72年生きて、自分の尊厳の値段はいくらなのだろう。小石静は今朝も4時半に目が覚めた。隣の布団はもう10年、開いたままだ。薄い天井板の向こうで誰かの排水管が音を立てる。その音が止むと、また静寂が戻ってくる。静は暗闇の中で天井を見つめていた。眠れない夜が続くようになったのは、いつからだろう。夫の尾が言った直後だったか、それとももう少し前、スーパーのレジを離れた頃からだったか。どちらにしても、今となってはあまり意味のないことだ。眠れなくても朝は来る。朝が来れば、また1日が始まる。
起き上がり、台所の電気をつける前に一瞬ためらう。夜明け前の電気代が惜しい。結局、手探りで戸棚を開け、コップに水道水を汲んで飲む。冷たい水が喉の中に落ちていく感覚だけが、今朝もちゃんと生きているという証拠だった。
皆さん、こんにちは。このチャンネルへようこそ。今日は千葉県のとある団地に暮らす1人の老夫婦の話をしたいと思います。錆びついた郵便受けに1枚の紙切れが届いた日から始まる物語です。それは、長年積み上げてきた低い自尊心が、音を立てて崩れていく話でもあります。
小石静、72歳。夫に先立たれて10年になる。かつては近くの食料品スーパーでパートのレジ係として15年ほど働いていた。決して華やかな仕事ではなかったが、毎朝きちんと制服に着替え、髪を整え、笑顔で客に向き合うことを静は誇りにしていた。ところが60歳を過ぎた頃から、店はセルフレジへの切り替えを進め、パート従業員の数を減らしていった。静も結局その流れに飲み込まれ、仕事を失った。今の収入は、月6万4000円の老齢基礎年金だけだ。
県の沿岸部、海風が壁に塩を運んでくるような古い団地の一室で、静はその金額だけで暮らしている。家賃が2万8000円。電気とガスと水道で合わせて1万円ほど。残り2万6000円で食費と日用品と交通費をやりくりする。計算上は不可能ではない。ただし、何も予想外のことが起きなければ、という条件がつく。
静の部屋は3階の角部屋で、窓の外には向かいの外壁と、その間に細く切り取られた空が見える。ベランダには観葉植物を置く余裕もなく、物干しがあるだけだ。室内の壁には、夫との写真が1枚だけ額に入れて飾ってある。それ以外の棚には、本が数冊と、夫が大切にしていた腕時計が1つ。
静は、寝る前に小さなポーチから100円玉を取り出して並べる習慣がある。1000円分の100円玉を10枚ずつ分けて、翌日の買い物の予算を確認する。スーパーへ行く時は必ず裏のメモ帳に品目と値段を事前に書いておき、レジに並ぶ前に合計金額を暗算で3度確かめる。こぼれ落ちることが許されない、ギリギリの水を、静は毎日自分で測りながら生きていた。
ただ、そういう暮らしぶりを他人に知られることを、静は何より恐れていた。どんなに安物でも、着る服は必ずアイロンをかける。外に出る時は、少し遠回りしてでも姿勢を崩さずに歩く。目があった相手にはきちんと会釈する。疲れていても、声に張りを持たせる。それが自分を守る方法だと、長年かけて体に覚え込ませてきたことだった。
11月のある月曜日の朝のことだった。その日は朝から空が低く垂れ込めており、9時を過ぎてもまだ薄暗かった。静は台所でインスタントコーヒーを1杯作り、半分だけ飲んで残りをシンクに捨てた。コーヒーは1袋を2回に分けて使う。1度に全部使うと、1杯あたりの値段が倍になる気がして落ち着かないのだ。
郵便受けの確認は毎朝の決まり事だった。玄関を出て、廊下の端にある錆びた鉄の郵便受けを開ける。ほとんどの日はチラシかNHKか公共料金の案内、もしくは何も入っていない。静は一種の儀式のようにその作業を行い、空であれば空であることに小さく安堵して部屋に戻る。その繰り返しが10年続いていた。
しかし、その朝、鉄の扉を開けると、白い封筒が1通入っていた。差出人の欄には「第3団地自治会」とある。自治会から個人宛ての封書が届くことは、そう多くない。階段ではなく封書ということ、何か正式な要件があるということだ。静は廊下に立ったまま封を開けた。1枚の紙が折りたたんで入っていた。広げてみると、タイトルには「共用部整備費及び年末美化活動費に関するご案内」とある。
用紙はこうだ。本年度は団地の共用置場の老朽化が著しく、修繕が必要であること。また、年末に向けた団地内の美化活動と飾り付けのための費用として、全戸から一定の負担金を徴収するという内容だった。金額は1万5000円。期日は11月末日。
静は1度目を通してから、もう1度最初から読んだ。間違いではないかと思ったのではない。間違いでないと分かっているから、もう1度確認せずにはいられなかったのだ。1万5000円というのは、食費として確保している1ヶ月分の予算の全てに相当する金額だった。1日の買い物を300円以下に抑えて3週間、ようやく積み上げられる額だ。それを1度に支払えば、今月の食費が消える。
靴下の中で、足の指が無意識に縮まった。封筒の端を両手でつまんだまま、静は廊下に立ち尽くした。風が団地の外廊下を吹き抜けていき、誰かのドアが遠くで鳴った。人の気配はない。この時間帯、3階の廊下に出てくる住人はほとんどいない。それでも静の目は反射的に左右を確かめた。誰かに見られていないか。誰かにこの瞬間を目撃されていないか。
その恐れは、意識より先に体を動かす。静は手の中の紙を素早く、来ていた薄手のカーディガンのポケットに押し込んだ。部屋に戻り、ドアを閉め、チェーンをかける。台所の椅子に腰を下ろし、先ほど残したコーヒーの空のカップをぼんやりと見た。体の中心あたりが、何かひどく重いものを飲み込んでしまったような感覚になっている。ため息をついたはずなのに、息が出てこなかった。
1万5000円。1万5000円。静は頭の中でその数字を何度も繰り返しながら、台所の引出しを開けた。中には通帳、100円玉を入れた小さなポーチ、家賃の領収書の束がある。通帳を取り出し、最終記帳のページを開く。残高の欄には「2,140円」とある。今月の年金が入ってくるのは15日だ。今日は11日。あと4日ある。4日で2,140円。それが今の現実だった。
静はゆっくりと通帳を閉じ、引き出しに戻した。引き出しを閉める音が、この団地の古びた木造の台所にやけに大きく響いた気がした。それから静は、乾いた咳を1度した。最初の1回が出ると、続けてもう2回、3回と連鎖するように咳が出る。胸の奥が締めつけられるような感覚を伴う、いつもの癖だった。病気というほどではない。検査を受けたこともあるが、異常は見つからなかった。ただ、緊張や不安が高まった時、必ずこの乾いた咳が出る。まるで体が感情を外に逃そうとしているかのように。
咳が収まると、静は手のひらで口を覆ったまま、しばらく動かなかった。窓の外では風が強くなっていた。ベランダの物干し竿がかすかに揺れる音がする。静はその音を聞きながら、頭の中でいくつかの可能性を並べ始めた。
まず、支払わないという選択肢を考えた。しかし、それはすぐに打ち消した。自治会の案内には、期日までに納入のない世帯については、掲示板に名前を掲示する旨が小さく書かれていた。この団地で名前を張り出されるということが何を意味するか、静にはよく分かっている。外廊下、エレベーターホール、ゴミ置場の横の掲示板。毎日、何十人もの目がそこを通る。
次に、誰かに頼るという選択肢を考えた。頼れる人間が静にはほぼいなかった。夫の側の親族とは10年以上連絡がない。自分の兄は3年前に亡くなった。友人と呼べる人間は、スーパーで一緒に働いていた同僚たちだったが、仕事をやめてからは疎遠になってしまった。
1人だけ娘がいる。東京に住む46歳になる娘の君だ。君のことを思った瞬間、静の手が膝の上で少し硬くなった。娘は会社員の夫と小学生の息子と、東京の外れで暮らしている。2年前に夫の転勤があってから、1度も千葉には帰ってきていない。電話は月に1度、それも短い。いつも忙しそうな声をしている。
借りを作りたくないという気持ちが静にはある。娘に対しても、それは変わらない。いや、娘に対してこそ、その気持ちは強かった。子供に心配をかけることへの恥ずかしさと、心配をかけるくらいなら自分で何とかするという意地が、長年の積み重ねとして静の中に固まっていた。もちろん、それは理屈ではない。ただの自尊心だということは、静が一番よく知っている。だが、その自尊心が、72年生きてきた自分を過剰に支えているものだということも、同時に知っていた。
時計が10時を告げた。静はまた咳を1度して、立ち上がった。今日も何かしなくてはならない。買い物に行く前に、まずは献立を考えなくてはならない。冷蔵庫を開けると、もやしが半袋と卵が2個と木綿豆腐が1丁入っている。あとは乾麺のうどんが袋に1袋残っている。今日の昼は豆腐と卵の味噌汁にうどんを入れて食べればいい。夜は残りのもやしを炒めて、残った卵でごまかす。明日は買い物に行けば、何か買えるかもしれない。2,140円のうち交通費と最低限の食料を買っても、まだ少し残るはずだ。ただし、1万5000円はどこにも出てこない。
カーディガンのポケットから、折りたたんだ紙が少しだけはみ出している。静はそれを目の端で捉えながら、鍋に水を入れて火にかけた。湯が沸くまでの間、台所の前に立って外を見た。団地の外廊下の向こう、向かいの壁にコケが生えている。海から来る塩のせいで、コンクリートの継ぎ目に沿って黒緑色の筋が伸びている。この団地が建てられた頃は、もっと若い家族が多かったはずだ。今は静のような独居の老人が大半で、若い世帯はほとんど残っていない。
鍋が沸いてきた音で、静は我に返った。豆腐を崩して鍋に入れ、味噌を溶かし、うどんを半分だけ折って入れる。残りの半分は、明日のために取っておく。出来上がったものをテーブルに持っていき、椅子に座る。手を合わせてから箸を持つ。その動作だけは、夫がいた頃から変わっていない。
食べながら、静は窓の外をぼんやりと見ていた。1万5000円という数字が頭の隅から消えない。どうあっても消えない。払えない金額ではないという言い訳を頭のどこかが探し続けているが、払えないというのが現実だった。今月末まであと20日ある。その20日間で、72歳の自分に何ができるか。静は箸を置き、湯気の立つ鍋を見つめた。答えはすぐには見つからなかった。ただ、ポケットの中の紙がそこにあるという事実だけが、重く底にあった。
外廊下を誰かが歩く足音がした。静の体がわずかに強張る。足音は静の玄関前を通り過ぎていった。また咳が出た。今度は続けて4回。
15日、年金が振り込まれた。入金の知らせは銀行のATMの画面で確認した。前日の夜から静は眠れず、いつもの4時半よりも早く目が覚めて、暗い天井を見上げながら6時になるのをただ待っていた。郵便局のATMが開くのは7時だが、静はどうせ眠れないからと6時半に家を出て、シャッターが降りたままの入口の前で冷たい風に吹かれながら30分間待った。
6万4000円。画面に表示された残高を確認した時、静の胸の中に何か薄い空気が通り抜けたような感覚があった。安堵ではない。6万4000円から家賃の2万8000円を引いて、電気とガスと水道を引いて、残ったもので今月を乗り越えなければならないという計算が頭の中で即座に動き出す。1万5000円をそこから捻出しようとすれば、今月の食費はほぼ0になる。それでも、何かしなければならない。何もしないということが、今の静にとって唯一許されない選択だった。
翌日の朝、静は久しぶりにベージュのウールのコートを出した。タンスの奥に大事にしまってあったコートで、10年ほど前にデパートのセールで買ったものだ。今の静に、デパートのセールでコートを買うことはもうない。それでも、このコートは今も形が崩れておらず、着ると背筋がちゃんとする気がした。役所に行く時や、どこか外の世界と交渉しなければならない時に、静はいつもこのコートを着る。口紅は薄いピンクのものを1本だけ持っている。鏡の前で唇に薄く引いてみると、72歳の顔が少しだけ違う表情をしているように見えた。化粧をしているわけではない。ただ、少しだけ外の世界に対して臨戦体制を取っているということを自分に言い聞かせるための儀式のようなものだった。
役所に行く。具体的には区役所の福祉課に行き、冬季の暖房補助や緊急的な生活支援の貸付制度について聞いてみる。そういう制度があることは、スーパーで働いていた頃に同僚の1人から聞いたことがある。正確な内容は知らない。けれど、今の状況では知らないままでいることの方がずっと損だ。1万5000円の期日まであと10日。
駅まで歩く途中、静は商店街のシャッターが増えたことに気づいた。2年前はまだ開いていたはずの金物屋と、その隣の靴屋が、どちらも鉄のシャッターを下ろしてしまっている。張り紙もない。静はその前を通り過ぎながら、無人になった店先を横目で見た。
電車に乗るのは久しぶりだった。改札を通る時、ICカードの残高が表示される。230円。区役所の最寄り駅まで片道170円かかる。帰りの分も合わせると340円で、残高が90円足りない。静は一度改札の前で立ち止まり、持ってきた財布の中の小銭を確認した。100円玉が3枚と10円玉が4枚と5円玉が1枚、合わせて345円。チャージをしようかどうか一瞬考えてから、そのまま窓口で切符を買うことにした。ICカードに残高を足してしまうと、後でその金額をどこに計上すれば良いか分からなくなる気がした。自分でも少しおかしい考え方だとは思ったが、静にとって小銭の所持は常に明確でなければ気が済まなかった。
電車は空いていた。平日の午前中、乗客のほとんどは老人か、ベビーカーを押した若い母親か、作業着を着た工事関係者だった。静は窓際の席に座り、コートの前を合わせて膝の上で手を組んだ。窓の外には11月の低い空と工場の煙突と枯れかけた雑草の景色が流れていく。
車内の液晶モニターに広告が切り替わりながら流れている。求人情報の広告だった。「シニア歓迎」と書かれている。警備員、清掃スタッフ、マンションの管理人。静の目がそこで一瞬止まった。72歳でも応募できる仕事があるとすれば、この辺りになるのだろう。しかし、その下に小さく書かれた条件を目で追うと、「夜間シフトあり」または「週3日以上勤務可能な方」という文字が見える。夜間は無理だ。夜間でなくても、週3日、毎日のように出て働く体力が今の静にあるかどうか、正直なところ分からない。広告は次の画面に切り替わり、今度は大手スーパーのポイントキャンペーンの案内になった。静は視線を窓の外に戻した。
区役所の最寄り駅で降り、案内板に従って出口を出た。駅前はコンビニと銀行とチェーンの定食屋が並んでいる。コンビニのガラス窓の向こうに温かそうな食品サンプルが見えたが、静はそちらには目を向けずに歩いた。目を向けなければ、余計なことを考えずに住む。それも長年で身についた習慣の1つだった。
区役所の建物は駅から徒歩5分ほどのところにある。白い外壁の、いかにも公共施設らしい4階建ての建物だ。入口の自動ドアをくぐると、暖房の効いた室内の空気がどっと体を包む。静はしばらくその場に立って案内板を読んだ。1階に税務課と住民票窓口、2階に福祉課と保険センター、3階に建築課と都市計画課。静が行くべきは2階の福祉課だ。
エレベーターを使わずに階段を登った。エレベーターの中に他の人と閉じ込められることを、静は昔から少し苦手としている。特に理由はないのだが、狭い空間で見知らぬ人と顔を合わせると、相手が自分の顔を見てどう思っているかが気になって仕方がない。
2階に上がると、待合いスペースにプラスチックの椅子が並んでいて、そこにすでに10人ほどの人が座って順番を待っていた。ほとんどが老人だった。手提げ袋を膝に乗せて俯いている男性。壁の張り紙をぼんやり眺めている女性。年金手帳らしきものを手に持って窓口の方向を見つめている男性。皆、それぞれに何かを抱えてここにいることが、漂う空気から分かった。
静は番号札を取って椅子に座った。番号は47番。今呼ばれているのは32番だった。待ち時間はおそらく30分以上になる。静は膝の上で手を組み、周囲を静かに見渡した。自分がここにいることを、できるだけ自然に見せなければならない。困り果ててきた老婆ではなく、ただ手続きで来ただけの普通の市民として振る舞わなければならない。そのためにコートを着てきたのだし、口紅も引いてきたのだ。
時間が過ぎていった。自動音声が番号を読み上げるたびに、待合いスペースの人が1人立ち上がって窓口に向かう。静は膝の上の手を緩めたり、また組んだりを繰り返しながら、ぼんやりと正面の壁を見ていた。壁にはいくつかの張り紙がある。介護保険の改定についてのお知らせ。高齢者向けのインフルエンザ予防接種の案内。生活困窮者自立支援制度の説明。最後のものの前で、静の目が一瞬だけ止まった。「生活困窮者」という言葉が自分に向けられた言葉のように感じられて、静は素早く視線を外した。そういう制度が自分に当てはまるとは、まだ認めたくなかった。あくまで制度について聞きに来ただけだ。聞いてみて、自分に当てはまらないと分かれば、それでいい。
47番が呼ばれた。静は立ち上がり、コートを軽く引き直して窓口に向かった。担当者は30代前半に見える男性だった。薄い色のスーツを着て、デスクの上に書類を几帳面に積み上げている。画面から目を上げた顔は整っており、表情は丁寧だが、どこか機械的な柔らかさがある。静が椅子に座ると、男性は軽く頭を下げた。「本日はどのようなご要件でしょうか?」という声は抑揚が少なく、おそらく1日に何十回もその言葉を繰り返しているのだろうということが伝わってくる。
静はまっすぐに相手の目を見て、丁寧にしかし簡潔に切り出した。冬季に向けての暖房費の補助制度について聞きたいこと、それと生活の中で急な出費が生じた場合の緊急貸付のような制度があるかどうかを確認したいこと。その2点を、できるだけ落ち着いた声で伝えた。72歳という年齢は言ったが、収入が年金のみであることは、最後に補足として付け加えた。
男性は静の言葉を聞きながら、キーボードを少し叩いた。「まず、居住確認のために住民票の情報を確認させてください」と言い、静が差し出した健康保険証を受け取って、画面を操作し始めた。しばらくの間があり、プリンターが何かを出力する音がした。男性は画面と印刷物を見比べながら、何かを確認している様子だった。その間、静は手を膝の上でじっと重ねて待った。窓口の横の壁に小さな時計がかかっており、針が1つずつ動いていくのを、静は目の端で追っていた。後ろの待合いスペースではまた番号が呼ばれる声がして、人が入れ替わっている気配がする。
「少々お待ちください」と男性が言い、席を外して別のデスクにいる上司らしい人物に何かを確認し始めた。2人が小声で話している。静には聞こえないが、男性が書類を指差しながら上司に何かを説明しているのが分かる。これは良くない流れだと、静は直感した。問題がなければ、担当者1人で答えられる。上司への確認が必要になるということは、何らかの引っかかりがあるということだ。静は姿勢を崩さないまま、視線だけを窓口の外の一点に固定した。
男性が戻ってきた。少し申し訳なさそうな、しかし表情の変わらない顔で、男性は静の方に向き直った。「冬季暖房費の補助制度は、住民税課税の方が対象になりますが、まずその確認のために所得の申告が必要になります。それについては、別の申請書を記入していただく必要があります」と説明した。「それとは別に」と男性は続けた。「緊急小口資金の貸付制度については、現在の生活状況についていくつか確認させていただいても良いでしょうか?」
静は頷いた。男性はいくつかの質問をした。現在の月収、年金以外の収入の有無、家賃の金額、家族の状況。静は1つずつ答えていった。答えるたびに、男性は画面に何かを入力していく。家族の状況について答える時、静は少しだけ間を置いた。「娘が1人いますが、東京に住んでおり、別世帯です」と答えた。それ以上は聞かれなかった。
最後に、男性が少し画面に近づいて確認するような動作をした。それから静に向き直り、「申し訳ないのですが」と口を開いた。その出だしで、静は何が来るかを悟った。「確認したところ、小石様のお名前で生命保険の契約が1件確認されております」と男性は言った。「保険会社のシステムとの連携で確認できるものなのですが、現在有効な契約がある場合、まずその解約をご検討いただくことが制度上の前提条件になっております。」
静はすぐには答えなかった。その生命保険というのが何のためのものか、静には説明するまでもない。夫が亡くなった後、葬儀の費用を近所の人に借りなければならなかったことがある。その時の恥ずかしさがあまりに長く静の中に残った。それ以来、自分が行く時に備えて、毎月わずかずつ積み立ててきた小さな保険だ。死亡時に受け取れる金額は30万円程度で、葬儀費用の最低限として計算した数字だ。解約すれば、その時点での解約返戻金として、おそらく25万円前後が戻ってくるだろう。しかし、解約してしまえば、自分が死んだ時に君に迷惑をかけることになる。葬儀代を娘に出させることになる。あるいは、娘がお金を持っていなければ、役所の世話になる形での葬儀になるかもしれない。それは静が最も避けたいことだった。
生きているうちに娘に迷惑をかけることも、死んだ後に迷惑をかけることも、どちらも同じように耐えられない。ただ、静にとっては、生きているうちの迷惑の方がまだ見えやすい。死後の迷惑の方が怖かった。死んだ後は、自分では何もできないからだ。
男性は静の沈黙を待ちながら、画面を見ている。プリンターがまた小さな音を立てた。隣の窓口では、別の老人が担当者と話している声が漏れてくる。少し言い争いになっているようで、声が少しだけ高くなっている。静はゆっくりと口を開いた。「保険は、葬儀のために積み立てているものです。解約はできません。」
男性は少し困ったような顔をした。それでも、表情の基本的な形は変わらない。よく訓練された顔だと、静は思った。「制度の規定では、一定以上の資産がある場合は給付や貸付の対象外になってしまいます。解約された場合の金額が規定の資産限度額を超えておりまして、現時点では残念ながらご支援の対象外となってしまいます」と男性は言った。「残念ながら」という言葉を、この男性はきちんと残念そうな声で言った。それが義務的な口調でないだけに、かえって静には重く聞こえた。この男性は自分に意地悪をしているわけではない。ただ規則に従っているだけだ。規則が意地悪なのであって、この男性ではない。そのことは頭では分かる。分かるが、だからと言って目の前の現実が変わるわけでもない。
「他に何かご相談はありますでしょうか」と男性は言った。静は1拍置いてから、首を横に振った。「いいえ。ありがとうございました」と言い、椅子から立ち上がった。膝の上のコートの裾を払い、ハンドバッグを手に取り、軽く頭を下げた。その動作は全部、いつもと同じ速さで、きちんと行った。
窓口から離れ、エレベーターではなく階段に向かいながら、静は息を長くゆっくりと吐いた。1階に降りると、自動ドアの向こうに外の寒気が見えた。正午を過ぎたばかりで空は明るいが、風は冷たそうだった。静は出口のすぐ手前で立ち止まり、コートのボタンを1つ1つ止めた。指先が少し震えているような気がしたが、確かめるために見るのはやめた。
自動ドアをくぐって外に出た時、11月の冷たい空気が顔に当たった。区役所の前は小さな広場になっており、枯れかけた街路樹が等間隔に並んでいる。ベンチが2つあって、1つには老人が1人座ってぼんやりしていた。もう1つは空いている。静はそのベンチに近づき、座るかどうか一瞬だけ考えてから、座らずにそのまま歩き始めた。座ると、気持ちが沈む気がした。
駅に向かう道を歩きながら、静は頭の中でもう1度整理しようとした。今日分かったことは、補助制度の申請には書類が必要で、また保険を解約しなければ緊急貸付の対象にもならないということだ。保険を解約するつもりはないということは、今日の成果は0だった。いや、ゼロではない。そういうことが分かったということだけが成果だ。しかし、その成果で1万5000円が出てくるわけではない。10日後の締め切りが、静の前に数字として浮かぶ。10日。2,140円の残高に、今月の年金から計算してのやりくりを加えても、1万5000円には届かない。計算は何度やっても同じ結論になる。
商店街に差しかかった時、静の足が少し遅くなった。空腹だということに、今更ながら気づいた。朝から何も食べていない。役所に行く前に食べておこうと思っていたのに、緊張していたせいか食欲がなかった。今は胃の中が空っぽで、歩くたびに少し体が揺れる気がした。コンビニの前で立ち止まり、ガラスの向こうに並んだ食品を見た。おにぎりが130円から、温かいお茶が150円。静は財布の中の小銭を思い出した。今日の電車賃を両方向に使えば、後に残るのは5円玉1枚だ。静はコンビニに入らなかった。
駅について切符を買い、改札を通る。プラットフォームに出ると、風が容赦なく吹いてくる。静はコートの前をもう一度しっかりと合わせ、電車を待った。ベンチはあったが、座らなかった。足が疲れていないわけではない。ただ、今ここで座ると、体が正直になってしまう気がした。体が正直になると、気持ちも正直になる。気持ちが正直になると、今ここで泣いてしまうかもしれない。それだけは許せなかった。
プラットフォームで、静は背筋を伸ばして立ち続けた。電車が来るまでの数分。ただまっすぐに立っていた。海の方から来た風が、コートの裾をかすかに揺らしていった。
電車に乗って座ってから、静は1度だけ小さく咳をした。1回だけで収まった。車内は温かかった。窓の外に流れていく景色を見ながら、静は今日これからどうするかを考えようとしたが、考えがうまくまとまらなかった。ただ、頭の中で1万5000円という数字だけが、水面に浮かぶ木の葉のように静かに、しかしどうしても沈まずに漂っていた。
最寄り駅で降り、商店街を抜けて団地への道を歩いた。途中で小さな神社の前を通った。鳥居の前に古い石畳があり、その脇にのぼりが1本、風でたわんでいる。境内には誰もいない。静はそこで立ち止まることなく、ただ通り過ぎた。
団地の入口に差しかかった時、ちょうど向かいの棟から1人の女性が出てきた。静と同じくらいか、少し若いくらいの年齢に見える女性で、買い物袋を両手に下げている。顔に見覚えがあった。確か1号棟の2階に住んでいる人で、名前は知らない。たまにゴミ置場で会う程度の関係だ。女性は静に気づいて軽く会釈をした。静も会釈を返した。どちらからも言葉は出なかった。女性は自分の棟の方に歩いていき、静は3号棟の階段へと向かった。その別れ道を歩きながら、静は女性の持っていた買い物袋の中に白菜の葉が見えたことに気づいた。あの人は、白菜を何に使うのだろう。
3階の廊下は相変わらず人気がなく、静は自分の部屋のドアの前に立ち、鍵を出した。鍵穴に差し込む手がわずかに冷えている。ドアを開けて中に入り、後ろでドアを閉めた。玄関で靴を揃えて脱ぎ、スリッパに履き換えた。コートを脱いでハンガーにかけ、口紅のついたペーパーを1枚引き出して唇を拭く。鏡に映る自分の顔が、朝よりも少し沈んで見えた。しかし、泣いてはいない。目が赤くなってもいない。それだけは確認できた。
台所に入り、やかんを火にかけた。お湯が沸く間、静は台所の椅子に腰を下ろしてテーブルの上に手を置いた。今日の役所での一連のやり取りが頭の中をゆっくりと流れていった。「残念ながら」という担当者の言葉。保険の解約が前提条件という言葉。30万円の保険は解約できない。それは変わらない。では、どうするか。答えはまだない。だが、答えを出さなければならない。期日はもう目の前だ。
やかんが音を立て始めた。静は立ち上がり、急須に茶葉を入れ、お湯を注いだ。茶葉は3煎目だった。色はほとんど出ないが、熱いお湯に入れば少しだけ落ち着く。湯呑みを両手で包んで、静はまた椅子に座った。窓の外は日が傾きかけていた。夕方の光が向かいの壁を横から照らし、その壁のコケの模様が普段より鮮明に見えた。あのコケはいつからそこにあるのだろうと、静はぼんやり思った。自分がここに越してくる前からあったのか、それとも自分が来てから生えてきたのか。どちらでも良いことだが、考えないよりはましだった。
湯呑みのお湯が冷めていく。静は少しずつ、ゆっくりと飲んだ。お茶の味はほとんどしなかったが、体が少しだけ温かくなった。今夜の夕食のことを考えなければならない。昨日買ったもやしの残りがある。味噌汁を作れば、もう1食になる。明日の朝はどうするか。通帳の残高は、今日の電車賃を引いて、年金からやりくりを引いて、電気代を引いて計算すれば、まだいくらか残る。残ったもので、今月末まで乗り越えるしかない。1万5000円はそこから出てこない。それでも、何かを考え続けなければならない。
静は湯呑みを置き、テーブルの上に両手を平らに乗せた。外廊下で風が鳴った。どこかのドアがきしむ音がして、それからまた静かになった。静はしばらく、その静けさの中に座ったまま動かなかった。
その日、静が夕方のスーパーに向かったのは、午後7時を少し回った頃だった。団地を出る時、外はもう完全に暗くなっていた。街灯の下を歩きながら、静は布製のエコバッグを胸の前で持ち直した。月曜日と木曜日の夜は特売日ではないが、火曜と水曜の夜は半額シールが多く貼られることを、静は長い経験から知っていた。今日は水曜日だ。
駅前のスーパーは、団地から歩いて12分ほどの場所にある。もっと近くに小さな食料品店があるにはあるが、そちらは値段が1割ほど高い。12分を歩くことで100円か200円を節約できるなら、12分歩く価値がある。計算は単純だ。静はそれを道徳の問題としてではなく、もはや習慣として体が覚えてしまっていた。
夜風は冷たかった。11月の沿岸部の夜は、日が落ちると急激に気温が下がる。静は薄手のカーディガンの上に、ウールの厚めのセーターを着てきた。例のコートは、こういう夜の買い物には使わない。あのコートは、外の世界と交渉する時のためのものだ。今日のような、ただスーパーに行くだけの夜には、くたびれた格好でいい。くたびれた格好で出かけること自体、静が完全に割り切るまでには何年もかかった。かつては、スーパーへの買い物であっても、必ず身なりを整えて出た。元レジ係として、あの店に今も務めている人間に会うかもしれないという意識が抜けなかったからだ。しかし、今は知った顔に会っても、会わなくても、それほど気にしなくなった。7時を過ぎた夜のスーパーに、わざわざ自分を確認しにくる人間などいない。
スーパーの自動ドアが開くと、室内の明るさと温かさが1度に体を包んだ。入ってすぐの野菜コーナーには、まだ十分な量の商品が残っている。静は入口脇のカゴを1つ取って、前を通り過ぎた。今夜の目的は総菜コーナーだ。それも、閉店2時間前に貼られる値引きシールを狙うことだ。
総菜コーナーは、スーパーの奥、日用品の棚を超えた先にある。静はゆっくりと、しかし一定の速度で棚の間を歩いた。急いでいるように見せることも、うろうろしているように見せることも、どちらも良くない。早足は目立つし、挙動不審は不審に思われる。目的を持った客として、しかし急がず、それが一番自然な歩き方だった。
日用品のコーナーに差しかかった時、静は自分の目的の場所が見えた。総菜コーナーの端の方で、若い店員が台車を押しながら値引きシールを貼る作業をしていた。緑色のエプロンを着た20代前半くらいの女性で、手際よく商品を確認しながら片手でシールを貼っていく。
静は日用品の棚を背にして、その様子を見た。急いでそこに向かえば、他の客より先に良い商品を取れるかもしれない。しかし、それをしてはいけない。値引きシールが貼られるのを待ち構えて近づいてくる客を、店員は静かに観察している。静はそれを、自分がレジ係だった頃の経験から知っていた。だから、静はわざと日用品の棚に向き直り、自分には別の用事があるふりをしながら、横目で状況を確認し続けた。
店員の台車がゆっくりと動き、総菜の棚の前で止まった。弁当のコーナーだ。鮭の塩焼き弁当、唐揚げ弁当、幕の内弁当、そして端の方に魚の煮付けと白米のシンプルな弁当が並んでいる。店員が商品を手に取り、値引きシールを貼り始めた。静は棚から視線を上げた。すでに2人の客が総菜コーナーに向かっていた。1人は中年の男性で、唐揚げ弁当を素早く手に取った。もう1人は静と同じくらいの年齢の女性で、幕の内弁当を1つ確認してからカゴに入れた。
静は動かなかった。あと何個残っているかを目で確認する。鮭の塩焼き弁当が2個、魚の煮付け弁当が1個残っている。静が欲しいのは魚だ。価格は元値が580円で、半額なら290円。290円の夕食は、今の静にとって少し贅沢な部類に入る。しかし、今日は昼に食べたものが少なかった。
もう1人の女性が鮭の弁当に手を伸ばした。その時、静はゆっくりと総菜コーナーへと向かった。目線は弁当ではなく、少し先の総菜・煮物コーナーに向けたまま。弁当に用があるのではなく、そちら方面に用があって通りがかったという動線を意識して歩いた。煮物弁当の前に立ち、一度それをスルーするように視線を動かしてから、「あ、これがあったか」というような自然な動作で弁当を手に取った。誰もそんな動作を気にしてはいないと頭では分かっている。それでも、静はその一連の所作を丁寧に行わずにはいられない。
カゴに弁当を入れて、その場を離れた。これで今夜の夕食の目途は立った。290円。あとは明日の朝食のためにもやしか豆腐を1つ買えばいい。この店のもやしは、今週から税込み38円に値上がりしていた。先週までは32円だった。6円の差を惜しいと思う自分を、静は特におかしいとも思わない。
レジに向かう前に、静は豆腐の棚の前を通った。木綿豆腐が68円、絹ごしが58円。絹ごしの方が安いが、静は食感の問題で木綿を好む。今日は木綿を買う余裕は作れるか?290円に68円を足すと358円だ。今の財布の中の小銭を頭の中で計算する。1000円札が1枚と100円玉が2枚と10円玉が3枚と1円玉が6枚。合わせて1,236円。今日は1,236円しか持ってきていない。それ以上持ってくると、余計なものを買いたくなる気がするから、静はいつも必要な分だけを計算して財布に入れてくる。今夜の予算は400円と事前に決めていた。400円以内なら2品買える。木綿豆腐をカゴに入れた。
レジに向かいながら、静は棚の間をもう1度通った。習慣として、最後に全体を見渡す。何か見落としたものがないか、あるいは今だけの特売品があるかどうかを確認するためだ。その通り道で、静は日用品コーナーの奥に足を止めた。若布の袋が1つ。棚の端に引っかかるように残っている。通常価格より30円引きのシールが貼ってある。消費期限が明日のものだ。30円引きで98円。今夜の予算は400円で、弁当と豆腐で358円。差額は42円。若布を買うと予算を超える。静は若布の袋を元の位置に戻した。
それからレジへと向かいながら、ふと立ち止まった。違う理由で足が止まった。前方の総菜コーナーの端のところに、見知った後ろ姿が見えた。グレーのコートを着た、小柄で横幅のある体型の女性が、総菜の棚を眺めている。その首の傾け方と、腰に両手を当てる癖のある立ち姿に、静は見覚えがあった。森本安子だ。1号棟の1階、静の真下に当たる部屋に住む68歳の女性。この団地の自治会で組長を務めており、団地内の何よりも誰よりも把握していることで知られている。よく言えば面倒見が良く、悪く言えば他人の事情に深く踏み込んでくる人物だ。
静と森本の関係は、表面上は穏やかだが、そこには微妙な緊張がある。森本はいつも丁寧な言葉を使う。しかし、その丁寧さの中に、相手の弱点を探るような質問が混じっている。誰がいつどこへ行ったか、誰の部屋の電気がいつ消えていたか、誰がゴミ置場に何を捨てたか。そういう情報を自然な会話の中で集め、必要な時に自分の話の根拠として使う。静は森本のその習性を、長い付き合いの中で理解していた。
だから、今静が取った行動は、方向を変えてその場を離れることだった。視線が合う前に、来た方向へ戻り、野菜コーナーを迂回してレジへ向かえばいい。しかし、その判断が一瞬だけ遅かった。弁当の入ったカゴを持ち直そうとした瞬間、プラスチックのカゴが棚に当たって小さな音を立てた。その音に反応したのか、あるいは元から静の気配に気づいていたのか。森本が振り向いた。目があった。
森本の顔に一瞬何かが走ってから、すぐに笑顔に切り替わった。「ああ、小石さん」という声が、総菜コーナーの静けさの中で思いの外大きく響いた。静は顔に表情を作り、会釈した。「こんばんは」と返した。森本はカゴを持ったまま、静の方に近づいてきた。「夜に買い物なんて珍しいですね」という言葉が最初の言葉だった。静は軽く笑った。「たまには遅くなることもありますよ」と答えた。声に余分な力が入らないように気をつけながら。
森本の目が、静の持っているカゴの中に一瞬だけ落ちた。その視線の動きを、静は見逃さなかった。カゴの中には弁当と豆腐が入っている。どちらも半額シールが貼ってある。森本はそれを確認してから、視線を静の顔に戻した。「まあ、小石さんって節約上手ですよね」と森本は言った。声の調子は柔らかく、笑顔も崩れていない。しかし、その言葉の重心がどこにあるか、静には分かった。「節約上手」という言葉は、お金に苦しんでいるという観察を別の言葉で包んだものだ。
静は笑顔を保ったまま、「物価が高くなりましたからね。どなたでも同じでしょう」と返した。「それはそうですね」と森本は言ってから、少し間を置いた。その間の使い方に、静は少し体が硬くなるのを感じた。森本が話題を変える時には、こういう間がある。
「ところで」と森本が言った。「自治会費のことなんですけど」静の指がカゴの持ち手を少し強く握った。「今月末までに、共用部の整備費1万5000円をお願いしているんですが」と森本は続けた。「もう確認されましたか?」「確認しています」と静は答えた。「あら、そうですか。実はですね」と森本はわずかに声を落とした。「先週末の時点で、3号棟の3階では、小石さんのお宅だけがまだなんです。皆さん、早めに入れてくださったんですけど。ほら、あのゴミ置場の修繕も急ぎの話になってきていて」
静の中で、何かが一段と降りた感覚があった。3階で自分だけという情報が出てきた。森本はそれを具体的な数字として持ってきた。3階の何戸が対象で、その全員がすでに支払い済みで、残っているのは自分だけだという事実。それは正確な観察であり、かつ、その観察を他人に対して伝えてくる能力と意思を、森本は持っている。
「もう少し待っていただけますか」と静は言った。「今週中には必ず」「今週中に」という言葉を聞いた森本の顔が、わずかに変わった。笑顔は変わらないが、目が1段鋭くなった。「来週には、向こうの業者さんに連絡しないといけないので」と森本は言った。「あの、失礼な言い方になるかもしれないんですが、もしかして今月、少し厳しいですか?」
「厳しい」という言葉が、空気を切るように飛んできた。静の顎の辺りに力が入った。喉の奥が少し乾いた。「いいえ」と静は言った。声は揺れなかった。「忙しくて、そのままにしていただけです。明日にでも現金でお持ちします。」
その瞬間、静は自分が口にした言葉の意味をすぐに理解した。明日、現金を持っていく。今夜、財布の中には1,236円しかない。今日の弁当と豆腐で358円使えば、残りは878円だ。年金はすでに家賃と光熱費に消えていて、手元に残っている生活費は、月末まで生き延びるためのギリギリの額だ。1万5000円は、今の静には存在しない金額だった。それなのに、「明日、現金でお持ちします」と言っていた。
「そうですか」と森本は言った。今度は声が少し柔らかくなった。「それは助かります。と、ご無理だったら、遠慮なく言ってくださいよ。みんなでどうにかすることもできますし」
「みんなでどうにかする」という言葉の意味するところを、静は正確に理解した。それは、あなたが払えないなら、他の住人に肩代わりしてもらう、あるいは事情を共有するという提案だ。森本の言葉は常に親切の形をしている。しかし、その親切は同時に情報の回収でもある。静が弱みを認めれば、それはまた瞬く間に3号棟の前後に伝わる。
「大丈夫です」と静は言った。「明日、必ずお持ちします。」「分かりました」と森本はにこりと笑い、「それでは、よろしくお願いします」と言ってから、視線を総菜の棚に戻した。話は終わったということだ。
静はレジへと向かった。後ろから森本の気配が続かないことを、背中で確認しながら歩いた。レジは3列あって、2番目の列が一番空いていた。静はそこに並び、カゴ台に乗せた。前に並んでいた客は若い男性で、カップ麺と缶ビールを買っていた。その会計が終わり、静の番になった。バーコードを読み取る音が鳴るたびに、静は画面に表示される金額を確認した。弁当が290円、豆腐が68円、合計358円。1000円札を出して、釣りを受け取った。
レジ係は若い男性だった。「ありがとうございました」の声がやや棒読みだったが、静はいつも通り「どうも」と軽く会釈して、バッグに商品を入れた。
スーパーの自動ドアを出ると、夜の冷気がまた体を包んだ。来た道を戻りながら、静は頭の中で繰り返した。明日、現金でお持ちします。なぜそう言ってしまったのか、理由は分かっている。森本に向かって「お金がない」と言えなかったからだ。言えないというより、言いたくなかったからだ。正確には、この団地に住む全ての人間に知られることへの恐れが、口から出た言葉を瞬時に作り替えた。言葉を間違えたと、静は思った。しかし、もう取り消せない。
団地の入口に戻ってきた時、少し足が重くなるのを感じた。階段を登りながら、自分が約束したことの重さを確認するように、1段ずつゆっくりと踏んだ。外廊下に出ると、風が正面から来た。部屋に入り、ドアを閉める。チェーンをかけてから、静はその場でしばらくドアに寄りかかった。背中でドアの冷たさを感じながら、玄関の薄暗がりの中に立ち続けた。
スリッパに履き換えて、台所に入った。弁当をカゴから出してテーブルに置く。フィルムを剥がしながら、静はテーブルの横の引き出しを引いた。中には通帳、100円玉のポーチ、家賃の領収書の束がある。通帳を取り出した。開いて、最終記帳のページを見る。残高は、年金振り込み後の計算で、家賃と光熱費を引いた残りになっている。静は今夜の買い物代を暗算で引いて、さらに月末までの食費として必要な最低金額を確認した。
指先で数字をなぞりながら、静はゆっくりと計算した。今日の時点で手元に残っている生活費の総額から1万5000円を差し引くことは、数字の上では不可能ではない。ただし、それをすれば、月末までのやりくりはほぼ0に近い食費で乗り越えることになる。毎日の食事を1食にするか、あるいは今夜のように半額の総菜に頼り続けるか。通帳の残高の数字が、目の前で動かずにいる。静は通帳を閉じて、引き出しに戻した。
弁当のフィルムが半分だけ剥がれたまま、テーブルの上に置かれている。静はようやく椅子に座り、箸を取って手を合わせた。魚の煮付けの匂いが鼻の先に来た。今夜これを290円で買えたことは、悪いことではない。それでも、箸を持つ手がすぐには動かなかった。明日、1万5000円を持っていくと言ってしまった。その言葉の責任は自分にある。森本に圧力をかけられたのは事実だが、森本が嘘をつくように誘導したわけではない。静が自分で、自分の口で「明日持っていく」と言った。理由は1つだ。お金がないという事実を認めたくなかった。それだけだ。
今夜のスーパーで、カゴの中の半額弁当を見た森本の目が、静の頭の中で繰り返される。「節約上手ですよね」という言葉。「もしかして今月、少し厳しいですか」という声。あの目とあの言葉が、静の中の何かを強く弾いた。弾かれた結果、出てきたのが「明日持っていきます」という言葉だった。
食事を終え、容器をビニール袋に入れて口を縛った。ゴミは明後日が収集日だ。台所を片付けてから、静はまた引き出しを開けた。通帳を取り出し、もう1度残高を確認した。数字は変わっていない。明日の朝、1万5000円を出すことはできない。それが現実だ。しかし、明日の夜までに森本の部屋のチャイムを押さなければ、今夜の約束を破ったことになる。約束を破れば、森本は何らかの行動を取るだろう。具体的に何をするかは分からないが、この団地で約束を破った人間がどういう扱いを受けるか、静には想像がつく。
通帳を閉じ、引き出しに戻した。台所の電気を消して、居間に移動した。テレビは見ない。電気代が惜しいというより、今は音のある空間が少し苦手だった。暗い居間に座って、窓の外の街灯の光だけを見ていると、少しだけ静かになれる。
外では風が鳴っている。団地の外廊下を風が走り抜けていく音は、冬になると一段と鋭くなる。この団地に越してきた当初は、その音が夜中に目を覚まさせることもあった。今はもう慣れた。ただの風の音だと分かる。しかし、今夜はその音が少し違う意味を持っているように聞こえた。
静は暗い部屋の中で、膝の上に両手を置いたまま動かなかった。明日の朝になれば、また考えなければならない。今夜はもう考えても変わらない。そう分かっていながら、考えることをやめられない。1万5000円を持っていくと言った。その言葉から後戻りする方法が、静には見つからなかった。
やがて時計が10時を打った。静はゆっくりと立ち上がり、寝室の布団を敷いた。今夜もおそらく眠れないだろうと思いながら、それでも横になった。天井は暗く、何も見えない。外の風の音が、少し強くなっていた。
夜中の2時に、静は目が覚めた。眠れていたわけではない。横になったまま目を閉じ、意識が薄くなった時間帯が少しあっただけで、本当の意味で眠ったとは言えなかった。布団の中で天井を見上げていると、外の風の音が聞こえる。先ほどより少し弱まっている。団地の廊下を風が流れる音と、どこかの窓がかすかに揺れる音が、交互に届いてくる。
静はしばらくその音を聞いていた。頭の中にあるのは、相変わらず同じものだった。1万5000円。明日の夜までに森本のところへ持っていくと言った。しかし、1万5000円はない。この2つの事実が、夜中の暗闇の中で交互に浮かんでは消えた。
3時になった。4時になった。東の空がほんのわずかだけ白み始めた頃、静はようやく布団から出た。起き上がる時に、少し時間がかかった。急いで動くと頭の血の巡りが追いつかない気がして、静は最近、布団の中で1度体を横向きにしてから、ゆっくりと起き上がる習慣になっていた。
台所に行き、やかんを火にかけた。昨夜の残りのお茶があったが、少し時間が経っているから、今朝は新しいものを入れようと思った。茶葉の缶を取り出して、急須に入れる。缶の底に残っている量を確認してから、茶葉を少し節約していつもより少なめに入れた。外がまだ暗い台所で、静はやかんが沸くのを待ちながら、今日何をすべきかを考えた。
できることを考える。できないことを嘆いても、何も変わらない。それは72年生きてきて身についた、静なりの考え方だった。干渉に時間を使うより、できることを1つずつ動かしていく方が、結果として自分を守ることになる。
1万5000円を用意する方法。君に電話をすることを、また考えた。東京に住む娘に、15年ぶりに金の無心をすることを。15年ぶりというのは、正確な数字だった。夫が入院した時、手術の費用が足りなかった。あの時だけ、静は娘に連絡した。君は当時まだ30代で、結婚して間もない頃だった。5万円を振り込んでくれた。その5万円を、静は3ヶ月かけて少しずつ返した。返し終えた時、2度と娘には頼まないと、静は心の中で決めた。それから15年が経った。今日、その決意を破るかどうかを考えながら、静はお湯を急須に注いだ。
湯呑みにお茶を注ぎ、両手で持って一口飲んだ。薄いが、熱い。それだけで、少し体の芯が温まる気がした。電話をしたとして、君はどう受け取るか。娘は今、東京の外れで夫と息子と暮らしている。夫は会社員で、2年前に転勤があった。息子は小学校の高学年のはずだ。電話で話す声は、いつも忙しさを含んでいた。向こうから電話してくることは、月に1度あるかないかだ。
1万5000円というのは、静にとっては3週間分の食費だが、東京で暮らす会社員の家庭にとっては、どういう金額なのか。正直なところ、静にはよく検討がつかない。娘夫婦の収入がいくらかも、何にいくら使っているかも、静は細かく聞いたことがない。聞くことがなんとなく失礼な気がして、避けてきた。
時計が7時を告げた。静は台所の椅子から立ち上がり、窓の方を見た。外はもう明るくなっている。11月の朝は曇りがちで、今日も空は白い雲に覆われていた。電話するなら、今だ。君の仕事は9時始まりだと聞いている。7時であれば、まだ家を出る前のはずだ。
静は受話器を取り上げ、娘の携帯電話の番号を押した。呼び出し音が3回なった。4回目で出た。「もしもし」という声は、寝起きとも少し違う、すでに何かに追われているような張りがあった。「お母さん、どうしたの?」という言葉が続いた。普通の挨拶より先に「どうしたの」が来る。娘にとって、母親からの朝の電話は、何かあった時以外にないものとして処理されているのかもしれない。
静はできるだけ穏やかな声を出そうとした。「おはよう。急に電話してごめんね」と言った。向こうから子供の声がした。遠くの方で何かを喋っている声が聞こえて、君が少し手で電話を抑えたようだった。それからまた声が戻ってきた。「何?どうしたの?今、ちょっとバタバタしてて」
静は喉の奥に何かが詰まる感覚を覚えた。「バタバタしてて」という言葉が、電話の向こうから部屋の空気の中に染み込んできた。子供がうるさいのか、また何か遠くで声がしている。本題を切り出すタイミングを、静は探した。1万5000円のことを言おうとして、言葉が出てこなかった。なぜ1万5000円が必要なのかを説明するには、まず自治会費の話をしなければならない。会費の話をするには、今月の年金が家賃と光熱費で消えたことを話さなければならない。そこまで話すには、今の自分の暮らしの全体を娘に見せなければならない。その順序が、頭の中で渋滞した。
君が言った。「ねえ、お母さん、ちょっと待って」それから、電話から離れた声で、誰かに何かを言っている。戻ってきた時、声が少し低くなっていた。「ごめん。今日、ちょっとだけ厳しくて。昨日も遅くなったし、今日も会議があって。どうしたの?何か用があるんでしょう。」
静の右手が、受話器を少し強く握った。その瞬間、娘の声の奥から子供が泣き始めた。高い声で何かを訴えている。君がまた電話を遠ざけ、子供に何かを言う声がした。短くて、少しきつい声だった。静は目を閉じた。君が戻ってきた。「ごめん、お母さん。啓太が学校の準備でまた揉めてて。で、何の用?」
静は口を開いた。でも、出てきたのは用意していた言葉ではなかった。「何でもないよ」と静は言った。声は自分でも驚くほど落ち着いていた。「ちょっとみかんが手に入ったから、送ろうかと思って。でも、重いから、また今度にする。元気でいてね。」
「ああ、そう」と君は言った。それから1拍置いて、「お母さんも元気でね」と言った。声が少し柔らかくなった気がしたが、それが本当にそうなのか、静には判断できなかった。「うん。じゃあね」と静は言い、受話器を置いた。
台所が静かになった。静はしばらく、受話器に手を置いたままでいた。かけたことを後悔しているのか、かけて正しかったのか、すぐには判断できなかった。ただ、受話器から手を離すことが、少しの間できなかった。みかんを送ると言った。みかんなど、どこにもない。2,000円もない財布の中に、みかんを買うお金などない。みかんを送ると言って、また送らないまま時間が経つだろう。娘はそのことを覚えているかもしれないし、忘れているかもしれない。どちらでも同じことだ。
静はゆっくりと受話器から手を離した。椅子に座ったまま、しばらく台所のタイル壁を見ていた。タイルの目地が少し黒ずんでいる。掃除をしようと思いながら、ずっとそのままにしている。手が届かない場所でも、今はそこに気力を使う余裕がない。
1万5000円を用意する最後の手段として、静が前日の夜から頭の中に置いていたものがあった。タンスの奥の桐の小箱の中に、夫の尾の腕時計が1本入っている。尾が生前に使っていたもので、普段使いの時計だった。文字盤がシンプルな造りで、ベルトは茶色の革だった。亡くなった時、静がそのまま引き出しに入れた。捨てることもできず、誰かにあげることもできず、ただそこにある。時計が今どのくらいの値がつくのかは、静には検討もつかない。ただ、換金できる可能性があるとすれば、近所の質店に持っていくことだけだ。
静は立ち上がり、寝室のタンスを開けた。一番下の引き出しの奥に、桐の小箱がある。引き出しを引き出し、箱を取り出した。蓋を開けると、古い布に包まれた時計が入っていた。布を解くと、革ベルトが乾いて少し硬くなっている。金属部分は曇っていて、ベルトの裏側には、尾の汗の跡なのか、わずかに色が変わっている部分がある。
時計を手に取った。冷たかった。金属の重さが手のひらに乗った。文字盤を正面から見ると、針が止まっている。当然だ。電池が切れているのだろう。右の竜頭を触ってみると、硬くなっていた。静はその時計を少し目に当ててみた。裏蓋に傷がある。使っているうちについたものだろう。文字盤の端に、わずかな曇りがある。腕時計に詳しくはないが、特別な品ではないことは分かる。デパートの時計売り場で、尾がそれほど高くないものを買ったと言っていた記憶がある。金額は聞かなかった。
この時計に価値があるかどうか、静には分からない。ただ、持って行ってみることはできる。それだけのことだ。時計を布に包み直し、ハンドバッグの中に入れた。外出の準備をしながら、静は今日どこへ行くかを考えた。質店は、駅の手前の商店街の中に1軒ある。古道具屋のような店で、外に看板が出ているのを何度か見た。入ったことはない。
コートを着た。今日もベージュのウールのコートだ。口紅は引かなかった。質店に行くのに、口紅は関係ない。むしろ、きちんとしすぎていると、足元を見られるかもしれないという気がした。
外に出ると、空は昨日より低かった。海から来た冷たい空気が当たった。静はコートの前を合わせながら、階段を降りて団地の外に出た。外廊下に、人の姿はなかった。
駅に向かう商店街の通りを歩きながら、静は1度立ち止まった。質店が開いているかどうかを確認していなかった。朝は何時から開いているのか。時刻はまだ8時半を過ぎたばかりだ。商店街の店のほとんどは、10時か11時に開く。質店も同じかもしれない。それでも向かった。開いていなければ、待てばいい。待つことは得意だ。時間だけはある。
商店街の通りに入ると、金物屋と靴屋のシャッターはやはり降りていた。その先に進むと、小さな薬局が開き始めているのが見えた。さらに進んだところに、質店の看板が出ている。看板の下に、黄色い電球がついていた。電球がついているということは、開いているということだ。
静は少し早足になり、質店の前に立った。ガラスのショーケースに囲まれた小さな店内が見える。奥に人影があった。ドアを押すと、小さなベルの音がした。店内は狭く、ガラスケースに腕時計や指輪や古いカメラが並んでいる。壁には何かの工具類と古い電化製品が置かれている。奥のカウンターの向こうに、50代くらいの男性が立っていた。丸みのある体型で、薄い色の作業服を着ている。静の方を一瞥してから、「いらっしゃい」とだけ言った。
「お世話になります」と静は言い、カウンターに近づいた。「主人の形見の時計を持ってきたのですが」と言いながら、ハンドバッグから布に包んだ時計を取り出した。布を解いて、カウンターの上に置いた。男性が時計に視線を落とした。手に取ることもせず、上から見ている。それから1度だけ、時計を指先でわずかに動かして、裏側を確認した。カウンターの引き出しから虫眼鏡を出し、レンズ越しに文字盤を見た。その動作が何秒か続いた。
静は男性の顔を見ながら待った。表情に変化はない。作業をしている時の人間の顔というのは、感情をしまい込んでいる。自分がかつてレジを打っている時も、そうだったかもしれないと思いながら。男性が虫眼鏡を置いた。「国産の普及品ですね」と男性は言った。声に抑揚がなかった。「この方は70年代から80年代にかけて量販店で売れたやつで、今は特に引き合いもなくて。電池が切れてますし、ベルトも乾燥で傷んでる。機械の方も、ちょっと確認が必要な状態ですね。」
静は黙って聞いていた。「正直に言うと、この状態では引き取りは難しいですね」と男性は続けた。「仮に動いていても、このモデルだと値はつかない。申し訳ないですが」
静は一度、時計に目を落とした。文字盤の白い表面と、止まった針を見た。「分かりました」と静は言った。声は揺れなかった。「お時間を取っていただいて、ありがとうございました。」布で時計を包み直し、ハンドバッグに戻した。男性は何も言わなかった。ドアを押して外に出る時、小さなベルがまた鳴った。
外の空気が顔に当たった。来る時よりも、風が強くなっていた。海の方から吹いてくる冷たい風が、商店街の通りを抜けていく。静は少しの間、質店のドアの前に立っていた。次にどこへ行くかを考えようとしたが、すぐには思いつかなかった。行く場所がないということを確認するのに、少し時間が必要だった。
役所に行っても断られた。娘に電話しても、できなかった。時計を持ってきても、値がつかなかった。3つのことを試みて、3つとも何も変わらなかった。
商店街の外れに、公衆電話のボックスがあった。昔はよく使っていたが、今はほとんど目に入らなくなっていた。静はそのボックスの前で、歩みを止めた。立ち止まったのは公衆電話のせいではなかった。ただ、歩けなくなったのだ。足が止まった。体の中のどこかが、もうここから先へ進まなくていいと言っているような感覚があった。
空は白く曇っている。商店街の通りには、この時間帯に人通りが少ない。向こうの方に、自転車に乗った人影が1つ。こちらに向かってくるのが見える。静はその人影が近づいてくるのを、動かずに見ていた。自転車は静の傍らを通り過ぎていった。静は公衆電話のボックスの横に立ったまま、空を見上げた。雲が低い。海からの湿気を含んだ雲が、この沿岸の町の上をゆっくりと動いている。風が頬を叩く。
72年間、この国に生きてきた。子供の頃は貧しかったが、周りも同じように貧しかった。結婚してからは、ずっと働き続けた。夫が病気になってからも、レジを打ちながら病院の付き添いもした。尾が行ってからは、1人で全部をやってきた。誰かに迷惑をかけたことはない。法を犯したことも、人を傷つけたこともない。それでも、今、財布の中には数百円しかない。時計は値がつかなかった。娘には頼めなかった。役所には断られた。どこへ行っても、何もない。誰もいない。
静はそのことを、公衆電話のボックスの前で風に吹かれながら確認した。確認することに、もはや驚きはなかった。ただ、その事実の輪郭が、今この瞬間だけ、いつもより少しはっきりと見えた。
商店街ののぼりが1本、風で揺れた。静は目を戻し、来た道の方向を見た。団地はあちらの方向にある。帰らなければならない。夕方までに、何かを考えなければならない。考えても答えが出ないと分かっていても、考え続けなければならない。
コートの前を直し、静は歩き始めた。足は動いた。体は動いた。それだけは確かだった。来た道を戻りながら、静は1度だけ振り返った。公衆電話のボックスが、商店街の端に取り残されたように立っている。昔は誰かが使っていた場所だ。今は誰も使わない。静は前に向き直り、また歩いた。
団地の階段を登り、3階の廊下を歩き、自分の部屋のドアの前に立った。鍵を取り出し、鍵穴に差し込む。回す。ドアが開く。部屋の中は静かだった。静はコートを脱いで、椅子にかけた。ハンドバッグから布に包んだ時計を取り出し、タンスの引き出しの奥に戻した。桐の小箱に入れて、蓋をして、引き出しを閉めた。
台所に行き、やかんを火にかけた。お湯が沸くのを待ちながら、静は台所の椅子に座った。窓の外は相変わらず曇っていて、風が強い。向かいの外壁が、この灰色の空の下でいつもより暗く見えた。急須に湯を注ぎ、湯呑みに注いだ。お茶を一口飲んだ。
今夜、森本のチャイムを押しに行かなければならない。1万5000円を持っていくと言った。しかし、持っていく1万5000円がない。では、どうするか。静は湯呑みを両手で持ち、温かさだけを感じながら、しばらく何も考えないでいた。今日1日でできることは、全て試みた。その結果として、何も変わらなかった。では、今夜、どういう顔をして森本のドアを叩けばいいのか。それだけが、今の静に残された問いだった。
湯呑みの中のお茶が、少しずつ冷めていった。夕方になっても、答えは出なかった。部屋に戻ってから、静はやかんを2度沸かした。最初のお茶は飲み終えたが、何かをしていなければ落ち着かなかった。2度目のお湯は急須に注いだが、結局ほとんど飲まないまま冷めた。台所の窓の外で日が傾き、向かいの外壁が橙色に染まり始め、やがてその色も消えて暗くなっていった。
時計の針が6時を過ぎた。夜の7時に、3号棟の集会室で居住者の会合がある。そのことは、3日前に回覧板で回ってきていた。月に1度の定例の集まりで、主な議題はゴミ出しのルールと共用部の修繕についてだと書いてある。「修繕について」という文字を見た時、それが自治会費と繋がっていることを、静は瞬時に理解した。森本がその場で静のことを持ち出す可能性がある。
出席するかどうか、昨日から迷っていた。出なければ、その欠席自体が何かを示すように解釈されるかもしれない。逃げたと思われるかもしれない。出れば、森本と顔を合わせることになり、今朝言ったことへの答えを求められるかもしれない。どちらを選んでも、良くない。それでも、静は行くことにした。理由は単純だった。行かなければ、この部屋の中で一晩中、頭の中の同じことを繰り返すだけだ。部屋の外に出て、人の中にいる方が、少なくとも体は動く。体が動いていれば、考えが少しは変わるかもしれない。それだけのことだった。
6時半、静はセーターの上に薄手のカーディガンを羽織った。例のコートは着なかった。集会室はすぐ下の1階だ。外を歩くわけではない。それに、今夜のこの会合にあのコートで行くのは、おかしい気がした。交渉に行くのではない。ただ出席するだけだ。鍵を持って、部屋を出た。
外廊下に出ると、冷たい空気が当たった。エレベーターを使わず、階段を降りた。1階に降りると、集会室のドアの前にすでに数人が集まっているのが見えた。白髪の男性が2人、防寒着を着た女性が1人、それぞれ会釈しながら中に入っていく。静も会釈しながら、ドアをくぐった。
集会室は12畳ほどの広さで、中央に長机が2列並んでいる。折りたたみ椅子が机の周りに並べられており、すでに半分ほどが埋まっていた。壁際に電気ストーブが1台置いてあるが、室内はまだ冷えている。古い畳の匂いが漂っている。静は入口に近い端の椅子を選んで座った。誰かと話すつもりはなかった。ただ座っていれば、それで出席したことになる。
7時を過ぎた頃には、30人ほどが集まっていた。ほとんどが老人だった。男性も女性も、皆着込んでいる。壁際の暖房がなかなか効かないため、コートを脱がずにいる人も多い。誰かが小声で何かを話し、別の誰かが頷く。全体的に静かな会合だった。若い世帯はほとんどいない。この団地で定例会に出席するのは、暇を持て余した老人が大半だということを、静は改めて確認した。
森本安子は、前の方の椅子に座っていた。グレーのカーディガンを着て、手元に紙の束を持っている。背筋を伸ばして座っている。静が入ってきた時、森本はちらりとこちらを見た。目があったが、森本は特に何も言わなかった。ただ視線を前に戻しただけだ。
7時5分になり、森本が立ち上がった。「皆さん、お忙しいところお集まりいただき、ありがとうございます」という言葉で、会合が始まった。声はよく通り、慣れた仕切り方だった。最初の議題はゴミの分別についてで、隣の棟の資源ゴミの出し方に問題があるという報告が続いた。何人かがそれに相槌を打ち、具体的な対策についての意見が出た。静はその間、膝の上で手を組んで、前の人の背中を見ていた。
次の議題が始まった。「共用部の修繕と年末美化活動の進捗について」と森本は言った。手元の紙を確認してから、ゴミ置場の修繕業者との打ち合わせが来週に入っていること、業者への支払いに自治会費を当てるため、まだ納入されていない世帯には早めにお願いしたいこと、という内容を読み上げた。
そこで、森本は手元の紙から顔を上げた。顔の方向が、静の方を向いた。室内の30人がそれに続いたというわけではない。ただ、森本の視線がどこへ行ったかを、前の列に座っていた何人かが自然に追った。それだけで、集会室の空気がわずかに変わった。
「小石さん」と森本は言った。声は穏やかで、攻めているような調子ではなかった。「昨日のお話では、今日持ってきていただけるということでしたが」
30人の視線が、静に集まった。全ての視線が1度に向いてきたわけではない。ゆっくりと何人かが振り返り、何人かが顔の向きを変え、結果として静の方に向いている目が室内に増えていった。それが数秒のうちに起きた。
静は動かなかった。背中が椅子の背に触れたまま、膝の上の手が少し硬くなった。目の前には前の列の人の後頭部がある。その後頭部がこちらを向こうとして、わずかに動いているのが分かった。いくつかの選択肢が頭の中で瞬時に並んだ。用意ができないと正直に言う。体の具合が悪かったと言い訳をする。明日必ず持ってくると、再び約束を先延ばしにする。黙って頭を下げて、その場をやり過ごす。席を立って、部屋を出る。どれも今までの自分が取ってきた行動だった。どれも問題を1日か2日先送りするだけで、何も解決しない。
静はゆっくりと椅子から立ち上がった。立ち上がる時、膝に乗せていた手で椅子の縁を1度だけ押した。それだけで体が起き上がり、静は集会室の中で立っている状態になった。周りの視線が、また動いた。セーターの胸の辺りを1度だけ、指先でなぞるように直した。それから静は、前の方へ一歩踏み出した。長机を回り込んで、森本のいる方向へ向かった。集会室はそれほど広くないから、数歩で部屋の中央に出た。30人の老人たちが、無言でその動きを追っている。
中央に立った時、静は止まった。森本が正面にいる。森本の顔は、静が前へ出てきたことに対して、少し意外そうな表情をしていた。何かを言おうとして、口が小さく開いた。その一瞬より早く、静は腰から上体を前に倒した。深く、まっすぐに。90度にはならなかったかもしれないが、それに近い角度で、静は頭を下げた。そのまま2秒、3秒止まった。
集会室の中が、完全に静かになった。電気ストーブの乾いた音だけが、かすかに聞こえていた。誰も動かなかった。何も言わなかった。静が頭を下げている間、集会室の全員が動くのをやめていた。
静は頭を上げた。30人の顔が、静の方を向いている。静は集会室の中央に立ち、その顔たちを1度だけ見渡してから、口を開いた。「申し訳ありません」と言った。声は思っていたよりも落ち着いていた。震えなかった。「こんな話を皆さんの前でするのは恥ずかしいのですが」と続けた。
森本は何も言わなかった。手元の紙を持ったまま、静を見ている。静はまっすぐに前を向いたまま、言葉を続けた。「私の通帳の残高は、今この時点で2,140円です。1万5000円は、今の私には出せません。今月の年金は、すでに家賃と光熱費に消えています。それだけが、今の私の現実です。」
言い終えてから、静はまた短く頭を下げた。「ご迷惑をおかけして、申し訳ありません」と言った。
集会室が、静まり返っていた。風が廊下を通り抜ける音が、ドアの隙間から入ってきた。どこかで暖房が音を立てた。それ以外には、何の音もしなかった。30人の老人が、静を見ていた。同情とも軽蔑とも、どちらとも取れない顔が並んでいた。中には口を少し開けたまま、次に何が起きるかを待っているような顔もある。何人かは目を伏せていた。
森本が口を開いた。1度だけ小さく息を吸ってから、森本は言った。「そうでしたか。」それだけだった。追い打ちをかけるような言葉は出なかった。「みんなでどうにかしましょう」という親切の言葉も、今度は出なかった。森本の顔から、何かが抜けていた。いつも張り付いているような、あの表面上の柔らかさが、この瞬間だけ薄くなっていた。
後ろの列に座っていた白髪の男性が、小さな咳払いをした。それが合図になったわけでもないのに、集会室の空気が少しだけ動いた。誰かが椅子の上で姿勢を変え、誰かが膝の上で手を組み直した。
静は椅子に戻った。歩いて自分の席に戻り、椅子に座った。膝の上に手を乗せた。森本は手元の紙に1度目を落としてから、「では、次の議題に移ります」と言った。声は少し、いつもより平たかった。年末の清掃活動の日程についてという話が続いた。静はその話を、ただ聞いていた。声の意味を追うというより、音として受け取っていた。頭の中は、不思議なほど静かだった。さっき自分が言った言葉が、今この部屋の中に存在していることは確かなのに、静自身の胸の中には、特に何も残っていなかった。重いというより、軽くなったという感覚の方が近かった。
会合の後半は、ゴミ袋の使用変更についてで、新しい指定袋の寸法と購入の案内が配られた。静も1枚受け取り、手に持ったまま数字を眺めた。何センチ×何センチのビニール袋。それが今夜の集会室に存在している、全ての意味だった。
7時50分になり、森本が締めの言葉を言った。「お疲れ様でした。また来月、よろしくお願いします」という言葉で、会合は終わった。椅子を立てる音、コートを羽織る音、低い声でのやり取りが始まった。静は持っていたビニール袋の案内を折りたたんで、カーディガンのポケットに入れた。出口に向かって歩き始めた時、後ろから声がかかった。静は振り向いた。呼んだのは、森本ではなかった。入口の近くの席に座っていた女性で、70前後に見える。白髪を短く切り揃えた、小柄な人物だった。名前は知らない。別の棟の住人だと思うが、確かなことは分からない。
その女性が、少し体を前に傾けるようにして言った。「よかったら、うちの電気毛布、1枚あるんです。去年、新しいのを買ったので、古いのが余っていて。よかったら、使ってもらえませんか?」
静は1拍止まった。電気毛布という言葉を、頭の中で確認した。「ありがとうございます」と静は言った。声が少し遅れて出てきた。「でも、結構です。」女性は少し困ったような顔をしたが、頷いた。「そうですか。でも、もし気が向いたら、声をかけてください」と言った。静は会釈をして、集会室の外に出た。
廊下に出ると、夜の冷気が足元から上がってきた。階段の方向へ歩きながら、静は自分の手元を1度だけ見た。電気毛布を断ったことを後悔しているかどうか、自分でもよく分からなかった。それを受け取れば、楽になるかもしれない。しかし、受け取ることで、また何かが変わる気がした。その何かが何なのか、うまく言葉にはできない。ただ、今夜はこれ以上、何も受け取りたくなかった。今夜だけは。
階段を登った。1段、2段と踏みながら、静は今夜集会室で起きたことを、静かに頭の中に置いた。2,140円ですと自分が言った言葉。それを30人の前で言った事実。森本の顔から、何かが抜けていったこと。生まれてから72年間、静は自分が貧しいことを、人前でまともに認めたことがなかった。貧しい時、いつも別の言葉を使ってきた。「節約しています」「今は少し控えています」「いずれまた機会があれば」。そういう言葉で、本当のことを包んでは隠してきた。今夜、初めて包まなかった。「2,140円です」と言った。言った瞬間に、何かが終わった感覚があったが、それが何かはまだ分からない。それは長年維持してきた体裁なのか、それとも体裁を守るために毎日使い続けてきた、ある種の緊張なのか。
3階の廊下に出ると、風が正面から来た。いつもと同じ、海の方からの冷たい風だ。静はそれを受け止めながら歩いた。廊下の向こうに、自分の部屋のドアが見える。不思議なことに、咳が出なかった。来るかと思って待っていたが、来なかった。
ドアの前に立ち、鍵を取り出した。鍵穴に差し込んで回す。ドアが開く。玄関で靴を脱いで、スリッパに履き換えた。ドアを閉めて、チェーンをかけた。台所に行き、電気をつけた。やかんを火にかけた。火がつく音がして、青い炎が広がる。静はその炎をしばらく見てから、台所の椅子に腰を下ろした。外廊下の風の音が、ドアの向こうで聞こえる。
お湯が沸くまでの間、静は台所の壁を見ていた。タイルの黒ずんだ目地が、蛍光灯の光の下でいつもより鮮明に見えた。今度こそ、掃除しようと思った。明日か明後日か、体が動く時に。
やかんが音を立て始めた。急須にお湯を注ぎ、しばらく待って湯呑みに移した。両手で持って、一口飲んだ。熱い。舌が少し痛いくらいに熱かったが、それでも飲んだ。
今夜の1万5000円の問題は、まだ解決していない。それは明日も残っている。来週の集会で、また話が出るかもしれない。森本が何らかの対応を取るかもしれない。静の名前が掲示板に出るかもしれない。そういうことが、まだこれからも続く。しかし、今夜の静の胸の中には、それに対する焦りが、昨日ほど鋭くなかった。鋭さが消えたわけではない。ただ、少し形が変わったという感覚がある。
言ってしまった。ということが、何かを変えていた。言葉というのは、吐き出した瞬間にもう引き戻せない。森本の前で、30人の前で、静は自分が貧しいことを認めた。それは変わらない事実として、今夜のあの集会室に存在した。明日になっても、その事実は消えない。消えないが、今夜の静には、そのことへの恐れが昨日より薄れていた。
恐れていたことが、実際に起きた。しかし、起きてみれば、今夜の静はまだここにいる。部屋の台所に座って、熱いお茶を飲んでいる。それだけのことが、今夜は少しだけ確かなことに思えた。
湯呑みの中のお茶が、少しずつ冷めていく。静はそれを飲み切ってから、湯呑みを台所の流しで軽く洗った。水道の水が冷たかった。手を拭いて、電気を消した。寝室に向かいながら、静は窓の外を1度見た。団地の中庭を挟んで、向かいの棟の窓がいくつか光っている。それぞれの部屋に、それぞれの夜がある。電気をつけたまま眠ってしまっているのか、まだ起きているのか、静には知るよしもない。ただ、光があるということだけが見える。
布団を敷いて、横になった。天井は暗く、いつもと同じだった。外の風の音が、かすかに聞こえる。今夜は、昨夜より少し弱い気がした。目を閉じた。眠れるかどうかは分からない。明日の朝になっても、1万5000円がないことは変わらない。森本が次に何をしてくるかも分からない。この団地で、これから自分がどういう目で見られるかも、まだ分からない。それでも、静の体は今夜、昨夜より少し重くなかった。
72年間、ずっと何かを抱えて立っていたような気がしていた。それが全部なくなったわけではない。ただ、今夜だけは、少しだけ手が開いている気がした。静は暗い天井に向かって、目を開けたまま少しの間いた。それから、静かに目を閉じた。



