「あなたみたいな余計なじは今日付けで解雇させていただきます。さようなら。」
新社長の矢島咲は、嬉しそうにニヤニヤと笑いながら、30年間この旅館のために腕を磨いてきた俺にそう言い放った。
俺の名前は酒井政治。死偽旅館の和食料理人だ。学生の頃から料理人になるのが夢で、調理師学校で学び、卒業後はこの旅館に就職した。先輩方に指導を受け、料理長を任されるまでになった。
この旅館には代々伝わる出汁があり、それを守るのも料理長の役目だ。初めてその出汁を口にした時、本当に感動した。料理長になってからは、その出汁を使った創作料理を考え、多くのお客さんに喜んでもらえた。リピーターも増え、前社長からも褒められたこともある。
そんな時、前社長が病に倒れた。娘の咲さんが後を継ぐことになった。咲さんは別会社でリゾートホテルの運営をしていると聞いていたが、面識はなかった。リゾートホテルの運営をしていたなら、きっと旅館も大切にしてくれるだろうと思っていた。
しかし、それは甘い考えだった。咲さんは就任早々、和食からフランス料理へとコースを変更すると宣言したのだ。従業員はみんな驚いた。俺は慌てて反対した。
「そんな急にどうしてですか?和食からフランス料理に変更することには反対です。ここの和食が好きで通ってくれているお客さんもたくさんいらっしゃいます。」
すると咲さんは馬鹿にしたように鼻で笑った。
「そんなマイナーな人たちを相手にしても仕方ないわ。今時和食なんて流行らないんだから。地味な和食よりおしゃれなフランス料理の方が人気も出るに決まってる。」
俺は負けじと反論を続けた。
「ここの旅館の雰囲気が好きだと言ってくれているお客さんがいるのに、フランス料理を提供するのは旅館の雰囲気とも合っていないと思います。」
「それなら大丈夫よ。いずれはこんな古い寂れた建物も取り壊して、おしゃれなリゾートホテルにしますから。」
淡々とそんなことを言う咲さんに、みんな困惑した。前社長はこれからもこの旅館の歴史を繋いでいきたいとよく言っていた。まさかその願いを娘が壊すなんて。
「確かに建物は古いです。しかし、だからこそ伝えられる良さもあります。新しくしたらいいという問題ではないと思います。」
「あなた、さっきから何なの?あなたに何がわかるって言うの?」
「僕は30年ここの料理人をしています。だからこそ、お客さんからの意見もよく聞いています。」
お客さんの思いを伝えれば、経営者としても考え直してくれるだろうと思ったが、そんなことはなかった。
「そんな客ならいらないわ。リゾートホテルにすれば、もっとたくさんのお客さんが来るのよ。こんな古いところにずっといるあなたには分からないだろうけど。」
「そんな客って…」
その言葉に俺は耳を疑った。きっとこの人は、今のお客さんのことより、集客をして売上を上げることしか考えていないのだろう。
「ああ、うるさい。前社長のことなんて知らないわよ。今の社長は私です。従えないのなら、やめてもらっていいわよ。」
その言葉に俺は悲しくなった。前社長は現場で働く人の意見を聞いてくれる人だった。何をするにも、実際にお客さんと接する現場の意見が大切だと言ってくれていた。それなのに、こんな勝手な決定をして、従業員にやめてもいいと言うなんて。
しかし、そこまで言われたら、俺もこれ以上何も言うことはできなかった。咲さんに従うことにしたが、すぐにフランス料理に変更はできないということだけは説得した。
「ずっと和食を作ってきた料理人しかいません。お客さんに出せるレベルではありませんし、余計集客も減ってしまいます。」
なんとか説得し、移行期間を設けることになった。
移行期間の間、俺たちはフランス料理の練習に励んだ。咲さんは料理の内容など全て丸投げだった。知り合いのフランス料理が分かる人に教えてもらい、コースのメニューを考えた。中にはもうやめて他のところで働こうかなという人もいた。俺もそう思ってしまうほど大変だったが、料理長である俺がそんなことを言ってはいけないと思い、みんなのやる気を出させた。
「そんなこと言うなよ。みんなの力が必要なんだ。お客さんのために精一杯やろう。」
一方で、移行期間の間に何度も咲さんに考えを改めるように説得した。
「もう一度考え直していただけないでしょうか?リゾートホテルも人気だとは思いますが、ここの旅館の和食が好きだと言ってくださる方はたくさんいます。」
しかし、何度言っても咲さんの答えは変わらない。
「うるさいわね。誰に向かって口を聞いているの?料理長だからって偉そうにしないで。」
「そんなつもりはありません。ただ、ここで働く従業員とお客さんのことを思って言っているんです。」
「何回言わせるつもり?あんたの代わりはいくらでもいるから、これ以上口出ししてくるなら首にするわよ。」
だんだんと怒らせるどころか、脅されるようになってきた。俺は己の無力さを痛感しながら、みんなのやる気をなくさないように声をかけ、咲さんの言う通りにする日々が続いていた。
そんなある日、咲さんに呼び出された。社長室に行くと、そこには見知らぬ男性の姿があった。
「紹介するわ。新しいシェフの塩田さんよ。」
俺は新しいフランス料理を手伝ってくれるシェフが増えたのだと嬉しく思った。しかし、その喜びも一瞬で消されてしまう。
「明日から彼に料理長を任せるわ。フランス料理への切り替えも明日からにします。」
俺は突然のことに驚いて言葉を失った。フランス料理への変更はまだ先の話だったし、まさか自分が料理長から外されるなんて考えてもいなかった。
「そんなこと急に言われても、フランス料理への切り替えはまだ先の予定でしたし、新しいコース料理も僕を中心に練習しています。ただでさえ他の料理人たちに大変な思いをさせているのに、これ以上の変更は…」
なんとか俺が止めなければと考えるが、一生懸命訴える俺を見て、咲さんは冷たい目で馬鹿にしながら笑ってきた。
「なら、もう練習しなくて結構よ。あなたはもう関係のない人だから。」
その言葉に俺は少し嫌な予感がした。
「どういうことですか?」
「あなたみたいな余計なじは今日付けで解雇させていただきます。さようなら。」
咲さんは嬉しそうにニヤニヤと笑いながら、俺に解雇を言い放った。その嘲るような笑みを見せられた瞬間、俺の中で何かがプツリと切れた。もうここにいて、この人の元で働きたくないと思った。これ以上何を言っても無駄だと感じた俺は、「分かりました」とだけ言って、その場から去った。
解雇になった翌日、俺は久しぶりにのんびりとした1日を過ごしていた。朝早くから市場へ仕入れに行ったり、仕込みを行ったりと、朝から晩まで忙しく動き回っていたので、しばらくはゆっくりするつもりだった。
ところが、そんな時間を壊すように、咲さんから連絡が来た。面倒に思ったが、ずっとなり続けるものだから、仕方なく電話に出る。すると、開口一番、すごく焦ったような声で叫んだ。
「宿泊客にフランス料理を提供したら、和食を出せと言われたわ。」
何度も言った忠告を聞かなかったのに、今更何を言っているんだ?呆気にとられるあまり、俺は一瞬固まってしまった。それから大きくため息を一つついて告げる。
「何度も言いましたけど、旅館に来る人の多くは和食目当てで来ているんです。」
「うるさいわね。さっさと出汁のレシピの場所を教えなさい。」
咲さんは耳が痛くなるほどの大声で俺に怒鳴りつけた。
「出汁のレシピですか?」
「他の料理人に和食を作らせようとしたら、出汁がないと客が求める和食は作れないって言い出してるの。」
うちの和食の肝は伝統の出汁だからな。特に俺が料理長になってからは、今まで以上に出汁を使う料理を作っているし、お客さんもそれを求めている。
「いいから早く出汁のレシピがどこにあるか言いなさいよ。」
こんな状況でも偉そうに怒鳴りつけることしかできない咲さんに呆れてしまう。
「レシピはありませんよ。」
俺は平然とそう答えると、その態度にますます咲さんは怒り出す。
「いい加減にして。仕返しのつもり?ふざけてないで早く教えなさいよ。」
「ふざけていません。出汁のレシピは代々料理長が覚えていて、レシピはありません。」
これは本当のことだった。紙に書いたようなレシピはなく、次に料理長になることが決定した時に初めて教えられるレシピだった。元々紙のレシピがあったようだが、それを見ながら作っても同じように作れるものではない。何度も教えてもらい、舌でその味を覚えるしかなかった。そのため、紙があれば覚えなくても作れるだろうと思ってしまう料理人が出ないように、いつからかその紙は捨てられたと先輩に聞いたことがある。それから何十年も、体と自分の感覚で覚えるというスタンスがずっと受け継がれているのだ。まだ次の料理長も決まっていなかったので、俺は他の料理人たちにも教えてはいなかった。
そのことを説明すると、咲さんは黙り込み、それから命令口調で言う。
「じゃあ、今すぐここに来て、あんたが作りなさい。」
自分で首にしておいて、どこまで勝手な人なのだろうと思ってしまう。
「もう僕は首になったので、関係ありません。」
「あんた…」
俺がきっぱり断ると、悔しそうに声を漏らしたが、本当に困っているのか、命令調をやめて哀願するような声に変化する。
「お願い。大手企業の社長が来てるの。どうしてフランス料理にしたんだって大激怒してて。」
なるほど。VIPのお客さんが来ているから、咲さんはこんなに焦っていたのかと納得する。うちの死偽旅館は昔から大企業の社長など、国内各地からも海外からもVIPのお客さんがたくさんいた。きっと咲さんはそんなことも知らなかったのだろう。前社長も長い付き合いで大切なお客さんだとよく言っていた。多くの社長さんたちが色々なところでこの旅館を広めてくれたのもあり、そんなお客さんに支えられて長年続けて来られていたのだ。
「和食がいいという客はいらないと言っていたのはあなたですよ。」
「こんなにVIPなお客さんだとは思っていなかったのよ。」
「俺がVIPのお客さんがそう言っていると説得したら、和食で続けていたということですか?」
「ええ、もちろん。それならそうと言ってくれれば、フランス料理になんてしなかったわ。」
あっけらかんとした態度でそう言う咲さんに、だんだんと腹が立ってくる。こんな人に振り回されていたことにも悔しくなった。
「大体、どうしてそんなVIPなお客さんがいるって先に言わないわけ?本当、使えないじじいね。」
咲さんは今度は逆切れをしてきた。結局、お客さんを選んで単価を上げることしか頭にないのだろう。きっと古い死偽旅館にはそんなにVIPな人も来ない。リゾートホテルにしたらお金持ちも来ると考えたのだろうと察する。
「何度もお客さんの気持ちを伝えていました。どんな人でもお客さんはお客さんです。人を見て判断するような経営者と働くことはできません。」
俺は咲さんにきっぱりとそう言い放ち、電話を切った。
俺はこの後、知人の日本料理店に就職することになった。俺が死偽旅館を辞めたことを話すと、是非すぐにでも来て欲しいと言ってくれたのだ。
あれから咲さんから連絡が来ることはなかったが、旅館が潰れそうだという噂は耳にした。伝統の出汁を使った和食が人気を集めていたので、フランス料理への変更が裏目となり、宿泊客が激減しているらしい。後輩から聞いた話によると、あれから咲さんは客が減っていることを料理人のせいにしていたという。無茶苦茶な要望をしてきたり、暴言も増えて、反発した料理人たちも多く辞めていったそうだ。咲さんは新しいシェフの塩田さんがいるから大丈夫だと思っていたようだが、その塩田さんも辞めてしまったと言っていた。塩田さんは咲さんが提示した高給に釣られてやってきたようだが、旅館の業績悪化で給料がカットされるとすぐに辞めてしまった。そうだ。料理人以外のスタッフも違う旅館へ移ったりと、もう咲さん1人では元の状況に戻すことは不可能だろう。
ずっと働いていた俺も大好きだった旅館がなくなってしまうのは本当に残念だ。しかし、自分の利益しか考えていない咲さんには少しも同情の感情は湧かない。経営者として何を大切にするべきかを、これを機に分かってほしいと思う。
俺も働く場所は変わったが、変わらずに真摯に料理とお客さんに向き合っている。これからも俺の和食でたくさんの人に喜んでもらえるよう頑張ろうと思う。



