「新井さん、聞きました?今度視察が来るらしいですよ」
若い部下が話しかけてきた。俺は作業の手を止めて、額の汗を拭った。
「視察?珍しいな。誰が来るんだ?」
「最近経営企画部長になった人だって聞いてます。人手不足も続いてますし、人員を増やすかどうか見に来るんじゃないですかね」
「なるほどな。まあ、俺たちはいつも通り仕事をするだけだ。ほら、作業に戻って」
俺はそう言って、また黙々と手を動かし始めた。
数日後、視察にやってきたのは、冷たい印象の男だった。本社から来た森本部長。工場長の紹介にも、腕を組んで無言のまま。工場の機械には目もくれず、手元の書類だけを見つめている。
「なんか怖そうな人ですね」
部下が小声で言う。確かに睨むような目つきは気になったが、真面目なだけかもしれない。部長になったばかりで緊張しているのかも。俺はそう思うことにした。
この時の俺は、何も分かっていなかった。森本が決して真面目な男ではないということを。
その日の夕方、定時を迎えようとした頃、工場長に呼び出された。
「実は、森本部長が君を名指しで呼んでいるんだ」
工場長は困った顔をしている。なぜ俺なのか、工場長にも分からないらしい。給与などの人事データを見ていたら、急に顔色を変えたのだという。
「分かりました。行ってきます」
俺は足早に事務所へ向かった。
事務所に入ると、険しい表情の森本が待っていた。
「君が新井君か。最終学歴は高校卒業とあるが、事実かな」
着席するなり、そう問われて面食らう。
「ええ、事実ですが、それが何か」
「しかも年収が2000万を超えている。そうだね」
俺の言葉を遮るように、森本は続ける。
「率直に聞くが、高卒のくせに年収2000万の価値があるとでも思うかな?というか、なんでこんなに年収が高い?何かやましいことでもしてるんじゃないだろうな」
子供の頃にバカにされた時のトラウマが、じわりと胸に広がる。手に力が入った。
「何がおっしゃりたいんですか?」
俺が短く問うと、森本は鼻で笑った。
「だから、首だ。ここまで言わなければ分からないか」
その瞬間、俺は顔を上げた。心の傷をえぐられるような気持ちだったが、逃げるわけにはいかない。
「私はこの会社に入社して20年になります。その間、一級整備士の資格を取得し、実績を積んでまいりました。それは少し調べれば分かることです。年収2000万は確かに驚かれるかもしれませんが、正当な評価のもと頂いているものです」
丁寧に説明すれば分かってもらえると思った。だが、森本は一蹴した。
「黙れ。何が一級整備士だ?やめたくなくて必死だな。仮に一級整備士の話が本当だとしても、年収2000万はありえない」
あまりに馬鹿にした態度に、俺は言葉を失った。森本はその表情が面白かったのか、吹き出す。
「いやはや、視察に来た甲斐があったものだ。部長になって早々、上から人員を削減しろと言われた時はどうしようかと思ったが、君のような人間がいたとはな。高卒なら高卒らしく、それなりの仕事をして暮らせばいいのだ」
どうやら裏に上層部の指示があるらしい。俺は静かに森本を睨みつけた。
「新井君のことは上に報告する。精査するから覚悟しておくように。不正に年収を得ていたと明らかになったら、その時は覚悟しておくんだな」
森本は笑い声をあげながら足を組み替えた。自分の発言に間違いがないと確信しているようだ。
俺は20年かけて積み上げてきたものを、この男は理解しようともせずに踏みにじった。こんな男は許せない。
「長年お世話になりました」
俺は短くそれだけ言った。
その瞬間、森本は少し面食らった顔をした。もっと食い下がってくると思ったのだろう。だが、俺にはもう決めたことがある。
「高卒だからという理由で私に首だと言い放ったこと、私は決して忘れません。精査も好きにすればいい。しかるべきところに相談させていただきます」
俺の言葉に、森本は笑い始めた。
「なんだ?弁護士にでも相談するとか?君のような高卒の話なんぞ、まともに聞いてもらえないだろうよ。向こうだって勝ち目のない話なんか相手にしないさ」
俺は大笑いしている森本を尻目に立ち上がり、そのまま黙って事務所を出た。
工場の駐車場に出ると、風が頬を撫でた。20年分の記憶が走馬灯のようによぎっていく。先代社長の顔、先輩たちの顔。何度も頭を下げながら技術を学んだあの日々。もう十分だ。
退職届を出し、しかるべき手を打つ。それが今の俺にできる唯一の筋の通し方だと思った。
あれから1ヶ月が経った。俺の選択は間違っていなかったと思う。
森本は現場を何も分かっていなかった。うちの整備工場は人手が足りないくらいなのに、人員削減しろと言うのだから。そんな人間の元で長く働こうとは思えなかった。
そんな時、スマホに着信が来た。昨日から何度もかかってくる、いわゆる鬼電だ。着信拒否しても、別の番号でかかってくる。相手は分かっている。留守電にメッセージが入っていたからだ。
俺はしびれを切らして電話に出た。スピーカーモードにし、録音機器を作動させる。
「森本部長、いい加減にしてください」
そう、相手は俺の退職のきっかけを作った森本その人だった。
「やっと出た。おい、頼む。戻ってきてくれ」
森本は一方的にまくし立てる。
「実は大変なことになっているんだ。お前がやめてから、何人も退職の申し出が出て、それに定期検査が…まさか本当にお前が一級整備士だったなんて」
「分かりやすく話していただけますか?」
俺は冷たく告げる。まあ、およその内容は推察できる。森本は大きく息を吐き、改めて説明した。
まず、一級整備士の俺が抜けたことで、特定の定期検査が実施できなくなった。代わりの人間を探しているが、そう簡単に見つかるわけもない。
次に、俺がやめたことをきっかけに、何人もの整備士が退職を訴えているらしい。俺が森本に呼ばれた時、工場長がこっそり事務所に来ていて、森本の発言を聞いてしまったのだ。それが工場内に広がった。
「そうですか。それは大変ですね。でも良かったじゃありませんか。人員削減をしたかったんでしょ」
俺が皮肉を込めて言うと、森本が唸り声を漏らした。
「お、俺が人員削減したかったわけじゃない。上からやれと言うから…それにゼネコンが…」
最後の問題が、大手ゼネコンとの取引だった。会社が所有する特殊な大型建設機械の整備時期が迫っている。その整備は、元々俺に指名が来ていたのだ。
「俺が退職した以上、他の者に頼むしかないですが、仕方ありませんよね。森本部長は私に首だと言い放った。不当ですが、私は必要としているところへ行くだけです」
「頼む、待ってくれ。お願いだ」
森本が懇願する。事務所に呼びつけた時の威勢の良さはどこにもない。声は震え、今にも泣き出しそうだ。
「お前、弁護士にも依頼しただろ。会社に連絡が来た。挙げ句にゼネコン側からも、お前がいないとはどういうことだとクレームが来ている。それで上はカンカンだ。俺はもうおしまいだ」
「ええ、退職を決めてすぐに弁護士に相談させていただきました。幸い工場長が証言を申し出てくれましたし、不当解雇ですからね、これは」
「まさか本当に弁護士に頼るなんて」
「高卒だからと適当に私を選出したあなたが間違いだっただけです。学歴と年収が見合っていないと思ったのなら、少し調べれば理由も分かったはず。自業自得ですね」
俺がなぜ年収2000万超だったか。もちろん理由がある。整備士としての給与に加え、特殊な大型建設機械の整備案件をこなすたびにインセンティブが支給される契約になっていたからだ。国内でも扱える技術者が限られているその機械は、整備単価も桁違いに高い。大口取引先から直接指名を受けるたび、その報酬が反映されていたのだ。
それらを説明してやると、森本は絶句した。
「戻ってきて欲しいとのことですが、お断りします。まあ、それからこの通話は録音していますから、弁護士に提出させていただきますね」
「えっ」
森本の驚きの声に、俺は苦笑した。迷惑電話を鬼電してきた相手の電話に出るんだから、警戒して当然だろう。
森本はまだ何か言いかけていたが、俺はそのまま電話を切った。
さて、新しい仕事を探さないとな。俺は大きく伸びをした。
その後、本社社長から謝罪を受けた。
「あなたのように真面目で優秀な人を失ったのは、社長として私の責任です。誠に申し訳ありませんでした」
本社社長は、先代社長から俺のことを聞いていたそうだ。先代が繋いでくれた縁は、こんなところにも生きていたのか。胸の奥が静かに熱くなった。
社長が言うには、森本は懲戒解雇になったそうだ。不当な人事に加え、俺に対する不当な解雇通告、そして今回の混乱による損失の責任。かなり重いものだが、本人に言った通り自業自得だろう。裏にいた上層部も、責任を強く問われているらしい。
俺はと言うと、幸いなことにすぐに次の職場が見つかった。今回の事件を聞いた取引先の一つが声をかけてくれたのだ。来月から新しい職場でスタートを切る。
高卒だろうが、一度立ち止まろうが、歩き続ければ未来はある。それを教えてくれた全てに感謝し、俺はこれからも技術を磨こうと思う。



