古い書類の封筒は、押し入れの中のダンボールに入れてある。そこまで書いてから、千鶴は鉛筆を置いた。ダンボールの整理は、引っ越しの時にまとめてすることにしよう。どうせ全て運び出さなければならないのだから。

翌朝5時に起きた。布団を畳んだ。点眼薬を差した。朝食を作った。いつもと同じだ。食事を終えてから、千鶴はスーツケースを押し入れから引き出した。横にしてファスナーを開けると、中は空だった。最後に使ったのは、夫の葬儀の時、遠方の親族のところへ行った時だ。もう5年前になる。

スーツケースを開けたまま部屋の隅に立てかけ、千鶴は衣類の整理を始めた。捨てるもの、持っていくもの、まだ判断できないもの。3つに分けながら、一枚ずつ確認した。判断できないものはほとんどなかった。着るか着ないか、はっきりしている。

昼前に、廊下で足音がした。千鶴は衣類を仕分けしながらその音を聞いた。音は306号室の前で止まり、扉が開く音がした。松原が戻ってきたのかもしれない。千鶴は作業を続けた。

しばらくして、ノックの音がした。自室の扉だ。千鶴は立ち上がり、扉を開けた。松原さゆが廊下に立っていた。昨日と同じパーカーを着ている。手に、千鶴が台所のテーブルに置いたメモ用紙を持っていた。

二人は廊下で向き合った。松原は口を開いた。「昨日、うちの子の面倒を見てくださったんですよね」

声から棘が消えていた。疲れた声だった。千鶴は小さく頷いた。「熱があったので」

松原は視線を少し下げた。「仕事が終わらなくて、ヘルパーさんにも頼めなくて」と言い、それから止まった。千鶴は何も言わなかった。松原はメモ用紙を両手で持ったまま、続けた。

「ゴミのこと、すみませんでした。今まで一人でやってきたから、細かいルールに気が回らなくて」

千鶴は一度頷いた。「慣れれば分かります」と言った。それだけだ。松原は顔を上げた。目の下の隈は消えていない。しかし目の光は、以前より素直なものを持っていた。

「ありがとうございました」と松原は言った。

千鶴は軽く頭を下げた。松原は自室へ戻った。扉が閉まった。

千鶴は自室に入り、鍵をかけた。衣類の整理の続きをした。持っていくものをスーツケースに入れた。捨てるものは袋にまとめた。部屋が少し軽くなっていく気がした。その感覚に名前をつけることを、千鶴はしなかった。ただ手を動かし続けた。

2週間後の朝。8月の半ばを過ぎた日の、まだ涼しさの残る早朝だった。千鶴は玄関に荷物を並べた。スーツケースが1つ、ダンボールが3箱。それが全てだった。引っ越し業者は頼まなかった。宅配便の単身パックでダンボールを先に送り、スーツケースは自分で運ぶ。

部屋を一度見回した。何もない。備え付けの家具だけが残っている。壁に傷はない。床も問題ない。敷金は戻ってくる計算だ。千鶴は玄関に立ち、もう一度だけ部屋を見た。3年間ここで暮らした。5年間、一人だった。特別な感情は起きなかった。

扉を閉め、鍵を返却封筒に入れた。1階のポストに投函した。エントランスを出ると、夏の朝の光がまっすぐに差し込んでいた。スーツケースを引きながら、千鶴は敷地を出た。振り返らなかった。

しかし、歩き出して数歩のところで、上の方から声がした。千鶴が立ち止まり、顔を上げた。3階のベランダに、松原さゆが立っていた。子供を腕に抱いている。子供は千鶴を見て、小さく手を振った。

千鶴は子供を見た。それから松原を見た。松原は何も言わなかった。千鶴も何も言わなかった。千鶴は軽く頭を下げてから、また歩き始めた。

駅まで10分ほど歩いた。スーツケースの車輪がアスファルトの上を転がる音がした。駅のホームで電車を待った。乗り換えを一度して、40分ほど乗る。新しいアパートの最寄り駅は小さな駅で、周囲に商店が少ないと聞いていた。スーパーまで歩いて10分かかるらしい。特売の曜日を確認しなければならない。

電車が来た。千鶴はスーツケースを持ち上げて乗り込み、窓際の席に座った。荷物を足元に置いた。窓の外に、堺の町が広がっている。住み慣れた場所だが、特に感慨はない。あるとすれば、ただの疲れだ。疲れを感じることも、久しぶりのような気がした。

電車が動き始めた。千鶴は窓の外を見ながら、来週の法テラスの面談のことを考えた。持参する書類はダンボールの中にある。着いたらすぐに開けて、確認しなければならない。右目の周囲がかすかに重たい。次の眼科の受診は来月だ。法テラスの費用がどのくらいかかるか、まだ分からない。収入状況によっては立替え制度が使えると担当者は言っていた。使えるとしても、手続きには時間がかかる。分からないことが多い。しかし分からないことは、分かった時に対応すればいい。今は、目の前にあることだけ、一つずつ対処する。それしかないというのは、千鶴が68年かけて身につけた、唯一の処世術だった。

電車は町の中を走り続けた。窓の外の景色が少しずつ変わっていった。千鶴は背筋を伸ばしたまま座っていた。肩に力は入っていない。終点ではない。まだ途中だ。それだけのことが、今の千鶴には、ちょうど良かった。

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