月曜の朝、一通の連絡が舞い込んだ。「白鳥グループの令嬢が社会貢献で病院に来る」——また広報のための訪問か、そう思っていた。大学病院で内科医をして七年になる俺は、そういうのに慣れていた。だが現れた白鳥優香は、秘書に荷物を任せもせず、両腕に紙袋を抱えて小児病棟へ向かった。子供たち一人ひとりに前回の話を覚えた上で声をかけ、七歳の男の子に恐竜図鑑を、十歳の女の子に色鉛筆を手渡した。パフォーマンスだと…

月曜の朝、一通の連絡が舞い込んだ。「白鳥グループの令嬢が社会貢献で病院に来る」——また広報のための訪問か、そう思っていた。大学病院で内科医をして七年になる俺は、そういうのに慣れていた。だが現れた白鳥優香は、秘書に荷物を任せもせず、両腕に紙袋を抱えて小児病棟へ向かった。子供たち一人ひとりに前回の話を覚えた上で声をかけ、七歳の男の子に恐竜図鑑を、十歳の女の子に色鉛筆を手渡した。パフォーマンスだと...

月曜の朝、一通の連絡が舞い込んだ。「白鳥グループの令嬢が、社会貢献活動の一環として病院を訪れる」という内容だった。大学病院の内科医として七年になる俺——高梨涼一は、こういう話には慣れていた。著名人の表敬訪問、企業の社会貢献、メディアの密着取材。どれも患者のためではなく、広報のためのものだ。白鳥グループの令嬢が来るのも、その一つにしか見えなかった。

写真で見た白鳥優香は、確かに絵になる女性だった。雑誌のインタビューで社会貢献について語る姿には、どこか作られた印象があった。財閥の令嬢がカメラの前で見せる、あの種の笑顔だ。

「先生、準備はよろしいですか?」

廊下で看護師長の花江さんが声をかけてきた。

「ええ。ただ、私が特別なことをする必要はないですよね。案内くらいで」

「もちろんです。ただ、白鳥さんはいつも小児病棟をご希望なので」

小児病棟?それなら小児科の医師に任せればいい。そう思いながらも、俺は足を向けた。

白鳥優香が現れたのは、約束の時間の五分前だった。華やかな女性を想像していた。実際、彼女は確かに美しかった。だが俺の目を引いたのは、その見た目ではなかった。彼女は両腕に大きな紙袋を何個もぶら下げていた。秘書らしき人物が後ろに控えていたが、彼女は荷物を持ってもらうでもなく、全て自分で抱えていた。その様子が、少し意外だった。

小児病棟に入ると、優香は子供たちに一人ずつ声をかけていった。それが義務的な様子ではなかった。七歳の男の子に「恐竜、まだ好き?」と聞いて、紙袋から恐竜図鑑を取り出す。十歳の女の子には「絵を描くの好きって言ってたよね」と言いながら、色鉛筆のセットを手渡した。前回の訪問で聞いた話を、全員分覚えていた。それだけではない。準備までしてきていた。俺は病室の入り口に立ちながら、その光景を眺めていた。言葉が出なかった。

ある男の子が照れ臭そうにお礼を言うと、優香はしゃがんでその子と目を合わせた。偉い人が子供に向ける、上から下への視線ではなかった。同じ高さで、同じ温度で話していた。財閥の令嬢、広報のパフォーマンス。そう決めてかかっていた自分の浅さが恥ずかしかった。

優香が帰る前、廊下で一人の少女と話しているのを、俺は偶然目にした。佐織。八歳で、来週に手術を控えていた。いつも笑顔の子だったが、その日は違った。廊下の隅で膝を抱えて泣いていた。優香はしゃがんで、佐織と目線を合わせた。何かをささやくように話しかけている。やがて自分の首に手を当てて、ゆっくりとネックレスを外した。白い真珠のネックレスだった。優香は佐織の小さな手を開かせ、そっとそれを握らせた。

「それを持ってたら大丈夫だから」

佐織はしばらくそれを見つめていた。それから、小さく頷いた。泣き止んだわけではない。でも、その手はもう震えていなかった。俺は声をかけることもできず、廊下の影でその場面を見ていた。

それから一週間が過ぎた。佐織の手術は無事に終わり、病室に戻った彼女は少しずつ元気を取り戻していた。あの真珠のネックレスは、今も佐織の枕元に置かれていた。

優香が次の訪問に来た日、俺は思い切って声をかけた。

「あのネックレス、お母様の形見だと聞きました。佐織ちゃんに渡して良かったんですか?」

花江さんから聞いた話だった。優香の母親は、彼女が十代の頃に亡くなっていると。優香はちょっと驚いた顔をした後、ふっと笑った。

「佐織ちゃんが元気になったら、返してもらいます。だから大丈夫ですよ」

それだけ言って、彼女は病棟の廊下を歩いていった。軽やかな足取りだった。

さらに一週間が過ぎた頃、次の社会貢献訪問の日が来た。しかし優香は来なかった。正確には、来られなかった。

「白鳥さんは体調を崩されたそうで、今日はご無理とのことです」

俺はそれを聞いて、一度は「そうですか」と答えた。自分には関係ない。白鳥優香は患者でも同僚でもない。そう言い聞かせながら、午後の回診を終えた。佐織の病室に入ると、彼女は窓の外を見ていた。枕元には、あの真珠のネックレスがまだ置いてある。その横顔は、どこか物足りなさそうだった。

「ゆかお姉ちゃん、今日は来ないの?」

その声は、寂しそうだった。

「今日は体調が悪いみたいだよ。また来てくれるよ」

病室を出て、ナースステーションに戻った。スマートフォンを手に取る。優香の連絡先は、先月の訪問の際に広報担当から渡された名刺に書いてあった。かけるべきか。かけなくていい。自分には関係ない。でも、佐織の顔が頭から離れなかった。それだけじゃない。あの真珠のネックレスを迷わず渡した横顔が、ずっと頭の隅に引っかかっていた。

電話をかけた。二回のコールの後、繋がった。

「はい」

いつもより、声が弱々しかった。

「高梨です。大学病院の。体調が優れないと聞いたので」

「ああ、先生。ご連絡ありがとうございます。大丈夫ですよ。少し疲れが出ただけで」

大丈夫という言葉も、元気がない。電話を切った後も、俺の胸には彼女の声が残った。嫌な予感というよりも、もっと具体的な何かだ。医師としての勘が、静かに警告を発した。

それから少しして、俺の病院で優香が検査を受けることになった。検査が終わった日、俺は藤堂教授に呼ばれた。藤堂教授は内科の責任者で、大学病院の中でも一目置かれる存在だ。普段は穏やかだが、その眼光にはうむを言わせない鋭さがある。

「白鳥優香さんの件だ。検査の結果が出た」

教授はそう言って、手元の資料を俺の前に置いた。目を通した瞬間、息が止まった。急性骨髄性白血病。担当医に頼みたい。

「私でよろしいんですか?」

「君だから頼むんだ」

それだけだった。理由を聞こうとしたが、教授の表情がそれを遮った。静かで、揺るぎない目だった。

教授室を出て、廊下に立った。白衣のポケットに手を入れて、資料の内容をもう一度頭の中で整理する。カルテにあった年齢が頭をよぎった。まだ二十代だ。数週間前まで病院の廊下を軽やかに歩いていた女性が、今は病室のベッドにいる。その事実が、じわりと重さを持って胸に落ちた。

告知したのは、その日の午後だった。病室に入ると、優香はベッドの上で本を読んでいた。点滴のチューブが腕に繋がれていても、その姿勢はどこか凛としていた。

「白鳥さん、検査の結果についてお話しします」

優香は本を閉じて、まっすぐこちらを見た。病名を告げた。できるだけ丁寧に、しかしごまかさずに。優香はしばらく沈黙した。窓の外に目をやって、それからまたこちらに視線を戻した。その一瞬だけ、何かが揺れた気がした。それから、ゆっくりと頷いた。

「わかりました。治療、よろしくお願いします」

その声は落ち着いていた。笑顔さえ浮かんでいた。動揺を隠しているのかと思った。だが、違う気がした。もっと深いところで何かを押し込めているような、そんな笑顔だった。

夕方、父親の白鳥誠一郎会長が病室を訪れた。廊下から、優香の声が聞こえた。

「白血病だって。でも、先生がいい人だから大丈夫。そう」

軽い口調だった。まるで風邪でも患ったかのように話している。誠一郎の返答は聞こえなかった。しばらくの沈黙の後、何かを言おうとしたが、結局何も言わなかった。重い足音が廊下に遠ざかっていった。俺は廊下を離れた。主治医として全力で向き合う。それだけを心に決めた。

治療が始まって三週間が過ぎた。優香の病室には人が耐えなかった。父の誠一郎は毎日のように顔を出した。白鳥グループの関係者が見舞いに来ることもあった。社会貢献活動で繋がった人々からの花束が、窓際に並んだ。優香はその全員に対して笑顔で応じた。

「心配いりません。大丈夫ですよ。退院したら、また一緒に」

疲れた様子は見せない。弱音も吐かない。病室の中でも、白鳥優香は白鳥優香であり続けた。治療は順調とは言えなかったが、優香は翌朝になれば必ず「おはようございます」と笑顔で言った。その強さが眩しくもあり、どこか痛くもあった。

ある夜、最終巡回のついでに優香の病室に立ち寄った。検査数値に気になる点があったのも確かだったが、それだけではなかった。あの笑顔の奥に何があるのか、ずっと引っかかっていた。ドアをノックすると、「どうぞ」と静かな声が返ってきた。優香は窓の外を見ていた。夜の病院の庭に、街灯の光が落ちている。振り返った顔に、笑顔はなかった。初めて見る表情だった。飾りのない、素のままの顔だった。

しばらく無言が続いた。優香が、ゆっくりと口を開いた。

「先生の前では、頑張らなくていい気がするんです。なんでだろう?」

自分に問いかけるような、小さな声だった。それから、ぽつりと続けた。

「みんな、私が笑ってることを当たり前だと思ってる。だから笑うんですけど。先生は何も求めてこない。自然でいられるの」

俺はベッド脇の椅子を引いて、隣に座った。治療のこと、退院後のこと、そういう話はしなかった。ただ並んで、同じ夜の景色を見ていた。どれくらいの時間が経ったか。優香が、小さく息をついた。

「ありがとうございます」

ただ、そこにいただけだ。でも、それで良かったのだと思った。病室を出て廊下を歩きながら、俺は気づいた。あの笑顔の奥にあるものを、彼女は誰にも見せていない。それを、俺にだけ少し見せてくれた。それが、嬉しかった。

さらに五週間が過ぎた。検査の数値が、少しずつ改善し始めた。検査結果を確認するたびに、俺の中で何かがほぐれていく感覚があった。医師として当然の安堵だと思っていた。しかし、それだけではなかったのかもしれない。ある朝、ナースステーションで花江さんに声をかけられた。

「先生、最近、違いますよ」

「そうですか」

「なんか、生き生きしてる」

そう言って花江さんは、意味ありげに笑った。言い返す言葉が見つからなかった。思い返すと、いつの間にか毎日優香の病室に顔を出していた。回診の時間以外にも、必要があるわけでもないのに。優香はその度に、「また来てくれたんですか」と言って、穏やかに笑った。最初の頃の、何かを押し込めたような笑顔とは違った。

ある日の午後、二人きりの病室で外の景色を眺めながら、優香がぽつりと言った。

「子供の頃、よく母と散歩したんです。桜の季節になると、二人でずっと歩いて」

「今も桜は好きですか?」

「大好きです。退院したら、また見られるといいな」

「見られますよ。必ず」

優香はこちらを見て、小さく笑った。それから、少し照れたように視線をそらした。

「先生には、また会えますか?退院した後も」

思いがけない言葉だった。

「私は、いつでもここにいますから」

優香はそれを聞いて、にっこり微笑んだ。静かな笑顔だった。

佐織も、その頃には随分と元気になっていた。ある午後、優香の病室に佐織が遊びに来ていた。二人は何か話しながら、笑い合っている。俺がドアを開けると、佐織が小さな手を差し出した。その手の上に、白い真珠のネックレスが光っていた。

「お姉ちゃん、約束通り返しに来たよ。もう怖くないから」

優香はネックレスを受け取って、しばらく手の中で眺めた。それから佐織の頭を、そっと撫でた。

「ありがとう。ちゃんと守ってくれたんだね」

佐織が誇らしそうに胸を張った。俺はその光景を、ドアの前で静かに見ていた。

退院の日が近づいていた。しかし俺の胸には、喜びと同時に別の感情が芽生えていた。彼女がいなくなる。その当たり前の事実が、思いの外重くのしかかっていた。

退院の前日、優香の父、誠一郎から呼び出しがあった。場所は病院の応接室だった。革張りのソファに深く腰を下ろした誠一郎は、俺が入室しても立ち上がろうとしなかった。嫌な予感がした。

「先生の腕は信頼している。娘の命を救ってくれたことも、感謝している」

「ありがとうございます」

「だが、娘の相手としては、釣り合わない」

怒っているわけでも、見下しているわけでもない。静かな声だった。

「財閥の娘がどういう人生を歩むべきか、先生には想像もできないだろう。相手の家柄、資産、社会的な立場。優香にはそれに見合う人生がある。先生には、それを用意することができますか?」

反論しようとした。でも、言葉が出なかった。育ちも家柄も財産も、何もかもが違う。誠一郎の言葉は正論だった。それが現実だった。

「優香のことを本当に思うなら、分かるはずだ」

そう言って誠一郎は立ち上がり、応接室を出ていった。ドアが静かに閉まる音だけが、部屋に残った。しばらくそこに座ったまま、動けなかった。距離を置こう。そう決めた。優香のために、それが正しいことだと思った。

その夜、ナースステーションで書類を片付けていると、花江さんが隣に来た。何も言わずに、温かいコーヒーをそっと置いた。

「先生」

「何ですか?」

「顔に全部出てますよ」

それ以上は、何も言わなかった。花江さんには、俺の気持ちが分かるのだろう。

翌朝、退院の準備が整った優香の病室を訪れた。いつもと同じように振る舞うつもりだった。笑顔で「お疲れ様でした」と言って、送り出すつもりだった。しかし病室に入った瞬間、優香がこちらを見た。

「先生、どうかしましたか?」

「何もないですよ。今日で退院ですね」

「父に、何か言われたんですか?」

ごまかす隙がなかった。俺が黙っていると、優香はスマートフォンを手に取った。

「父を呼びます」

「白鳥さん、それは」

「先生は黙っていてください」

うむを言わせない声だった。小児病棟で子供たちに話しかけていた柔らかな優香とは、別の顔だった。

十分も経たないうちに、誠一郎が病室に現れた。娘の呼び出しに、何かを察した顔をしていた。三人が向き合った。

「お父さん、先生に何を言ったの?」

「これは大人の話だ」

「私の話でしょ。財閥の娘として釣り合う相手というものが、何かは知らないけど。お母さんは、財閥の娘じゃなかった」

誠一郎の言葉が止まった。

「家柄も財産も、何もなかった。それでもお父さんは選んだでしょ。どうして私には、同じことを許してくれないの?」

病室に静寂が落ちた。誠一郎は動かなかった。亡き妻のことを持ち出されたのは、初めてだったのかもしれない。その顔から、さっきまでの冷静さが消えていた。長い沈黙の後、誠一郎はゆっくりと立ち上がり、俺に向かって深く頭を下げた。

「娘を頼む」

短い言葉だった。俺は深く頭を下げた。

「必ず、幸せにします」

優香が、小さく息をついた。窓から差し込む朝の光が、病室を明るく照らしていた。

退院から半年が過ぎた。俺たちは小さな式を挙げた。派手なものは何もなかったが、大切な人たちが集まってくれた。佐織は式の日、大きな花束を両手に抱えてやってきた。ドレス姿の優香を見た瞬間、目を丸くしていた。

「ゆかお姉ちゃん、お姫様みたい」

優香はしゃがんで、佐織と目を合わせた。あの廊下で見た仕草だった。

「佐織ちゃんが来てくれたから、もっとお姫様になれた気がする」

佐織が誇らしそうに胸を張るのを見て、俺は思わず笑った。誠一郎は式の間、目を赤くしていた。俺が挨拶に行くと、しばらく黙ってから不器用に言った。

「幸せにしてやってくれ」

「はい。必ず」

花江さんは式が始まる前から目を潤ませていたくせに、俺の顔を見るなりこう言った。

「やっと捕まえたわね。先生、遅いんだから」

「おかげ様で」

藤堂教授は、遠くから静かに笑っていた。優香の首には、白い真珠のネックレスがかかっていた。母の形見。佐織が握りしめて手術を乗り越えた、あのネックレスだ。真珠は傷から生まれる。苦しい時間があったから、今この場所にたどり着いた。そう思うと、胸の奥が静かに温かくなった。優香が隣に立って、こちらを見た。

「先生、もう先生じゃないですよ」

「じゃあ、涼一さん」

二人の新しい時間が、静かに始まった。

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