朝の六時、山の空気はしびれるほど冷たい。俺は診療所の引き戸を開けて、まず外の温度計を確かめる。標高千二百メートル、息が白く流れていく。診療所の看板はもう何度塗り直したかわからない。「青流診療所」と書かれた木の板は、雨と風にさらされて文字の縁が少し剥げている。俺は白衣に袖を通し、薬棚の在庫を確かめる。血圧の薬、糖尿の薬、都会の病院で見れば心許ないほど少ない種類だが、ここではこれで足りる。足りるように見ているからだ。俺の名前は太田新一。四十五歳。この山奥の診療所でたった一人、白衣を着ている。
机の上にメモが置いてある。事務の神谷さんが昨夜のうちに置いていったものだ。山の上の男性、川沿いの夫婦、それから先週退院したばかりのおばあさん。車で回れば戻ってくるのは昼を過ぎる。俺はコーヒーを入れた。インスタントの安いやつだ。湯気の向こうに診察室の古いポスターが見える。「インフルエンザ予防接種受付中」。去年のままだ。そろそろ張り替えなければと思いながら、もう一年経ってしまった。
引き戸が開いた。
「先生、おはようございます。今日は冷えますね」
「おはよう、森下さん。道は凍ってなかったか?」
「ええ、まだ大丈夫。でも明け方の雨で上の方は怪しいかも」
森下恵さん、五十歳。この診療所のベテラン看護師で、俺がここに来る前から働いている。地元の生まれで、患者の家族構成からペットの名前まで全部知っている。俺にとっては看護師であり、姉のような母のような存在だ。
「そういえば先生、今日でしたよね。来られるの」
「ああ、そうだったな。大学から来るんだろう」
「朝日先生でしたっけ?どんな方なんでしょうね」
「藤堂さんの娘さんらしい。それ以外は俺も知らん」
森下は少し難しい顔をした。俺が藤堂の名を出したことに、何か感じたのかもしれない。彼女は俺の過去を知る数少ない人だ。だが多くは語らない。それが森下のいいところでもある。
九時を回った頃、診療所の前に黒いセダンが止まった。東京ナンバー。こんな山奥には不釣り合いな車だ。降りてきたのは若い女性だった。仕立てのいいコート、綺麗に整えた髪、磨かれたパンプス。山道を登ってきたとは思えないほど靴が汚れていない。それだけで彼女がどんな人間かなんとなく察しがついた。
朝日凛、三十歳。俺は事前に書類で経歴を見ている。東大医学部を主席で卒業。付属病院で論文多数。絵に書いたようなエリートコースだ。凛は診療所を見上げて薄く眉を潜めた。看板の剥げ、軒先の蜘蛛の巣、玄関の擦り切れたマット。彼女の視線がそれらを一つずつ確かめるように動く。
「太田先生ですか?朝日凛です。本日からお世話になります」
「ご苦労様。長旅で疲れただろう。中で温まってから話そう」
「いえ、結構です。早く業務内容を伺いたいので」
冷たい声だった。俺は彼女を診察室に通し、椅子を進めた。凛は座ったが姿勢は崩さない。背筋を伸ばし、膝の上で手を重ねている。育ちのいい人間の座り方だった。
「父上はお元気か?」
「父をご存知なのですか?」
「昔、少し仕事で一緒になったことがある」
「そうでしたか」
凛は一瞬目を細めた。何かを探るような視線だ。俺はそれ以上藤堂のことには触れなかった。
「正直に申し上げます。私はここに来たくて来たわけではありません。父に『社会勉強だ。本物の医療を見て来い』と言われて、半ば強制的に送り込まれました」
「正直でいいな」
「それで、本物の医療というのは何だと思う?」
「先端機器を使い、最新の技術で最大多数を救うことです。少なくとも私が学んできた医療はそうです」
俺は黙って頷いた。反論する気はなかった。彼女の言うことは間違ってない。ただ、それだけが医療ではないというだけのことだ。凛は診察室の中をぐるりと見渡した。古い心電図装置。年代物の薬品棚に並ぶ手書きのカルテ。
「失礼を承知で申し上げますが、ここでは高度医療はできませんよね」
「できないな。CTもMRIもない。手術室も本格的なものとは言えない」
「では、ここでは私は何を学べるのでしょうか?」
「それは自分で見つけてくれ」
凛の眉がまた少し動いた。俺の答えが気に入らなかったのだろう。プライドの高い人間ほど、無駄な反論はしない。
午後、俺は凛を連れて往診に出た。軽の助手席で、彼女はずっと窓の外を見ていた。道は曲がりくねり、舗装も剥げている。時折、車体が大きく揺れる。最初の家は一人暮らしの山田さんだった。俺が血圧を測っている間、山田さんは凛をじっと見ていた。
「先生、こちらの別嬪さんはお嫁さんかね?」
「いや、東京から研修に来た先生だ。朝日先生というんだ」
「おお、女の先生かい。今は女の人もお医者になるんだね」
「初めまして」
凛は引きつった笑みを浮かべて挨拶した。帰りの車の中で、彼女は静かに口を開いた。
「太田先生、失礼ですが、こうした往診は効率が悪くないですか?一日に見られる人数も限られますし、時間あたりの収益で考えれば、外来に集約した方が」
「効率で測ればそうかもしれない。だが、あのばあさんは自力で診療所までは来られない。来られない人間をどう見るかという話だ」
「訪問看護やサービスを使えばいいのでは?」
「この村にそんなものはないんだ」
凛は黙った。彼女が見てきた医療と、ここの医療は土台が違う。しばらく走った後、凛は窓の外を見たままぽつりと言った。
「私、子供の頃から憧れている医師がいるんです。父の話に出てくる伝説の日本人医師。海外の紛争地で何百人もの命を救った人。私はずっとその人みたいになりたかった。なのに父は私をこんな山奥に送り込んで」
「いい憧れだな。その人は今どこにいるんだ?」
「分かりません。国境なき医師団から消えて何年も。きっとどこかで、私が想像もできないような医療をしているんだと思います」
俺はハンドルを握ったまま何も言わなかった。
夜になって雨が降り始めた。最初は霧雨だったものが、見る間に土砂降りに変わった。山の天気は変わるのが早い。俺は宿直室で湯をすった。電話が鳴ったのは九時を過ぎた頃だった。神谷さんが受話器を取った。
「先生、消防からです。県道で大型の事故。十七歳の男子、多発外傷の疑い。ヘリは雨で飛べないそうです」
「搬送先は?」
「一番近い総合病院まで、土砂崩れで道が塞がっています。ここに運ぶしかないと」
俺は湯のみを置いて立ち上がった。凛が事務室から顔を出した。その顔から研修医の余裕は消えていた。
「森下さんを呼んでくれ。それから処置の準備だ。朝日先生、手を洗ってきてくれ。今夜は長くなる」
外の雨音が一層強くなった。救急車のサイレンは雨の音にかき消されていた。それでもこちらに近づいてくるのが分かる。俺は処置室の電気を全部つけ、無影灯のスイッチを入れた。森下さんが二十分で駆けつけてくれた。
「先生、輸血の在庫が足りません」
「足りないだろうな。神谷さん、隣町の血液センターに連絡。道が通れる範囲で運べるだけ運んでもらってくれ」
「分かりました。すぐに」
凛は手洗い場の前に立っていた。両手を泡だらけにしたまま、動きが止まっている。鏡に映った顔は青白かった。
「朝日先生、深呼吸だ。手は止めるな」
「はい」
サイレンが診療所の前で止まった。ストレッチャーが運び込まれてくる。高梨優、十七歳。バイクで車と衝突。血圧は八十を切っている。シャツは血で重く、肌に張り付いていた。俺はバイタルを確認しながら、頭の中で順序を組み立てた。時間との勝負だ。凛が俺の隣に立った。聴診器を当てる手がわずかに震えている。
「太田先生、この設備では限界です。CTもない。血管造影もできない。最低でも三次救急に運ばないと」
「運べないんだ。道は塞がれている。ヘリは飛ばない。ここで止血するしかない」
「でも、もし開けて手に負えなかったら」
「開けなければ十分以内に死ぬ。開けるしかない」
俺の声は静かだったと思う。怒鳴るような場面ではない。怒鳴られたら若い医者は萎縮するだけだ。凛は唇を噛んで頷いた。プライドではなく、恐怖と戦っている顔だった。それでいい。医者が初めて命と向き合う時は、誰でもそんな顔をする。俺は白衣を脱ぎ、手術着に袖を通した。鏡の中の自分と一瞬だけ目があった。何年ぶりだろう。この感覚。全身の細胞が研ぎ澄まされていく感じ。
「森下さん、麻酔の導入。神谷さんは外回り。朝日先生、第一助手だ。覚悟を決めてくれ」
「はい、分かりました」
腹を開けた瞬間、血が溢れた。予想以上の量だった。俺は両手を血の中に沈めて、ガーゼで圧迫しながら出血源を探した。
「圧迫、変わります」
「いや、もう少しこのまま。脾臓を先に処理する。監視を頼む」
「監視です」
脾臓は損傷が大きすぎた。温存は無理だ。俺は迷わず摘出の判断をした。血管を一つずつクランプしていく。指は勝手に動いていた。昔、薄暗いランプの下、道具も足りない中で何度も繰り返した手順だ。手は覚えている。凛は俺の手元から目を離さなかった。視線が俺の指の動きを追っている。
「先生、血圧七十切りました」
「輸血全開で。神谷さん、隣町の到着はあとどのくらいだ?」
「あと四十分とのことです」
「持たせるしかないな」
肝臓の裂傷は深かった。普通なら止血のための専用デバイスを使う。ここにはない。俺は古典的なやり方を選んだ。肝臓の裏側に手を回し、用手圧迫で時間を稼ぎ、その間にガーゼパッキングを準備する。
「先生、それはプリングル法ですか?」
「ああ、十五分以内に決着をつける」
「私、教科書でしか見たことが」
「今夜で見たことがあるになる」
凛の表情がほんの少しだけ変わった。恐怖の中に別の何かが混ざり始めていた。俺はそれを横目で確かめて、また手元に集中した。時計の針はほとんど見なかった。見ても意味がない。今目の前で出血してる血管が何ミリで、どの方向に走っているか。それだけが世界の全てだった。
出血をコントロールし、肝臓のパッキングを終えた頃、ようやく血圧が九十まで戻った。凛が小さく息を吐いた。
「先生、左大腿の出血が止まりません」
「骨盤骨折からの出血も心配だった。ガーゼをもう一段、骨盤腔にも詰めた。ダメージコントロール手術だ。完全な処置はしない。命をつなぐだけに絞る。明日、明後日、状態が安定したら改めて開けばいい」
「先生、腹を一度閉めないんですか?」
「閉めない。腹腔が上がればまた出血する。覆っておくだけだ」
「それってもしかしてオープンアブドメン?」
「そうだ。本で読んだろう」
「はい、読みました。でも見るのは初めてです」
凛の声が少し震えていた。血液センターからの追加の血液が届いたのは、それから二十分後だった。神谷さんが雨の中、軽トラで隣町まで取りに走ってくれていたのだ。
手術が一段落したのは、空が白み始めた頃だった。時計は午前五時を回っていた。初めてから八時間近く経っていたことになる。優の血圧は安定し、心拍も落ち着いた。意識はまだ戻らないが、対光反射はある。助かる。俺はそう判断した。
俺はマスクを下ろし、椅子に腰を下ろした。腰が急に重くなった。こんなに長い時間手術していたのは何年ぶりだろう。凛は手術台の脇で立ち尽くしていた。血で汚れたガウンの裾をぎゅっと握ったまま動かない。俺が声をかけると、彼女はゆっくりと振り返った。
「先生、私、何もできませんでした。鉗子を引いて糸を切って、それだけで」
「助手はそれでいい。今夜は見ているだけで十分な経験だ」
「先生はなぜあんなに迷わないんですか?設備もない、人もいない。麻酔もギリギリ。それなのに手が止まらない。私は開ける前からもう終わりだと思っていました」
「迷っている時間がなかっただけだ。お疲れさん。少し休め」
凛は俯いた。肩が小さく震えていた。俺は気づかないふりをして立ち上がり、ガウンを脱いだ。若い医者が泣く時は、そっとしておくのが一番いい。森下さんも神谷さんも何も言わなかった。
優の家族が診療所に駆けつけたのは、それから一時間後だった。母親は処置室の前で崩れ落ち、父親は俺の手を両手で握って「ありがとうございます」と何度も繰り返した。俺は「まだ油断はできない」と短く答えた。それ以上のことは言えなかった。
三日後、優は意識を取り戻した。この夜、俺は宿直室で久しぶりにぐっすり眠った。
数日後、神谷さんが事務室から顔を出した。
「先生、手術記録、大学病院に送りましたが、良かったですか?」
「ああ、藤堂先生の指示だろう。送ってくれ」
「それから、藤堂教授ご本人から連絡がありました。今週末、こちらにいらっしゃるそうです」
俺は窓の外を見た。雨は上がっていた。山の稜線が午後の光に縁取られている。凛は診察室で外来のカルテをめくっていた。初めて来た日とは違っていた。真剣で、少しだけ怯えがあった。怯えのある医者は伸びる。俺はそれを知っている。
土曜日の午後、診療所の前に黒いセダンが止まった。一ヶ月前と同じ東京ナンバー。降りてきたのは藤堂教授。六十歳になったとは思えないほど背筋が伸びている。俺は玄関先で彼を出迎えた。
「太田、久しぶりだな。十年。いや、もっとか。十二年だ」
「ご無沙汰しております、藤堂先生」
「先生はよせ。昔のように呼んでくれ」
俺は曖昧に頷いて、彼を診察室に通した。凛はカルテを閉じて立ち上がった。父の姿を見て、彼女の表情が硬くなる。何か言おうと口を開きかけ、また閉じた。藤堂は娘を一瞥して、それから処置室の方に目をやった。
「優君のカルテを見せてもらった。八時間、設備も人もない中で、よくあそこまで持たせたな」
「運が良かっただけです」
「運でできる手術ではない。お前も分かっているだろう」
俺は答えなかった。藤堂は椅子に腰を下ろし、凛の方を向いた。凛は父の前に立ったまま、手を後ろで組んでいる。子供の頃からの癖なのだろう。俺はそれをなんとなく見ていた。
「凛、お前に話しておくことがある」
「お父さん、私」
「聞きなさい。お前が子供の頃から憧れていた伝説の日本人医師の話だ」
凛の肩がわずかに動いた。俺は窓の外に目をそらした。雀が軒先で何かをついばんでいる。
「私がアフリカの難民キャンプで医療団を率いていた頃、一人の若い医師が一緒だった。攻撃の続く中、テントの下でランプの明かりを頼りに、何百という命を救った男だ。私が最も信頼した医師だ。マスコミは彼を『日本で最も腕の立つ医師の一人』と書いた」
「その人は今どこにいるんですか?」
「目の前にいる」
凛は動かなかった。動けなかったのだろう。ゆっくりと首を回して俺の方を見た。唇が何かを言おうとして、形にならなかった。
「藤堂先生、それはもう昔の話です」
「昔の話ではない。それは優君のカルテが証明している。お前の手は何ひとつ衰えていない」
森下さんがいつの間にか廊下に立っていた。お茶を置きながら、ちらりと凛を見た。凛は俯いたまま、肩を震わせていた。
帰った後、診察室には俺と凛だけが残った。夕方の光が窓から斜めに差し込んでいる。古い柱時計がコツコツと音を立てていた。凛は椅子に腰を下ろしたまま、長いこと黙っていた。俺はカルテを片付けるふりをして、彼女に背を向けていた。泣いているのは見なくても分かった。
「太田先生」
「ああ」
「私、ずっとあなたを田舎の医者だと思っていました。設備も持たない、出世もできなかった人だと。あの夜、手術の最中も、本当はどこかで運がいいだけだと思っていたんです」
「正直でいいな」
「笑わないでください」
「笑ってない」
凛は顔を上げた。目が赤かった。化粧はとうに崩れていた。それでも初めて来た日よりもずっといい顔をしていた。
「私は自分が恥ずかしいです。憧れていた人の前で『ここでは何も学べない』と言いました。『効率が悪い』と言いました。あなたの手元を見下して見ていました」
「見下していたのは最初の三日だけだろう。その後は違ったはずだ」
「見ていたんですね」
「医者は人を見るのが仕事だ」
凛は笑った。
「父はどうして私をここに送ったんでしょうか?最初はただの嫌がらせだと思っていました。娘の鼻をへし折りたかっただけだと」
「鼻をへし折るためだけなら、もっと近場の病院でいい。藤堂先生は君に医療の根っこを見せたかったんだと思う」
「根っこですか?」
「肩書きでも設備でもない。目の前の人をどう救うかだ。それしかない」
「先生はどうして国境なき医師団から降りたんですか?あれだけの腕があれば、どこでも」
「降りたんじゃない。ここにいるだけだ。山の上のばあさんも、川沿いの夫婦も、優君も、みんな同じ命だ。そう思えるようになるのに、紛争地を何回りもした」
「肩書きより、目の前の命ですか?」
「そうだ」
凛は深く息を吐いた。何かが彼女の中でようやく落ち着いたのだろう。
その夜、宿直室で森下さんが俺に茶を出しながら言った。
「先生、朝日先生変わりましたね」
「変わったんじゃない。元に戻っただけだ。あの子は元々ああいう目をしていたんだろう」
「そうかもしれませんね。でも戻れたのは先生のおかげですよ」
森下さんはそれだけ言って、湯のみを置いて出ていった。
研修期間が終わる前日、大学病院から復帰の通知が届いた。来月から外科のチーフとして戻ってこいという内容だった。誰が見ても出世コースの王道だ。
その夕方、俺は診療所の裏の小さな縁側に座っていた。山の稜線が夕日でオレンジ色に染まっている。凛は俺の隣に少し離れて腰を下ろした。
「太田先生、お話があります」
「ああ、聞こう」
「大学からの復帰、お断りすることにしました」
「藤堂先生はなんと」
「父にはまだ言っていません。先に先生にお伝えしたかったんです」
凛は俺の方をまっすぐに見た。夕日が彼女の頬を薄く赤く染めていた。
「私はあなたの隣で医者として生きたいです。ここで目の前の命を一人ずつ見ていきたい。それから」
「それから?」
「一人の女性として、あなたの隣にいたいです」
俺はしばらく答えられなかった。山の風が縁側の下の草を揺らしていた。遠くで鳥が鳴いた。
「朝日先生」
「凛と呼んでください」
「凛さん、ここは忙しいぞ。冬は雪に埋もれるし、夏は虫が出る。給料も大学病院の三分の一だ」
「知っています」
「往診の運転は君がやってくれ。俺はもう肩がきつい」
「はい」
凛は笑った。
数年後、診療所の看板は新しくなった。「太田・朝日内科診療所」。檜の板に墨で書かれた文字。書いたのは神谷さんだ。森下さんは相変わらず一番乗りで出勤してくる。最近足が少し悪くなったが、それでも誰よりも早い。神谷さんは孫が生まれたと嬉しそうに写真を見せてくれた。凛は白衣の似合う医者になった。往診の運転も、雪道で滑らないようになった。患者に「お嫁さんかね」と聞かれて「はい」と答えるのにも、もう慣れた。
夕方、外来が終わった診療所には笑い声が響いている。森下さんと凛が何かの世間話で笑っている声だ。俺は診察室の窓から、夕日に染まる山を見ている。肩書きより目の前の命。そう決めてここに来た日のことを、時々思い出す。



