夜の11時、いつものようにドアをノックする音が聞こえた。23歳の息子が、汗でびっしょり濡れた顔で立っていた。震える手で「母さん、ごめん」とだけ言って、壁にうずくまる。朝になると、彼は何事もなかったかのように笑って大学へ行く。毎晩繰り返されるその夜の訪問に、近所の噂は広がり、私は息子を疑い始めていた。もしかして、これは普通のことじゃない?…

夜の11時、いつものようにドアをノックする音が聞こえた。23歳の息子が、汗でびっしょり濡れた顔で立っていた。震える手で「母さん、ごめん」とだけ言って、壁にうずくまる。朝になると、彼は何事もなかったかのように笑って大学へ行く。毎晩繰り返されるその夜の訪問に、近所の噂は広がり、私は息子を疑い始めていた。もしかして、これは普通のことじゃない?...

夜の11時を過ぎた頃、しず子はベッドに横になっていたが、眠れずにいた。天井を見つめながら、今日一日の出来事を振り返る。夕食の片付け、洗濯物を畳み、明日の朝食の準備。48歳になっても変わらない日常だった。夫は地方へ出張中で、一週間ほど帰ってこない。息子の健太は自分の部屋で勉強でもしているのだろうと思っていた。

目を閉じようとしたその瞬間だった。

トントントントン。

ドアをノックする音が聞こえた。控えめながらもはっきりとした音。しず子は一瞬体を強張らせた。こんな時間に誰が? もしかして健太に何かあったのかと胸が騒いだ。

「誰?」

しず子の声は震えていた。返事はない。しかし、ドアの向こうから荒い息遣いが聞こえてくる。まるで長い間走ってきたかのように、激しく不規則な呼吸。しず子はゆっくりとベッドから起き上がり、心臓が早鐘を打つ中、ドアへ向かった。ドアの取っ手に手を触れた時、一瞬ためらった。嫌な予感がしたのだ。

ドアを開けると、そこには健太が立っていた。

「健太!」

驚きの声が漏れた。しかし、何かがおかしい。健太の顔は汗でびっしょりと濡れ、髪が額に張り付いている。Tシャツも汗で色が濃くなっていた。息を荒く吐き、両目は焦点を失ったように揺れている。

「健太、どうしたの? どこか具合でも悪いの?」

しず子は慌てて尋ね、手を伸ばして息子のおでこに触れようとした。しかし、健太は答えない。ただ母親を見つめるだけだった。その眼差しには不安と恐怖、そして言葉にできない何かが宿っていた。健太の手が震えている。拳を握ったり開いたりを繰り返し、その場に立ち尽くしていた。

しず子は息子のこんな姿を初めて見た。いや、正確には久しぶりに見る姿だった。幼い頃、悪夢を見て泣きながら母親の部屋へ駆け込んできた時以来だった。あの時も健太はこうして全身を震わせ、言葉を失っていた。

「入っていいよ」

しず子が優しく言うと、健太は頷き、無言のままゆっくりと部屋の中に入ってきた。足取りは重く、まるで足に力が入っていないかのようにふらついていた。しず子は戸惑ったが、息子を追い出すことはできなかった。何か深刻なことが起きているのは明らかだった。母親としての本能が、今この子には自分が必要だと告げていた。

健太は部屋の真ん中に立つと、辺りを見回し、壁の方へ歩いていって背中を預けた。そして膝を折り、その場に座り込むと、うずくまった。肩が小さく震え、背中が丸まり、体全体が小さく見える。23歳の青年ではなく、まるで幼い子供のようだった。

「健太、お母さんに話してご覧。何があったの?」

しず子は息子のそばに寄り添い、尋ねた。声には心配が満ちている。しかし、健太は依然として口を開かない。ただ両手で顔を覆うだけだった。指の間から涙が流れるのが見える。肩の震えがさらに激しくなった。

しず子は息子の隣にそっと座った。冷たい床がお尻に触れたが、気にならなかった。背中をさすってあげたかったが、手が震えて簡単には動かせなかった。この状況は見慣れない恐ろしいものだった。23歳にもなった息子が真夜中に母親を尋ねてきて、こんなにも崩れ落ちているなんて信じられなかった。

「大丈夫よ。ゆっくり話していいからね」

しず子は優しく語りかけた。健太は顔を上げて母親を見た。目には涙が溜まり、赤く充血した瞳が揺れていた。唇を震わせ、何かを言おうとしたが、結局何の言葉も出てこない。口を開けたり閉じたりを繰り返すだけだった。

二人はしばらくの間、無言で座っていた。夜は更けていき、家の中は静まり返っている。ただ健太の荒い息遣いだけが部屋の中に響いていた。時計の秒針の音が夜更けに大きく聞こえる。カチカチカチという規則的な音が緊張感を高めていた。

しず子の頭の中は混乱していた。息子に何が起きたのだろう。大学で何か問題があったのだろうか? それとも友達と喧嘩したのだろうか? 彼女と別れたのだろうか? 様々な考えが頭をよぎったが、どれも確信には至らない。健太は普段、本心をあまり表に出さない子だった。高校生の頃からだんだん口数が減り、大学に入ってからはさらに物静かになった。

「お水、飲む?」

しず子が尋ねると、健太は首を横に振った。相変わらず言葉はない。しず子はため息をついた。どうすればいいのか分からなかった。息子を助けてあげたいけれど、その方法が分からない。何が息子をこんな状態にしたのか分からず、どう慰めればいいのかも分からなかった。

時間が経った。どれくらい経っただろうか。30分ほど経った頃、健太の息遣いが少しずつ落ち着き始めた。震えも次第に収まっていく。しず子はそっと息子の肩に手を置いた。温かい体温が手のひらに伝わる。

「もう大丈夫?」

健太がゆっくりと頷いた。そして立ち上がろうとする。足に力が入らないのか、壁に手をついてゆっくりと体を起こした。しず子も一緒に立ち上がる。膝が痛んだが、おくびにも出さない。

「部屋に戻る?」

しず子が尋ねると、健太は再び頷いた。そしてゆっくりとドアの方へ歩いていく。ドアを開ける前に一度立ち止まり、振り返った。青白い顔には申し訳なさが満ちている。

「母さん、ごめん」

健太の声はか細く震えていた。それが今夜初めて口にした言葉だった。しず子の胸が詰まった。喉が締め付けられ、うまく返事ができない。

「ううん。大丈夫よ。いつでもおいで」

しず子は無理に笑顔を作って言った。涙が出そうだったが、こらえた。健太は俯いて部屋を出て行った。ドアがゆっくりと閉まる。

しず子はしばらくの間、ドアを見つめて立っていた。今、何が起きたのだろう。理解できなかった。しかし、一つだけ確かなことがあった。息子に何か深刻な問題があるということ。そして、その問題は単純なものではないという予感がした。

しず子は再びベッドに横になった。しかし、眠気は訪れない。天井を見つめながら考え続けた。明日の朝、息子と話をしなければ。いや、夫に電話して相談すべきだろうか。病院に連れて行くべきではないだろうか。頭の中がごちゃごちゃだった。

窓の外から街灯の明かりが差し込んでいる。静かな夜だったが、しず子の心は全く穏やかではなかった。不安が胸を押しつぶす。その夜、しず子は夜明けまで眠ることができなかった。目を閉じると、健太の震える瞳が浮かび上がる。その瞳に宿る苦しみが、母親の胸を痛めつけた。

朝7時。しず子は台所で朝食の準備をしていた。一晩中まともに眠れなかったが、日常は続けなければならない。フライパンで卵焼きを作り、味噌汁を温めた。炊飯器からは温かいご飯の匂いが立ちのぼる。ごく普通の朝の光景だった。

健太が部屋から出てきた。

「母さん、おはよう」

健太の声は明るいものだった。昨夜のあの姿はどこにもない。きちんと髪を整え、いつも通りの小ざっぱりとした服装。顔には微笑みさえ浮かべていた。しず子は一瞬戸惑った。本当に昨夜の出来事は現実にあったことなのか、疑わしくなるほどだった。

「ええ、よく眠れた?」

しず子は慎重に尋ねた。健太は頷きながら食卓に着く。

「うん。ぐっすりだよ」

健太は答えた。平然とした表情だった。昨夜のことについては一言も触れない。しず子は何と言えばいいのか分からなかった。昨夜のことを切り出すべきか、それともこのまま触れないでおくべきか。心が揺れ動いた。

「さあ、ご飯よ」

しず子はご飯茶碗を健太の前に置いた。健太は「ありがとう」と言うと箸を手に取り、いつも通り静かにご飯を食べ始めた。しず子は息子の顔を観察した。本当に何ともないようだ。昨夜、汗に濡れて震えていた姿が嘘のように感じられた。

食事は静かに進んだ。健太は味噌汁をおかわりし、ご飯も全て食べきった。食欲も普通だ。しず子は安心すると同時に、一方ではさらに混乱した。昨夜のあれは何だったのだろうか。

「ご馳走様。学校に行ってきます」

健太が席を立ちながら言った。鞄を背負い、玄関へ向かう。しず子は後を追った。

「健太」

しず子が呼び止めた。健太が振り返る。しず子は言葉を選んでいた。どう聞けばいいのだろうか。

「昨日の夜のことなんだけど……」

しず子が口を開くと、しかし健太が先に口を開いた。

「母さん、遅れちゃうから行ってきます」

健太はにっこりと笑って言った。そしてドアを開けて出て行ってしまった。しず子は何も言えなかった。ドアが閉まる音だけが響く。

しず子はしばらく玄関に立ち尽くしていた。胸の中にモヤモヤしたものが渦巻いている。何かがおかしい。昨夜あんなに打ちのめされていた息子が、朝にはあまりにも平然としている。まるで何もなかったかのように。これは正常なことなのでしょうか?

一日が過ぎた。しず子は家事をしながらも、ずっと昨夜のことを考えていた。皿洗いをしながらも、洗濯物を干しながらも、掃除をしながらも、頭の中は複雑だった。夫に電話しようかと思ったが、ためらわれた。どう説明すればいいのか見当もつかなかったからだ。息子が夜中に私の部屋に来て帰って行った。それだけでは大したことではないように聞こえるかもしれない。

夕方になり、健太は6時に帰宅した。いつもより少し遅い時間だった。

「ただいま、母さん」

健太の声は相変わらず明るいものだった。鞄を置き、手を洗いに行く。しず子は頷きながら答えた。

「お帰りなさい。もうすぐ夕飯できるわよ」

夕食も穏やかに進んだ。健太は大学であったことを話した。友達と昼食を食べたこと、課題がたくさん出たこと。ごく普通の会話だった。しず子は聞きながらも、ずっと息子の表情を伺っていた。本当に何ともないようだ。

「健太、最近よく眠れてる?」

しず子が慎重に尋ねると、健太は頷いた。

「うん、大丈夫だよ」

短い返事だった。それ以上は話さない。しず子はもっと聞きたかったが、我慢した。

夜になり、しず子は再びベッドに横になっていた。時計を見ると10時半。昨夜のように眠気は訪れない。耳を澄ましていた。またドアをノックする音が聞こえるのではないかと。

11時になった。家の中は静まり返っている。何の音も聞こえない。しず子は安堵のため息をついた。昨夜のは一度きりのことだったのね。そう思い、目を閉じようとした。

トントントントン。

その瞬間、ドアをノックする音が聞こえた。しず子の目がかっと見開かれた。心臓が早く鼓動し始める。またしても同じ音だった。控えめながらもはっきりとしたノックの音。そしてドアの向こうから聞こえる荒い息遣い。

しず子はベッドから起き上がり、手が震えた。ドアへ向かいながら、胸がドキドキした。昨日と全く同じ状況が繰り返されている。ドアを開けると、やはり健太だった。昨夜と全く同じ姿。汗に濡れた顔、荒い息遣い、揺れる瞳。全てが同じだった。

しず子は言葉を失った。一体これはどういうことなのだろうか。

「健太」

しず子は震える声で呼びかけた。健太は答えずに母親を見つめた。その瞳には切迫したものが宿っている。まるで助けを求めて懇願しているかのようだった。

しず子は息子を部屋に入れた。昨日と同じように、健太は壁に寄りかかって座り込み、全身を震わせてうずくまった。しず子は隣に座り、背中をさすってあげた。昨日よりは少しだけ落ち着いて行動することができた。

「大丈夫よ。お母さんがここにいるから」

しず子は優しく語りかけた。健太の震えが少しずつ収まっていく。しかし、相変わらず言葉は発しない。ただ息を整えながら座っているだけだった。

30分ほど経っただろうか。健太がゆっくりと立ち上がり、昨日と同じように「ごめん」と言って部屋を出ていった。しず子は再び一人残された。今夜は眠れないだろうと悟った。

天井を見つめながら考える。これが繰り返されるのか。毎晩、息子が訪ねてくるのか。一体なぜこんなことを。不安が募った。これは単なる一度きりの出来事ではなかった。パターンが生まれつつあった。そして、そのパターンが何を意味するのか、しず子には分からなかった。

三日目の朝。健太は昨日も一昨日も同じように平然とした顔で食卓についていた。明るく挨拶をし、ご飯を食べる。夜の出来事は全く覚えていないかのように振る舞っていた。しず子は我慢できなかった。

「健太、ちょっと話があるんだけど」

しず子は真剣な口調で言った。健太が顔を上げて母親を見る。表情に戸惑いがよぎった。

「何の話?」

健太が尋ねる。しず子は一瞬ためらった。どう切り出せばいいのだろうか。

「最近、夜よく眠れてる?」

しず子は慎重に尋ねた。健太は頷く。

「うん。よく寝てるよ。どうして?」

健太の声は本当に不思議がっているようだった。本当に知らないのだろうか? それとも知らないふりをしているのだろうか? しず子には判断できなかった。

「ううん。何でもないの」

しず子は言葉を濁した。それ以上は聞けなかった。健太は再びご飯を食べ始める。しず子はため息を飲み込んだ。

その日の昼、しず子は夫に電話をした。

「あなた、ちょっと変なことがあって」

しず子が言うと、夫は心配そうな声で尋ねた。

「どうした? 何かあったのか?」

しず子は数日間の出来事を説明した。健太が毎晩部屋を尋ねてくること。しかし、昼間は何ともないこと。夫はしばらく黙っていた。

「それ、本当か?」

夫の声には信じられないというニュアンスが込められていた。しず子の胸は苦しくなった。

「本当よ。私が嘘をつく理由がある?」

しず子は強く言った。夫はため息をつく。

「わかった。今週末に帰るから、その時に健太を連れて病院にでも行ってみよう」

夫が言った。しず子は頷いた。電話越しで夫には見えなかったが。

「ええ、そうしましょう」

電話を切った後、しず子はソファに座り込んだ。疲れ果てていた。数日間の睡眠不足と不安が心と体を重くのしかかる。週末まで耐えられるだろうか。そして、病院に行けば答えは見つかるのだろうか。確信は持てなかった。

その夜も案の定、11時になるとノックの音が聞こえた。しず子はもう驚きもしなかった。慣れたわけではなかったが、予想はしていたからだ。ドアを開け、息子を迎え入れた。同じパターンが繰り返される。

しず子は思った。これはいつまで続くのだろう。そして、この終わりはどこにあるのだろう。答えは分からなかった。

三日目の朝。しず子は台所でスープを温めていた。鍋から湯気が立ちのぼる。体は動いていたが、心は上の空だった。この二日間、まともに眠れていなかったからだ。目の下にはくまができていた。

健太が部屋から出てきた。

「母さん、おはよう」

明るい声だった。昨日も一昨日も、何事もなかったかのような顔だった。きちんと髪を整え、清潔な服を着ている。しず子は息子を見つめた。本当に毎晩自分の部屋を訪ねてくるあの息子なのだろうかと思った。

「ええ、よく眠れた?」

しず子が尋ねると、健太は頷きながら食卓に着く。

「うん。ぐっすりだよ」

同じ答えだった。しず子はスープの入ったお椀を前に置きながら、息子の顔を注意深く観察した。少しでも疲れた様子はないかと。しかし、健太は元気そうに見えた。

「今日、大学で発表があるんだ」

健太がご飯を食べながら言った。ごく普通の日常会話だった。しず子は頷く。

「そう、準備はできたの?」

「うん。昨日全部終わらせたよ」

健太は笑って答えた。笑顔だった。しず子の胸は苦しくなった。このように普通に会話することが、かえって異常に感じられる。夜の出来事はどこへ消えてしまったのだろうか。

食事が終わり、健太は鞄を背負い玄関へ向かう。しず子が後を追った。健太が靴を履こうと身をかがめた瞬間、しず子の目に何かが映った。健太の手首だった。シャツの袖からわずかに見える手首に、赤い跡があった。引っかいたような跡。何本もの細い線が手首を横切っている。

「健太」

しず子は慌てて呼び止めた。健太が顔を上げる。

「手首、それどうしたの?」

しず子は震える声で尋ねた。健太は自分の手首を見下ろした。一瞬戸惑った表情を浮かべる。

「あ、これ。昨日、本を整理してて引っかいちゃったんだ。大したことないよ」

健太は平然と答え、袖を下ろして手首を隠した。そしてにっこりと笑った。

「母さん、遅れちゃうから行ってきます」

健太はドアを開けて出て行ってしまった。しず子は何も言えなかった。ドアが閉まる音が大きく響いた。

しず子はしばらく玄関に立ち尽くしていた。手首の跡が目に焼き付いて離れない。本を整理していて引っかいたと。そういうこともあるでしょう。しかし、どうにも腑に落ちなかった。跡があまりにも規則的に見えたのだ。まるで誰かが意図的に引っかいたかのように。

「違うわ」

しず子は首を横に振った。考えすぎなのだと自分に言い聞かせた。しかし、不安は簡単には消えなかった。

一日が過ぎた。しず子は家事をしながらも、ずっと手首の跡のことを考えていた。皿洗いの最中も、掃除の最中も、そのイメージが頭に浮かぶ。昼食を食べる時も、食欲がなかった。何かがおかしいという感覚が強くなっていた。

午後になり、しず子は健太の部屋の前を通りかかり、立ち止まった。ドアは固く閉ざされている。手を伸ばし、ドアの取っ手に触れた。開けてみようか。一瞬迷った。息子の部屋にこっそり入るのは良くないことだと分かっていた。しかし、知りたかった。結局、手を引いた。信じなければと思った。息子を信じなければ。

しず子はリビングに戻り、ソファに座った。しかし、心は落ち着かなかった。

夕方になり、健太が6時半に帰宅した。いつもより少し遅い時間だった。

「ただいま、母さん」

健太の声は明るいものだった。しず子は台所から出て息子を迎える。

「お帰りなさい。遅かったわね」

「うん。課題でちょっと図書館に寄ってたんだ」

健太は答え、鞄を置き手を洗いに行く。しず子は息子の後ろ姿を見つめた。手首の跡はもう見えない。長袖で隠されていた。

夕食が始まった。健太は発表がうまくいったと話した。教授に褒められたと、友達とも楽しく昼食を食べたと言った。ごく普通の会話だった。しず子は聞きながらも、ずっと息子の手首をチラチラと見ていた。

「健太」

しず子は慎重に口を開いた。健太が顔を上げる。

「最近、何か辛いこととかない?」

しず子が尋ねると、健太は少し考えるような素振りを見せ、そして首を横に振った。

「ううん。大丈夫だよ。どうして?」

「いいえ。何でもないの。お母さんに、辛いことがあったらいつでも言ってね」

しず子が言うと、健太はにっこりと笑った。

「うん。分かった。心配しないで」

健太は答え、再びご飯を食べ始める。しず子はため息を飲み込んだ。それ以上は聞けなかった。

夜になり、しず子はベッドに横になっていた。時計を見ると10時。一時間後にはまたノックの音が聞こえるだろうと分かっていた。もう予想できていた。パターンが確立されていたからだ。

11時が近づき、しず子は耳を澄ました。家の中は静まり返っている。健太は自分の部屋にいるはずだ。勉強しているのだろうか? それとも眠ろうとしているのだろうか?

トントントントン。

予想していた音が聞こえた。しず子は目を開いた。心臓は早く鼓動していたが、驚きはしなかった。もう分かっていたからだ。ベッドから起き上がり、ドアへ向かいながら深く息を吸い込む。心の準備をした。ドアの取っ手を握り、ドアを開けた。

健太が立っていた。昨日も一昨日も同じように、汗に濡れた顔、荒い息遣い、震える体。全てが同じだった。しかし、今日は何かが違った。健太の瞳がより不安に見えた。

「入って」

しず子が言うと、健太がゆっくりと部屋の中に入ってくる。いつものように壁の方へ歩いていった。しかし、今回は壁に寄りかからなかった。健太が窓の方へ行った。しず子は戸惑った。これは初めて見る行動だった。

健太は窓の前に立つと、カーテンをそっと開け、外を眺めた。首を左右に動かし、何かを確認しているようだった。

「健太、何してるの?」

しず子が尋ねた。しかし、健太は答えない。ずっと窓の外を見つめていた。肩が緊張で硬直している。

一分ほど経っただろうか。健太がゆっくりとカーテンを閉め、振り返った。顔には安堵したような表情が浮かんでいた。何を確認したのだろうか。しず子は気になったが、聞けなかった。

健太が壁の方へ歩き、座り込んだ。いつものように、うずくまり、両手で顔を覆う。しず子は息子の隣に座り、背中をさすり始めた。

「大丈夫よ。お母さんがここにいるから」

しず子はささやいた。健太の震えが少しずつ収まっていく。しかし、今日はいつもより時間がかかった。40分ほど経って、ようやく落ち着いた。

健太が立ち上がり、ドアの方へ向かいながら振り返った。青白い顔には申し訳なさが満ちていた。

「母さん、ごめん」

同じ言葉だった。しず子は頷く。

「大丈夫よ。お休み」

健太が部屋を出て行き、ドアが閉まる。しず子は窓の方を見つめた。健太が確認していた、あの窓。一体外に何を見たのだろうか? いや、何を見ようとしたのだろうか。

しず子も窓へ近づき、カーテンを開け、外を眺めた。何もなかった。暗闇の中に街灯の光だけが見える。静かな夜だった。誰もいなかったし、何も起きていなかった。しかし、健太は明らかに何かを確認しようとしていた。

しず子はカーテンを閉め、ベッドに戻り横になった。しかし、眠気は訪れない。頭の中は混乱していた。手首の跡、窓を確認する行動、だんだん長くなる鎮静時間。全てがおかしい。何かが間違っている。

しず子は確信した。これは単に毎晩母親を尋ねる以上の問題があるのだと。しかし、それが何なのか分からなかった。健太は話さず、しず子は聞けなかった。不安が募る。

天井を見つめながら、しず子は思った。このままではいけない。何かをしなければ。しかし、何をすればいいのか分からなかった。その夜もしず子は夜明けまで眠れなかった。

一週間が経った。しず子はもう11時になると自然にベッドから起き上がり、ドアの前で待つようになっていた。ノックの音が聞こえる前から準備していたのだ。まるで約束でもしたかのように。最初の戸惑いは消え、代わりに諦めのようなものがあった。

トントントントン。予想していた音が聞こえた。しず子はドアを開けた。健太が立っている。相変わらず汗に濡れた顔、荒い息遣い、震える体。一週間、毎晩同じ姿だった。

「入って」

しず子が言った。もう何も尋ねない。健太は俯いて部屋の中に入ってきた。壁の方へ歩き、座り込む。しず子も自然に隣に座り、背中をさすり始めた。これが日常になってしまった。

朝になると、健太は普通に笑って大学へ行く。夜に帰ってきては食事をし、話をした。そして夜になると、母親の部屋を尋ねてくる。昼と夜が完全に分離した生活だった。

しず子は次第に疲れ果てていった。毎晩まともに眠れない。健太が帰った後も、不安で眠りにつけないのだ。目の下のくまはさらに濃くなり、顔は青白くなった。昼間は疲れてソファで居眠りをするようになった。

ある朝のこと。健太が食卓でご飯を食べながら顔を上げた。

「母さん、大丈夫? 顔色が悪いみたいだけど」

健太の声には心からの心配が込められていた。しず子は胸が痛んだ。息子は母親を心配しているのに、当の本人は自分の問題を分かっていないとは。

「うん。大丈夫よ。ちょっと疲れてるだけ」

しず子は答えた。健太は申し訳なさそうな顔をする。

「母さん、あまり無理しないでね。僕が皿洗いするから」

食事が終わり、健太が鞄を背負って玄関へ向かった。ドアを開けて出て行こうとした瞬間、一度立ち止まって振り返った。

「母さん、何? 最近、僕何か変なこととかした?」

健太は慎重に尋ねた。しず子の心臓がドクンと音を立てた。

「どうしてそんなこと聞くの?」

「ううん。最近、朝起きると記憶が少し曖昧な気がして。夜に何をしたかよく覚えてないんだ」

健太の声は不安そうだった。しず子はどう反応すればいいのか分からなかった。真実を話すべきだろうか?

「いいえ。別に変なことはなかったわよ」

しず子は嘘をついた。健太は安心したような表情を浮かべる。

「そっか。ならよかった。行ってきます」

健太が出ていき、ドアが閉まった。しず子はその場に呆然と立ち尽くしていた。健太が覚えていないことを確認した瞬間だった。

午後3時頃、インターホンが鳴った。しず子は玄関へ出てドアを開けた。隣の奥さんが立っていた。

「こんにちは」

しず子が挨拶すると、奥さんは気まずそうに笑って答えた。

「こんにちは」

しばらく沈黙が流れた。奥さんは何かを言おうとして、ためらっているようだ。

「何かご用でしょうか?」

「あの、最近夜に物音が少し聞こえるもので。壁が薄いせいか、毎晩誰かが出入りする音が聞こえるんです。それに、時々、泣き声のようなものも……」

奥さんの声は次第に小さくなった。しず子は顔が熱くなるのを感じた。恥ずかしさと屈辱感が込み上げてくる。

「あ、申し訳ありません。息子が最近、勉強で夜遅くまで起きているもので。気をつけさせます」

しず子は慌てて謝った。奥さんは頷いて帰って行った。ドアを閉めた後、しず子はその場に座り込んだ。バレてしまった。近所の人に気づかれてしまった。毎晩のことを。

しず子の胸は苦しくなった。恥ずかしかった。噂が広まってしまうのではないだろうか。あの家は変だと指を刺されるのではないだろうか。恐怖が押し寄せてきた。しず子は手で顔を覆い、涙が流れ落ちた。

しばらくの間、泣いた。涙が枯れるまで泣いた。そして、ゆっくりと立ち上がり、顔を洗った。鏡を見ると、目が晴れ上がっている。夕食の準備をしなければならなかった。手は震えていたが、動き続けた。ご飯を炊き、おかずを作らなければならない。日常は続けなければならないのだから。

6時に健太が帰宅した。いつも通りの明るい顔だった。夕食を食べながら、健太は大学の話をした。しず子は聞きながら頷いていたが、心は別の場所にあった。

「母さん、大丈夫? さっきからずっとぼーっとしてるよ」

健太の声には心配が満ちていた。しず子は無理に笑う。

「ええ、大丈夫よ。ちょっと疲れてるだけ」

食事が終わり、健太は自分の部屋に入って行った。しず子も部屋へ行き、ベッドに横になり天井を見つめた。二時間後にはまた同じことが起こるだろう。

11時になった。しず子はもうドアの前に立っていた。ノックの音が聞こえる。ドアを開けると、健太が立っていた。しず子は息子を迎えた。30分後、健太が立ち上がり、部屋を出ていく際に「母さん、ごめん」と言った。しず子は頷いた。ドアが閉まり、しず子は一人残された。

ベッドに横になると、涙が流れ落ちた。静かに、声もなく泣いた。いつまでこんな生活をしなければならないのだろうか。いつまでこの重荷を一人で背負わなければならないのだろうか。答えはなかった。

数日がさらに過ぎた。夜の訪問は続く。しず子はますます無気力になっていった。拒否する力も、尋ねる勇気もなかった。ただ受け入れるだけだった。

ある日の夕方、しず子はリビングのソファに座っていた。テレビをつけたが、内容は頭に入ってこない。ぼんやりと画面を見つめているだけだった。健太が部屋から出てきて、水を飲みに来た。母のそばを通り過ぎようとして、立ち止まる。

「母さん、何? 僕、母さんの重荷になってないかな?」

健太の声は震えていた。しず子は驚いて息子を見つめた。健太の目には不安が満ちている。

「何を言ってるの? あなたは重荷なんかじゃないわ」

しず子が言うと、健太は頷いたが、表情は依然として不安そうだった。再び部屋に戻っていく。しず子はため息をついた。健太も何かを感じ取っているようだった。言葉にはできないけれど、何かがおかしいということを本能的に分かっているようだった。

その夜も案の定、ノックの音が聞こえた。しず子はドアを開け、健太を迎え入れ、背中をさすってあげた。週慣のように、これが日常だった。拒むことのできない、終わりの見えない日常。

しず子は思った。このままではいけないと。しかし、どうすればいいのか分からなかった。ただ毎晩息子を迎え入れ、毎朝平然と振る舞うだけだった。愛と無力感が同時に交差した。息子を守ってあげたいけれど、どう守ればいいのか分からなかった。

そうして日常は続いていった。

二週間が経った。しず子は、健太が訪れる時間が少しずつ早くなっていることに気づいた。最初は11時だったのが、ある日から10時半に来るようになり、やがて10時に来る日もあった。パターンが変化していたのだ。さらに不安なのは、滞在時間も長くなっていることだった。最初は30分もすれば落ち着いたのに、最近は40分、一時間とかかるようになった。しず子はますます長い時間、息子のそばに座っていなければならなくなった。背中をさすり、落ち着くまで一緒にいなければならなかった。

ある夜のこと。10時にノックの音が聞こえた。しず子はドアを開けた。健太が入ってきて、壁に寄りかかって座る。しず子も隣に座り、いつものように背中をさすり始めた。一時間が経った。健太はまだ落ち着かない。体を震わせ、息遣いも荒いままだ。しず子は心配になってきた。今日は特にひどいようだった。

「大丈夫よ。ゆっくり、ゆっくり」

しず子はささやき、背中をさすり続けた。健太はうずくまったまま、何も言わなかった。一時間半が経った時、健太の震えが少しずつ収まり始めた。息遣いも落ち着きを取り戻していく。しず子は安堵のため息をついた。ようやく落ち着いてきたようだった。

ところが、健太は動かなかった。いつもならこの辺りで立ち上がって部屋に戻っていくのに、今日はその場に座ったまま。しず子はおかしいと思った。

「健太」

しず子は慎重に呼びかけた。返事がない。しず子は息子の肩をそっと揺さぶった。

「健太?」

すると、小さな音が聞こえた。規則的な寝息だった。健太が眠ってしまっていたのだ。

しず子は戸惑った。今まで一度もなかったことだ。健太はいつも落ち着くと自分の部屋に戻っていったのだから。しかし、今日はそのまま眠ってしまった。どうすればいいのだろう? 起こして帰すべきか? それとも、このまま寝かせておくのがいいのか?

しず子はためらった。健太の顔を見た。穏やかに見えた。汗は乾き、表情も安定している。久しぶりに見る安らかな顔だった。しず子は決めた。起こさないことにした。

健太をそっと横にさせ、枕を頭の下に当て、布団をかけてあげた。健太は寝返りを打ち、体を丸めた。依然として深く眠っている。しず子はベッドに行き、横になった。隣を見ると、床に横たわる健太が見えた。静かに寝息を立てて眠っている。

しず子は複雑な気持ちになった。これでいいのだろうか。しかし、疲れていた。しず子も目を閉じた。久しぶりに、健太がそばにいるという安心感があった。幼い頃のように。あの頃も、健太は時々母親の部屋で寝ていた。

眠りに着いた。

朝になり、しず子が目を覚ました時、健太はもういなかった。床に畳んであった布団だけが残っている。いつ起きて出ていったのだろうか。しず子は起き上がり、リビングへ行った。健太が食卓に座っていた。すでに顔を洗い、着替えを済ませている。

「母さん、おはよう」

健太はにっこりと笑って挨拶した。いつもと変わりません。しず子は息子を見つめた。昨夜のことを覚えているのだろうか?

「ええ、よく眠れた?」

しず子が尋ねると、健太は頷く。

「うん。ぐっすりだよ」

やはり覚えていないようだった。しず子はため息をつき、朝食の準備をしに台所へ向かった。

その日を境に、変化が生まれた。健太は時々、しず子の部屋でそのまま眠るようになった。週に3回ほどだった。落ち着くと、その場で眠ってしまうのだ。しず子は毎回布団をかけてやり、一緒に眠った。奇妙な同居生活が始まった。昼間はごく普通の母と子の関係。しかし、夜になると健太は母親の部屋を訪れ、時にはそこで朝まで過ごす。まるで幼い子供に戻ったかのように。

ある夜のこと。健太がしず子の部屋で眠っていた。しず子もベッドに横になっている。静かな夜だった。健太の規則的な寝息だけが聞こえる。ところが突然、健太がつぶやいた。

「影が……追いかけてくる」

小さな声だった。寝言だった。しず子は耳を澄ました。

「影が、追いかけてくる」

健太の声は震えていた。しず子は体を起こし、健太を見た。健太は依然として眠っている。しかし、表情は苦しげに歪んでいた。悪夢を見ているようだった。

「健太」

しず子は静かに呼びかけ、健太の手を握った。温かく包み込んだ。

「大丈夫よ。お母さんがここにいるから」

しず子はささやいた。健太の表情が少し柔らぎ、つぶやきも止まる。再び静かになった。しず子は健太の手を握り続けた。息子はどんな夢を見ているのだろうか。「影が追いかけてくる」とはどういう意味なのだろうか。知りたかったが、知る術はなかった。

しばらくそうして座っていたが、しず子も再び横になった。健太の手は握り続けたままで。いつからか、それが自然になっていた。

数日後。健太がまたしず子の部屋で眠っていた。今回も寝言を言う。

「だめだ。行かないで」

悲しげな声だった。しず子は胸が痛んだ。健太が苦しんでいるのが感じられた。しかし、起こすことはできない。ただ手を握ってあげるだけだった。

「お母さんがここにいるから、大丈夫よ」

しず子は繰り返し言った。健太は少しずつ落ち着いていき、寝言も止まる。

翌朝、しず子は健太に尋ねた。

「健太、最近、夢とか見る?」

健太は首をかしげた。

「夢? うん。あんまり覚えてないけど。どうして?」

「いいえ。何でもないの」

しず子は言葉を濁した。やはり覚えていなかった。寝言も悪夢も、全て記憶の外だった。

時間が経ち、健太がしず子の部屋で寝る頻度はますます増えていった。週に4、5回に増えた。ほとんど毎晩だった。しず子の部屋は今や二人の空間となりつつあった。奇妙な同居だった。昼間はそれぞれの生活を送る。健太は大学へ行き、しず子は家事をする。しかし、夜になると一緒だった。健太が訪れ、落ち着き、眠りに着くと、しず子がそばを守った。

しず子は複雑な感情を抱いていた。一方では不便だった。息子がここまで苦しんでいることが胸を痛めた。もう一方では怖かった。これが正常ではないと分かっていたからだ。しかし、止めることはできなかった。愛情だったのだろうか? それとも無力感だったのだろうか? しず子には分からなかった。ただ息子を迎え入れ、一緒にいてあげるだけだった。他の方法を知らなかったからだ。

ある日、健太の寝顔を見ながら、しず子は思った。これはいつまで続くのだろうか。健太はいつになったら自分の部屋で一人で眠れるようになるのだろうか。それとも、一生こうして生きていくのだろうか。答えはなかった。しず子はただ健太の頭を撫でてあげるだけだった。まるで幼い頃に戻ったかのように。あの頃はこんなに単純だった。子供が怖がれば抱きしめ、悪夢を見れば慰めてあげればよかった。しかし、今は違う。健太は23歳で、問題は単純ではなかった。しず子はそれを分かっていた。しかし、認めたくなかった。

こうして奇妙な日々は続いていった。

三週間目。しず子は鏡を見ながら、自分の顔を見つめた。目の下のくまは化粧でも隠しきれないほど濃くなっている。頬はこけ、唇は荒れていた。48歳という年齢が、50代半ばのように見えた。もう耐えられないと思った。

しず子はスマートフォンを手に取り、夫に電話をかけた。呼び出し音が3回鳴り、夫が出た。

「あなた、私……」

しず子の声は震えていた。夫はすぐに気づいた。

「どうした? 声が変だぞ」

「あなた、私、本当に辛いの。健太のことで……」

しず子は言葉を続けられなかった。喉が詰まった。夫はしばらく黙ってから尋ねた。

「まだなのか? 毎晩、部屋に来るのか」

「ええ、もうほとんど毎日、私の部屋で寝てるの。私にも分からない。これが何なのか」

しず子の声には絶望がにじみ出ていた。夫はため息をついた。

「今週末に帰る。健太を連れて病院へ行こう。これは正常じゃない」

「ええ、お願い」

電話を切った後、しず子はソファに座り込んだ。週末まであと3日。それまで耐えられるだろうか?

その日の夕方。健太が自分の部屋に入ろうとして、立ち止まった。しず子を振り返って言う。

「母さん、な、僕の部屋には絶対に入らないで」

健太の声は断固としたものだった。しず子は驚いて息子を見つめた。

「どうして? 何かあるの?」

「とにかく、入らないでほしい。約束して」

健太の瞳は不安そうだった。しかし、同時に強い意志が宿っている。しず子は頷いた。

「分かったわ。入らない」

健太は安堵したような表情を浮かべ、部屋に入っていった。ドアが閉まる。しず子はそのドアをしばらく見つめていた。なぜ部屋に入って欲しくないのだろうか。そこに何があるのだろうか。疑念が芽生え始めた。

夜になり、10時半にノックの音が聞こえた。しず子はドアを開けた。健太が入り、いつものように落ち着かせる。しかし、今日は何かが違った。しず子が健太を見る眼差しが以前とは違っていた。恐怖が混じっていた。この子は本当にただ不安だから来るのだろうか。それとも、何か別の理由があるのだろうか。もしかして、もしかして、性的な問題ではないだろうか。

しず子は首を横に振った。違う。そんなはずはない。しかし、疑いは簡単には消えなかった。

午前2時。健太は相変わらずしず子の部屋の床で眠っていた。しず子は眠れずに天井を見つめている。頭の中は混乱していた。もし本当にそういうことなら、どうすればいいのだろうか。警察に通報すべきか、それとも静かに処理すべきか。しかし、証拠はない。健太は何もしていない。ただ部屋に来て、落ち着き、眠るだけだった。それなのに、なぜこんな疑いを抱くのだろうか。

しず子は自分が嫌になった。息子を疑うなんて、恐ろしいことだった。しかし、止められなかった。疑いはどんどん膨らんでいく。

翌朝、健太が大学へ行った後、しず子は健太の部屋の前に立った。「入らないで」と言われた、あの部屋。ドアの取っ手に手をかける。入ってみようか。心がささやいた。だめよ。約束したじゃない。しかし、不安の方が大きかった。知らなければならなかった。健太が何を隠しているのか。

しず子はドアの取っ手を回した。鍵がかかっていた。健太が鍵をかけて出かけたのだ。しず子は戸惑った。いつから部屋に鍵をかけるようになったのだろうか。ますます疑わしくなった。

しず子は台所へ行き、引き出しを開け、予備の鍵を探した。全部屋の鍵が一つずつかかっていた。健太の部屋の鍵を手に取り、再び健太の部屋の前に立つ。手が震えた。本当に入っていいのだろうか。これはプライバシーの侵害だった。しかし、母親として知る権利があるのではないだろうか。

鍵を鍵穴に差し込み、回した。カチッと音がして、ドアが開いた。しず子は深呼吸をし、中へ入った。

部屋は綺麗だった。机の上には本が整理され、ベッドもきちんと整えられている。特に変わったものはないようだった。しず子は辺りを見回し、机の引き出しを開けた。ノートとペン、そしていくつかの文房具があった。普通だった。次の引き出しを開けると、衣類が入っている。最後の引き出しを開けた。そこに小さな箱があった。

しず子は箱を取り出し、開けてみた。中には薬の袋が入っていた。様々な種類の薬。しず子は薬の袋を一つずつ取り出してみた。名前を読む。医学用語で、正確に何の薬かは分からなかった。その下に、折りたたまれた紙があった。しず子は紙を広げた。病院の診療記録だった。日付は1年前。

しず子は内容を読み始めた。

「患者:鈴木健太。診断名:不安障害、パニック障害、夜間パニック発作」

しず子の手が震えた。読み進める。

「症状:制御不能な衝動、夜間の不安増大、記憶喪失」

しず子は息が詰まった。健太は病気だったのだ。1年前から。なぜ話してくれなかったのだろうか。さらに読む。

「治療方針:薬物療法及び定期的なカウンセリング。保護者の同伴が必要」

保護者の同伴が必要、と書かれていた。しかし、しず子は一度も病院へ行ったことがない。健太が一人で通っていたのだ。

しず子は紙を置いた。胸が張り裂けそうだった。健太が一年もの間、一人でこの苦しみに耐えてきたなんて、信じられなかった。なぜ言わなかったのだろうか。なぜ母親に助けを求めなかったのだろうか。

涙が流れ落ちた。しず子はその場に座り込んだ。自責の念が押し寄せる。母親失格だった。息子がこんなに苦しんでいるのに、気づいてあげられなかったなんて。そして、もう一つの感情も込み上げてきた。安堵感だった。性的な理由ではなかった。健太はただ病気だったのだ。毎晩母親を尋ねてきたのは、不安とパニックのせいだったのだ。

しず子はしばらく泣いた。診療記録を再び箱に入れ、引き出しに戻した。部屋を出て、鍵をかける。リビングへ行き、ソファに座った。これからどうすればいいのだろう? 健太に問い詰めるべきか? それとも、知らないふりをするべきか? 夫と相談すべきか? 頭の中が混乱していた。

その日の夕方、健太が帰宅した。いつも通りの明るい顔だった。しかし、しず子の目には違って見えた。無理して笑っているように見えた。夕食を食べながら、しず子は健太を観察し続けた。手が時々震えているのが見える。箸を持つ手が少し不安定だった。どうして今まで気づかなかったのだろうか。

「健太」

しず子は慎重に呼びかけた。健太が顔を上げる。

「何?」

「最近、何か辛いことある?」

健太は一瞬迷ってから、首を横に振った。

「ううん。大丈夫だよ」

嘘だった。しず子には分かった。しかし、それ以上は尋ねなかった。週末に夫が帰ってきたら、一緒に話すことにしたからだ。

夜になり、10時にノックの音が聞こえた。しず子はドアを開けた。健太が入ってくる。しかし、今回のしず子の気持ちは違っていた。疑いではなく、哀れみに満ちていた。

「大丈夫よ。お母さんがここにいるから」

しず子が言った。声はこもっていた。健太をぎゅっと抱きしめた。健太は母の腕の中で泣き始めた。

「ごめん、母さん」

「ううん。謝ることなんてないわ。全部、大丈夫になるから」

しず子はささやき、健太の背中をさすりながら言い続けた。

「お母さんが助けてあげる。一緒に乗り越えよう。お願い」

健太はさらに強く泣いた。しず子も一緒に泣いた。久しぶりに、本当に心を通わせているような気がした。その夜、二人は長い間抱きしめ合っていた。

週末になり、夫の実が帰宅した。出張鞄を玄関に置くと、しず子を見る。

「お前、随分疲れてるな」

実はしず子を抱きしめた。しず子は夫の腕の中で緊張が解けた。久しぶりに頼れる場所ができたような気がした。

「あなた、健太の部屋でこれを見つけたの」

しず子は診療記録のコピーを夫に渡した。実は紙を受け取り、読み始める。表情が次第に暗くなっていった。

「不安障害。パニック障害。これ、1年前のものなのか?」

実の声は震えていた。しず子は頷く。

「ええ。健太、一人で病院に通ってたみたい。私たちには一度も話さなかった」

実はしばらくの間、紙を見つめていた。そして、ソファに座り込む。

「俺が忙しすぎたのか。出張ばかりで、息子がこんなに苦しんでるのに知らなかったなんて」

実の声には自責の念が満ちていた。しず子が隣に座った。

「私も同じように暮らしてたのに、気づかなかった」

二人はしばらく黙っていた。重い空気が流れる。

「健太に聞かなきゃならん」

実が言った。しず子は不安な顔をする。

「今、大丈夫かしら?」

「先延ばしにしても良くない。今、話そう」

実が立ち上がり、健太の部屋へ向かい、ドアをノックした。

「健太、父さんだ。出てこれるか?」

しばらくして、ドアが開いた。健太が出てくる。父を見て、嬉しそうに笑った。

「父さん、いつ帰ってきたの?」

「たった今だ。健太、ちょっと話がある」

実の真剣な表情に、健太の笑顔が消えた。不安な気配が漂う。

「何の話?」

「リビングへ行こう」

三人はリビングのソファに座った。健太が真ん中に、両脇にしず子と実が座る。健太の手が震え始めた。実が診療記録を健太の前に置いた。

「健太、これは何だ?」

健太は紙を見て、顔が真っ白になった。唇を震わせ、何も言えない。

「どうして私たちに話さなかったんだ? 苦しいなら、言うべきだろう」

実の声は震えていた。怒りではなく、悲しみが込められていた。健太はうつむいた。

「ごめんなさい」

小さな声だった。しず子が健太の手を握った。

「健太、大丈夫よ。怒ってるわけじゃないの。ただ知りたいの。どうして一人で抱え込んでたの?」

しず子の声は優しかった。健太がゆっくりと顔を上げた。目には涙が溢れている。

「心配かけたくなかったんだ」

健太が震える声で言った。

「父さんは仕事で忙しいし、母さんは家のことで大変なのに。僕の問題まで話したら、もっと大変な思いをさせると思って」

健太の涙が頬を伝って流れた。

「最初は大丈夫だったんだ。薬を飲んだら少し良くなる気がして。でも、1ヶ月前から夜になるとすごく怖くなるんだ。息ができない。心臓が張り裂けそうになる」

健太の声が次第に大きくなっていった。

「そうすると、母さんのことを思い出すんだ。母さんに会いたいって。母さんがそばにいてくれたら、少しは良くなる気がして。だから、だから、毎晩……」

健太は言葉を続けられず、泣き始めた。しず子が息子を抱きしめる。

「大丈夫、大丈夫よ。もう全部、分かったから。大丈夫」

しず子も泣いていた。実も目頭が赤くなっている。手で顔を覆い、深くため息をついた。

「健太、すまなかった。父さんがあまりにも知らなすぎた」

実が言った。健太の肩に手を置く。

「これからは一緒にやろう。一人で抱え込むな。俺たちが助けるから」

健太は頷きながら泣き続けた。三人はしばらくの間、そうして座っていた。久しぶりに、家族が一つになったような気がした。

時間が経ち、健太が落ち着いてから、実が尋ねた。

「病院はまだ通ってるのか?」

健太は首を横に振った。

「2ヶ月前に行かなくなった。薬代も高いし、通い続けるのが負担になって」

「だから、もっとひどくなったんだな」

実はため息をついた。

「月曜日にまた病院へ行こう。父さんが一緒に行く。ちゃんと治療しよう」

健太は不安な顔をした。

「でも、僕、治るのかな?」

「当たり前だ。時間はかかるかもしれないが、良くなる」

実は確信に満ちた声で言った。健太は少し安心したような表情を浮かべた。

その日の夕食は静かだった。夕食を食べながら、実は今後の計画を話した。病院での治療を再開し、必要なら休学も考えようと。健太は頷きながら聞いていた。

それから、実が真剣に言った。

「健太、夜怖くなったら、いつでも俺たちの部屋に来い。恥ずかしがることじゃない。家族なんだから」

健太の目に再び涙が浮かんだ。しかし、今回は感謝の涙だった。

「ありがとう、父さん」

夜になり、しず子はベッドで実と話していた。

「あなた、私、すごく安心したの」

しず子が言うと、実がしず子の手を握る。

「分かってる。大変だったな。これからは俺が助けるから」

「毎晩、健太が来て。最初は何がなんだか分からなくて、すごく怖かった。もしかして、変な理由じゃないかって。そんなことまで考えた」

しず子の声は震えていた。実はしず子を抱きしめた。

「当然だ。俺だってそう思っただろう。でも、もう分かったじゃないか。俺たちの息子は病気だったんだ。悪い子じゃなくて、苦しんでいる子だったんだ」

実の言葉に、しず子は慰められているような気がした。これまで溜まっていた不安と罪悪感が、少しずつ溶けていくようだった。

11時になった。ノックの音が聞こえた。しず子と実は顔を見合わせた。実が立ち上がり、ドアを開ける。健太が立っていた。相変わらず汗に濡れた顔だった。しかし、今回は違った。健太が先に口を開いた。

「父さん、母さん、また来ちゃった。ごめん」

「大丈夫だ。入って」

実が言った。健太が部屋の中に入ってくる。いつものように壁の方へは行かず、ベッドのそばに立った。

「床じゃなくて、ベッドに座りなさい」

しず子が言うと、健太は恐る恐るベッドの端に座った。実としず子が両側から健太を包み込んだ。

「俺たちがここにいる。怖くないぞ」

実が言った。健太は両親の間で、少しずつ落ち着いていった。以前より早く安定を取り戻した。20分ほど経った時、健太が言った。

「もう大丈夫みたい」

「そうか。じゃあ、自分の部屋に戻るか?」

実が尋ねると、健太は一瞬迷ってから言った。

「うん。今日はここで寝てもいい?」

しず子と実は顔を見合わせた。そして、一緒に笑った。

「ああ、今日はここで寝よう。みんなで」

その夜、三人は一つの部屋で眠った。健太は両親の間で安らかに眠りに着いた。しず子は久しぶりに深い眠りに落ちた。全てが解決したわけではなかった。しかし、これからは一緒に乗り越えていけるという希望が生まれた。それで十分だった。

月曜日の朝。実は会社に休暇を取った。健太と一緒に病院へ行くためだった。三人は朝食を食べながら話していた。

「健太、緊張するなよ。先生が助けてくださるから」

実が言った。健太は頷いたが、不安そうな顔だった。

「お母さんは家で待ってるわ。終わったら連絡してね」

しず子が言った。実と健太が出ていった。しず子は一人残された。皿洗いをし、掃除をした。しかし、心はずっと病院にあった。健太はうまく話せるだろうか? 医者は良い治療法を提示してくれるだろうか?

午前11時頃、インターホンが鳴った。しず子は玄関へ出てドアを開けた。隣の奥さんが立っていた。しかし、一人ではない。開花の奥さんも一緒だった。

「こんにちは」

しず子が挨拶すると、二人の奥さんは気まずそうに笑って答えた。何かおかしな雰囲気だった。

「あの、今、お時間よろしいでしょうか? 少しお話が」

隣の奥さんが言った。しず子は不吉な予感がした。しかし、断ることはできなかった。

「ええ、どうぞ」

三人はリビングのソファに座った。しず子はお茶を出した。奥さんたちは互いに顔を見合わせ、なかなか話を切り出せない。

「何かご用でしょうか?」

しず子が先に尋ねた。隣の奥さんがため息をついて、口を開いた。

「あの、これ、どうお伝えすればいいのか分からないんですけど。実は、マンション内で噂が少し立っていまして」

しず子の顔がこわばった。

「噂ですか?」

「ええ、その、毎晩息子さんが奥様の部屋に出入りされていると」

開花の奥さんが慎重に言った。しず子は息が詰まるようだった。

「私たちだけでなく、他の方もご存知のようで。ある方は、明け方に泣き声も聞いたとおっしゃっていました」

隣の奥さんが付け加えた。しず子の顔は青白くなった。

「そ、それは違います。誤解です」

しず子は慌てて言った。しかし、どう説明すればいいのか途方に暮れた。息子が不安障害で毎晩尋ねてくると、それを信じてもらえるだろうか?

「私たちも最初は気にしないようにしていたんです。でも、最近あまりにも頻繁なので。もしかして、何か問題があるのではないかと」

開花の奥さんの声には、心配と疑いが混じっていた。

「本当に何の問題もありません。息子が最近、学校のストレスで疲れていて、時々私の部屋に来るだけなんです」

しず子は説明した。しかし、二人の奥さんの表情は依然として疑わしげだった。

「そうですか。なら良いのですが。でも、奥様、周りにはよく思わない方もいらっしゃいます。お気をつけになった方がよろしいかと」

隣の奥さんが言った。しず子の胸は苦しくなった。気をつけるとは、どう気をつければいいのだろうか。

「はい、分かりました。気をつけます」

しず子は無理に笑って答えた。二人の奥さんはすぐに立ち上がって帰って行った。ドアが閉まり、しず子はその場に座り込んだ。噂が立っているなんて。人々は自分と健太をどう見ているのだろうか。異常な関係だとでも思っているのだろうか。しず子は羞恥心で顔が熱くなった。

スマートフォンが鳴った。実だった。

「もしもし。病院、終わったぞ。今、家に向かってるところだ」

「どうだった?」

しず子は震える声で尋ねた。

「先生が治療計画を立ててくださった。薬も新しく処方してもらったよ。詳しいことは家で話す」

電話を切った後、しず子はため息をついた。病院のことはうまくいったようで幸いだった。しかし、噂の問題はどうすればいいのだろうか?

30分後、実と健太が帰ってきた。健太は疲れているようで、すぐに自分の部屋に入っていく。実はしず子とリビングに座った。

「先生の話だと、健太の状態は思ったより深刻らしい。ちゃんと治療を受けずに放置したから、悪化したそうだ」

実が言った。しず子は胸が痛んだ。

「これから3ヶ月ほどは、薬を飲みながら週に1回カウンセリングを受けるそうだ。それに、家でも安定した環境を作ってやる必要がある」

「分かったわ」

しず子は頷いた。そして、今日の出来事を実に話した。近所の人たちが尋ねてきたこと。噂が立っていること。実の顔がこわばった。

「何の噂だ?」

「ええ。毎晩、健太が私の部屋に出入りするの。誰かが見てたみたい。変に思われてるみたいよ」

しず子の声は震えていた。実は拳を握った。

「バカな。うちの息子が病気でそうしてるのに、何が変なんだ。みんなは知らないんだ。ただ表面的なことしか見ないから」

しず子はため息をついた。

「説明する。ちゃんと」

実はきっぱりと言った。

「管理事務所に行って掲示を出すか、それとも直接みんなに説明するか。誤解は解かないと」

実の言葉に、しず子はためらった。そんなに大げさに話していいのだろうか。健太の病気のことを、みんなに知らせていいのだろうか。

「健太に聞いてみよう」

実が言った。健太の部屋へ行き、ドアをノックした。

「健太、出てこれるか?」

健太が出てきた。三人は再びリビングに座った。実が状況を説明した。噂が立っていること。誤解を解かなければならないこと。

健太はうつむいた。

「僕のせいだ。僕が気をつけなきゃいけなかったのに」

「違う。あなたのせいじゃないわ」

しず子が言った。

「健太、父さんがみんなにお前の状況を説明しようと思うんだが、いいか? お前の病気について話すことになる」

実が尋ねた。健太はしばらく考えてから、頷いた。

「いいよ。どうせ隠しきれないし。誤解されるよりはマシだ」

「ありがとう、息子よ」

実は健太の肩を叩いた。

翌日、実は管理事務所を訪れ、住民の掲示板に文章を掲示したいと申し出た。管理人は難色を示したが、最終的には許可した。実が掲示した文章はこうだった。

「こんにちは。503号室の鈴木実です。最近、私の息子に関する噂が立っているようなので、こうして文章を掲示いたします。私の息子は不安障害とパニック障害を患っております。夜間に症状が悪化するため、両親の部屋を訪れることがありますが、これは治療過程の一部です。どうか誤解なきようお願いいたします。ご迷惑をおかけし、申し訳ありません」

文章が掲示された後、反応は様々だった。ある人は理解を示すコメントを書き込んだ。しかし、ある人は依然として疑わしいという反応を見せた。中には、そんなことを公に明かす必要があるのかという批判もあった。しず子はコメントを見て泣いた。

「あなた、大丈夫よ。時間が経てば忘れられるわ」

実は慰めた。しかし、しず子は簡単には慰められなかった。近所の人の視線があまりにも重かった。

数日が経った。エレベーターで近所の人に会うと、気まずい沈黙が流れた。ある人は同情的な目を向け、ある人は避けるように顔を背けた。しず子は次第に外出するのが怖くなっていった。健太も苦しんでいた。大学から帰ると、部屋に閉じこもるようになった。外に出るのを嫌がった。

「母さん、みんなが僕を変な目で見てる気がする」

健太が言った。しず子は息子を抱きしめた。

「大丈夫よ。時間が経てば、みんな忘れるわ」

しかし、しず子自身も確信は持てなかった。家族は次第に孤立していった。

二週間が経った。状況は良くならず、むしろ悪化しているようだった。マンションの住民が集う地域のオンライン掲示板に、匿名の投稿があった。しず子は偶然、その投稿を見てしまった。

「503号室。マジで変。息子が精神病だとか言ってるけど、信じられない。毎晩母親の部屋に出入りするのって正常? 子供がいる家は気をつけた方がいいかも」

コメントも似たようなものだった。疑い、批判、時には露骨な嫌悪感まで込められていた。しず子はスマートフォンを置き、目を閉じた。息が詰まった。

実も会社で辛い思いをした。同じマンションに住む同僚がいて、その人を通じて噂が会社にまで広まったのだ。昼食の時間に、同僚たちがひそひそ話しているのを聞いた。

「鈴木さんの家の息子の話だけど……」

実は何でもないふりをしたが、しず子には分かった。最も傷ついているのだと。

ある日の夕食。家族三人が食卓についていた。しかし、誰もまともにご飯を食べられなかった。箸をいじっているだけだった。

「このままじゃ、引っ越さないといけないんじゃないかしら」

しず子が慎重に言った。実はため息をついた。

「引っ越したって解決するかな? また同じことが繰り返されるだけだ」

健太が箸を置いた。

「僕のせいだ。僕のせいだ」

声が震えていた。しず子は慌てて言った。

「違う。あなたのせいじゃないわ」

「そうだよ。僕が病気だから、こんなことになったんだ。僕が普通だったら、こんなことにはならなかった」

健太の目に涙が溜まった。実が健太の手を握った。

「健太、お前は何も悪くない。病気なのは悪いことじゃないんだ」

「でも、みんなは僕を変な目で見る。母さんも父さんも、僕のせいで辛い思いをしてる」

健太は泣き始めた。しず子も涙が出た。この状況があまりにも理不尽で悲しかった。

その夜、実が言った。

「俺たちが直接動かないとだめみたいだ」

「どうするの?」

しず子が尋ねた。

「住民の前でちゃんと説明するんだ。掲示板の文章だけじゃ足りない。顔を見て話さないと」

「そんなこと、できるかしら」

しず子は怖かった。人々の前に立ち、家族の事情を洗いざらい話すなんて。

「やるんだ。このままじゃだめだ」

実の声には決意が込められていた。

翌日、実は管理事務所を訪れ、住民集会の時間に発言する機会が欲しいと申し出た。管理人は困惑したが、最終的には許可した。

一週間後、住民集会が開かれた。管理事務所の隣のコミュニティホールに、人々が集まった。しず子と実、そして健太も一緒に行った。健太は行かないと言ったが、実が説得した。

「健太、お前も一緒に行かないと、みんな理解してくれない。隠れちゃだめだ」

健太は震える心でついていった。

会室には30人ほどの住民が座っていた。鈴木家が入ってくると、ざわめきが聞こえた。しず子は視線を感じながら席に着いた。管理人が集会を始めた。いくつかの議題を処理した後、実に発言の機会が与えられた。

実が立ち上がる。

「こんにちは。503号室の鈴木実です」

実の声は震えていた。しかし、言葉を続けた。

「今日、この場に立ったのは、最近の私たち家族に関する誤解を解くためです。多くの方が、私たちの息子について不快に思われていることを存じております」

人々は静かに聞いていた。

「私の息子、健太は、不安障害とパニック障害を患っております。1年前から症状が始まり、特に夜間に悪化します」

実は健太を見た。健太はうつむいている。

「夜になると、極度の不安を感じます。息ができなくなり、心臓が張り裂けそうになり、自分を襲う恐怖に苛まれます。そんな時、健太は親である私たちを尋ねてくるのです」

実の声が次第に大きくなっていった。

「これは選択ではありません。健太が好きでやっている行動ではないのです。病気のせいで、どうしようもないのです」

人々の中から、小さな声が聞こえた。実は続けた。

「私たちは健太を治療しています。病院にも通い、薬も飲んでいます。時間はかかりますが、良くなると信じています」

実は一度言葉を切り、深く息を吸い込んだ。

「しかし、周りの視線が、私たち家族をさらに苦しめています。疑いや批判は、健太をさらに傷つけ、私たち夫婦を疲れさせています」

実の目に涙が浮かんだ。

「お願いします。どうか、私たちの息子を変な目で見ないでください。ただ、病気として見てください。夜間の騒音でご迷惑をおかけしたことは、心からお詫びします。しかし、健太は悪い子ではありません」

実は深く頭を下げた。しず子も一緒に頭を下げる。

「申し訳ありませんでした」

二人は一緒に言った。集会室が静まり返った。

その時、健太が立ち上がった。実は驚いて健太を見る。健太は震える体で人々に向き合った。

「鈴木健太です」

健太の声は小さかった。しかし、はっきりしていた。

「僕が精神的に問題があるのは事実です。毎晩、両親に迷惑をかけ、近所の皆さんにもご迷惑をおかけしました」

健太の目から涙が流れ落ちた。

「僕だって、こんなことしたくないです。でも、自分の意思でコントロールできないんです。夜になると、すごく怖いんです。死にそうになるんです」

健太の声は震えていた。

「両親がそばにいてくれると、少し楽になるんです。だから、会いに行くんです。変な理由じゃないんです。ただ、行きたいからなんです」

健太は泣きじゃくった。

「すみませんでした。ご迷惑をおかけして。僕も早く治るように頑張っています。もう少しだけ。もう少しだけ、待ってください」

健太は深く頭を下げた。集会室は静まり返っていた。

一人の女性が立ち上がった。6階に住む奥さんだった。

「健太君、顔を上げて」

健太がゆっくりと顔を上げた。奥さんの目にも涙があった。

「ごめんなさいね。私たちが知らなかったから、辛かったでしょうね」

奥さんが言った。すると、他の人も立ち上がった。

「私も申し訳ありません。誤解していました」

一人、二人と立ち上がって謝罪した。もちろん、全員がそうだったわけではない。依然として不満な顔で座っている人もいた。しかし、少なくとも一部の人々は理解してくれた。

集会が終わり、何人かの住民が近づいてきた。励ましの言葉をかけてくれた。

「頑張ってね」

「良くなるわよ」

「何か必要なことがあったら、言ってくださいね」

しず子は感謝した。涙を流しながら、頭を下げて挨拶した。

帰り道、エレベーターの中で健太が言った。

「父さん、母さん、僕が勇気を出して話せたのは、二人のおかげだよ」

健太の声は穏やかだった。

「少しすっきりした。もう隠れなくてもいいから」

実が健太の肩を叩いた。

「よくやった。息子よ」

しず子も健太を抱きしめた。

「みんなで一緒に乗り越えようね」

その夜は穏やかだった。健太は自分の部屋で眠った。ノックの音もなかった。しず子は久しぶりに安らかに眠った。

3ヶ月が経った。秋が深まっていた。紅葉が始まり、朝晩の風が涼しくなった。しず子はベランダから窓の外を眺めていた。多くのことが変わった。

健太は根気強く病院での治療を続けていた。週に1度のカウンセリングと薬物療法を並行して行った。先生は、健太が随分良くなったと言った。発作の回数は著しく減り、不安の数値も下がったと。

一番大きな変化は夜だった。健太はもうほとんど毎日、自分の部屋で眠るようになった。もちろん、時々はまだ辛い日もあった。週に1度か2度ほどは、両親の部屋を尋ねてきた。しかし、以前とは違った。ノックをして入ってきて、

「母さん、今日ちょっと辛いんだ。一緒にいてもいい?」

と言葉で表現できるようになったのだ。しず子は毎回喜んで迎え入れた。

「ええ、入って」

健太はベッドの横に座った。しず子が手を握ってあげると、少しずつ落ち着いていった。以前のように1時間もかからない。20分もあれば十分だった。

「もう大丈夫。部屋に戻るね」

「一人で大丈夫?」

「うん。もう大丈夫だよ」

健太は自分で戻れるようになった。それが一番大きな進歩だった。

ある朝のこと。しず子は台所で朝食の準備をしていた。健太が部屋から出てきて、食卓に着く。

「母さん、おはよう」

明るい声だった。以前のあの明るさが戻ってきたようだった。しず子は笑って答えた。

「ええ、おはよう。よく眠れた?」

「うん。昨夜は夢も見なかった。久しぶりにぐっすり眠れたよ」

健太はにっこりと笑った。しず子の胸が温かくなった。息子の笑顔を見ることが、こんなにも嬉しいことなのかと改めて感じた。

「今日、カウンセリングの日でしょ?」

「うん。午後3時から。昼ご飯食べたら、一緒に行こうか?」

「ううん。一人で行けるよ。母さんも休んでて」

健太が言った。しず子は息子が頼もしく思えた。今では一人で病院へも行けるようになったのだから。

実も変わった。出張を減らした。会社に事情を話し、できるだけ家にいるように務めた。週末は家族と一緒に過ごした。

ある土曜日の午後。三人は近くの公園を散歩していた。紅葉が綺麗だった。風で落ち葉が舞うと、健太が拾って手に持っている。

「父さん、母さん、僕、最近大学に行くのが楽しいんだ」

健太が言った。しず子と実は驚いて健太を見た。

「本当か?」

「うん。友達ともうまくやってるし、授業も面白いんだ」

健太の表情は明るかった。

「教授に僕の状況を話したら、理解してくださって。課題の期限も少し融通を聞かせてくれるんだ」

「よかったな」

実が健太の肩を叩いた。

「健太、お前は本当によくやっている」

「ありがとう、父さん」

健太は笑って答えた。三人は歩き続けた。ごく普通の家族の散歩だった。

マンションの住民との関係も、少しずつ良くなった。エレベーターで会うと、挨拶を交わした。ある住民は健太の様子を尋ねてきた。

「最近、少しは良くなった?」

「はい。おかげ様で、随分良くなりました。ありがとうございます」

健太は堂々と答えた。もう隠れることはなかった。もちろん、全ての人が理解してくれたわけではない。依然として避ける人もいた。しかし、しず子は気にしないように務めた。全ての人を満足させることはできないのだから。

ある日の夕食。家族三人が一緒に夕食を食べていた。テレビではニュースが流れている。ごく普通の日常だった。

「母さん、これ美味しいよ」

健太がおかずをつまみながら言った。

「そう、たくさん食べてね」

しず子は笑って答えた。健太の食欲が戻ったのも良い兆候だった。

食事が終わり、健太が皿洗いをした。最近はよく家事を手伝うようになった。母を助けたいと。

「母さん、皿洗い終わったよ」

「ありがとう」

「じゃあ、勉強してくるね」

健太は自分の部屋に入って行った。しず子と実はリビングのソファに座った。

「あなた、健太、随分良くなったわね」

しず子が言うと、実は頷く。

「ああ、本当に良かった。大変だったが、乗り越えたな」

「あなたのおかげよ。あなたが一緒にいてくれたから」

「何を言う? お前が一番大変だったじゃないか」

実はしず子の手を握った。

「みんなよくやった。そして、健太もよく戦った」

しず子は実の手をぎゅっと握り返した。温かさが伝わってきた。

夜になり、しず子はベッドに横になっていた。実は隣で本を読んでいる。家の中は静かだった。11時になった。ノックの音は聞こえない。健太は自分の部屋で眠っているだろう。しず子は安堵のため息をついた。

「お休み、あなた」

「ああ、お休み」

実が電気を消し、横になった。しず子も目を閉じた。穏やかな夜だった。

翌朝、しず子が起きると、リビングへ出た。健太がすでに起きて、ソファに座っていた。本を読んでいる。

「健太、もう起きたの?」

「うん。目が覚めちゃった」

健太は本から目を離し、母を見た。

「母さん、ありがとう」

健太は真剣に言った。しず子は戸惑った。

「何が?」

「母さんが僕を見捨てなかったから。辛かったはずなのに、最後まで一緒にいてくれて。ありがとう」

健太の目に涙が浮かんだ。しず子も目頭が熱くなった。

「当たり前のことよ。あなたは私の息子だもの」

しず子は健太を抱きしめた。健太は母の腕の中で静かに泣いた。しず子も一緒に泣いた。しかし、今回は悲しみの涙ではなかった。感謝の涙だった。

しばらくして、二人は涙を拭いた。

「お腹空いたでしょう。朝ご飯作るわね」

「うん。母さん、僕も手伝うよ」

二人は一緒に台所へ行った。卵焼きを作り、味噌汁を温めた。実も起きてきて、一緒に食卓に着く。

「いただきます」

三人は一緒に言った。そして、朝食を食べ始めた。ごく普通の朝だった。窓の外から日差しが差し込んできた。温かい光だった。しず子は窓の外を眺めた。紅葉した木が風に揺れている。綺麗だった。

健太はまだ完全に治ったわけではなかった。薬を飲み続けなければならず、カウンセリングも続ける必要があった。時々は辛い日もあった。しかし、もう一人ではなかった。家族が一緒だった。互いを理解し、支え、愛していた。それで十分だった。

しず子は健太を見た。ご飯を食べながら実と話をしている息子の姿は、穏やかに見えた。笑顔も自然だった。もう大丈夫。しず子は思った。時間はかかるだろうけれど、健太は良くなる。そして、家族はこれからも一緒に歩んでいく。

その日以降、夜は静かだった。時々、健太が尋ねてくることもあったが、以前のような切迫したものではなかった。ただ母に会いたくて、一緒にいたくて来るのでした。しず子はいつでもドアを開けてあげる準備ができていた。母親だから。そして、しず子の心は相変わらず息子に向かって開かれていた。夜も昼も。

いつでも愛する人を理解するには、時間がかかることがあります。しかし、諦めずに共に歩むなら、やがて互いの言葉を見つけることができるでしょう。健太としず子の物語は終わりましたが、彼らの日常は続きます。今日もどこかで、誰かが見えない苦しみと戦い、誰かがそのそばを黙って守っていることでしょう。

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