「全部お前の責任な。」
部長は歪んだ笑顔でそう言い放ち、無実の俺を罠にはめて廃業寸前の工場へ左遷した。まさかこれが逆転の一手になるとは、当時の俺は思っても見なかった。
俺の名前は大木。三十六歳。高校卒業後に中堅メーカーへ入社し、営業部に配属されて長年会社に貢献してきた。我が社の営業部は常に人手不足で、今回総務部から補充要員がやってきた。
「林です。よろしくお願いします。」
「教育係の大木だ。よろしく。」
林君は若くて素直な子で、将来が期待できそうな人材だった。彼が移動してきた直後、俺は自分の担当の取引先に彼を連れて行ったことがある。
「うちの工場、また機械トラブルが起こったんですよ」
取引先の人がため息混じりに語る。
「あの機械って誤作動が起こりやすいですよね。処理速度を三パーセントほど落としてみてはいかがでしょうか」
「なるほど。試してみます」
笑顔で会話する俺と取引先を、林君は交互に見ていた。
「大木さんって機械に詳しいんですね。さすがです」
帰り道、林君が感心したようにそう言ってきた。
「たまたま昔、機械いじりが好きだった時期があってね。営業は幅広い知識が必要だから。林君は徐々に学んでいけばいいよ」
「わかりました。大木さんみたいになれるよう頑張ります」
元気よく返事をした林君を笑顔で見る。林君が立派な営業になれるよう、教育係として最大限努力しようと改めて決意した。不器用で口下手な俺だが、誰かに何かを教えるのは思っていたより向いているらしい。林君の真っすぐな眼差しを見るたび、自分にもこんな時期があったなと懐かしい気持ちになった。
ある日のこと。
「怪しい。この書類、明日までに片付けておけ」
就業時間の直前、林君に予想外の業務が発生した。仕事を押し付けてきたのは営業部のトップである志田部長だ。
「え、でも……」
「なんだ、文句でもあるのか?」
嫌らしい笑みを浮かべる部長に、林君は何も言えず口を閉ざした。
志田部長は五年前に経理部から移動してきた。当時は課長だったが、前の営業部長が定年退職したため現在はトップを務めている。彼は自分より下の立場の人間には常に高圧的な態度だ。林君は営業部で一番若く、まだ経験も浅いため、部長にとっては攻撃しやすい相手のようだった。就業時間の直前に仕事を押し付けるのは、嫌がらせ以外の何者でもない。
嫌がらせを成功させ、上機嫌で部長が帰ったのを見計らい、俺は林君に声をかけた。
「これは俺がやっておくから、早く家に帰りなよ」
林君は既婚者で、子供が生まれたばかりだ。奥さんは初めての子育てでかなり苦労していると聞いた。
「でも大木さんに迷惑をかけるわけには……」
「いいんだよ。俺は独身だし」
林君は申し訳なさそうにしながらも、足早に帰宅する。さて、残業代を稼ぐとするか。腕まくりをして机に向かう。部下を守るのも上司の仕事だ。しかし思ったより難易度の高い仕事を前に、ちょっと格好つけすぎたかなと苦笑いを浮かべた。
それにしても、と思う。志田部長は上には媚びへつらい、下には居丈高になる。そういう手合いを俺は何人も見てきた。若い林君にそんな上司の姿を見せたくないという思いが、俺の中には確かにあった。
ある日のこと、林君と一緒に外回りを終えて会社に戻る。エントランスをくぐったところで、林君のスマホが鳴った。
「すみません。ちょっと失礼します」
そう言いながら林君が電話に出る。
「もしもし……なんだって? どうしたんだ?」
子供が病院に搬送されたと妻から連絡があったらしい。
「それは一大事だ。すぐに帰りなさい」
林君に早退するよう促す。足早に営業部へ戻り、林君は志田部長に事情を話すが、帰ってきたのは予想外の言葉だった。
「熱が出たくらいで大げさなんだよ。早退は許さないからな」
林君の顔に絶望の色が広がる。見ていられなかった俺は、二人の間に割って入った。
「林君、いいから帰りなさい」
「おい、勝手に決めるな」
俺は部長をきつく睨みつける。
「子供が病院に運ばれたんですよ。熱ごときではありません。それに我が社の就業規則には、家族の看病は早退が認められると記載があったはずです。人事に確認してみましょうか」
即座に反論した俺に、部長は苦い顔で食い下がる。
「でも仕事はどうするんだ?」
「林君の分は俺がやっておきます。それでいいですね」
俺は向き直り、呆然としている林君を促す。
「ほら、早く行きなさい。早退届は後日でいいから」
「ありがとうございます」
駆け足で営業部から出ていった林君の背中を見ていると、背後から恨めしそうな部長の声が聞こえてきた。
「覚えてろよ」
俺は一切反応せず、自分のデスクへ戻った。この程度で済むなら安いものだ。その時の俺はまだそう思っていた。まさかこれが志田部長の逆鱗に触れることになるとは、知るよしもなかったのだ。
その後、林君は無事に病院へ到着したらしい。子供も治療の甲斐があり、数日の入院で済みそうだと報告の電話がかかってきた。安心したのも束の間。この一件がきっかけとなり、志田部長の攻撃の矛先は俺へと向けられることになった。
「お前は本当に使えないな」
ある日、提出した書類に誤字が一つあっただけで、部長は俺を自分のデスクに呼び出し長時間に渡り叱った。これ以外にも自分の仕事を押し付けたり、俺の仕事を邪魔したりといった嫌がらせを繰り返す。
これは噂なのだが、志田部長は私生活がうまくいっていないらしい。家庭でも高圧的な態度で、奥さんは愛想を尽かしていると聞いた。娘さんは奥さんの味方で、部長は家庭に居場所がない。誇れるのは部長という立場だけ。高圧的な態度で責めることでしか、自分の価値を証明できないのだ。先日の俺の行動は、部長のプライドをひどく傷つけるものだったのだろう。異常と思えるほど、部長はしつこく俺に絡み続けた。
志田部長の攻撃は日に日に激しさを増していく。表向きは人手不足という名目で、俺にだけ休日出勤や深夜までの残業を集中的に割り振るようになった。
「ごめん。また参加できなくなった」
休日、誰もいないフロアで電話をかける。相手は俺が所属している社会人サークルのメンバーだ。俺の数少ない趣味のサークル活動も、志田部長の嫌がらせのせいでできなくなる。欠席が続いたせいでサークルに顔を出しにくくなり、結局やめることになった。仕事に追われ、生活がどんどん圧迫されていく。心身共に俺は追い詰められていた。
「大木さん、大丈夫ですか?」
ある日、林君が心配そうに声をかけてきたが、俺は笑顔でごまかすことしかできなかった。本当は誰かに弱音を吐きたかったのかもしれない。だが教育係の俺が弱った顔を見せては、林君を余計に不安にさせてしまう。そう思い、ただ黙って耐えることしかできなかった。
振り返れば、あの頃の俺は限界の少し手前でなんとか踏みとまっていたのだと思う。そして、とうとう決定的な事件が起こる。
ある日、俺が担当していた取引先でクレームが発生した。すぐに処理したので事なきを得たが、部長はこれをチャンスと思ったらしい。俺が顧客への確認を怠ったことが原因だと、虚偽の報告書と捏造の証拠を作り、上層部に提出したのだ。俺が知らないところで問題が大事に発展し、気づいた時には弁明の機会を失っていた。結果、俺は責任を取る形で工場への移動を命じられる。
我が社は全国に複数の工場を持っているが、移動先は廃業寸前と噂の工場だった。
「お前が俺に逆らうからこんなことになったんだぞ。全部お前の責任だ」
営業部から去る日、志田部長はニヤニヤと笑いながらそう言った。他の営業部の社員は俺に同情の目を向けつつも、相手が部長なので手出しできない。林君も悔しそうに唇を噛み、部長を睨みつけていた。
俺は何も言わず荷物をまとめて営業部を出ていく。長年身を粉にして尽くしてきた会社だ。それなのに、こんな理不尽な理由で追い出されるのかと思うと、悔しさで拳が震えた。だが、ここで惨めな顔は見せたくない。それだけが俺に残された最後の意地だった。
「お疲れさん。二度と本社に戻ってくるなよ」
志田部長の嫌みは聞こえないふりをして、長年勤めた本社を後にした。残念な結果に終わってしまったけれど、嘆いていても仕方ない。気持ちを新たに左遷先の工場へ向かう。
勤務初日、事務所で俺を出迎えたのは疲れた様子の工場長だった。
「やあ、今日からよろしく頼むよ」
工場長の小杉さんは目の下に濃いクマが浮かんでいる。着崩している作業着もヨレヨレだ。よく見ると、事務所にいる他の社員も疲れた様子で仕事をしている。
「あの……何かあったんですか?」
廃業寸前の噂と何か関係があるのかと考えながら小杉さんに問いかける。すると、大きなため息と共にこんな言葉が返ってきた。
「機械が故障して、六十日残業続きなんだ。メーカーが日本から撤退して、部品がないんだよ」
俺も志田部長に残業を命じられていたが、六十日連続はさすがに経験がなく目を丸くする。
「あの……その機械を見せてもらうことってできますか?」
「いいよ。こっちだ」
工場エリアに入ると、作業員たちも疲れた様子で働いている。よほど大変な状況なのだと言葉にせずとも伝わってきた。
「これだよ」
小杉さんが指差したのは、部品を組み立てる大型の機械だ。
「手作業だと時間がかかってね。うちの工場の生産効率はがた落ちだ」
「ちょっと中を見せてください」
故障した機械を見ているうちに、俺の中で一つの考えが浮かんだ。
「これ、俺の特許が使えるぞ」
思わず口をついて出た一言に、自分でも驚いた。志田部長のせいでやめたあのサークルでの日々が、まさかこんな形で役に立つとは。
「ひょっとして、どういうことだい?」
頭に浮かんだ言葉をそのまま口にしていたらしい。首をかしげる小杉さんに、俺はある事情を明かした。
一ヶ月後、左遷先の工場の事務所で書類仕事を終え、二時間ほど現場に出てから戻ると、机の上のスマホが光っているのに気づいた。
「なんだこれ?」
画面に残っていたのは、百件近い着信履歴だった。全て本社の番号だ。緊急の用事かと思い折り返そうとした瞬間、再び電話がかかってきた。
「大木か。俺だ。志田だ。何度も電話したんだぞ」
鬼の首を取ったような口調の相手は部長だったらしい。一ヶ月ぶりに聞く志田部長の声は、先日までの嫌味な調子とは違い、どこか焦っているようだった。
「どうしたんです?」
「お前の名義で特許の使用契約を結んだと聞いたぞ。どういうことだ? お前、特許なんか持ってたのか?」
「ええ、そうですけど。ただ、これは会社の仕事とは関係のない、完全に俺個人の特許なんです。学生時代に科学部で学んだ知識と、社会人になってから自分の時間とお金を使って続けてきたサークル活動。それだけを頼りに、休みの日にコツコツ作り上げたものです」
志田部長は困惑とも呆れともつかない唸り声をあげた。もしかして、それを聞くために何度も電話してきたのか。暇ですねという嫌みは胸の中だけにとめておく。そして、俺は何も知らない部長にある事実を明かした。
高校時代、俺は科学部でロボットなどを作っていた。シングルマザー家庭で金銭的な余裕がなく、大学進学はできなかったが、社会人になってからも地域のロボット作りサークルで学びを続けていたのだ。志田部長の嫌がらせのせいでやめざるを得なかったサークルだ。就職当時、会社は高卒採用を営業部のみに限定していたため、学生時代の知識を仕事に生かす機会はなかったが、サークル活動を通じて得た経験と知識をもとに、部品の接触を察知して自動停止するセンサーを独自に開発し、特許を取得していた。
一ヶ月前、俺は小杉さんにこう伝えていた。
「故障の原因は部品の接触です。俺のセンサーを使えば、壊れる前に止められます。部品を作れる知り合いもいますよ」
小杉さんは目に希望を宿し、すぐ本社に相談してくれた。そこから交渉は驚くほど早く進み、工場長の小杉さんを通じて本社との話し合いを重ね、特許使用契約と部品調達の話がまとまっていったのだ。故障した機械は他の工場でも使われていたため、俺の特許は全国の工場で広く活用されることとなった。依頼した町工場の経営者も、突然サークルをやめた俺を心配していたらしく、久々の連絡を喜んで引き受けてくれた。
「……ということがあったんですよ」
全てを話し終えると、部長は妙に明るい声を出した。
「そうだったのか。さすがおれの部下だ」
手のひらを返したような態度に、思わず顔をしかめる。どうやら手柄を横取りするつもりらしいが、そうはさせない。
「もう一つ、志田部長。落合専務にバレてますよ」
工場の統括責任者は落合専務が務めている。特許使用の交渉も落合専務が中心となって行われたのだが、本社での話し合いの際、小杉さんは専務に驚きの発言をしたのだ。
「大木君の優秀さは今回の件でお分かりですね。大木君を左遷に追い込んだ黒幕は、元上司の志田部長です」
小杉さんには、志田部長との間に起こったことは全て明かしてある。まさか落合専務にそのことを伝えるとは思っておらず、同席していた俺は目を丸くして小杉さんを見た。
「うちの工場の人員である大木君を罠にはめた志田部長を、俺は絶対に許せません」
落合専務に訴える小杉さんの表情は怒りに満ちていた。
「詳しく聞かせてくれ」
専務の申し出に、俺は今まであったことを全て伝える。すると専務はこんなことを口にした。
「実は志田部長の高圧的な言動と報告書改ざんの件について、人事からも報告があったんだ。報告の場には営業部の林君もいたよ」
なんと林君は、俺の仇討ちのため密かに動いていたのだ。彼は人事部の同機に志田部長の件を相談し、調査の協力を依頼。集めた証拠を落合専務に提出したのは、つい先日だった。
「特許の契約手続きと並行して、志田部長の件に関して内密に調査を進めておくよ」
そして昨日、特許契約の手続きが無事に完了したという知らせと、志田部長の件の調査が無事に終了したことを専務から電話で報告を受けたのだ。
「今日あたりから呼び出しがあると思いますよ」
そう言った瞬間、電話が切れる。よほど慌てているようだ。俺は小さくため息をついてスマホを机に置くと、自分の仕事に戻った。
三日後、俺と小杉さんは本社の会議室にいた。林君と落合専務も同席している。俺たちが冷めた目を向ける先には、志田部長がいた。
「さて、部長。君に言いたいことはあるか?」
専務の静かな声が会議室に響き渡る。部長は冷や汗を流しながら、作り笑顔でこう言った。
「な、何か誤解があるようですね。大木君が左遷になったのは事故なんですよ。取引先からクレームがあったと報告を受けて、厳しく対応してしまい、まさか左遷になるとは思ってなかったんです」
あくまで自分のせいではないと必死に言い張る志田部長に、すかさず林君が反論した。
「虚偽の報告書と捏造の証拠を作りましたよね。明らかに故意じゃないですか。大木さんを罠にはめようという根強い意図があったんです」
「お前は黙ってろ」
林君に食ってかかる部長に、今度は専務が低い声で言った。
「他の社員にもそういう高圧的な言い方をしていましたね。聞き取り調査で多数の証言が集まってますよ」
俺が本社から追い出された日、林君は悔しそうに口を閉ざしていた。しかし今の彼は、真正面から志田部長に向き合っている。絶対に負けないという強い意志が、林君の瞳に宿っていた。
「わざとでなくても、まずは大木君に謝罪するのが先ではないですか?」
小杉さんが呆れたように口を開く。相手は廃業寸前とはいえ工場長のため、志田部長は林君の時のように乱暴な物言いはできなかった。気まずそうに視線をそらし、手を強く握りしめている。
何も言わない部長に代わって、落合専務がこんなことを言った。
「大木君の特許のおかげで、全工場のコスト削減額は年間換算で相当な額になる。優秀な部下を左遷させたという事実は変わらないぞ」
そして一呼吸置いて、志田部長を促した。
「大木君に謝罪しなさい」
ずっと見下していた相手に頭を下げるのは、部長のプライドが許さないのだろう。けれど、上の立場の専務に命令されて無視するわけにもいかない。
「すまなかった」
しぶしぶといった様子を隠さず、部長は頭を下げた。俺は深いため息をつく。この人は何があっても自分のしたことを反省しないのだと分かり、心の底から呆れたからだ。
「左遷の件は、結果的にいい方向に働きましたから。その件に関しては何も言いません」
「本当か? やっぱりお前はいい部下だな」
志田部長が勢いよく顔をあげる。助かったと言いたげな笑顔だ。しかし、直後の俺の発言で部長の笑顔は崩れた。
「俺のことはいいですが、林君や他の社員への対応は感心できません。ここで俺が許せば、志田部長は反省せず同じことを繰り返すでしょう。それは会社のためになりません。専務、部長の処分をお願いします」
「え、許してくれるんじゃないのか」
「いいえ、許しません。あなたは罰を受けるべきです」
専務が頷く。
「役員会議で既に決まっている。降格の上、移動だ」
「そ、そんな……悪かった。許してくれ」
必死に頭を下げる部長を見ながら、俺は静かに思った。偉そうにふんぞり返っていた人間が、こうも簡単に崩れ落ちるものかと。胸が空くような、それでいてどこか虚しいような不思議な感覚だった。
「もう手遅れです。処分を受け入れる以外、選択肢はありませんよ」
部長の顔から血の気が引き、その場にゆっくりと膝をついた。
志田部長は平社員に降格の上、林君のいた総務部へ移動となった。かつて林君を傷つけた部長に、総務部の誰も味方をしようとしなかったらしい。さらに、この一件の顛末が奥さんに知られ、離婚届を突きつけられ、財産分与と養育費でほとんどの貯金も失ったと聞く。会社での立場も家庭も財産も失った部長は、すっかり覇気を失い、抜け殻のように過ごしているそうだ。
一方、俺は専務の推薦で本社の工場管理部門に移動した。今では各地の工場を飛び回り、老朽化した設備の相談に乗ったり、現場の声を吸い上げて改善策を提案したりと、営業一筋だった頃には想像もしなかった充実感を覚えている。小杉さんや林君とも良好な関係を続けているし、地域のロボットサークルにも復帰できた。
さて、今日も頑張ろう。スーツに着替え玄関を開けると、今の気分と同じ、雲一つない気持ちのいい青空が広がっていた。



