研修医になったばかりの頃、俺は医者という仕事をかっこいいものだと思っていた。白衣を着て聴診器を首にかけて廊下を歩くだけで、何者かになった気がしていた。だが神谷里子の隣に立つと、その感覚はあっという間に消えた。
彼女はすでに一歩先を歩いていた。同じ指導医のもとで研修を受けていたが、里子の動きは違った。患者の顔を見て、名前を呼ぶ。カルテの数字だけじゃなく、その人の生活を聞く。忙しい病棟の中で、それを当たり前のようにやっていた。
俺の名前は高梨涼一。大学病院に勤務する医師だ。誰かが「神谷先生は患者に時間をかけすぎる」と言っていた。俺は違うと思った。あれは時間をかけているんじゃない。ちゃんと見ているだけだ。俺にはそれができなかった。カルテを読んで数値を確認して処置をこなす。それで精一杯だった。だから余計に彼女の姿が眩しかった。尊敬と何かが混ざった感情を、俺はうまく説明できないまま、ただ彼女の背中を目で追っていた。
ある日の回診後、彼女が振り返った。
「高梨君、さっきの患者さんの話、聞いてた?」
「え? ああ、あの初診の話ですよね」
「違う。お孫さんの運動会、来週なんだって。それが分かってたら、退院のタイミングも変わるでしょ」
彼女は責めているわけじゃなかった。ただ当たり前のことを言っているだけだった。それが却って俺の胸に刺さった。好きだったのかと問われれば、そうだと思う。でもそれより先に、追いつきたいという気持ちの方が強かった。彼女が見ているものを、俺も見たかった。言葉にする資格がまだ自分にはないと思っていた。
その別れは突然だった。ある朝、ナースステーションに行くと、ベテランの鈴木花江さんが難しい顔をしていた。
「高梨先生、先生のこと聞いた?」
「やめるって」
「やめる? なんで?」
「僻地に行くんだって。医療が足りていない地域に」
頭の中が一瞬白くなった。
その日の午後、俺は里子を廊下で捕まえた。本当のことを確かめたかった。
「神谷さん、本当にやめるんですか? なんで急に?」
「急じゃないよ。ずっと考えてた。ここにいる患者さんは、ここじゃなくても見てもらえる。でも私が行く場所には、誰もいない」
静かな声だった。迷いがなかった。
「あなたは患者さんの話をちゃんと聞こうとしてるから、ちゃんとした医者になれるよ」
そう言って彼女は小さく笑った。俺が気づいていなかっただけで、彼女は見ていた。引き止める言葉を探したが、出てこなかった。彼女の背中が廊下の向こうに消えていく。俺はその場に立ったまま、ただ見送ることしかできなかった。
それから10年が経った。今は大学病院の外来を担当している。あの日の里子の言葉は何度も思い出した。患者を前にして迷った時、自分の診断に自信が持てない時、疲れて帰り道に足が重くなった時、彼女のことを忘れたことは一度もない。でも探しもしなかった。彼女がどこにいるかは分からなかったし、追いかける資格があるとも思えなかった。
「先生、待ってるの?」
「神谷先生のこと、ずっと気にしてるでしょ」
花江さんがそう言ったのは、春の終わりの夕方だった。外来が終わり、ナースステーションで書類を片付けていた俺に、彼女は当たり前みたいに言った。図星だった。否定できなかった。
「今度始まる地方医療の支援プロジェクト、知ってる? 藤堂教授が今年も参加者を募集してるって。医者としてもいい経験になるわよ」
彼女はそれ以上何も言わなかった。ただ立ち上がってカルテを棚に戻した。その夜、俺は藤堂教授の部屋をノックした。
「先生、地方医療の支援プロジェクトに参加させてください」
教授は少し驚いた顔をしてから、静かに頷いた。
「そうか。ようやく決めたか」
行き先はまだ分からない。里子がそこにいるかも分からない。それでも俺は動かなければいけないと思った。俺はまだまだ経験を積む必要があると思っていた。
村に着いたのは10月の終わりだった。山を登るにつれて空気が変わった。澄んでいて冷たくて、東京では嗅いだことのない匂いがした。支援プロジェクトの担当者に案内された先は、山奥の小さな集落だった。民家が数十件、細い道沿いに並んでいる。コンビニも信号もない。診療所は集落の橋のたもとにあった。古びた木造の建物で、看板だけがまだ新しかった。
扉を開けると、消毒液の匂いがした。待合室には、お年寄りが3人静かに座っている。奥から足音が聞こえた。白衣を着た女性がカルテを手に歩いてきた。
俺は息が止まった。10年分年を重ねている。髪が少し短くなって、目元に細いしわが増えた。それでもその人だと分かった。歩き方も、全部、俺が10年間忘れられなかったものだった。頭の中が真っ白になった。ここにいるはずがない。でも、いる。夢かと思った。
「新しい方ね。いらっしゃい」
彼女の声が途切れた。俺たちはお互いに動けなかった。数秒が夜のように長く感じた。
「神谷さん」
声がかすれた。
「高梨君」
しばらく2人とも言葉が出なかった。待合室のお年寄りたちが不思議そうにこちらを見ている。それでも俺は動けなかった。10年間この人のことを考えてきた。どこにいるのか分からなくて、追いかける資格もないと思って、それでも忘れられなかった。その人が今、俺の目の前に立っている。
「支援プロジェクトで来ました。まさか先生がここにいるとは」
言葉が続かなかった。
「私もまさかあなたが来るとは思わなかったわ」
彼女は小さく笑った。昔と同じ笑い方だった。その笑顔を見た瞬間、俺の胸の奥で、長い時間をかけて固まっていた何かが、ゆっくりと解けた。
診療の合間に少しだけ話した。彼女がここに来たのは8年前だという。最初は1年のつもりだったが、離れられなくなった。村の医者は彼女1人で、住民たちの顔と病歴と生活を全部頭に入れて見ている。都会の病院とは違う医療が、ここにはあった。
「大学病院、どう? うまくやってる?」
「それなりに。でもここに来て、自分が恵まれた環境にいたか分かった気がします」
彼女はそれを聞いて少し目を細めた。
「成長したね、高梨君」
その一言がじわりと胸に染みた。
翌日から、俺は里子の診療を手伝うことになった。診療所の設備は大学病院とは比べ物にならない。古い血圧計、限られた薬剤。CTもMRIもない。それでも里子は手と目と耳を使って患者を見ていた。問診に時間をかけ、細かい変化を見逃さず、必要なら車で1時間の総合病院へ搬送の手配をする。限られた中でできることを全部やっていた。
村長の山本さんが診療所に顔を出したのは3日目だった。68歳、がっしりした体つきで、日焼けした顔に深いしわが刻まれている。
「先生の知り合いか、あんた」
「はい。昔同じ病院で働いていました」
「そうか。神谷先生には本当に世話になっとる。あの先生がいなかったら、この村はもう終わっとったかもしれん」
静かな重みのある言葉だった。
「年寄りばかりの村でな、病院まで行くのも一苦労なんだ。でも神谷先生は呼べばどこへでも来てくれる。夜中でも雨の日でも」
俺は黙って聞いていた。里子がこの村でどんな8年間を過ごしてきたか、少しだけ見えた気がした。
花と出会ったのはその翌日だった。10歳の女の子で、診療所の前で里子を待っていた。定期的に見てもらっているらしく、里子の顔を見るなり走り寄った。
「先生、今日も来た」
「ちゃん、待ってたの? また熱が出た?」
「違うよ。おみかん持ってきたの。うちの畑のやつ」
里子はそれを受け取って、花の頭を撫でた。花は嬉しそうに笑い、俺の方をちらりと見た。
「この人、誰?」
「先生のお友達。医者さんだよ」
「ふーん。先生みたいに優しい?」
俺は思わず苦笑いした。
「努力します」
花はそれを聞いてにっこり笑った。診療所に入りながら、里子も笑った。
「花ちゃんに合格もらえたら、この村ではもう大丈夫よ」
その言葉が冗談に聞こえなかった。村の人たちは里子を信頼している。その子が認める人間を、村の人たちも受け入れる。それだけのものを、彼女はここで築いてきたのだ。限られた設備の中で、1人で8年間。俺には想像もできない時間だった。
村に来て2週間が経った。診療を重ねるうちに、俺の中で何かが変わっていった。大学病院では専門が分かれている。内科、外科、循環器、消化器。それぞれの専門家がそれぞれの領域を見る。でもここでは違う。1人の患者の全部を、1人の医者が見る。その重さと充実感は、都会では味わえないものだった。
ある日、診療所の片付けを終えた後、里子と2人で外に出た。山の空気は冷たく、星が異様なほど多かった。
「どうだった? 2週間」
「正直に言うと、自分がいかに狭い場所で医療をやってきたか、思い知らされました」
里子は黙って星を見ていた。
「俺、ここに残りたいと思ってるんだ」
しばらく沈黙があった。
「それは医師としての理由?」
「それだけじゃない」
俺は里子の方を向いた。10年間ずっと言えなかった言葉が、今なら言える気がした。
「ずっと、あなたのことを考えてた。大学病院からここに来たのも、医師として成長したかったからだけじゃない。もしかしたらあなたに会えるかもって、そう思ったからです」
里子はしばらく動かなかった。夜風が吹いて、木々がざわめいた。
「知ってた」
「え?」
「高梨君がいつかここに来ると思ってた。根拠なんてないけど、なんとなくそんな気がしてたの」
彼女はそう言って、照れくさそうに笑った。
「私もずっと待ってたのかもしれない」
俺の胸が大きく鳴った。言葉が出なかった。2人の間に流れた沈黙は、心地よかった。星明かりの下、俺たちは長い時間並んで立っていた。
数ヶ月後、結婚式の準備が始まると、村全体が動き出した。花江さんから連絡が来た時は驚いた。里子が俺との結婚を報告したらしく、「おめでとう、先生」と一言だけ書いてあった。藤堂教授からも短いメッセージが届いて、「やっと決めたか」という言葉だった。
村長の山本さんは、里子から話を聞いた翌日、診療所に顔を出した。
「式の準備は俺に任せろ。この村で一番の晴れ舞台にしてやる」
うむを言わさない口調だった。里子が「小さくていいんですよ」と苦笑いしても、山本さんはもう聞いていなかった。
花ちゃんはそれからというもの、毎日診療所に来るようになった。
「先生、花束持つ人、私がやっていい? 絶対ちゃんとやるから」
「花ちゃん、まだ式まで時間あるよ」
「でも早めに言っとかないと、他の人に取られちゃうもん」
俺は思わず吹き出した。この村に来てよかったと、心の底から思った。
そんなある夜のことだった。里子が押入れの奥から古い箱を取り出してきた。木でできた小さな箱で、角がすり切れている。
「ずっと見せようか迷ってたんだけど」
そう言いながら、里子は箱をテーブルの上に置いた。蓋をゆっくり開ける。中には3つのものが入っていた。1つはクレヨンで描かれた似顔絵だった。丸い顔に棒のような手足で笑っている絵の隣に「先生」と小さく書いてある。1つは折りたたまれた便箋で、紙が黄ばんでいて、文字はひらがなだらけだった。そして最後の1つは、半分に割れたお守りだった。
俺はそれを見た瞬間、時が止まった。
「これって」
手が震えた。割れたお守りに見覚えがあった。いや、見覚えどころじゃない。残りの半分がどこにあるか、俺は知っていた。子供の頃、入院していたことがある。事故で足を骨折して2週間ほど。同じ病室に、小さな女の子がいた。不安でいつも泣いていた。何かしてあげたくて、母親に買ってもらったばかりのお守りを半分に割って、片方を渡した。幼稚な慰め方だったかもしれないが、女の子は泣き止んだ。その子の名前を、俺は覚えていなかった。
「里子さん、これ、どこで?」
里子は答えなかった。しばらくテーブルの上のお守りを眺めていた。それからゆっくりと口を開いた。
「私ね、子供の頃、大きな病気をしたの。長く入院して、怖くて毎日泣いてた。親も仕事で忙しくて、病室にいつも1人だった」
俺は黙って聞いていた。
「そこに男の子がいたの。骨折で入院してた。明るい子。私が泣いていると、必ず話しかけてくれた」
胸の奥で何かが動いた。
「その子がある日、お守りを持ってきて、半分に割って渡してくれたの。『半分にしよう。これで怖くない』って」
俺の手が無意識に握りしめられた。
「それで2人で約束したの。『大きくなったら2人で医者になろう』って」
部屋の中が静まり返った。覚えていた。確かに言った。病室のベッドの上で泣いている女の子に向かって、何の根拠もなく言った言葉だ。子供だったから言えた軽い約束のつもりだった。でも里子は覚えていた。
「俺だったのか」
「大学病院で初めて会った時、すぐに分かった。顔が変わっても、話し方が同じだったから」
「なんで言わなかったんだ?」
里子は少し間を置いてから、静かに答えた。
「言ったら、あなたが気を使うと思って。それに、自分の力でここまで来て欲しかった。約束があったからじゃなくて、本当にそうなりたくて動いた人に、ちゃんとなって欲しかったから」
それだけで、何も言えなかった。里子は俺自身が成長することを、ただ信じて待っていたのだろう。
「ずるいな」
「え?」
「1人で全部知ってて、1人で待ってたなんて、ずるいだろう」
里子は少し目を丸くして、静かに笑った。
「ごめんね」
俺は割れたお守りを里子の手からそっと受け取った。ポケットを探ると、財布の中に入れていたもう片方が出てきた。ずっと捨てられなかったものだ。2つを合わせると、ピタリとはまった。1つになった。
結婚式は12月の晴れた日に行われた。村の小さな集会所が花で飾られていた。山本さんが朝から準備をして、花ちゃんが花束を胸に抱えて入り口に立っていた。里子が姿を見せると、花ちゃんが声をあげた。
「先生、すごく綺麗。絶対一番綺麗だよ」
「ありがとう、花ちゃん」
白いワンピースを着た里子は、診療所で白衣を着ている時とは違う顔をしていた。村人たちが次々に集まってきて、顔見知りのお年寄りたちが口々に声をかけてくれる。山本さんが俺のそばに来て、低い声で言った。
「高梨先生、神谷先生のこと、頼みますよ。この村の宝ですから」
「はい。俺の宝でもありますけどね」
山本さんは目を細めて笑った。
式は飾らないものだった。俺たちは向かい合った。里子の手にお守りを握らせた。2つが合わさったままのそれを。
「子供の頃の約束、やっと果たせた」
里子は目に涙を溜めながら頷いた。
「遅いよ」
「ごめん。でもちゃんと来ただろう」
「うん。来てくれた」
周りから拍手が起きて、花ちゃんが「やったー」と叫んだ。奇跡だと思う。でも奇跡だけじゃない。里子が信じて、俺が動いた。冬の陽が集会所の窓から差し込んでいた。里子の横顔が光の中にあった。俺たちの新しい人生が、静かに始まった。


