六十五歳になって、初めて自分がずっと嘘の上に立って生きてきたのだと気づいた。それはある冬の夜のことだった。
千世子は自宅の書斎で、パソコンの画面を前に身動きができずにいた。ヌードカラーに塗られた爪の先が、マウスの上で止まったまま震えている。画面に映し出された通帳の残高は、三十万円ちょうど。うち間違いではないかと思って、何度も数字を見直した。しかし、何度確認しても三十万円は三十万円だった。
彼女は六十五歳。「小田千世子」。丁寧に黒く染めた髪をいつもきちっとまとめ、外出時はもちろん、自宅にいる時でさえ、身だしなみを崩したことがなかった。シワのない朝のブラウス、薄く引いた口紅、ほのかに香る品の良い香水。彼女にとって、外見を整えることは生きることそのものだった。
千世子は都心から一時間ほどの場所にある物流会社で、週三日、事務のパートとして働いていた。書類の整理や来客対応が主な仕事で、体力的には全く問題がない。六十五歳とは思えないほど気力が良く、背筋もまっすぐで、階段を使うことをいつも好んだ。職場の若い同僚たちから「織田さんはいつも綺麗にしていらっしゃいますね」と言われるたびに、彼女は柔らかく微笑んで「そんなことありませんよ」と答えた。その謙遜すら、計算されたものだった。
夫の茂光は六十六歳。元メーカーの中間管理職で、定年後はしばらく無職だったが、二年前からスーパーマーケットの棚卸し要員として週五日働いている。身長は百七十三センチ、姿勢は今でも軍人のようにまっすぐで、自宅でシャツを着る時には必ずアイロンをかけた。自尊心が強く、人から頭を下げられることには慣れていたが、人に頭を下げることには慣れていなかった。
外から見れば、この夫婦の暮らしは申し分ないように映った。二階建ての一戸建て住宅は半年前に外壁を塗り直したばかりで、白とベージュの清潔な外観が通りに面して立っている。駐車場には三年落ちの国産セダンが止まっており、千世子が近所の婦人会や町内会のお茶会に差し入れる菓子は、いつも百貨店の包み紙がついたものだった。
しかし、その夜、画面に映る三十万円という数字が、全ての虚構をはっきりと照らし出していた。
千世子はゆっくりと椅子から立ち上がり、書斎の窓の外を見た。隣家の明かりが薄く漏れている。あの家の奥さんは先月、千世子から三千円のお菓子をもらい、しきりに「いつもご丁寧に」と言っていた。千世子はその言葉が欲しくて、ずっとお金を使い続けてきた。
外壁の塗り直しは八十万円かかった。業者に言われるままに高い塗料を選んだのは、外から見て「ちゃんとした家」に見えることが千世子にとって重要だったからだ。三ヶ月前には、近所の田村夫妻の結婚記念日に、デパートで二万円の食器セットを送った。「織田さんはセンスがいいから」という言葉をもらうために。クレジットカードの請求書は、毎月封を開けるのが怖かった。それでも開けずに放置することはできないから、一人の時、静かに開いて、また静かに閉じた。残高払いができない月はリボ払いに切り替えて、次の月に先送りした。こうして積み上がった回転信用の残高は、今や百万円を超えていた。
玄関のドアが開く音がした。茂光が帰ってきた。千世子は素早くパソコンの画面を閉じ、書斎の電気を消した。そして台所へ降り、何かしているふりをしながら夫の気配を伺った。
茂光は玄関で靴を脱ぐと、廊下を歩いてリビングへ入ってきた。いつもなら「ただいま」の一言を告げてから鞄を置くのだが、その夜は違った。鞄をソファに投げつけるようにして置き、コートも脱がずに椅子へ座った。
千世子は茶を持って入り、テーブルに置いた。茂光は受け取らずに、前を向いたまま口を開いた。
「今日で、スーパーをやめることになった」
「…え」
「大都合だ」と、千世子の心臓の底が冷たくなるのを感じた。経営不振による人員削減で、パートと社員の一部が整理対象になったという。茂光は社員契約だった。
しばらく沈黙が続いた。千世子は何か言わなければと思いながら、言葉が出てこなかった。茂光が先に口を開いた。
「明日の茶話会、千世子のところから呼ばれているだろう。高い茶葉を用意しておいてくれ」
千世子は思わず夫の顔を見た。茂光は窓の外に視線を向けたまま、表情を変えていなかった。失業した直後に茶話会の話をしている。それが千世子にとってどれほど的外れな言葉であるかを、茂光は理解していないのか、理解した上で言っているのか、千世子には判断できなかった。だが、その言葉の意味はよくわかった。誰にも知られてはいけない。どんな事情があっても、小田家は余裕のある家でなければならない。それが茂光の言う「家の品格」だった。
千世子は何も答えずに台所へ戻り、流しの前に立った。蛇口から水を出した。出して、また止めた。手のひらに水を受けて、顔を洗うふりをした。実際には泣きたかったが、涙が出なかった。
翌朝、茂光は普段通りにアイロンをかけたシャツを着て外へ出かけた。もう務め先はないのに、彼は同じ時間に家を出た。どこへ行くつもりなのか、千世子は聞かなかった。聞けば、二人の間に築いてきた薄い平和が壊れると感じたからだ。
千世子はパートの出勤時間まで、台所のテーブルに座って請求書の束を広げた。カード会社からのもの、銀行からのもの、ガスと電気と水道のもの。数字を足したり引いたりしてみたが、どう計算しても答えは出なかった。三十万円では、来月分の最低支払い額すら危うかった。
その日の午後、千世子のパート先で昼休みになると、休憩室のテレビがついていた。同僚の若い女性がリモコンでチャンネルを変えながら、地元のニュース番組を流した。千世子は弁当を食べながら画面をぼんやりと眺めていた。番組は、経済再生をテーマにした短いドキュメンタリー特集を放送していた。定年後に小さな事業を起こした人々を紹介する内容で、千世子はさして興味もなく箸を動かしていた。
しかし、次の瞬間、画面に映し出された顔を見て、手が止まった。
「黒川夏実」。テロップにそう表示されていた。「コインランドリーと不動産を手掛ける実業家、六十五歳」。
千世子は弁当の蓋を持ったまま動けなくなった。黒川夏実は、かつて同じ職場で働いていた同僚だった。二十年以上前の話だ。当時の夏実は、はっきり言って周囲から浮いていた。服装に無頓着で、髪はいつも無造作にまとめているだけ。昼食は毎日コンビニのおにぎりと缶のお茶で、職場の飲み会にも滅多に顔を出さなかった。千世子は当時、夏実のことを少し気の毒に思っていた。「あんな暮らしをしていたら、誰にも相手にされない」と。同僚たちの間でも、夏実の話題が出る時は決して褒め言葉ではなかった。ある日の会議で夏実が提案した合理化案が上司にあっさり却下された時、千世子は自分には関係のないことだと思いながら、それでも心の中で「あの人はいつも空回りしている」と思っていた。
その夏実が、画面の中で穏やかに笑っている。飾り気のない言葉で話している。コインランドリーを複数の場所で運営し、小さな物件を少しずつ取得してきた話をしている。「特別なことは何もしていない。必要なことだけをしてきた」という趣旨のことを言っていた。
千世子は、残った弁当を食べる気がなくなり、蓋を閉じた。夏実はあの後、あの会社を辞めた。いや、正確には辞めさせられた。千世子が記憶している限りでは、業績不振を理由にしたリストラで、夏実は早期退職の対象になったはずだ。当時、千世子はそれについても「やっぱりね」と思った。「あれだけ目立たない仕事ぶりでは、仕方がない」と。しかし今、画面の中の夏実を見て、千世子は自分が二十年間ずっと間違えていたのかもしれないと感じた。そして、その感覚は不快だった。
その夜、千世子は夕食の後片付けを終えてから、リビングのソファに座りスマートフォンを持った。茂光は別の部屋で何かを見ていた。千世子は検索窓に「黒川夏実」と入力してみた。いくつかの記事が出てきた。地域の経済誌に載ったインタビュー。地元商工会のイベント参加記録。写真の中の夏実は、テレビで見た時と変わらず飾り気のない服装で、どこか疲れた顔をしているように見えた。しかし、その目だけは静かに澄んでいた。
千世子はスマートフォンを膝の上に置き、しばらく天井を見た。今の自分には、頼れるものが何もなかった。茂光は仕事を失い、貯金は底をついている。来月の返済をどうするか、まだ何も決まっていない。このまま誰にも言わずにいれば、家を失う日が来るかもしれない。
千世子は再びスマートフォンを持ち、夏実の連絡先を探した。SNSのアカウントがあり、プロフィールにメッセージの受付を示す文言があった。指が止まった。夏実に連絡を取るということは、かつて見下していた相手に、今は助けを求めに行くということだ。心の中で何かが強く抵抗した。プライドという言葉では足りないくらいの、粘り気のある感情が指先を押しとめた。しかし、三十万円という数字がまた頭の中に浮かんだ。
千世子はゆっくりと文章を打ち込んだ。
「久しぶりです。小田千世子です。もし覚えていてくださっているなら、一度お会いできますでしょうか? 相談したいことがあります」
送信ボタンを押してから、スマートフォンを裏返してソファに置いた。手のひらが少し汗ばんでいた。
返信は翌日の朝、千世子がパートへ出かける前に届いた。夏実からのメッセージは短かった。
「覚えていますよ。今週の木曜日、夕方六時はいかがですか?」
場所は夏実が指定した。千世子はその住所をスマートフォンの地図で確認し、眉を潜めた。自分がイメージしていたレストランとは、まるで違う場所だった。
木曜日の夕方、千世子は自宅のクローゼットを開け、一番いい紺のワンピースを取り出した。薄いグレーの上品な色合いで、去年の秋にデパートのセールで買ったものだ。定価は六万円だったが、半額になっていた。それでも三万円は払った。当時の千世子は「これくらい普通」と思っていた。ハンドバッグはベージュの上品な作り。有名なブランドではないが、知る人が見れば品の良さがわかる。これも分割払いで購入したものだった。
電車を乗り継ぎ、指定された駅で降りた。地図のアプリを見ながら路地を歩いた。商店街を抜けた先に、その店はあった。「のれん亭 定食」と書かれた、外壁が古くなった食堂だった。ガラス戸の向こうに、カウンター席がいくつか並んでいる。奥の席で、一人の女性が湯気の立つ丼ぶりに箸を伸ばしていた。夏実だった。薄いグレーのニットに、無地のダウンジャケット。髪は白いものが増えた短い黒髪で、化粧はほとんどしていない。テーブルの上には、安い銘柄のお茶のペットボトル。
千世子は一瞬、入り口で固まった。紺のワンピースを着た自分が、この場所にひどく似合わないと感じた。カウンター席で丼ぶりを食べている老夫婦が、ちらりとこちらを見た。千世子は何も表情に出さないようにして、夏実の向かいに座った。
「二十年ぶりですね」と夏実が言った。声は低く落ち着いていて、千世子が記憶していたより少し太くなっていた。千世子は微笑んで「ご無沙汰しております」と答えた。
食堂のおばさんがメニューを持ってきた。千世子は一瞥して一番値段の安い定食を見つけ、コーヒーを一杯頼もうとして思い直した。ここはコーヒーのある店ではない。千世子は日替わり定食を注文した。
注文を終えてから、二人の間に短い沈黙が流れた。夏実は千世子の手元に視線を落とした。ハンドバッグのことだと、千世子はすぐに気づいた。夏実は何も言わなかった。ただ、少しの間そのバッグを見てから、視線を戻した。
千世子はどこから話を切り出せばいいか分からず、少し大げさに「テレビで拝見しました。すごいご活躍で」と言った。夏実は首を横に振った。「活躍なんて大げさですよ。地味にやってきただけ」
千世子は自分が聞きたいことを聞けずに、しばらく当たり障りのない話をした。昔の職場のこと、共通の知り合いのこと。夏実はそれらに適当に相槌を打ちながら、丼ぶりを食べ、お茶を飲んでいた。千世子の定食が来た。揚げ物と白米と味噌汁。百貨店のレストランで食べるものとは違うが、匂いはいい。千世子はきちんと背筋を伸ばして、箸を取った。
食事の途中で、夏実が言った。
「相談というのは、お金のことですか?」
千世子の箸が止まった。ストレートだったからではなく、その直接さが予想外だったから。千世子は少し間を置いてから「実は、そういうわけでもなく」と答えた。しかし、続く言葉が出てこなかった。夏実はせかさなかった。お茶を一口飲んで、静かにテーブルの上に戻した。
千世子は味噌汁を飲んだ。温かくて、出汁がよく出ていた。高い料理でも安い料理でも、うまいものはうまい。それは頭では分かっていたことだが、実際に体に感じたのは久しぶりのような気がした。
しばらくして、千世子はゆっくりと口を開いた。「主人が、仕事をやめることになって。少し先が見えなくなっていまして」
夏実は頷いた。「それから、いくつか聞いてもいいですか?」と前置きして、千世子に質問した。収入の状況、持ち家かどうか、カードはどの程度使っているか。千世子は最初、ぼかして答えようとした。でも、夏実の目が静かなまま一点に集中していて、ごまかしを全部見抜いているような気がして、少しずつ正直に言い直した。夏実は千世子が話を終わるまで、一度も表情を変えなかった。批判もしなかった。ただ、最後に一言だけ言った。
「いい服と安心は、別のものですよ」
千世子はその言葉の意味を、すぐには受け取れなかった。夏実の視線がもう一度、千世子のハンドバッグに落ちた。それからまた戻ってきた。千世子は返す言葉を探した。しかし、何も出てこなかった。食堂のざわめきが遠くに聞こえた。向かいのテーブルの老夫婦が笑い声を立てていた。千世子は向かいの揚げ物を一切れ食べた。口の中で、サクッと音がした。それがひどく大きな音に聞こえた。
帰り道、電車の中で千世子は窓の外を眺めた。夜の住宅街が流れていく。明かりのついた窓が連なっている。あの窓の中にも、自分と同じような人間がいるかもしれないと思った。外からは何もわからない。
自宅の最寄り駅に着き、改札を出たところで千世子は立ち止まった。ハンドバッグのストラップを握り直した。分割払いで買ったバッグ、外壁塗装の費用、来月の返済、茂光の失業。数字ではなく重さとして、それらが一度に体にのしかかってきた。千世子は夜道を歩きながら、夏実の言葉をもう一度頭の中で繰り返した。「いい服と安心は、別のものですよ」
家に着くと、リビングのソファで茂光がテレビを見ていた。千世子が帰ってきたのに気づいて少し顔を向けたが、すぐに画面に戻った。千世子は台所でお茶を入れ、茂光の分もテーブルに置いた。茂光は受け取らずに言った。
「明後日の土曜日、田村さんのところに手土産を持っていかないといけないな」
千世子は立ったまま、その言葉を聞いた。茂光は続けた。「あそこの奥さんが先月、うちに上がってくれたから、返しをしておかないと。パートの帰りでいい」
千世子の手がテーブルの端に触れた。指先が冷たかった。千世子は静かに椅子を引いて座り、自分のお茶を両手で持った。お茶は温かかった。しかし、それ以外のことは何も温かくなかった。
その翌朝も、千世子は五時半に目を覚ました。布団の中で天井を見つめたまま、昨夜の帰り道に頭の中で繰り返した言葉がまた浮かんできた。「いい服と安心は、別のものですよ」。夏実の声は低く落ち着いていて、攻める色が全くなかった。それが却って、千世子の胸に深く刺さっていた。攻められれば言い返せる。しかし、静かに事実を言われると、返す言葉がどこにもない。
隣では茂光がまだ眠っていた。横向きに寝て、口を少し開けている。昨日まで毎朝六時に起きてシャツにアイロンをかけ、出かけていた男が、今は何も変わらないように眠っている。変わったのは、行き先がなくなったことだけだ。
千世子はそっと布団を抜け出し、台所へ行った。電気ポットに水を入れ、スイッチを押した。冷蔵庫を開けると、昨日の残りの味噌汁が鍋に入っていた。卵が二個、納豆が一パック。朝食の支度をしながら、千世子は来月の支払いのことを考えた。カード会社への最低支払い額が四万二千円、銀行の住宅ローンが七万三千円、光熱費が合わせておよそ二万円。自分のパート収入は月に約十四万円。茂光の収入が今月でゼロになる。足し算でも引き算でも、答えは出なかった。いや、答えは出ていた。ただ、その答えが怖くてもう一度計算し直しているだけだった。
茂光が起きてきたのは七時過ぎだった。いつもと同じように洗面所で顔を洗い、タオルで丁寧に拭いてから台所へ入ってきた。千世子が用意した朝食を見て、「昨日の残りか」と言った。批判ではなく、ただの確認のような口ぶりだったが、千世子はそれでも少しだけ心が縮んだ。茂光は椅子に座り、味噌汁を飲み始めた。テレビをつけ、ニュースを見た。円安の話をしていた。千世子は向かいに座り、納豆をかき混ぜながら何か言うべきかと思ったが、やめた。
茂光が茶碗を置いて言った。「今日、ハローワークへ行ってみようと思う」
千世子は箸を持ったまま顔を上げた。茂光は新聞に目を落としたまま続けた。「社員だったから、雇用保険は出るらしい。手続きをしてこないといけない」
千世子は頷いた。「それがいいと思います」と言った。声が少し硬かった。茂光はそれ以上何も言わなかった。
茂光は朝食を食べ終えると、いつもと同じようにアイロンをかけたシャツを着た。スラックスに折り目がついている。靴は玄関で布で拭いてから履いた。ハローワークへ行くだけなのに、その格好だった。千世子はそれを見て、何も言わなかった。言う必要があることなのかどうか、まだ分からなかった。
茂光が出かけた後、千世子はテーブルの上を片付けてから自分のパート先に電話した。今日は午後からのシフトだったが、少し早めに行けないか確認した。出られるなら出たかった。家にいると、数字のことを考えてしまうから。シフトの変更は可能だった。千世子は身支度をして家を出た。
バスの中で、昨日の夏実との食事を思い返した。食堂の席に座った時、千世子はどこか夏実が自分の状況を聞いて、何か具体的な助言を与えてくれると期待していた。事業の話、投資の話、あるいは人を紹介してくれるのではないかという漠然とした期待。しかし、夏実が言ったのは一言だけだった。「いい服と安心は、別のものですよ」。千世子は窓の外に流れる住宅街を眺めた。その言葉の意味は、頭では分かっている気がした。しかし、分かるということと、受け入れるということは、別のことだった。
パート先の事務所につき、書類整理を始めた。午後の三時間、千世子は黙々と働いた。若い同僚が隣で電話対応をしていた。その子は千世子の爪を見て「いつも綺麗にされてますよね」と言った。千世子は微笑んで「大したことないですよ」と答えた。いつも通りの言葉だった。しかし、今日はその言葉を口にしながら、自分でもどこか空々しい感覚を感じた。
帰宅すると、茂光はもう戻っていた。リビングのソファに座り、テレビを消したまま外を見ていた。千世子が入ってきても、振り向かなかった。千世子はコートを脱ぎながら「どうでしたか」と聞いた。茂光はしばらく答えなかった。それから「手続きは終わった」と言った。千世子は台所へ行き、夕食の準備を始めながら、もう少し話が続くかと思って待った。しかし、茂光はそれきり黙っていた。
夕食は鍋にした。白菜と豆腐と豚の薄切り。千世子が買い物の時、以前なら迷わず選んでいたブランド豚を、今日は避けて特売の国産豚を選んだ。レシートを財布にしまいながら、その五十円の差を喜んでいる自分が情けなかった。
食卓を囲んでも、二人はほとんど喋らなかった。茂光は鍋の具を皿に取り分け、黙って食べた。千世子も同じようにした。テレビのバラエティ番組が楽しげに笑いを放っていた。食事が終わる頃、茂光が言った。準備を終えて、翌日、千世子はパート先で自分が担当している書類棚の整理をしながら、ふと隣の席のことを考えた。そこにはもう誰も座っていない。いつも世間話をしていたパートの女性が、先週で辞めてしまったのだ。彼女は「子どもが大きくなったから、もう少し自由な時間が欲しくて」と言っていた。千世子はその言葉を、その時は何気なく聞き流していた。今になって、あの女性はきっと正しかったのだと思った。自由な時間があること。それは、自分が失って初めて気づくものだった。
昼休みになり、千世子はスマートフォンを取り出して、妹の雪の電話番号を押した。何度か呼び出し音が鳴ったが、繋がらない。留守番電話には切り替わらなかった。千世子はまた明日かけようと思い、スマートフォンをしまった。心の中に、重いものが残った。それは、雪が電話に出ないことへの不安であり、同時に、自分がその不安を感じていること自体への戸惑いだった。
帰宅すると、茂光は二階にいるようだった。千世子はリビングのテーブルに座り、スマートフォンのメモアプリを開いた。「削れるもの」のリストが表示された。車の維持費、近所への贈り物、百貨店での買い物、衣服のメンテナンス費用。合計すれば年間七十万円以上になる数字。しかし、その数字を見ながら、千世子は別のことを考えていた。これを削ったとして、来月の支払いに間に合うかどうか。カードのキャッシング残高は九十万円近くに膨らんでいる。月の最低支払い額だけで五万円以上になる計算だった。自分のパート収入が十四万円。茂光の雇用保険が月に十万円ほど。合計二十四万円から、住宅ローンの七万三千円、光熱費の二万円、食費と日用品で三万円、カードの最低支払い額。足すと十七万円以上になる。残りは七万円に届かない。その七万円で、二人で暮らしていかなければならない。
千世子は台所で湯を沸かし、お茶を入れた。両手でカップを包んでいると、少しだけ指先が温まった。今のパートの収入だけでは追いつかない。それははっきりしていた。茂光がすぐに新しい仕事を見つければ状況は変わるが、六十六歳で仕事を探すことがどれほど難しいか、千世子にも想像できた。ハローワークへ行ってきたと言っていたが、それきり何も話していない。結果を聞くことも、千世子にはためらわれた。
千世子はカップをテーブルに置き、スマートフォンの求人サイトを開いた。自分の住む地域、六十代可、週三日以上。検索をかけると、いくつかの結果が出てきた。スーパーのレジ打ち、介護施設の補助員、工場の軽作業。清掃業務という文字で、指が止まった。「夜間、食品工場の清掃スタッフを募集しています。週五日、二十二時から五時まで。時給は千百円。経験不問」。週五日で七時間。月に約十五万円になる計算だった。今の昼のパートと掛け持ちすれば、月の収入が三十万円近くになる。カードの返済が追いつかないとしても、少なくとも毎月の生活費は賄える。
千世子はその求人をしばらく見続けた。夜間の清掃作業。今の千世子の生活とは、まるで違う世界の仕事だった。ヌードカラーの爪、朝のブラウス、百貨店の包み紙のお菓子。そういう自分には、似合わない仕事だった。しかし、似合わないということと、できないということは、別のことだった。千世子は、応募ボタンを押した。指先が少し冷たかった。
翌日、千世子は採用担当から電話を受け、簡単な面接の日を決めた。その日の夕方に工場へ行き、三十代の担当者と十五分ほど話した。担当者は千世子の年齢を確認し、夜間の体力的な負荷について説明し、問題なければ来週から来てほしいと言った。千世子は「問題ありません」と答えた。担当者は少し驚いたような顔をしてから、「では、よろしくお願いします」と言った。
家に帰って、千世子は茂光に話した。夜間の清掃の仕事を始める、と。茂光は夕刊を読んでいた手を止めた。それから千世子を見た。しばらく何も言わなかった。
「今の状況では、昼のパートだけでは足りないので。夜の仕事を掛け持ちしようと思う。夜中の仕事だが、体力的には問題ない」
茂光は夕刊を畳んでテーブルに置いた。それから「清掃か」と言った。声は低かったが、怒っている様子ではなかった。何かを飲み込もうとしているような間があった。千世子は頷いた。茂光はしばらく黙ってから、「分かった」と言った。それだけだった。千世子は少し拍子抜けした。もっと反対されると思っていた。あるいは、バカにされるか。あるいは、自分も何か仕事を探すと言い出すか。しかし、茂光はただ「分かった」と言って、また窓の外を向いた。
その夜から、千世子の生活が二つに分かれた。昼間は物流会社の事務補助として働き、夕方に帰宅して夕食を作り、茂光と二人で食べる。食べ終わったら少し休んで、九時半頃に仕事着に着替えて家を出る。バスで二十分ほど走ったところにある食品工場へ向かい、二十二時から五時まで働く。明け方に帰宅してシャワーを浴び、三時間ほど眠り、また昼の仕事へ出かける。
最初の一週間は、体がついていかなかった。眠気が抜けないまま昼のパートをこなし、帰宅して夕食を作る間に椅子に座ったまま眠りそうになった。工場の仕事は想像より重労働だった。大きな機械の周囲を油や水で洗い流し、ブラシで隅々まで擦る。ゴム手袋の中が蒸れて、指先がふやけた。しかし、千世子は誰にも言わなかった。職場の同僚にも、茂光にも。昼の事務所では、変わらず背筋を伸ばし口紅を引いて座っていた。工場では、黙々と手を動かした。
工場の仕事には、支給された作業服があった。薄い水色の上下で、自分の名前を書いたテープが胸に張ってある。千世子は初日にそれを着た時、鏡を見る気がしなかった。見てしまったら、何かが崩れそうな気がした。だから、見なかった。
二週間が過ぎた頃、体がようやく慣れてきた。深夜の工場には、千世子と同い年くらいの女性が何人かいた。挨拶を交わし、黙ってロッカーへ向かう。千世子もそれに習った。余計なことを話す必要はなかった。名前を呼び合うこともなかった。それが千世子には楽だった。
一方で、昼の生活では、持ち物を少しずつ変えていった。まず、近所への贈り物をやめた。田村夫妻への定期的な手土産は、これ以上続けないと決めた。田村の奥さんから「先日はありがとうございました」という言葉をもらっても、「こちらこそ」というだけで、次の手土産を用意しなかった。婦人会の集まりにも、高い茶葉を差し入れるのをやめた。代わりに、自宅にあった安い番茶のパックを持っていった。集まりの中で、誰かが「今日のお茶は、いつもと違いますね」と言った。千世子は穏やかに微笑んで「ええ、ちょっと変えてみました」と答えた。話題はそれで終わった。
しかし、茂光はまだ変わっていなかった。ある日の夕方、千世子が帰宅すると、玄関に百貨店の包み紙をした大きな袋が置いてあった。茂光が外出先から持って帰ってきたものだった。聞くと、知人と昼に会ったので手土産を買ってきたという。千世子はその袋を見た。包み紙から察するに、五千円以上はするものだった。千世子は何も言わなかった。言えば口論になる。口論になれば、茂光は出ていく。そうなれば、また一人で夜を過ごすことになる。それが嫌だったというより、今はそのエネルギーを使いたくなかった。体力的にも、精神的にも。
ただ、その夜、工場へ向かうバスの中で、千世子は窓に映る自分の顔を見た。目の下に、薄い隈ができていた。昼は事務所でパウダーで隠していたが、夜の照明の下ではごまかしきれない。茂光が五千円の手土産を買う間、千世子は真夜中に機械の油汚れを洗い落としている。その事実を茂光は知っているのか、知っていても考えないようにしているのか、千世子には判断できなかった。どちらにしても、二人の間には、はっきりした言葉は交わされていなかった。
三週間が経った頃の水曜日の夜だった。千世子はその日も夜の仕事へ出かけるために着替え、玄関で靴を履いた。茂光はリビングでテレビを見ていた。千世子が出かけると告げると、茂光はテレビから目を離さずに「行ってらっしゃい」と言った。
工場につき、仕事を始めた。その夜の担当区画は、調理加工ラインの清掃だった。機械の隙間に入り込んだ湯を、長いブラシで擦り出す作業で、腕が疲れやすかった。千世子は黙々と手を動かした。
深夜二時を過ぎた頃、休憩時間になった。千世子は休憩室の椅子に腰を下ろした。自販機で温かいお茶を買い、両手で持った。足が重かった。目の裏が熱かった。テーブルを挟んで向かいに座っていた女性が、缶コーヒーを飲みながら千世子を見た。
「入って、少し経ちましたよね」と女性は言った。五十代に見えたが、よく見ると六十代かもしれなかった。千世子は頷いた。「三週間ほどです」と答えた。女性は缶コーヒーを一口飲んで、「慣れましたか?」と言った。千世子は少し考えてから、「まあ、なんとか」と答えた。女性は小さく笑った。「最初の一ヶ月が一番きついですよ。慣れたら平気になります」と言った。それから「前は、何かされてたんですか?」と聞いた。千世子は事務の仕事を昼間にやっていると答えた。「掛け持ちです」と言うと、女性は少し目を丸くした。「それは大変だ」と言ってから、「でも、体を動かす方が眠れますよ」と言い出した。千世子は温かいお茶を飲んで、「そうかもしれませんね」と答えた。
休憩が終わり、また仕事に戻った。腕の重さは変わらなかったが、少しだけ気分が軽くなっていた。別に励まされたわけでも、相談に乗ってもらったわけでもなかった。ただ、同じ夜中に同じ場所で働いている誰かと、少し言葉を交わしただけだった。
四時半になり、作業が終わった。千世子は道具を片付け、ロッカーで着替えた。作業服から私服に着替えるたびに、千世子はどこかで二つの自分を切り替えているような感覚があった。作業服を着ている間の自分と、昼間の自分。どちらが本物かは分からなかった。ただ、どちらも確かに自分だった。
帰宅してシャワーを浴び、三時間ほど眠った。一方、茂光の日常は、表面的には変わっていなかった。毎朝アイロンをかけたシャツを着て出かけ、昼頃に帰ってくる。ハローワークへ行っているのか、それとも別のことをしているのか、千世子は直接聞かなかった。茂光から話してくることもなかった。
しかし、ある日の昼過ぎ、茂光の部屋に入ると、ゴルフクラブのカバーが開いていた。クラブが一本、部屋の隅に立てかけてあった。茂光はまだゴルフの会員権を解約していなかった。年会費が毎年三万円かかるものだった。千世子はそのクラブを見て、何も言わずに部屋を出た。
その週末のことだった。千世子は茂光が外出している間に、二階の寝室のクローゼットと物置を開けた。自分のものから始めた。紺のワンピース。百貨店で買ったカシミヤのカーディガン。去年から一度も着ていないジャケット。ブランドのバッグは一つ残して、残りは二つ。靴は六足あるうちの三足。それらをダンボール箱に詰めた。
次に、茂光のものへ移った。ゴルフクラブが一式、クローゼットの奥にあった。ブランドのアイアンセットで、七年前に茂光が自分で買ったものだった。当時の値段は覚えていないが、安いものではなかった。グローブも、ゴルフ用の帽子も、専用のバッグも、全てまとめて箱に入れた。茂光が使わないままになっていた鞄の手帳ケースと、贈り物でもらったボトルのウィスキー、本も加えた。千世子はその箱を二つ、一階へ運んだ。自分一人でなんとか動かせる重さだった。
翌朝、千世子はそれらを持って、最寄り駅近くのリサイクルショップへ持ち込んだ。査定に三十分ほどかかった。担当の若い男性が、一点ずつ確認して金額を提示した。ゴルフクラブが四千円、バッグが二千円、衣類が合わせて六千円、ウィスキーが千円、本が二千円、手帳ケースが五百円。合計で、一万五千五百円だった。千世子はその金額を聞いて、一瞬息が止まった。ゴルフクラブだけで当時いくらしたか。バッグがいくらで買ったか。それが、全て合わせて一万五千円。しかし、文句を言える立場ではなかった。千世子は頷き、「受け取ってください」と言った。レジで現金を受け取り、財布にしまった。外に出ると、冬の日差しが低い角度で差していた。千世子は財布を持ったまま、少しの間立ち止まった。
帰宅したのは昼前だった。茂光は昼過ぎに帰ってきた。玄関で靴を脱ぎ、廊下を歩いてリビングへ入ってきた。そのまま二階へ上がり、しばらくすると足音が止まった。千世子は台所で昼食の準備をしていた。まな板の上で大根を切っていた。二階から茂光が降りてきた。廊下を歩いてくる足音が、いつもより早かった。台所のドアが開いた。茂光はドアを開けたまま、千世子を見た。顔が赤くなっていた。
「俺のゴルフセットがない」と茂光は言った。千世子は大根を切る手を止めて、振り向いた。
「売りました」
茂光の顔が変わった。赤みがさらに濃くなり、顎が少し動いた。「何を…」と言った。声が低かった。千世子は続けた。「私の服や鞄も一緒に、リサイクルショップに持っていきました。今の状況では、使っていないものを置いておく理由がないので」
茂光は一歩前に出た。千世子は包丁を持ったまま、動かなかった。「お前に断りなく、俺のものを売るとは、どういうことだ」と茂光は言った。声が掠れていた。千世子は包丁をまな板の上に置いた。それから、茂光の方を向いた。
「黙っていても、状況は変わりません」
声は、自分でも驚くくらい落ち着いていた。震えなかった。茂光は千世子に近づき、台所の棚に手をついた。目が据わっていた。「お前に、何がわかる」と言った。「あれは、俺が長年かけて手に入れたものだ。俺の、生きてきた証明だ。それを、断りなく…」
千世子は茂光の目を見た。茂光の言葉が聞こえていた。しかし、同時に別のことも見えていた。怒っているのは確かだった。しかし、その怒りの下に、もっと別の何かがある。怖いのだ。千世子は感じた。仕事を失い、妻が夜中に工場で働き、家の中のものが一つずつなくなっていく。茂光にとって、それは自分が築いてきたものが根こそぎ崩れていく感覚に違いなかった。
千世子は棚の引き出しを開けた。中から封筒を取り出し、茂光の方に差し出した。茂光は封筒を受け取らずに見た。千世子は封筒を開け、中から紙を一枚取り出した。カード会社からの請求書と、銀行からの通知書だった。合計した数字を、千世子は茂光に見せた。
「来月の支払い期限まで、あと十七日しかありません。この金額を用意しないと、ローンが三ヶ月滞納になって、銀行に通知が行きます」
茂光はその紙を見た。最初は拒絶するような表情だったが、数字を目で追うにつれて、顔から色が引いていった。千世子は封筒を台所の棚の上に置いた。「夕食は、七時にします」と言った。それだけ言って、また大根を切り始めた。茂光は台所に立ったまま、しばらく動かなかった。それから、何も言わずに廊下へ出た。玄関でドアが開く音がして、閉まる音がした。千世子は大根を切り続けた。包丁がまな板に当たる音だけが、台所に響いた。
茂光がどこへ行ったのか、千世子には分からなかった。戻ってくるかどうかも、分からなかった。しかし、今の千世子には、それを追いかけるための時間も気力もなかった。夕食の時間になっても、茂光は戻ってこなかった。千世子は一人分だけ食卓に用意し、一人で食べた。大根の煮物と、卵の味噌汁。特別うまくも、まずくもなかった。食べ終えて片付けをしてから、千世子はソファに腰を下ろした。窓の外は真っ暗だった。近所の家の明かりが、二つ三つ見えた。
千世子はスマートフォンを取り出し、夏実にメッセージを送った。「今夜、もし時間があれば、少し話せますか」と書いた。返信はすぐに来た。「コインランドリーにいます。どうぞ」と書いてあった。
千世子はコートを着て、家を出た。夜のコインランドリーは、外から見ると前に来た時と変わらなかった。ガラスの向こうに洗濯機が並んでいて、数台の乾燥機がゆっくり回っていた。温かい蒸気が、店内に漂っているように見えた。入り口を開けると、夏実は奥の椅子にいた。今夜も、何かを書いていた。ノートではなく、今夜は小さな家計簿のようなものだった。千世子は向かいの椅子に座った。夏実は家計簿を閉じた。
千世子は、今日あったことを話した。ゴルフセットと服を売ったこと。茂光が怒って出ていったこと。請求書を見せたこと。夏実は黙って聞いていた。話を終えると、千世子は少し息を吐いた。夏実はしばらく乾燥機の音を聞いていた。それから、口を開いた。
「よくやりました」
千世子は少し驚いた。慰められると思っていなかった。夏実は続けた。「捨てたのではなく、売ったんですよ。感情ではなく、判断でやったんです。それでいい」
千世子は頷いた。夏実はペットボトルのお茶を千世子に渡しながら言った。「ご主人は、怒るでしょう。しばらくは、怒ると思います。でも、今あなたがやったことは、感情的にも、反発のためにやったのでもない。必要だからやった。それは、いずれ伝わります」
千世子はペットボトルのお茶を一口飲んだ。温かった。夏実は少し間を置いて言った。「一つ、聞いてもいいですか?」千世子は頷いた。夏実はこう言った。「今の生活の中で、自分のためだけにやっていることがありますか? 誰かの顔色を気にせずに、打算も考えずに、ただそれをすること」
千世子は、すぐに答えられなかった。考えてみると、何も思い浮かばなかった。パートは生活のため。夜の仕事も同じ。婦人会は体面のため。夫のための食事。妹への送金は、顔色と体面のため。自分のためにだけやっていることが、本当に何もなかった。千世子は、そのことを正直に言った。夏実は何も言わなかった。ただ、頷いた。それから「今夜はもう遅いから、帰りなさい」と言った。
千世子は立ち上がり、コートを整えた。夏実が椅子から立ち上がって言った。「自分のためだけにやることを、一つ決めてください。金がかかることじゃなくていい。ただ、自分がそれをすることで、誰かに何かを証明しようとしないこと」
千世子はその言葉を聞きながら、コートのボタンを留めた。返事はしなかった。ただ「分かりました」と、頭の中で繰り返した。コインランドリーを出ると、夜風が冷たかった。千世子は首をすくめてコートの襟を立て、帰り道を歩いた。街灯の下を歩きながら、夏実の問いをまた考えた。自分のためだけにやること。誰かに何かを証明しようとしないこと。
家に帰ると、玄関の鍵がかかっていなかった。千世子が出る時にうっかり鍵をかけずに出てしまったのか。それとも、茂光が戻っていたのか。リビングに入ると、茂光がソファで眠っていた。コートを着たまま横になって、目を閉じていた。口が少し開いていた。千世子は毛布を一枚持ってきて、茂光の体の上にかけた。茂光は目を開けなかった。千世子は寝室へ行き、布団に入った。電気を消すと、部屋が暗くなった。
自分のためだけにやること。千世子は暗闇の中で、その問いをぐるぐると回していた。答えはまだ出なかった。しかし、その問いが頭の中に存在していることが、以前とは少し違う感覚だった。以前の千世子には、そういう問いを立てること自体がなかった。乾燥機の音は、もう聞こえなかった。代わりに、茂光の寝息がかすかに廊下を伝ってきた。千世子は目を閉じた。今夜は、眠れる気がした。
翌朝、茂光はソファにいなかった。千世子が目を覚まして廊下へ出ると、リビングに畳んだ毛布だけが残っていた。昨夜かけてやった毛布を、茂光は自分で畳んでソファの端に置いていた。それだけが、夜の間に誰かがいた証拠だった。玄関を見ると、茂光の靴がなかった。外出したのか。それとも、荷物をまとめて出ていったのか。千世子は少しの間、玄関の前に立って考えた。鞄を確認しに二階へ行こうかとも思ったが、やめた。今それを確かめても、もし荷物がなくなっていたとしても、自分にできることは何もない。
台所へ行き、いつも通り湯を沸かした。お茶を入れ、冷蔵庫を開けた。昨日の大根の煮物が残っている。卵が一個、食パンが半袋。千世子は食パンをトースターに入れ、卵を一個割って目玉焼きを作った。一人分の朝食だった。テーブルに座って食べながら、千世子は今日の段取りを頭の中で確認した。昼のパートは休みだった。午後に銀行へ行き、来月分の返済について相談の予約を入れてあった。夜は、工場の仕事がある。その間に、やらなければならないことがいくつかあった。
片付けをしてから、千世子は二階へ上がった。茂光の部屋を少し開けて、中を見た。鞄はあった。着替えもある。ただ、出かけているだけだ。千世子は自分の部屋に戻り、身支度をした。鏡の前で髪をまとめながら、自分の顔を見た。目の下の隈は、まだ消えていなかった。頬が、少し落ちた気がした。三週間、昼と夜の仕事を続けて、体に蓄積しているものが顔に出てきていた。千世子はパウダーを手に取りかけて、止めた。今日は銀行へ行くだけだ。厚く塗る必要はない。薄く整える程度にした。
午後、銀行の窓口で担当の若い男性と話した。住宅ローンの支払いが三ヶ月滞納になる前に相談に来た旨を伝えると、男性は丁寧に状況を聞き、いくつかの選択肢を説明した。返済猶予の申請、返済額の一時的な減額、あるいは売却。千世子は手帳にメモを取りながら聞いた。男性は最後に言った。「一度ご主人と話し合われて、来週もう一度いらっしゃいますか?」千世子は頷いた。「来週伺います」と答えた。
銀行を出ると、冬の日差しが低く差していた。千世子は少し歩いてベンチに座り、手帳を開いた。今日聞いた内容を読み返した。売却した場合に残るとされる残高の目安額、返済猶予を申請した場合の条件。それぞれのメリットとデメリット。数字が並んでいた。茂光に、この話をしなければならない。しかし、茂光は今どこにいるのか。何を考えているのか。昨夜ソファで眠っていた男が、今朝には消えていた。連絡が来ることもなかった。
千世子はスマートフォンを取り出し、茂光に短いメッセージを送った。「銀行と話してきました。来週また行くので、一緒に来て欲しいです」。既読がついたのは、一時間後だった。返信はなかった。その夜も、千世子は工場へ向かった。バスの中で、窓に映る自分の顔を見た。疲れているのに、それほど疲れて見えなかった。不思議だと思った。
深夜の工場で、千世子はいつも通り機械の清掃をした。この夜は、製菓ラインの担当だった。細い配管の隙間を専用のブラシで洗う作業で、指先の感覚がいる仕事だった。千世子は黙々と手を動かした。深夜一時を過ぎた頃、同じ区画で働いていた別の作業員が、戻ってこないことに千世子は気づいた。しばらくすると、通路の向こうから声が聞こえた。誰かを呼んでいる声だった。千世子がブラシを置いて通路へ出ると、フォークリフトの近くに人が集まっていた。何かが倒れていた。近づいてみると、二十代に見える若い男性の作業員が、資材の棚の角に手をぶつけて、床に座り込んでいた。血が、少し出ていた。大きな怪我ではなさそうだったが、男性は顔が青くなっていた。千世子は近くにいた作業員に救急箱の場所を聞き、取ってきて傷の手当てをした。消毒液をガーゼに含ませ、傷口を抑えた。男性は痛そうに顔をしかめたが、「ありがとうございます」と言った。周りにいた他の作業員たちは、各自の持ち場に戻っていった。千世子も救急箱を元の場所へ返し、自分の作業に戻った。
特別なことをしたわけではなかった。ただ、目の前に困っている人がいたので、できることをしただけだった。しかし、その後残りの作業時間の間、千世子はどこか気持ちが軽かった。昨夜から続いていた茂光のこと、家計のこと。そういうものが、少し遠のいていた。
休憩時間に、前に少し話した女性の作業員が隣に座った。「さっき、手当てしてたの見ましたよ」。千世子は「そうですか」と答えた。女性はコーヒーを一口飲んで言った。「あなたは、そういうことが自然にできる人ですね」。千世子は、すぐに返事をしなかった。「自然にできる」という言葉を、どう受け取ればいいか分からなかった。自分にとっては、ただの反射的な行動だった。考えてやったわけではない。
休憩が終わり、千世子はまた持ち場へ戻った。翌朝、帰宅すると茂光が台所にいた。インスタントラーメンを作っているところだった。千世子が入ってきても、振り向かなかった。千世子はコートを脱ぎながら、「おはようございます」と言った。茂光は低い声で、「ああ」と言った。千世子はシャワーを浴び、着替えてから台所へ戻った。茂光はラーメンを食べ終えて、洗い物をしていた。千世子は、昨日の銀行での話をした。来週また行く必要があること。できれば、一緒に来て欲しいこと。茂光はシンクに向かったまま聞いていた。洗い物をする音が続いていた。話が終わると、茂光は洗った茶碗を水切りに置いて、「分かった」と言った。千世子は少し驚いた。また拒否されると思っていた。「分かった」というのが本当に分かったという意味なのか、それとも今は聞きたくないという意味なのか、判断しかねたが、それ以上確認はしなかった。茂光が部屋を出て行った後、千世子は椅子に座り、三時間眠った。目が覚めると、昼を過ぎていた。
その日の夕方、玄関のチャイムが鳴った。千世子が出ると、隣の田村の奥さんが立っていた。手に、小さな袋を持っていた。「先日のお礼にと思って」と田村の奥さんは言いながら、袋を差し出した。千世子は受け取りながら、「先日」というのが何のことか、一瞬考えた。千世子がここ数週間、田村への手土産を辞めていることは確かだった。「先日のお礼」というのが何を指しているのか、よく分からなかった。田村の奥さんは続けた。「先週、うちの主人が駅で荷物を落とした時、助けてくださったでしょう。ご主人が」。千世子は少し驚いた。茂光が誰かを助けたという話は、聞いていなかった。田村の奥さんは続けた。「ご主人は名前も言わずに、さっさと行ってしまわれたんですが、うちの主人が顔を見て、お隣の方だって分かったそうで。わざわざ、ありがとうございます」
千世子は「ありがとうございます。主人に伝えます」と言って、袋を受け取った。ドアを閉めてから、千世子は袋の中を見た。近所のスーパーで売っているような、普通の煎餅の袋だった。高いものではない。しかし、それが千世子には妙に温かく感じられた。茂光が誰かを助けた話を、茂光は自分から一言も言わなかった。千世子がその夜、茂光に話すと、茂光は「ちょっと手を貸しただけだ」と言って、それきり話題を変えた。千世子はそれ以上聞かなかった。ただ、茂光の横顔を少しの間見ていた。
一月に入った。年が明けても、二人の生活の形は変わらなかった。千世子は昼と夜の仕事を続け、茂光は新しい仕事をまだ見つけられずにいた。ハローワークには通っているようだったが、六十六歳という年齢が壁になっているようだった。面接に行ったという話を一度だけ聞いたが、結果は聞いていなかった。銀行との再度の面談は、年明けの第二週に行われた。茂光は約束通り、一緒に来た。アイロンをかけたシャツを着て、背筋を伸ばして担当者の前に座った。担当者が状況を説明し、いくつかの選択肢を示した。茂光は黙って聞いていた。時々、担当者が確認のために茂光に話しかけると、「はい」とか「そうですね」と短く答えた。千世子が話の合間に茂光を窺うと、茂光はそちらを見たが、何も言わなかった。
面談が終わり、銀行を出た。外は曇っていた。二人は駅まで並んで歩いた。茂光が言った。「売るしかないな」。千世子は歩きながら頷いた。茂光は続けた。「俺が早く仕事を決めていれば、こうならなかった」。千世子は何も言わなかった。言葉を選んでいたのではなく、返すべき言葉が本当に分からなかった。責める必要も、慰める必要も、どちらも違う気がした。茂光は少し間を置いてから言った。「すまなかった」。千世子は足を止めた。茂光も止まった。二人は、曇り空の下に立っていた。千世子は茂光の顔を見た。茂光は前を向いたまま、視線を合わせなかった。しかし、その横顔には、千世子がこれまで見たことのない種類の疲労があった。怒りではなく、意地でもなく、ただ疲れている顔だった。千世子は歩き出した。茂光もついてきた。それ以上のことは、二人とも言わなかった。
家に帰ってから、千世子は不動産会社に電話した。家の査定を依頼するための連絡だった。担当者が来るのは、翌週になると言われた。電話を切った後、千世子はリビングを見回した。ソファ、テーブル、テレビ。壁にかけてあった額縁はすでに売っていたので、その場所だけ壁紙の色が薄く残っていた。外壁は塗り直したが、中はそのままだ。この部屋で過ごした時間の痕跡が、少しずつ薄くなっていた。茂光は二階へ上がっていた。千世子は台所に立ち、夕食の準備を始めた。
その翌週、工場での夜勤の帰りのことだった。深夜に仕事を終え、いつも通りバスに乗った。早朝五時前のバスは、数人しか乗っていなかった。千世子は窓側の席に座った。外は、まだ暗かった。終点の一つ手前の停留所で、バスが止まった。誰かが乗ってくるのかと思ったが、乗ってきたのではなく、運転手が「少々お待ちください」と言って、ドアを開けたまま停車した。前方の席の乗客が、何か言っている。千世子は立ち上がって前を見ると、乗客の一人、老年の女性が座席でぐったりと目を閉じていた。千世子はすぐに席を離れ、前へ行った。女性は七十代ほどに見えた。手荷物を膝に乗せたまま、意識はあるようだったが、顔色が悪かった。千世子は女性の隣に座り、「大丈夫ですか」と声をかけた。女性は細い声で、「ちょっと、気分が…」と言った。千世子はバッグから水のペットボトルを取り出して渡した。工場仕事の帰りに持ち歩いている、安い水だった。女性は少し口をつけた。運転手が後ろに来て状況を確認し、「次の停留所まで進んで、下ろせますか」と女性に聞いた。女性は頷いた。千世子は次の停留所まで、女性の隣にいた。バスが止まり、千世子は女性が降りるのを手伝った。ベンチに座らせ、水を手に持たせた。女性は息を整えながら、「ありがとうございます」と言った。千世子はバスに戻り、残りの区間を乗った。
自宅の最寄り停留所で降りると、夜明け前の空が、少しだけ明るくなり始めていた。千世子は歩きながら、特に何かを考えているわけではなかった。女性のことも、バスのことも、すでに頭の中から離れていた。ただ、体が動いたというだけだ。大げさなことは、何もなかった。しかし、家に帰りシャワーを浴びながら、千世子は夏実の言葉を思い出した。「自分のためだけにやっていることがありますか? 誰かに何かを証明しようとしないこと」。バスの中で女性を助けたのは、誰かに見せるためでも、報われるためでも、体面のためでもなかった。ただ、そこにいたから、できることをした。千世子が長年かけてやってきたこと。近所への手土産、妹への百万円、婦人会での振る舞い。それらは、全て誰かの目を意識してやっていた。しかし、バスの中での行動は、違った。千世子はシャワーを止めた。タオルで体を拭きながら、その違いを少し考えた。どちらも他者を助ける行為に見える。しかし、動機が全く違う。誰かに見せるためにやることと、ただそこにいるからやることは、外側は同じでも、内側が全く別物だった。
千世子は着替えて布団に入った。三時間眠れるかどうかという時間だった。目を閉じながら、今日は眠れる気がすると思った。実際に、すぐに眠った。
一方、茂光の日々も、少しずつ変わっていた。新しい仕事はまだ決まっていなかった。しかし、茂光は以前のように何も言わず家にいるだけではなくなっていた。近所のコンビニで新聞を買い、ハローワークへ行き、夕方には台所に立つことが増えた。夕食を茂光が作り始めたのは、一月の半ばを過ぎた頃からだった。最初は味が薄かった。次は、塩が多かった。しかし、千世子は何も言わずに食べた。茂光も、何も言わなかった。ただ、二人で食卓に向かい、黙って食べた。ある日、茂光が作った味噌汁が、これまでで一番うまかった。千世子がそう言うと、茂光は「ふん」と言った。しかし、口元が少し動いた。
二月の初め、不動産会社から査定結果が届いた。担当者が来て、現在の市場価格と、残っているローン残高を差し引いた手取り額を説明した。手取り額は、想定より少なかった。全部の借金を返しても、ほとんど残らない金額だった。茂光は担当者の説明を、途中から顔を伏せて聞いていた。千世子は手帳にメモを取り続けた。
担当者が帰った後、リビングに茂光と千世子が残った。茂光はソファに座ったまま、しばらく動かなかった。テーブルの上に広げられた書類を見ていた。千世子は台所で湯を沸かし、お茶を入れた。二人分を持ってきて、茂光の前に置いた。茂光はお茶を受け取り、一口飲んだ。それから、言った。
「この家を売っても、残るものは、ほとんどない」
千世子は頷いた。茂光は続けた。「次に住む場所を、考えないといけないな」。千世子は頷いた。二人はしばらく黙っていた。テレビはついていなかった。外の通りを、車が一台通り過ぎる音がした。茂光が言った。「俺は、ずっとこの家が自分の証明だと思っていた」。千世子は茂光の顔を見た。茂光は続けた。「でも、今はもう、そうじゃない気がする。この家がなくなったとしても、俺が情けない人間になるわけじゃない。そうじゃないかと思い始めている」
千世子はその言葉を聞いて、すぐには何も言わなかった。茂光がそういうことを言ったのは、千世子の記憶の中で初めてのことだった。怒っていない、責めていない。ただ、静かに思っていることを言った。千世子はお茶を一口飲んだ。温かかった。それから、ゆっくりと言った。「私も、ずっと誰かに見られていないと、不安でした」。茂光は千世子を見た。千世子は続けた。「でも、今は、それが少し変わってきた気がします」。茂光は何も言わなかった。ただ、頷いた。
その夜は、二人で夕食を食べた。茂光が作った鍋だった。白菜と豆腐と、特売の豚肉が入っていた。千世子が、少し出汁を足して、二人で食べた。食べながら、特に大事な話はしなかった。茂光が、今日ハローワークで聞いた話をした。港の荷物の仕分けの仕事があって、六十代でも応募できるらしい、と言った。千世子は「それは良さそうですね」と言った。茂光は頷いて、豆腐を一切れ食べ、「思ったより体を使う仕事だが、やってみようと思う」と言った。千世子は、また頷いた。鍋の湯気が、二人の間に漂っていた。窓の外では、小さな雨が降り始めていた。雨音が、窓ガラスを叩く音が低く続いていた。
食事が終わり、片付けをしてから、千世子は夜の仕事の準備をした。作業服に着替え、バッグに水のペットボトルを入れた。玄関で靴を履いていると、茂光がリビングから出てきた。「気をつけて、行って来い」と茂光は言った。千世子は振り返り、頷いた。茂光は廊下に立ったまま、千世子が外へ出るのを見ていた。ドアを閉める前に、千世子はもう一度振り返った。茂光の顔に、怒りはなかった。険しさもなかった。ただ、立っていた。千世子はドアを閉めた。外の雨は、弱い霧雨だった。傘を広げて歩き始めた。バス停までの道に、街灯の灯りが雨に滲んで伸びていた。千世子は歩きながら、査定の数字を思い返した。この家を売って借金を返して、残る金はわずかだ。次に住む場所を探さなければならない。二人で、どこかに移らなければならない。それがどこになるかは、まだ分からない。しかし、その「分からない」という感覚が、以前とは少し違っていた。以前は、分からないことが恐怖だった。先が見えないことが、息ができなくなるような感覚だった。しかし、今は、分からないことと一緒に立っていられる気がした。解決していないのに、完全に崩れてもいない。バス停につき、バスを待った。雨が、少し強くなった。千世子は傘を持ち直した。夜の工場が、待っている。明日も、仕事がある。来週、家の売却の手続きが始まる。その先にあることは、まだ見えない。千世子は、バスのヘッドライトが遠くに見えるのを待ちながら、冷たい雨の中に立っていた。
家の売却が決まったのは、二月の終わりだった。不動産会社の担当者から連絡が来て、買い手がついたと知らされた。電話を受けたのは、千世子だった。昼のパートの休憩時間に、廊下の端で聞いた。担当者は手続きの流れを説明し、引き渡しは四月の中旬になる見込みだと言った。千世子はメモを取りながら聞き、「分かりました。主人にも伝えます」と答えた。電話を切ってから、廊下の窓の外を見た。曇った空の下に、駐車場が見えた。会社の古い軽トラックが一台、白線の内側に収まっていた。四月まで、あと二ヶ月もない。
その夜、夕食の後に千世子は茂光に話した。茂光は箸を置いて聞いた。「四月か」と言った。千世子は頷いた。茂光はしばらく黙っていた。それから、「次に住む場所を、本格的に探さないといけないな」と言った。千世子は手帳を開き、今考えていることを話した。家賃が安い地区のこと、二人の収入で払える上限のこと、今の職場や工場への交通のこと。茂光は聞きながら、時々頷いた。途中で一度だけ、「風呂はあるか」と聞いた。千世子は「条件に入れておきます」と答えた。特別な言葉は出なかった。しかし、以前と違うのは、二人が同じ方向を向いて話しているということだった。茂光が反発しなかった。千世子が遠回しにしなかった。ただ、必要なことを話した。それだけのことだったが、千世子にはそれが今までにないことのように感じられた。
翌週から、千世子は仕事の合間に物件を探し始めた。スマートフォンの画面で条件を入れて検索すると、たくさんの物件が出てきた。しかし、予算の上限を入れると、選択肢は一気に狭まった。千世子が見ていた物件の多くは、築三十年以上の古いアパートだった。写真では、壁が黄ばんでいたり、床がきしんでいそうだったりした。以前の千世子なら、そういう物件を開いてすぐに閉じていた。しかし、今は一つ一つ間取りを確認し、駅からの距離を調べ、周辺の買い物環境を確認した。茂光にも、何件かスクリーンショットを送った。茂光は返信で、「これはどの駅だ?」と聞いてきた。千世子が答えると、「そこなら知っている。悪くないと思う」という返事が来た。
二人で実際に内見に行ったのは、三月の最初の週末だった。最初に見た物件は、駅から徒歩十二分の木造アパートだった。玄関を入った瞬間、古い建物の匂いがした。千世子は思わず鼻を摘んだ。しかし、部屋の中に入ると、日当たりが予想より良かった。南向きの窓から、低い冬の日差しが床に伸びていた。茂光は部屋の隅々を歩き回り、壁を手で叩いてみたり、水道の蛇口をひねってみたりした。千世子は押し入れを開けて、奥行きを確認した。不動産屋の若い担当者が、台所の設備の説明をしていた。「コンロは二口です」と言った。茂光がそれを聞いて、「一口で足りるんじゃないか」と千世子に言った。千世子は思わず笑った。声に出して笑ったのが、いつ以来か分からなかった。茂光は少し驚いたような顔をしてから、自分も口元を緩めた。
その物件には決めなかったが、帰り道は悪くなかった。二人は駅まで並んで歩いた。茂光が「さっきの部屋、天井が低かったな」と言った。千世子は「でも、日当たりは良かったです」と言った。茂光は「そうだな」と言った。
三月の半ばに、二件目の内見をした。今度は、少し離れた地区の集合住宅だった。一九八〇年代に建てられた古い公団住宅の払い下げ物件だった。コンクリート造りで外観は無骨だったが、中に入ると天井が高く、部屋が予想より広かった。千世子は窓から外を見た。古い住宅街が広がっていて、商店街の入り口が遠くに見えた。「近所のスーパーへは、徒歩五分です」と担当者が言った。茂光は押し入れを開け、奥行きを確認した。それから千世子を呼んで、「ここなら、ゴルフ道具も入ったな」と言った。千世子は「ゴルフ道具は、もうないですよ」と言った。茂光は一瞬止まって、「そうだったな」と言った。恨んでいる様子ではなかった。ただ、確認しているような口ぶりだった。
その夜、二人で食卓を囲みながら話し合った。二件目の物件に決めよう、という結論になった。家賃は、今の住宅ローンの半分以下だった。茂光が言った。「引っ越したら、近所に挨拶をどうするか」。千世子は少し考えてから言った。「手ぶらでいいと思います。最初は、それだけでいい」。茂光は「そうか」と言って、それ以上何も言わなかった。
四月の引き渡しまで、残りの荷物を少しずつ整理した。二人でやると、思ったより時間がかかった。茂光は自分の本棚の本を一冊ずつ確認し、いるものといらないものに分けた。いらないものの山が、いるものの山より高くなった。それを茂光自身がダンボールに詰め、玄関に並べた。千世子は台所の棚を片付けた。使っていない食器が、思ったより多かった。来客用に揃えていたものが、ほとんど使わないまま積み重なっていた。大半はダンボールに入れて、リサイクルに出すことにした。
ある日の夕方、茂光が二階から古い写真のアルバムを持ってきた。テーブルに置いて、千世子も座って一緒に見た。結婚したばかりの頃の写真。息子の直樹が小さかった頃の写真。二人とも若かった。茂光は若い頃から姿勢が良かった。千世子は当時から、外出の時はきちんとした格好をしていた。茂光がある一枚の写真を指さした。どこかの海辺で撮った写真で、二人とも日に焼けて笑っていた。直樹が七歳か八歳の頃だった。「あの時は、楽しかったな」と茂光が言った。千世子は頷いた。茂光はアルバムをゆっくり閉じた。「これは、持っていこう」と言った。千世子は頷いた。
身支度の途中、千世子は一つのことを考え続けていた。直樹のことだ。息子の織田直樹は三十八歳で、都内に妻と二人で暮らしている。会社員で、共働きだった。年に数回、顔を見せに来るか、電話で話す程度だった。直樹は両親のことを、ある程度余裕のある老夫婦だと思っているはずだった。少なくとも、千世子と茂光は、そう見せてきた。直樹が先月電話をかけてきた時、新しいマンションを検討しているという話をしていた。頭金がある程度必要で、もし両親に余裕があれば、少し援助してもらえないかという相談だった。千世子はその時、「考えておきます」と答えた。「考えておきます」という言葉が、千世子の中でずっと引っかかっていた。直樹はまだ、両親の実情を知らない。家が売却されることも、借金があることも、千世子が夜中に工場で働いていることも知らないまま、援助を期待して待っている。
夏実の言葉が、また蘇った。「家族の中の沈黙が、貧困を長引かせる。血を分けた人間に、本当のことを言いなさい」。千世子はその言葉を聞いた時、頭では分かっていた。しかし、体が動かなかった。直樹に本当のことを言うということは、「立派な両親」という像を壊すことを意味した。直樹に、失望されるかもしれない。軽蔑されるかもしれない。そう思うと、言葉が喉の手前で止まってしまっていた。しかし、今、荷物を詰めながら、千世子はもう時間がないと感じた。四月に家を引き渡せば、新しい住所が変わる。直樹には、いずれ知れる。それならば、自分たちの口から先に話すべきだ。隠し続けることで生まれる歪みを、千世子はこの一年で十分に見てきた。
その夜、千世子は茂光に話した。直樹に会って、本当のことを話したい、と。茂光はすぐには答えなかった。お茶を一口飲んで、テーブルに置いた。千世子は続けた。「このまま知らせないでいれば、直樹はいつか援助を期待して、また来る。その時に初めて話すよりも、今のうちに話した方がいい。引っ越しのことも含めて」。茂光はしばらく黙っていた。それから言った。「俺も、そう思っていた」。千世子は茂光を見た。茂光は続けた。「情けない話だが、言わないといけない。自分の口から、言わないといけない。お前一人に、任せるわけにはいかない」。千世子は頷いた。
直樹に連絡を取り、週末に会う約束をした。場所は、都内の駅の近くにある静かな喫茶店にした。派手な場所では話せないし、自宅に来させれば荷物の片付け途中で混乱させてしまう。約束の日、千世子と茂光は電車で都内へ向かった。千世子はいつも通りコートを着ていたが、今日は口紅を薄くしか引かなかった。茂光もアイロンをかけたシャツを着ていたが、どこか力の抜けた様子だった。以前のような、見せるための姿勢ではなかった。
喫茶店に入ると、直樹はすでに来ていた。窓際の席に座り、コーヒーを飲んでいた。千世子と茂光の顔を見て、立ち上がった。二人が席に着いた。向かいに、直樹が座った。三人でコーヒーを注文した。最初は少しの間、当たり障りのない話をした。直樹の仕事の話。妻の話。しかし、千世子はその話に乗りきれなかった。早く言わなければという気持ちと、もう少し後にしたいという気持ちが、交互に来ていた。コーヒーが来て一口飲んだところで、茂光が先に口を開いた。
「直樹、話がある」と茂光は言った。直樹は、父親の顔を見た。茂光は続けた。「お前に、ちゃんと話しておかないといけないことがある。俺たちのことだ」。直樹は少し身を乗り出した。「どうしたんですか」と言った。茂光は視線をテーブルに落とした。それから、ゆっくり顔を上げて直樹を見た。「俺は、去年の暮れに仕事を失った。今は新しい仕事を探しているところだが、まだ決まっていない。そして、この家、今住んでいる家は、もうすぐ売却することになった。借金があって、その返済のために売るしかなかった。来月には、引っ越す。新しい住まいは、今よりずっと小さな場所になる」
茂光はそれだけ言って、口を閉じた。直樹は、しばらく何も言わなかった。コーヒーカップを両手で持ったまま、固まっていた。千世子は、続きを引き継いだ。「私も、仕事を二つ掛け持ちしています。昼は今までのパートを続けて、夜は食品工場の清掃の仕事をしています。いつからかは、言いませんでしたが、もう三ヶ月以上になります」
直樹は、ゆっくりと顔を上げた。千世子を見た。それから、茂光を見た。それから、また千世子を見た。「なぜ、言わなかったんですか」と直樹は言った。声が、少し震えていた。千世子は答えた。「言えなかった。恥ずかしかったからというより、あなたを心配させたくなかったから。でも、それは間違いでした」。直樹は口を結んだ。目が、赤くなっていた。茂光が言った。「援助の話を、先月したな。それには、答えられない。俺たちに、今は余裕がない。それも含めて、正直に言わないといけなかった」
直樹は視線をテーブルに落とした。しばらく沈黙が続いた。喫茶店の中で、別のテーブルの客の笑い声が遠くに聞こえた。千世子は、直樹の顔を見ていた。直樹は、怒っているのか、悲しんでいるのか、千世子にはすぐには読めなかった。直樹が言った。「僕のことを心配させたくなかったというのは、分かります。でも…」と言いかけて、止まった。千世子は待った。直樹は続けた。「でも、知らないまま、援助を頼もうとしていた自分が、恥ずかしい」。千世子は、少し驚いた。直樹は顔を上げた。目が、赤いままだった。「僕は、ずっとお父さんとお母さんは、ちゃんとしているから大丈夫だと思っていた。だから、頼めると思っていた。でも、実際には、全然違ったんですね。それを、知らなかった。知ろうとしていなかった」。茂光が言った。「お前が知らなかったのは、俺たちが見せなかったからだ。お前のせいじゃない」。直樹は、少しの間唇を噛んでいた。それから言った。「僕に、できることは、何かありますか?」。千世子は、首を横に振った。「今は、いい。引っ越しも、自分たちでやる。ただ、これからは正直に話そうと思って」。直樹は頷いた。コーヒーを一口飲んだ。それから、「新しい家は、どんなところですか?」と聞いた。千世子は、少し肩の力が抜けるのを感じた。茂光も、同じようにわずかに姿勢が変わった。千世子は答えた。「古い団地の払い下げで、部屋は今より小さい。でも、日当たりは悪くない」。直樹は頷いた。「近かったら、たまに顔を出します」と言った。茂光が言った。「来るなとは、言わない。ただ、手土産はいらない」。直樹は、少し笑った。「分かりました」と言った。
三人は、少しの間静かにコーヒーを飲んだ。大事な話は終わった。しかし、席を立つのでもなく、ただそこに座っていた。直樹が言った。「お母さん、夜の工場の仕事、きつくないですか?」。千世子は考えてから答えた。「最初は、きつかった。でも、今は慣れました」。直樹は千世子の顔をじっと見た。それから言った。「顔色は、いいですね」。千世子は笑った。「元気だけは、あるから」。茂光が言った。「お前の母親は、丈夫だ。俺より、丈夫かもしれない」。直樹はその言葉を聞いて、また少し目が赤くなった。しかし、泣かなかった。
喫茶店を出ると、三月の風が吹いていた。駅の前で別れた。直樹は電車の改札を通る前に振り返り、「また連絡します」と言った。千世子は頷いた。茂光は「おう」と言った。直樹の背中が、改札の向こうに消えた。千世子と茂光は、並んで立っていた。人が行き交う駅前で、二人はしばらくそのまま立っていた。茂光が言った。「言えたな」。千世子は頷いた。茂光はもう一度言った。「言えて、よかった」。千世子も言った。「そうですね」。二人は、帰りの電車に乗った。
四月の半ば、家の引き渡しが終わった。最後の日、千世子と茂光は二人で、空になった家を一通り歩いた。リビング、台所、一階の廊下、二階の部屋。家具は搬出済みで、床だけが残っていた。千世子は南向きの窓の前に立った。ガラス越しに、庭が見えた。冬の間は枯れていた庭の木が、今は細い芽を出し始めていた。千世子が一度も名前を調べたことのない木だった。茂光が、背後に来た。「長く住んだな」と言った。千世子は頷いた。「二十三年です」と言った。茂光は窓の外を見た。それから言った。「最初に住んだ時、ここがゴールだと思っていた」。千世子は何も言わなかった。茂光は続けた。「ゴールじゃなかったが」。千世子は、もう一度頷いた。「そうですね」と言った。二人は玄関を出た。茂光が鍵を閉め、不動産会社の担当者に手渡した。担当者は、頭を下げた。千世子と茂光も、軽く頭を下げた。
引っ越し業者のトラックは、すでに新しい住まいへ向かっていた。千世子と茂光は、自分たちの荷物を持ち、電車で移動した。新しい住まいは、駅から歩いて八分のところにある古い集合住宅の一室だった。二DKで、六畳の和室と、台所兼ダイニング。廊下は狭く、壁紙は薄く黄ばんでいたが、南の窓から日差しが差し込んでいた。
引っ越し業者が荷物を搬入し終えて帰っていった。千世子と茂光は、ダンボール箱に囲まれた部屋の中央に立った。茂光が言った。「狭いな」。千世子は言った。「そうですね」。茂光はもう一度、部屋を見回した。それから言った。「でも、悪くない」。千世子は窓の外を見た。向かいの建物の壁が見えるだけだったが、日差しだけはある。
その日の夕方、千世子はダンボールから鍋を一つ取り出した。近くのスーパーで買ってきた特売の白菜と豆腐と、安い豚肉で、鍋を作った。ガスコンロは二口あったが、一口しか使わなかった。小さなテーブルを窓の前に置き、二人で向かい合って座った。茂光が、盃を出した。どこから出てきたのか、引っ越し荷物の中に入っていたらしかった。二つ、テーブルに置いた。それから台所の棚を漁り、安い日本酒の小瓶を出してきた。これも、荷物に紛れ込んでいたものだった。茂光は二つの盃に酒を注いだ。千世子に一つ、差し出した。千世子は、受け取った。茂光は盃を持ったまま、千世子を見た。それから言った。「ここから、始めよう」。千世子は盃を持ち、茂光の目を見た。茂光の顔に、怒りはなかった。疲れはあった。しかし、それは昨夜の疲れのような、押し潰されるような重さではなかった。ただ、生きてきた人間の積み重なった疲れだった。その下に、かすかに別のものがあった。千世子には、それが何かすぐには分からなかった。言葉にもできなかった。ただ、今まで見たことのない茂光の顔だと思った。二人は、盃を合わせた。小さな音がした。窓の外の空は、夕暮れに向かって薄紫色に変わり始めていた。隣の建物の屋根の向こうに、その色だけが見えた。千世子は酒を一口飲んだ。安い酒だったが、体が温まった。茂光は鍋の中を見て、「いい匂いだ」と言った。千世子は「そうですか」と言って、火を強めた。鍋が、静かに煮立ち始めた。
千世子はその音を聞きながら、この一年のことを思い返した。通帳の三十万円を見た夜。茂光が失業して、茶話会の話をした夜。夏実に初めて会った、あの古い食堂。妹の雪に百万円を渡した日。リサイクルショップでゴルフクラブを売り、一万五千五百円を受け取った日。銀行の面談。深夜の工場の清掃。バスの中で気分が悪くなった老婦人。直樹の前で、茂光が最初に口を開いた瞬間。どれも、まだ生々しく残っていた。消えてはいなかった。綺麗に整理されてもいなかった。ただ、そこにあった。
千世子は、夏実のことも考えた。夏実に最後に連絡を取ったのは、引っ越しの一週間前だった。新しい住まいが決まったこと。来月に引っ越すことを、メッセージで伝えた。夏実からの返信は、短かった。「良かったです」と一言だけ書いてあった。それ以上のことは、何もなかった。励ましもなく、慰めもなく、ただ「良かったです」という一言。千世子は、その短さが夏実らしいと思った。
鍋の中の白菜が、透き通ってきた。千世子は豆腐を入れた。茂光が、箸を持った。「食べよう」と言った。千世子は頷いた。二人で、鍋をつついた。窓の外の色が、少しずつ深くなっていった。暗くなってきた空の端に、まだ薄いオレンジが残っていた。その色が消えるまでの短い間。狭い部屋の中には、鍋の煮える音と、箸の音と、二人の息遣いだけがあった。借金は、まだ少し残っていた。茂光の仕事は、まだ決まっていなかった。この先のことは、まだ分からなかった。しかし、今この部屋の中で、千世子には今夜のことだけがあった。鍋の温かさと、向かい座っている人間と、窓の外の色。それだけがあった。それで十分だとは、言えなかった。しかし、それが今あるものだった。



