「高卒が何ができるんだよ。解雇だ」——社長室でそう言い放たれた時、私は何も言い返さなかった。ただ静かに一礼して、荷物をまとめて会社を出た。あの日、私を追い出した男は、私がこの会社の全システムを一人で支えていることを知らなかった。そして、私が契約書に残した「在籍中のみ有効」という一文の意味も。翌朝、会社は止まった。私は新しいオフィスで、その知らせを静かに聞いていた。…

「高卒が何ができるんだよ。解雇だ」——社長室でそう言い放たれた時、私は何も言い返さなかった。ただ静かに一礼して、荷物をまとめて会社を出た。あの日、私を追い出した男は、私がこの会社の全システムを一人で支えていることを知らなかった。そして、私が契約書に残した「在籍中のみ有効」という一文の意味も。翌朝、会社は止まった。私は新しいオフィスで、その知らせを静かに聞いていた。...

5月の午後、東京渋谷の柊テクノロジー株式会社の高層ビル最上階、社長室。窓の外には都心の街並みが広がっていた。高級な椅子に深く腰を下ろし、足を組んでいる男がいた。室田吉孝、42歳。新しく代表取締役社長に就任したばかりの男だ。

「当然ですよね。このレベルの会社には合わない方でしたから」

部屋の隅に立つ人事部長の富山洋子が、口元を歪めて同調した。室田の背後には名門大学の学歴証明書と米国MBAの認定書が飾られていた。

室田は書類にサインしながら、目の前の少女を一度も見なかった。立たされていたのは朝日マイカ、18歳。細縁の眼鏡、白いシャツ、小柄で声一つあげない少女だった。高卒。それだけが室田の見た全てだった。

「このシステムが止まれば、日本の金融インフラが危険にさらされます。お願いです。少しだけ話を聞いてください。これで何百万人もの人が守られるんです」

しかし室田は書類から目もあげなかった。

「高卒が何ができるんだよ。底辺が先端企業にいること自体がおかしい。解雇だ。お前みたいな低学歴が会社に混じってるだけで、品位が下がるんだよ。分かってる? 今日付けで解雇。法的には問題ない。さっさと荷物をまとめて出ていけ。二度と来るな」

マイカはその言葉を最後まで黙って聞いていた。ゆっくりと一礼し、荷物を持って静かに立ち上がった。

「わかりました」

怒りも涙も抗議も一切なかった。ドアを開けた時、マイカはほんの少しだけ振り返った。

「今に見てろ」

その言葉は室田の耳には届かなかった。廊下を歩くマイカを数人の社員が遠巻きに見ていた。

「大丈夫なのか、あの子は」

誰かが小声で呟いた。しかし誰も動かなかった。

これは天才少女を、底辺だと切り捨てた男の因果応報の物語だ。しかしこの時、誰も知らなかった。翌朝、この会社に何が起こるのかを。室田が追い出した少女が何者だったのかを。そしてあの静かな笑みが何を意味していたのかを。

二年前の秋。東京都渋谷区、柊テクノロジー株式会社。設立10年、量子暗号通信の分野で国内最大手を誇るIT企業だ。前社長の熊田鉄造、62歳が会議室に入ってきた。ベテランエンジニア出身で、温かみのある笑顔が特徴の男だった。

「朝日さん、遠くまでよく来てくれた。特許庁から連絡を受けてね。16歳でこれほどのものを作れたとは。どうしても直接会いたかった」

対面に座っていたのは制服姿の少女だった。朝日マイカ、16歳。古いノートパソコンを一台だけ抱えていた。マイカは静かに一礼した。余分な言葉は一切なかった。

「特許の中身、説明してもらえますか?」

マイカが開発したQシールドプロトコルは、量子暗号通信の技術だ。政府機関、金融機関、インフラ企業向けのセキュリティシステム。現行の暗号技術を将来の量子コンピューターから守る、世界初の実用プロトコル。

「量子配送を使えば、解読は不可能です。量子コンピューターが普及すれば、既存の暗号は一瞬で解読される。その脅威に先じて実用化したのが、私の発明です」

特許庁の担当者は、16歳と知って驚いたと言っていた。特許を審査した弁理士ですら、高校生が発明したとは信じられなかった。

「うちで一緒に仕事をしてほしい。あなたの技術が必要なんです」

「わかりました。でも、一つだけ条件があります」

「どんな条件でも聞きます」

「ライセンスは、私が在籍している間のみ有効という条項を入れてください。それだけです」

熊田は少し驚いた。しかし即座に顧問弁護士を呼び、契約修正を指示した。こうしてQシールドの使用は、マイカの在籍のみ連動することになった。

「念のため、という意味ですか?」

「そうです」

マイカが16歳でこの条項を求めた本当の理由を、熊田は深く考えなかった。しかし後に、この一文が全てを決めることになる。

朝日マイカには複雑な事情があった。母の安子は工場の夜勤で生計を立てていた。父親は早くに家を出た。

ある朝、深夜0時過ぎに玄関が開いた。疲れ果てた顔の安子が、作業着姿で帰ってきた。テーブルにはマイカが作った夕食が残っていた。

「今日も夜勤だったんだね。温めるから食べてよ」

安子はそのまま椅子に倒れ込んだ。油の匂いが漂った。二人でしばらく黙って食べた。静かな夜だった。でも温かかった。

「マイカ。大学、本当に行かなくていいの?」

「行かなくていい。やりたいことがもう決まってるから」

安子は小さく頷いた。その目に涙の気配があった。マイカはそれ以上何も言わなかった。ただ横に座っていた。

「お母さん、毎日疲れてる」

マイカが技術を志したのは、12歳の冬のことだった。深夜0時を過ぎて帰る母を、窓から何度も見送った夜があった。

「いつかこの人を楽にしてあげたい」

そう思い続けた。でも自分に何ができるかは分からなかった。

「絶対に方法を見つける」

ある日、図書館で偶然、量子暗号の論文を読んだ。

「これだ。これでお母さんを守る技術が作れる」

ページをめくる手が止まった。頭の中で何かが繋がった。誰かに教わったわけでも、背中を押されたわけでもなかった。マイカの娯楽は近所の図書館だけだった。中学1年から大学院レベルの専門書を借りて読み込んでいた。

「できた」

中学3年の夏、エアコンのない部屋で8時間書き続けた設計図が完成した。翌日も図書館に走り、検証を繰り返した。16歳の春、マイカは一人で特許庁に申請書を提出した。

入社から1年が過ぎた頃、熊田は満面の笑みで言った。

「52社が採用を決めてくれた。本当に信じられない」

入社後、マイカは開発フロアの隅の席で黙々と仕事をした。コードを書いている時、マイカは世界が消えたような集中状態になった。エラーが出る度に仮説を検証し、また修正した。

「あの子、一度も休憩してない」

同じ部屋のエンジニアたちは、最初マイカを見学の子供かと思っていた。1ヶ月後、全員が認識を改めた。

「この子、本物だ」

誰かが思わずそう呟いた。それが社内の共通認識になった。Qシールドを採用した企業は最初の1年で52社に達した。年間ライセンス料は合計で約1000億円に上った。

「朝日さん、本当にありがとう。君のおかげで会社が変わった」

「仕事をしているだけです」

熊田は笑った。変わってる子だと呟いた。だがその笑顔には深い信頼があった。Qシールドの採用が広がるにつれ、マイカの存在感は増した。金融、防衛省、複数のメガバンクも採用を検討していた。

「朝日さん、また新しいオファーが来ているよ」

しかしマイカはそれを一切誇らなかった。技術部長の東山淳、48歳はマイカのことを娘のように思っていた。

「朝日、困ったことがあれば俺に言え。絶対に守るから」

「ありがとうございます」

マイカは少し驚いた顔をして、静かに頭を下げた。それだけでまた設計図に向かった。東山は微笑んだ。

転機が訪れたのは1年ほど前のことだった。熊田鉄造が心臓発作で倒れた。救急車が会社の前に止まった日、東山はマイカの横に静かに座った。

「熊田さんが倒れた」

マイカの声は平静だった。しかし手がかすかに震えていた。1週間後、熊田は病院で息を引き取った。62歳だった。

葬儀の日、マイカは最後まで棺の前に行った。誰よりも長く、静かな一礼だった。涙は見せなかった。しかし肩がかすかに震えていた。

翌月、取締役会は新代表の就任を決定した。室田吉孝。外部から招聘されたMBA取得の経営コンサルタント。

「この会社をエリート集団にします。それ以外に成長の道はない」

社員たちは沈黙した。マイカは静かにその言葉を聞いていた。

室田が就任して3ヶ月。熊田の温かさが消え、社内の空気は冷え切った。

「全社員は学歴証明書を、来週月曜日までに提出するように」

就任翌月、室田は全体会議で宣言した。エリート集団化プロジェクト。それが室田の掲げた経営方針だった。

「学歴で仕事の質は図れません。社長、現場をご存知ですか?」

「現場の感情論は聞いていません。数字と学歴が全てです」

東山は押し黙った。それ以上の反論は封じられた。翌日、人事部長の富山洋子が各部署を回った。

「学歴証明書の未提出者には、個別面談を設けます。よろしいですね」

マイカは無言で書類を提出した。高校卒業証明書、一枚だけ。富山はそれを見て口元を歪めた。

「高卒。なるほど」

その日の午後、マイカは経営会議の出席者リストから外されていた。理由の説明はなかった。翌日、室田はマイカを呼んだ。

「君の仕事はシステムの保守だけでいい。企画や会議の参加は不要です」

「わかりました」

マイカは静かに頷いた。反論しなかった。廊下でそれを聞いていた東山がマイカを追いかけた。

「朝日、あんなことを言わせるな。俺が話をつける」

「東山さん、大丈夫です。仕事をするだけです」

東山は歯を食い縛った。マイカの代わりに怒ることしか、彼にはできなかった。富山は満足そうにマイカの担当業務リストを縮小し続けた。しかしマイカが手を止めれば、取引先52社への影響は避けられない。マイカは黙ってその事実を胸に抱えていた。

「朝日、無理するな。いつでも相談してくれ」

それからの半年は、嫌がらせの連続だった。昼食はマイカだけが別室に送られた。席は設けられなかった。マイカは毎日、一人で食べた。

「この障害は誰の管轄だ? システム部か? 朝日はどこだ?」

別部署の問題でも、マイカに矛先が向けられることがあった。月例報告会では、マイカの担当分は参考資料として扱われた。富山が書類を突き返し、「やり直して」と命じることもあった。

「確認します」

マイカは表情を変えずに答え、30分後には解決策を提出した。社員たちはその光景を黙って見ていた。庇う者もいなかった。それでもマイカは毎日出社し、隅の席で黙々とキーボードを打ち続けた。

「あいつは本当によく耐えている」

東山は毎日マイカの後ろ姿を見ながらそう思っていた。フロアの電気が消えた後も、マイカの席だけは明かりが残った。深夜0時を過ぎても、マイカはキーボードを打ち続けた。3時に発見した脆弱性を、夜明けまでかけて塞いだこともあった。

「朝日、また残っているのか? 家に帰れ」

東山は残業帰りに必ず一声かけた。

「少し気になる箇所があったので」

マイカはそれだけ言って、また画面に向かった。その作業の向こうに、何百万人もの知らない人々のデータがあった。守られていることを知らない人たちが、今夜も眠っていた。マイカはそれで十分だった。

「頭が下がる思いだよ、本当に」

東山は誰にも聞こえないようにそう言って、廊下を歩いた。52社が依存するQシールドの保守監視を、マイカはたった一人でこなしていた。マイカが一日でも手を止めれば、全てが止まる。

「そんな一人に頼るシステムは設計が悪い。後任を探せ」

その事実を室田は知らなかった。富山も知らなかった。「後任を探せ」という命令も、誰も本気では動かなかった。この技術を理解できる人間が、社内にはいなかったからだ。

ある日の朝、東山は室田の部屋に単身乗り込んだ。

「朝日マイカさんを正当に評価してください。彼女が担当するシステムは、会社の年収の8割を支えています」

「それはチームの成果です。個人の功績への課題評価は不要」

東山は拳を握った。これ以上行っても無駄だと悟った。廊下に出た時、目の前にマイカが立っていた。

「東山さん、聞こえてました。ありがとうございます」

「お前は怒らないのか?」

「怒っても何も変わりませんから」

マイカは静かにそう言って、また席に戻った。東山はしばらく廊下に立ち尽くしていた。

1週間後、室田は全社員を集めて新方針を発表した。

「来月より、高卒以下の社員を段階的に整理します。我が社はエリートのみで構成される企業として生まれ変わります」

静まり返った会議室。誰も声をあげなかった。富山だけが満足そうにメモを取った。翌日、マイカに通告書が届いた。来週月曜日、社長室に来るように。富山からの指示だった。

「お母さん、もうすぐ会社やめることになると思う」

その週、マイカは一人で母に電話した。

「そう。大丈夫?」

「大丈夫。やることは決まってるから」

安子はしばらく黙っていた。電話越しに、かすかな鼻声が聞こえた気がした。

「泣かなくていいよ、お母さん」

「泣いてない。心配してるだけ」

マイカはスマートフォンを持ったまま、窓の外の夜景を見ていた。東京の夜が静かに広がっていた。

翌週月曜日。社長室に呼ばれたマイカは、室田の正面に立った。室田は書類にサインしながら、マイカを一度も見なかった。

「わかりました」

冷たい言葉を三つ受け取り、マイカは静かに社長室を出た。室田はマイカの背中が見えていた。しかし何も見えていなかった。

デスクの引き出しを開け、私物をダンボール箱に入れ始めた。それに気づいた東山が、急いで駆け寄った。

「朝日、解雇されたのか?」

「そうです」

東山は唇を噛んだ。

「俺が抗議する。こんなことは絶対に認めない」

「東山さん、やめてください。気にしなくていいです。私には次があります」

その言葉に東山は一瞬目を見張った。マイカの目は相変わらず静かだった。怒りも悲しみもそこにはなかった。マイカは2時間で荷物をまとめた。

「本当に出ていくのか?」

社員たちは誰も声をかけなかった。ただ遠巻きに見ていた。ビルの入り口で、マイカは一度だけ振り返った。

「今に見てろ」

その言葉は誰にも届かなかった。

夕方、マイカは母が待つアパートに帰った。玄関を開けると、安子がエプロン姿で立っていた。テーブルには夕食が並んでいた。マイカの好きな肉じゃがだった。

「帰ってきたね。ご飯食べよう」

マイカはそっとバッグを置き、椅子に座った。二人でしばらく黙って食べた。それだけで十分だった。

「次のこと決まってるって言ってたね」

「うん。明日の朝には連絡が来ると思う」

「本当に大丈夫なの?」

「大丈夫。全部最初から計算してたから」

安子は箸を置き、マイカの顔をじっと見た。娘の目の奥に、揺るぎない光があった。それを見て安子は静かに頷いた。

翌朝8時、スマートフォンが鳴った。高速テック株式会社代表取締役、夏川竜介からの着信だった。

「はい、朝日です」

「朝日さん、夏川です。昨日の件、聞きました。すぐにでも来てほしい。うちのCTOとして迎えたいんです」

マイカは3秒だけ沈黙した。

「わかりました。今日から伺います」

電話を切った後、マイカはスマートフォンの画面を見た。時刻は午前8時3分。マイカは静かに、ある操作を行った。Qシールドプロトコルの管理サーバーにアクセスし、在籍認証ステータスを「終了」に切り替えた。たった3タップの操作だった。しかしその3タップで、52社が止まった。

午前9時を過ぎた頃、柊テクノロジーの開発フロアに異変が起きた。認証エラー、接続負荷、タイムアウト。画面が一斉に赤くなった。技術スタッフが走り回った。コードを見ても設定を確認しても、原因が出ない。バックアップも反応しない。

「どういうことだ?」

それもそのはず。問題はシステムではなかった。問題は、システムを動かしていた人間がもうそこにはいないことだった。

同じ時刻、渋谷から5km離れた高速テックのオフィスで。

「今日からよろしくお願いします。朝日マイカです。CTO」

朝日マイカは白い白衣を羽織ってデスクについていた。

「よろしくお願いします。早速始めていいですか?」

夏川は嬉しそうに笑い、頷いた。マイカはすでに画面に向かっていた。柊テクノロジーが止まった、その同じ時間に。

柊テクノロジーの開発フロアは、午前10時には地獄と化していた。全社員が電話で取引先への対応に追われていた。

「全部止まってる。何が起きてるんだ?」

「サービスが止まっている。通信が遮断された」

クレームが殺到していた。52社からの緊急連絡が同時に舞い込んでいた。

「Qシールドの認証が全部切れてる」

端末の画面を見つめながら、東山は息を飲んだ。在籍認証ステータスが「終了」になっていた。それが何を意味するか。

「マイカが決めたんだな」

室田の部屋に技術スタッフが飛び込んだ。

「社長、全システムが止まっています。Qシールドの認証機が消えています。朝日さんしか持っていなかった」

「何? どういうことだ? すぐ直せ」

「直せません。設計図もバックアップも、全部あの人の頭の中です」

室田の顔から血の気が引いた。朝日マイカ。その名前が初めて、室田の胸に刺さった。室田は即座にスマートフォンを取り出し、マイカに電話した。3コール、5コール、10コール。マイカは出なかった。

「出ろ。出てくれ。なぜ出ないんだ?」

メッセージを送った。返信は来なかった。午後になってようやく、一通のメッセージが届いた。

「ライセンス条項第7条をご確認ください。朝日マイカ」

「第7条? なんだこれは」

室田は震える手で契約書を開いた。

「本ライセンスは、朝日マイカが在籍している期間のみ有効とし、この在籍終了と同時に自動失効する」

室田はその文字を何度も読んだ。しかし意味が頭に入ってこなかった。

翌日の朝、銀行の担当者から連絡が来た。

「融資の継続について、緊急で協議させていただきたいのですが」

システムが止まった情報は、業界内に瞬く間に広がっていた。主要融資先の銀行が、融資引き上げを検討し始めていた。

2日目の午後、社員たちが会議室に集まった。

「なぜ朝日さんを解雇したんですか?」

「誰も知らなかったんですか? 彼女が何をしていたか」

「Qシールドが止まったら、うちは終わりじゃないですか?」

「落ち着け。すぐに代替技術者を探す。解決策はある?」

「解決策? 朝日さんが一人で支えていたものですよ。代替できる人間が、この世界に何人いると思ってるんですか?」

室田は言葉に詰まった。その沈黙が全てを物語っていた。一人で全部やっていたという事実が、今になって会社を覆い返した。

「室田社長、私も辞表を出します」

富山洋子は会議室の隅から静かにそう言った。

「富山、お前まで何を言ってるんだ?」

「これ以上、沈む船に乗り続けるわけにはいきません」

富山が部屋を出た。その後、10人以上の社員が続いた。室田は会議室に一人残された。外には電話の音が響いていた。

翌日、富山洋子は自分の名前が業界記事に出ていることを知った。

「え、私がなぜ記事に?」

「マイカへの差別的扱いを主導した人事部長」と書かれていた。かつての部下が全てを内部告発していたのだった。

「私はただ命令に従っただけなのに、なぜ私まで」

富山はすぐに転職活動を始めた。しかし書類選考すら通らなかった。柊テクノロジーの人事部長として不当処遇を主導。その評判は業界中に広まった。かつては権力を誇った富山の肩書きが、今は重荷になっていた。

「なんで私まで。室田社長がいなければ、こんなこと?」

言い訳を探したが、かつて自分が積み上げた行為は消えなかった。富山が最後に行った人事業務は、自分自身の退職手続きだった。かつて何人もの社員に渡してきた解雇通告書と同じ書類に、今は自分でサインした。

「私がこんなことになるなんて」

最終出社日、見送った社員は誰もいなかった。富山洋子は6ヶ月後、IT業界から完全に姿を消した。地方の小さな会社で、人事以外の仕事をしていると噂に聞いた。

3日目、柊テクノロジーの株価は時間外取引で40%下落した。

「もう終わりだ」

業界の専門誌にスクープ記事が出た。

「柊テクノロジー、核技術者の解雇でシステム全停止」

「見てください。この記事、柊テクノロジーが全部出てる」

記事には室田の名前と判断が詳細に書かれていた。高卒だからという理由で解雇した事実も、業界全体に広まった。

その週の金曜日、室田は高速テックに押しかけた。

「彼女は今仕事中です。約束のない方はお通しできません」

受付で「朝日マイカに合わせてくれ」と叫ぶ室田に、夏川が出てきた。

「頼む。話し合いがしたい。給料を上げる。条件を変える」

しばらくして、マイカが廊下に出てきた。白い白衣、細縁の眼鏡。表情は変わっていなかった。

「朝日、頼む。元に戻ってくれ。システムを動かしてくれ。給料は5倍にする。役員待遇にする。何でも言ってくれ」

マイカはしばらく室田を見ていた。感情は一切なかった。

「室田さん、Qシールドは私の特許技術です。ライセンスは私の在籍中のみ。私が決めた条件です。柊テクノロジーの社員ではない私が、修正する理由はありません」

室田の目に初めて恐怖の色が浮かんだ。

「そんな。会社が終わってしまう」

「『高卒が何ができるんだよ』。でしたよね」

マイカは静かに言った。怒りはそこになかった。ただ事実を伝えていた。

「私にはできないことはありません。室田さんが知らなかっただけです」

マイカは深く一礼し、仕事に戻った。室田はその場に膝をつき、壁に背中をつけて床に滑り落ちた。廊下に静かな足音だけが残った。

「なんで。なんでこうなった?」

翌週月曜日、柊テクノロジー株式会社は民事再生法の申請を行った。負債額は200億円を超えていた。主要取引先52社は全て契約を解除した。融資していた銀行も、融資を全額引き上げた。

室田吉孝は辞任した。自宅マンション、車、個人資産は債務の担保として差し押さえられた。

「なぜだ? なぜ全部なくなるんだ?」

業界団体がコメントを発した。

「技術者の価値を学歴で判断した経営の失敗例として、業界史に残る事案だ」

IT業界各社は採用基準の見直しを迫られた。「朝日マイカ案件」と呼ばれたこの事件は、業界全体に衝撃を与えた。

「うちも学歴フィルター撤廃した方がいいんじゃないか」

「マイカの件は、実力主義とは何かを業界に問いかけた」

室田は業界のブラックリストに登録された。どの会社も彼を採用しなかった。

東山淳は柊テクノロジーを去り、高速テックへの転職を決めた。

「是非来てください。あなたのような人を待っていました」

夏川は笑顔で握手した。東山は目を潤ませながら頷いた。

室田は週に2日、ハローワークに通うようになった。かつて「エリートしかいらない」と言い放った場所に、今は自分が来ていた。

「室田さん、今はなかなか難しい状況で」

室田は何も言えなかった。「高卒が何ができるんだよ」。その言葉が頭から離れなかった。その言葉は今、自分に突き刺さっていた。

「俺はあの子に何をしたんだ?」

3ヶ月後のある日、室田はハローワークの待合室にいた。隣に若い男性が座り、履歴書を何度も書き直していた。最終学歴の欄に「高卒」と書く度に、手が止まっていた。

「書き直さなくていい」

思わず声に出た。男性は驚いて室田を見た。

「学歴じゃない。あなたが何をできるかを書けばいい」

男性は鈴木と名乗り、工業高校卒で製造業を10年やっていたという。会社が倒産し、初めての転職活動中だということだった。

「10年の現場経験がある。それを全面に出せ。学歴よりずっと強い」

鈴木は少し驚いた顔をして、静かに笑った。

「ありがとうございます。なんか少し勇気が出ました」

室田はその言葉に何も返せなかった。勇気を出させる。かつてマイカに与えなかったものを、今は自分が渡していた。室田は自分が言った言葉に、自分で動けなくなった。あの日、マイカに言った言葉の真逆を、今は自分が口にしていた。

「俺はずっと間違えていた」

誰にも聞こえない声でそう呟き、室田は深く俯いた。床を見つめながら、解雇した日のマイカの顔が浮かんだ。怒ることも泣くこともせず、静かに一礼したあの背中が。

それから3ヶ月が経った。朝日マイカは高速テックのCTOとして、新技術の開発に没頭していた。高速テックの売上は3ヶ月で7倍に増えた。

「また一緒に働けるな、朝日」

東山淳も転職し、マイカの隣でキーボードを叩いていた。

「よろしくお願いします、東山さん」

二人は新しいオフィスで静かに笑い合った。その夜、マイカは一人でオフィスに残って画面に向かっていた。手が止まった。窓に映る自分の顔を見た。いつも通りの無表情だった。ただ、目の奥がかすかに赤かった。

「頑張れました。おかげ様で」

誰に言うでもなく、熊田に向けた言葉だったかもしれなかった。高速テックは3ヶ月で業界2位のシェアを獲得していた。マイカのQシールドバージョン2は、政府からも採用打診が届いていた。

「東山さん、次のプロトコル一緒に作りましょう」

一方、室田吉孝の行方を知る者は少なかった。転職エージェントに登録するも、面接は全て不採用だった。

ある朝、マイカが高速テックのビルに向かっていると、室田がいた。すっかり痩せて、目が落ちくぼんでいた。

「朝日さん、一言だけ頼む」

「室田さん、私は今日も仕事があります」

マイカは立ち止まらなかった。それだけ言って、ビルの中に消えた。室田はその後ろ姿を呆然と見送るしかなかった。自分が「底辺」と言い捨てた少女が、今は別の世界にいた。

その日の夕方、仕事を終えたマイカはアパートに帰った。安子が夕食を作って待っていた。二人で食卓に向かい合って座った。窓の外から夕日が差し込んでいた。

「お母さん、今日もありがとう」

「何が」

「いてくれること」

安子の目に涙が滲んだ。マイカは静かに微笑んだ。これが二人が守りたかった景色だった。

その夜、マイカは仕事机の引き出しから古い写真を取り出した。柊テクノロジー創業10周年パーティーで撮られた一枚だった。熊田鉄造が隣で笑っていた。マイカは小さく、無表情で映っていた。マイカはその写真をしばらく見つめてから、静かに呟いた。

「見てますか、熊田さん。私、ちゃんとやれてます」

答えはなかった。でもなんとなく伝わった気がした。熊田が「あなたの技術が必要だ」と言ってくれた日のことを思い出した。あの言葉があったから、ここまで来られた。

「ありがとうございました」

窓の外に夜の東京が広がっていた。マイカは写真を元に戻した。夜勤明けの母と夜食を二人で食べた、あの古いアパートの食卓。テレビもなくエアコンもない部屋でも、二人でいれば温かかった。

「お母さん、もう夜勤しなくていいよ」

「え?」

「給料上がったから。一緒に暮らそう。ちゃんと」

安子は言葉を失った。そして声をあげて泣いた。マイカはその横で静かに微笑んでいた。

マイカは今日も、誰かの知らないところで誰かを守っている。名前も顔も知らない何百万人のために、静かにキーボードを打ち続けている。それがこの天才少女の本当の仕事だった。天才は誰かに証明してもらう必要はない。ただ静かに輝き続ける。そして見下した側こそが、自らの過ちによって滅びる。

室田が最も高い代償で学んだ教訓はただ一つだった。人を使えるか使えないかで図る前に、その人が何を守っているかを見ろということだ。人の本当の価値は、学歴という紙切れ一枚では決してない。室田はその教訓を、一生かけて理解していくことになった。

Thumbnail