5月の午後、東京渋谷の柊テクノロジー株式会社の高層ビル最上階、社長室。窓の外には都心の街並みが広がっていた。高級な椅子に深く腰を下ろし、足を組んでいる男がいた。室田吉孝、42歳。新しく代表取締役社長に就任したばかりの男だ。
「当然ですよね。このレベルの会社には合わない方でしたから」
部屋の隅に立つ人事部長の富山洋子が、口元を歪めて同調した。室田の背後には名門大学の学歴証明書と米国MBAの認定書が飾られていた。
室田は書類にサインしながら、目の前の少女を一度も見なかった。立たされていたのは朝日マイカ、18歳。細縁の眼鏡、白いシャツ、小柄で声一つあげない少女だった。高卒。それだけが室田の見た全てだった。
「このシステムが止まれば、日本の金融インフラが危険にさらされます。お願いです。少しだけ話を聞いてください。これで何百万人もの人が守られるんです」
しかし室田は書類から目もあげなかった。
「高卒が何ができるんだよ。底辺が先端企業にいること自体がおかしい。解雇だ。お前みたいな低学歴が会社に混じってるだけで、品位が下がるんだよ。分かってる? 今日付けで解雇。法的には問題ない。さっさと荷物をまとめて出ていけ。二度と来るな」
マイカはその言葉を最後まで黙って聞いていた。ゆっくりと一礼し、荷物を持って静かに立ち上がった。
「わかりました」
怒りも涙も抗議も一切なかった。ドアを開けた時、マイカはほんの少しだけ振り返った。
「今に見てろ」
その言葉は室田の耳には届かなかった。廊下を歩くマイカを数人の社員が遠巻きに見ていた。
「大丈夫なのか、あの子は」
誰かが小声で呟いた。しかし誰も動かなかった。
これは天才少女を、底辺だと切り捨てた男の因果応報の物語だ。しかしこの時、誰も知らなかった。翌朝、この会社に何が起こるのかを。室田が追い出した少女が何者だったのかを。そしてあの静かな笑みが何を意味していたのかを。
—
二年前の秋。東京都渋谷区、柊テクノロジー株式会社。設立10年、量子暗号通信の分野で国内最大手を誇るIT企業だ。前社長の熊田鉄造、62歳が会議室に入ってきた。ベテランエンジニア出身で、温かみのある笑顔が特徴の男だった。
「朝日さん、遠くまでよく来てくれた。特許庁から連絡を受けてね。16歳でこれほどのものを作れたとは。どうしても直接会いたかった」
対面に座っていたのは制服姿の少女だった。朝日マイカ、16歳。古いノートパソコンを一台だけ抱えていた。マイカは静かに一礼した。余分な言葉は一切なかった。
「特許の中身、説明してもらえますか?」
マイカが開発したQシールドプロトコルは、量子暗号通信の技術だ。政府機関、金融機関、インフラ企業向けのセキュリティシステム。現行の暗号技術を将来の量子コンピューターから守る、世界初の実用プロトコル。
「量子配送を使えば、解読は不可能です。量子コンピューターが普及すれば、既存の暗号は一瞬で解読される。その脅威に先じて実用化したのが、私の発明です」
特許庁の担当者は、16歳と知って驚いたと言っていた。特許を審査した弁理士ですら、高校生が発明したとは信じられなかった。
「うちで一緒に仕事をしてほしい。あなたの技術が必要なんです」
「わかりました。でも、一つだけ条件があります」
「どんな条件でも聞きます」
「ライセンスは、私が在籍している間のみ有効という条項を入れてください。それだけです」
熊田は少し驚いた。しかし即座に顧問弁護士を呼び、契約修正を指示した。こうしてQシールドの使用は、マイカの在籍のみ連動することになった。
「念のため、という意味ですか?」
「そうです」
マイカが16歳でこの条項を求めた本当の理由を、熊田は深く考えなかった。しかし後に、この一文が全てを決めることになる。
—
朝日マイカには複雑な事情があった。母の安子は工場の夜勤で生計を立てていた。父親は早くに家を出た。
ある朝、深夜0時過ぎに玄関が開いた。疲れ果てた顔の安子が、作業着姿で帰ってきた。テーブルにはマイカが作った夕食が残っていた。
「今日も夜勤だったんだね。温めるから食べてよ」
安子はそのまま椅子に倒れ込んだ。油の匂いが漂った。二人でしばらく黙って食べた。静かな夜だった。でも温かかった。
「マイカ。大学、本当に行かなくていいの?」
「行かなくていい。やりたいことがもう決まってるから」
安子は小さく頷いた。その目に涙の気配があった。マイカはそれ以上何も言わなかった。ただ横に座っていた。
「お母さん、毎日疲れてる」
マイカが技術を志したのは、12歳の冬のことだった。深夜0時を過ぎて帰る母を、窓から何度も見送った夜があった。
「いつかこの人を楽にしてあげたい」
そう思い続けた。でも自分に何ができるかは分からなかった。
「絶対に方法を見つける」
ある日、図書館で偶然、量子暗号の論文を読んだ。
「これだ。これでお母さんを守る技術が作れる」
ページをめくる手が止まった。頭の中で何かが繋がった。誰かに教わったわけでも、背中を押されたわけでもなかった。マイカの娯楽は近所の図書館だけだった。中学1年から大学院レベルの専門書を借りて読み込んでいた。
「できた」
中学3年の夏、エアコンのない部屋で8時間書き続けた設計図が完成した。翌日も図書館に走り、検証を繰り返した。16歳の春、マイカは一人で特許庁に申請書を提出した。
—
入社から1年が過ぎた頃、熊田は満面の笑みで言った。
「52社が採用を決めてくれた。本当に信じられない」
入社後、マイカは開発フロアの隅の席で黙々と仕事をした。コードを書いている時、マイカは世界が消えたような集中状態になった。エラーが出る度に仮説を検証し、また修正した。
「あの子、一度も休憩してない」
同じ部屋のエンジニアたちは、最初マイカを見学の子供かと思っていた。1ヶ月後、全員が認識を改めた。
「この子、本物だ」
誰かが思わずそう呟いた。それが社内の共通認識になった。Qシールドを採用した企業は最初の1年で52社に達した。年間ライセンス料は合計で約1000億円に上った。
「朝日さん、本当にありがとう。君のおかげで会社が変わった」
「仕事をしているだけです」
熊田は笑った。変わってる子だと呟いた。だがその笑顔には深い信頼があった。Qシールドの採用が広がるにつれ、マイカの存在感は増した。金融、防衛省、複数のメガバンクも採用を検討していた。
「朝日さん、また新しいオファーが来ているよ」
しかしマイカはそれを一切誇らなかった。技術部長の東山淳、48歳はマイカのことを娘のように思っていた。
「朝日、困ったことがあれば俺に言え。絶対に守るから」
「ありがとうございます」
マイカは少し驚いた顔をして、静かに頭を下げた。それだけでまた設計図に向かった。東山は微笑んだ。
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転機が訪れたのは1年ほど前のことだった。熊田鉄造が心臓発作で倒れた。救急車が会社の前に止まった日、東山はマイカの横に静かに座った。
「熊田さんが倒れた」
マイカの声は平静だった。しかし手がかすかに震えていた。1週間後、熊田は病院で息を引き取った。62歳だった。
葬儀の日、マイカは最後まで棺の前に行った。誰よりも長く、静かな一礼だった。涙は見せなかった。しかし肩がかすかに震えていた。
翌月、取締役会は新代表の就任を決定した。室田吉孝。外部から招聘されたMBA取得の経営コンサルタント。
「この会社をエリート集団にします。それ以外に成長の道はない」
社員たちは沈黙した。マイカは静かにその言葉を聞いていた。
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室田が就任して3ヶ月。熊田の温かさが消え、社内の空気は冷え切った。
「全社員は学歴証明書を、来週月曜日までに提出するように」
就任翌月、室田は全体会議で宣言した。エリート集団化プロジェクト。それが室田の掲げた経営方針だった。
「学歴で仕事の質は図れません。社長、現場をご存知ですか?」
「現場の感情論は聞いていません。数字と学歴が全てです」
東山は押し黙った。それ以上の反論は封じられた。翌日、人事部長の富山洋子が各部署を回った。
「学歴証明書の未提出者には、個別面談を設けます。よろしいですね」
マイカは無言で書類を提出した。高校卒業証明書、一枚だけ。富山はそれを見て口元を歪めた。
「高卒。なるほど」
その日の午後、マイカは経営会議の出席者リストから外されていた。理由の説明はなかった。翌日、室田はマイカを呼んだ。
「君の仕事はシステムの保守だけでいい。企画や会議の参加は不要です」
「わかりました」
マイカは静かに頷いた。反論しなかった。廊下でそれを聞いていた東山がマイカを追いかけた。
「朝日、あんなことを言わせるな。俺が話をつける」
「東山さん、大丈夫です。仕事をするだけです」
東山は歯を食い縛った。マイカの代わりに怒ることしか、彼にはできなかった。富山は満足そうにマイカの担当業務リストを縮小し続けた。しかしマイカが手を止めれば、取引先52社への影響は避けられない。マイカは黙ってその事実を胸に抱えていた。
「朝日、無理するな。いつでも相談してくれ」
—
それからの半年は、嫌がらせの連続だった。昼食はマイカだけが別室に送られた。席は設けられなかった。マイカは毎日、一人で食べた。
「この障害は誰の管轄だ? システム部か? 朝日はどこだ?」
別部署の問題でも、マイカに矛先が向けられることがあった。月例報告会では、マイカの担当分は参考資料として扱われた。富山が書類を突き返し、「やり直して」と命じることもあった。
「確認します」
マイカは表情を変えずに答え、30分後には解決策を提出した。社員たちはその光景を黙って見ていた。庇う者もいなかった。それでもマイカは毎日出社し、隅の席で黙々とキーボードを打ち続けた。
「あいつは本当によく耐えている」
東山は毎日マイカの後ろ姿を見ながらそう思っていた。フロアの電気が消えた後も、マイカの席だけは明かりが残った。深夜0時を過ぎても、マイカはキーボードを打ち続けた。3時に発見した脆弱性を、夜明けまでかけて塞いだこともあった。
「朝日、また残っているのか? 家に帰れ」
東山は残業帰りに必ず一声かけた。
「少し気になる箇所があったので」
マイカはそれだけ言って、また画面に向かった。その作業の向こうに、何百万人もの知らない人々のデータがあった。守られていることを知らない人たちが、今夜も眠っていた。マイカはそれで十分だった。
「頭が下がる思いだよ、本当に」
東山は誰にも聞こえないようにそう言って、廊下を歩いた。52社が依存するQシールドの保守監視を、マイカはたった一人でこなしていた。マイカが一日でも手を止めれば、全てが止まる。
「そんな一人に頼るシステムは設計が悪い。後任を探せ」
その事実を室田は知らなかった。富山も知らなかった。「後任を探せ」という命令も、誰も本気では動かなかった。この技術を理解できる人間が、社内にはいなかったからだ。
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ある日の朝、東山は室田の部屋に単身乗り込んだ。
「朝日マイカさんを正当に評価してください。彼女が担当するシステムは、会社の年収の8割を支えています」
「それはチームの成果です。個人の功績への課題評価は不要」
東山は拳を握った。これ以上行っても無駄だと悟った。廊下に出た時、目の前にマイカが立っていた。
「東山さん、聞こえてました。ありがとうございます」
「お前は怒らないのか?」
「怒っても何も変わりませんから」
マイカは静かにそう言って、また席に戻った。東山はしばらく廊下に立ち尽くしていた。
—
1週間後、室田は全社員を集めて新方針を発表した。
「来月より、高卒以下の社員を段階的に整理します。我が社はエリートのみで構成される企業として生まれ変わります」
静まり返った会議室。誰も声をあげなかった。富山だけが満足そうにメモを取った。翌日、マイカに通告書が届いた。来週月曜日、社長室に来るように。富山からの指示だった。
「お母さん、もうすぐ会社やめることになると思う」
その週、マイカは一人で母に電話した。
「そう。大丈夫?」
「大丈夫。やることは決まってるから」
安子はしばらく黙っていた。電話越しに、かすかな鼻声が聞こえた気がした。
「泣かなくていいよ、お母さん」
「泣いてない。心配してるだけ」
マイカはスマートフォンを持ったまま、窓の外の夜景を見ていた。東京の夜が静かに広がっていた。
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翌週月曜日。社長室に呼ばれたマイカは、室田の正面に立った。室田は書類にサインしながら、マイカを一度も見なかった。
「わかりました」
冷たい言葉を三つ受け取り、マイカは静かに社長室を出た。室田はマイカの背中が見えていた。しかし何も見えていなかった。
デスクの引き出しを開け、私物をダンボール箱に入れ始めた。それに気づいた東山が、急いで駆け寄った。
「朝日、解雇されたのか?」
「そうです」
東山は唇を噛んだ。
「俺が抗議する。こんなことは絶対に認めない」
「東山さん、やめてください。気にしなくていいです。私には次があります」
その言葉に東山は一瞬目を見張った。マイカの目は相変わらず静かだった。怒りも悲しみもそこにはなかった。マイカは2時間で荷物をまとめた。
「本当に出ていくのか?」
社員たちは誰も声をかけなかった。ただ遠巻きに見ていた。ビルの入り口で、マイカは一度だけ振り返った。
「今に見てろ」
その言葉は誰にも届かなかった。
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夕方、マイカは母が待つアパートに帰った。玄関を開けると、安子がエプロン姿で立っていた。テーブルには夕食が並んでいた。マイカの好きな肉じゃがだった。
「帰ってきたね。ご飯食べよう」
マイカはそっとバッグを置き、椅子に座った。二人でしばらく黙って食べた。それだけで十分だった。
「次のこと決まってるって言ってたね」
「うん。明日の朝には連絡が来ると思う」
「本当に大丈夫なの?」
「大丈夫。全部最初から計算してたから」
安子は箸を置き、マイカの顔をじっと見た。娘の目の奥に、揺るぎない光があった。それを見て安子は静かに頷いた。
—
翌朝8時、スマートフォンが鳴った。高速テック株式会社代表取締役、夏川竜介からの着信だった。
「はい、朝日です」
「朝日さん、夏川です。昨日の件、聞きました。すぐにでも来てほしい。うちのCTOとして迎えたいんです」
マイカは3秒だけ沈黙した。
「わかりました。今日から伺います」
電話を切った後、マイカはスマートフォンの画面を見た。時刻は午前8時3分。マイカは静かに、ある操作を行った。Qシールドプロトコルの管理サーバーにアクセスし、在籍認証ステータスを「終了」に切り替えた。たった3タップの操作だった。しかしその3タップで、52社が止まった。
—
午前9時を過ぎた頃、柊テクノロジーの開発フロアに異変が起きた。認証エラー、接続負荷、タイムアウト。画面が一斉に赤くなった。技術スタッフが走り回った。コードを見ても設定を確認しても、原因が出ない。バックアップも反応しない。
「どういうことだ?」
それもそのはず。問題はシステムではなかった。問題は、システムを動かしていた人間がもうそこにはいないことだった。
同じ時刻、渋谷から5km離れた高速テックのオフィスで。
「今日からよろしくお願いします。朝日マイカです。CTO」
朝日マイカは白い白衣を羽織ってデスクについていた。
「よろしくお願いします。早速始めていいですか?」
夏川は嬉しそうに笑い、頷いた。マイカはすでに画面に向かっていた。柊テクノロジーが止まった、その同じ時間に。
—
柊テクノロジーの開発フロアは、午前10時には地獄と化していた。全社員が電話で取引先への対応に追われていた。
「全部止まってる。何が起きてるんだ?」
「サービスが止まっている。通信が遮断された」
クレームが殺到していた。52社からの緊急連絡が同時に舞い込んでいた。
「Qシールドの認証が全部切れてる」
端末の画面を見つめながら、東山は息を飲んだ。在籍認証ステータスが「終了」になっていた。それが何を意味するか。
「マイカが決めたんだな」
室田の部屋に技術スタッフが飛び込んだ。
「社長、全システムが止まっています。Qシールドの認証機が消えています。朝日さんしか持っていなかった」
「何? どういうことだ? すぐ直せ」
「直せません。設計図もバックアップも、全部あの人の頭の中です」
室田の顔から血の気が引いた。朝日マイカ。その名前が初めて、室田の胸に刺さった。室田は即座にスマートフォンを取り出し、マイカに電話した。3コール、5コール、10コール。マイカは出なかった。
「出ろ。出てくれ。なぜ出ないんだ?」
メッセージを送った。返信は来なかった。午後になってようやく、一通のメッセージが届いた。
「ライセンス条項第7条をご確認ください。朝日マイカ」
「第7条? なんだこれは」
室田は震える手で契約書を開いた。
「本ライセンスは、朝日マイカが在籍している期間のみ有効とし、この在籍終了と同時に自動失効する」
室田はその文字を何度も読んだ。しかし意味が頭に入ってこなかった。
—
翌日の朝、銀行の担当者から連絡が来た。
「融資の継続について、緊急で協議させていただきたいのですが」
システムが止まった情報は、業界内に瞬く間に広がっていた。主要融資先の銀行が、融資引き上げを検討し始めていた。
—
2日目の午後、社員たちが会議室に集まった。
「なぜ朝日さんを解雇したんですか?」
「誰も知らなかったんですか? 彼女が何をしていたか」
「Qシールドが止まったら、うちは終わりじゃないですか?」
「落ち着け。すぐに代替技術者を探す。解決策はある?」
「解決策? 朝日さんが一人で支えていたものですよ。代替できる人間が、この世界に何人いると思ってるんですか?」
室田は言葉に詰まった。その沈黙が全てを物語っていた。一人で全部やっていたという事実が、今になって会社を覆い返した。
「室田社長、私も辞表を出します」
富山洋子は会議室の隅から静かにそう言った。
「富山、お前まで何を言ってるんだ?」
「これ以上、沈む船に乗り続けるわけにはいきません」
富山が部屋を出た。その後、10人以上の社員が続いた。室田は会議室に一人残された。外には電話の音が響いていた。
—
翌日、富山洋子は自分の名前が業界記事に出ていることを知った。
「え、私がなぜ記事に?」
「マイカへの差別的扱いを主導した人事部長」と書かれていた。かつての部下が全てを内部告発していたのだった。
「私はただ命令に従っただけなのに、なぜ私まで」
富山はすぐに転職活動を始めた。しかし書類選考すら通らなかった。柊テクノロジーの人事部長として不当処遇を主導。その評判は業界中に広まった。かつては権力を誇った富山の肩書きが、今は重荷になっていた。
「なんで私まで。室田社長がいなければ、こんなこと?」
言い訳を探したが、かつて自分が積み上げた行為は消えなかった。富山が最後に行った人事業務は、自分自身の退職手続きだった。かつて何人もの社員に渡してきた解雇通告書と同じ書類に、今は自分でサインした。
「私がこんなことになるなんて」
最終出社日、見送った社員は誰もいなかった。富山洋子は6ヶ月後、IT業界から完全に姿を消した。地方の小さな会社で、人事以外の仕事をしていると噂に聞いた。
—
3日目、柊テクノロジーの株価は時間外取引で40%下落した。
「もう終わりだ」
業界の専門誌にスクープ記事が出た。
「柊テクノロジー、核技術者の解雇でシステム全停止」
「見てください。この記事、柊テクノロジーが全部出てる」
記事には室田の名前と判断が詳細に書かれていた。高卒だからという理由で解雇した事実も、業界全体に広まった。
—
その週の金曜日、室田は高速テックに押しかけた。
「彼女は今仕事中です。約束のない方はお通しできません」
受付で「朝日マイカに合わせてくれ」と叫ぶ室田に、夏川が出てきた。
「頼む。話し合いがしたい。給料を上げる。条件を変える」
しばらくして、マイカが廊下に出てきた。白い白衣、細縁の眼鏡。表情は変わっていなかった。
「朝日、頼む。元に戻ってくれ。システムを動かしてくれ。給料は5倍にする。役員待遇にする。何でも言ってくれ」
マイカはしばらく室田を見ていた。感情は一切なかった。
「室田さん、Qシールドは私の特許技術です。ライセンスは私の在籍中のみ。私が決めた条件です。柊テクノロジーの社員ではない私が、修正する理由はありません」
室田の目に初めて恐怖の色が浮かんだ。
「そんな。会社が終わってしまう」
「『高卒が何ができるんだよ』。でしたよね」
マイカは静かに言った。怒りはそこになかった。ただ事実を伝えていた。
「私にはできないことはありません。室田さんが知らなかっただけです」
マイカは深く一礼し、仕事に戻った。室田はその場に膝をつき、壁に背中をつけて床に滑り落ちた。廊下に静かな足音だけが残った。
「なんで。なんでこうなった?」
—
翌週月曜日、柊テクノロジー株式会社は民事再生法の申請を行った。負債額は200億円を超えていた。主要取引先52社は全て契約を解除した。融資していた銀行も、融資を全額引き上げた。
室田吉孝は辞任した。自宅マンション、車、個人資産は債務の担保として差し押さえられた。
「なぜだ? なぜ全部なくなるんだ?」
業界団体がコメントを発した。
「技術者の価値を学歴で判断した経営の失敗例として、業界史に残る事案だ」
IT業界各社は採用基準の見直しを迫られた。「朝日マイカ案件」と呼ばれたこの事件は、業界全体に衝撃を与えた。
「うちも学歴フィルター撤廃した方がいいんじゃないか」
「マイカの件は、実力主義とは何かを業界に問いかけた」
室田は業界のブラックリストに登録された。どの会社も彼を採用しなかった。
—
東山淳は柊テクノロジーを去り、高速テックへの転職を決めた。
「是非来てください。あなたのような人を待っていました」
夏川は笑顔で握手した。東山は目を潤ませながら頷いた。
—
室田は週に2日、ハローワークに通うようになった。かつて「エリートしかいらない」と言い放った場所に、今は自分が来ていた。
「室田さん、今はなかなか難しい状況で」
室田は何も言えなかった。「高卒が何ができるんだよ」。その言葉が頭から離れなかった。その言葉は今、自分に突き刺さっていた。
「俺はあの子に何をしたんだ?」
—
3ヶ月後のある日、室田はハローワークの待合室にいた。隣に若い男性が座り、履歴書を何度も書き直していた。最終学歴の欄に「高卒」と書く度に、手が止まっていた。
「書き直さなくていい」
思わず声に出た。男性は驚いて室田を見た。
「学歴じゃない。あなたが何をできるかを書けばいい」
男性は鈴木と名乗り、工業高校卒で製造業を10年やっていたという。会社が倒産し、初めての転職活動中だということだった。
「10年の現場経験がある。それを全面に出せ。学歴よりずっと強い」
鈴木は少し驚いた顔をして、静かに笑った。
「ありがとうございます。なんか少し勇気が出ました」
室田はその言葉に何も返せなかった。勇気を出させる。かつてマイカに与えなかったものを、今は自分が渡していた。室田は自分が言った言葉に、自分で動けなくなった。あの日、マイカに言った言葉の真逆を、今は自分が口にしていた。
「俺はずっと間違えていた」
誰にも聞こえない声でそう呟き、室田は深く俯いた。床を見つめながら、解雇した日のマイカの顔が浮かんだ。怒ることも泣くこともせず、静かに一礼したあの背中が。
—
それから3ヶ月が経った。朝日マイカは高速テックのCTOとして、新技術の開発に没頭していた。高速テックの売上は3ヶ月で7倍に増えた。
「また一緒に働けるな、朝日」
東山淳も転職し、マイカの隣でキーボードを叩いていた。
「よろしくお願いします、東山さん」
二人は新しいオフィスで静かに笑い合った。その夜、マイカは一人でオフィスに残って画面に向かっていた。手が止まった。窓に映る自分の顔を見た。いつも通りの無表情だった。ただ、目の奥がかすかに赤かった。
「頑張れました。おかげ様で」
誰に言うでもなく、熊田に向けた言葉だったかもしれなかった。高速テックは3ヶ月で業界2位のシェアを獲得していた。マイカのQシールドバージョン2は、政府からも採用打診が届いていた。
「東山さん、次のプロトコル一緒に作りましょう」
—
一方、室田吉孝の行方を知る者は少なかった。転職エージェントに登録するも、面接は全て不採用だった。
ある朝、マイカが高速テックのビルに向かっていると、室田がいた。すっかり痩せて、目が落ちくぼんでいた。
「朝日さん、一言だけ頼む」
「室田さん、私は今日も仕事があります」
マイカは立ち止まらなかった。それだけ言って、ビルの中に消えた。室田はその後ろ姿を呆然と見送るしかなかった。自分が「底辺」と言い捨てた少女が、今は別の世界にいた。
—
その日の夕方、仕事を終えたマイカはアパートに帰った。安子が夕食を作って待っていた。二人で食卓に向かい合って座った。窓の外から夕日が差し込んでいた。
「お母さん、今日もありがとう」
「何が」
「いてくれること」
安子の目に涙が滲んだ。マイカは静かに微笑んだ。これが二人が守りたかった景色だった。
その夜、マイカは仕事机の引き出しから古い写真を取り出した。柊テクノロジー創業10周年パーティーで撮られた一枚だった。熊田鉄造が隣で笑っていた。マイカは小さく、無表情で映っていた。マイカはその写真をしばらく見つめてから、静かに呟いた。
「見てますか、熊田さん。私、ちゃんとやれてます」
答えはなかった。でもなんとなく伝わった気がした。熊田が「あなたの技術が必要だ」と言ってくれた日のことを思い出した。あの言葉があったから、ここまで来られた。
「ありがとうございました」
窓の外に夜の東京が広がっていた。マイカは写真を元に戻した。夜勤明けの母と夜食を二人で食べた、あの古いアパートの食卓。テレビもなくエアコンもない部屋でも、二人でいれば温かかった。
「お母さん、もう夜勤しなくていいよ」
「え?」
「給料上がったから。一緒に暮らそう。ちゃんと」
安子は言葉を失った。そして声をあげて泣いた。マイカはその横で静かに微笑んでいた。
マイカは今日も、誰かの知らないところで誰かを守っている。名前も顔も知らない何百万人のために、静かにキーボードを打ち続けている。それがこの天才少女の本当の仕事だった。天才は誰かに証明してもらう必要はない。ただ静かに輝き続ける。そして見下した側こそが、自らの過ちによって滅びる。
室田が最も高い代償で学んだ教訓はただ一つだった。人を使えるか使えないかで図る前に、その人が何を守っているかを見ろということだ。人の本当の価値は、学歴という紙切れ一枚では決してない。室田はその教訓を、一生かけて理解していくことになった。



