朝食の準備をしていると、リビングから息子夫婦の声が聞こえてきた。
「お母さん、最近うるさくない?」
「掃除の仕方とか料理の味付けとか、いちいち口出ししてきてさ」
「まあ、母さんも年だからな」
息子の順一の返事に、私の胸は締め付けられた。
「でもここは俺たちの家なんだから、母さんにも分かってもらわないと」
「そうよね。お母さんは遺相ろみたいなものなんだから」
その言葉が、私の心に深く突き刺さった。
自宅を売って得た2000万円を息子に渡し、このマンションの頭金にしたのは誰だったか。孫の世話を5年間、毎日欠かさず続けてきたのは誰だったか。
「おばあちゃんも邪魔物扱いされてる気がするって、昨日友達に言ってた」
孫の声が、皿に湯をかける音とともに聞こえてきた。
私は静かに包丁を置いた。震える手を見つめながら、心の中で何かが音を立てて崩れていくのを感じていた。
台所の椅子に腰を下ろし、これまでの人生を振り返った。
農協で41年間、朝7時から夜遅くまで働き続けた日々。定年まで一度も長期休暇を取らず、地域の農家のために尽くしてきた。
息子の順一が大学に進学する時、私は迷わず学費を全額負担した。
「母さん、ありがとう」
そう言ってくれた息子の笑顔が、今でも忘れられない。4年間で600万円。さらに就職が決まらなかった時期の生活費も、文句一つ言わずに援助した。
結婚式の費用300万円も、「母さんしか頼れる人がいないんだ」という言葉に喜んで出した。
嫁のまゆさんとの新婚生活のための家具や家電も、全て私が揃えた。
孫の陽太が生まれてからは、毎日が孫中心の生活だった。まゆさんが仕事に復帰してからの5年間、朝6時に起きて孫を預かり、保育園への送り迎え、習い事の付き添い。熱を出せば仕事を休んで看病し、運動会や発表会は最前列で応援した。
「おばあちゃん、大好き」
そう言って私に抱きついてくれた小さな陽太。あの温もりのために、私は全てを捧げてきた。
3年前、「母さんも一緒に住もうよ。陽太も喜ぶし」という順一の言葉を信じて、築30年の自宅を売却した。2000万円という大金を、迷うことなく息子に託した。
それが今では「遺相ろ」と呼ばれる私の献身は、一体何だったのだろうか。
同居が始まった最初の数ヶ月はまだ良かった。まゆさんも「お母さん、よろしくお願いします」と笑顔で接してくれていた。しかし、それは長くは続かなかった。
ある日の夕方、リビングでテレビを見ていると、まゆさんが来た。
「お母さん、ちょっといいですか?」
彼女の声は冷たかった。
「リビングは私たち家族の団欒の場なんです。お母さんは自分の部屋でゆっくりされた方がいいんじゃないですか」
「でも、陽太と一緒に…」
「陽太のことは私たちが見ますから。お母さんは週に1回30分だけ会えれば十分でしょう」
その日から、私の居場所は6畳一間の部屋だけになった。食事の時だけリビングに出ることを許されたが、それも長居は禁物だった。
「お母さん、食事は15分以内に済ませてください」
まゆさんが指を刺した。
「私たちもゆっくりしたいので」
家事の負担も日に日に増えていった。
「お母さん、時間があるんだから掃除と洗濯はお願いしますね」
まゆさんの要求は次第にエスカレートした。朝5時に起きて朝食の準備、掃除機をかけ、拭き掃除、洗濯物を干し、買い物に行き、夕食の支度。一日中動き回っているのに、感謝の言葉一つない。
「お母さん、窓ガラスが汚れてます。ちゃんと拭いてください」
「トイレの掃除、手抜きしないでくださいね」
「洗濯物の干し方が雑です。シワになったらアイロンかけ直してください」
まるで使用人のような扱いだった。68歳の体にはこたえる労働だったが、文句を言えば「いろのくせに」と言われるのが目に見えていた。
ある日、順一が言い出した。
「母さん、生活費として月10万円入れてもらえる?」
「家のローンもあるし、陽太の教育費もかかるから」
「でも、年金は月15万円しかないのよ」
「だって、住ませてもらってるんだから当然でしょう」
「でも、家を売ったお金は…」
「あれは俺たちの家の頭金になったんだから、もう母さんのものじゃない」
順一は冷たく言い放った。
「それに光熱費も食費もかかってるんだ。10万円でも安いくらいだよ」
私が自宅を売った2000万円のことは、もう忘れられているようだった。あの時、「母さんのおかげで家が買えた」と涙を流して感謝していた息子は、もうどこにもいなかった。
最も辛かったのは、些細なことで人格を否定されることだった。
「お母さん、また同じ話してますよ。認知症じゃないですか」
まゆさんが笑う。
「昨日も同じこと聞きました。病院行った方がいいんじゃないですか」
「この料理の味付け、古臭いんですよね。今時こんなの誰も食べません」
「その服、いつの時代のですか?恥ずかしいから外出する時は着ないでください」
「お母さんの部屋、なんか匂いがするんですよね。ちゃんと換気してます?」
順一もまゆさんの味方だった。
「母さん、もう少し今の時代に合わせたら?いつまでも昔のやり方じゃダメだよ。まゆの言うことも聞いてやってくれ」
「嫁との関係をよくするのは母さんの役目だろう」
孫の陽太まで私を避けるようになっていた。
「おばあちゃん、臭い。ママが言ってた。おばあちゃんは邪魔だって」
「友達の家のおばあちゃんはもっと若くて綺麗なのに」
10歳になった陽太の言葉は、まるで刃物のように私の心を切り刻んだ。あんなに可愛がって育てた孫が、今では私を汚いものを見るような目で見ている。
ある日、偶然聞いてしまった会話が私の心を完全に打ち砕いた。
「お母さん、本当に鬱陶しい」
まゆさんの声が寝室から漏れてきた。
「いつまでいるつもりなのかしら」
「まあ、もう少しの辛抱だ」
順一が答える。
「そろそろ施設のことも考えないと」
「でも、お金がかかるでしょう」
「母さんの貯金があるはずだよ。農協の退職金もあったし、まだ1000万くらいは持ってるんじゃないか」
「それを使えばいいのね」
「そう。どうせ俺たちが相続するんだから、今使っても同じだろう」
「早く施設に入ってくれないかな。そうすればこの部屋も物置きに使えるし、陽太の勉強部屋にしてもいいな」
私は部屋の布団の中で声を殺して泣いた。息子は私を母親としてではなく、金づるとしか見ていなかった。これまでの人生全てを息子のために捧げてきたのに、私は邪魔物でしかなかった。
翌朝、食卓でまゆさんが切り出した。
「お母さん、貯金通帳を預からせてもらえませんか?お母さんも高齢だし、お金の管理は私たちがした方が安心でしょう」
「それは拒否するんですか?私たちを信用してないんですか?」
順一も追い打ちをかける。
「母さん、家族なんだから疑うなよ」
「でも、私のお金は…」
「母さんのお金は俺たちのものだ」
順一の顔が急に険しくなった。
「俺たちが面倒見てやってるんだから、当然預かる権利があるだろう」
私は震える手で箸を置いた。もう限界だった。この家に私の居場所はない。息子夫婦にとって私はただの邪魔物、金を絞り取るだけの存在。
その時、私の中で何かが決まった。静かに、しかし確実に。反撃の時が来たのだと。
その日の午後、まゆさんの母親が遊びに来た。私は台所で夕食の準備をしていたが、リビングから聞こえてくる会話に耳を疑った。
「お母さん、いらっしゃい」
まゆさんの声は、普段私に向ける時とは全く違う温かさに満ちていた。
「順一さん、お母さんが来てくださいました」
「お母さん、いらっしゃいませ」
順一も立ち上がって深々と頭を下げた。
「お元気そうで何よりです」
「まあ、順一さん、相変わらず優しいのね」
まゆさんの母親の上品な声が響く。
「まゆも幸せ者だわ」
「お母さん、お茶を入れますね。和菓子も買ってきたんです」
まゆさんが嬉しそうに動き回る。
「陽太、おばあちゃんにご挨拶しなさい」
「こんにちは、おばあちゃん」
陽太が元気よく挨拶した。私への態度とは雲泥の差だった。
「まあ、陽太君、大きくなったわね。ほら、お小遣いよ」
「ありがとう、おばあちゃん」
私は包丁を持つ手を止めた。なぜまゆさんの母親にはこんなに優しくできるのか。
「お母さん、最近お体の調子はいかがですか?」
順一が気遣わしげに訪ねる。
「おかげ様で元気よ。でも、一人暮らしは寂しくて」
「それなら、いつでも泊まりに来てください」
まゆさんが即座に言った。
「お部屋も用意できますから」
「本当?迷惑じゃない?」
「とんでもない。お母さんが来てくださると、私たちも嬉しいです」
順一まで言う。
「家族ですから、遠慮なんていりません」
家族。その言葉を聞いて、私の胸は激しく痛んだ。私も家族のはずなのに。
「まゆさんの作る料理は本当に美味しいわ」
まゆさんの母親が褒める。
「お母さんに教えていただいたおかげです」
まゆさんが謙遜する。
「今日は特別にお母さんの好きな煮物を作りました」
私が毎日作っている煮物は「まずい」「味が濃い」と文句を言われるのに。
「ところで、順一さんのお母様は?」
まゆさんの母親が尋ねた。一瞬、リビングが静まり返った。
「ああ、母は…」
順一が言い淀む。
「お母さんは自分の部屋でお休みです」
まゆさんが取りつくろう。
「最近、人と会うのを嫌がるんです」
「そう、大変ね」
「本当に困ってるんです」
まゆさんが大げさにため息をついた。
「私たちがどんなに気を使っても、心を開いてくれなくて」
「お年寄りは頑固だから仕方ないわ」
「でも、うちのお母さんは違いますよね」
順一が言った。
「若々しくて、話も面白くて」
「まあ、順一さん」
まゆさんの母親が嬉しそうに笑う。
私は震える手で包丁を置いた。涙がこぼれそうになるのを必死でこらえた。
夕方、まゆさんの母親が帰った後、まゆさんは上機嫌だった。
「お母さん、夕食の準備まだですか?」
普段の冷たい声に戻っていた。
「もうすぐできます」
「遅いんですよね。要領が悪いんじゃないですか?」
食卓に着くと、順一が切り出した。
「お母さん、まゆさんの母親を見習ったらどうだ?」
「どういうこと?」
「あの人は品があって話も楽しい。母さんも少しは努力したら?」
「私だって…」
「母さんは文句ばかりだろう」
まゆさんが口を挟む。
「私の母はいつも前向きで明るいんです」
「そうだよ」
順一が同調する。
「うちの母親とは大違いだ」
その時、陽太が無邪気に言った。
「ねえ、なんでおばあちゃんを施設には入れないの?」
「陽太!」
まゆさんが慌てて息子を叱った。
「だって、ママが言ってたじゃん。おばあちゃんが死んだらお金が全部僕たちのものになるって」
私の箸がカタンと音を立てて落ちた。
「陽太、部屋に行きなさい」
順一が怒鳴った。
「なんで?本当のことじゃん」
陽太は不満そうに立ち上がった。
「ママ、いつも言ってるよ。おばあちゃんの貯金があれば新しい車が買えるって」
まゆさんの顔が真っ赤になった。
「子供の言うことですから…」
「いいえ」
私は静かに言った。
「よくわかりました」
その夜、また息子夫婦の会話が聞こえてきた。
「陽太のやつ、余計なこと言いやがって」
順一の苛立った声。
「でも、もう隠す必要もないんじゃない?」
まゆさんが言う。
「どうせお母さんには何もできないし」
「それもそうだな」
「ねえ、本当に施設のパンフレット取り寄せたの?」
「ああ、明日にでも見せてやるよ」
「月に10万の安いところでいいわよね。どうせ長くないんだから」
「母さんの貯金を使えば5年は持つだろう」
「5年も生きるかしら」
まゆさんが冷たく笑った。
「まあ、早ければ早いほどいいけどな」
「相続税の対策もしないと」
私は布団を頭までかぶった。もう息子ではない。こんな人間を育てた覚えはない。いや、私が甘やかしすぎたのかもしれない。何でも与え、何でも許してきた結果がこれだった。
翌朝、順一が施設のパンフレットを持ってきた。
「母さん、これ見てくれ」
「何これ?」
「介護施設だよ。母さんももう年だし、一人で生活するのは大変だろう」
「ここで生活してるじゃない」
「いや、俺たちも限界なんだ」
順一は冷たく言った。
「お母さんの面倒を見るのは、正直負担なんだよ」
「お母さん…」
まゆさんが続ける。
「これはお母さんのためでもあるんです。プロの介護を受けた方が幸せですよ」
「でも、お金が…」
「お母さんの貯金があるでしょう」
まゆさんが畳みかける。
「それを使えばいいじゃないですか」
「それに、母さんが施設に入れば俺たちも楽になる」
順一が本音を漏らした。
「お互いのためだよ」
私は施設のパンフレットを見つめた。月額20万円。私の年金では到底払えない金額だった。貯金を切り崩せば数年は持つかもしれないが、その後はどうなるのか。
「考えさせて」
私は小さく言った。
「早く決めてくれよ」
順一が苛立たしげに言った。
「来月には入所できるように手続きを進めたいから」
その時、私の心は完全に決まった。もうこの家には一日足りともいたくない。でも、ただ出ていくだけでは息子夫婦の思うつぼだ。私にはまだできることがある。41年農協で働いていた知識と人脈、そして隠してきた切り札がある。静かな復讐の時がついに来たのだ。
その夜、私は実質で静かに準備を始めた。古い手帳を開き、農協時代の同僚の電話番号を確認する。その中に、今は市役所で働いている元部下の名前があった。明日、彼女に会いに行こう。
翌朝、私はいつも通り朝食を作り、黙って自分の分だけを食べた。
「お母さん、今日は買い物に行ってください」
まゆさんが言う。
「リストを置いておきますから」
「わかりました」
私は買い物袋を持って家を出た。しかし、スーパーではなく市役所へ向かった。
「恵子さん!」
受付で私を見つけた元部下の山田さんが駆け寄ってきた。
「お久しぶりです」
「山田さん。ちょっと相談があって」
個室に案内された私は、世帯分離の手続きについて尋ねた。
「世帯分離ですか?」
山田さんは真剣な表情になった。
「同じ住所でも、生計が別なら可能ですよ」
「息子夫婦とは実質的に生計は別なの。私の年金で生活してるし、食事も別々のことが多いし」
「それなら問題ありません。ただ、息子さんたちへの影響もありますよ。扶養控除が受けられなくなりますし、児童手当の計算にも影響します」
「それに、恵子さんが別世帯になれば、息子さんは恵子さんの財産に対する法的な管理権を失います」
私は小さく微笑んだ。
「それで結構です」
手続きは意外なほど簡単だった。必要書類に記入し、印鑑を押すだけ。30分後、私は正式に息子夫婦とは別世帯となった。
「恵子さん」
山田さんが心配そうに言った。
「大丈夫ですか?」
「ええ、これでやっと自由になれるわ」
次に向かったのは、農協の本部だった。現在の理事長は私の元同僚だ。
「恵子さん、どうした?」
理事長の田中さんが温かく迎えてくれた。
「実はお願いがあって」
私は事情を説明した。田中さんは黙って聞いていたが、次第に顔を曇らせた。
「そんなことが…恵子さんがそんな扱いを受けているなんて」
「それで、理事職の件なんだけど」
「ああ、恵子さんの理事職は存続だよ。それに伴う特権も全て有効だ」
「土地の件ももちろん。あの土地は農協の所有だが、恵子さんには存続使用権がある。書類上は恵子さんの名前になっているはずだ」
私は深く頭を下げた。
「ありがとう」
「恵子さん」
田中さんが真剣な顔で言った。
「もし助けが必要なら、いつでも言ってくれ。農協は仲間を見捨てない」
帰り道、私は銀行に寄った。貯金通帳の名義と印鑑を変更し、息子夫婦が勝手に引き出せないようにした。残高は800万円。退職金の残りだ。これがあれば当面の生活には困らない。
さらに不動産屋にも立ち寄った。
「王野様、お久しぶりです」
担当者が笑顔で迎えた。
「実は賃貸物件を探していて」
「王野様なら、いい物件がありますよ。駅前の新築マンション。家賃は月8万円ですが、敷金は不要です」
「そう、見せてもらえる?」
物件は素晴らしかった。ワンルームだが一人暮らしには十分な広さ。セキュリティもしっかりしている。
「いつから入居できますか?」
「来週からでも可能です」
「では、契約します」
全ての準備が整った。私は家に帰ると、静かに荷物をまとめ始めた。大切なものだけを選び、小さなスーツケースに詰める。農協のリジバッチ、亡き夫の写真、そして母から受け継いだ真珠のネックレス。
夕食の時間になっても、私は部屋から出なかった。
「お母さん、夕食は?」
まゆさんの苛立った声が呼ぶ。
「作りません」
「は?何言ってるんですか?」
「もうあなたたちの使用人ではありませんから」
まゆさんがヒステリックにドアを乱暴に開けた。
「何様のつもりですか?」
「私は王野恵子。農協の現役理事です」
私は静かに立ち上がった。
「そして、この家の土地の実質的な所有者でもあります」
まゆさんの顔が青ざめた。
「何を言って…」
「明日の朝、全てが分かりますよ」
私はスーツケースを持って部屋を出た。玄関で靴を履いていると、順一が駆けつけてきた。
「母さん、どこへ行くんだ?」
「私には私の人生があります」
振り返らずに言った。
「あなたたちも自分たちの人生を生きてください」
「待てよ。話し合おう」
「もう遅いです」
私は静かにドアを閉めた。背後で息子夫婦の慌てる声が聞こえたが、もう振り返ることはなかった。
タクシーでホテルに向かう車中、私は深く息を吸った。68年の人生で初めて、自分のために行動したような気がした。明日の朝、息子夫婦は世帯分離の通知を受け取るだろう。そして、この家の土地が私の名義であることも知るだろう。静かな復讐の第一歩を踏み出した夜、私は久しぶりに安らかな気持ちで眠りに就いた。
翌朝7時、私の携帯電話が鳴り続けた。息子からの着信を無視して、ホテルの朝食をゆっくりと楽しんだ。久しぶりに自分のペースで食事ができることが、こんなにも幸せだとは思わなかった。
8時過ぎ、ようやく電話に出た。
「母さん、どこにいるんだ?」
順一の怒声が響く。
「おはよう、順一」
「おはようじゃない。今すぐ帰って来い」
「なぜ?」
「なぜって、陽太がおばあちゃんはって聞くんだよ。学校に送る前にいつも顔を見せるだろう」
私は小さく笑った。
「陽太に、おばあちゃんは邪魔物だから出ていったと伝えてください」
「何を言ってるんだ?」
「それより、郵便受けを確認した方がいいですよ」
電話の向こうでドアの開く音がした。しばらくの沈黙の後、順一の震え声が聞こえた。
「世帯分離…って。なんだこれは?」
「正式な手続きです。私はもうあなたたちの世帯員ではありません」
「勝手にこんなことして…」
「私は冷静に言った。私の人生を勝手に決めていたのは誰ですか?」
まゆさんの声が割り込んできた。
「お母さん、大変なことになってますよ。児童手当が打ち切られるって通知が来たんです」
「あら、それは大変ね」
「年間36万円も減るんですよ」
「私には関係ありません」
「関係ないって、あなたのせいでしょう」
「いいえ、あなたたちが私を家族として扱わなかった結果です」
そして、私は切り札を切った。
「ところで、土地の件はもう確認しましたか?」
「土地?」
順一の声が詰まった。
「その家が立っている土地です。確認してみてください」
電話の向こうで慌ただしい物音。パソコンを開く音、キーボードを叩く音、そして絶叫。
「信じられない…土地の名義が母さんになってる」
「正確には農協の所有地ですが、私に存続使用権があります」
私は淡々と説明した。
「農協の理事特権の一つです。41年間の功績に対する報酬として」
「知らなかった…」
「そんなこと、知らせる必要がありましたか?家族じゃないんでしょう」
まゆさんが泣き叫ぶような声をあげた。
「じゃあ、この家は…」
「一週間以内に出て行ってください」
「出ていけって?ローンがまだ2000万も残ってるのよ」
「それは建物のローンでしょう。土地は別です」
「でも、どこに行けばいいのよ」
「施設のパンフレットがあったでしょう。あなたたちこそ、そこに入ったらどうですか?」
順一が必死に訴えた。
「母さん、話し合おう。一度会ってくれ」
「会って何を話すんですか?」
「謝りたいんだ。俺たちが悪かった」
「今更ですね」
「陽太のためにも頼む」
陽太。その名前を聞いて、少しだけ心が揺れた。でも、すぐに思い出した。「おばあちゃん、臭い」といった孫の顔を。
「陽太には毎月一回会います。それ以上は無理です」
私は新しいマンションの鍵を受け取った。新しい部屋に初めて足を踏み入れた時、深い解放感に包まれた。ここは私だけの城。誰にも邪魔されない領域。
引っ越し業者に頼んで最小限の荷物を運び込んだ。その間にも息子夫婦からの電話は鳴り続けたが、全て無視した。
夕方、農協の田中理事長から連絡があった。
「恵子さん、息子さんが農協に来たよ」
「そうですか」
「土地の件で相談しに来たんだが、もちろん断った。存続使用権は恵子さんのものだ」
「ありがとうございます」
「それと、恵子さん。理事会で決まったことがある」
「何でしょう?」
「月一回の理事会出席と、若手職員への指導。報酬は月に10万円。どうだろう?」
私は息を飲んだ。
「そんな、もう68歳ですよ」
「年齢は関係ない。恵子さんの経験と知識が必要なんだ」
「ありがとうございます。喜んでお受けします」
電話を切った後、私は窓から夕日を眺めた。新しい人生が始まろうとしている。
その夜、インターホンが鳴った。モニターを見ると、順一とまゆさんが立っていた。二人とも憔悴しきった顔をしている。
「母さん、開けてくれ」
私はインターホン越しに答えた。
「何の用ですか?」
「お願いだ。土地の件を考え直してくれ」
「無理です」
「じゃあ、せめて三ヶ月待ってくれ。引っ越し先を探すから」
「一週間と言いました」
まゆさんが泣きながら言った。
「お母さん、本当にごめんなさい。私たちが間違ってました」
「ごめんなさい」
「謝るなら警察はいりません。高齢者虐待防止法をご存知ですか?私が訴えれば、あなたたちは罪に問われます」
二人の顔が真っ青になった。
「訴えるつもりはありませんが、二度と私に近づかないでください」
順一が最後の訴えをした。
「母さん、俺を息子だと思ったことはないのか?」
私は少し考えてから答えた。
「息子だと思っていました。だから全てを捧げた。でも、あなたは私を母親だと思っていなかった。それが答えです」
インターホンを切ると、廊下で泣き崩れる声が聞こえた。でも、もう私の心は動かなかった。
翌日、まゆさんの母親から電話があった。
「恵子さん、どうしてまゆたちにあんな酷いことを?」
「酷いこと?」
私は聞き返した。
「私は何もしていません。ただ自分の権利を行使しただけです」
「でも、家族でしょう」
「あなたの娘さんは私を家族だと思っていませんでした。それは事実です」
「私は冷たく笑った。では、なぜあなたは庇われるのですか?私は邪魔物扱いされたんです」
相手は言葉に詰まった。
「娘さんに伝えてください。人を大切にしない者は、いずれ自分も大切にされなくなると」
一週間後、息子夫婦は家を出た。どこへ行ったかは知らない。ただ、農協の仲間から聞いた話では、まゆさんの実家に転がり込んだらしい。
土地は農協に返還し、新しい若手職員の寮として活用されることになった。私の名前を冠した寮として。
新しいマンションでの生活は快適だった。好きな時間に起き、好きなものを食べ、好きなことをする。理事の仕事も充実している。若い職員たちは私を「恵子先生」と呼び、熱心に話を聞いてくれる。
ある日、スーパーで陽太とばったり会った。
「おばあちゃん」
陽太は戸惑ったような顔で私を見た。
「大きくなったわね」
私は優しく言った。
「うん…」
「おばあちゃん、ごめんね。臭いなんて言って」
「いいのよ」
「ママが言ってた。おばあちゃんは本当はすごい人だって」
私は苦笑いした。今更そんなことを言っても遅い。でも、陽太に罪はない。
「今度、おばあちゃんの家に遊びに来る?」
「月に一回なら」
陽太の顔が明るくなった。
「うん、行く」
別れ際、陽太が言った。
「おばあちゃん、かっこいいね」
その言葉が、なぜか一番嬉しかった。私は本当の意味で自由になったのだ。
新しいマンションでの生活が始まって三ヶ月が経った。朝の光が差し込む部屋で、私は優雅にコーヒーを飲んでいた。農協理事としての仕事は週に三日。今日は若手職員への研修の日だ。
「恵子先生、おはようございます」
農協の会議室に入ると、20人ほどの若手職員が立ち上がって挨拶した。彼らの真剣な眼差しが、私に新しい生きがいを与えてくれる。
「今日は、農家さんとの信頼関係の築き方について話します」
私が話し始めると、皆が熱心にメモを取る。41年の経験は決して無駄ではなかった。むしろ、今その価値が最も輝いている。
昼休み、一人の女性職員が近づいてきた。
「恵子先生、実は相談があって」
「どうしたの?」
「義理の両親との同居で悩んでいて。先生も息子さんと同居されていたと聞きました」
私は少し考えてから答えた。
「同居は簡単じゃないわ。でも、一番大切なのは自分の尊厳を守ること。我慢にも限界があるのよ」
「先生はどうやって…」
「私は遅すぎたけど、あなたはまだ間に合う。きちんと話し合って、お互いの境界線を決めなさい。それができないなら、別居も選択肢の一つよ」
彼女は深く頷いた。
「ありがとうございます。勇気が出ました」
午後、私の携帯に着信があった。陽太からだった。
「おばあちゃん、今度の日曜日、会える?」
「もちろん。約束の月一回ね」
「うん。楽しみにしてる」
日曜日、陽太は一人でやってきた。手には小さな花束を持っている。
「おばあちゃん、これ…ありがとう」
部屋に上がった陽太は、キョロキョロと見回した。
「おばあちゃんの家、すごく綺麗」
「自分の好きなように暮らしているからね」
陽太と一緒に昼食を作った。私が料理を教えると、陽太は真剣に聞いている。
「ねえ、パパとママ、最近喧嘩ばかりなんだ」
陽太がぽつりと言った。
「そう」
「おばあちゃんのことで意見が合わないみたい。パパは謝りに行きたいって言うけど、ママは無理だって」
「大人の事情は複雑なのよ」
「でも、僕はおばあちゃんが好き」
陽太はまっすぐ私を見た。
「前はママの言うことを信じてたけど、違ってた」
「過去のことは忘れましょう。大切なのはこれからよ」
その時、陽太が意外なことを言った。
「おばあちゃん、パパから聞いた。おばあちゃんが農協の偉い人だって」
「偉くはないわ。ただ長く働いただけ」
「でも、すごいよ。僕も将来、おばあちゃんみたいに強くなりたい」
その言葉に、私は心が温かくなった。
陽太が帰った後、一本の電話があった。順一からだった。
「母さん、陽太が楽しそうに帰ってきた。ありがとう」
「当然のことをしただけよ」
「母さん、本当に申し訳なかった」
順一の声は震えていた。
「俺たちはとんでもない間違いをした」
「今更何を言っても…」
「分かってる。でも、言わせてくれ。母さんは俺にとって世界で一番大切な人だった。それを忘れて、金や体裁ばかり気にして…」
「順一、今はまゆさんの実家にいるの?」
「ああ。狭いよ。まゆさんの母親も最初は優しかったけど、今は邪魔者扱いだ」
因果応報。私は心の中で呟いた。
「それで、何も求めない。ただ、陽太だけはこれからも会ってやってくれ」
「それは約束したから」
電話を切った後、私は深いため息をついた。息子夫婦への怒りはもうない。ただ、失った時間への寂しさだけが残っている。
夜、農協の理事仲間と食事会があった。
「恵子さん、綺麗になったね」
田中理事長が言った。
「自由になったからかしら」
「一人暮らしは寂しくない?」
「全然。むしろ充実してるわ」
「恵子さんの講義、若手に大好評だよ」
別の理事が言った。
「来年度は正式に教育担当理事になってもらえないか」
「まあ、そんな適任者、恵子さんしかいない。報酬も上げるから」
私は嬉しさを隠せなかった。68歳にして、新しいキャリアが開けるなんて。
帰宅すると、郵便受けに一通の手紙が入っていた。まゆさんからだった。
「お母さん、今更こんな手紙を送る資格はないと分かっています。でも、どうしても伝えたくて。私は最低な嫁でした。お母さんの優しさを当たり前だと思い、感謝することを忘れていました。今、私も実の母に同じ扱いを受けて、初めてお母さんの気持ちが分かりました。本当にごめんなさい。いつか許してもらえる日が来ることを願っています」
手紙を読み終えて、私は窓の外を見た。夜景がキラキラと輝いている。
許すか許さないか、それはまだ分からない。でも、一つだけ確かなことがある。私は今、本当に幸せだということ。自分の力で立ち、自分の意思で生きる。それがどれほど尊いことか、今なら分かる。
「遺相ろ」と呼ばれた私は、今では「先生」と呼ばれている。「邪魔者」と言われた私は、今では必要とされている。「ここはお前の家じゃない」と言われた私は、今、本当の自分の家を手に入れた。
人生は何歳からでもやり直せる。大切なのは、自分を信じる勇気と、一歩踏み出す決意だけ。
私は王野恵子、68歳。農協理事。そして何より、自由で幸せな一人の女性。これからの人生を、誰にも遠慮することなく、堂々と生きていく。



