「母さんは俺が守るから。」
元夫と離婚して以来、ずっと二人で暮らしてきた息子の頼もしい言葉に支えられながら、私は生きてきた。その息子が、嵐の夜に川に流されたと連絡が入った。
「どうして川に?」
「それが分からないんです。急に川に向かって歩き出して…」
電話の向こうで、嫁の美穂が泣きじゃくりながら混乱した様子を見せている。私は電話を切り、すぐに東京へと向かった。
それから数日間、優一が流されたという川の付近や河口まで、警察が捜索してくれているのを、私は祈りながら見つめていた。しかし、優一は見つからず、海に流されたものとして捜索が打ち切られた。
信じたくなかった。それでも、唯一のいない現実が、私の心を沈めていった。家に帰ってからも何も手につかず、私はただただ悲しみに暮れていた。
三年後、私のスマホが鳴った。画面には見知らぬ番号が表示されている。普段なら知らない番号には出ない私なのだが、この時は出なくてはいけないと思った。
「母さん」
電話口から聞こえてきた声に、私は驚いてしまった。
「連絡できなくてごめん。でも、ずっと見守ってたよ。」
それは確かに、優一の声だった。
私は野崎ひろ子、六十三歳。パートをしながら一人暮らしをしている。
二十五年前までは、私にも愛する家族がいた。私が夫と結婚したのは、四十年前のことだ。当時、夫は中小企業の会社員として働き、収入は決して多くはなかったものの、私を養っていくため、毎日必死に働いてくれていた。息子の優一が生まれてからは、父親としての責任を果たそうと、一層仕事に打ち込んでいた。
しかし、優一が小学四年生になった頃から、夫の様子がおかしくなっていった。仕事から帰ってくると、当然のように私に罵声を浴びせ、優一には目もくれず、笑うこともなくなっていった。休日であっても自室にこもり、家族との時間を避ける夫に、私は不満が募っていった。そしてある日、その不満を夫にぶつけた。すると夫は、日頃の鬱憤を晴らすかのように、私に暴力を振った。
それ以来、夫は毎日のように私や優一に手を上げるようになった。優一は夫の顔色を見ながら生活するようになり、家族はバラバラになっていった。次第に優一は笑顔を見せなくなり、私は母親として息子を守らなくてはならないという思いが湧き起こった。
しかし、夫と何度も話し合いを行っても、一切聞き入れてもらえず。優一が中学生に上がってすぐ、ついに私は離婚を決意した。妻としての自分と、母親である自分の葛藤はあったが、私は息子の将来を優先した。
離婚を切り出した時、夫は激しく抵抗して見せた。しかし、それまでの暴力を警察に訴えると言うと、あっさりと離婚を受け入れた。
それからは優一と二人で暮らしてきた。生活は決して楽なものではなかったが、それでも夫に怯えることがなくなり、優一は次第に笑顔を取り戻していった。「母さんは俺が守るから。」優一が言ってくれた言葉が、私の生きる支えだった。
私は優一の将来を支えるため、パートを掛け持ちし、必死に働いた。優一が大学に行きたいと望んだ時のために貯金もして、夫がいなくても立派に子育てができることを証明したかったのかもしれない。しかし、そんな私の苦労をそばで見ていたせいか、優一は高校を卒業すると企業に就職することを選んだ。大企業の地方支社とはいえ、高卒では出世も難しいと言われている企業だっただけに、私は優一の将来を心配した。しかし優一は「頑張った分ちゃんと評価してくれるいい会社だ」と入社を決めた。おそらく優一なりに、私に余計な苦労をかけまいと考えてくれたのだろう。大学に行けば多額の費用が必要となる。奨学金を受けたとしても、私の収入では賄うことが難しいと判断したのかもしれない。しかし本心では、大学に行きたかったはずだ。優一は子供の時から人の役に立つ仕事に就くことが夢だった。それなのに、夫との離婚が優一の夢を壊してしまったのかもしれないと、私は後悔していた。
「ごめんね。お父さんと離婚しなければ、他の子みたいに大学に行かせてあげられたのに。」
「母さんが謝ることはないよ。これは俺が決めたことなんだ。父さんと離婚してくれてよかった。おかげで毎日平穏に過ごせてるんだ。」
優一は私に責任を感じさせないように、優しい言葉をかけてくれた。しかし、その優しさがまた私の心を苦しめた。
優一は昔から優しい子だった。夫の暴力を受け私が泣いていても、いつもそばで慰めてくれていたのは、他の誰でもない優一だ。まだ小さい体で夫の前に立ちはだかり、私を守ろうとしたこともある。それで自分が殴られることになっても、勇敢に立ち向かってくれた。そんな優しい息子の将来を、私が潰してしまっていることが悔しくて仕方なかった。
優一が就職して十年ほど経ったある日のこと。
「母さん、聞いてくれ。」
仕事から帰ってきた優一は、嬉しそうに顔を紅潮させていた。
「一体何だっていうの?」
「実は本社に異動が決まったんだ。」
優一は業績が認められ、東京本社へ移動が決まったと報告してきた。
「それはおめでとう。それで、いつから東京に?」
「それなんだけど、移動は辞退しようかと思ってるんだ。」
優一は、私を一人残して東京に行くのが心配だと、本社勤務を断るつもりだと言った。
「だめよ。あなたの努力が認められたのよ。こんないい話、もったいないわ。」
「だけど、母さんを一人残していくのは気が引けるよ。」
「いいえ。あなたは東京に行くべきよ。私の努力を無駄にしないで。」
本社に行けば、優一の未来も明るく輝くのではないか。そんな期待を抱いていた。
「本当にいいのか?」
「いいに決まってるわ。私のことなら心配しなくても大丈夫。優一がいなくても、一人でやっていけるわ。」
二度も優一の未来を潰すことはしたくなかった。私はあえてきつい言い方をして、優一の背中を押した。
そして数ヶ月後、優一は東京へと旅立ち、私は一人で暮らすことになった。正直なところ、優一がいない寂しさに押しつぶされそうで、自分を支えるのに必死だった。それでも優一は毎日連絡をくれ、お盆や正月には必ず帰ってきてくれる。仕事が多忙にも関わらず、私のことを心配し、東京での様子もちゃんと伝えてくれる。優一の変わらない優しさに、いつしか私の中に寂しさは消え、誇らしい気持ちさえ持てるようになっていた。
それから三年が経った頃、優一から嬉しい報告が舞い込んできた。以前より交際していた女性と結婚するという。優一が選んだ人なら、きっと素敵な女性に違いない。私は息子の結婚を心から祝福した。
数日後、優一は彼女を連れて帰ってきた。
「婚約者の美穂だよ。」
「初めまして。美穂です。どうぞよろしくお願いします。」
美穂は職場の後輩らしく、小柄で可愛らしく、話していてもその明るさが伝わってくる。
「おめでとう。二人で幸せな家庭を築いてね。」
「ありがとう。美穂を泣かせないように頑張るよ。」
その半年後、優一は美穂と結婚し、東京に新居を構えた。結婚後もお盆や正月には毎年夫婦で帰ってきてくれて、その度に明るい笑顔を見せてくれる美穂のことを、私も気に入っていた。美穂は優一の健康を考え、食事や体調にも気を遣ってくれている。息子はいいお嫁さんに巡り合えたのだと、私は心から安心していた。
しかし、時が経つにつれ、優一の様子がおかしくなっていった。電話では元気な声を聞かせてくれていたのだが、会うたびに顔色が悪くなっていく。最初は体調を崩しているのかと思っていたが、数ヶ月後に再会した時には、さらに悪化していた。
「顔色が良くないみたいだけど、どこか悪いの?」
「大丈夫。なんでもないよ。」
優一は笑ってごまかした。しかし、私の中の不安は大きくなるばかりだった。
元夫が私に暴力を振るうようになったのは、仕事のストレスを抱えていたからだった。多忙な上に自分の思うように働けない苛立ちが、いつしか家庭という場で爆発した。思い返せば、元夫も最初は体調不良を訴えていた。まさか優一も、元夫と同じように何かに悩んでいるのではないか。そう思うと、放っておくわけにはいかなかった。優一が元夫のように暴力を振るうようになるのではないかと、心配になった。
それでも優一は、私がいくら問いかけても「大丈夫だ」というばかりで、何も答えてくれない。私はたまらず、美穂に相談することにした。
「優一のことで、何か気づいてることはない?」
「それが…お母さんには言わないでって言われてるんですが。」
美穂は何か知っているようだ。
「何かあるなら、教えて欲しいの。」
「実は、職場の人間関係に悩んでいるようなんです。」
美穂の話に、私は驚いてしまった。優一からは仕事も順調だとしか聞いていない。ましてや、これまで優一が人間関係で悩むことなど一度もなかった。
「上司とうまくいってないみたいで、色々大変なようで…」
美穂の話を聞き、私は優一と話をすることにした。
「ちゃんと食事は取れてるの?」
「あまり食欲が湧かないこともあるけど、大丈夫だよ。美穂が進めてくれたサプリも飲んでるし、体は問題ない。」
優一は一年ほど前から、美穂に進められたサプリを飲んでいるという。
「どんなサプリなの?」
「ビタミン剤なんだけど、ストレス解消にもいいらしい。」
優一はそう言うが、本当に効果があるのかは疑わしい。会うたびに顔色が悪くなっていることを思えば、悪化しているようにしか思えない。
「辛かったら逃げてもいいのよ。仕事なんて他にいくらでもあるわ。無理にそこに留まる必要なんてないの。」
私は優一に、元夫のようになって欲しくなかった。
「分かってるよ。本当に大丈夫だから、心配しないで。」
優一は優しい笑顔を見せてくれた。しかし、私の中の不安は尽きることがなかった。元夫の暴力を間近で見ていた優一だけに、同じ道を辿るのではないか。信じたい気持ちもあったが、血は争えないとも言う。そう考えると、優一が元夫のように暴力に逃げてしまうのではないかと、怖かった。
それからというもの、私は食事も喉を通らなくなっていった。何をしていても優一のことが気になってしまい、元夫から受けた暴力が思い出される。このままでは優一が壊れてしまう。そう思いながらも、何をしてあげたらいいのか分からず、ただただ思い悩む日々を送っていた。
ある日、仲のいい友人二人が家を訪ねてきた。どうやら元気のない私のことを心配してくれたようだ。
「子供のことが心配になるのは仕方ないけど。だけど、あなたが悩んでも何も解決しないわ。」
「そうよ。むしろあなたが元気じゃなきゃ、息子さんも余計に病んでしまうわよ。」
友人たちは私のことを励ましてくれた。
「そう言っても、心配してしまうのが親なのよね。」
「ねえ、三人で旅行でも行かない?一時だけでも息子さんのことを忘れて、気晴らしをするのも大事なことよ。」
正直なところ旅行に行く気分ではなかったが、友人たちの話には一理ある。私自身が病んでしまっては、優一を支えてやることなどできない。
数日後、私は友人たちと共に二泊三日の温泉旅行に出かけた。綺麗な景色を見て回り、美味しいものを食べていると、自然と気が晴れる。友人たちとの女子トークに花を咲かせながら、私は心が癒されていくのを感じた。旅行から帰ったらまた優一と話をしよう。東京の知り合いに頼んで、新しい職場を紹介してもらってもいい。私は前向きな気持ちを取り戻していた。
その翌日、土産物屋で商品を選んでいると、通りの向こうに美穂に似た女性を発見した。旅行のことは優一や美穂には伝えていなかったが、まさか偶然にも二人もここに来ているのかと思った。しかし、女性の横には見知らぬ男性がいた。美穂に似た女性は、その男性と仲睦まじく腕を組んで歩いている。まさか美穂が浮気しているのかと疑った私は、思わず優一に電話をかけた。
「今、お友達と旅行に来てるんだけど、美穂さんへのお土産は何がいいか聞きたくて。今、近くに美穂さんがいたら聞いてほしいなって。」
「美穂なら、今は寝たきりのお父さんの介護で実家に帰ってるよ。」
「そうなのね。じゃあ、お土産は適当に選ぶわ。」
美穂の父親が交通事故に遭い、寝たきりであることは以前から聞いていた。その父親の介護に帰省している美穂が、遠く離れたこの場所にいるはずがない。優一のことを一生懸命考えてくれている美穂が浮気するとも思えず、私は目撃した女性は他人の空似だったと思うことにした。
数ヶ月後のお盆休み、優一と美穂はいつものように私の家に帰ってきた。
「お父さんの具合はどう?」
「おかげ様で、だいぶ良くなりました。」
美穂は以前と変わらない笑顔を見せてくれている。やはり旅行先で見かけた女性は美穂ではなかったのだと、私は確信した。
「顔色が悪くなってるみたいだけど。」
「最近、なんだか疲れやすくてね。けど、大丈夫だよ。」
「そう。提案なんだけど、しばらく休暇を取ってこっちに帰ってきたら?仕事を忘れる時間も必要よ。」
会社を辞めることはできなくても、休暇を取ることはできるのではないか。都会の喧騒から離れ、ゆっくり過ごす時間が優一の心も癒してくれるかもしれない。そう考えての提案だった。優一は「考えておく」と笑顔を見せてくれ、美穂と共に東京に帰って行った。
それから一ヶ月後、大型の台風が日本を襲った。日本列島を縦断した過去最大の大型台風は、各地に膨大な被害をもたらし、東京も例外ではなかったようだ。台風が去った後の報道では、目を背けたくなるような悲惨な現状が次々に報告されていた。
そんな中、美穂から優一が川に流されたと電話がかかってきた。
「どうして川に?」
「それが分からないんです。急に川に向かって歩き出して…」
電話の向こうで美穂は泣きじゃくり、混乱した様子を見せている。私は電話を切り、すぐに東京へと向かった。
美穂の話では、出先から一緒に帰る途中で、優一が突然家とは別の方向に歩き出したそうだ。美穂が止めるのも聞かず、優一は何かに取り憑かれたように川に向かったらしい。そしてそのまま、増水した川に足を取られ、流されたのだとか。
東京に向かう新幹線の中で、私は優一の無事を祈った。それから数日間、優一が流されたという川の付近や河口まで、警察が捜索してくれているのを、私は祈りながら見つめていた。しかし、優一は見つからず、海に流されたものとして捜索が打ち切られた。
信じたくなかった。最愛の息子が死んでしまったとは思いたくなかったのかもしれない。それでも、優一のいない現実が、私の心を沈めていった。家に帰ってからも何も手につかず、私はただただ悲しみに暮れていた。
そんな中、テレビでは横領事件が報じられていた。容疑者は野崎優一、三十八歳。私は耳を疑った。優一が会社のお金を横領していたと報じられている。何かの間違いではないか。優一がお金に困っている様子は見られなかった。たとえ困っていたとしても、人様のお金に手をつけるようなことは絶対しない。しかし、世間はそう思わなかったようだ。
その日を境に、連日のように週刊誌の取材の記者が自宅を訪ねてきた。近所では陰口を叩かれるようになり、自宅の壁には嫌がらせの落書きまでされる。それと合わせて無言電話もかかってくるようになり、私は頭がおかしくなりそうだった。SNSでは、会社のお金を横領した罪に耐えかねた優一が、台風で増水した川に身を投じて自殺したのではないかと噂が流れ、世間の風当たりはますますひどくなっていった。
美穂は時折り私を訪ねてきては励ましてくれていたが、彼女自身もショックを隠せない様子で、私と顔を合わせるのも辛かったのだろう。次第に私の元を訪ねてくることもなくなっていった。パート先でも周囲から白い目で見られ、私は孤立を深めていった。
ある日、友人から電話がかかってきた。私を心配してかけてきてくれたようだが、その話の内容に衝撃を受けた。友人の話では、美穂が「夫や義母から虐めを受けている」と吹聴して回っているという。偶然耳にしたらしいが、あれほど仲が良かった美穂が、なぜそんな根も葉もない嘘を言っているのか、私には理解できなかった。SNSでも、優一が家庭内暴力を振っていたと噂が流れ、美穂は「亡くなった夫を悪く言いたくない」としながらも、まるで真実であるかのように告白していた。
私は戦慄を覚えた。私が気づかない間に、優一は精神を病み、美穂に暴力を振っていたのだろうか。会社のお金を横領したことが上司にばれ、それで悩んでいたのではないかと、疑念ばかりが浮かんでくる。警察の捜査では、優一の死因は明らかになっていない。問い合わせてみても、まだ捜査中だと言われるばかりで、真実が分からなかった。それでも、台風の日、川に向かった優一の行動を考えると、世間の考えが単なる噂だと思えなくなっていた。
それから三年の月日が流れ、世間はすっかり優一のことを忘れてしまったようで、私の生活も平穏を取り戻していた。
ある日、仕事から帰ると私のスマホが鳴った。友人からの電話かと思い画面を見ると、そこには見知らぬ番号が表示されている。普段であれば知らない番号には出ない私だったが、この時はなぜか出なければならないと思った。
「母さん。」
電話口から聞こえてきた声に、私は驚いてしまった。それは確かに、優一の声だった。
「優一なの?」
「連絡できなくてごめん。でも、ずっと見守ってたよ。」
優一は生きていた。台風の夜、優一は美穂と上司である岡田正典の凶行により、川に突き落とされたという。
「そんな…でも、どうして二人は…」
「二人は付き合ってたんだよ。だから、邪魔な俺を消したかった。」
優一の話では、美穂と正典はダブル不倫の関係にあり、それに気づいた優一を殺害しようと企んだらしい。川に突き落とされた優一は、台風の影響で川に迫り出していた木に掴まり、奇跡的に生還したという。
「とにかく、生きててよかったわ。今までどうしていたの?」
「実は、俺の体調が悪化してたのは、美穂に飲まされていたサプリが原因だったんだ。」
聞けば、美穂にサプリを飲まされるようになってから、優一は度々目まいや吐き気を襲われるようになり、同じ頃から仕事からの帰宅途中に度々暴行に襲われていたそうだ。その時は不運な出来事としか思っていなかったらしいが、台風の夜、美穂たちにより自分の命が狙われていたのだと悟ったという。そのため、生還した後も身を隠すことにしたのだそうだ。優一は職場で信頼できる同僚のアパートに泊めてもらいながら、彼の協力を得て、三年かけて横領の真犯人を突き止めていた。
「それじゃあ、横領もあなたがやったわけじゃないのね。」
「当然だろう。犯人は岡田正典だったよ。正典は美穂と不倫関係にありながら、会社のお金を不正に取得し、その罪を俺になすりつけたんだ。」
「でも、美穂さんは本当に悲しんでいる様子だったわ。」
「それは演技だよ。」
優一が姿を消した後も、美穂が私を訪ねてきていたのは、優一の遺体が見つかっていないことから、万が一生存していた場合を考えて様子を窺っていたのだろうと、優一は考えているようだ。
「それに、俺の死亡認定がされた時に生命保険を受け取るためにも、演じておく必要があっただろうから。」
優一は、美穂が保険調査員の印象を良くすることまで考えていたという。考えてみれば、美穂が訪ねてこなくなったのは、優一の失踪から一年が経過した頃からだ。川に流されていたことが明らかだった優一の失踪は、一年で死亡認定が下りる。おそらく美穂は、優一の保険金を受け取り、様子を見に来る必要がなくなったのだ。
「なんてこと…許せないわ。」
私はお腹の底から湧き上がる怒りを感じていた。
「俺もショックだよ。だけど、このままでは終わらせない。」
私と優一はスマホで連絡を取り合いながら、美穂と正典への反撃計画を立てた。直接会うと美穂たちに気づかれてしまうかもしれない。あくまで美穂には、優一が亡くなったものだと思わせておくことにした。
その後、優一は幽霊に変装し、正典の通勤経路や自宅周辺に姿を見せた。正典が一人になるタイミングを狙い、繰り返し姿を現し、彼に恐怖を植えつけていった。優一の思惑通り、正典は優一の霊に取り憑かれたと錯乱状態に陥っていた。お札やお守りを肌身離さず持ち歩くようになり、職場でも神頼みを欠かさなくなったのだとか。正典は元々小心者だったらしく、極度の睡眠不足と恐怖により、その精神は崩壊寸前だった。
正典はなんとか逃れようと美穂を頼ったようだが、美穂は「あの人を突き落としたのはあなた。私は何も知らない」と突き離したそうだ。
数日後、正典は私を訪ねてきた。
「優一さんのことは、本当に申し訳なかった。この通り、許してください。」
正典は私に土下座しながら、罪を告白した。正典は社長令嬢と結婚し、婿養子として地位を築きながらも、その生活に不満を抱き、美穂と不倫関係に陥ったのだとか。しかし、妻の要求に答えながら美穂との関係を続けるためには、お金が必要だった。そこで会社のお金に手を出したが、それが社長にバレてしまっては、自身の地位も破滅してしまう。それを知った美穂と、優一を殺害し、罪を着せようと計画を立てたのだそうだ。そして運悪く、大型の台風が日本を直撃し、計画が実行された。
「全て、美穂が仕組んだことで、俺は彼女に従っただけなんだ。」
正典は号泣しながら、許してくれと懇願してきた。
「いえ、許せないわ。」
私は冷たく言い放ち、正典を追い返した。
「証拠は取れたわね。」
「ああ、完璧だ。」
実は私は、正典の自白を全て録音していた。隣の部屋に身を隠していた優一にその証拠を渡し、私たちの計画は第二段階へと進んでいった。
優一は社長の岡田に連絡を取り、翌日直接会うことになった。社長に全ての事実を伝え、その証拠として録音した音声を聞かせる。
「なんてことだ。こんなことが許されていいはずがない。」
社長はひどく怒り、その場に正典を呼びつけた。そして正典に解雇を言い渡した。
その後、社長が開いた記者会見により、優一の生存が世間に知れ渡り、横領の犯人が正典であったことも公表された。
翌日、美穂が慌てた様子で私を訪ねてきた。
「優一さんは生きてるって、ずっと信じてました。」
生命保険を受け取っていながら、何食わぬ顔で演技をする美穂に、嫌悪感すら湧いてくる。
「これからは、家族三人仲良く暮らしましょう。」
作り笑いを浮かべながら私の手を取ろうとする美穂を、私は激しく睨みつけた。
「あなたの本性は、とっくにバレてるわ。」
私の声に合わせ、隣の部屋から優一が姿を現し、正典の自白の音声を流した。
「君たちの罪は、きちんと償ってもらう。」
「違うのよ。私は何も知らない。」
美穂は顔面蒼白になりながら、必死に自分は無関係だと訴えている。
「あの男は嘘がうまいの。だから、信じないで。」
不倫も優一の殺害も、全部正典の妄想だったと言いたいのかもしれないが、それは無理よ。
「あの日、君と正典が二人で俺を川に突き落としたんだ。それは間違いない。」
自分たちが殺害しようとした優一を前にしても、嘘を突き通す美穂に呆れながら、私は警察に通報した。
美穂は殺人未遂で逮捕され、ほどなくして正典も殺人未遂と横領の罪で逮捕された。その後の警察の捜査で、正典は義父である社長にも薬物を投与し、その椅子を奪おうとしていた計画も発覚したそうだ。美穂の不倫の事実が妻である社長令嬢に気づかれそうになり、焦った正典は社長殺害を企てたらしい。警察の取り調べでは、美穂と正典は互いに責任をなすりつけ、自分はむしろ被害者だと主張したようだが、そんな勝手な言い分が通るはずがない。警察は二人を起訴し、その後行われた裁判では、二人に実刑判決が言い渡された。
その後、私は家庭裁判所に失踪宣告の取り消しを申し立てた。これにより、優一の社会的身分は復活し、同時に美穂との婚姻関係も復活した。優一はすぐさま美穂との離婚を成立させ、美穂が相続した財産のうち残っている分は返還されることとなった。生命保険に関しては、美穂がすでに受け取っていたが、保険会社から美穂に対して返還請求が出されるものの、優一がその義務を負う必要はないとのことだった。
数日後、優一は会社から横領疑惑についての正式な謝罪を受け、元の職場に復帰を果たした。三年というブランクはあるものの、それまでの功績が評価され、優一は正典の後任席となった部長職に就くことになった。
しばらくして、優一は郊外に一軒家を購入した。中古ではあるが、自然豊かな土地に建てられた、落ち着いた雰囲気のある家だ。そこなら東京の職場に通うのも難しくないという。
「母さんも、こっちで一緒に暮らさないか。」
優一は、私と一緒に暮らすために家を購入したのだ。「母さんは俺が守る。」中学時代の優一の言葉が思い出される。
優しく頼もしい息子に支えられながら、私の生活は穏やかなものとなった。これからも、息子と二人、互いに支え合いながら、笑顔で暮らしていくことができそうだ。



