「中卒が特許開発で年7億も必要か。冗談は学歴だけにしろ。首だ。」
突然、技術部に現れた二代目社長が、何の前触れもなく解雇を宣告した。俺はこっそりため息をついた。中卒を舐めている二代目社長には、きつい教訓を教えてやる必要があるだろう。そしてこの後、社長は自らの行いのせいで自分の首を締めることになり、何もかも失うことになった。
俺の名前は佐藤。41歳。精密機械用の特殊な樹脂や接着剤を作る会社で働いている。父は俺が生まれた直後に亡くなり、母が女手一つで育ててくれた。家は貧しく、高校に進学する余裕はなかった。俺は中卒で今の会社に就職した。
会社のトップだった矢沢社長も、俺と同じようにシングルマザーの家庭で育ったらしい。「何かあったら遠慮なく相談してね」と、入社初日に笑いながら言ってくれた矢沢社長の優しい顔は、今も鮮明に思い出せる。矢沢社長自身が学歴で苦労した経験から、会社は学歴不問で採用していた。昇進や昇給も完全に実力勝負。仕事に打ち込めば打ち込むほど結果が出るので、俺は必死に働き、必要とあれば独学で勉強した。
おかげで中卒なのに、樹脂や接着剤に関する技術はかなり詳しくなり、この分野の知識やスキルなら高学歴にも負けないという自信がついた。「佐藤君を雇って本当に良かったよ」と矢沢社長に言ってもらえるまで成長し、拾ってもらった恩を少しだけ返せた気がした。
入社から15年。俺は矢沢社長と次世代の接着剤技術を共同開発していた。いつまでも社長と一緒に働きたい。そんな希望は、ある日突然打ち砕かれる。
いつものように出勤し、仕事をしていた春先のある日。技術部のトップである遠藤部長が電話で叫んだ。「え、本当ですか?」その電話は、社長の突然の訃報を知らせるものだった。春一番が吹いたその日、強風に煽られて道路に倒れた木が大規模な玉突き事故を起こし、社長はその事故に巻き込まれて帰らぬ人となった。
「まだ恩も返せてないのに」俺は声を上げて泣いた。
葬儀当日。矢沢社長は独身で身内がいなかったため、右腕だった専務が喪主を務めた。弔辞は専務に依頼され、俺が担当した。涙混じりの俺の弔辞に、参列者はみんな涙を流した。一人を除いて。
「おい、お前、中卒の分際で弔辞に選ばれて調子に乗ってんじゃないだろうな」
葬儀が終わり、俺を会場の隅に呼び出したのは中村副社長だった。この人は矢沢社長とは正反対の学歴主義者で、採用は大卒にすべきだと主張し続けていた。そして、社長に可愛がられていた俺を目の敵にし、顔を合わせるたびに嫌味を言ってくるような人物だ。
「会社は俺が継ぐ。これからはお前の好きにはさせないからな。無能に払う無駄金はないぞ。中卒の底辺は普通の人間の10倍働いてようやく一人前だ。解雇されたくなかったら、俺の命令に黙って従えよ」
中村副社長の言葉に、俺は何も返さず黙った。今まで好き勝手に振る舞った覚えはない。会社の規律や社会のルールを守り、矢沢社長に恩返しするため身を粉にして働いてきた。しかし中村副社長から見ると、社長に可愛がられていた俺は、自分勝手に過ごし楽な仕事をして給料をもらっていたという認識らしい。
新卒出身の副社長は技術部の仕事を何も知らない。けれど、知らないからと言って罵倒される理由にはならない。中卒で社長に可愛がられていたという事実がある限り、俺がどういう仕事をしても一生認めないだろう。
「ああ、どうしたもんだか」副社長と別れ、帰路につく。「もっと大変なことになるかもな」嫌な未来を想像して、俺は深いため息をついた。
それから1ヶ月後、二代目社長として中村副社長が正式に就任した。
「今日から中村社長だ」社長は就任の挨拶でこう宣言した。「これから会社は大きく変わる。前社長の恩恵を受けていた者もいるが、これからは完全に公平だ。足を引っ張る者は容赦なく追い出す。公平な評価のため、これから抜き打ちの内部監査を実施する」
中村社長は、真っ先に俺の方を見ていたように思う。その目を見て、俺の中で不安が一気に大きくなった。
内部監査は営業部から行われた。営業部は高卒社員が半分、大卒社員が半分だ。中村社長の内部監査の後、高卒社員の一部が別の部署へ移動になった。移動後、降格になった者もいる。表向きは移動に伴う調整のための降格で、処罰的な意味合いは一切ないとのことだが、中村社長の学歴主義が色濃く出た決定であるのは明らかだ。
ある日の昼休み、移動になった元営業部の高卒社員と休憩室で遭遇し、詳細を聞くことができた。
「役職についてた特別報酬がまるまるカットだ。何が処罰的な意味合いはないだよ」別の社員が暗い顔で続ける。「俺の移動先は総務部で、担当は雑務処理だ。遠藤部長が申し訳なさそうに、中村社長の決定だって教えてくれたよ。あの新社長は、学歴のない俺たちを会社から追い出したいんだ」
高卒社員でこのような扱いなのだ。中卒の俺は果たしてどうなってしまうのか。戦々恐々としながら監査の日を待つ。
そして新社長就任2ヶ月後。とうとう中村社長が監査にやってきた。午前中から給与データベースを調べていたらしく、技術部にやってきたのが昼過ぎだった。
「入るぞ」社長は乱暴に技術部の扉を開けると、俺の方へまっすぐ歩いてきた。そして机を叩き、ある書類を俺に突きつけた。「これは一体どういうことだ?」
手に持っているのは、俺の年収の詳細をまとめた書類だ。業務上必要な場合、社長は社員の年収データを知ることができる。
「中卒が特許開発で年7億も必要か。冗談は学歴だけにしろ。やっぱりお前は前社長に不当に可愛がられてたんだな」怒りも混じっているが、俺を責める正当な理由が見つかったからなのか、声には喜びのようなものが混ざっている。
中村社長の言う通り、俺の年収は普通ではない。特許開発経費という名目で7億もの大金が支払われているのだ。しかし、矢沢社長が俺を可愛がっていたから、とんでもない給料を渡していたというわけではない。
「我が社には矢沢社長が開発した特許がある。これのおかげで我が社は中堅ながら安定した売上を維持しているんだ。それで得た収入を、まさかお前に流していたとはな」
我が社が所有している特許は接着剤に関するものだ。この特許技術を大手企業に独占契約で提供した結果、我が社の売上を大きく占めることになった。
「低学歴のバカのくせに、運良く甘い汁を吸っていたとはな。お前は我が社の癌だ。癌はすぐ出さないと大変なことになる。というわけで、お前は首だ。即刻出ていけ」
中村社長は会社のためを思って言っているのではない。目の上のたんこぶだった俺を追い出せる理由を見つけて、口元を歪ませ、醜い笑みを浮かべている。その顔を見た瞬間、今まで我慢していた感情が溢れるのを感じた。
中村社長のいびりは長年に渡り続いていた。時にはストレスで胃を痛めることもあったが、我慢して働き続けていたのは矢沢社長への恩があったからだ。決して給料をもらえるからではない。確かに俺は7億という破格の金を受け取っていたが、派手な暮らしは一切せず、受け取った給料の大半は、お金で苦労している子供の支援団体に寄付している。俺と同じ苦しみを持つ子を一人でも多く助けるためだ。そして俺には、7億という給料を受け取るに足る正当な理由があった。
「そうですか。わかりました。でも後悔しますよ」
冷たく返した俺に、中村社長は一瞬だけ軽蔑の顔になる。しかしすぐに余裕のある表情に戻り、鼻で笑った。「後悔する?誰が?中卒のくせに口だけは一人前だな」
この罵倒には一切反応せず、俺は机に向かう。「おい、無視するな」
「退職願を作って、今すぐ提出します。お望み通り会社から出て行ってあげますよ」中村社長とは一切目を合わさず、パソコンで手早く退職届を作成。俺と社長のやり取りを呆然と見ていた遠藤部長に、出来たての退職願を提出した。「遠藤部長、今までお世話になりました」
「さ、佐藤君、本気なのかい?」
「はい。明日から引き継ぎ作業に入ります。終わり次第、会社をやめますので」
必要事項だけ伝え、今度は荷物をまとめる。「おい、俺に何か言うことはないのか?」
「あなたには一切お世話になってないので、何も言うことはありませんね」
今まで従順だった俺の反抗的な言葉に、中村社長だけでなく周りで見ていた社員たちも驚いている様子だ。社員たちのひそひそ声に、中村社長は舌打ちをした。「お前らうるさいぞ」
社長の気がそれているうちに、足早に部署の扉へ向かった。「あ、おい、待て」俺の態度が気に入らない中村社長が追いかけようとするが、目の前で扉を閉める。社長に追いつかれないように小走りで玄関へ向かい、そのまま一度も振り返ることなく会社を後にした。
2日後、俺は平穏を予想しながら引き継ぎ作業をしていた。しかし平穏な時間は昼休憩の直前に終わってしまった。
「おい、佐藤、これは一体どういうことだ?」叫びながら技術部に入ってきたのが中村社長だ。社員たちはぎょっとした顔で社長を見ている。社長はみんなの視線には一切構わず、俺にまっすぐ向かってきた。
「これとは何のことでしょう?俺はエスパーではないので、説明してくれないとわかりません」
俺の嫌味たっぷりな言葉に気づく余裕もないらしい。中村社長はなぜか顔色を悪くしながら大声で言い放った。「うちが申請している新しい特許の件だ。あれは前の矢沢社長が開発したもののはずなのに、共同開発者にお前が含まれていたんだ」
「そうですか。それに何の問題が?」
「今日、うちの顧問弁護士から連絡が来て、共同開発者のお前が特許の承諾を拒否したから、申請自体できなくなったと言われたんだよ。一体何をしたんだ」
焦りを滲ませる中村社長とは対照的に、俺はあっけらかんと答える。「顧問弁護士の方に、俺の退職が決まったと連絡しただけですよ」
「そ、それがなんで特許の承諾拒否になるんだ?」
「前の矢沢社長が作った契約書が理由です。矢沢社長は、俺が不当に解雇された場合、共同開発の特許申請への同意を撤回できるという条文を契約書に盛り込んでいたんです。共同開発の特許は、開発者全員の同意がないと申請できません。俺が同意を撤回したため、申請自体が不可能になったというわけです」
呆然としている中村社長に、俺は続けてある事実を伝える。「そして既存の特許についても説明させてもらいます。この会社が持つ特許技術は、実は俺と矢沢社長の共同開発なんですよ。特許権は会社にありますが、俺個人が実施権を持っていて、会社に独占的な使用許諾をする形になっています。会社はその特許で年間約10億円の利益を得ていて、契約によりその70%、つまり7億円が俺に配分される仕組みでした」
「う、嘘だろ」ようやくといった様子で中村社長がつぶやく。
「それから、この実施許諾契約には特別な条項があります。俺が不当な解雇を受けた場合、契約を即座に解除できるんですよ。つまり、俺が退職したら会社は特許技術を使えなくなります」
矢沢社長がここまで俺に有利な契約書を残してくれたのは、俺のことを実の息子のように思ってくれていたからだ。
「お前、そこまで矢沢社長に取り入っていたのか?あの特許は社長が苦労して開発したものだろ。それをただの中卒のお前が横からかっさらうなんて、俺は絶対に認めないぞ」
「社長、ちょっといいですか?」突然、遠藤部長が俺たちの間に割って入る。そして中村社長に言い聞かせるように、静かな声でこう言った。「あの特許は確かに佐藤と矢沢社長が開発したものです。というか、社長一人では開発できませんでしたよ。俺は二人が必死になって開発している姿を見ています」
中村社長がポカンとした顔になる。その隙に他の社員も次々と声をあげた。「佐藤さんがメインで開発してました。研究部屋の監視カメラが証拠です」
大勢の証言に中村社長が焦り始める。「お、お前ら、こいつの味方をするために嘘を…」
「いえ、決して嘘はついていません。映像を見れば分かるはずです」
明確な証拠も出てきて、中村社長の余裕が完全に消えた。
「だから言いましたよね。後悔しますよって」
俺の方を見た中村社長の顔には冷や汗が滲んでいた。中村社長が知らなかったのは、矢沢社長が契約の詳細を秘密にしており、突然の死で引き継ぎができなかったからだ。要するに、俺がこのまま会社を去ったら既存の特許が使えなくなり、特許関連の売上が全部消える。新しく申請した特許も使えず、会社は倒産の危機に陥るというわけだ。
俺が分かりやすく事実を伝えると、中村社長の指が震え出す。震えは徐々に全身に伝わり、顔色が見るからに青くなった。「そ、そんなはずない。ただの中卒のお前が、大金を得られる技術を開発できるはずが」
「そのくらいの価値があるほど、素晴らしい技術ということです」遠藤部長が静かな声で告げる。他の社員もその通りだと言いたげな顔で頷いていた。
「ちょっと待て。本当にそんな契約があるのか?今すぐ契約書を見せろ。弁護士にも確認させる。こんなの佐藤の策略に決まってる」中村社長は必死に抵抗した。その時、遠藤部長が静かに言った。「社長、それなら契約書を確認しましょう。確か矢沢社長の机の金庫に保管されているはずです」
部長が社長室へ向かおうとすると、中村社長は慌てて静止した。「ま、待て。俺が確認する。お前らはここで待ってろ」そう言い残して、社長は足早に部屋を出ていった。
30分後、顔面蒼白になった中村社長が戻ってきた。手には契約書のコピーを握りしめている。「こ、これは本物だ。弁護士にも確認した」完全に観念した様子だ。しかし、まだ諦めきれないのか、震える声で言った。「た、頼む。会社をやめないでくれ。今までのことは全部謝る。給料も上げる。何でもするから」
「嫌ですってば。それにあなたの謝罪は受け取りません。今まで俺にしてきたことを考えれば、謝るだけじゃ済まされませんから」
俺があっさりと拒否すると、中村社長が頭を抱えた。「だ、だったらどうすればいいんだ?どうすれば会社を守れる?」
そんな中村社長の様子を軽蔑するように睨みながら、遠藤部長が口を開く。「こうすればいいんですよ。俺は会社を守るためにあなたに反乱します。絶対にやめさせない。そのためにあなたには会社から出て行ってもらいます」
「はあ?何を言っている。ただの技術部の部長であるお前にそんな権限はない」
「ええ、なので今回の件を包み隠さず専務に訴えます」
遠藤部長の宣言に、周りの社員が勢いよく声をあげた。「俺も部長と一緒に訴えに行きます」「私も」「中村社長に会社を潰されてたまるか」「みんなで佐藤を守ろうぜ」
思わぬ展開に、社長だけでなく俺も驚いていた。会社のトップである社長に反乱するとは。一気に風向きが変わり、中村社長の震えは大きくなっていく。「ま、待て。お前ら考え直せ」
「お断りします。俺と一緒に行きたい者はついてきてくれ。まずは専務のところへ行くぞ」
「はい」と、技術部の社員全員が遠藤部長について行き、部屋はもぬけの殻となる。残された中村社長は俺の方を見ると、焦った様子ですがりついてきた。「おい、あいつらを止めろ」
「止めたいなら社長が行けばいいじゃないですか。俺にはみんなを止める理由がありません。もし本当に社長を追い出してもらえれば、この会社に残れますしね」
ここは矢沢社長が残した会社だ。できればずっと働き続けたい。中村社長の震えは足まで広がり、立っているのもやっとという様子だ。どうあがいてもこの状況をひっくり返せないと悟ったらしい。中村社長はとうとう立っていられなくなり、絶望の顔でその場に崩れ落ちた。
この後、技術部全員が専務に訴えに行き、事態は急変。俺も中村社長を置き去りにして、技術部のみんなに合流した。専務の部屋に入ると、すでに遠藤部長が事情を説明している最中だった。「というわけで、中村社長の行為は会社を危機に落とし入れるものです」
専務は矢沢社長の右腕として長年会社を支えてきた人物で、温厚な性格だが、会社のためなら厳しい決断も下せる人だ。「佐藤君、君からも詳しく聞かせてくれ」
専務に促され、俺は特許の契約内容、中村社長からの不当な解雇を説明した。「矢沢社長は俺に何かあった時のために契約書を作っておいた。君を守るためだとおっしゃっていました」
専務は深く頷く。「矢沢は社長らしいな。社長は君のことを本当に大切に思っていた」専務は言う。「君たちの話は分かった。詳細に確認し、対応させてもらう。中村社長には俺から話をする」
専務の口調は冷静だったが、顔に焦りが滲んでいた。下手したら会社が倒産してしまうのだ。焦るのも無理はない。
その翌日、専務から連絡が来て会議室に呼ばれた。部屋には専務と他の役員たちが揃っている。「佐藤君、契約書と遺言書、そして監視カメラの映像を確認した。君の言う通りだったよ。中村社長を呼び出して問い詰めたところ、全て認めた」専務は深いため息をついた。「中村社長の退任と佐藤君の退職の撤回を正式に決定する。社長の解任は手続きに時間がかかるが、必ず追い出すと約束する。だから佐藤君、どうか会社に留まってくれ」
専務の必死の頼みを了承し、中村社長が去る日を待つ。
そして2ヶ月後、臨時株主総会が開かれ、中村社長は正式に解任された。専務が筆頭株主だったため、手続きは比較的スムーズに進んだ。中村前社長に同調する人は会社に一人もいない。みんな俺や部長と同じ気持ちを持っているだろう。
中村社長がいなくなった後、専務が三代目社長の座を継いだ。少々ドタバタしたが、今は落ち着いている。会社はこの先も安定した経営を続けていくだろう。それが矢沢社長への恩返しになると信じて、俺は今日も精一杯働いている。



