父が倒れたあの日、救急車のサイレンが遠ざかっていくのをただ見送ることしかできなかった。何もできない自分の無力さが悔しくて、その思いが医者を目指す原動力になった。
大学病院で心臓血管外科医として働いていた頃、俺は同僚の藤崎レイナと新しい低侵襲心臓手術の研究を進めていた。体への負担が少なく回復も早い。患者の人生を大きく変えられる可能性を秘めた画期的な手法だった。
発表会の日、会場の反応は上々だった。廊下に出た俺にレイナが満足そうな顔で話しかけてきた。
「霧島先生、手応えありましたね。」
「ああ、でもこれはまだ入り口だ。本当の勝負はこれからだよ。」
互いに笑い合いながら病棟へ向かうと、一人の少年の病室の前で足が止まった。ドアの向こうから明るい声が聞こえてくる。部屋に入ると、ベッドに座った少年が看護師と話していた。胸には手術前の検査用モニターが貼り付けられているのに、その表情には全く影がない。
「佐藤君、先生がいらっしゃいましたよ。」
少年がこちらを向いた瞬間、目が合った。佐藤ヒロ。先天性の心疾患を抱えた17歳の高校生だった。
「霧島先生ですか? 俺の手術、先生がやってくれるって聞きました。」
「そうだよ。君のことをしっかり見させてもらう。」
「あの手術が成功したら、またサッカーできますかね。」
その言葉に俺は思わず固まってしまった。カルテには手術前から激しい運動は制限されていたと記されていた。それでも彼はグラウンドに戻ることを信じて疑っていなかった。
「できるよ。絶対に直して見せる。」
気がついたらそう口にしていた。医者として言うべきではない無責任な言葉かもしれない。それでもあの眼差しを前にして、俺はそれ以外の言葉を選べなかった。
ヒロはパッと顔を輝かせ、「約束ですよ」と言って右手を差し出した。俺はその小さな手をしっかりと握り返した。あの温もりは今でも手のひらに残っている。
翌日、スポンサー企業の責任者である黒川浩司が大学病院を訪れた。がっしりとした体つきで、抜け目のない目をした男だった。黒川は会議室のテーブルに分厚いスケジュール表を広げて言った。
「臨床試験の開始を来月に前倒ししたい。」
その言葉に俺は眉をひそめた。
「前倒し? 安全性の検証はまだ途中です。データが十分に揃っていない段階で患者に試すのは、あまりにもリスクが高い。」
「リスクを語るなら、立ち止まることにもリスクがある。今この瞬間も治療を待っている患者がいるんですよ。」
黒川の言い方は滑らかで、反論しにくい言葉を選んでいた。しかしその言葉の奥にあるのは患者への配慮ではなく、投資回収への焦りだということは俺には分かっていた。
その夜、研究室に残った俺とレイナは向かい合って座っていた。窓の外には夜の病院の明かりが静かに並んでいる。
「レイナ、どう思う?」
「正直に言えば、前倒しには不安がある。でも研究を止めれば資金も止まるでしょ。そうなれば今度は誰も救えなくなるわ。」
「データが整っていない段階で、患者を手術台に載せるのか。」
「誠実さだけでは医療はできない。私たちは全体を見なければいけないの。」
レイナの言葉は冷静で筋が通っていた。しかし俺にはどうしても割り切れないものがあった。
「俺は胸を張れない医療はしたくない。ヒロが俺を信じて手を差し伸べてくれた。あの子に今の自分たちの姿を見せられるか。」
レイナはしばらく黙っていた。やがて静かに視線を逸らした。その沈黙が答えだった。
一週間後、理事会で俺が安全性の問題を正式に訴えると、周囲の空気は一変した。
「これは研究の妨害だ。契約違反にもなりかねない。そんな不確かなことを言って、どれだけの患者を待たせるつもりですか。」
黒川が声を荒げると、理事たちは互いに目を見合わせながら押し黙った。レイナは俺の隣に座ったまま何も言わなかった。その沈黙が一番の答えだった。
結局、俺は大学病院を退職することになった。退職届を出した帰り道、廊下を歩いていると前方からヒロが歩いてきた。母親に付き添われ、手術の同意書と思われる書類を抱えていた。
「あ、霧島先生。」
ヒロは明るく手を振った。その顔にはいつもと変わらない笑顔があった。俺は立ち止まった。何か言わなければと思った。でも言葉が出なかった。
「元気そうだな。」
「はい。先生の手術楽しみにしています。約束忘れてませんから。」
あの日の手の温もりがまたじわりと手のひらに蘇った。この子はまだ俺が手術をすると信じている。その無邪気な笑顔が胸に深く刺さった。俺は軽く頷いて、そのまま歩き続けた。振り返ることができなかった。
廊下の角を曲がった瞬間、壁にもたれかかり、目を閉じた。守ると誓ったはずの約束を、俺は今自分の手で手放してしまった。それが正しい選択だったのか、間違いだったのか。その答えを俺が知るのは、まだずっと先のことだった。
あれから三年が経った。俺は今、郊外の小さな心臓専門クリニックで働いている。大学病院の頃のような最先端の設備はない。有名な学会で発表する機会もない。それでも目の前に座る患者の顔をしっかりと見て、話をじっくりと聞いて、一人一人に向き合う日々に、俺は確かな充実を感じていた。
若手医師の森下匠が来てくれたのは、開業から半年が経った頃だった。大学病院からのオファーを断って、わざわざ俺のクリニックを選んでくれた。
「先生みたいな医者のそばで学びたいんです。」
そう言って頭を下げた森下の顔を見た時、俺は思わず苦笑いした。
「買いかぶりすぎだ。ここには大した設備もないし、名声も手に入らないぞ。」
「それでいいんです。俺が欲しいのはそういうものじゃないので。」
その真っすぐな目がかつての自分に重なった。以来、森下は俺の右腕としてクリニックを共に支えてくれている。
そんなある夜のことだった。診療を終えて後片付けをしていると、スマートフォンが鳴った。画面に表示された名前を見て、俺は思わず手を止めた。藤崎レイナ。彼女とは三年間、一度も連絡を取っていなかった。
「もしもし。」
「霧島君、急にごめんなさい。佐藤君のこと覚えてる?」
その名前を聞いた瞬間、胸の奥で何かが疼いた。
「臨床試験の手術後に、重篤な合併症が出たの。今、集中治療室にいる。」
俺は返事する間もなく白衣を掴んで立ち上がっていた。
「今から行く。」
電話を切って振り返ると、森下が心配そうな顔でこちらを見ていた。
「先生、どうかしましたか?」
「三年前、大学病院をやめる前に担当していた患者がいるんだ。その子が今危ない状態らしい。守れなかった約束がある。取り戻しに行ってくる。」
「行ってください。ここは俺が片付けておきます。」
森下の言葉に俺は短く頷いて、夜の道へと飛び出した。車を走らせながら、あの日の手の温もりがまた手のひらに蘇ってきた。
「約束忘れてませんから。」
あの笑顔が暗い車窓に浮かんでは消えた。
集中治療室の前に着いたのは、深夜に近い時間だった。廊下の長椅子に一人の女性が座っていた。両手を膝の上で固く組み合わせ、俯いたまま動かない。ヒロの母、佐藤正美だった。
俺の足音に気づいた正美がゆっくりと顔を上げた。目が赤く腫れていた。何日も泣き続けていたような、そんな顔だった。
「霧島先生、突然来てしまって申し訳ありません。ヒロ君の様子が気になって、いても立ってもいられなくて。」
正美はしばらく俺を見つめた。
「来てくださっただけで嬉しいです。ありがとうございます。」
その言葉が胸に重くのしかかった。怒鳴られた方がまだ楽だった。責められるよりも感謝される方が、ずっと辛かった。
「あの子、先生のことをずっと待っていたんですよ。霧島先生が手術してくれるって、ずっと信じていて。」
正美の声が途中で途切れた。俺は何も言えなかった。ただ深く頭を下げた。それしかできなかった。
しばらくして、廊下の奥からレイナが歩いてきた。三年ぶりに見るレイナは、以前より少しやせて見えた。
「来てくれてありがとう。中を見ていく?」
「正美さん、少しだけ席を外していただけますか? 先生と話したいことがあって。」
正美は静かに頷いて、廊下の奥へと歩いていった。集中治療室のガラス越しにヒロの姿が見えた。全身にチューブや機器がつながれ、弱々しく横たわっていた。あの「グラウンドに戻りたい」と笑っていた少年が、今はただ呼吸を続けることだけに全力を尽くしている。
「俺がいれば、こうはならなかったかもしれない。」
思わず口から出た言葉だった。
「私もそう思ってた。ずっと。」
レイナは静かにそう言って、ガラスの向こうのヒロを見つめた。
「あの夜、霧島君が言ったこと。『胸を張れない医療はしたくない』って。私、忘れられなかった。霧島君が病院を去ってからも、あの言葉が頭から離れなくて。」
「レイナ…」
「私は間違ってたかもしれない。研究を守ろうとして、本当に守らなければいけないものを見失っていた。」
その言葉に、俺は三年間抱えていた重さが少しだけ緩むのを感じた。対立していたはずの俺たちが、今は同じものを見ている。同じ後悔を抱えて、同じ方向を向いている。
「今からでも遅くない。一緒にヒロを助けよう。」
レイナはゆっくりと頷いた。
廊下に戻ると、正美が長椅子に座っていた。背中がひどく頼りなく見えた。俺は正美の前に歩みより、膝を折って目線を合わせた。
「必ず助けます。今度こそ約束を守ります。」
正美はしばらく俺を見つめた後、静かに泣き始めた。その涙が俺の覚悟を固めた。深夜の廊下に、正美の嗚咽だけが小さく響いていた。
それから数日後、森下から連絡が入った。
「先生、調べていたら気になるデータが出てきました。今すぐ来てもらえますか?」
クリニックに戻ると、森下がパソコンの画面に向かって険しい顔をしていた。
「臨床試験のデータを解析していたんですが、手術前の段階で企業側がリスクに関するデータを把握していた可能性があります。それが医師側に共有されていなかった形跡があって。」
俺は画面を覗き込んだ。森下の言う通り、データには明らかな不自然さがあった。
「これは意図的に隠されていたということか。」
「断言はできませんが、可能性は高いと思います。」
俺はすぐにレイナに連絡を取った。病院で合流すると、レイナも同じ違和感を抱えていたことが分かった。
「実は私も気になっていたの。でも証拠が掴めなくて。森下先生のデータと合わせれば、話は変わってくる。」
その場に黒川を呼び出すと、彼は最初こそ平静を装っていたが、データを突きつけられると表情が固まった。
「それは解釈の問題だ。リスクがゼロだとは言っていない。医師側の判断の問題もあるんじゃないですか。」
「黒川さん、患者は17歳の少年です。そのデータを共有していれば、手術の判断が変わっていたかもしれない。それでも解釈の問題だと言えますか?」
レイナの言葉には揺るぎない強さがあった。俺は隣に並んで立ち、黒川をまっすぐに見据えた。
「黒川さん、俺たちはヒロを助けます。その上で、このデータのことはしかるべき形で公表します。それだけは覚えておいてください。」
黒川は何も言わなかった。ただその目が初めて泳いだのを、俺は見逃さなかった。
廊下に出ると、レイナが静かに口を開いた。
「私、覚悟を決めた。病院や企業との関係がどうなっても、患者を最優先にする。それが医師としての私の答えだから。」
「一人で背負う必要はない。俺も一緒にいる。」
レイナは少し驚いたような顔をした後、小さく微笑んだ。その笑顔を見て俺は確信した。俺たちは今、同じ場所に立っている。あとはヒロを助けるだけだ。
ヒロの容態が急変したのは深夜のことだった。病院からレイナの電話が入った瞬間、俺はすでにジャケットを掴んでいた。
「ヒロ君の状態が悪化してる。緊急手術が必要になった。霧島君、お願いできる?」
「すぐ行く。」
手術室に入ると、レイナがすでに準備を整えて待っていた。三年のブランクなど関係なかった。二人が手術台を挟んで向かい合った瞬間、体が自然と動き出す。
手術をしながら、俺はあの日のことを思い出していた。ヒロが差し出した小さな右手。しっかりと握り返したあの温もり。
「約束忘れてませんから。」
俺も忘れていなかった。一度も忘れたことなどなかった。
手術は長時間に及んだ。一度モニターの数値が急落し、手術室の空気が張り詰める。レイナと目があった。言葉はいらない。二人の手が淀みなく動き続けた。
やがてモニターに安定した鼓動が映し出された。規則正しく、力強く、確かな音を刻み続けるその波形を、じっと見つめる。俺は静かに息を吐いた。隣でレイナも目を閉じて深く息を吸い込んでいる。
「終わったな。」
「うん。終わった。」
手術室を出ると、駆けつけていた正美が廊下で祈るように両手を組んで立っていた。俺の顔を見た瞬間、正美は全てを察したように膝から崩れ落ちる。
「手術は成功しました。ヒロ君は助かります。」
「ありがとうございます。ありがとうございます。」
嗚咽混じりの言葉が廊下に響く。俺はただ静かに頷いた。今度こそ約束を果たせた。その実感がじわりと胸の奥に広がっていく。
手術の成功から間もなく、企業側のリスク隠蔽が正式に公表された。森下が解析したデータは証拠として認められ、会見が開かれることになる。黒川も同席を求められ、会見の場に姿を表した。
会見が始まると、黒川は最初から言い訳を並べ立てる。
「リスクデータの共有については、社内の連絡ミスによるものです。会社として患者を危険にさらす意図は全くなく、むしろ一日も早く治療法を届けたいという前向きな意図から進めてきた事業です。今回の件はあくまでも手続き上の不備であり…」
滑らかに言葉を並べる黒川の横で、レイナが静かに手を挙げた。
「少しよろしいですか?」
会場の視線がレイナに集まる。
「黒川さん、連絡ミスとおっしゃいましたが、リスクデータが社内で共有されていた記録は残っています。つまり会社はリスクを把握していた。それを医師側に伝えなかったのは、ミスではなく判断です。その判断が17歳の少年を死の淵に追いやった。善意という言葉でそれを覆い隠すことはできません。」
会場が静まり返った。黒川は口を開きかけたが、言葉が出てこない。俺はレイナの隣に立って、黒川をまっすぐに見据えた。
「黒川さん、あなたが守ろうとしたのは患者ではなく、投資の回収でしたよね。それだけははっきりさせておきたい。」
黒川の表情がみるみる青ざめていく。それ以上、彼が言葉を発することはなかった。
会見が終わり、二人で廊下を歩く。レイナが静かに口を開いた。
「ねえ、霧島君。私たち、ずっと『研究か命か』って、どちらかを選ばなければいけないと思ってたよね。」
「ああ。でもそれは間違いだった。」
「命を守るためにこそ研究がある。それだけのことだったのに。なぜあんなに遠回りしてしまったんだろう。」
「遠回りしたから分かったんだと思う。近道だけじゃたどり着けない答えもある。」
レイナは小さく頷く。その横顔が以前よりずっと穏やかだ。
それから数ヶ月が経つ。桜が満開の公園に、ヒロの姿があった。退院してからリハビリを続けてきた彼は、まだ本格的な運動はできない。それでも春の日差しの中でボールを軽く蹴るその姿には、確かな希望がある。動きはまだぎこちない。でも確実に前へ進んでいる。
俺とレイナは少し離れたベンチから、その姿を静かに見守っていた。ヒロが俺たちに気づいて、大きく手を振る。
「霧島先生、藤崎先生、見てください。蹴れましたよ。」
「ああ、見てたよ。いいボールだ。」
「約束、ちゃんと守ってくれましたね。」
その言葉に胸が熱くなる。
「約束したからな。」
ヒロは満足そうに笑って、またボールを追いかけていった。その後ろ姿を見つめながら、レイナが静かに言う。
「よかった。本当に良かった。」
「ああ、そうだな。」
二人でしばらく何も言わずにヒロを見守る。桜の花びらが風に乗って舞い、二人の間をゆっくりと流れていく。やがてレイナがぽつりと口を開いた。
「私たち、これからも一緒に歩いていけるかな? 医師としてだけじゃなくて。」
俺はレイナの顔を見た。少し照れ臭そうに、でもまっすぐにこちらを見ている。
「ああ、どこまでも。」
桜が舞う中、俺たちは並んでベンチを立った。ヒロの笑い声が春の風に乗って広がっていく。守りたかったものが、今ここにある。その温かさを胸に刻みながら、俺たちは新しい一歩を踏み出した。



