朝のカンファレンスルームで、神宮寺さえ先生が俺の名を呼んだ瞬間、部屋の空気が凍りついた。「火山先生、なぜこの術式を選ばなかったんですか?あなたの判断にはいつも芯がありません」。エースと呼ばれる彼女の言葉は、ナイフのように鋭かった。俺、火山竜平、四十五歳。この病院に来て二年、覇気がないと陰口を叩かれながら、それでも黙ってきた。だがその日、彼女の父親が緊急入院した。執刀を引き受けた立花先生は、術…

朝のカンファレンスルームで、神宮寺さえ先生が俺の名を呼んだ瞬間、部屋の空気が凍りついた。「火山先生、なぜこの術式を選ばなかったんですか?あなたの判断にはいつも芯がありません」。エースと呼ばれる彼女の言葉は、ナイフのように鋭かった。俺、火山竜平、四十五歳。この病院に来て二年、覇気がないと陰口を叩かれながら、それでも黙ってきた。だがその日、彼女の父親が緊急入院した。執刀を引き受けた立花先生は、術...

朝のカンファレンスルームは、針を落としただけでも聞こえそうなほど張り詰めていた。前に立つのは神宮寺さえ、三十八歳。この科のエースであり、白いラボコートの襟元まで隙がない。髪はきっちりと一つにまとめられ、彼女が口を開くたびに部屋の空気がさらに締まるのが分かった。

「火山先生、お願いします」

名前を呼ばれて、俺は紙コップを置いた。画面に映し出されたのは、先週担当した患者のデータだった。

「術式の選択ですが、なぜこの方法を取らなかったんですか?文献的にも成功率が高く、術後の合併症リスクも低いはずです」

穏やかな言い方だったが、言葉の端々に尖ったものがあった。若手の健太がちらりとこちらを振り返る。

「患者さんの年齢と既往歴を考慮しました。標準術式ではなく、体への負担が少ない方を選んだだけです」

「結果論ですよね。リスクを取らずに済むなら、それが常に最善とは限りません」

「ええ、そうかもしれません」

俺はそれだけ言って口を閉じた。反論する材料はいくらでもあった。だが、口にはしなかった。

俺の名前は火山竜平。四十五歳。この政教会総合病院に来て、もう二年になる。院内での評判は決していいものではない。覇気がない。消極的だ。難しい症例から逃げる。そんな噂が耳に入ってこないわけではない。だが俺は何も弁解しなかった。

「火山先生、あなたの判断にはいつも芯がありません。患者さんはあなたを信じて命を預けているんです」

「肝に銘じます」

さえはわずかに眉を潜めると、次の症例へと話を進めた。カンファレンスが終わると、健太が小走りに寄ってきた。

「火山先生、神宮寺先生、今日はまた厳しかったですね」

「いつものことだ。気にするな」

「でも、火山先生の判断、僕は間違ってないと思いますよ」

俺は曖昧に笑って、彼の肩を軽く叩いた。廊下に出ると、看護師長の高坂とすれ違った。

「火山先生、お疲れ様でした」

「お疲れ様です」

高坂は何か言いたげな顔をしたが、口を開かずに通り過ぎていった。

医局に戻ると、机の上に一通の封書が置かれていた。差出人は海外の医療団体のロゴが入ったものだった。俺は封書を手に取り、しばらく見つめる。開けるつもりはなかった。中身はおそらく検討がついている。協力要請か、現地復帰の打診か。俺はその封書をロッカーの奥に押し込んだ。そこには、同じような封筒が何通も眠っている。全て未開封のままだ。ロッカーの扉を閉めようとした時、背後に気配がした。振り返ると、高坂が立っていた。

「随分、たくさん溜まっているんですね」

「ああ、これは古いものです」

「そうですか」

彼女はそれ以上、何も聞かなかった。高坂がいつから気づいていたのかは分からない。ただ、この看護師長は人を見抜く目を持っている。

午後には、新しい顔が現れた。心臓血管外科に新しく赴任してきた医師、立花義春。四十歳。論文も多数、海外での受賞歴もある。手技が高く、笑顔は爽やかで、白衣の着こなしまで様になっている。

「初めまして、立花吉春です。今日から皆さんと一緒に働かせていただきます」

医局に響く声はよく通る。若手の医師たちが目を輝かせて彼を取り囲んだ。健太も例外ではない。さえが立花に挨拶をしながら、わずかに表情を緩めたのが見えた。彼女がそんな顔をするのを、俺は初めて見たかもしれない。

「神宮寺先生のお噂は以前から伺っていました。お会いできて光栄です」

「こちらこそ。立花先生のご活躍は学会でも有名ですから」

二人は自然と並んで歩き出した。廊下の窓から差し込む光が、彼らを照らしている。お似合いだと、若手の誰かが小声で呟くのが聞こえた。俺はその声を聞きながら、自分のデスクに戻った。外科部長の久我が満足そうに頷いているのが見える。

「立花先生が来てくれて、うちの外科もますます強くなる。火山先生、君も立花先生から学ぶことは多いと思うよ」

「ええ、そう思います」

久我は俺の肩を叩き、立花の方へと歩いていった。

その週の終わりに、神宮寺順一が入院した。元名誉院長で、さえの父親。七十歳になった今も、背筋を伸ばして歩く人だ。定期検査での入院だと、久我が朝の申し送りで告げた。病室は特別室。窓からは中庭の桜の木が見える。俺は担当ではなかったが、廊下を通りかかった時、開いたドアの隙間から中の様子が見えた。ベッドに座った順一が、さえに何かを話している。

「お父さん、検査の前は安静にしててって言ったでしょ」

「さえ、お前は医者の前に娘だろ。父親の見舞い顔をするな」

「私は今、担当として話してるの」

「そうか」

順一は穏やかに笑った。さえの声には、いつものような硬さがなかった。順一の名前は、俺もよく知っている。だが、彼と俺の繋がりをさえは知らない。知らせるつもりも、今のところはなかった。俺はナースステーションにより、順一のカルテを少しだけ確認した。血液データ、心電図、画像所見。一通り目を通して、俺は息を吐いた。数値は悪くないが、心臓の影に引っかかるものがある。高坂が横から覗き込んだ。

「気になりますか、火山先生?」

「いえ、担当の先生がついておられますから」

「そうですか」

彼女は何かを言いかけて、やめた。

夕方、俺は屋上に上がった。夕日が病院の白い壁を赤く染めている。胸ポケットから古い手帳を取り出した。革の表紙はくすんで、角がすり切れている。数年前のページには、走り書きが残っていた。日付と、現地の村の名前。そして一人の男性の名前が記されている。順一。あの時の約束を、俺はまだ覚えている。語ることはない。俺は手帳を閉じ、ポケットにしまった。風が冷たい。桜のつぼみがまだ固く閉じている。順一のカルテの数値だけが、俺の頭の片隅に残っていた。あの影が、ただの影で終わればいい。願いながら、俺は屋上の扉に手をかけた。

それは月曜日の朝のことだった。緊急コールが流れ、特別病棟の神宮寺順一の名前が内放送で短く響く。俺は白衣の襟を直し、足早にナースステーションへ向かった。人だかりの中心に、さえの白衣が見えた。彼女は父親のモニターを睨みつけ、手早く指示を出している。

「血圧、もう一度測って。心電図の波形を出して。久我先生を呼んでください」

看護師たちが素早く動き出す。俺は廊下の隅に立ち、ただその光景を見ていた。外科部長の久我がやってきたのは、それから十分後のことだった。

「容態はどうなっている?」

「不整脈と血圧低下。画像で大動脈に拡張が見られます。先週から疑っていたものが現実になりました」

「これは手術しかないな」

「ええ、早急に」

久我は腕を組み、しばらく天井を見上げた。彼の頭の中ではすでに計算が始まっているのだろう。誰が執刀するか。成功率はどれくらいか。病院の信用。家族への説明。管理。

「立花先生に頼もう」

「私もその方がいいと思います。父の状態を考えれば、立花先生が最適です」

立花義春は、その日の午後には症例に加わった。彼は画像を一通り眺め、自信に満ちた表情で頷いた。

「難易度は高いですが、私の専門領域です。お引き受けしましょう」

久我が満足そうに笑う。

「神宮寺先生、ご安心ください」

「ありがとうございます。よろしくお願いします」

さえの声には、すがるような響きがあった。俺は検討室の片隅で、画像をじっと見ていた。大動脈基部の拡張。それに加えて、解離の影。角度が悪い。血管の走行も教科書通りではない。健太が小声で話しかけてきた。

「火山先生、立花先生なら大丈夫ですよね」

「ああ、立花先生は実力のある医師だ。任せておけばいい」

「ですよね。神宮寺先生も少し安心したみたいでしたし」

俺は曖昧に頷くだけだった。画像の中の影が、頭から離れない。あれはただの解離ではないかもしれない。だが、俺は何も口にしなかった。傍観者でいることが、俺の役目だ。

夕方、廊下でさえとすれ違った。彼女は俺に気づくと、立ち止まって軽く頭を下げた。

「火山先生、父のこと、お騒がせしています」

「お父様のご回復をお祈りしています。立花先生がついておられるなら、心配はいらないでしょう」

「ええ、そう信じています」

彼女は小さく微笑んだ。手術前日の夕方、追加の造影検査の結果が出揃ったと放射線科から連絡が入った。立花が画像を開いた瞬間、彼の表情がわずかに固まるのが分かった。

「これは……」

「どうしたんですか、立花先生?」

「冠状動脈に、想定外の狭窄があります。それも複数。大動脈の手術と同時にこちらも処理しないと、術中に心筋虚血を起こす可能性が高い」

医局の空気がすっと冷えた。さえは画面に駆け寄り、画像を食い入るように見つめた。彼女の指先がわずかに震えているのが見える。俺は離れた席から、その後ろ姿を見ていた。立花はしばらく無言だった。画像を何度も拡大し、角度を変え、計測を繰り返す。やがて彼は深く息を吐いた。

「久我先生、申し訳ありません。私にはこの症例の執刀は、お引き受けできません」

「立花先生、それは……」

「冷静に判断させてください。私の技術と経験で、これだけの合併症リスクを抱えた症例を引き受けることは、患者さんのためになりません。無理をして失敗すれば、取り返しがつかない」

合理的な判断だった。医師として責任ある態度だ。だが、さえの顔から血の気が引いていくのがはっきりと見えた。彼女は立花に詰め寄った。

「立花先生、待ってください。父はもう時間がないんです。他に誰がやれるんですか?」

「神宮寺先生、お気持ちは分かります。ですが、私は無責任なことはできません」

「無責任なのは、引き受けた後で投げ出すことじゃないんですか?」

立花は静かに首を振った。

「今引くことが、私にできる最も誠実な判断です」

さえは何かを言いかけたが、言葉が出てこなかった。久我が間に入った。

「神宮寺先生、落ち着きなさい。他の病院に転院を打診する手もある」

「転院している時間なんてありません。父の状態をご存知でしょう」

「だが、ここで執刀できる者がいない以上、仕方がないだろう」

沈黙が落ちた。医局の壁時計の針の音がやけに大きく聞こえる。俺は窓の外を見ていた。夕日が床に長い影を落としている。その時、さえが口を開いた。

「それなら、私がやります」

全員が彼女を見た。

「父の執刀は、私が引き受けます」

久我が声を潜めた。

「神宮寺先生、君は家族だ。執刀は避けるべきだろう」

「他に誰がいるんですか?私がやらなければ、父は助かりません」

「冷静になりなさい」

「冷静ですよ。これ以上冷静な判断はありません」

彼女の声は震えていなかった。

その夜、俺は屋上にいた。冬の終わりの風が頬を切るように冷たい。桜のつぼみはまだ硬いまま。俺は手帳をポケットから取り出し、開いた。数年前のページ。あの村の名前。神宮寺順一の名前。俺は指でその文字をなぞった。背後で扉の開く音がした。振り返ると、高坂が立っていた。彼女は黙ったまま俺の隣に来て、夜空を見上げた。

「神宮寺先生、執刀すると言い張っていますね」

「ええ、聞きました」

「お父様の手術を娘が執刀する。普通は止めるんです」

「でも、止められる人がいない」

俺は何も答えなかった。

「火山先生、あなたならあの症例、どう執刀しますか?」

俺は彼女の方を見た。全てを見抜いている目だった。

「高坂さん、あなたは……」

「私はね、火山先生。あなたがこの病院に来た日から、何かが違うと思っていました。手の動き、患者を見る目、判断の速さ。覇気がないんじゃない。あなたは何かを抑えている」

「買いかぶりですよ」

「そうでしょうか」

彼女はそれ以上、何も言わなかった。ただ夜空を見上げたまま、静かに立っていた。

「あの娘さんを見ていられますか?父親の体を自分の手で開く娘を」

俺は答えなかった。高坂は背を向け、扉が閉まった。俺は一人、屋上に残された。目を閉じると、あの村の景色がまぶたの裏に蘇る。土埃の舞う野戦のような医療現場。血と消毒液の匂い。そして、ベッドの上で俺の手を握り、こう言った男の顔。

「先生。私の娘もいつか医者になります。もしあの子が困っていたら、その時はどうか助けてやってください」

俺はあの時、ただ頷いた。口に出した約束ではなかった。だが、約束は約束だ。俺は手帳を閉じ、ポケットに戻した。胸の奥で、長く眠っていたものが、ゆっくりと目を覚ましていく。冷たい風の中で、俺は深く息を吸い込んだ。

医局の前を通り、ロッカーを開けた。奥に押し込んでいた封書を一通取り出した。英語の差出人。俺はそれを机の上に置いた。開封はしない。だが、もう奥に隠す必要もない。そんな気がした。前医局で、さえが一人、カンファレンスルームで画像を見ているのがガラス越しに見えた。俺はそのドアの前に立ち、手をかけた。ゆっくりと扉を開ける。蛍光灯が、さえの白衣を青白く照らしていた。彼女はモニターの前に座り、父親の画像を食い入るように見つめている。俺が扉を開けても、振り返らなかった。俺はゆっくりと彼女の隣の席まで歩き、画像を覗き込んだ。

「神宮寺先生」

さえはようやく顔を上げた。

「火山先生、何か?」

「執刀は、私がやります」

彼女の目がゆっくりと見開かれた。

「何をおっしゃってるんですか?」

「言葉の通りです。私がお父様の手術を執刀します」

さえはしばらく声を出せなかった。

「火山先生、これは遊びではないんです。父の命がかかっているんですよ」

「分かっています。だからこそ、私がやります」

俺は画像の一点を指差した。

「ここの解離の見え方が独特です。アプローチを変えれば、冠状動脈の処理も同時にできる。立花先生が引いたのは正しい判断です。だが、引かなくていい方法もある」

さえは俺の指の先を見つめ、そして俺の顔を見た。

「あなたは、一体……」

「説明は後でします。今は時間がない」

俺はそう言って立ち上がった。扉の外には、いつの間にか久我と高坂が立っていた。

「火山先生、本気か?」

「本気です。久我先生、執刀の許可をお願いします」

「君にできるのか?」

「できます」

久我はしばらく俺の顔を見つめていた。やがて深く息を吐き、頷いた。

「分かった。責任は私も取る」

高坂が静かに俺の前に進み出た。

「手術室、整えます。第一助手は誰に?」

「神宮寺先生にお願いします」

さえがはっと顔を上げた。

「あなたに見ていて欲しい。お父様の体を、自分の目で」

さえは唇を結び、強く頷いた。

「お願いします、火山先生」

手術室の中は、いつもと同じ匂いがした。消毒液と、張り詰めた空気。俺はメスを受け取り、順一の胸の上に視線を落とした。俺の手は迷わなかった。全てが指先に伝わってくる。あの村で、限られた機材と限られた時間の中で、何百と繰り返した感覚だ。立花も手術室に入ってきた。彼は無言で俺の手元を見ていた。途中、立花が小さく唸るのが聞こえた。

「こんな取り方、あるのか?」

さえは第一助手として、俺の隣に立っていた。俺が出す指示に、一つ一つ正確に答えていく。全てが流れるように進んでいた。最後の縫合を終えた。俺はマスクを下ろし、順一の顔を見た。穏やかな顔だった。あの村で見た顔と同じだった。

順一が一般病室に戻ったのは、術後五日目のことだった。病室からさえの声が聞こえて、足を止めた。ドアはわずかに開いていた。

「ねえ、ちょっとこっちに座りなさい」

「お父さん、まだ無理しないで」

「無理じゃない。話しておかなきゃいけないことがある」

椅子を引く気配がした。

「執刀してくれたのは、火山先生だそうだな」

「ええ、そう。お父さん、私本当に驚いたの。あの方があんな技術を持っていたなんて」

「驚いただろうな。お前は何も知らなかったんだから」

「どういうこと?」

順一はゆっくりと話し始めた。

「お前は覚えているか?私が十年ほど前、海外の医療支援団体の医師として行って、現地で倒れたことを」

「ええ、覚えてる。命を落としかけたって」

「あの時、私を助けてくれた医師がいる。その人は限られた機材で、不可能と言われた手術をやってのけた。私の命をつないでくれた」

「お父さん、それって……」

「火山竜平先生だ」

廊下に立ち尽くした俺の耳に、さえが息を飲む音が届いた。

「どうして教えてくれなかったの?」

「あの人に頼まれたんだ。娘には言わないでくれと。自分は普通の医師としてこの病院で働きたいと」

「でも、なぜ?なぜ隠す必要が……」

「あの人なりの覚悟だろう。海外で名を馳せた医師という肩書きが、現場では邪魔になることもある。それに、お前と接する時にその肩書きが間に入るのを嫌ったのかもしれん」

順一は小さく笑った。

「この病院に火山先生が来たのも、私が紹介したからだ。あの人にもう一度、医師として歩いて欲しくてな。それも、お前には言わずにおいた」

「お父さん……」

「すまんかったな。だが、お前があの人をどう見るか、それはお前自身に決めて欲しかった」

俺はそれ以上聞いていられず、廊下を静かに歩き出した。背後で、さえの小さな嗚咽が聞こえた気がした。ナースステーションの前で、高坂が立っていた。彼女は俺を見て、ただ静かに微笑んだ。

「いいご家族ですね。神宮寺先生のご家族は」

「ええ、本当に」

「先生、ロッカーの封書、開けてみる気になりましたか?」

「ええ、そろそろ開けてみようと思っています」

窓の外の桜のつぼみを見上げた。一輪、もう開きかけているものがある。

その日の夕方、俺が屋上に上がると、さえが立っていた。俺が近づくと、彼女はゆっくりと振り返った。

「火山先生、すみません。父から全部聞きました」

「お父様、お元気そうで何よりです」

「私、ずっとあなたに失礼な態度を取っていました。覇気がないとか、芯がないとか、あんなこと。あなたは医師として、正しいことを言っていただけです」

「気にしていません」

さえは首を振った。

「いえ、私はあなたの何も見えていなかった。父の命を救ってくれた人なのに、私はずっと……」

彼女の声が途切れた。一筋の涙が頬を伝った。俺は何も言わずに、彼女の隣に立った。夕日が、二人の影を屋上の床に長く伸ばしている。

「教えてください。なぜ、あの時引き受けてくれたんですか?」

「あなたが執刀すると言った時の顔を見たからです」

「私の顔?」

「あれは医師の顔じゃなかった。娘の顔でした。父親を自分の手で失うかもしれない、娘の顔。あれを見ていられなかった」

さえの目に、また涙が溢れた。

「それに、あなたのお父様と昔、約束をしたんです。あなたが困っていたら、助けてやってくれと」

「父が、そんなこと……」

「ええ。口に出した約束ではありませんが、約束は約束です」

数ヶ月後、桜はとっくに散り、青葉の季節になっていた。俺は医局のロッカーからあの封書を取り出した。机の前に座ったさえが、こちらを見て微笑んだ。氷の女と呼ばれていた頃の硬さは、もうどこにもなかった。

「開けてみましょう。二人で」

「ええ」

封を切ると、英文の手紙が滑り出した。あの村からの、再びの協力要請だった。俺はさえの顔を見た。さえは迷いのない目で頷いた。

「行きましょう。二人で」

「いいんですか?」

「父もきっとそれを望んでいます。それに、私もあなたの隣で見たいんです。あなたが本当にいた場所」

俺は彼女の手をそっと握った。窓の外で、若い葉が風に揺れていた。廊下を歩いてきた高坂が、小さく頷いた。彼女は誰にともなく、独り言のように呟いた。

「やっと笑いましたね、神宮寺先生」

俺の手の中で、さえの指が温かかった。窓の外を、白い雲がゆっくりと流れていく。

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